第1回6000字小説バトル Entry5
何も変わらない。そして漂えど沈みもしない僕が窓ガラスに映っている。その瞳は寂し気で虚ろで決してとらえられない。
こうして徹夜明けの街を、オフィスのブラインド越しに眺めるのは何年ぶりだろうか。
「夜明け前の夜の闇が一番暗くて切ない」といつか君が言ってたのを思いだしていた。
ずっと昔も去年も今年も、未だ森の迷路に佇んでいるような気がする。進むことも戻ることも止まることすらもできない僕は、独り川に立ちたい一心で喘ぎながら流浪の日々にこれまで甘んじてきた。
副都心に広がる街は、空気も冷えこむように澄みわたり、灯りが静かな靄に包まれていて、まるで銀河宇宙のスターダストのように煌めいている。バーボンのグラスを口に運びながら、ぼんやりと心地良くなり始めた頃には、日常の喧噪とは程遠い薄紫色の地平線が、薄いピンク色へと輝きを増し始め、新しい朝を予感させていた。
いつの間にかソファーで寝入っていたのだろう。電話のベルで起こされて時計に目をやると、午前11時を指していた。
「お待たせしました。アド丸プランニングです」眠い目を擦りながら電話に出てみた。
「社長、おはようございます。荒川です。今、村井と私は長野の伊那市庁舎で、森のアスレチックランドの打ち合せ中です」
「ああ、そうだったね」
「社長、これとれたら企画デザイン料だけでも、2千万はかたいですよ」
「ほんとに、いけそうなの?」
「ほぼ、特命ですわ。山梨も長野もこのところゲンがいい。ほな又、連絡いれますゥ」
「何だかうまく行きそうだな。がんばれよ!」
コーヒーメーカーのスイッチを入れ朝刊を開いた。暫くするとまた電話が鳴った。
「すんません何度も。荒川です。社長、この仕事ほぼ受注ですわ。さっき、助役が内緒で教えてくれました。やりましたねぇ。また、毎年恒例の釣り旅にでも出かけて下さい」
「大丈夫かい、仕事のほうは?」声が弾んでいるのが自分でも可笑しかった。
「社長がいたら、事務所は狭もなるし、第一仕事になりません。ほなら又。あ、そうそう毎日電話連絡は下さいよ。では失礼します」
ソファーに座り込むと、もう梅雨前の陽光がやけに眩しくて目を細めながら、自然にほくそ笑んでいた。
「あいつら、気を使いやがって」 ロッカー横に立て掛けてあったフライロッドを右手に持ち、左手でテーパーラインを引っぱりながら、浮かれぎみに素振りをしてみた。
三年前に女房と別れてから一度もあの川には足を運んでいない。結婚してからも、別れるまでに女房を釣りに同行させたことは、二度しかない。一度は大げんかの末に民宿から実家へ帰ってしまった彼女を、引き取りに行ったこともある。
玄関先で、義母はきまり悪そうな顔で伏目がちに言った。
「すいませんね。こんな処まで迎えに来てもらって」
「僕の方こそ、御無沙汰ばかりで申し訳ありません」とだけしか返答できなかった。
その時の彼女は、泣き顔のまま義母の背中越しに冷静に言った。
「釣りよりも何よりも大切なことがあるはずよ。ねえ、わかる?」
僕は咄嗟に苦渋の表情で「わかったよ。釣りは卒業して...」と言いかけて、すべてを飲み込んだ。そうだよな、やっぱり赤ん坊が欲しいんだよねと胸の裡で呟いた。
「あぁ、心の川か......」タバコの煙りの行方を追いながら目を閉じると、耳の奥でせせらぎと川風に揺れる新緑の葉音が聴こえ始めた。想い出の川面の風景が、網膜に鮮明に蘇ってくる。
よし、また近いうちにあの川へ出かけてみるか。何かを見つけることが出来るかもしれない。振り返ると、その日から川面に立つまでに二週間が過ぎていた。
*
夜明けの川だけが、密やかにして、しんみりと流れ続けていた。響き来る水音は、森の静寂に深く溶けこみ、陽光とシンクロする中で川面の精たちが輝きを増し始めている。
僕の頬をやわらかく霧雨がつつみ込む。そして川風に乗った水飛沫が、僕の6年物のウェイダーを霧状の光線で心地よく濡らした。
今年はまた、この川に僕は立っている。右足のつま先のフェルトが何かを喋りかける様に口を開けていても、僕には心強い味方なのだ。いつも、こいつとストリームをかき分けながら歩いてきたのだから。そして、フィッシングベストからは、C.C (カナディアンクラブ)のヒップフラスコが顔を出している。
”カーティス クリーク”( 秘密の川 )
そうだ、自分だけの秘密の場所、自分だけの心の川を求めて釣り師になった大学生の頃、早瀬の脇の草むらに寝転んで読書していた同級生の君が、素敵な響ねと呟いたその呼び名。
「ねぇ、そのカーティスクリークへ連れてってよ!」
「う〜ん、今はだめだね。一人でも他人に教えたらおしまいなんだ。
それに、魚が一匹残らず居なくなってしまうよ」
「へぇ〜他人なの、わたし...?」
「愛すべき同朋でもだめだよ」
「いじわるね!...とても」とび色の瞳がはじめて嫉妬に揺れた。
「釣り師はだれも皆、そんな素敵な川を隠しもっているんだ。内緒のね」
「ずいぶん長い間あなたを見つめ続けて、大抵のことは二人で共有してきた筈なのに。淋しい気分だけは嫌
よ......」
君は、僕の吸いかけのタバコをとりあげ一度だけ深く吸い込み、一度だけウィンクして僕の唇にすんなり戻した。照れぎみにワンレングスの髪を左手ですきながら、栞の四葉のクローバーを鼻に突っ込みおどけてみせた。その時に幽かだが、口紅のストロベリーの香りが漂った。
そんな事を回想しながら流れに身を任せていると、エメラルドグリーンの急流の渦と飛沫の光の乱反射の中で、軽い目眩をおぼえた。ラッキーストライクに手を伸ばし、深く吸い込み吐き出した煙りとの会話が、沈静へと誘ってくれる。
ベストの左胸には、毛バリのダニエルコーチマンと、昨夜遅くにタイングしたミッジフライたちが所狭しと顔を並べ、宝石箱の様相を呈している。
今でも、君がその場でクロッキーしたニジマスの想い出に対峙すると、二人の間に流れる川のことが浮かんでくる。
「卒業したら、やっぱりデザイン関係に進むつもりなの?」
「油絵でも描いて、晴耕雨読といきたいね」
「男の人はいいわね。素敵に老いていける」
「そんなもんか?」
「女性はそうはいかない。時間は残酷なものよ」
「これからもずっとこうして、二人で釣りに来れたらいいね...」
「あなたらしいわ。今でも子供みたいな事ばかり考えてるのね」
ため息まじりの諦め顔が、零れるような美しいシルエットでか細く笑った。
僕は、二本目のタバコをおもいっきり吸い込み無表情を装って吐き出した。煙りの輪が幾つも揺れては消えた。空を見上げると、透き通る眩しさに切なくなり、泪がひと雫頬を伝って、あまりにもあっさりとこぼれ落ちた。
君から貰ったクリールには、腸をとられた三匹のヤマメが艶やかに納まっていた。
「ねえ、オールディーズの曲で’恋の片道切符’というのがあったのを覚えてる?」
「ああ、ニールセダカだろ」
「最近思うようになったの。行く先の見えた列車に乗ってみるのもいいのかなって。同じ人生なんだもの」
「何だよ、その列車ってのは。人生には、終着駅はおろか始発も行き先も何も無いって。突然何言い出すんだよ」
「片道切符は一回切りよ。途中下車はできないの」
「――それで、何か言いたげだなぁ」
「あなたとは長い間、鈍行列車で素敵な旅をしてきたように今は感じてるの。それは、油絵の具の香りや、ロックバンドの練習や、海辺のキャンプ、そして川釣り同伴の読書や、図書館での会話、よく二人で出かけたコンサート、深夜のドライブやプラネタリュウムやテニス合宿など挙げたらきりがない程の想い出を乗せた列車なの」
「それで、なんだよ」
「その想い出が多すぎて、幸せすぎて、たった一年先のことを考えるだけでもとても不安で、淋しくて哀しくなる」
「......」
「うまくは言えないけど、もう列車から降りたらって言う男性が現れたらどうしようって......。何かちょっぴり安定してみたいなぁって」
「僕とじゃ安定しないのか...?」
「今度、父の勧めでどうしても8才年上の石油商社マンとお見合いすることになってて...」
「もしも結婚することになったら、地中海とエジプト周辺で転勤しながら暮らす事になるわ」
僕の曇り顔を下から覗き込む彼女の三白眼は、とても愛おし気だった。
「渋谷で買ったこのクリール、外国製でとても丈夫なの。ずっと使ってね、約束よ」
「結婚か......」その時、僕自身の延長線上にもその二文字が点滅し、ぼんやり見えなくなった。
「とにかく、お見合いの結果は手紙で知らせます。もう卒業したら遠い遠い実家に居ることになるわ。もう春ね!空がどこまでも高くて、こんなにも青くて、息がつまりそうになる」
僕はその晩、行きつけの居酒屋で独りしこたま飲んだ。その日を忘れようとして。いや、自分自身すら嫌になり始めていたのかもしれない。
閉店過ぎに店の主人に起こされた帰り際、忘れかけていたクリールには、パスポート用証明写真が一枚ひっそりと忍び込んだように入っていた。
それはよく見ると、翳りの表情のなかで静かに僕を叱っている目をしていた。
*
もうそろそろ、止めるとするか。 帰り支度を始めながらヒップフラスコに口をつけ、ぐびりと飲って湿った川風に吹かれながら目を閉じてみた。
君が僕の前から急に姿を消して、六度目の春がやって来た年に、七度目の春には赤ん坊の顔が見れるということになって、僕は新しい恋人と結婚を誓ったんだ。
髪型と香水の好みとえくぼ以外は君が重なるくらい良く似ていることにショックを受けた出会いだった。残念ながら赤ん坊の顔は見れなかったけれど、結婚生活はそれなりに充実していたかもしれない。八年間も二人で暮らしたのだから。
心のすれ違いに悩み続けた彼女が君からの突然の手紙を読んでしまったことが結果的には良かったと思っている。彼女自身も吹っ切れたわけだから。
君の手紙は、文面すらぼやけてしまって、記憶の底をあやふやに彷徨っているけれど、とても辛そうなお詫びの言葉で始まっていたように思う。
......覚えているでしょうか。本当にごめんなさい。この様な手紙を、今さらながら書き綴っている自分をとても恥知らずで悲しく思っています。大学卒業前にあなたに手紙を書くと約束したのに、14年もの歳月が経ってやっと書く気になったのですから。
こんなにも長い時間が経ってからしか言えないことがあるんですね。卒業の年のあの春は人生の中で、一番悩んだ季節だったように思えます。
晴々とした時間の中で、誰もが皆新しく何処かへ旅立っていく予感がした。私は独り取り残される。心の有り様は、空港ロビーの希望や晴れやかさではなく、全身全霊で燃え尽きた祭りの後の様な深い弧絶と失望が私を取り巻いていました。
とても大切なものを、これ以上失いたくない。それなら最初から望まなければいいと思ったのです。やはり、私は子供でした。
失うまで生きて失うまで愛すれば、こんなにも後悔せずに済んだのです。もし失っても、残り続けるものがあることに気付かなかった。永遠に巡るものがあるということに......。
(中略)
今でも『 We are all alone 』はよく聴いています。日本訳は『二人だけ』と言う曲。いや二人ぼっちというのが適切なのかな。
出会った頃から、私たちの曲だったような気がします。
長い人生の洞窟を抜けると、そこには何があるのかしら。それを二人で見つけられればどんなにか素晴らしいのに......。
あなたがこの世に生きているから、私も生きて、主人を愛することができると、今正直に言える気がします。
長い手紙になったこと、また私の非常識を本当に許して下さい。あなたの心の川は私の中に、永遠に流れ続けています。
煌めいている私のカーティスクリーク。
さようなら。
*
18年の歳月が過ぎても、川の流れは不変で僕は独りになっても自分だけの川を心の中で、まさぐり続けている。変わったことはといえば、ロングピースがラッキーストライクになり、君が隣に居ないことぐらいだ。
「セ・ラビィ!」
またヒップフラスコにキスをして、夕まずめの君のお気に入りだった深淵横のストリームに、僕はロングキャストを何度も試みた。
右斜の瀬の水面では、蜻蛉の大群の再生と歓喜が死への狂熱と化し、僕の心の深層においては、バロックのチェンバロのリフレーズが鳴り響いている。
時間は誰にも止められない。僕もいつの日かこの場所からいなくなるだろう。儚気な蜻蛉のように。そして土に還る......。
僕はやっと決心したよ。森の迷路が今、開ける予感がしたんだ。
君を墓場までいっしよに連れていく。それから先のことなどわかる筈もない。出来ることなら、この川に君と再び立つことになれば本当にうれしいのだけれど。
君の潤んだ瞳も、大人し気な仕種も、内気な微笑みも、風と戯れる栗色の髪も、そして一番好きな両方のえくぼも全て一瞬の魔法で永遠のものにかえて、きっと持っていける。今だから約束できる。
君が先に心の川を渡り、僕はその後ろの流れにずっと佇んできただけのことだ。
お守りのように身に付けていた君のパスポート写真と、北アフリカのリビア反政府ゲリラによる、路線バス襲撃事件の新聞の切り抜きを読み返しそっと握りしめた後に、静かに川面にほおってみた。それらは渦に巻かれ、溶け込むように水流になじんで見えなくなった。
「C.Cはバーボンの中でも、とりわけガムの味がするわ。雨上がりの湿った朝のロングピースはチョコレートの味がする。両方ともに、あなたと同じくらい大好きよ」
キラキラ笑う君の声が耳の底で響き続けていた。
僕は変わらないし、変われないと呟いた瞬間、銀白色に輝く女神がパーマークを翻し大きくジャンプした。
起こるべきことは、すべて最善の状況で起こるものだといつも言っていた君の顔と重なった気がした。
そうなんだ。片道切符の話を聞いた遠いあの日に、僕自身が最善こそを掴み取るべきだったのだ。黙って君をさらってしまえば良かったのだ。
川にそのままへたり込むと、深い嗚咽に絡まって心の川の流れる音が、蒼く響きながら僕自身を被っていた。
それから本当の川音に気が付くのは、夕立ちの飛沫が頬をしめやかに濡らしてからのことであった。
僕は、帰り道に独りで森を抜けることや、つづら折りになった山道のことや、その途中にある、昔君と過ごした民宿に辿り着くことだけを、祈るように考えていた。
ひとしきり降り続く小雨にけむる中、ただ虚ろな目をして。