第1回6000字小説バトル Entry6
「で、ご注文は」
蓮根は、地上げ屋にでも接するごとく、うっとうしげな態度を取る。
無理もない。
ただでさえ忙しいバイト先のバーに、和彦たち4人組は毎日のように訪ねてきて、酒の1杯で粘っては、カウンターまで冷やかしに来る。
和彦たちのやり口は地上げ屋と同じだ。狙いは、1皿のチリポテト、チキンコンボ、チーズの盛り合わせといったかわいいものだが、1人ずつ交代で来る処がかわいくない。
それも直接、蓮根に無心するのならいいが、店主の橋口さんの好意につけこむ処が許せない。
今日は那谷の番らしい。
「ピザが食いたいなら、出前取れ。電話貸してやるから」
蓮根は店の公衆電話の受話器を取って那谷に突きつけ、先手を打つ。
「何で、あれ、すっごい高いよ」
那谷はカウンターに片肘をついて交渉姿勢に入る。蓮根は思う。
こいつ、絶対、将来は取りたて屋になれる。
奥のテーブル席で、いっぱしの大人の顔はしていても食べたい盛りの和彦たちは、当然、チーズの1切れやチキンの1本ずつを分け合っただけでは空腹を埋めきれなくて、ピザとか焼きそばとか、とにかく腹に溜まるものをどうやって手に入れてやろうか考えているだけなのだ。
しかし、和彦たちの本当の目的は、本日お勧めのスパゲッティ・娼婦風でも、シメジのたっぷり入ったキノコのチーズオムレットでもない。
あの女だ。
あの女は―名前がわからないからあの女と呼ぶほかはないけれど―1ヶ月も前に1度来店しただけなのに、いまだに和彦たちを張り込ませるだけのピリッとした魅力を備えていた。普段は、1年の森下の胸がでかい、顔も合わせれば3組の愛子の方がいい、俺は真紀一筋だ、などとペチャペチャやっている和彦たちのいやらしい妄想を超えた、畏怖のような感情を呼び起こす女性だった。
蓮根も例外ではない。時給こそいいものの夜の遅いこのバイト、高3の春までという親との約束だから、そろそろ辞めなければならないのだが。
蓮根があの女のことを思い出そうとしても、うっすらとした微笑の印象しか思い浮かべることはできない。
もうひとつ進んで言えば、笑顔の残像のようなものが、意識の表にある産毛状のものを、ピリッと逆撫でしてかすめるだけだ。
エレベーターが降り始めたときの足元をすくわれるような感じ、鳥肌が立つ瞬間のような感じ、渡り鳥がいっせいに飛び立つときの感じにも似ている。
28か9にも見える彼女を、無謀にもナンパしようとした和彦は、彼女をカウンターの隅に残し、ひとりで去っていった年下男と彼女は、絶対に別れ話をしていた筈だ、と言い張った。
「もうちょっとだけ待て、そしたらチャンスが向こうから来る」
「あいつら、カブトムシでも取りにきたガキみたいだな」
そのときテーブル席で頭を寄せ合う和彦たちを見て、橋口さんは笑って言った。
「こういうのには、コツがある。獲物に気づかれないように、下からそっと手を伸ばしても、たいてい向こうの方が一枚上手で、去り際におしっこひっかけられた上にエサだけ食われて逃げられる。な、焦ると悲惨だろ。女を引っかけようと思ったらな、旨くて離れられないぐらいのエサの調合、覚えないと。向こうからかぶりつかせる。かぷっと。な。なあ、信司。お前だけには教えてやろうか。秘伝のエサの調合。いい場所、知ってるけどなあ」
「え、いいっすよ、遠慮しておきます」
「お前、何を照れてる。カブトムシ、カブトムシ。俺がそんないやらしい男に見えるか」
歳は40代も後半、少し白髪の混じり始めた長髪を後ろで束ねた遊び人風の橋口さんがそう言うと、まだ自分のこともガキだと思っている蓮根には、少なからず真実に聞こえた。
蓮根の年がもう10年、上だったなら、橋口さんの台詞はただの座興だと分かるだろう。
時々、上からジョウロで水を蒔いてみたくもなる。
女を引っかけるのも、大学に入るのも、商売をやるのも、相応に歳を取るのも、みな才能のなせる技なのだ。その上に、ほんの少しの縁に助けられれば望みはかなう。
人それぞれにどんな才能を与えるかは神が決める。神に選ばれた人だけが、足下から枯れたような黄金の色に染まっていく。
「まあ、せいぜい成長しろや。間引かれない程度に。え、青草君」
蓮根の頭の中では、2つの声が重なって聞こえた。前面に出て聞こえるのは橋口さんが今言った台詞、後ろからかぶさるように聞こえるのは少し前に和彦が吐いた台詞。
「もうちょっと、待ってたらチャンスが」
蓮根は考える。1ヵ月経った今でも、和彦の台詞にしがみついているのは、自分がまだ子どもの領分から抜け切れていないからかも知れない。1人で生きていく力がある、とか。それは独善的なとんでもない思い上がりだ。
蓮根は頭の半分を濃密な考えごとの液体で満たして、ピザを盛る白い大皿をキュルキュルと時計回しながら、くたびれた布巾で水滴を拭き取っていく。時々、器用に銜えタバコの灰を床へ落としながら。
少し色素の薄い蓮根の髪が、天井のライトに透かされて明るい色に見える。中学のときは染めていると疑われて、よく教師に引っ張られたものだ。
「…いただけるかしら」
蓮根の思考にいきなり女性の声が割り込んできた。
「は」
灰だけではなくタバコも落とした。皿は落とさなかった。ぼんやりしていて注文を聞き逃していたのだ。あせった蓮根は、拭きかけの皿を流しへ戻すべきか一瞬迷い、指先をさまよわせる。
「ギ・ム・レット、いただけるかしら」
客の女性は、声が聞こえにくかったのかと好意的に受け取って、今度は、1音ごと、区切るように発音してくれる。
「ああ、はい、ギムレット、ですね。ひとつ?」
少しどぎまぎしてしまう。女と初めてしゃべる純情なガキの声のように聞こえないかと蓮根は心配し、自分の頬が赤くなっていないことを願う。男にしては色白で肌の弱い蓮根は、ちょっとした刺激ですぐ肌が赤くなるのだ。
例えば、天井に釣り下がっているライトの、熱を含んだ光にも。
「はい。でも、マルガリータの方が、おいしいのかしら」
まだ考え事の余韻を残して宙をさまよう蓮根の視線を固定するかのように、彼女は蓮根の目を覗き込んで言う。
「え」
なぜこの人はそんなこと言い出すのだろう。蓮根は、余程ぽかんとした顔を見せていたらしく、その人は笑いながらあとを続けた。
「このお店、マルガリータっていうんでしょ。だから、マルガリータがおいしいのかな、って思っただけなの。ぜんぜん違った、かな」
「ここの名前、ね。いい加減なもんですよ。店長とバイトとでメニュー開いてどれにしようかな、ってやって決めた奴ですから」
「ねえ、それ、本当?」
本当ではないと蓮根は思う。しかし、それぐらいにいい加減な理由で決められたことは確かだ。
この店には看板がない。橋口さんはただ、若者が何をするでもなく集まれる場があって、彼らと適当に話ができて、経営もある程度やっていけて、夏には信用できるバイトに店を任せて1ヶ月くらい沖縄の海に潜りに行ければそれでいいのだ。
名前なんてあってもなくても全然困らない。それでも、カウンターで皿を拭いていると、暇な客に、店の名を1日に1度は訊かれる。
暇なのだろうか、この人も。蓮根はそう思い、照れくささもあって、彼女に早く席へ戻って欲しいと思う。彼女の肩越しに、和彦たちがニヤついた視線でこちらを覗っているのが見える。
こういう処で働いていると、少々は悪そうに見えるみたいで、女の客からナンパ染みた声をかけられることが多いのだ。
彼女はなりたての女子大生風で、細い金のネックレスをつけた胸は…まあまあ、ある。開襟風に折られたパリッとしたポロシャツの襟と紺のタイトスカートが主の清潔感をひそひそ声で主張し、脇の辺りまでまっすぐ伸びた髪はポニーテールにまとめられている。
少しあごを上げ気味にして話す彼女の大きな瞳を見つめ返していると、蓮根には、彼女をこのまま帰らせてしまうのは非常に勿体ないと思う。かといって、橋口さんや和彦たちの目の前で口説くのは無謀というものだ。
タイミングが悪いのは縁のない証拠だ。蓮根は自分のあきらめの悪さと、密かに闘う。
視線を下にそらした蓮根の真意を取り違えたのか、彼女は少し焦ったように言葉を足す。
「忙しいのに、ごめんなさい。あの、さっきね、お皿を拭いていた様子がすごく面白かったものだから、声をかけたくなっちゃっただけなの」
「はあ」
蓮根は何と答えてよいものか分からず、仮に相槌を打つ。
「だって、すごく忙しそうだもの」
要領不会得な蓮根の顔を、彼女は笑い出しそうな目で見ている。何で忙しそうだからといって、一方的に詫びられたり笑われたりしなければならなのか。
蓮根は頭の中で彼女の好印象を撤回した。
「手の動きがね、早いの。本当にもう、シャカシャカシャカっていう感じなの。水揚げされた甘エビが空中を掻くみたいに」
彼女の声は、意地悪な笑いをかみ殺しているように聞こえる。
「…」
どうせ俺は猫背だよ、と思って蓮根は相槌を割愛する。
「エビでも鯵でも何でもいいんだけれど、水揚げされた魚って、ピチピチ上に向かって跳ねるでしょう」
彼女の台詞のあとに、何か答えて欲しそうな間があく。
「あわよくば、網の横から飛び出そうとか、思ってるんじゃあないっすか」
ふてくされた声で蓮根は答える。
「違うの」
彼女は、間違った答えを言って欲しかったようで、蓮根の的外れな解答を聞くとぱっと目を輝かせた。何か言いたいことがあるようだ。
「水族館には行ったことある?魚ってね、水の中ではシュッって真上にも逃げられるのよ」
彼女は、謎かけのような会話が好みのようだ。
「水族館に連れて行って欲しい、ってこと」
すくめた肩と嬉しげにできたえくぼが、彼女なりの肯定だと蓮根は受け取る。
蓮根は、左からチクチク頬に刺さる視線を感じた。テーブル席にテニスラケット2本を置いて男がひとりで飲んでいる、訳がないから、やっぱり彼女の連れなのだろう。
先ほどから、蓮根たちの会話の邪魔をするでもなく黙ってじっと見ている。彼女のことを独占したいなら、せめて蓮根に対して睨みを効かすか、彼女のことを席まで引っ張るぐらいのことをすればいいのに、と蓮根は思う。
「彼氏が待っているみたいだけど。いいの」
「んんん、まだ彼氏じゃあないのよね。送ってもらっている途中だけど」
再び彼女の台詞のあとに、間があく。
「それで。ついでにこの場で、俺にどうこうしろと言って欲しいと。」
蓮根は呆れたような口調を目指したが、果たして彼女にそう聞こえたかどうか。
彼女は返事の代わりに、横目であいまいな微笑を洩らす。清楚な女の正体がこれだ。
「迷ってるんだったら止めれば」
蓮根の言葉は、全くきつい言い方にならなかった。
「ありがとう。わたし、水嶋萌黄。お名前は」
「蓮根」
「あら、それだけなの」
彼女は物足りなそうに言った。
「よく知らない人に、名前教えちゃあいけないの。また今度ね」
蓮根は今度こそ、そっけない口調で言い返した。
ゲームの駒のように彼女の思惑通りに動かされてたまるかと、蓮根は返り討ちを試みた。
それでも敵は余裕の笑顔を見せていた。蓮根の魂胆は全部見透かされている。
放っておけないのは、好きの始まり。
車がないから、水族館には行けなかったけれど、海を思わせるブルー尽くしの部屋で、蓮根は腰を動かしながら、薄らかに思う。甘エビも海の中では、こうしてシャカシャカ忙しいセックスをするのだろうか。
甘エビに、合掌。
思えば最初から、蓮根の取るべき行動には全部、ラインマーカーが引かれていたのだ。
「あれ、今日は、髪、下ろして来たんだ」
「どこに行こう」
「昼飯、どこで食おうか」
(ええい、いちいち世話がやける)
(ふうん、結構、気の利くとこもあるね)
「晩飯は」
「あたし行きたい処、あるの」
「じゃあ、そこにしよう」
1回目のデートなんて、全く様子見のつもりで来たから、食事のときから何気なく身体を寄せてくる萌黄をどう扱っていいか、正直、蓮根は戸惑っていた。
寝るのは初めてではないから、蓮根は自分の身体がちょっとしたことで緊張する様を、萌黄に悟られるのは悔しいと思う。だからといって、あまり露骨に身体を避けるのもどうか。来るものを拒んだら、2度と勝負はできないと蓮根は不安になる。
萌黄は男の守りの薄い部分を知っていて、蓮根から誘いをかけるよう仕向けて来ている。プライドを失いたくないために、チャンスを捨てられるか。普通は捨てられない。
店の外の暗がりで蓮根の手を握ってきた萌黄の手のひらも、べっとり濡れているのに気づくと、蓮根は素直に肩を包んでやることができた。
怯えで硬くなっていない女の身体が、こんなにも、とろりとしたやわらかさのあるものだとは知らなかった。
蓮根が初めて寝た相手は15歳の女の子だった。蓮根も16歳だったから、痛いと言っては泣かれ、終わってからまたひとしきり涙を流されたのには参った。
何だか、自分が押さえつけて犯したみたいな気分になって、ひどくあと味が悪かった。
それから1ヶ月の間に3回、彼女を抱く機会はあった。だんだんと口数が減り、あとの会話は重たくなっていった。
別れたあと、彼女はまだ、蓮根に口を訊いてくれない。
寝息、温まった頬、中で動かした指、衣服のたわみ。もう少し長く、そんな彼女のイメージだけで我慢できていたら、彼女はまだ蓮根の方を向いて笑ってくれていただろうか。
イメージだけでは、賄いきれないものがある。
それは、蓮根の手に握れる確かな物事のひとつだ。
萌黄のやわらかな下腹を後ろから抱きこむと、だらだらとした感傷のフイルムが、一旦ガチンと巻き戻りをして高速で回転し始める。
こうして萌黄と指を絡み合わせていると、蓮根は、初めて自分の性別を感じることができた気がする。
萌黄の、ホワイトチョコレートみたいな、小指。アイボリー・ホワイト。蓮根の人差し指。ちょっと白めだけれど、萌黄よりはずっと褐色をした、アーモンド色の肌。
アイボリーとアーモンドの淡いグラデーションが、上下にガッチリと合わさったまま、合わせ鏡の中でまた延々と続いている。
萌黄の手のひらが、蓮根の手のひらを引き連れて鏡に触れる。
「この中に映っているあなたとわたし、1番手前のが3ヶ月後。その次のが1年ぐらいあとで、そのもっと先は、3年後ぐらいかな」
萌黄は、人にしつこく読解を求めるわりに説明が下手。でも萌黄の言いたいことは蓮根には分かる。
俺なら同じことをひとことで表現できる、蓮根はそう思いながら『君の願うようになればいい』とは答えられずに、身体を外して、分け目の辺りから毛先まで、萌黄の髪をすっと撫でてみる。肩の曲線を唇でなぞる。
まだ、現実の手触りを確かめながら進むことしかできない。蓮根は、特にそれを残念だとは思わない。
ただ、まだ盛りの温かい匂いに、顔を埋めてさえいられれば。