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第1回6000字小説バトル Entry8

家族の朝

 弟はある夜、私のベットの側に立って今にも泣き崩れそうな声でこう呟いた。
「お姉ちゃん、ママが泣いてる…」
 私は目をそっと隣の部屋に移すと、明りのついた隣の部屋でお母さんは苦しそうに蹲っている。
「…そっか、うん。でももう遅いから、寝よ?」
「でも、怖いよ。パパがママを殴る音がするから」
「…手を繋ごう。沙希が眠れるまでずっとそばにいるからさ」
 弟の沙希は小学三年生。私は、中学二年生。私の願いとしては、昔のようにお父さんとお母さんが仲良くなって欲しい。それは、毎日お母さんがお父さんに殴られている姿を沙希には見せたくないし、お母さんにもこれ以上傷ついて欲しくないから。
 …最初はあの優しかったお父さんがお母さんを殴っているなんて信じられなかったけど。

「おはよう。ママ」
 沙希が目覚めるのは私より早い。その為、いつも私は沙希に起こされる。
「おはよう、沙希。今日はお弁当が必要?」
「うん」
 沙希は、大きく首を縦に振るとまず顔を洗って歯磨きをしてそれから服に着替えて。私よりもずっと大人。でもね沙希はお母さんっ子で甘えん坊なんだ。
「沙希、お願いだけど優希を起こしてくれないかな?」
「うん、いいよ。ママ」
 私は、沙希に起こしてもらうまではまったく起きられない。まったく我ながら恥ずかしい。
「お姉ちゃん、もう朝だよ!」
 と沙希が言うと私は目を擦りながら沙希を見た。
「おはよう、相変わらずはやいよね。沙希はえらいね」
「もう、お姉ちゃん早く行かないと遅刻しちゃうよ」
「はいはい」
 私は、ベットから下りて制服に着替えた。その後洗顔して、お母さんのいる台所に入った。お母さんの腕には痣が少し痛々しかった。
「お母さん、おはよう…」
「優希、おはよう。紅茶が良い?それとも珈琲が良い?」
 お母さんがいれる、紅茶も珈琲も私は好きだ。けれど、今は紅茶を飲む気になれなかったので珈琲をいれてもらう事にした。
 トーストを口に含み、温かい珈琲。あっそうだ、お母さんに頼んで牛乳を足してもらってカフェオレにしてもらったんだった。美味しいんだこれが珈琲と牛乳のベストマッチと+α少しの蜂蜜。お母さんはお父さんと結婚する前は、喫茶店していたと言う事で美味し過ぎるこの味に納得している。
 これが、我が家で一番幸せな朝の風景。
「…ママ、いっいってきます」
 沙希は逃げるように、玄関で靴を履こうとしている。そこへ今、起きてきたばかりのお父さんが沙希に話しかけた。
「沙希、お父さんには挨拶してくれないのかい?」
 お父さんは、微笑した。沙希は、今のお父さんが余り好きではない。答えは簡単…今日もあったお母さんの腕の痣。あれはそう、昨日お父さんが蹴ったり物を投げつけた結果のものだ。
「パパ…、行ってきます」
 沙希の声は、少し声が低くなっていた。沙希は、お父さんがお母さんを殴る姿が一番嫌いだから、お父さんがギリギリに起きる時間になると丁度決まって学校に行くようにしている。それはお父さんに挨拶すると同時に、お父さんにお願いしているのだ。
「パパ、ママを殴らないで…」
 悲痛のお願いは毎日お父さんの手によって破られる。
 私も、ずっと良い子にしてた。パパとママにずっと仲良くしてもらいたかったの。そう、みんな嘘でいて欲しかったんだ。
「お父さん、行ってきます」
 にっこり笑って、靴を履いて玄関から駆け出した。そして次の瞬間お父さんはお母さんの顔をぶったり折角作ったお母さんの料理をゴミ箱に捨てたりするんだろうと思うと私は耳を塞がずにはいられなかった。
「沙希!」
「…お姉ちゃん」
「ほら!泣かないの。ママがもっと悲しんじゃうから。ほら!笑って男の子でしょ?」
 沙希は私がそう言うと毎日笑って学校に行くのだ。
『ママがもっと悲しんじゃうから』
 これが、私達のおまじない。どうかどうか神様。
 強く握り締めた手を曲がり角で、未練がましくゆっくり離した。

 ――初めてお母さんがお父さんに殴られている姿を目にした時、お父さんが怖くて仕方がなかった。そんな事よりもずっと何にも知らなくってごめんね。ずっとつらかったんでしょう?ずっと私達の前では笑っていたかったんでしょう?でも、泣いても良いんだよ。だって私達はお母さんの子供だよ?
 私は毎日、神様に願うの。
 ――お父さんがお母さんを、お母さんがお父さんを許して上げられますように。

「ただいま」
 午前中に学校が終わった私は残暑の日差しを浴びてから沙希より先に家に帰っていた。
 私は、玄関に靴をきちんと揃えて、リビングの扉をゆっくり開けた。そこには普通夜に帰るお父さんがいてお母さんと真剣な話をしていた。
「優希?」
 お母さんは私を見た。くたびれた私の目には母の涙が見えた。
「お母さん?」
 私は、少し戸惑うようにお母さん達が座るここしばらく家族全員が揃って座ってない椅子にゆっくり腰掛けた。
 頃を見計らって、お母さんは重い口を開く。
「今ね、お父さんと離婚の話をしていたの…」
 お母さんに似合わない、涙を飲んだ震えた声で。私は震える手をそっと隠した。
「よさないか、子供の前で…」
 お父さんはいつもそうだった。そうやっていつも責任ばっかりお母さんに押し付けて重要な事は絶対自分から話さない。そしてお母さんが話したとしても、お母さんをまるで常識が無い様に扱う。ホントはね、最初からそんな風じゃなかったんだ。もちろん大好きだったよ、お父さんも。
 お父さんは、毎日沙希がお願いしているもう一つの言葉に気づいてなかったの。もちろん大好きなお母さんさえも。
「ただいま、ママ!今日ね、テストが帰ってきたんだ!」
 沙希の声が玄関の方で聞こえる。私は急いで玄関の方に走った。
「優希!まだ、話が終わってないじゃないか!」
 と父は、大きな声で怒鳴った。私は、もはやそんな事聞く気にはなれなかった。
「リコンの話なんか聞きたくない!」
 私は、そう言い捨てた。玄関にいた、沙希の手を強く握って走り去った。
 …沙希がいつもお願いしいること。
『――パパ、ママをずっと守ってあげてね』
 それを踏みちぎった、お父さんが憎い…お母さんが憎い…?…分からないんだ本当は。嫌いなんかじゃないし、憎いなんてとんでもない。
 好きだよ、ほら昔のように四人で海に行きたいんだ。
 ささやかな私と沙希の夢。考え直してくれると言う事を信じて私は沙希を連れ去ったのだ。
 沙希は訳も分からなかっただろう。けれど私の強い思いが通じてか、駅に着く頃にはしっかり私の手を握っていた。
 捕まるのを恐れて、私は沙希を連れていま到着したばかりの電車に乗った。どこへ行くかも決めないで。持ち金は、財布を持っていたのが幸いだった。
 ちょっとした家出のつもりだったのだ。
 二人に考え直して欲しかったのだ一番傷つくのは結局お父さんとお母さんと言う事を。――ただ私達はバラバラになりたくなかった。
 終点の駅に着くと、そこは見なれた風景だった。家とはかなり離れている場所で、ああそうだ分かった、ここは最初に家族四人で来た思い出の場所だった。
 お母さんはここで、お父さんと出会い、恋をしたという。もうすぐ秋だ。
 いやしかし少し涼しくなったと言えどまだ少し暑い夏の終わり。海にいるのは家族連れが見える。
 電車賃で、財布のほとんどのお金を使ってしまった私は、まだ昼ご飯を食べていない事に気づく。残高は、六二〇円ぐらい。ラーメンが一杯食べられるぐらいか。
 私は、沙希と一緒にラーメン屋さんに入った。
「醤油ラーメンを一つ」
 私の声は、いつになく震えていた、けれどもし一人だったなら、すでに泣き崩れてどうする事も出来なかっただろう。いま私がここで立っていられるのは沙希がいるからなのだ。
 ラーメンが来て、それを沙希に渡す。沙希は、心配そうな顔をして私を見上げた。
「お姉ちゃんの分は?」
 と、沙希は尋ねた。私は、確かにお腹がすいていて、そっとお腹をさすったのだが沙希に心配をかけたくなかったし沙希にはお腹一杯食べてもらう為に、――誘拐犯は嘘をついた。
「お姉ちゃん、お腹一杯だから。沙希が食べなよ。美味しそうなラーメンが冷めちゃうから、早く食べな」
「でも・・、お姉ちゃん」
 と沙希が聞き返してくる。それでも、私は『一緒に食べよう』という沙希のお願いには乗らなかった。
「ほら、食べなよ。お姉ちゃん、醤油味嫌いだから・・」
 沙希は、じっと私のほうを見てからやっと納得したのか深々と手を合わしてからラーメンを食べ始めた。スープも、全て残さずにきれいさっぱり。これが、沙希に出来る私へのありがとうという気持ちなんだろう。
 ほら、沙希が笑うとね家族がバラバラになって欲しくないと感じるんだ。沙希は、本当はずっと昔からお父さんっ子だったから、週末のキャッチボールがとても楽しみでいつもグローブを抱いて寝ていた。まるで、昔私が大事にしていたぬいぐるみを抱くかのように。
 ほら、沙希が泣くとね家族がバラバラになって欲しくないってより一層思うんだ。
 私はまだ、子供だからお父さんがどうしてお母さんを殴るようになったのかは分からない。
 だけど、お父さんがお母さんを傷つけたとしても私のお父さんであるには変わりないし、大好きだったお父さんには変わりない。でも、バラバラになるのだけは嫌だった。でも、お母さんが傷つけられるのは嫌だった。
 お父さんとお母さんは今何の話しをしているのかな?
 私はそんな事を考えずにはいられなかった。

 沙希がご飯を食べ終わってから私達は浜辺まで歩いて帰った。さっきまで、海にいた家族連れの観光客はいなかった。浜辺には、地元の人か観光客かがちらりと見えるだけだった。
 夏の終わりの風が沙希の頬を吹き抜けると、沙希は堪らなくなって裸足になって浜辺を走った。そういえば、夏休みどこにも行かなかったっけ。
 なんて思いながら私も裸足になって沙希を追いかけた。
本当はあの浜辺にお父さんとお母さんが座っていて笑ってるはずだったのに、今は二人っきりなんだよね。迎えに来てくれるはずだよね?そんな事を心の中でそっと考えながら、沙希に思いっきり夏にしては冷たい海の水をかけた。
 それから沙希から仕返しを受けて私がやり返して、そのあとどっと笑いが溢れた。私達は最後の夏休みを存分に楽しんだ。
 ねえ…帰ったら本当にバラバラになっちゃうのかな?

 海から上がって、冷たい肌を暑い太陽で焦がす。その間ずっと手を繋いで、遊び疲れたのか沙希は眠ってしまった。
 そういえば、まったく待った無しで駆けずりまわしたから、疲れて寝てしまうのは当然か。他に用事もないんだ本当は、…沙希、ごめんね。疲れちゃったでしょう?何にも話してなかった。聞かれたくなかったんだ、でもね沙希は聞く権利あるんだよね。
 ――家族なんだから。
「沙希…、眠ってるならそのままでいいよ」
 夕方の冷たい風が、私の頬を刺すように通り過ぎた。強く握った右手は絶対はなそうとはしない。私は、ゆっくりと深呼吸をした。
 ぼんやりと目の前に通り過ぎる漁船を見て、頬に冷たいものが流れるのが分かった。
「パパとママね、離婚しちゃうんだ。リコンっていうのはねバラバラになるって事なんだよ。お姉ちゃんはねそれが嫌だったの。だからね、沙希をこんな所まで連れまわしたりしたの。…ごめんね。ごめんね、沙希」
 夕陽が私達を照らそうとしている、真っ赤な太陽が地球がまわる度に空に引っ付いてる。
 大好きだよ、お母さん…お父さん。
 もちろん、沙希もだよ。だから四人でもう一度やり直そうよ。

 夕陽が沈んで、辺りが真っ暗になって私は沙希をおんぶして公衆電話の前に立った。こんな捕まり方は嫌だったけど。電車で帰れるほどのお金もない。それに夜になれば冷えてくる。沙希には風邪をひいて欲しくないから。
 これ以上、私の我侭に付き合う必要なんてないんだから。
 私は、財布から十円玉を取り出して未練がましくゆっくりといれようとする。
「優希!」
 遠くから、声が聞こえた。その声は紛れもないお母さんの声だった。
 ――気づいてくれたの?
 と私は驚きを隠せなくて、十円玉をチャリンっと落としてしまう。嬉しくて私は、涙を現してしまう。
「お母さん・・?」
 薄暗い電灯一つの海の道で。
「優希、よかった。」
「お母さん!!」
 私は、張り詰めていた緊張が一気に解けてお母さんの胸の中で泣き出してしまった。沙希もずっと前から起きていたのか、私の泣き声に気づいて一緒に泣き出してしまう。
『ママがもっと悲しんじゃうから』
 私達のおまじない。ずっと守ってきたつもりだった。泣かないよ、お母さんが困っちゃうから。でもね、ほらやっぱり私は、沙希よりも子供なんだって思ってしまう。
 帰り、私はお母さんと久しぶりに手を繋ぐ。電車の中でもずっと沙希は疲れてぐっすり眠っていた。
「――そういえば、お父さんは?」
 と、私がお母さんに聞くとお母さんはうつむいた。まるで聞かないでくれと言わんばかりに。それでも、私はお母さんの瞳から目を離さなかった。
「お父さんは、家を出て行ったわ」
 とお母さんは静かに呟いた。
 大好きだったお父さん。まさか私達を置いて出て行くなんて。でも心のどこかで少し予想してた私がいる。
 それよりも、お父さんが大好きな沙希にとっては酷くつらいものだと思う。
「本当に?」
 私は未練がましく何度も聞きかえしてみたが答えは同じだった。
 最初、お父さんがお母さんを殴っている様子を見た時私は、お父さんがこの家をいずれ出て行きそうだったので怖かったのだ。
 半日ぶりに帰った、テーブルの上には離婚届が置いてあって一瞬破り捨てたい衝動に刈られた。
 けれど、結局相手の気持ちを自分で操作する事は出来なくて次の日、私と沙希の苗字は父の苗字から母の苗字に変わった。沙希には、話すのがつらかった…、それでも沙希は涙を流さずに最後まで聞いてくれた。
 お母さんの話しを最後までずっと聞いているとき、私達は絶対に手を離したりしなかった。 
 固く結んだ手は、また曲がり角で未練がましくゆっくり離す。
 
 冷たい秋の最初の朝が来た。
「お姉ちゃん、おはよう」
 沙希は、いつもの通りに笑って起こしに来てくれる。
「優希、今日は珈琲が良い?それとも・・紅茶が良い?」
 お母さんは、普段通り笑いながら注文を聞いてくる。私は、にっこり笑って。
「じゃあ、紅茶をもらおうかな」
 お母さんの紅茶の入れ方は繊細でいつも私の好きなレモンティーにしてくれる。ほろ苦い紅茶に甘い蜂蜜が溶けるとき、お父さんがいつでも帰ってこられますようにと私は祈った。
 沙希の紅茶にミルクが溶けるとき、我が家で一番幸せな朝の風景が寂しさに彩られた。でも、寂しさもいつかはこの秋の風と共に風化していく。私は夏の終わりを感じそして秋の始まりを心の中でそっと感じた。

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