Entry1
ばあちゃんのゆいごん
きしむらしほ
明神様の坂を駆け上がった。
信号機が変わるのを足踏みして待った。
ばあちゃんは、道路と縁石の段差を埋めるように寝ていた。
ばあちゃんは嵩がいつもの半分くらいになって、ひしゃげていた。
[嘘だろ、ばあちゃん。みんな見てるよ、みっともないな、バカやってないで帰ろうよ。」
って、ばあちゃんを連れて帰りたかった。
でも僕は、突っ立っていた。
揺り動かしたいが、僕は突っ立っていた。
救急隊は、ばあちゃんにブルーのシートを掛けて、帰っていった。
警察が、ばあちゃんの身体の回りを、チョークでなぞった。
せめてばあちゃんを何かに寝かせてやりたいと言った。
警官は、お気持ちは分かりますが、もう少しご辛抱くださいと、言った。
ああマニアルあるんだな。
あんたらには、日常なんだな。
それで僕は、少し離れたところにへたり込んだ。
じきに母や妹が来るだろう。
入り婿の父は競馬好きがたたって,五年前に母に離婚されていた。
裏の竹林で手を切った時のことを思い出した。
僕は手が妙になま暖かく、べとついているのに気づいた。
手が,まっかだった。
もう僕は死ぬんだ。
赤い血は見る見る手を染め、腕を伝わりしたたり落ちた。
その時、おばあちゃんが僕をめがけてまっしぐらに駆けてきた。
行く手を阻む籔笹をものともせずに「修一」と叫びながら、僕を目指して駆けてきた。
まっすぐに僕を目指して、駆けてきた。
僕はそれで始めて泣き声をあげた。
「ばあちゃん」
ばあちゃんは、僕が叫ぶより早く、僕に気がついて走ってきた。
もしかすると、僕より早く手の傷に気づいていたかも。
ばあちゃんは,もうそれはすごい奇跡だった。
そのことを以前つきあっていた彼女に告白したことがある。
まさかって、鼻で笑ったので、その日のうちに別れた。
そうゆう事、私、しんじるわって、言った女の子は、ゼミの助教授と失踪した。
今つきあっているユリに、いつ言い出そうかと思っている。
その返事次第で、僕らはもっとうまくいくだろう。
ああ、この非常時に、僕はいったいなにを考えているんだ。
ばあちゃん、本当にあんた死んだのかい。
本当に、本当に死んだのかい。
参ったな。
ばあちゃんに一番可愛がられて、ひいきの引き倒しをされ、妹のひがみを一心に受けたこの僕が。
なにかんがえてんだ。
ばあちゃんが、ビニールのシートの下で、刻々と冷たくなりつつあると言うのに、ユリとの身体のまさぐりあいを思い出している、僕はなんてヤツだ。
道路脇の生け垣に半分埋もれながら、僕は頭を抱え込んでいる。
野次馬は、僕とばあちゃんを遠巻きにしてみている。
ああ、これが嘘か冗談か、夢であったら。
ああ、参ったな。
竹林の話は続きがあって、
ばあちゃんは、細ひもで僕の腕を縛って止血をした。
ばあちゃんは、背中に僕をおぶうと、着物の裾思い切りまくって僕を包んだ。
着物の裾を縛って、結び目をおでこに当てた。
それはカナブンの交尾みたいに奇妙な形だったみたい。
なぜ詳しいかと言うと,念仏講で酒が入ったばあちゃんは、居並ぶ近所のばあさまに、必ずこの話をするからだ。
座布団を僕に見立てて実演するのだ。
中学の時、ふすまの隙間からそれを見たとき、次やったらババア殺すぞと思った。
ばあちゃんは、ネルの腰巻丸出しで、青梅街道沿いを西に走ったのだ。
軍医あがりの藪医者ですら、土足のまま診察室に直行したばあちゃんの形相にあっけにとられた。
傷口を麻酔して、縫う間中、ばあちゃんは、「なむあむだぁ、なむあむだぁ」と僕の傷を見ないように目を固く閉じて、唱えながら、はえのようにせわしなく手をこすりあわせていた。
とうとう藪医者が、「ばあさんよ、このくらいの傷で、しにゃしないぞ。医者とこで念仏唱えるなよ。縁起でもない。」と言って、黙らした。
僕の指が中指だけ動かなくなったのを、ばあちゃんは、「俺がお題目を唱えたから、後の4本が動いたんだ」と言う。
長生きするわけよ。
ばあちゃんの葬式は、どんちゃん騒ぎで三日三晩続いた。
友引って葬式屋の定休日が、あったからだ。
「ばあちゃんはさ、嫁に行ったんだよ。神様のところへな。しゅうぼう悲しむなよ。九十二だもん、大往生でしょ。ま、車とごっつんこしたのは、ちとご愛敬だね」
酒癖の悪いおじさんが言う。
この糞じじい、ただ酒たらふく飲んでる。
四十年前に肥だめに落ちた話をしている一団が、一斉に笑った。
「あの肥だめの真ん前に、タクシーが止まって、結婚式帰りの一張羅着てたのに、ずっぽりはまって、タクシーは気がつかないふりして発車して、だあれもいなくなって、一人で肥だめからはい出たんだ。あんときゃ参った。」
あのな、人の葬式に来てなんの話してるんだ、お前ら。
少しは気を利かせて故人を偲ぶような話出来ないのか。
五十代の女達が煮物のなべをかき回しながら喋っている。
「ここのおばあちゃんなんか、良い方よ。うちなんか徘徊するは、追いかければ、おむつ外してうんこ漏らしながら逃げるは、たいへん」
「うちなんかは、すっぽんぽんで往来飛び出しちゃうんで、二階に閉じこめたら、ベランダで大股開きしているんだから」
てめらも、じきそうなるんだぞ、覚えとけ。
近所のおばさん相手に、ばあちゃんの妹が講義している。
「臨終の時立つんだよ。ここのじいさんも、うちのじいさんも、ヨネとこのじいさんも立ってた。医者は脈診てるけど、あっち見てた方が、当たるさ。」
「ねぇねぇ、うちの亭主、今日の朝、立ってたけど、もう長いことないのかしら。」
「そうかもしれない、今のうち使いこんどけ。」
人の葬式で良くみんな笑ってくれるよな,しかもエロばなしでよ。
お前らみんな神経ないんかい。ばっかじゃないの。信じられないよ。
ばあちゃんの娘、つまり僕の母親は、妹と話している。
「示談でどのくらいもらえるの?しゅうちゃんの学費や諸々の費用が浮いて良かったじゃない。」
僕は思いっきり頭に来て、母親をお姉ちゃんと呼ぶおばんに詰め寄った。
こいつは、独身で、いつもばあちゃんの年金ねらいで、うちに遊びに来ていた。
「てめいに言われる筋合いじゃないだろう」
妹が割り込んできて
「青臭いよ、にいちゃん」
と言ったので、ぶちぎれて、明日客に出す天ぷらの芋を妹に投げつけた。
芋は妹の額をかすっただけで、どっかに飛んでいった。
悲鳴と、皿が十枚ほど割れる音がした。
妹は、お供えの団子を十五個くっついたまま、僕に投げた。
いい加減にしなさいよと母親が金切り声をあげる。
母親は裸足で庭に飛び降り、団子を拾って泥を落としている
三つばかしだめになったのは、ピンポン玉で代用しようなんて、近所のばあさんと話している。
妹のやつには一発かましてやらないと気がすまない。
酔っぱらいどもは、囃す。
煮物をしている一団は,煮物にふたをして、隠す。
寿司を食っている奴らは、すし桶を、酒を飲んでるヤツは一升瓶を持って、移動する。
妹は、ばあちゃんの祭壇の後に隠れた。
卑怯だ。
その時飲み過ぎたどっかのおやじが、ファスナーを上げながら便所から出てきた。
妹は廊下を曲がりきって勢いづいたまま、おやじの二メートルは軽くある腹にぶち当たり、跳ね返されていた。
おやじは、とゆうと、つま先立ちになって、半回転したかと思うと、それが限度だったみたいに、祭壇に倒れ込んだ。
メシメシと音を立てて、祭壇が前倒しに倒れた。
もうどうしょうもないと、なんとかしなくっちゃでは、何とかしなくっちゃが、勝ったように思われた。
妹は十数本ある卒塔婆を抱えながら、おやじとひな壇を押さえていた。
母親は右の生花と盛かご、僕は缶詰の盛り合わせと、果物の盛り合わせを、押さえた。
三秒時間が止まった。
イヤー良かったな、って誰かが言ったその間抜けな声を合図に、ゆっくりと棺桶が動きだし、斜めに傾いでいるひな壇を滑った。
棺桶は、町会から借りた長机の上を滑るように走り、ビール瓶やコップや皿をなぎ倒しながら、仏間を通り、長机がとぎれたとこを、ダイブし、応接間のテーブルを飛び越し、ドスンと言う音とともに、ソファーにぶつかって止まった。
誰もが呆然と見送る中を、ばあちゃんが、棺桶で、ダイブ。
誰がどこで誰となにをしたって、すごい面白い遊び知ってる?
アレだって、こんなけったいな話出来ないよ。
駆けつけて、棺桶を開けたおばんが、悲鳴を上げて腰抜かした。
近所のもんがのぞいたが、澄まし顔のばあちゃんが経帷子を着せられているだけだった。
なんもなってないよと、みんなが言い募ると、例の独身のおばんは、開けたとたんに、ばあちゃんが、にやっと笑ったと言う。
良いぞ、ばあちゃん。
ろうそくの炎で火事にならなくって良かったですねと、駆けつけた葬式屋のスタッフが言う。
口とは裏腹に、思いっきり仏頂面こいてる。
ばあちゃんが守ってくれたんだねと、誰かがいいオチを付けてくれる。
祭壇が何とか元通りになり、さすがにうちらきょうだいも喧嘩をやめた。
近所お手伝いの衆も、帰り出す。
親戚は近いのは帰り、遠いのは泊まった。
男連中は、みんな枕を持って、祭壇の前にひっくり返り寝る。
順番に、起きて、線香が絶えないようにするためだ。
朝方、僕はやにひんやりと冷たい感触に気づき、飛び起きた。
出たかっと思った。
ばあちゃんは、僕だけに分かるように出そうだと、思っていた。
いや出るに違いないと思っていた。
おい、出ろよ、ばあちゃん。
あんたは、奇跡だっただろ。
鴨居のあたりに、霊魂はうろついているって、なんかで読んだことがある。
僕は目を凝らして、鴨居のあたりを見た。
容赦ない朝の光は、曖昧を払拭する凶暴さに満ち満ちていて、僕はとことん失望し、立ちつくした。
(ちょっと気取ってしまった。)
僕のシャツや短パンが濡れている。
しかもいやに冷たい。
気がつけば、祭壇の前の畳がびっしょり濡れている。
一緒に寝ていた従兄弟やおじさんらも、飛び起きた。
「なんだなんだ気色悪いな、なんでビショビショなんだ」
その水の源が、判明して、みんなのけぞった。
ばあちゃんの棺桶からだった。
朝早くから呼び出された葬式屋は、ふてくされて棺桶を交換した。
昨日の騒ぎで棺桶にひびがはいっていて、ドライアイスが溶けたらしい。
親戚のおやじは、庭で吐いていた。
結局霊柩車がエンコしたり、焼き場で妊婦が産気づいたり、こっそり焼香に来た父親と母親がなんかいいムードになったりと、いろいろありすぎの葬式は終わった。
葬式が済んでも、初七日や、四十九日が次に控えている。
母親と母親の妹は、近所のお手伝いをしてくれた人たちの陰口にかまびすしい。
誰それは、しゃもじをなめてたとか、どこそこから買ったがんもどきが腐ってたとか、握り飯のいびつを糾弾したり、隣のおばさんが、自分ちように、すし桶を一つ隠していたとか、芋を厚く切りすぎて生だったとか、生花の順序がおかしかったとか、誰それはいくらしか包んでなかったとか・・・
テンション高く言い募るのを聞いていると、女って、土台からして根性悪く出来てるんだなと思った。
いずれこうゆう風になっちまうんだろかと、メールが一方通行気味のユリの事を思い出した。
霊柩車がエンコしたので、葬式屋の払いは、驚くほど安かったと、母親は喜んだ。
霊柩車が線路内でエンコして、電車を止めたら、三面記事もんじゃないか。
必死こいて霊柩車を押して、線路から脱出したときは、みんな顔面蒼白だった。
僕は、もう間に合わなかったら、いっそのこと霊柩車ごと僕らもみんな、ひいてくれって、思った。
葬式代なんかただでもおかしくないわい。
寿司屋の払いを、自動販売機の売上で払ってやったと母親は息巻く。
リュックしょって、払いに、いったんだそうだ。
寿司屋のカウンターに、百円十コの山をダーツと並べたという。
今更のように僕は、気づいた。
母親は、ばあちゃんの娘だった。
あんた、どうせ勉強なんかしないで女の子追っかけ回してるんだから、ばあちゃんの荷物整理ぐらい手伝えって、母親に言われて、ばあちゃんの押入を開けた。
ほとんどがもらい物の菓子の箱と、新聞チラシと、衣類だった。
妹の名前が書いてある箱には、妹がむかし遊んでいた安っぽいおもちゃや、アクセサリーが入っていた。
妹はそれを大事そうに部屋に持っていった。
僕のもあるはずだと、菓子折の箱を、端から開けた。
からならまだしも、カビの生えたまんじゅうなんか入っていたりする。
まんじゅうだと分かるものならまだましで、もっとすごい訳が分からないのもあった。
かなりへたって、あきらめかけたころ、僕の名が書いてあるうすい箱が出てきた。
「修一へ」と書いてある。
開けると、一枚の紙に、大きな字で「ゆいごん」と書いてある。
そこにはこう書かれてあった。
修一。
じんせいは、わらいじゃ。
なーんもこわいことない
わらってくらせ。
おれがしんでも
わらっておくっておくれ。
2002年八月
大森タネ
なんだよこれは死ぬ一ヶ月前に書いたのか。
しかもダジャレか。最後の1行は。
僕が今回夏休みに帰ったとき「始めまして、どなたさんでしたか」
なんて言ったのは、ぼけたふりして嫌味を言ったのか。
手が込みすぎてるぞ。
僕は、竹林で手を切ったときの事を思い出した。
ばあちゃんは、何でも知っているんだ。
僕がろくすっぽ勉強せず、悲観論者になって、躁鬱病になって、抗鬱剤をしこたま飲み、ジェットコースターのような気分で、人生は悲劇だなんてぬかし、役者を気取ってかっこつけ、女に振られ、ユリには鼻もひっかけられず、二丁目でおやじにおっかけられ、ぼったくりバーでめっためったにされ、トポトポと朝帰りし、ジブジブとアパートで屈折し、ガジガジと孤独にさいなまれ、ゴンゴンと自分に絶望し、ぽりぽりとキュウリを食われ、曲がらない中指を誰にでも、おったてている。
そうよ、あんたが拝んでくれたおかげで、一本だけ動かなくなった中指をさ。
よーばあちゃん、僕はさ、笑って生きていいのかよ。
あんたみたいにさ。
前葉頭外科手術したみたいに、笑ってばっかのあんたみたいにさ。
えへらえへら笑って生きてていいのかよ。
逃げてんじゃねーよ。
えへらえへらしてさ。
それが九十二まで生きて来た末のやりくちかよ。
あんまりにも、世の中おちょくりすぎてんじゃないのかよ。
え、ばあちゃんよ。
あんたから見れば僕はお笑いぐさなんだろうな。
どうせ僕の悲哀や絶望や孤独やそんなもの一緒くたに、あんたらのお笑いぐさなんだろう。
お望みどうりに、あんたの死んだことなんぞ、笑い飛ばしてくれるわ。
僕は、菓子折の山に埋もれたまま泣いた。
三秒後にメールでユリが明神様の鳥居の下で待っているって言ってきた。
僕の笑顔を見てユリは、案外元気そうで良かったって言った。
やっぱ僕って、笑顔が似合っちゃうのかな。
えへ。
Entry2
鱗月夜(うろこづきよ)
卯木はる
よがり声、だったと思う。
ねっとりと粘りつくような低音が宴を終えて寝静まる月夜の底に擦れた。
緊張を支えていた鳳凰の帯を解いて、私は寝床の上、骨抜きにされたように溶けていたが、夢と現実の狭間を羽毛のように漂っていた意識は瞬時に連れ戻された。
幽かだが鮮明に耳残りする声。
色惚けが。
心の中で悪態をついて身を起こす。
和紙づくりの傘の蛍光灯が平坦に室内を照らし出している。
素肌を晒したままだった。背筋を伸ばして一族の謝辞を受け続けなければならなかった一日から解き放たれ、辺りは脱ぎ散らかされた惨状で、ふいに羞恥心が頭をもたげた。
襖を隔てた隣室には両親が寝んでいる。松竹梅を彫り込んだ欄間から煌々と明かりは漏れていたはずで、眠りを妨げられ手がかりに指を掛ければ、娘のあられもない姿が目に触れたかもしれない。
聞き耳を立てる。
水気を含んで重くたれ込めた霧のように、寝息は続いている。疲れているのは両親も同じだったろう。先に湯を勧めたのは私だった。母が風呂上がりを知らせに来て、私は返事を返したまま微睡んでいたのだった。
寒い。裸身を晒していたのを今更に悔いた。素肌が粟立っている。
寝間着は持ってきていたが、家政婦の坂田さんから浴衣を用意してあると言われていた。
背中を丸めて夜着を探す。天井に届く着物箪笥の下段に、糊の利いた浴衣と半纏を見つけて取りあえず羽織った。
一足ずつ放り出されていた足袋と腰ひもを拾い、どうせ洗ってしまうから着物用の絹のスリップといっしょに適当に丸めた。帯板などの器具は揃えて枕元に置く。みっともなく放り出されている振袖は長襦袢ごと衣紋掛けに袖をくぐらせ、黒地に金糸の鳳凰が羽を広げた帯も幾重にか畳んで、それぞれ鴨居に吊した。
振袖が蛍光灯の光の粒子を含んで月のようにほのかに香る。白地に桔梗や菊をあしらった豪奢な紅型で、今日の晴れの日のために伯父がつくらせたものだった。
私はこの俵田の家を継いだのだ。
俵田の血筋を正統に繋ぐ者として、伯父の養女となったのだ。
絹を纏った昼間の喧噪が思い出された。
「わしの養女として、本日、一族の皆みな様に大橋の珠子を披露できるんは望外のよろこびであります」
聳える仏壇と春秋を著した三本組みの掛軸の下がった床の間を背にして、禎克伯父の野太い声が大広間に響き渡った。傍らの私に目を細める。一族の次の主として、本家の養女となった私は伯父がつくらせた晴着を纏っていた。祝宴の膳を前にして座を囲んだ縁戚面々がじっと聴き入っている。
「跡目の決まらぬ俵田の行く末を、皆々この日まで案じてくだしゃったが、これで安泰、わしもゆうるりと楽隠居ができるというもんじゃ」
座は苦笑にさざめく。好色の虫治まらず、大人しく隠居所で枯れてくれる人でないことはここにいる誰もが周知のことだった。
広間を見渡す。
一族が正装した背筋を伸ばしている。
最長老の瑞子大叔母の姿がある。濡羽色の留袖に埋もれるように小さな座姿。
両親、蝶子姉さま、華子姉さま、義兄さま、子供達。
紅子伯母夫婦。萌子伯母夫婦。明子叔母夫婦。それぞれの子供たち。
分家筋の面々。
血の濃きも薄きも一幅の画のように微動だにしない。
目に見えない秩序が子供たちをも圧していて、自分から波紋が拡がらないよう固まっているのだった。
一つの規律に従っている、ふうわりとした一体感が大広間を包んでいた。
先人たちがそうしてきたように、誰もが事態を受容している。私は三女であるが、俵田の長女である母の血筋に変わりはないのだから。
祝杯が上がった。合図だったように一同の緊張が解かれた。親戚達が次々と膳を離れビール瓶を片手に足を運んでくる。
祝辞、そして謝辞。休む間はなかった。懐かしい顔や親しみのない顔もあり、笑い、取り繕い、勧められる酒は適当に灰皿にこぼした。
早く終わればいい。
黙々と箸を口に運んでいる瑞子大叔母が目に入り、人の切れ目に席を立って近づいた。
「大おばちゃま、ご無沙汰しちょります」
最長老は蓬麩の炊物に箸をつけたところだったが、ゆっくりと目線を上げて静かに微笑んだ。酔いが頬を桃色に染めている。
「お酒は足りちょりますか」
瑞子大叔母は亡くなった祖母鶴子の妹で齢は八十も半ば過ぎたが、夕餉にアルコールを欠かさない酒豪だった。
「おう。俵田のめでたい日じゃ。いい酒が飲めるわいな」
小さな目鼻が笑顔で皺にうずまる。
「おさな児であった珠子が立派に跡を継げるほど大きゅうなっていたとは、たまげた」
「なんもできません。いろいろ教えを請いたいと思うちょります」
大叔母はすこぶる機嫌良く、ひとしきり昔話をした。席を立とうとしたとき、何か言ったのを私は聞き逃した。
「え」
「鱗月夜じゃ」
今晩の月のことを言っているのか、皺に埋没した顔からは何の意図も見いだせない。困惑したまま、ふと見ると大叔母の鶴亀の帯に半円形の波が連なる地柄が梳いてあるのに気づいた。連なった波は角度によって消えたり銀色に輝いたりする。鱗のようだと、ぼんやり思った。
宴を終えた今、昂ぶりも重圧も霧消してしまった。俵田の女の血が私にも流れていたというだけ。凪いだ心でそう思えた。
あ。
また。
今度は鮮明に耳殻に響いた。喉の奥の苦いものが臭気をあげて拡がる気がした。
禎克伯父の放蕩は若い頃かららしい。還暦を過ぎた今でも収まらず、出入りの呉服屋の未亡人に手を付けているのは公然としていたし、花街のきれい所にも馴染みがいるらしかった。坂田さんも最近、名を連ねたと噂された。
けれども、私たち一家をはじめ縁者を泊め置いた今宵くらい、好色の虫を抑えることはできなかったのか。いったいどの女をしとねに引き入れたのだろう。
晴れの日を汚されたという思いに血が上った。
幾人の女が餌食になったのか。禎克伯父は女の精を吸い尽くして、あの屈強な身体を息吹かせているのだった。
鬼の子じゃからね。
鈴の鳴るような美しい響きで、昔、言った人がいた。
鬼子じゃからね。私はあん男に喰われるやもしれんね。
記憶の中で若菜さんは今も美しく聡明で、幼い私を膝に抱えながら優雅に伸びた指でページを捲ってくれる。
若菜さんは近在の商家の次女で、伯父の三度目の妻だった人だ。艶めいた黒髪を左の肩で一つにまとめ、長く垂らしているさまは清らかな乙女のようだった。本家を訪ねるたびに、蔵で埃を被っていた少女雑誌を持ち出しては、彼女に読んでもらうのが好きだった。
縁側の日溜まりで涼やかな声がたゆたう。若菜さんの膝で若菜さんの体温を感じながら若菜さんの匂いをめいっぱい吸い込んで、うっとりと聴き入るのだった。
あら、珠子ちゃん泣いとるの。
ごめんごめん。大丈夫じゃ。
私は食べられたりせんからね。
程なくして、若菜さんは実家に帰されたと聞いた。幼い私に理由は伏せられたけれども、気が触れて伯父を怖がったのだと、後で知った。
鬼じゃ。鬼じゃ。
奥の座敷を閉め切って楔を打ち付け、布団を被っておののきながら止めどなく呟いていたのだと言う。
鬼。口にしてみた。
俵田の家では男の子が育たない。
女腹の血筋であるうえ、稀に授かった男の子は代々、5つの宮参りを迎えることができなかった。
曾祖母は珍しく二人の男の子をもうけた人だったが、最初の子は乳を詰まらせて息絶えたというし、次の子は井戸に落ちて躯となったという。
名前も憶えておらんのじゃ。
幼かった母が幼いゆえの残酷さで尋ねたとき、曾祖母はこともなげに答えたという。
産まれたときから決まっておったこと。涙も出んかった。
鬼。禎克伯父の細く切れ上がった眼差しを思った。
伯父は紛うことなき長兄である。正式な婚儀が調う前に祖母が身篭った、いわば背理の出生が忌まわしい連鎖の頚木から逃れる一助となったらしい。伯父は無事五つの宮参りを済ませ長じて当主となった。
鬼の子じゃ。育った男子は鬼の子じゃ。
嫁せば鬼子に喰われるぞ。
最初の妻が呆気なく病死し、二人目の妻が風呂場で溺れたとき、口さがない者たちは密やかに噂しあった。三人目の若菜さんを実家に帰して後は、伯父が俵田の家に嫁を迎えることはなく、好色には限りがなかった。
けれども、放蕩の伯父には子がない。三人の妻たちも外で情けを受けた女たちも誰一人身篭る者はなかった。大柄で屈強な身体は子を為す能力には恵まれなかったらしい。俵田にかけられた頚木は、禎克伯父の命を見逃しはしたが、後の子種を残すことまでは許さなかったものとみえる。
母は長女であり、慣わしでは家の跡を取る宿命だったが、男子が成人するという数世代ぶりの快挙を得て、めでたく他家に嫁ぐこととなり三女をもうけた。私は末娘である。
長年空席だった嫡子は伯父の還暦を前にして、順当に本流である母の血筋から挿げられることとなり、既に他家に縁付いた長女華子を除いた二人の姉妹から選ばれることとなったが、禎克伯父の強力な意向で次姉蝶子は排され、三女である私が高座より一族を迎えることとなったのだ。
いつの頃から災厄の種子が蒔かれたのか定かなことは耳にしていない。
当主が殺生をはたらいたのだとか、商いの恨みを買ったのだとか、厳に密やかな噂は流れるものの、どれもが口伝いに尾をつけ鰭をつけ、おどろおどろしく演出を加えられた話ばかりで、真実を含んでいるものか判別することはできない。
発端は伏せられ秘されているうちに時を越え、一族のみならず集落の誰もが公には触れたがらない禁忌となり、現代に至っても俵田の血を啜り肥え太って一族を脅かしている。
このまま眠ってしまいたい気持ちに駆られたが、締め付けた帯の下はぐっしょりと発汗していたし、髪も肌も昼間の喧噪と酒の匂いが染みついて薄汚れているようだった。
両親を起こさないよう細心の注意を払いながら蛍光灯のスイッチを切るとわずかに明るい。月見酒だといって、伯父は今夜、雨戸を閉めさせなかった。一間廊下に面した雪見障子は仄かな月光を背景にして、格子を影色に浮き上がらせている。薄紙を隔てぼんやりと隔離された気がした。ふと座敷牢のようだと思った。
浴場へは伯父の居室近くを過ぎなければならない。
嫌悪感が喉の奥を苦くしたが、ともかく下着とバスタオルを携えて中庭に面した廊下に出た。
明るい。まっすぐ伸びる一間廊下は光を増し、二客の籐椅子とテーブルがその影を曖昧にしていた。両側の障子紙の白さが月の光を反射し合い増幅し合って、仄白い空間をつくっている。
庭はいかばかりだろう。
滑らかに木が擦れていく音とともに、陰影を際だたせた中庭が現れた。一条の光が射し込む。
わざわざ京都の庭師を呼んで手を入れている庭は、見事に闇と光を共有しており、湧水を引いた小川のせせらぎが、月に濡れた情景をいっそう静けさに沈めていた。
丸く刈り込んだ躑躅が幾重かに連なっていった先、白木蓮の向こうに母屋から突き出した屋根が光っている。
あれは伯父の居室だ。
伯父の居室部分は中庭に張り出すようにして建っており、三方を窓にして景色を見渡せる造りになっていた。
障子を閉め板張りのひんやりした感触を確かめながら歩みを進めていく。
伯父の組み敷いているのはどんな女なのだろう。
嫌悪感とは別のところで、幽かな好奇心が芽吹いていた。
ぼんやりと白い板張りの大廊下を進んでいく。夜寒は深く、凝った身体が軋むようだ。
そろそろと密かに素足を前に出し、廊下の十字路まで来た。左に折れれば伯父の居室まで続く。まっすぐ進めば温かい湯に浸かれる。
耳を澄ませた。
鼠の走る音すら聞こえない。すべてが寝静まっている。
やはり、早く寝まなければ。伯父の濡れ場を覗き見するなんて馬鹿げている。浴場へ足が向きかけた。
ふと、何かぺったりと足の裏に張り付く感触がある。
しゃがんで剥いだそれは丸く透明で、かざすとうっすら玉虫色に光った。
鱗月夜、と大叔母の声が回る。
顔を上げると、濡れ場へと続く廊下はやはり月光の妖しい色を帯び、甘美に誘っている。廊下から近づけば影が障子に映り気づかれるかもしれない。廊下の交差する角部屋から中庭に張り出した三部屋目に伯父はいる。部屋伝いに襖を開けながら進んだ方が容易な気がした。
すう、と襖を開けて身体を滑り込ませた。浴衣の裾が擦れて乾いた音がした。思わず身を縮める。
静まっている。確かめてから次の襖に手を掛けて息をのむ。
湿っている。乾いた大気の水分をすべて吸い取ったように襖が湿り気を帯びている。
す、う、う。さっきより重い感触で襖が開いた。畳まで湿っている。沼地のほとりに来たような淀んだ水の気配が鼻を突いた。次の部屋から絶え間なく衣擦れの音がしている。月夜にも気づかず絡まる男女の荒い息づかいが辺りを湿らせているようだった。
ず、ず。重く湿った襖をやっと瞳の幅ほど開けると顔を寄せた。
湿気を含んで低く垂れ込めた気配の中、蠢く女の背中が見えた。
漆黒の髪が濡れそぼって白く艶やかな背中に張り付いている。女は伯父を寝床の上に座らせて顔を胸に抱いたまま身体をしならせ精を吸い取ろうとしている。伯父の日焼けした太い腕が女の背中と腰にがっしりと廻され、長い髪に絡み緊張と弛緩を繰り返す。女に組み敷かれた屈強な両脚が力を帯び、女の動きを支えている。
女の肌は絹のように光沢を帯び、汗で時折、宝石のように光る。
黒い男と白い女がお互いを貪るように絡み合い、素肌を揉みしだいている。
女が腰をくねらせてのけぞった。ねっとりと張り付いた髪の隙間から、女の目が私の瞳を鋭く射抜いた。
血の色だ。
女の目が血の色に染まっている。
総毛立った。私は逃げるように部屋に戻り布団を被った。
鬼じゃ。鬼じゃ…。
翌朝、伯父は褥で冷たくなっていた。
居室は水を撒いたように濡れていて、襖にも畳にもカビが白い花を咲かせている。
半裸のからだには、透けた円いものが無数に付着し、朝日を浴びてきらきらと輝いていた。
縁者たちは事実を淡々と受け入れ、まず朝食が準備された。
男の子なのだ。
当主として上座で摂った朝食の席で、私は悟っていた。下腹に手をやってほんのりとした膨らみを撫でた。
私は子を宿している。
背理の出生から生き長らえた伯父は、後の跡目も不義の子を立てようと考えた。姉でなく私が後継者に望まれたのは、未婚の母になろうとしたゆえなのだ。もし、男子なら、再びの快挙となる。
伯父は連鎖する災厄を自らの力でくい止められると慢心し、徐々に首が絞まるのに気づかなかった。二人の男子を並び立てようとしたことで罰が下ったのだ。
箸を止め中庭を見渡した。湧水を引き込んだ小川が身をくねらせて横たわっている。
血の色の瞳がじっと見ている気がした。
Entry3
ハッピーサタディ(迷子の小犬)
旅幸まりあ
もうすぐ、金曜日が終り、土曜日に変る。また、あいつがやってくるんだろうな。
まったく迷惑なヤツだ。
と、言っている間に、時計は12時を回った。
ああ、もう、手が動かなくなってきた。立ちあがろうとして、バランスをくずしてその場に崩れ落ちた。
「はーい。ハッピーサタディー!入れ替わる時に大きく動かないで。アブナイでしょ。」
僕がしゃべっているのだが、声は1オクターブ高い。
彼女は、僕の副人格の1人。
そう、実は僕は、多重人格の持ち主なのだ。
世間ではいろいろ言われているが、自分では、多重人格というのは、同じ家の中に、何人かで同居している感じに近い。
(はーい、じゃないよ、まったく。徹夜で動き回るなよ。疲れが取れないんだから。)
「疲れてる時は、新ちゃんに頼めばいいのよ。さ、仕事、仕事。その前にお化粧しなくちゃね。」
新と言うのは、僕の副人格の1人で、鍼灸師だ。
僕は、意志に反して服を着替え始める。今日もまた、ひざ上のミニスカートだ。
化粧をして、かつらをかぶると、鏡には、どこから見ても22、3の愛らしい女性が写っている。僕はモトモトが色白の童顔で、小さい頃からよく女の子にに間違われてきたが、もちろん女装趣味はまったくない。
いつ見ても、この姿には情けなくなってしまう。
僕の気持ちをくむ事なく、瞳は元気一杯に言った。
「さ、依頼をチェックしなくちゃね!」
彼女は、探偵の仕事をしている。その収入で服や化粧品を買っているのだが、時には、ただのサラリーマンの僕よりも、収入が多いので、バカにもできない。
パソコンを開くと、今日も依頼が来ていた。
どうかマルオをさがしてください
と、いう出だしの文章とともに、かわいい子犬の写真が添付されていた。
依頼は、隣町に住んでいる男の子からだった。
「いなくなったのは昨日。そんなに遠くには行ってないはずね。よし、みんなに頼もう。」
瞳は、写真を添付したメールを数十人に送った。
彼女には、同じ多重人格の副人格同士の友達がたくさんいる。平日は僕が起きている限り、彼女に取って変られることはない。だいたい僕が眠ってしまう夜中に、彼女は起きだして、友達と連絡を取り合っているようだった。しかし、土曜日だけは、意識があっても、彼女が主導になってしまう。
こんな生活が、かれこれ1年も続いていた。
「ところで秋夫、看護婦の彼女とは、もう、やっちゃったの?」
(やっちゃったって。そういう言い方やめてくれよ。彼女は純粋なんだよ。僕の天使なんだ。)
「まったく男って、惚れちゃうと、ほんとロマンチストよね。」
(ほっといてくれ。女は、どうなんだよ。)
「そうねぇ。女は、ちょっと頭が悪くなっちゃうわね。あはは」
言いあいをしているうちに、眠くなってきた。
今日は、新も眠っているようだ・・。
日曜日の朝。
気がつくと、すでに車を運転していた。
(おい、瞳。どこへ行くんだよ。)
「あの犬を、隣町で見たって言う連絡があったのよ。」
瞳は、メモを見ながら、一軒の家の前で車を止めた。
「ここよ。思ったより大きな家ね。」
大きな門のある立派な家の表札には、中村と書いてある。
「ちょっとのぞいて見ましょう。」
瞳は、ミニスカートで、壁に手をかけ登りはじめた。
(おいおい、ちょっと、誰かに見つかったら・・・それに、ほらパンツが丸見えだゾ!)
瞳は、お構いなしだ。
庭をのぞくと、そこには子犬がいた。7、8歳ぐらいの男の子と遊んでいる。
瞳は、音を立てずにひらりと飛び降りた。瞳に代わると、ものすごく身が軽くなる。
「たぶん間違いないわね。行きましょう。」
インターホンを押すと、中から、男性の声が答えた。
「はい。」
「すみません、ちょっと、お宅にいる小犬のことでお話があるのですが。」
「なんでしょうか?」
「実は、あの犬には、もともとの飼い主がいまして・・。」
「え、あの犬は、息子が気に入って、前から飼ってるものです。たぶん犬違いでしょう。」
「そんなはずは・・」
瞳の話を最後まで聞かず、男は、インターホンを切ってしまった。
「もう!なんて人なの!」
瞳は裏庭に回った。そして、うずたかくつまれているゴミ袋ををあさり始めた。
(おいおい、なに始める気だよ。)
「あった!あったわ。やっぱりあの子犬は、マルオに違いないわ。」
瞳は、マルオがつけていた赤い首輪を手にしていた。
「困ったわね。あの男じゃダメだわ。明日また電話してみましょう。」
(明日って、月曜日は、お前は出てこれないだろ。)
「だから、秋夫、電話してよ。」
月曜日、午前中の仕事を終らせて、瞳に言われた通り、あの家に電話をかけた。今度は、若い女性の声だった。
「はい、中村ですが。」
「あの、すみません。子犬の事でちょっと。」
「なんでしょうか。」
「あの犬。うちの犬なんです。迷子になってしまって。」
「まぁ、そうだったんですか。首輪がついていたのですが、どこの犬か探しようもなく、うちの息子も気に入ってしまったもので。すみませんでした。お返しいたします。」
「ありがとうございます!じゃ、今日の夕方、引き取りにうかがいます!」
仕事が終って、あの家に急いだ。インターホンの声は、またあの男の声だった。
「なんですか。」
「すみません、奥さんと約束してたんですが。」
「妻は入院したよ。頭がおかしくなってな。ところでお前は、誰なんだ?妻の新しい男か?!」
男は、玄関のドアをあけて、出てきた。僕は慌てて、車に飛び乗りエンジンをかけた。
「まったく、どうなってるんだ。おい、瞳。起きろよ。」
(起きてるわよ。奥さんの頭がおかしくなって入院でしょ?それが本当なら・・。)
突然、頭の中で、新が答えた。
(Y病院しかありませんね。)
(ありがと、新ちゃん!じゃ、明日行ってみましょう!)
「おいおい、明日も、僕は仕事だよ。」
(有休が残ってるでしょ。)
「もう、かんべんしてくれよ。」
次の日、僕は、Y精神病院の受付に、立っていた。
精神病院のお見舞いには、身分証明が必要だ。しかし、瞳が偽造した免許証を提示して、すんなり中に入ることができた。
中村の奥さんは、個室にいた。
「突然すみません。子犬の飼い主です。」
「ああ、約束してたのに、突然こんなことになってしまって。」
「いったい、何があったんですか。」
「昨日の昼間、亮の新しいピアノの先生がいらしてたんです。お茶を飲んでいる所に、あの人が帰ってきて。急に、2人で何をやってるんだ!と怒り出して・・。何を言っても聞いてくれず、ピアノの先生をたたき出して、私を無理やりここに・・。あの人、最近どうかしてるんです。ずいぶん嫉妬深くなって。あれでも、大病院の院長なんですよ。」
「瞳、どう思う?」
(奥さんは嘘をついていないと思うわ。しゃべっている間、まったく足が動かなかったもの。)
「そんなことでわかるのか?すごいな。」
(様子がおかしいのは旦那の方ね。尾行しましょう。)
「今から?」
(いや、時期を見てね。)
(秋夫!起きて!)
疲れて、うたた寝していた僕を、瞳が起こした。
「んーなんだよ。オレが寝てる時は、勝手に行動すればいいだろ?」
(今から尾行よ。秋夫の方が都合がいいの。さ、早く、早く。)
うながされて、車に乗りこむと、行く先は歌舞伎町だと言う。
(情報が入ったわ。今、彼が歌舞伎町に向ってる。尾行開始よ。)
歌舞伎町につくと、携帯がなった。
着信を示すランプが、赤く光っている。瞳への電話を示す色だ。
(出て。)
「はい、もしもし。」
「A店よ。」
それだけ言って電話はきれた。
(急ぎましょう。)
派手なネオンのついた大きな看板。
A店は、俗に言うソープランドと呼ばれる所だった。
(彼よ!入って行くわ。続いて!)
「待ってくれよ。イヤだよ。こんな所に入るのは・・」
(いいから言う通りにして!)
誰かに見られやしないかと、きょろきょろしながら中に入ると、中村が、女性と共に部屋の奥に消えて行く所だった。
「いらっしゃいませ。ご指名がありますでしょうか?」
髪に油をたっぷりとつけた細身の男性がやってきて、丁寧に聞いてくる。
心の中では、このスケベめ!とか思ってるんだろうなぁ。心外だよ。
「今、男の人が連れて行った女性を、お願いします。」
「1時間はかかりますよ。それより他にも、いい子がそろってますよ。」
「彼女をお願いします!」
男はあきらめて、「ここでお待ち下さい」とソファーを指差した。
1時間後、さっきの女性に、個室に案内された。
「本日のお奨めは、ユミコのスペシャルコースです!」
「いや、あの、さっきの人、たしか医者だよね?」
「あら、知り合い?そうそう、彼、若くてきれいな奥さんと再婚したんだけど、彼女の連れ子が、なついてくれなくて。そのことで、奥さんに、あなたが父親らしくないから、と責められたらしいのよ。そしたらさ。」
彼女は、プッと吹き出した。
「それから、彼、あれが立たなくなったらしくてね。男ってデリケートな生き物よね。それで、若い奥さんが浮気しないかと心配らしくてさ。あはははっ」
彼女はおかしそうに笑った。
僕は、笑えなかった。女は、時々、非情だよなぁ。
「じゃ、スペシャルします?」
「あ、いや、いいです。」
ズボンのチャックに手をかける彼女を振り払って、僕は、慌てて部屋を飛び出した。レジに、さっきの男がいた。
「サービス料、氏名料、あわせて4万2千円になります。」
「何もしてないのに。その上早漏だと思っただろうな。まったく!瞳、あとで金返せよ。」
しかし、店をでた所に、本当の不運が待っていた。
飲み会の帰りらしい4、5人の女性の集団が歩いてきたと思ったら、その中に、僕の憧れの文ちゃんがいたのだ。
「あれ?秋夫くん…?」
彼女は、僕が出てきた店を理解して、絶句した。
「いや、違うんだ、違う!!文ちゃんこれにはわけがあって。」
言い訳を聞きたそうに、文ちゃんが、僕をじっと見つめる。しかし、次の言葉がでてこない!
「文、何してるの?」
同じ看護婦仲間の、小錦のように太い小西さんに呼ばれて、文は、慌てて集団に戻って行った。僕の方を、1度も振り返らなかった。
「あああああ!もう、最悪だよ!信じられない。もう、絶対、文ちゃんに軽蔑された。」
(運が悪かったわね。)
(そうですね。)
「そんなんじゃ、済まされないんだよ!もうお前達なんか出て行け!いらねーんだよ!ああ、もうダメだ…。文ちゃん…。」
(ずいぶん機嫌が悪いわね。)
(まぁ、でも秋夫さんの気持ち、同じ男としてわかりますよ。そりゃ、ショックでしょう。)
(なによ。2人して!わかったわよ。じゃ、こうしましょう。)
瞳は、ある提案を持ちかけてきた。
土曜日の朝。
僕は、また、中村のうちの前に来ていた。
子供と、犬の声がするのを確認して、ボールを、庭に放り込む。
「すみませーん。ボール取ってもらえませんか?」
しばらくすると、裏庭から、ボールを持った男の子が出てきた。
「亮くんだね?お母さんに会いたくないか?」
「え?お母さんが、どこにいるか知ってるの?」
「知ってる。お母さんを連れ戻すには、亮君の協力が必要なんだ。手伝ってくれるかい?」
「うん。手伝う。」
「しかし、その子犬とは、お別れすることになるけど、かまわないか?」
「え、ソックスとお別れ?」
亮は、足の所だけ黒い、まるでソックスをはいたような子犬をじっと見た。
「わかった。それでもいい。お母さんに会いたい。」
「よし。それじゃ、次に目が覚めたら、一番にお父さんに向ってこう言うんだ。」
亮に耳打ちすると、亮は、こくっとうなずいた。
「新、やってくれ。」
(わかりました。入れ替わりましょう。)
みるみる腕に力が入らなくなって、そして新が現れた。
ポケットから、鍼のセットを取り出すと、
「ちくっとしますよ。」
亮の首に、細い鍼を打つと、亮は、意識を失って、ぐったりとした。
「すみません!道に子供が倒れていたんです!」
亮を抱いて病院へかつぎこむと、タンカーが運ばれてきた。
ここは、文の勤める救急病院。
病院は慌ただしくなった。亮のポケットには、あらかじめ連絡先を書いたメモを入れておいたため、20分後、中村がやってきた。
「亮!亮!呼吸はある。亮しっかりしろ。すぐに、お母さんもくるからな!」
亮は、裸にされ、心電図や血圧計のコードをたくさんつけられている。
若い担当医が、中村に言った。
「てんかん発作の可能性があります。注射をします。」
「待ってくれ、息子はてんかんではない。私も医者だ。」
そこへ、慌てた様子で病室に女性が走りこんできた。亮の母親だ。
「亮!亮!しっかりして。あなた、亮を助けておねがい。」
「わかってる。注射はダメだ。亮、目を覚ましてくれ、亮。」
中村が、大きな声で呼びかけた。
(今よ!)
僕は、いや新は、鍼を取りだし、亮の足の薬指に、鍼をさした。
「う、うーん・・。」
亮が軽いうなり声をあげた。
みんながいっせいに亮を見つめた。
亮は、目をこすり、中村の姿を見つけると言った。
「パパ・・。」
「亮…・!亮・・。良かった!ああ、亮。初めてパパと呼んでくれたのか。」
中村は、大きな腕で、亮を抱きしめた。それは、誰が見ても本当の親子だった。
亮の母は、そっと涙をぬぐった。
「秋夫君。」
振り返ると、そこには、ナース服をきた文ちゃんが立っていた。
「あの子を救ったのは秋夫君よ。いいとこ、あるじゃない。」
「いや、当たり前のことをしただけだよ。それより文ちゃん。こないだのことだけど。仕事だったんだよ。誓って何もしてないんだ。」
「信じるわ。」
文は、うなずいた。
新は、調子に乗って、文の手をにぎった。
「ところで文ちゃん、今度、僕といっしょに映画でも・・」
と言いかけた所に、小西さんがやってきて、僕達の間に割り込んだ。
「なになに?映画?私も一緒に行くわ。」
「じゃ、3人で行きましょうか?」
文が笑って言った。
(勘弁してくれよぉ。まったく!)
(あははは!!)
瞳が、笑い転げた。
亮も、検査入院を終えて、無事退院した。
今日は、約束の小犬を引き取りにきていた。
亮は、子犬を連れて外で待っていてくれた。
「じゃ、連れて行くよ。」
「ソックス、ばいばい」
小犬は、答えるように、クーンと鼻をならした。
亮の目には、みるみる涙が浮かんできた。
「どうして、お別れはつらいの?」
「それは、名前をつけたからさ。名前のあるものとの、別れはつらい。でも、それとは逆に名前を呼んであげると、仲良くなれるんだよ。」
そこへ、中村が出てきた。
「先日は、亮を、助けてくださってありがとうございました。気持ちだけですが、これを。」分厚い封筒を手渡された。
車の中で封筒をあけた。中には、新札で100万円が入っていた。
「すげー!」
(ちょっと、それ私のよ!私が考えたアイデアなんだから!)
(僕も今回は、かなりお手伝いしましたよ。)
「オレも、瞳には貸しがあるしなぁ。」
(もう!私、買いたいモノが山ほどあるのよぉ!)
山分けの方法で揉めながら、僕と小犬だけを乗せた車は、今回の、依頼者の所へと向っていた。
Entry4
歯科医師の陰毛
氷室ケイ
私は、美人でもブスでも、一度でいいから口腔を覗いてみれば、その人についての大まかな事が読みとれそうな気がする。
人生となると推測の域になってしまうが、生活習慣、好物、嗜好品、男性経験などについては、適格なまでの判断が可能だとも思う。
タバコなんか吸ったこともない様な顔してる女性の歯の裏側が真っ黒だったり、甘いものは虫歯のために控えてますのよなんて顔しながら、口の中はインレイだらけだったりする。もっとひどいのになるとクラウンだらけだったということがよくある。
美人面してても、『全部整形ですか?』なんて呟きたくなる。足の曲線がどうだとか、胸がたれていないなんて自慢したって、『口臭がとどいているんですよ、ねえ』なんて言ってみたくもなる。『こんな逆さまお歯黒のような女性と、だれがキスしたくなるもんか』と内心、叫んでいる自分に気づいたりする時もある。
どんなブランド品のバックを肩から下げたって、バックが歩いているように見えるだけだと思ってしまう。
そして、私は呟く。『口腔は、無垢な心理を露呈してしまう』と。
心理は目前の患者の稀に見る象牙質の輝きにも確かに宿っているようにみえた。
ハンバーガーとかクレープみたいな柔らかい物ばっかり食べている歯とは違っていて、とても美しい。引き締まった歯茎。薄いピンクに輝く歯肉。毎日の定期的なブラッシングを心掛けているのだろう。ポケット内に細菌が蔓延る余地すらない。こういうタイプは、自ずと清潔な下着を身に着けていることが多い。レースの線が崩れないようにネットに包んでのソフラン仕上げも怠らない。だから、万一初めての不倫なんかを経験することになると、相手の男性を強烈に驚かせたりしてしまう。所詮、前述の美人タイプが、決戦下着とかなんとかいってセクシーな下着をつけて男を惑わせようが、勝負は最初からついているようなものだ。
ブスの中でも整形に見向きもしないような歯並びの綺麗な女性は、まさに『ミガピカ』である。このタイプは一度深い恋愛を経験すれば、いつの間にか短い年月で驚くほどの内面的美人に生まれ変わってしまう。実際の自分の本当の美しさに気づいていないだけなのだ。磨けばほんとうに輝き出すダイヤモンドの原石であるということに。
そんな時、私は「ほら、前を見て歩きなさい。こんなに綺麗な歯をしているんだから、胸を張って!」と治療中に内心で叫んでいる。会話のない目線だけの語りかけに、女性患者は安堵した表情をこしらえる。
外見に掛けるのか、内面に掛けるのか。私は今この眼下のブス女性患者に掛けてみたい。白磁を連想させる作り物のような歯と 安心できるほどの歯並び。神はすべてにおいて平等なのだと確信してしまう一瞬が拡がっていく。床のタイル面が静謐な輝きを放っているように見えている。
やはり、私は呟く。『口腔は、すべてを包み込み、そしてすべてを曝け出す』と。
ラバーに包まれた私の左手の人指し指がこの女性患者の唇を押し広げるなか、右手の検歯鏡があら探しをするように、出し入れを繰り返している。
朝の陽光がレースのカーテン越しに降り注ぐなかで、愛人は背中の産毛を逆立たせていた。
私は、風にそよぐススキ野原に佇んでいるのではないかと、逆光の中で煌きわたるその背中を見て思った。
赤い小さな花びらにも見える首筋のキスマークが死斑のように映り、私を残酷な気分にさせてしまう。必ずと言っていいくらい、愛人がイクときは、目の中の瞳の焦点が定まらないままで、「首を力いっぱいに締めてください。お願い」という哀願の表情に変化する。
紅潮した頬を、ナメクジが這ったような痕を残しながら、よだれが伝って流れ落ちていく。
赤い9ミリ径のクレモナロープが、愛人の豊満な乳房に食い込み、乳輪を2倍の大きさに膨らませている。埋め込まれたままのピンクローターの音がやけに静かに響いていて、静止画像のなかの青白い死体を見ているような気がする。
気絶とは、ある意味、半死の状態の事をいうのだと改めて思った。
半開きの口からは。白い純潔の証のような歯並びが覗いている。
寝息と錯覚してしまう静かな呼吸に同調するように、白い腹部までがゆっくりと上下を繰り返している。
私は、やっと精が輝くような表情の戻って来た愛人の口に、静かに跨るようにして、うんと角度をつけて、思いっきり突っ込んでみた。
一瞬、目を見開き、死にそうな顔をしたが、直ぐに安心したように目を閉じて、愛人は咽頭の奥に届くくらいに、私を思いっきり吸い込んだ。
「口に全部だすよ」と、うそぶく私を見上げる切ない視線が、一度だけ不器用に頷いたように見えた。
「はい、お口をもう少し開いてください。はい」マスクからくぐもった声がでた。
「今回も上等です。歯石もほとんどないんですが、すこし磨いておきましょうか。はい、水が出ますよ。もう少し開いて。奥が見えるように。もっと開いて。はい、いいですよ」
私は、歯科助手には気づかれなかったが、赤面していたと思う。いま口に出た言葉が今朝の愛人のマンションで発せられたセリフに、ことの他近かったからだ。二月ほど前に通院していたブスの女性患者の一人が今の私の愛人におさまっている。
その彼女は、飽きもせず通院してきて、今まさに私の目前で治療を受けている。
「歯間ブラシを使っているんですね。カルテにも書いてあるけど。」私はさり気なく言ってみる。
「はい。先生から薦められたドイツのメーカーのを使っています。とても気持ち良いです」
目の前の女性患者は以前のブスではない。内面から美が溢れ出ている。清潔という二文字が今にも零れおちそうだ。
「歯は大切です。心臓でも脳でも、歯と深く結びついていますからね」
「そう、愛さえも歯と深く結びついているのかもしれません。余談ですが・・・」
真顔で答える自分が可笑しくもある。
「口臭で、100年の恋も醒めるってよくいいますよね」 咄嗟に歯科助手が口を挟んできた。
私は、「コホン」と咳払いをして、口内洗浄にとりかかった。
「はい、君、バキュームね。急いで」
ぽってりとした女性患者の唇がみるみるうちに濡れていく。
「ああ、君どうするの、そんなに濡らして」
女性患者の咽仏が二、三度上下した。洗浄水が頬をつたい首筋を伝って黒いノースリーブのニットに染みをつくっている。今朝のこの女の濃いブルーのシルクのショーツが網膜の底に蘇ってきた。
「君、すぐタオルで拭いて。すいませんね」
歯科助手のふちなし眼鏡の表面には、弾け飛んだ洗浄水が霧状の膜をつくっている。
でも、何度見ても安心できる口腔だと思う。咽ちんこも、扁桃部もまさにそれに見えてとても淫らだ。舌の表面には舌苔すらない。それは明太子の表面みたいでいやらしいが、これがまた良いような気がする。
それでも、私は呟く。『口腔は裏切りを知らない純潔さをもつ』と。
診療室の壁は、すべてが淡いアイボリー一色でひっそりとしていて、シミひとつない室内は、適度な湿度をエアコンが完璧に維持している。ホルマリンとセメントの匂いに時折、エナメル質が焦げたような匂いが混じり、天井の丸い形をした埋込みのスピーカーからはBGMで『涙のカノン』が流れている。とても静かだ。
8席ある治療台は、すべての患者でうまっている。ゆだれ掛けの集団が一様に『あ〜』と口を開けてて、隙だらけの表情を作っている。だからこそ僕は、この空間で人から蔑まれることもなく、天職とやらに従事できるのだ。
ピンクの白衣をまとった天使のような女性達に囲まれて、とにかく私は狂いそうになりながら、仕事を遂行しなければならない。
でもね、タダで君たちの歯を見ることもないし見たくもない。これからも恐らく見ないだろう。僕が、君たちの歯を見る時は、患者として来院したときだけだ。合理的でいいだろう。それが、歯医者だ。汚い口腔をだれがまともに見てると思う?聖職?仁術?やすらぎ?信頼?地位?名誉?ボルボカーズ?そうだ、ボルボは少なくとも乗り回してみたいと思う。
ああ、私の唯一の愉しみは、言葉ひとつで惜し気もなく拡げられる口腔そのものだ。生殖器よりも、もっと明らさまに、押し拡げられる口腔。節操や道徳すらもだ液にまみれて、露骨で正直そのものだ。絵空事も空想も及ばないほどの真実がある。
「先生、裕美はうれしいです。これからもずっといろんな事、教えてくださいね」
愛人は、とても美しい微笑をかえしてきた。
「今日、先生の歯科医院へお邪魔していいですか?歯垢がついてれば除去してもらおうと思います」
「私は構わないけど、何だか照れるな。今朝も2度ほど愛しあったばかりだからね。でも、本当に君は、歯に気を遣っているんだね。だから、終わっても、キスをしながら舌で君の歯茎をマッサージしたくなるんだよ」
私は、左手で愛人のパジャマの上から、ショーツのラインを確かめるように撫で、右手で女のエラの部分を掴み、口を大きく開かせて「今日は、下着を着けないで来い。いいね」と言って、タバコのヤニくさい舌を前歯と唇の隙間に、ぬるりと押し込んでみた。
私は、あんなブスが、こんな美人になるなんて自分でも信じられなかった。
思考回路上に「整形クリニックなんて、いらない」という文字が浮かんできて、すぐに消えた。
「人の美顔には、歯並びがとても重要なんだよ」舌を左右に絡ませるように執拗にマッサージを試みた。
いつの間にか、こんなにも激しく舌を絡めて唾を貪ることを、覚えてしまっている。
「あうう、ああ」
愛人は口を開けたまま、ぼんやりとした目にセロファンがかかったようになっている。
「いいかい、服の下には、何もつけないで来院するんだよ」
昂まってきたのか、吐息のペースが速まってきた。
「先生の言う通りになんでもしますから、もっと愛してくださいね・・・」
一番最初の時に、白濁のなまぬるい液体が唇から零れ落ちて、それを両の手で掬いながら微笑んだ女の表情が、生々しくもリフレインされる。
「最後にエアーをかけます。口を大きく開いて」
「はい、よく見えますよ。あれっ!これは何だろう?」
歯科助手が怪訝な顔で、覗きこんできた。
「君、ピンセットとってくれる」
患者の方も不安げになりながらも平静を装っているように見える。
「はい、あ〜んして」
「歯に髪の毛みたいなものがはさまってます。取りましょう」
「なんだ、1本のちぢれ毛か」私はその毛をそのままステンレスのトレイにのせた。
その時、歯科助手が僕を指差して、遠慮するように言った。
「先生、なまずのようなヒゲが生えてますよ・・・・・・」
「えっ!何だって。私は人間だよ。両生類や魚といっしょにしないでくれないか」
歯科助手から手渡された手鏡を覗き込んでみると、唇の両端から1本ずつ長い毛が飛び出している。口を開いて見てみると、しっかりと八重歯にはさまっていた。確かに、なまずに見えないこともないなと思っていると、素朴な疑問が浮かんできた。
「何故、こんなところに毛がはさまっているんだ・・・・・・?」
僕は、はっとして患者の顔を見た。
「くくっ!」口を開いたままの女性患者はとうとう我慢が出来なくなったのか、大声で笑い始めた。
「ヒャハハハハハ。せ、先生、ウハハハハハ。先生が激しすぎるからですわ。みっともない陰毛だこと。オホホホホホホ」
歯科助手の目が点になっている。
「イ・ン・モ・ウ・・・?それって、あの陰・・・」
赤面していた私は咄嗟に気の利いた答えを探し出す必要があった。そして、「インモラルなインモウだな」と言ってはみたが、時すでに遅しであった。
ステンレスのトレイの上の1本の毛をよく見ると、黒々としていて若干カールがかかっていた。
「ということは、ふふ。これは僕のってことになるね」シリアスにこの場を取り繕う必要があった。
「で、先生の挟まったままのなまずひげは、私のですわ」女性患者は冷静に言ってのけた。
淡々とした会話のやり取りに、歯科助手以外は誰も気にとめてない風であった。
私は、シラを通しながら、そのなまずヒゲを引っ張ってみたが、なかなか取れそうになかった。
歯科助手が「インモラルは不道徳。不浄。ふしだら。猥褻などの意味もあるし、不倫なんかにぴったりの響きがしますね。うん」と真顔で呟いているのをみて、私は堪えきれなくなり笑うしかなかった。それなら、おまえの陰毛は清純で潔白なのかとも、言ってみたかった。
「インモラルな陰毛か。こりゃいいや。ハハハハハ」私は思い出したように笑った。
他の治療中の患者達もよだれ掛けをして、口を開けたままの格好で笑い転げている。
「ハハハハハハ。オヘヘヘヘへ」
床に壁に天井に、明るい笑い声が反響を繰り返していた。それは、待合室の人々がガラス越しに中を覗くほどの高らかな笑い声であった。
こんな冴えない昼下がりに、私のなまず顔だけが手鏡の中で、口を開いたり閉じたりして、とても苦しそうに映っているのが見えていた。
ひとしきり笑い終わった後、診療台から降りようとして、首に掛けた濡れ防止のエプロンをとった女性患者の黒いノースリーブのニットには、下着を着けていないということが一目で分かるような、2ヶ所の突起が出来ていた。
私は、動揺を隠せない表情で、「次の検診日は三ヵ月後でいいです」と告げた。
検歯鏡をふとした拍子に落として、即座に拾い上げようとした時、女性患者のベージュの短めの巻きスカートの裾から、黒いガーターのとめ金具とストッキングのレースが顔を覗かせていた。
白い太股が露わになったかと思うと、女性患者は、おもむろに脚を大きく広げてみせた。
私は、淫猥な翳りの露出に思わず息を飲んで、一瞬、女の顔を見上げると「ああ、口を覗くみたいに見ないで」と消え入るような声が聞こえた。
女は、私との約束を守っていた。
下腹部がきゅんと締め上げられる感触が沁みてきて、慌てて立ち上がろうとした瞬間、頭部をトレイの乗った作業台の腕の部分に力の限りぶっけてしまった。
エタノールのビンや脱脂綿入れやドリルのチップやピンセットやハサミなどが、賑やかなパレードのようにスローモーションで、順番に降ってきた。
静謐な輝きを保ったタイル面で、それらは順番に跳ね返り、ガラスの破片の飛び散る音とともに、四方へ散らばっていった。
反響する音の中で、予期せぬ絶望にへたり込みながら、「私は滞るだけの人間です」と、敢えて呟いてみた。
診療室を出て行く女の見事な臀部が、すべてを凌駕しているようにも見えて、私は暫くの間、女の後ろ姿を見送った。
後には、私に内在する幾つかのプライドが、羽ばたきを失ったコウモリに化けて、うす闇の天井からひらひらと落ちてくるだけであった。
Entry5
蛾と右腕
狭宮良
ああ、腕、一本なくなったよ。そんな台詞に相応しい表情が全体どんなものか分からなかったから、取り敢えず薄ら笑いでそう報告するとヒセイはあまり明るくない顔をして此方を睨んだ。
「見れば解るさ」
痛いだろ物凄く。麻酔効いてるのか、彼が寝台に腰を下ろすとその粗雑な造りはあちこちが五月蝿く軋む。
腕がなくなったと云ってもその瞬間の憶えがない所為で喪失感に欠ける。結果として得た知識のようで、つまりそれがどんなことなのか身に迫って来ないのだ。あのとき失神していなければ少しは違っていたかも知れない。何度辿ってみても、記憶にあるのは爆風に飛ばされたあたり迄だった。
「僕が転がってるあいだに終わったんだろ、隊はどうなった」
ヒセイはちらと窓の外を窺い、そうだセイカは後から見舞うってさ、一人で会いに来たいらしい、と付け加えた。
もう夕刻と呼べる頃になっていたが屋外は未だ十分に明るい。本国を遠く離れたこの土地柄がそうさせているのだ。異国の地でありながら何処か懐かしい風がある。
――それで
「御前が生きてたのは運の御蔭だって、医者が云ってたよ」
「残存兵力は」
質問を流そうとする彼に再度尋ねる。
彼は今丁度ツヅラの存在に気付いたばかりとでも云う様に、一人芝居的な瞬きをしてツヅラの血に染まった包帯を眺め、それから考え込む素振りをした。
考えて思い出す様なことでもないだろう、どうなったんだ
確かにヒセイの云うとおり傷は真面に話せない程痛む筈だったが、身体中が混じり合った幾種類もの悲劇的な感覚に支配されていて何が何の為に痛んでいるのかはっきり識別することが出来なかった。或る意味で鈍って仕舞っているらしく自分の肉体と意識のあいだに隔たりがある。
「二割も残ってない。御前も含め負傷してる奴も何人か」
じゃあ殆ど死んだのか、ツヅラの確認に彼は頷く。
「僕は……本土に送還だろうな」
片腕がないんじゃ使いものにならないだろうし、まあ無事に帰れるかどうかだ。
ヒセイは聞きながら全体の均衡を欠いた身体を暫く見ていたが、ツヅラの視線とぶつかると緩慢な動作で眼を逸らした。口許が何かに耐える形で歪んでいる。
「どうした、御前も何処かで怪我したのか」
――否、腕が
彼は首を振って寝台を降り此方を俯瞰して立った。その客観に努めようとする姿勢に、まるで医者と話しているみたいだ、とふと連想する。
腕? 僕の?
「片腕失くしたんだぞ、何でそんなに平然としてるんだよ、これからどうする気なんだ」
「どうって」
予想以上に強い語調で責められてツヅラは途惑った。どうする、と問われても、当座何をすべきなのかさえ自身の決められる事柄ではないのだ。そう云おうかとヒセイを見上げたが彼は口を結んで動かなかった。
それは哀れみだろうか、それともまた別の怯えなのだろうか。
――僕の腕のなくなったことが辛いの、そうじゃないだろ
何が怖い?
「俺は腕も命も失くしたくない」
「ああ」
病室のなかは静かでやたらに話し声が通った。
他に傷病兵を見舞いに来ているのはもう一人だけで、ヒセイより先に訪ねて来たにも関わらず未だにじっと座っているし、二時間くらい前まで盛んに騒ぎ呻いていた隣の患者はいつのまにか大人しくなっている。眠ったか、もしかすると体力を無駄に使って死んだのかも知れない。
人の死ぬのをそれほど多く見た訳でもないけれど、それでもこんな生活に身を置いているうちに、死と云うものが単純な可能性として考えられる様になって仕舞った。
「そうは思わないのか、俺にはそれが戯けてる様にしか見えないんだよ」
帰ればもっとずっと苦しむに決まってる、今御前がへらへらしてるのに腹が立つんだよ。
解るか?
俺ならそんな風に笑わない、ツヅラ御前何処か狂ってるんだ、彼は唇を噛んで吐き捨てる。曲がりなりにも見舞いと云いながら怪我人にはあまりな態度だと、傷の痛みより彼の一言の方が骨に当たった気がしたが残念なことにツヅラにはそれを否定する根拠が見当たらなかった。
「野戦病院なんかで鋸で切られるより余程良いさ。実際気絶していたんだし」
「そんな比較の話はしてない」
解ってるよ、御前の云いたいことは皆解っているけどだからってどうすりゃいいんだ、泣き叫べってのか
血塗れで戦場に落ちてるのは僕の腕でヒセイのじゃないだろ、云いたいことがあるなら自分で云えよそれくらい
馬鹿馬鹿しい泣き言が空の胃を疼かせる勢いで次々に浮かんだのに、結局そのひとつも声帯を抜けることは出来なかった。
「まあ何処かおかしいのは認めるよ。慣れたんだ多分」
彼が感じているだろう恐怖も嫌悪も身に覚えのないものではないから。
口に出してみても益なく息が詰まるだけだ。これは日常ではないと、幾らそう云い聞かせていてもいつか境界は危うくなる。
「自分のしたことが人を殺しているのにも、僕等歩兵が代わりの利く消耗品だってことにも」
周囲の情況を察すれば怪我をするくらいは当然であって、何を恨むにしたってもう恨み様がないのだ。たとえ誰でも、一人にどれだけ重いものでも。
僅かずつそれぞれに伴う痛覚が輪郭を持ち始めていた。自身の耳にも譫言と変わらない響き方をしていたのが、やっと使い慣れた声として聴こえる。神経が正常に戻って来たのだ。
――云っただろう、人は何にだって慣れることが出来る
寧ろその中身が非現実的に思えた。何故こんな話になったのだろう。
痛み止めだと気休め程度に打たれた麻酔も効力を失う頃合いであるらしく、断続的に耐え難い苦痛が襲う。
「仕方ないんだ」
慣れたよ、もう良いんだそれはさ、どうせ本当に苦しいのは帰ってからじゃないか。
死ななかっただけ運が良いと云うとヒセイは首を振って否定した。
「違う」
「何が、医者がそう云ったんだろ」
「俺は御前が死ぬとも負傷するとも思ってなかった」
ああ、此奴は前線にいてなお人であることが如何に愚かしいかを知らないのだ。
もし知っていたなら、浮かぼうとも口に出せはしないものを。
彼の表情をこれ以上見たくはなかったので当たり障りのないように窓の方へ眼を移す。
元より頭が低い位置にあるから見えるのは空くらいのものだが、それも徐々に光を落として来ていた。亜熱帯の夕が漸く大気を覆いつつある。
虫の入らない様にと窓は閉められていたものの――その所為で病室の空気はひどく澱んでいる――昆虫や草や、そう云った小さきものたちの匂いは否応なしに感じられた。歯の根の合わない侭で自動小銃を構える戦友の横に、麻袋を積み上げて造った粗末な土塁の側に、常にあったあの匂いだ。
濃縮された生命の匂い。
この国で泥と馴れ合っているうちに、それは皮膚深く染み付いて仕舞った。だからこれほど強く届くのかも知れない。
「窓開けて」
駄目だろ、良いからさ、この空気は身体に悪いよ、でも虫が……気にするなって。ツヅラが云い募るとヒセイは渋々ながら木枠を引き上げた。
今にも壊れそうな音がしたが無事に留め金が下り、ヒセイは安堵の息を吐く。これで本当に壊しでもしたらどれだけ叱咤されるか分からない。
ああ外も大分涼しくなってるな
――生きものの匂いがする
え?
――あの青臭い奴
怪訝そうな顔にそう教える。
彼は窓枠に手を掛けた格好で半身を捻ってツヅラの様子を窺い、ツヅラが彼を見ようとしないのが判るとまた外の景色へ向き直った。
景色とは云え特に美しくもない林が暮れてゆくだけだ。せめてもの救いはそれらの雑多な木々に見慣れないものが多くて、病院、と呼ぶ様な高潔で慎ましい印象には相容れないことだろうか。
「この湿気の匂いが」
「そうかもな」
寝台のうえから臥して仰ぐ彼の睫毛が下りて、心持ち間をおいてから開いた。それを注意して眺めながら、人間はなんて精巧に出来ているものかと今更ながらに驚く。その正確さと脆さは全ての人間に分け隔てなく与えられているのだ。
彼は未だ夜の敷居あたりにある戸外の色を見詰めた侭で小さく唇を開き、ややあって声に出す方を選んだ。
「……御免」
「何だよ急に」
いや、だから
謝ったは良いがその続きまでは考えていなかったらしく、訊き返されたヒセイは口籠った。
「だから、怒っているかと思って」
「どうして」
何て云うか、怪我したのは御前で俺じゃないからさ、いやそんな意味でもないんだけど。
懸命に説明を試みて舌打ちをする彼の言葉にツヅラは思わず苦笑した。同じだ。
泣き言も弱音も、云おうが云うまいが所詮は同じ戦地の兵士のものではないか。それを何をもって彼には知れないものと、ただ許そうとしなかったのだろう。
――解ってるじゃないか
笑った為に恐ろしく腹が痛かったがそれを無理矢理に押さえ付けて話す。彼と言葉を交わす機会などもう幾らもないのだし、そう思えば耐えるのもごく短いあいだに限られていた。
「御免」
「否、其処じゃなくてさ、死んだりしないよ御前は」
別に怒ってなどいない、そう云うとヒセイは拍子抜けした風な顔で此方を向いた。兎に角相手が喧嘩腰になるのに耐えるべく構えていたのだろう。
不様にも生き延びようと足掻くことが、一度何かを失ってみればこんなにも愛おしい。
――死ぬかも知れないとか死んでも良いとか、そう思ってる奴から死ぬんだ
彼の木賊色の眼が雄弁に、と云うよりは器用に迷いと疑いとを語る。その器用すぎる分かり易さに、今云って仕舞おうとしていることが本当は途轍もなく下らない、または意味のないものではないのかと引き摺られそうになったが辛うじてツヅラは続けた。
「御前は五体満足に国に帰って長生きするんだよ。良いか、死んだ奴等を踏み付けてでも」
それはきっと彼だけにではなく死線に夜を明かす人々に総じて迫る問題である筈だ。誰もが感じていて誰もが言及を避けている、しかし今割り切らないのなら一体いつまでこの息を存えることが出来るのか、他のどんな人間よりも自らを、それから親しい者を惜しむことの何が悪い?
此処では全てに優劣があり、守るべきものと捨てるべきもののふたつに峻別されるのだ。大義であれ一身の絆しであれそれは変わらない。
「口でそう云わないと御前には呑み込めないだろうから」
右の肩が妙に熱い。
熱い、と簡単に云って仕舞うと語弊があるのだけれど、火傷のあとを氷で冷やすときの様に、熱感と冷感が入り交じっている。ただ冷たいと表現するのも間違っているから熱いと云ったまでだ。
これを悪寒と呼ぶのだろうかと聞き憶えのある語彙を探ってみる。
生来が丈夫で風邪にも殆ど熱を出した経験のないツヅラには分からなかった。
ヒセイが窓を離れて寝台に寄る音がした。枕に耳をつけて振動を聴けば、木張りの床はかなり良い加減な俄か造りであるのが判る。
彼は黙り込んだツヅラに触れようとしたが、傷への気遣いからか延ばしかけた手を途中で収めた。
――身体の丈夫なのだけが取り柄だったんだけどな
そうして呟くと彼が顔を顰め、手紙は届くよな、と云った。暇があったら手紙を書くからさ。要らないか。
「僕に?」
「他に何があるんだよ」
確かにその通りだけれど、思考が相手の話を理解する迄に追い付かないのだ。話しているだけで精一杯なのだと実を明かして仕舞った方が良いのかも知れない。
「届かないよ、宛先が分からない」
「教えろよ」
「僕にも分からないんだよ」
要らないって手紙は、来ても来なくても気になる様なものは要らない。
ヒセイの応えはなかった。
「生きてれば会えるだろいつかは」
「御前が脱落して俺が残って、会える訳がないじゃないか」
良いのだそんなことは。
収束の兆しも見せないこの争いが終わりさえすれば、御前がそうして怯えることさえなければ。そう云ってみようかと思いはしたが、その侭云ってみても意図するところが正しく伝わるとは限らないので止めておいた。
傷みに頭が眩々する。眼を開けていることが出来ない。
瞼を下ろすと不意に夜が近くなった気がした。ヒセイの云う湿気の匂いが肌のおもてを覆い、渇いた喉とまるで関係なく汗が流れる。
――南国らしいな
何が
――何でもない
腹が痛くとも声を出したなら、耐えるのに比べれば少しは楽になるだろうか。
「もう戻れよ、点呼があるだろ」
隣の患者のように騒ぐ姿を曝したくはなかった。
ツヅラ自身は先刻横で散々暴れるのを眼にして承知していたが、それを知らないヒセイは驚くに違いない。大方また怒っているとでも思われているのだろうがそれは仕様がなかった。
床が何だか陰惨な雰囲気でギイと鳴く。似合わないな、とツヅラは思う。全然似合わない。此処には市の鮪の如く寝転んでいる人間しかいないのだ。これを陰惨と云っては置いて来た腕が報われない。
「晩飯に喰い逸れるしな……窓閉めるぞ」
「開けておけよ勿体ない」
「御前じゃ閉められないだろ」
「閉めたら黴びる」
何だよそれ。直接そうと見なくても彼が眉を寄せて困惑しているのが声色から判じられる。でも濁った室内を呼吸し続けていると、水が全部汗になって干涸びるより前に黴が生えるのではと危惧するのは本当のことだ。
――なあ湿気なんかじゃなくてさ、生命の匂いがするだろ
多分ずっとしてるんだ。明日も明後日も
「僕は国に帰るよ早く帰りたいこんな黴臭い場所にはもう居たくないんだ」
これ以上何を吐けと云うのだろう。吐き出したその分だけ自身が磨り減っていくばかりなのに。実感などなくとも失くしたものは其処にはないのだ。
「御前が腹を立てたって変わらない、慣れるんだ」
「でも」
「もう良いよ、喋ると相当痛いんだこれでも」
あまり持ち上がりさえしなかったが残った左手で追い払う仕草をしてみせる。これがわざわざ見舞いに足を運んだ相手にすることかと自分でも情けない。
「セイカに宜しく」
離れていく足音にそう呼び掛けると、二秒程の間のあとに元気だったと伝えておくよ、と返事が聞こえた。果たしてセイカは見舞いに来るだろうか、定かに断じることは出来ない。
ヒセイはもう二度は来ないだろう。考えてみれば結果的には随分下らないことばかりをぶつけて仕舞った様な気がした。
さよなら
「生きていれば会える」
戸口の方へ頸を回して眼を開くと、彼が丁度框を跨ごうとする処だった。ギイイ。ほらどんなに陰惨な声を出してみたって床なぞには何ひとつ解っちゃいないじゃないか。
ヒセイはほんの少し笑みを浮かべて振り返った。
ああ、やっと笑った。笑え。そう云って遣りたくても云えなかった。
彼の背が廊下に消え、軍靴に独特の低い音が去っていく。蛾か何か大きくて派手な虫が入って来ると良いのに、亜熱帯の蛾ならば大きいだろうと待ってみたものの、白熱灯に誘われた羽虫共が天井のあたりに影を作っているのしか見当たらなかった。
生死もはっきりしないと思っていた隣の寝息が嫌に規則正しく響く。あまりにしんとした病室の覚束なさに他の音を探したが、外は風もないらしく窓が開いているのにまるで水のなかの様だった。
悪寒がする。
強く濃く、我身の血と、それから生命の匂いがしていた。
Entry6
作家志望
narutihaya
僕の指はぴくりとも動かなかった。完全なまでに、全く僕は書けなかった。僕の頭の中にあったはずのイメージは、僕の両手がパソコンのキーボードに触れた途端、瞬間冷凍にでもかかったみたいに固まってしまうのだ。それは、ほんの少しの刺激で粉々に砕け散ってしまう。
僕は毎日の様にパソコンの前に向かいながら、結局はテレビを見たり、リンクをたどったりして、夜を迎えていた。多くの場合、気がつけば時計の針は真夜中をさしていて、目と肩の疲労感だけが、僕に一日の終わりを告げるのだ。
僕はそんな毎日に、自分が少しずつ無くなってしまう様な嫌悪感を覚えていた。大学を出て以来、僕はもう8年もそんな時間を過ごしていて、気がつけばあと数時間で、僕はついに30回目の誕生日を迎える事になる。
人生における一つの区切りを迎えるにあたって、僕はついに一大決心をした。
僕は部屋を見渡し、目につくものを片っ端に押入れに放り込んだ。部屋の中が、机とイスとパソコンだけになったら、次に僕はシャワーを浴び、冷蔵庫を開け、中にあるものを片っ端にたいらげた。しばらくして僕はトイレに行き、ゆっくりと念入りに用を足し、最後に玄関に「しばらくの間、留守にします」と張り紙をして、窓や扉に鍵をかけた。カーテンを締めきり、電灯を消す。真っ暗な部屋にパソコンの画面だけが浮かび上がり、10本の指がキーボードの上に照らし出された。
「今日書けなかったら、もう作家はあきらめよう」
僕はそう決めたのだった。
しばらくの間、僕は点滅するカーソルを眺めていたが、そのうちにパソコンの電源も切ってしまった。部屋に一層の沈黙と暗闇が降りてくると、急に部屋の温度が下がった様に感じられた。暗闇が6畳一間のささやかな空間を果てしなく押し広げている。僕は椅子から腰を下ろし、両膝を抱えて目を閉じた。そして、この8年の間に抱え込んできた様々なイメージを順に思い返していく事にした。
それは、作家志望である僕が、一つの物語に育てていくはずのイメージだった。それは確かに、僕の中で僕に固有のものとしてあったはずなのだ。でも、それらは文章になった途端に形を変え、時には消えてなくなってしまう。書けば書くほど、文章は僕の下を去っていき、どこかの他人の匂いをさせて帰ってきた。そうして8年間積もり続けてきた出来損ないの言葉達が、今、僕を押しつぶそうとしている。
僕は暗い部屋の中で、一人頭を抱えた。そして考えた。僕はなぜ作家を志したのだろう。大学や高校時代の友人が、就職し結婚し、着実に人生のある一つのステップを昇っていく中で、僕はフリーターで、月15万にも満たない給料で、彼女どころか友人の一人もいない生活を送っている。そして、それは全て作家になる為に選んだ道のはずだった。
僕は作家になる為に、全てを犠牲にして文章を書いてきたのだ。そして、文章を書く事が、僕の人生に何かを与えてきたはずなのだ。
僕の頭の上で、おびただしい数の言葉達がいっせいに首を横にふった。そして僕は気づいた。
「むしろ僕は失ったのか」
僕は暗闇の中で一人つぶやいた。そして、なにかの潰れる音を聞いた。
玄関で鳴り続けるチャイムに僕は目を覚ました。どれくらい眠り込んでいたのだろう。時計を見たかったが、それは押入れの中にある。チャイムが再び鳴った。部屋の明かりをつけながら、僕は思った。たぶん、宅配便が部屋を間違えているのだろう。ここ数年、僕あてに荷物が届いた事なんかないのだ。仕方なく、僕は扉を開けた。
すると、そこには運送屋ではなく、一人の男が立っていた。40代くらいだろうか。トレーナーシャツに、綿のズボン、テニスシューズを履いている。男は「はじめまして」と言った。どこかで会った様な気がした。でも、名前は思い出せない。男の肩越しから見える外はまだ暗く、男の背後から冷たい空気が部屋へと入り込んだ。
「あの、あがらしてもらってよろしいですか」
男が聞いてきた。僕は答えた。
「えっと、どちらさんでしたっけ」
「申し遅れました」
男は微笑みながら言った。
「村上春樹と申します」
机と椅子とパソコンしかない殺風景な部屋で、僕と村上さんは床に向かい合って座った。村上さんは紙袋からサンドイッチと缶ビールを取り出し、「よかったら食べませんか」と言った。しばらくの間、僕らは黙ってサンドイッチを食べ、缶ビールを飲んだ。すると、村上さんが口を開いた。
「narutihaya君、でいいのかな」
「あ、はい。あ、あの、なんで知ってるんですか」
「インターネットのあるサイトにあなたの作品が投稿されてたでしょう。えと、なんてったけなあ。なんとかブックス」
「Qブックスです」
「ああ、そうそう、それそれ。Qブックス。で、そこで、あなたの作品を読んでね。どうも気になったもんで、今日、突然来ちゃったわけなんですよ」
僕は驚いた。僕の口から食べかけのサンドイッチがぽろっと落ちた。空いた口がふさがらないとは、まさにこの事だ。そして僕は理解した。これは夢だ。間違いなく夢だ。
その後、僕は村上さんとお互いの文章についていろいろと語り合った。どうせ夢なのだからと僕は言いたい事を言った。村上さんの書く文章は僕のと似てますとまで言った。あくまでも、村上さんが僕に似ているのであって、僕が村上さんに似ているのではないのだ。
「実は、僕、あれ書く時、『ノルウェイの森』を読みながら書いてたんです」
「君は、書く時はいつも何か読みながら書くのかい?」
「いえ、たまたまです。あの時は『ノルウェイの森』だけじゃなくて、ホーキングの本も読んでたんです」
「ホーキング?」村上さんは少し首をかしげた。
「いえ、あの、作家さんじゃなくて、理論物理学者の」
「あ、あの車椅子の」
「そうです。宇宙の事とか、ブラックホールの事とか書いてある本です。そのホーキングの本と、『ノルウェイの森』をかわるがわる交代に読んで、そして、あれを書いたんです」
「なかなかおもしろい組み合わせだね」
「そんなに、おもしろいですか?」
「『山が崩れて海が干上がるくらい』おもしろい」
よくできた夢だ。できすぎなくらいだ。僕は話題を変えてみた。
「実は僕、もう書く事をやめようと思うんです」
僕は作家を志してからこれまでの生活の事や、ここ数年、一行も文章が書けないのだという事を話した。村上さんは表情一つ変えず、静かに僕の話を聞いていた。僕が話し終わってしまうと、彼はしばらく考えてから言った。
「一つ質問していいかな」
「どうぞ」と僕は言った。
「君は作家になりたいから、文章を書いている」
村上さんがじっと僕の目を覗き込んだ。
「という事で、いいのかな」
僕の答えを待たずに、村上さんは続けた。
「人には、小説を読んだり音楽を聴いたりして、ある種の悲しみを癒そうとするケースがある」
僕は頷いた。
「そして、中には文章を書く人もいる。これは例えばの話だけれど、『ノルウェイの森』だって、そうした背景をもったものなんじゃないかと、君は思わなかったかい?」
そうだ。確かにその通りだ。僕はあの本を読みながら、村上春樹という人の抱く悲しみの様なものに触れた気がしたのだ。僕からすれば、それは村上春樹にだけではなく、太宰治にだってあるし、桑田佳祐にだってあるし、路上のホームレスがダンボールに書いた短歌にだってある。そして、僕にはなんとなく、それらの全てがある一つの方向を向いている様な気がして仕方がないのだ。
「つまり」僕は言った。
「僕は悲しみを癒す為に、文章を書いている」
僕は村上さんの目を見つめた。
「という事になるんでしょうか」
村上さんは答えなかった。しばらくして玄関のチャイムが鳴った。
「どうやら、僕は行かなきゃいけない様だね。次のお客さんがお待ちの様だ」
村上さんは席をたち、するすると玄関へ向かった。
僕は村上さんに言った。
「海辺のカフカ、まだ呼んでないんですけど、読んだら感想送ってもいいですか?」
村上さんは振り返って言った。
「海辺のカフカ。ああ、あれ、すごい売れてるんだってね。実は僕もまだ読んでないんだ」
村上さんは、ふふふと声が聞こえてきそうな表情をして言った。
「僕は彼とは同姓同名なんだよ」
そうして村上さんは出ていった。そして、入れ替わりに入ってくる人物は、やはり車椅子に乗っていた。「はじめまして」と、僕は恐らくは英語で言った。イギリスから来たであろうその科学者は、その言葉を無視するかの様に、音もなく車椅子を部屋の中央へと滑り込ませた。
僕は彼と向き合う様に置いた椅子に腰かけ、とりあえず、彼の本を読んだ事を告げてみた。相変わらず彼は沈黙を守り続ける。僕は車椅子に備え付けられたコンピューターを眺め、次に、その後ろにある彼の顔を眺めた。確か、そのコンピューターを操作する事で、彼は人口の音声で会話を交わす事が出来るはずだった。彼の沈黙が、彼の言語能力によるものなのか、それとも彼の意思によるものなのか、僕には分からなかった。
「あなたと入れ替わりで出て行った人が、僕は悲しみを癒す為に文章を書いているというんです。でも、僕は思うんです。僕はいったい何を悲しんでいるんだろうって」
僕はもう一度、彼の顔とコンピューターを見た。彼の目が一瞬まばたきをした様に見えた。僕は続けた。
「『宇宙は創造もされず、破壊もされない。宇宙はひたすら存在する。』とあなたの本にはありました。実は僕も昔から似た様な事を考えていたんです。宇宙というものは、実はある一つの完全な存在で、そこに一つのヒビが入る。もしくはヒビのある存在としてあったのかも知れません。とにかく、そのヒビはどこまでも細かく割れ続けていくんです。そして、どこまでも割れ続ける欠片の一つが、この地球であり、人間であり、僕なのだと思ってきたんです。僕らの日々の生活には、楽しい事があったり悲しい事があったりするのだけれど、ただ存在する宇宙にあっては、そこには何の意味も理由もない様に思えるんです。あなたは『人間原理』というものを適用して、こうも書かれました。『われわれが存在するがゆえに、われわれは宇宙がこのようなかたちであることを知る』と。そして、僕はあえてこう言います。僕らが存在するがゆえに、僕らは人生に意味や理由があることを知るのです」
彼も、彼のコンピューターも、物音一つ立てようとはしなかった。彼らはただひたすらに、そこに存在するだけだった。僕の発した言葉が、読まれる事のない小説の様に、部屋の片隅に放置されようとしていた。
「なんの事だか、さっぱり分からないね」
突然の声に、僕はつい部屋を見渡した。そして、二回ほど首を往復させた後、目の前に座る車椅子の男を見た。男は言った。
「宇宙だとか、人生の意味だとか、そんな難しい事は、私にはさっぱり分からない」
日本語で、自らの口で、彼は続けた。
「私が君に言えるのは、歩く事も話す事も、息さえ自分で出来なくなっても、それでも人は、文章を読んだり書いたりするという事だけだ」
それだけ言ってしまうと、彼は満足した様に微笑みを浮かべ、するすると玄関へと向かった。その背中に僕はつぶやいた。
「あなたも、同姓同名ってやつなんですか」
彼は言った。
「なんの事だか、さっぱり分からないね」
そして、腰をひねり振り返った。
「私はただの車椅子の男さ」
そう言って、彼は親指を立てて、にやりと笑ったのだった。
真っ暗な部屋の中で、僕は目を覚ました。起き上がって窓を開けると、朝の空気が部屋を満たし、柔らかな日差しが僕を包み込んだ。
僕は全くの空白だった。でも、それは自由という名の空白だった。その空っぽな人生に、自分で新しい意味を与えればいいのだと僕は思った。僕は人生の真実を見つけたのだ。もう僕に文章を書く必要はない。もう僕は作家志望ではない。
僕は部屋を元に戻し、シャワーを浴び、コンビニでサンドイッチを買ってきた。僕はそれを食べながら、そういえば村上さんのサンドイッチには味がなかったと思った。
すると、玄関のチャイムが鳴った。「まだ続いてたりして」と僕はつぶやいた。扉を開けると、そこには晶子が立っていた。彼女は僕をしばらくの間見つめて、「元気?」と言った。「元気だよ」と僕は答えた。
小さなテーブルをはさんで、僕らは座った。彼女は言った。
「ホームページにね、『もう終わりにする』って書いてたでしょ。携帯も出ないし、家の電話も不通になってるし。で、私なんだか心配になって」
彼女は大学の2年下の後輩だった。当時、サークルで知り合った僕らはつきあいこそしなかったが、卒業して8年経った今でもメールをやりとりしたり、時々飲みにいったりしていた。学生の頃、僕は彼女の事が好きだった。今はどうなのかと考えても、僕にはよく分からない。でも、とりあえず、彼女はnarutihayaであるネットでの僕と、現実の僕との両方を知る唯一の人間だった。
僕は彼女に尋ねてみた。
「今日は休みだったの?」
「辞めたの。先月」
少し、うつむき加減にして彼女は言った。会社を辞めてしばらくの間、彼女は部屋にこもって、僕のホームページの小説を読んでいたのだという。
「それでね、私思ったの。あなたはなにかをすごく悲しんでるんじゃないかって」
僕は彼女の小さな肩を見た。そして、その肩を抱き寄せたいと思う自分に気がついて、驚いた。僕は大学を出て以来、彼女にだけは、性的な衝動を覚えた事がなかったからだ。
「それはもう終わったんだ。僕は書く事をやめるよ」
彼女は顔をあげて、僕を見つめた。
「どうして?」
「君という意味を見つけたからさ」
そう言って、僕は彼女を抱き寄せ、キスをした。
それは、とても空虚なキスだった。彼女の口の中は空っぽだった。彼女の肩はがらんどうの様に軽く、何のぬくもりも感じられなかった。そうなのか、と僕は思った。
「わたし、そろそろ行かなきゃ」
そう言って、彼女はするすると玄関へ向かった。
「そうだね。僕もそろそろ起きなきゃいけないし」
僕は言った。僕はまだ終われないのだ。
「夢はいつまでも見続けられるものじゃないのね」
ドアノブに手をかけながら、彼女が言う。
「夢はいつまでも見続けられるものじゃない」
僕は彼女のセリフを繰り返した。
「なんだか、どこにでもある様なセリフだね」
「そう?」
「ほんとに、どこにでもある様な話だよ。これは」
たぶん、それは現代の多くの人が抱えている率直な感想なのだ。
「いいじゃない。あなたはどこにでもいる様な人なんだから」
「つまり」僕は言った。
「僕の悲しみというものは、どこにだってある様な悲しみなんだね」
彼女は少し考えてから言った。「そうよ」
「どこにだってあるようなものなのよ」
彼女はそう言い残して、扉を閉めた。
真っ暗な部屋の中で、僕はひとり目を覚ました。
文中の引用元は以下です。
『山が崩れて海が干上がるくらい』
→ 村上春樹著 「ノルウェイの森」(下) 講談社文庫 p154
『宇宙は創造もされず、破壊もされない。宇宙はひたすら存在する。』
→ スティーブン・W・ホーキング著 林一訳 「ホーキング、宇宙を語る」 ハヤカワ文庫 p194
『人間原理』『われわれが存在するがゆえに、われわれは宇宙がこのようなかたちであることを知る』
→ 同 p177
Entry7
牛男
黒男
人は俺を「牛」と呼ぶ。
自分で言うのも何だが、俺の男ぶりはすこぶる悪い。肌の色は黒く、両眼は窪み、口は獣のように前へ突き出ている。おまけに傴僂でびっこときたもんだ。
俺は、俺の親父について何も知らない。物心ついた頃から、魯国康宗の邑で、お袋と二人で暮らしている。顔も知らない親父の事を尋ねてみても、お袋は悲しげに首を振るばかりで、何も教えてくれない。
不義の子。世間の奴らは俺をそう呼んで、蔑みの視線を向ける。どうやら、親父とお袋の関係は「野合」だったようだ。だから俺は、天と祖宗の霊とに認めてもらえぬ子、すなわち犬畜生にも劣る存在というわけだ。へっ、莫迦にしてやがる。俺様は人間だ。誰が何と言おうと人間だ。
俺は毎朝、むしろを売りに市へ向かう。道行く誰もが、不格好にびっこを引き引き歩く俺の姿を見て嗤う。牛、牛と叫びながら、餓鬼どもが俺に石を投げつける。それでも俺は怒りもせず、卑屈な笑みを浮かべて奴らに応える。
「むしろ、むしろはいらんかね!」
俺は自分の醜さを、愛嬌に変えようと努力した。何のために? それは俺にもよくわからぬ。が、俺は道化に徹することで、他人の腹綿の奥底まで見通すことができるようになった気がする。
俺は確信をもって断言する。醜悪――人間というものを語るのに、この言葉以外は必要ない。どいつもこいつも、俺を嘲笑し、嫌厭し、獣以下の存在であると決めつける。しかしお前達はどうだ? 一皮剥けば私慾の塊じゃないか。利のためなら他人を欺き、腹が減れば我が子さえも喰らう。そうした獣性こそ、人間の本性なのだ。
俺は人間なんてみんな、大嫌いだ。ただ一人、お袋を除いては。
お袋は貧しい家計をやりくりしながら、俺に学問をさせた。正直、俺は書を読むのが苦手だった。愚かしい人間の分際で、自らを尊いものと信ずる古人の言葉など、笑止千万である。大国が小国を蹂躙し、臣下が君主を弑するこの乱世において、美辞麗句ほど空しいものはない。それでも、お袋の喜ぶ顔が見たかった。それに学問があるという事は、将来、何かしらの役に立つかもしれぬ。そう考えた俺は、黙ってこの苦行に堪えた。
十四歳の春を迎えたとき、俺の人生に転機が訪れた。
――父親に会わせる。
そう言って、お袋は、今まで語ることのなかった出生の秘密を、俺に明かしたのである。驚くなかれ、俺の父親は、魯の上卿・叔孫豹だというのだ。叔孫家といえば、季孫家・孟孫家とともに魯の国政を牛耳り、君主以上の権勢を誇る名門ではないか!
お袋の話はこうだ。今から十四年前、叔孫豹が兄の僑如と仲違いをして、斉国に亡命する途中、康宗の邑に立ち寄り、この家に宿を借りた。そのとき、お袋は実の兄に追われる彼の境遇に同情して一夜を共にした。翌朝、叔孫豹は斉へ向けて発ち、やがてお袋は俺を身籠もったのだという。
二ヶ月ほど前、叔孫豹が亡命先の斉から帰国したという噂は、この邑にまで届いていた。そこでお袋は、俺の将来を実父に託す気になったらしい。
「お前ももうすぐ成人です。父上のお役に立てる立派な人間になるのですよ」
お袋の口調からは、叔孫豹に対する烈しい恋慕が感じられた。
莫迦な女だ。俺は心の中でそう呟いた。叔孫豹にとって、お袋との関係は、ゆきずりの愛以外のなにものでもない。今さら訪ねたところで、迷惑がられるだけではないか。
お袋はこの十四年間、夫を迎えることもなく、ひたすら俺の養育だけに専念してきた。野合の子である俺を、身を挺して庇いつづけた。それもこれも、叔孫豹に対する一途な愛情の現れだったのかも知れぬ。そう思うと、俺は言いようのない怒りと悲しみとに襲われた。
魯国の首都・曲阜についた俺達は、手土産の雉を持って叔孫豹に面会を求めた。家宰の杜洩という男に案内されて、邸内に入る。
客間に、初老の男が立っていた。
「お久しゅうござる」
男が言った。お袋が無言で拝跪する。どうやら、この男が叔孫豹らしい。
「あの折は、お世話になり申した。ご壮健で何よりでござる」
「わたくしの子が大きくなりました。あなた様に雉を献じたいと申しております」
お袋が、うつむきがちに言った。
叔孫豹が眉をひそめる。お袋の言葉の真意を悟ったらしい。
雉を手に、俺は叔孫豹の前に進み出た。その途端、叔孫豹の眼が大きく見開かれ、俺を指さして叫んだ。
「牛!」
俺は驚いた。思わず「はい」と返事をした。
「間違いない、この者だ」
と、叔孫豹は興奮気味に言った。俺はお袋と顔を見合わせた。何のことやら、さっぱりわからない。
汝は命の恩人である、と叔孫豹が語り出した。――数年前、斉に滞在していた折、儂は重病にかかり、一時は生死の境を彷徨った。夢の中で、漆黒の天が自分の上に落ちてくる。その重みに圧殺されそうになったとき、傍らに一人の男が立っているのに気づいた。色の黒い傴僂で、眼が深く窪み、唇は獣のように前に突き出ている。そう、まるで真っ黒な牛のようであった。牛よ、助けてくれ。苦しさに堪えかねて儂が救いを求めると、傴僂の男は天を支え、やがてそれを押しのけてくれた。助かった、そう思った瞬間、夢から醒めた。その日から、儂の病気は少しずつ介抱に向かった。こうして魯国に戻ることが出来たのも、すべて汝のおかげである。……
「嘘ではないぞ。ちゃんと証拠もある」
夢の中で自分を救ってくれた男について、記録を残しているのだという。叔孫豹は、杜洩が持ってきた古い竹簡を読み上げた。其ノ者、色黒クシテ、上僂。目ハ深ク窪ミ、口ハ豚ノ如シ。さらに家の者を集め、俺の前に並ばせて問うた。どうだ、記録にある男に間違いないか、と。はい、間違いありませぬ、と誰もが異口同音に答える。
何ともはや、馬鹿げた話である。が、叔孫豹は、夢で見た牛男を俺だと信じているらしい。ならば、これを利用しない手はない。
叔孫豹が微笑む。
「汝はどうやら、我が家に瑞兆をもたらす使者であるらしい。どうだ、儂に仕える気はないか」
俺はねじ曲がった背中をかがめ、叔孫豹に対して臣下の礼をしてみせた。
俺は叔孫家の豎(小姓)になった。豎牛、それが俺の新しい呼び名だった。
叔孫豹の信頼を得るべく、俺は忠勤に励んだ。君子を気取る叔孫豹は、古礼に詳しい俺を重宝した。俺は苦笑した。あんなに厭でたまらなかった学問が、こういう形で役に立ったのだから。
俺は有能な秘書として、次第に家政を任されるようになった。
俺が叔孫豹の実子であるということは、半ば公然の秘密であった。だが、俺はそれをことさら言い立てることもなく、誰に対しても慇懃に接した。魯という国は格式にうるさい。俺はあくまで「野合の子」であり、生まれからいっても、醜い容貌からいっても、名門叔孫家の後継ぎになれる筈がなかった。
叔孫豹は、亡命先の斉で大夫・国氏の娘を娶り、孟丙・仲壬という息子を儲けていた。魯に帰国した際、叔孫豹は直ちに家族を呼び寄せようとしたのだが、妻の国氏は斉の廷臣・公孫明と通じており、一向に夫の許へ来ようとしない。やむなく叔孫豹は、二人の息子だけを引き取ったのである。
孟丙と仲壬(俺にとっては異母弟にあたるわけだが)に対しては、父親の叔孫豹に対する以上に遜った。が、内心では、この二人を、骨の髄まで憎悪していた。理由? そんなものはない。ただ、無性に憎らしかったのだ。強いて言えば、嫉妬かもしれぬ。苦労知らずの貴公子。誰からも愛される温雅な性格。その顔立ちは、曲阜の女どもの噂にのぼるくらい秀麗だ。それに比べて、この俺はどうだ。自然の気まぐれによって醜い姿に生まれつき、外を歩けば犬でさえ俺を避ける。
お袋だけが、俺の唯一の味方だった。そのお袋も、俺が叔孫家に仕官した翌年、病のために呆気なく死んだ。叔孫豹は外聞をはばかり、俺一人で母親を葬るように命じた。
その日は朝から雨だった。誰一人参列する者もない寂しい埋葬を済ませ、俺は墓の前に佇んだ。
叔孫豹。その名を口に出して呟いた。魯国随一の君子と呼ばれる男。
――こんな仕打ちがあるか。お袋は十四年もの間、ただ、あんた一人を想い続けていたんだ。なのに、あんたは、側室としての待遇も与えず、その死に涙も流さず、まるで最初からそんな女など存在しなかったような顔をしている。口では綺麗事を並べながら、一人の女の生涯を狂わせておいて平然としている。何が君子だ! 何が礼節だ!
お前が憎い。お前のすべてを汚してやる。お前の名誉も、家も、二人の息子も、全部、俺が奪い尽くしてやる。……
冷たい雨にうたれながら、俺は唇を噛み、声を殺して泣いた。
お袋が死んでから、十数年の歳月が流れた。
俺は相変わらず忠実な秘書として、叔孫豹に仕えていた。
魯の襄公が亡くなり、若い昭公が後を嗣いだころ、叔孫豹が狩りのさなか、病に倒れた。容態は次第に悪化し、やがて床から離れることさえ出来なくなった。
俺は北叟笑んだ。叔孫家を乗っ取る絶好の機会が訪れたのである。
まず、病人が誰にも会いたがらないから、という理由で、俺は叔孫豹を外部から隔離することに成功した。病中の身の廻りの世話やら、病床よりの命令の伝達まで、すべて俺一人で取り仕切ることになった。
その上で、俺は孟丙を後継ぎにするよう、叔孫豹に勧めた。
もはや再起はかなわぬ、と覚悟した叔孫豹は、俺の意見に賛成した。そして後継者の証として、孟丙のために鐘を鋳造するよう命じた。
「お前はまだ、この国の大夫たちと近づきになってないから、鐘が完成したら、その祝を兼ねて彼らをもてなすが良い」
叔孫豹の伝言を、俺はそのまま孟丙に伝えた。
鐘が完成すると、孟丙は俺を呼び、祝宴をいつ開くか、父にそのむねを通じてくれ、と言った。俺は病室に入る。しかし何事も取り次がず、すぐに部屋から出て、孟丙の奴にわざと出鱈目な日にちを教えてやった。
その当日、孟丙は魯国の諸大夫を招いて饗応した。邸内に鐘の音が鳴り響き、宴席の喧噪が病室にまで聞こえてきた。
「なんだ、あれは」
叔孫豹がいぶかしげに尋ねる。
「孟丙殿が、鐘の完成を祝って宴を開いているようです」
俺がすました顔で答えると、病人は怒りだした。
「儂の許しも得ないまま、勝手に宴を開くとは何事だ」
俺は奴の怒りを煽るべく、さらに一言つけ加えた。
「斉から、母君の使者として公孫明殿が参っているようです」
不義を働いたかつての妻と、その情夫の名前を耳にすると、叔孫豹は興奮して立ち上がった。が、すぐに力尽きて、寝台の上に仰向けにひっくり返る。俺が抱きおこすと、孟丙を捕らえよ、抵抗するなら殺しても構わん、と叫んだ。
宴が終わるや否や、俺は衛兵に命じて孟丙を捕らえさせた。後ろ手に縛られた孟丙が、俺の前に引き据えられる。何か叫ぼうとする孟丙の頭を、俺は手にした棍棒で殴りつけた。孟丙は動かなくなった。
「屍体は、裏の藪にでも棄てておけ」
と、俺は衛兵たちに命じた。
次の獲物は、孟丙の弟、仲壬である。
ある日、俺は仲壬が、見慣れぬ玉環を身につけていることに気づいた。
「その玉環は?」
「ああ、これか。これは君公から賜ったものだよ。私が公宮を訪れた際、偶然君公にお目にかかることになり、この玉環を授かったのだ」
「そうでしたか」
「そうだ、丁度よい機会だから、父上に玉環を見せて事情を説明し、我が叔孫家の名誉であると伝えてくれ」
「かしこまりました」
俺は玉環を受け取ると、病室に入った。もちろん、玉環は見せない。
「父上は何と仰せか?」
病室から出た俺に、仲壬が心配そうにきいた。
「君公からの賜り物であるから、つねに肌身離さず身につけておくようにとのことです」
仲壬は喜んで立ち去った。
数日後、俺は叔孫豹に進言した。
「孟丙様が亡き今、後継ぎは仲壬様しかおりませぬ。いかがでございましょう。将来の事を考え、仲壬様を君公にお目通りさせては」
「まだ早い」
叔孫豹が嗄れた声で答えた。己が命じた事とはいえ、やはり孟丙の死がこたえたのであろう。このところ、めっきり老け込んだようだ。
「ですが、仲壬殿は自分が後継ぎになるものと決めこんで、殿の許しもないまま、君公に拝謁したようです」
と、俺は奴の耳元で囁いた。
「馬鹿な、仲壬がそんなことをする筈がない」
「仲壬様は拝謁した際、君公から玉環を賜ったとか。今も身につけておられるようです」
叔孫豹は怒り、仲壬を連れて来いと喚いた。やがて部屋に入ってきた仲壬が、新しい玉環を帯びているのを見ると、罵声を浴びせ、謹慎するよう命じた。
その夜、仲壬は斉へ逃げた。
二人の息子を失った叔孫豹の衝撃は大きく、病状は日を追うごとに篤くなる。死期を悟った叔孫豹は、俺を枕元に呼び、斉に亡命した仲壬を呼び戻すよう告げた。
俺はその遺言を握りつぶした。一族の昭子を叔孫家の当主とし、俺は後見として実権を握る。そのための準備は、すべて整っていた。
もはや、あの男に用はない。
その日から、俺は叔孫豹に何も食わせないことにした。
身動きはおろか、口も利けぬほど衰弱している病人の前で、俺は運ばれてきた膳をことごとく平らげ、空にした器は病室の外に出して、いかにも叔孫豹が食べたように見せかけた。
さすがに叔孫豹は俺の奸計に気づいた。が、すでに手遅れである。助けを求めようにも、立ち上がることさえ出来ぬ。そして俺を通じなければ、誰一人病室に入ることは許されないのだ。
家宰の杜洩が見舞いに来た。瀕死の叔孫豹は最後の力を振り絞り、壁に立てかけてある矛に眼を向ける。これで牛を殺せ、と訴えているのだが、その叫びは声にならない。
もう長くはないかもしれませぬ。――杜洩の前で、俺は悲しげに首を振ってみせた。
杜洩が退出すると、俺は侮蔑の笑みを叔孫豹に向けた。
恐怖と憎悪と哀願の入り交じった眼で、叔孫豹が俺を見る。俺には奴の心が手に取るようにわかる。
――なぜ、儂を憎む。儂が何をしたというのだ。儂は、お前の父ではないか。お前のことを、愛していたのだ。……
あいにくだな、と俺は心の中で奴に答える。お袋が死んだ後、俺はずっと独りで生きてきた。不義の子と蔑まれ、牛男と嘲笑され、世間から除け者にされてきた俺にとって、父親という言葉など何の意味もない。あんたは、その事さえわかろうとしなかった。
お袋はね、あんたの事を心から愛していた。だから、俺はこの手であんたをお袋のところへ送ってやるのさ。あの世へ行ったら、少しはお袋に優しくしてやれよ。なあ、親父。……
「親父、か」
そう呟いた後、俺は何だか可笑しくなって、ゲラゲラとしまりなく笑い出した。同時に、眼から熱いものが溢れ、頬を流れ落ちた。
Entry8
河童との夏
青野 岬
娘の通う小学校では読み聞かせの活動が盛んで、母親達は週に一度、持ち回りで本を読む当番が回って来る。その本を探す為に、私は久しぶりに図書館に足を踏み入れた。図書館までわざわざ足を運ぶのは面倒だと思っていたのに、いざ来てみると、独特の雰囲気に何故かたまらない心地よさを感じた。
たくさんの蔵書の中から、良さそうな本を何冊かピックアップしていた私は、ふと気になる本を見つけて目を止めた。本の背表紙には『日本妖怪大図鑑』と書いてある。思わず手に取ってページをめくっていると、その中に河童についての記述を見つけた。
『河童は、日本でもっとも有名な妖怪のひとつで、二歳から十歳くらいの子供のような姿をしています。川や池、または沼や湖などに棲み、頭の上に水の入った皿が乗っています。この水が乾くと、河童は弱ってしまいます。体はぬるぬるとしていて生臭く、背中には亀のような甲羅を持っています。手足の指の間には水掻きがあり泳ぎが得意ですが、流れの速い川などではたまに溺れてしまう事もあります。これを“河童の川流れ”と言います』
そこまで読んで、私の中から小さな笑いが込み上げて来た。同時に記憶の箱の蓋が開いて蝉時雨と流れる川のせせらぎが溢れ出し、せつなくて甘酸っぱい、鮮烈な夏の想い出が一気に甦った。
幼い頃私は体が弱く、しょっちゅう熱を出す子供だった。その為学校が長い休みに入ると、よくひとりで東北の田舎町に住んでいる祖父母の家に預けられた。それは少しでも空気のいい所で過ごさせたいという両親の配慮だったけれど、共働きの両親にとって、体の弱い私を預けていた方が気兼ねなく働けるという事情もあったように思う。
長い休みはまるで永遠に続くかのように思われて、私はその膨大な時間を持て余していた。あの頃の夏は無限の時間と色彩と、あらゆる可能性を孕んでいた。
ある日の午後、私は軒下で揺れる風鈴の涼し気な音色を聞きながら昼寝から目覚めた。古い日本家屋の部屋の中に人の気配は無く、ひっそりと静まり返っている。
よく冷えた麦茶を冷蔵庫から出して一気に飲み干すと頭の中がスッキリして、体の中に新たなエネルギーが湧いて来るのを感じた。夏の一日は長く、遊ぶ時間はたっぷりある。私は麦わら帽子をかぶりサンダルをはいて、夏の日射しの中に飛び出した。
目に映るもの全てが煌めいて見えた。鼻歌を唄いながら知らない道を気の向くまま歩く。青い空には真っ白い入道雲。足元には強い日射しが作り出す、力強く濃い影が揺れている。蝉の声が、木々の間からシャワーのように私に降り注ぐ。
気がつくと、私は川のほとりに出ていた。このところ雨が降っていないので、川の水は底の小石がハッキリと見て取れるほど澄んでいる。川に沿って少し歩くと道が二股に別れている分岐点に石碑があり、そこには『河童淵』と書かれていた。
(これが、おばあちゃんの言ってた河童淵かぁ……)
この土地には『河童淵』と呼ばれる沢があり、そこには昔から河童が棲んでいるという言い伝えがあるそうだ。私はその河童淵に興味を覚え、行ってみる事にした。
分かれ道を右に曲がって、河童淵目指して歩き出す。すると急に道は細くなり、道の両脇に生い茂った木々の葉が覆いかぶさるようにして影を作っていた。風が吹くたびに木の葉はざわざわと音をたて、昼間だと言うのに無気味な雰囲気だ。
やっぱり引き返して帰ろうか、そう思った時、視界がぱあっと開けて淵に出た。水際に駆け寄って中を覗く。淵は清らかな水をたたえて静かに流れていた。思わず指先を透明な水の中にさらすと、汗をかいた体に心地よい冷たさをもたらした。
「何してんだ?」
私はあわてて水の中から手を引き上げて振り返った。そこには真っ黒に日焼けしたひとりの少年が、大きな瞳を興味深そうに見開いてじっとこっちを見つめて立っていた。
「何って別に……。散歩してたらここに来ちゃっただけで……」
「おめも、泳ぐんか」
「水着、持って来てない……」
私はそう答えると、首を左右に軽く振った。それを見ていた少年はそのまま淵に沿って歩き大きな岩によじ登ると、水面めがけてジャンプした。その瞬間、大きな水しぶきが上がり、静寂を打ち破る水音が緑の中に響いた。少年は気持ち良さそうに水の中を泳ぎ回る。時おり水の中に姿を消したかと思うと、何メートルも離れた場所から突然浮き上がる。見知らぬ少年の活き活きとした姿に、私は圧倒された。私は少年がジャンプした岩の上に座り、水の中を自由自在に泳ぎ回る姿を眺めた。その姿は、まるで河童のようだと思った。
しばらくすると少年は水から上がり、タオルで軽く体を拭きながら私の隣に腰掛けた。濡れた紺色の水着の脇に『6―2笠原哲太』と書かれたワッペンが縫い付けられてある。
「山根の家さ来てる都会っ子って、おめの事だか」
少年は五分刈りの頭を両手で掻いて、パシャパシャと細かい水気を飛ばしながら私に訊いた。
「うん。夏休みの間だけ東京から来てるの」
「そっか……」
「私は安藤美紀。四年生よ。よろしく」
「俺は……」
「六年二組の笠原哲太君でしょ」
私が平然とそう言うと、少年は驚いた顔で私を見た。
「だって、そこに書いてある」
少年は、私が指差した先を覗き込むように見て「なぁんだ」と言いたげに照れ臭そうに微笑んだ。
「おめ……美紀ちゃん。明日は水着持って来いや。泳ぎさ教えてやっから」
「うん、わかった。明日は水着で来るね」
いつの間にか蝉の声が蜩に変わっていた。茜色に染まった空に、夕方の匂いのする風が吹く。私は今、ふたりで腰掛けているこの岩を『カッパ岩』と名付けようと思った。
次の日も、朝から真夏の眩しい太陽が容赦なく照りつけていた。私は午前中のうちに宿題を終わらせて早めの昼食を済ませると、いそいそと河童淵に出かける用意を始めた。昨日の少年……哲太君は、本当に来てくれるだろうか。私は水着に着替えながら、これまで経験した事の無い不思議な胸の高鳴り感じた。
「おや美紀ちゃん、どこか出かけるんか?」
おばあちゃんが採れたての新鮮な野菜の入った大きなカゴを両手が抱えながら、私に訊いた。長年の畑仕事ですっかり腰がくの字に曲がってしまったおばあちゃんはとてもゆっくり摺り足で歩くので、足音が聞こえない。
「うん。ちょっと河童淵に」
「河童淵?なしてあんな所に。一人でか?」
「ううん、友達と一緒。新しく友達が出来たの。六年生の笠原哲太君って子」
「笠原……ああ、上の笠原さんとこのやんちゃ坊主か」
おばあちゃんは皺だらけの優しい笑顔で、何度も頷いた。
「だども、あの淵は急に深いとこさあるから気いつけねぇと。あのやんちゃ坊主はまるで河童みたいに泳ぎが達者だけんど、よーく注意さして遊ぶんだぞ」
「はーい」
おばあちゃんはまた摺り足で台所に戻ると、手に水筒と野菜の入ったビニール袋を持って私の所に戻って来た。
「これさ、持ってけ」
「ありがとう。じゃ、いってきまーす」
ビニール袋の中を覗くと、さっきおばあちゃんが持っていた採れたてのトマトとキュウリが入っていた。私は水着の上に小さい花柄のワンピースを羽織り、ハレーションを起こしたような強い眩しい日射しの中を河童淵目指して走った。
河童淵に着くと、哲太君は既に先に来て私を待っていた。
「こんにちは!哲太君、早いね」
「おぅ……今日は水着、持って来たか」
「うん、下に着て来たよ、ほら」
私はワンピースの裾を両手でめくり上げて、下に着ていた水着を見せた。私のその仕草に、哲太君は驚いてあわてて目をそらした。なんとなく気まずい空気を感じながらもその原因がわからずに、私はワンピースを一気に脱ぎ捨てた。
浅瀬からゆっくりと水の中に入る。思ったよりも水は冷たく、一瞬、体が縮み上がる。私が動くたびに小さな魚の群れが、太陽の光を浴びてキラキラと輝きながら、ゆるい流れの中を移動した。
「行くぞー!」
大きな掛け声を発しながら、哲太君がカッパ岩から飛び込んだ。水しぶきを頭からまともにかぶった私は、頭のてっぺんから三つ編みにした髪の毛の先までビショ濡れになった。哲太君はそれを見て笑いながら、また気持ち良さそうに泳ぎ始めた。私は太ももくらいの深さの場所で、その動きを惚れ惚れしながら眺めた。
「体か冷えるから、ちょっと休憩だ」
私達は水から上がり、カッパ岩に並んで腰掛けた。乾いたタオルで三つ編みの先を挟んで水気を取っていると、指先に哲太君の視線を感じて顔を上げた。すると哲太君はぷいと視線をそらして横を向いた。哲太君の耳たぶが、酔っ払っているみたいに赤い。気になったけど、訊いてはいけない事のような気がした。
私は持って来たビニール袋の中から真っ赤なトマトと、お店で売られているものよりも曲がって不格好なキュウリを取り出して哲太君に差し出した。
「うまそう!食べていいの?」
「おばあちゃんが持たせてくれたの。どうぞ」
「いっただきまーす」
哲太君はそう言うと、待ってました、とばかりにキュウリを手に持ち、ボリボリと噛み砕いた。
「俺、キュウリって大好物なんだ」
河童はキュウリが大好物だという事を、昔、何かの本で読んだのを思い出して、私はひとりでくっくと肩を震わせて笑った。
「……何笑ってんだぁ」
「哲太君って、まるで河童みたい」
「俺、学校でカッパって呼ばれてんだ」
「やっぱり」
私は堪え切れずに、大きな口を開けて笑った。
「そんなに笑ってっと、尻子玉抜いてしまうぞ」
「何、しりこ……?」
「しりこだま、だ。人間のケツの穴の中さあって、河童はこれが大好物なんだっけ。だから裸で泳ぐと危ないんだど」
哲太君はそう言って、何故か少し恥ずかしそうに笑った。
それから毎日のように河童淵で待ち合わせては、ふたりで遊んだ。哲太君は、都会で生まれ育った私には知り得ない事をたくさん知っていて、毎日が新鮮な驚きの連続だった。哲太君と一緒に遊ぶようになってから、驚くほど速いスピードで日々は過ぎて行った。私は夏の子供らしく真っ黒に日焼けして、不思議な事に毎日水に入っても熱も出さずに元気だった。
そんなある日激しい夕立ちがあって、次の日の河童淵はいつもよりも濁っていて水量も増していた。私達はカッパ岩に腰掛けて話しをしているうちに、些細な事からちょっとした口論になった。
「……なによ、そんな言い方しなくてもいいじゃん」
「その“じゃん”ってのが嫌いだ。都会ぶって」
喧嘩の原因は、たしか『かぶと虫の飼い方』とか、本当にどうでもいいような事だったと思う。今となっては笑い話だけれど、子供の時間は時として、いい加減な曖昧さを決して許さない。
「もういいよ。俺、泳いで来る」
「今日は水かさが増えてて危ないよ」
「おめえは、来るな」
哲太君は吐き捨てるようにそう言うと、カッパ岩から水の中でジャンプした。喧嘩なんてしたくないのに。仲良くしたいのに。でもその気持ちを、どうやって伝えたらいいのかわからない。私は泳ぐ哲太君を見ながら「永遠に続く夏休みは無いんだ」と、自分がここにいられる残り時間を初めて具体的に思った。このまま離ればなれになったら、きっと後悔する……確信に近い気持ちを抱いて、私は唇を噛んだ。
ふいに、泳ぎの上手い哲太君がおかしな動きをしているのに気付いた。
「哲太君!どうしたの」
「足……足がつって……」
「待ってて!今行く!」
私は自分がたいして泳げない事などすっかり忘れて、服のまま水の中に入った。いつもよりも速い流れに、油断すると体を持って行かれそうになる。なんとか哲太君の近くまで泳いだけれど案の定どうする事も出来ずに、ふたりで抱き合ったまま水の中に沈んで行くような感覚があった。
(私達、このまま死んじゃうのかな……喧嘩したまま死ぬのは嫌だな)
パニックになりながらも、溺れている自分達の姿をスローモーションで眺めている自分がいる。そして、私は見た。水かきのついた大きな蛙のような手が、私達の体を水の底から押し上げてくれているのを。
私達は抱き合ったまま、ゆるゆると浅瀬まで押し上げられて、足を着いた。ふたりで体を支え合って、岸に上がる。水を含んでずっしりと重みを増したワンピースが私の体にぴったりと貼り付いて、ひどく不快だった。温かな地面の上にへたり込むと、それまで私を支えていた緊張の糸が一気に弛んで、まるで堰を切ったように涙が溢れた。
「美紀ちゃん……ごめん」
私は呆然とする哲太君の隣で、わあわあと声をあげて泣いた。たまたま近くを通りかかった大人達がその声を聞き付けて駆け付けるまで、私は泣き続けた。
祖父母の家に帰ってから、私はひどく叱られた。「こんな危ない目さ遭って……おめの父ちゃんや母ちゃんに、顔向けできねくなるとこだった」と言って、おばあちゃんは泣いた。
私はその晩から熱を出した。朦朧とする意識の中で、一匹の河童の夢を見た。亀のような甲羅を背負い、頭には小さな皿を乗せている。河童はくちばしらしきものをかすかに歪めて何か言いたげな瞳をしたまま、黙ってこっちを見ていた。
熱はなかなか下がらず、四日間ほど寝込んでやっと熱が下がった頃には、すでに風はかすかに秋の匂いを纏っていた。
東京に帰る前日、私は新鮮なキュウリをたくさん持って一人で河童淵に来た。最後に哲太君に会いたかったのと、私達を助けてくれた河童にお礼が言いたかった。河童淵に人の気配は無く、たくさんのトンボが水辺を求めて低く飛んでいた。
カッパ岩の上にキュウリを置いて帰ろうとしたその時、道の向こうから誰かがこっちに向かって歩いて来るのが見えた。哲太君だった。
「良かった、もう会えないかと思った。私、明日東京へ帰るんだ」
「そっか、元気でな。それから……」
そこまで話してカッパ岩を見ると、さっきたしかに置いたはずのキュウリが無くなっていた。岩はまるで上から水を掛けられたように濡れている。私達は思わず顔を見合わせて息を飲んだ。
「……河童って、本当にいるんだな」
「うん……」
「でも誰にも信じてもらえねぇだろうから、二人だけの秘密にしような」
「そうだね」
私達は指切りをした。夏が終わってしまうのが寂しいと、生まれて初めて心から思った。
「いけない、もうこんな時間」
私はあわてて妖怪の本を棚に戻し、読み聞かせ用の本を持って貸し出しコーナーに向かった。もうすぐ、娘が重たいランドセルを背負って帰って来る。
あれから何度か、熱を出すたびに河童の夢を見た。河童はいつも楽しそうに、河童淵で遊んでいた。中学生になった哲太君とはあれから会う事は無かったけれど、きっと今頃はいいお父さんになって幸せに暮らしているのだろう。あの夏の日は、色褪せる事なく私の中で輝いている。
今年の夏は娘を連れて、久しぶりに田舎に行こうと私は思った。
Entry9
空猫
ごんぱち
「ねえ……猫が飛んでる」
海岸を歩いていた若い女は、足を止めて空を指さした。
「はぁ?」
後から歩いていた若い男は、眉をひそめる。
「何言ってんの? ジョーク? ボケ?」
「ちげーよ! ほら!」
女はもう一度空を指さす。
「ギャグにしても大した――うわっ!?」
男は一声上げるなり、言葉を失い、その場に座り込んでしまった。
曇り空に、猫が浮かんでいた。
純白の翼と、少々膨らみ気味の腹をしていたが、間違いなくそれは猫だった。
ぷかぷか、ぱさぱさ、何とものどかにのんびりと、猫そのままに空を泳いでいた。
二人は呆然と、しかしとても穏やかな顔で、その猫を見上げていた。
『空猫の飼育法は、そんなに難しくはないんですよ――』
テレビをぼんやりと眺めていた村野弘志は、箸を動かす。
(空猫、か)
ずずずずっ。
ざる蕎麦をすする音が、店内に響く。
(人気者だな)
画面には、アップで空猫の顔が映されていた。
猫らしさを微塵も失っていない丸っこい顔立ちと、まん丸い目。加えてちょっとアンバランスに小さい翼と、大きめなお腹。いかなデザイナーでも、これだけ愛らしいキャラクタを創る事はできないに違いない。
『ほら、こんな風にボールを飛ばしてじゃらしたり、凧や風船で遊ばせると喜びます』
画面の向こうのブリーダーが、小さな凧を飛ばすと、空猫は喜び勇んで飛び付いていく。
空猫はかなりのスピードで飛んでいるらしいが、そうは見えない。
くびれのない瓢箪の様ないささかでぷっとした尻と、そこから生える短くて少し曲がった尻尾がぴょこぴょこと跳ねる様がとても呑気そうで、見る者の目尻を自然、下げさせる。
『繁殖させる場合も、近い年齢の方がいいですけれど、それほど厳密に選ぶ必要はなくて――』
ずぞぞぞっ。
蕎麦をすすりながら、村野の目尻も少しだけ下がっていた。
『それに陸猫みたいに多産ではありません。きっかり三匹なんですよ』
ずっ。
『しかも空猫が一匹いれば、カラスも寄りつかないという――』
最後の一筋を、村野は食べ終えた。
「おじさん、蕎麦湯!」
「こりゃひどい」
市のマークの入った作業着姿の村野は、肩をすくめる。
ごみ捨て場では、ビニール袋が破れてゴミが散乱していた。
「みんな決められた時間に出している上に、きちんとネットをかけててこれなんですよ! 役人さん!」
憮然とした表情で、自治会長が言う。
「カラスの駆除は出来てるんですか!?」
「市としては、駆除作戦を進行中ですから……」
「猟師でもなんでも雇って全滅させて下さい!」
「住宅地内で猟銃なんて射てませんよ」
(そういうのは、流れ弾に当たっても文句を言わない奴の台詞だ)
「だったらカラスの嫌う音とか、色とか、何かないんですか?」
(んなもん、片っ端から試してるってえの)
「今、巣を壊して卵を処分しているところですから、効果が出るまで、我慢をして下さい」
「でも現実にカラスはいるんですよ!?」
それから何度も頭を下げ、村野は市役所に帰った。
「なんで空猫を置いとけって言わなかったんだ?」
不思議そうに上司の四谷が尋ねる。禿頭がギトギト光っていた。
「なんか、あんまり勧めたくなくて」
村野自身も半分理解しきっていない顔で答える。
「何で?」
「自分でも良く分からないんですけど、なんか」
「ふうん」
四谷は少し首を傾げていたが、すぐ顔を上げた。
「ま、いいだろ。どうせ空猫飼う奴の一人や二人は出て来る。それで解決だ」
「です……ね」
「ご苦労さん」
四谷は盃を持つ仕草をする。
「仕事はけたら奢るぜ、暇なら付き合え」
「ありがとうございます」
マンションの一室のドアを、村野は開ける。
「ただいまー」
明かりの消えた部屋のドアを手探りで開け、妻の百合子の隣の布団に入ろうとする。
「――!?」
奇妙な温かさと柔らかい感触に、彼はびくりと身体を震わせた。
「な!?」
「にゃあ」
小さな声がした。
「――に、にゃあ?」
「にゃ」
だが二度目の声は、やけに上の方から聞こえた。
「!?」
ぱさっ。
軽い羽ばたきの音。
ようやく村野の目が慣れて来た。
「そ、空猫?」
「にゃ」
村野の目の前で、一匹の愛らしい仔空猫が浮かんでいた。
「あー、弘志、お帰りー」
布団に入ったままで、百合子が声をかける。
「百合子、これ?」
胸にすりよる空猫を不思議そうに見ながら、村野は尋ねる。
「かわいーでしょ、今日買ったの」
「オレに相談なしで?」
「いーでしょ、あたしが面倒みんだから。アレルギーでもあった?」
「ないけど……」
「なんか言いたいなら明日にして」
心から眠たげに言うや、百合子は寝息を立て始めた。
空猫は、彼女から少し離れた場所で、丸くなった。
「ほらほらジュリー!」
百合子が部屋の中ではたきを差し上げて振る。
空猫のジュリーは、ホバリングしながら、はたきの先をまん丸な目で追い始める。
「ほらほらほら」
ジュリーの興味が充分に向いた頃合を見計らって、百合子ははたきを大きく動かす。
その瞬間、ジュリーは羽根を一つ羽ばたかせる。
弾丸もかくやと思わせるスピードで、ジュリーははたきに食いついた。それから空中に浮かんだままで、はたきを咬み、前足で固め、後ろ足で幾度も引っ掻く。
「えいっ」
百合子がはたきを力一杯振ると、ジュリーは離れ、また攻撃態勢に入る。
「――飽きないな」
「ほんと、仔空猫って遊び好きよね」
「いや、君だよ」
「そりゃそうよ、こんなに可愛いんだもん」
応えながらも、百合子はジュリーをじゃらす手を休めない。
「ま、確かに」
十分後、ようやく遊び疲れたのか、ジュリーは村野の肩に留まって、ゴロゴロ喉を鳴らし始めた。
村野はジュリーの喉を撫でながら、ボロボロになったはたきを見つめていた。
「――最近苦情が減りましたね」
報告書を提出しながら、村野は思いだしたように言う。
「ああ、どうやらカラスの被害が減ってるらしいぜ」
四谷は書類から視線を上げて答える。
「カラス……ですか」
「ああ」
四谷は自分のデスクの端末を操作する。
「ほれ、データ」
画面に表示されたデータには、苦情内容別の集計が出ていた。
排出時間のトラブル、猫の被害、近所の子供の悪戯、区画外からの持ち込み等の中で、カラスの被害の項目だけが、前年度比で半分以下に減っていた。
「……なるほど」
「喜ばしい事だな」
「しかし、なんか、妙じゃありませんか?」
村野は眉間にシワを寄せる。
「カラスが減るなんて」
「空猫のお陰じゃねえか」
「いや、何か、こう違和感が」
「どうしてだ?」
「どうしてって訊かれると、なんだかよく分からないんですが」
喉の奥に引っかかった魚の骨の様に、奇妙な違和感があった。
「大方、新しい物に対する恐れって奴じゃねえか? お前も公務員だけあって、生粋の保守派って事だ」
「そう……ですかね」
奇妙な違和感。しかし、確実にそこにある違和感。実在感のある違和感。
「カラスが減って俺たちの仕事が楽になった。それで充分じゃねえか?」
「……それでいいんですかね?」
「役所ってのは、市民からの要望がない限りは、出来るだけ動かない方がいいんだ。道路工事一つやってても、税金の無駄遣い呼ばわりされるんだからな」
「はぁ……」
「ほら、ジュリー、それっ」
近くの公園で百合子が空に向けてボールを投げる。
高く飛んで行くボールを、ジュリーは空中でキャッチし、戻って来る。
「にゃあ」
ボールを投げ、取り、戻って来る。
この一連の動作が、とても可愛らしい。
「それっ」
「にゃなにゃっ!」
ベンチに腰掛けた村野は、戯れる妻とペットをぼんやり眺めながら、独り考え込んでいた。
(ごみ捨て場の被害……カラスの減少……空猫……)
「あっ、こら、どこいくの!」
(変種……猫……猫が空……)
「ねえ、弘志、ジュリーが」
「あ?」
思考を中断させられ、少々うるさそうに村野は顔を上げた。
「ジュリーが」
百合子が空を指さす。
ずっと遠くの空に、ジュリーが浮かんでいる。いや、真っ直ぐに一つの標的に向かって飛んでいた。
「あんなに高くまで飛べるのね」
そしてその高所の標的は。
「――トンビを、狙ってるのか?」
(トンビは肉食だった様な……いや、あんまり大きいものは喰わんのか。どちらかと言えば……)
「!!」
村野は立ち上がった。
「……カラスは、都市の食物連鎖の頂点だ」
「空猫が生態系を破壊してる?」
市役所地下の食堂で、村野と四谷は昼食をとる。
「そうとしか考えられないんです。野鳥の会のサイトで調べてみても、鳥類の減少が僅かづつ出てます」
カレーうどんを食べながら村野は言う。
「……あんまりそれ喰ってる時に喋らん方がいいぞ」
四谷はB定食のエビフライをかじる。
「空猫は、猫科の肉食獣です。しかも飛行という特性故か、喰い溜めがきかず、こまめに狩りをする」
村野はカレーうどんの汁をすする。
「猫は、牙、前足、後ろ足の五つの武器があります。単純に言って、猛禽類よりも二つ武器が多い」
水を一口飲む。
「猛禽類が主に両足爪のみを武器にするのに比べ、猫は柔軟な身体を利用し五つの武器を同時に使う事が出来ます」
箸を握ったまま、村野は四谷を見る。
「空を飛ぶ猫は……無敵です」
うどんを一口すする。
「天敵の存在しない生物、しかも発生の初期段階で人間に保護され繁殖させられました。いずれ、空猫は鳥を喰い尽くします」
村野の目に、冗談めいたところはない。
「その時になってからでは遅いんです。早く、対策を立てなければ、少なくとも駆除法を確立しなければならないんです」
「なるほどな」
四谷はタクアンをぽりぽりと食べながら言った。
「だが――どこからも苦情は出ていないだろう?」
「――空猫が?」
野鳥の会の支部長は不思議そうな顔をする。
「あれを野放しにしていては、えらいことになる。駆除を働きかけてくれませんか?」
村野は力説する。
「しかし、もう少しはっきりした差が出ない事には」
応接室内に飾られた野鳥の写真は、どれも絶妙のアングルとタイミングで撮影されている。
「それからでは遅いんです」
「何故そう思うんです?」
「カラスが恐れて姿を消すほどの生物は、未だかつていなかったんです。あれに対抗できるのは、もう人間だけなんです」
「はは、考え過ぎですよ。そもそも、空猫がカラスを減らしてくれたお陰で、野鳥たちもはのびのび暮らしているんです」
「空猫の標的がカラス以外の鳥に移る可能性がないと、どうして言い切れる!?」
「村野さん、と言いましたか」
支部長は茶を飲む。
「生態系は、喰ったり喰われたりでバランスを取って成り立っているものですよ」
木々の間から見える青空を、空猫が横切る。
雑木林の中に、村野はいた。
(何故、誰も気付かない?)
村野は木々に身を寄せ、ガスライフルに鉛弾を込める。
(あの奇怪な遺伝子汚染生物を駆除する、それだけじゃないか)
プラスチック製ながら、その銃身はずしりと重い。
(何故……)
空を飛ぶ空猫が見えた。
スコープ内に空猫を捉える。
村野は絞り込む様に引き金を引いた。
微かな反動。
ぎゃっ!
空猫は声を上げ、落ちて行く。
(オレがやるしかない)
再び空を見上げる。
「君」
ふいに声をかけられた。
「そこで何をしている?」
「ここが、無差別に空猫を撃っていた、Mの自宅です」
女のレポーターが、村野の家のインターホンを押す。
「えーっと、ピー入るんですよね?」
レポーターは、ディレクターに確認してから、インターホンにマイクをくっつける。
「村野さん! 村野さん!!」
『何も話す事は――』
インターホンから村野の憔悴しきった声が聞こえる。
「村野さん、あなたの行為は、結局不起訴となったわけですが、人間としてどう思います? 空猫たちに、申し訳ないと思わないんですか!」
レポーターはがなり立てる。
村野の返事はない。
「あんな可愛くてか弱い自然の動物を虐待するなんて、恥ずべき事ですよ!」
『あれが自然なものか』
「突然変異だから殺していいなんて、そんな理屈はありませんよ! 無抵抗な弱い無害な生き物を、どうして殺そうとしたんですか!」
『何度も言っている――』
村野の言葉が終わる前に、レポーターはインターホンからマイクを離してしまった。
「このように、Mには全く反省の色はなく、ふてぶてしい態度を取り続けています」
村野は、インターホン兼用の電話機を切った。
「はぁ……」
その顔はやつれ、目にはクマが出来ている。
「糞っ、あれだけの事で」
パソコンの電源を入れる。
ハードディスクがパンクする程に、中傷メールが届いている。
封書の手紙も、毎日十数通は来る。
「どこのどいつだ、住所を明かしたのは」
部屋の片隅にぽつんと置かれた、妻の写真を見る。
「もう、止めよう」
村野は膝を抱える。
「傷つけるのは、止めよう。それでいいんだ。俺が、頑張る事はないんだ」
ブラインドの隙間から、空を見る。
曇った空には、空猫だけが飛んでいる。
「もう、傷つけない」
空猫が、飛んでいる。
「傷つけず、どうやって?」
いつかみたテレビ番組の通り、空猫は凧にじゃれていた。
「……あれは、スポーツカイトって奴か」
二本の紐で制御され鋭い動きをする凧を、空猫も同様に鋭い動きで追い掛けていく。
「……凧」
村野は目を見開く。
「凧か」
村野は公園で自作の凧を上げる。
鋭く動く凧に、野良空猫が近寄って来る。
「……来い、来い」
凧のスピードを微妙に遅くした後、すぅっっと流す。
その動きに釣られるかの様に、空猫は凧に飛び付いて来た。
「今だっ!」
村野は三本目の糸を引っ張った。
と。
凧から出ていた細いテグスが空猫の胴体に引っかかり、ぎゅっと締め上げる。
同時に揚力を失った凧が、空猫を抱いたまま地面に一直線に落下していく。
「来いっ!」
村野は凧を引き寄せようとするが、次の瞬間、空猫はテグスから抜け出し、空の彼方へ飛んで行った。
「……大分、完成に近付いた」
村野は、空猫との格闘でズダズダになった凧を見つめる。
「空猫を捕まえるだけの把握力……」
テグスを引っ張る。
「一本増やして――凧の面積も増やすか」
空を流れる凧に空猫が飛びかかる。
次の瞬間、凧から伸びた数本のワイヤーが一気に縮み、空猫の身体を縛り上げた。
それから、凧はゆっくり左右に振れながら、地面に軟着陸する。
『――こうして、傷一つなく捉えられた空猫は、空猫園で暮らす事になります。こうなった空猫は、もう鳥を襲う事はありません』
凧に捕まえられた空猫を、空猫猟師が外して箱に入れる。
『空猫には、一匹当たり二万円の懸賞金が自治体から支払われます……』
――プツ。
すっかり白髪頭になった村野は、テレビを消した。
「また、賞金が上がったんだな」
彼は窓を開け、空を見る。
夕焼けに赤く染まった空と雲を背景に、空猫だけが飛んでいた。
その姿はとても愛らしかった。
Entry10
お休み処
太郎丸
「おタネさぁん。居ますかぁ」
雪美は大きな声をかけると、返事も聞かずに玄関で靴を脱ぎ、正面の廊下をどしどしと進んで、突き当たりの八畳の和室に上がり込んだ。
今日はまだ誰も来ていないようだ。猫のマリエが、庭に面して開け放たれた障子の陰から、日向ぼっこを続けるから静かにしろと、ミャァンと鳴いてそっぽを向いた。
雪美はそんなマリエを見つけると、嬉々として彼女を抱き上げ、嫌がるマリエを無視してキスした。
マリエは、流石に爪をたててまで反撃はしなかったが、するりと雪美の手を逃れると、仕方がないといった風情で部屋を出ていってしまった。
ここは都心から少し離れてはいるが、いまどき平屋で、もちろん屋敷と呼べる程大きくはないが、庭の結構広い一軒家だった。
近くには商店街があるし道路も走っているけれど、広い庭とその周りを囲む季節毎の木々や植物が多いせいか、あたりの喧騒を吸収して静かだった。
今は梅のほんのりと甘い香りが終わって、沈丁花の強い香りが流れて来る。もう少しして新学期が始まれば、桜の花びらもゆったりと散るのだろう。
中学生の雪美が入りこんだこの家は、親戚の家でも無ければ学校の友達の家というわけでもない。いってみれば知人の家だろうか?
しかし考えてみれば、雪美もこの家に会いにくる人を、そんなに知っている訳ではないのだから、少し違うのかも知れない。
ここへ来るきっかけは、去年の11月の事だった。
転校したての雪美は、なんだか学校に行くのが嫌になっていた。友達が出来ないという事もあったのかも知れないが、そんな事は今までと同じだから気にはならなかった。
雪美は学校へも行かず、その頃見つけた公園で、キーキーとブランコにぼんやりと揺られていた。そこへ大きな手提げ袋を抱えた、真っ白な髪の老婆がやってきた。腰が曲がっているからか園児に見えるほど小さくて、こざっぱりとした服装と白髪という事もあってか、なんだか品があるようにも見えた。それに老婆のにこにこした顔も嫌いではなかった。
「お嬢さん。お隣よろしいですか?」
突然の言葉に雪美は戸惑ったが、上目遣いに頷くと老婆は「それじゃぁ、少し失礼しますねぇ」といいながら、ブランコに腰を下ろすと、荷物をブランコの隣りに降ろし、少しづつブランコを揺らし始めた。
ブランコが揺れ始めると老婆は、「おぉーっ、おぉーっ」といいながら喜んで暫く揺らしていたが、不器用に足を使って止めると、「これは面白いものですねぇ」と雪美に向かって微笑んだ。
雪美は取りたててブランコが好きというわけでは無かったけれども、こんなにはしゃぐ老婆を見たのは始めてだった。
「おばあさん。ブランコ始めてなの?」
思わず聞いた雪美は、自分の言葉にびっくりした。というのも最近他人と口をきくのも煩わしくて、親とさえあまり会話らしい会話をしていなかったのだが、それがなんだかこの老婆には、やさしい気持ちになっているらしい自分に気付いて驚いたのだった。
「えぇ。今まで見た事はありましたけれども、乗ったのは始めてでございますよ」
老婆はなんとも笑ってしまうような丁寧な言葉遣いで答えた。
考えてみればブランコが始めてだなんていう、老婆の言葉をそのまま信じたというのも不思議だったし、そしてそれは多分ウソだったのだろう。
でもその老婆の行動と感じとがなんだか可笑しくて、そして不思議なことだが、雪美はタネと名乗るその老婆の話の、余りにも自分の感性との違いが面白くなってしまい、しまいには大きな手提げ袋を持って彼女の家まで送って行く事になった。それが今上がり込んだこの家だった。
その時の「上がって下さいな」という老婆の誘いは、さすがに断ったが、別れ際に老婆が言った「いつでも、遊びに来て下さいね」という言葉は、ただの社交辞令とは思えても、優しそうなその笑顔から発せられた言葉は雪美の身体の中を駆け巡り、なんだかこのおばあちゃんとはまた話してみたい…。そんな気持ちにさせてくれた。
こんな近所にあんな人が住んでるんだぁ…。雪美は、家に帰ると我慢できずに、母に聞いてみた。
「あぁ、何でもどこだったかのお姫様らしいわよ。とはいっても今じゃそんなの関係ないけどね」
「お姫様? あのおばあちゃんが?」
「あらっ、会ったの? で、どんな人だった?」
「んー…。普通のおばあちゃんよ」
「雪美。それより今日も学校行かなかったの。学校から電話があったわよ」「はいはい」
「もう、ちゃんと学校行ってよ」
お姫様…。おばあちゃんなのにお姫様というのは、なんだか変な感じがしたが、雪美はそそくさと自分の部屋に入ると、いつものようにカギをかけて、ベッドに転がった。
それから雪美は、そのお姫さまの家の前まで何度か足を運んだが、やっぱりなかなか入りづらくて通り過ぎたりしていたが、ある時ばったり玄関で会ってしまい、「あらぁーっ、雪美ちゃーん。よく来たねぇー、さぁお上がりなさいよ。今、お茶入れるからねぇー」そう言われてしまっては断る理由もない。
このお婆さんよく私の名前覚えてたなぁ。そんな風にその時は思ったものだった。
おタネさんは、使用人らしい中年の夫婦と三人で暮していた。結婚はしていないらしい。きっとお姫様のままで死んでいくんだろうなぁと思うと、雪美はなんだか羨ましいような気さえもした。
それから何度か彼女の家に上がっては、話しをしたり庭を眺めたりしては時間を潰した。
おタネさんと話すといっても、彼女は聞き上手というのだろうか、彼女が話すよりも、雪美が話している事のほうが多かった。
雪美は学校のイヤな事や、面白くない先生や勉強の事なんかを話し始めると、おタネさんは「そうだよねぇ。勉強なんか社会に出ても、ちっとも役立つ事なんかないもんねぇ」などと相槌を打っているのだけれど、話が終わる頃になると何故かいつも「勉強は大事だし、学校の友達も沢山作らなくっちゃねぇ。ちゃんと学校へ行って勉強して下さいよ」という結末になってしまう。
でもそれはお説教というのではなくて、雪美も自然に納得してしまうという雰囲気になっているのだった。
そんな事もあってか、雪美は最近学校へも行くようになっていて、友達も何人か出来た。元々成績も悪くはなかったから、進級も心配ないだろう。
おタネさんの家には色んな人が出入りしていたけれど、若い人が多かった。たまに中年の人達やお年寄りが来るけれど、彼らはおタネさんをお姫様扱いするから、おタネさんは彼らを嫌がっていた。
ここに出入りする若い人達は、雪美よりも大きかったが、見るからにチーマーとかギャングなんていわれるような格好の人もいて、始めはびっくりしたけれど、彼らの表情はみな一様に穏やかで、おタネさんと世間話をして帰って行く。ただそれだけの関係だった。
何故あんな人達がおタネさんと話しをしているのかとは思ったが、考えてみれば私だって彼女との話しが好きなだけだ。そういう意味では、私も彼らの仲間なのかも知れない。
始めの頃はおタネさんがいないと判ると入らないでいたのだが、出入りする人達はおタネさんがいようがいまいが、そんな事は気にもせず、勝手にあがり込んでは庭をボーッと眺めては帰っていく。
まるで公園でベンチに座っているようなものなのだが、なんだか居心地が良かったし、おタネさんがいればそれだけで嬉しくなった。
おタネさんとは、みんな話したがった。でもおタネさんがいない時には、その場にいる人達がなんとなく世間話をする。そこに集まる人達の関係は、ただそれだけだったし、お互いに名前を聞く事もなかった。
雪美も始めは、他の恐い感じの人達と話すのは嫌だったし、話しかけられても無視したり、家に帰ったりしていたが、何度か顔を出すうちに、何人かの人とは話すようになっていた。そうすると当たり前の事なんだけど、何だか彼らだって同じ人間なんだなぁと思えるようになってきて、今では雪美は誰とでも話せるようになっていた。
今日は誰も来ないなぁと思いながら、雪美がボーッと庭を眺めていると、マリエがやってきた。
さっき出ていったばかりなのに変だなぁと思っていると、始めて見る痩せた中学生くらいの男の子が立っていた。
「ばあさんいねえのかよ」
突然の事で雪美は驚いた。あまり唐突だったのもあったし、その言葉遣いがあまりにも粗野だったからだ。
今までこの家で色んな人に会って来たが、彼らとは雰囲気が違っていた。剥き出しのナイフという言葉を思い出した。
雪美は恐くなって何も言えないでいると、そいつは舌打ちすると、部屋を出ていった。
マリエが日の当たっているところで伸びをして、丸くなったのを見て、雪美はやっと息をするのを思い出した。その時、雪美は彼が恐かった。
少し経つとおタネさんが帰ってきたので、彼の事を話すと「それはタケシ君かも知れないねぇ」という返事だった。なんでも最近会っていないらしいが、とっても良い子だという。雪美にはどうしてもそうは見えなかったが、でもおタネさんがいうのだからきっとそうなのだろう。
翌日雪美は、仲良くなったゆいちゃんと授業が始まる前の教室でおしゃべりしていると、急にあたりが静かになった。教室の後ろを見るとそこには、昨日のあの男の子が立っていた。
「雪美ちゃん。あいつとは目を合わさない方がいいよ。少年院に入る程の不良なんだから…」
ゆいちゃんがいうには、もともと彼はこのクラスの人間なのだが、雪美が転入する少し前くらいから、学校には来ていなかったのだという。どうやら彼は以前に先生をナイフで刺したとか、この学校の不良グループもボコボコにされていて彼には手を出さないとか、恐喝や盗みは当たり前で、家には女性を拉致して遊んでいるとか、なんだか噂としてはマユツバものの、きな臭い話しばかりがあるらしい。
雪美には、先生を刺して少年院にも入らずに普通の学校にいられるのかどうかも解らなかったし、女性を拉致しているなどという犯罪を警察が黙って放っておくとも思えなかったから、そんな噂が本当だとは思えなかったけれど、彼とは目を合わせたくないと思うのは本当だった。
おタネさんは「良い子」だって言ってたなぁ。とは思ったが、雪美はやっぱりまだ中学生で、女の子だったから彼を見る事は出来なかった。なんだかそんな自分に、少し悲しい気もしたが、その時の雪美にはどうしようもなかった。
その日の教室はピリピリしていた。噂の彼が気になって、みんな授業に身が入っていなかった。そんな雰囲気もあっての事なのか、彼は昼休み前にはいなくなってしまった。
「いなくなって良かったねぇ」
みんなは口々にそういいあっていた。雪美は何だか申し訳ない気分で一杯だった。
学校帰りにおタネさんの所に寄ると、おタネさんはいなくて高校生で不良のミツルさんと話した。おタネさんが良い子だといった彼が同じクラスだったこととか噂のことを話すと、ミツルさんは笑った。
「それで雪美ちゃんは、それを信じたの?」
「ううん。それは信じなかったけど、でもやっぱり少し恐かった」
「うーん。それはそうかも知れないけど、誰だって仲間外れにされたらイヤだと思うだろ。雪美ちゃんが友達になってあげれば、彼もみんなに理解されるようになるんじゃないかなぁ…」
「友達になるの?」
「そう。だって雪美ちゃん、俺とだって話してるじゃないの」
「だってミツルさん、優しいもの」
「ウーン。ここじゃそうかも知れないけど、俺って結構ワルなんだけどなぁ。まっ、それよりおタネさんが良い子だって言ったんならそれは間違ってないと思うよ。それに俺もタケシは知ってるけど、あいつ悪い奴じゃないぜ」
そう言われてみれば、ミツルさんだって始めは恐かった。優しいお兄さんというよりは絶対ヤクザだ。タケシ君も最近じゃ見なくなったけど、ここに出入りしていたらしい。
雪美は、明日彼にあったら話して見ようと思った。そう決めると、今日おタネさんには会えなかったけど、なんだか気持ちが軽くなった。
翌日、彼は来なかった。そしてその次の日も、その次の日も学校へは来なかった。
それでも始めて彼を見てから1週間後に、彼はまた学校にやって来た。校門のところで彼を見かけた雪美は、彼の前に立って声をかけた。
「おはよう、タケシ君でしょ。私転校してきた雪美っていうの、おタネさんの所であったよね?」
彼ははじめ恐い目で雪美を見て、無視しようとしていたが、おタネさんの名前が出た途端に思い出したのか、雪美の挨拶に答えた。
「おぉ。ばあさん元気か?」
「元気だよ。おタネさんとはもう長いの?」
「お休み処は、最近行ってねぇな」
「お休み処? それって、おタネさんの家の事?」
「あぁ、知らなかったのか? お休み処って呼ばれてるんだよ」
「えぇ、何で?」
「あそこにいると何となく落ちつくだろ? 誰がいったんだか知らねぇけどよ。まぁばあさんにはヨロシク言ってくれ。じゃあな」
教室に入ると、ゆいちゃんが雪美のそばにやってきて話しかけてきた。
「雪美ちゃん。あいつに脅されてたの?」
「そんな事ないよ。私が話しかけたの」
「えぇ!? ヤメタ方がいいよ。あいつってば悪い奴なんだよ」
「そんなぁ、悪い奴って誰が決めたのよ。タケシ君だってそんなに悪い奴じゃないよ」
「タケシくんって…」
唖然としたゆいちゃんを無視して雪美は席についた。みんなの視線が雪美を刺すのが痛い。
雪美は思った。私だって彼の事全然知らないけど、みんなだって彼の事を少しも解ってないんだ。それなのに何故そんなに悪い奴だって決め付けるんだろう。
でも彼は教室には顔を出さなかった。朝のHRの時間に先生が報告という形で伝えたところによると、タケシ君は引っ越す事になってもう学校へは来ないという。朝一度職員室に顔を出したが、みんなには会わずに帰ったらしい。
教室の中には安堵の溜息が流れて「ヤッター」なんていう声さえも聞こえた。
騒ぐ教室を見渡して先生が言った。
「お前達、なんか勘違いしてるみたいだから言っとくけどな、笹原は凄い奴だったんだぞ。なんか不良だなんていう噂もあったようだけど、あいつは真面目な奴だ。父親が早くに亡くなって小さい弟や妹の面倒を見るのに、学校では禁止されてたが新聞配達なんかもして家計を助けていた。休みがちだったのも母親が病気だったからで、けっして怠けていたわけじゃない。まったくお前達には奴の爪のあかでも煎じて飲ませてやりたいよ」
先生の話しにみんなは黙ってしまった。
雪美は思った。おタネさんのいうように、やっぱりタケシ君は悪い奴じゃなかったんだ。
雪美は、お休み処といっていたタケシの言葉を思い出していた。今日は授業をサボっておタネさんの所に行ってしまおうかと思った。
Entry11
ふきのとう
伊勢 湊
新宿駅の南口の雑踏を文字どおりあてもなく歩く。師走が過ぎ年が明けたというのに街は何も変わらずに忙しい。その忙しさと自分の今の状態がつり合わないようで、何か気持ち悪くて早く家に戻りたいけど、戻るべき家もやっぱり堪え難い緊張に覆われていて僕は行き場を見出せずにいる。それはあと少しで終わるようでもあり、でもなんとなくそれほど上手く終わらせられないような気もしている。
去年の春、大学受験に失敗してから十ヶ月になる。予備校に通う毎日は退屈で自分が一体何をしているのか分からなくなる。四六時中ずっと勉強している気にもならず去年の秋まではファミレスでアルバイトもしていたが母さんに「あなたのこの一年は何のためのものなの」と言われて辞めてしまった。親のそんな言葉に逆らう程の確固とした感情もなければ、その理由も見当たらない。友達と会うことがなくなっていったのもその頃からだ。それまでもさほど頻繁に会っていたわけでもないが、些細な出来事が原因でそれまでたまに外で一緒に酒を飲んでいた友達とも会わなくなった。
九月の終わり、少しづつ寒くなってきた秋の日のことだ。仲の良かった高校時代の友達と飲んだ帰りのことだった。特に他意はなかったのだが少し飲み過ぎて気分が良かったのか居酒屋のレジで「いいよ、オレが出すから」と無意識に言っていた。そのあとに返ってきた言葉に、僕は何一つ反論することができなかった。
「おまえ、何いってんだよ。バイト辞めたんだろ?おごってる場合じゃないだろ。だいたいそれ誰の金だよ。そんなことよりさ、さっさと大学受かれよ」
それは友人にしてみれば他意のない一言だったのかもしれない。仲がいいからこそズバリと言えた一言なのかもしれない。言っている内容にだって何の間違いもないだろう。でも結局僕はそこで言葉を失ってしまい、僕が飲み食いした分は就職していたり大学に進んで勉強しながらもアルバイトをしている友人達が出してくれた。僕はそれから友人達の誘いを断ることが多くなって、最後には誘われなくなってしまった。みんなが受験勉強の息抜きをさせてくれようとしていることは分かっていたが、僕はその好意から逃げ出さずにはいられなかった。
何をするにも本気になれないでいた。受験勉強のためだけに一年間を使うのも、稼ぎもしないのに稼いでいる友人と同じように遊ぶのも、受験というやるべきことがありながらとりあえず稼ぐためにバイトをするのも全部が本当じゃないように思えた。だからといってすべきことが見つかるわけでもなく、冷たい風が吹き始めてからは行き場を探して街を彷徨い歩いた。入学試験本番が間近に迫ったこの季節が来て僕はただ人波に流されるまま本屋に立ち寄ったり、デパートの食品売り場を歩いたりして時間を消化していた。ただ、空調の効いた建物の自動ドアを一歩踏み出し、身を切るような空気の冷たい夜の中に身を置いたときには、行き交う人波の頭の上で街の灯りの薄い膜に阻まれほのかに淡く瞬く星が寂しかった。
そのまま人波にまぎれているのも、ましてや電車に乗るのもなんとなく我慢できずに、たくさんの人を飲み込んだ南半球の蟻塚のようなデパートを背に代々木までの薄暗い道を歩く。何かから逃げてここを歩いているはずなのに一人で歩く寂しい道はあまりにも寒くて、そこからも逃げ出すように早足になってしまう。夜だから本当は影なんてできるはずもないのにうっすらと浮かび上がる影を見ながら肩をすぼめ走るように歩いていた、そのときだった。何かにぶつかって大きな音がした。ほんの少しだけ頭に痛みが走った。
「痛えじゃねえか。なにしやがんだ!」
見ると路上には『くらうち弁当』と書かれた自転車が転がっていて、その周りには何かのパーティー用だろうかオードブルの皿がぶちまけられていた。そんなのをぼんやり見ていると一人の男が僕の前にぬっと現れいきなり襟首を掴んでねじりあげようとした。が、その男の背丈はあまりに低く中学生と見間違うくらいの彼には百八十センチ以上ある僕にぶら下がっているような感じになった。
「おめえ、これどうしてくれるんだよ。ふざけんなよ」
声からするとさすがに中学生というわけではないだろう。たぶん同い年くらいだ。その男は額に青筋を浮き上がらせて叫んでいた。
「ええと、すみません」
とは言ったもののどうしたものか。そう思っていると男はいきなり携帯電話を取り出して何か話し始めた。時間は何時までだとか、少し遅れそうだとかそんな話をしていた。きっと店に戻って作りなおさなければならないのだろう。
「すいません。お店の人に一緒に謝りますよ」
自分で稼いでいないということが「弁償」の一言を留まらせた。しかし男はそんな僕に金を要求してきた。
「おまえいまいくら持ってる?」
そう言われるとなんだか腹が立ってきた。
「持ち合わせありませんよ。それにぶつかったのってオレが全面的に悪いわけ?」
しかし男はその言葉には介さず自分の財布を開ける。
「そんなんどうだってええから。それよりオレは三千円しかない。おまえもいくらか出せよ、材料費」
「材料費?」
「そうや、急がんと」
男はそう言いながら落ちずに皿に残った分を大切に拾い上げた。
「空揚げの鳥、枝豆、卵もいるし、結構時間かかりそうやな。揚げ物作らんといけんから油もいるしな」
「そんなの店に帰ったら…」
「アホか。こんなんぶつかってひっくり返しましたなんて店に帰れるか。店も忙しいし、それにドジ呼ばわりされるやろ」
男は真面目な顔をしてそんなことを言っていた。一体どうするつもりなんだろうか。僕にはその男の言葉が何か倍速で再生されたテープの声のように聴こえていた。同じ言葉でありながら、上手く捕らえることが出来なかった。
「だから一緒に謝りますよ。お店に事情説明しましょう」
僕は間違いではない言葉を選んだつもりだったけど、男は僕のいうことには耳を傾けずに大丈夫なものを全部拾い上げてから言った。
「オレが自分で何とかする。ついとることにアパートが近くなんや。自分で作ったる。あと三十分ぐらい待てるってお客さん言うとったからな。お前も手伝えよ」
訳が分からなかった。正直に言うほうがずっと楽だし、潔い。だいたいぶつかった責任の少なくとも半分は僕にある。いや、それで物事が簡単に済むというのならば全部僕のせいにしてもいい。でも事も無げにそういう男を僕は一瞬格好いいと思った。その一瞬が全部だった。僕は飲み込まれていた。もちろん残り三十分しかなかったのだから一瞬だって十分な時間ではあったけれど。
男はケンジと名乗った。高校を出てすぐに大きな弁当屋で働き始めて九ヶ月。つまり僕と同い年だ。でも分かったのはそのくらいで僕たちはデパートの地下を走り回って材料を集めると急いでケンジのアパートに行った。台所と四畳半の部屋。一応料理の業界にいるからなのか四畳半の部屋にしては大きな台所だった。
「急げよ。まず野菜の皮を剥くんや」
ケンジはそう言うと自分は中華鍋に油を注ぎ、フライパンを温め始めた。
「ていねいに剥くんやぞ。店の評判は落とせんからな」
そんなことを言うんだったら正直に店に言えばいいのだ。それとも腕に自信があるのか。詳しくは分からないけど確かに立ち振る舞いはいっぱしの料理人みたいに見えた。素早く衣をつけ空揚げを揚げる。油を変えて白身魚のフライだろうか。同時にフライパンではアスパラのベーコン炒めが出来る。出来たと同時に鍋に湯が沸かされ細いスパゲティーが茹でられる。続いてブロッコリー。たぶんサラダになるのだろう。僕の剥いたじゃがいもは軽く炒められてからオーブンでチーズをのっけられ焼かれる。どれもこれも見たようなメニューではあったけれど、それらが手際良くどんどん出来上がっていく様は圧巻だった。一度バラバラにぶちまけられた皿の上に再び色と形が蘇っていっている。一つずつ、確実に。時計を見た。もうすぐあれから三十分になる。正直にいうと間に合うなんて思っていなかった。いやケンジが本気だなんて思っていなかった。でも今はなんとかなりそうな気になっていた。店に内緒で自分で作り替えちゃおうなんてあんまり立派な行為ではないんだけど、でも、たぶん感動したといっていいんだと思う。もうそれしかないという、悩むのも面倒臭いという、そんなストレートさが眩しかった。
「なっ、なあ、他にやることは?」
「盛り付けや。あとパセリ洗ってくれ」
完成したときにはもう三十分は過ぎていたけれどケンジはお客さんに電話すると目を輝かせ「いくぞ」と僕に声を掛けた。もうひっくり返せない。僕たちは二人して大皿を抱えて走った。薄い影なんて見ている暇なんてなくてただ前を見て走った。お客さんのところまではそんなに遠くなくて走ったといっても五分ちょっとだったけど、それでもそんなに走ったのは久し振りだった。焦ってるケンジには悪かったけど僕は楽しくて笑い出しそうな気分だった。僕たちは息を切らしながらお客さんにオードブルを渡し料金を受け取ると届け先だったビルの一室から外階段をゆっくり歩いて降りて行った。三階の高さから下を見ると街灯に照らされた二人の影が見えた。そうやって見る影は全然悪くなかった。本当に、全然。
もし店にばれていたらと心配になって僕はケンジの働く店の外までついてきたが、十分もすると奴は何もなかったかのように店から出てきた。「早番やったから今日はもう終わりや」と右手にたぶん店での残り物をもらってきた袋を下げていた。
「ばれてなかった?」
「ああ、たぶんな。大丈夫やろ。ばれたら運が悪いいうことやな」
表面的には何もなかったようでもこんな勝手なことをしたのがばれれば店としては相当怒るだろう。何か少し後ろめたい感じがして僕は黙ってケンジの側を歩いた。
「なあ、腹減ったろ。残りもんもろうてきたから食ってけや」
「うん…」
さっきまでの高揚した気分が冷たい空気にさまされていた。自分の感情の熱さよりも外の空気のほうがずっと冷たくて温度を奪っていく。自分がしたことの意味、あんなに興奮した理由、そんなものが燃えのこった炭のように疑問と言う形で冷たく心にしこりとして残っていた。
そんな僕に何を思ったのか、ケンジは「まあ、独り言みたいなもんなんやけど」と言って話し始めた。
「オレな、実は高校で落ちこぼれやってん。一応なそれなりの進学校やったんやで。中学のときも成績良うてな、入るまでは良かったんよ。でもな高校っていろんな中学から人が来るやろ。自分がその中で下の方やったっちゅうのが分かったときにはショックやったなぁ。それからはもう勉強する気もなくなってしもうてゲーセン行ったりカラオケ行ったり酒飲んだり、そんなんばっかやったんや。つまらんあったなぁ。何やっても暇で。そいでな、卒業してからこれじゃあかん思うて東京に来たんや。でもそりゃあ辛くてな。バカやアホや言われて怒鳴られるし、下っ端やからって使いっぱにされたりな。ガキのくせに偉そうにすんなとか、若いうちは辛抱せえとか。そのくせ金とかに困っとると、ないくせに遠慮すんなとか言うんやで。なんちゅうのかな、プライドずたずたやで。でもなこっちに出てきたからには簡単には戻れへん。この先どうなるかは分からんけどそりゃあ仕方ない。やからな少しでもバカにされんようにがむしゃらにすることにしたんや」
それが正しい正しくないじゃなくてケンジが自分で作りなおすと言った気持ちが分かるような気がした。考えていたことが分かったのかケンジは続けた。
「オレかて分かってはいるんやで。店に言わんといけんことなんやいうんは。分かっとるんやけどな、なんちゅうかな。これでもオレ、自分で料理の勉強しとるんや。目標どおり金が貯まったら四月から料理の専門学校にも行きたいんやけど、まあ、それはちょっと微妙なとこやな」
話は終わったのかどうなのか、ケンジは唐突に「おっ」と声をあげると前の方に見える暗がりに早足で進んで行った。僕もそれについていく。近付いて見るとそれは都会の真中には似つかわしくない小さな畑だった。「私有地につき立ち入り禁止」と書かれた板を無視してケンジは壊れた板で組まれた柵をこえていく。
「おい、やばいって」
「大丈夫やって。びびってないでまあ来てみい。面白いもんあるから」
なんとなくここまで来たらまあいいやという感じで僕も柵を跨いだ。ケンジは柵の際にしゃがんで何かを探しているようだったけど、しばらくすると「あった」と声をあげ立ち上がった。そこには二つの小さな緑色の固まりがあった。ミニキャベツみたいな大きさだけどなんかブロッコリーみたいでもある。
「これ食ったことあるか?」
ケンジはそれを僕に差し出した。
「食べれんの?」
「なんや知らんのか。これはふきのとうや。天麩羅にすると旨いで」
「ふきのとう。これが?」
「そうや。こんなとこにもなるんやで」
僕はそれを街の灯りにかざした。初めて見た。東京にはないと思っていたのに。それもこんなビル郡の狭間に。なかなか逞しいんだな、素直にそう思った。
「ところで自分は何しとるんや?」
ふいにそう聞かれ一瞬なにか適当な嘘を考え出そうとした。でもすぐに止めた。馬鹿らしいし、それになんだか情けない。ついでにいえば、それでいいんだと今夜は思えた。ずっと思っていられるといいとも思った。
「浪人生。予備校行ってるんだ。もうすぐ受験」
「なんや、大変なんやなぁ」
そんなことないよ、と言いかけて、やっぱりこれも止めた。
「ああ、大変だよ。ホント」
僕はそういって笑った。それから少し迷ってから言った。
「もう大変ですぐ腹減るから今度からケンジの弁当屋に弁当買い行くよ。嫌かな?」
「アホか。嫌なことあるかい。下っ端やから安うはできんけど、オレが係りのときは黙って大盛りにしたるけん」
少し間をおいて、気持ちが澄んでからきちんと言った。
「ありがとう」
「なにがやねん。大袈裟やな」
いろいろだ。ケンジには分からないかもしれない、いろんなことにありがとうだ。ケンジは笑っていた。
「じゃあオレ行くよ」
「飯は?」
そういうケンジに「オレも忙しいからな。いま追い込みだし」と言うと、ひょいっと柵をこえた。体が軽くなったみたいだ。そう、真剣に追い込みだ。ちょっと遅れたけど。
ケンジはそんな僕に半分持っていけと袋の中から自分の分の弁当を取り出すと袋を柵越しに渡してくれた。
「あっ、これもついでに貰ってく」
僕はそう言って手の中のふきのとうを掲げた。
「おうおう持ってけ持ってけ。天麩羅やぞ」
そして僕はケンジが柵をこえてしまう前に駅へ走り出した。一度振り返って手を振るとちょうど柵をこえようと足を掛けたケンジが大きく手を振り返していた。
Entry12
『紳士の国のホームズ』
橘内 潤
「犯人はこのなかにいる」
ワトソンの問いに、ホームズはあっさり答えた。
「なんだって、ホームズ。じゃあ、例の事件の犯人がもうわかったというのかい?」
「まあね。なに、それほど難しいことじゃないよ」
興奮するワトソンとは対照的に、ホームズはいたって冷静だ。手書きの的に向かってダーツの狙いを定めている姿は、事件よりもダーツのほうが難問だといわんばかりだ。
「だけどホームズ、あの事件はさしもの君も首を捻った難事件だったじゃないか」
「ところが、そうでもなかったんだ。発想を逆転させれば、イギリス一の名探偵であるこの私ならば、簡単に解決できる事件なんだよ」
謎かけのようなホームズの言葉に、ワトソンは首をかしげる。
「ふむ……相変わらず、君にとっての“簡単”は僕にとっての“至難”のようだ。だけど、犯人はあの容疑者四人のうちの誰かなんだろ?」
「ああ、そうだよ――っと」
語尾をかけ声代わりに、ホームズはダーツを投げる。だが、ダーツは的を大きく外して壁に突き刺さる。
ワトソンはそんなホームズにおかまいなしに話しつづける。
「わかった、彼だろ。あの実業家ダグラス・ロンバートが犯人だろ。僕は最初に見たときから彼が怪しいと思っていたんだ。彼は伯爵が殺されたときのアリバイがない。自室で酒を飲んでいたといっていたが、そんなの嘘にきまっている。それにロンバートには動機がある。彼の事業が失敗したは、伯爵が裏であくどい手を使ったからだって、もっぱらの噂だ。なあ、そうだろ、ホームズ?」
そこまで一息に喋って、ワトソンはホームズの答えを待つ。
「そうだな、ワトソン君。ロンバートにはアリバイがなくて動機がある」
「じゃあ、やっぱり――」
「だが彼じゃない。たしかに、ロンバートには殺意があっただろう。睡眠剤と偽って興奮剤を屋敷に持ち込んだのはその証明だ。量を加減すれば薬だろうが、心臓の弱っていた伯爵にはとっては十分な毒だ。しかし、伯爵の死因は心臓発作でも毒殺でもなく、絞殺だった」
「だけどホームズ、あの青年に殺意があったというのなら、やはり伯爵を絞め殺したのは彼じゃないのか?」
「まあ考えてみたまえ。ロンバートは伯爵の飲み物に興奮剤を混ぜて心臓発作を起こすさせようと計画していたわけだ。つまり彼は、伯爵が何者かに殺されたという場合に自分に疑いがかかることを知っていたんだ。もし私が彼だったら、懐に毒を忍ばせながら絞殺したりはしないよ」
「絞殺だったことが、ロンバートが犯人じゃないことの証明だと?」
「そうとはいい切れない。伯爵の顔を見たら、かっとなって――ということかもしれない」
「ふむ……じゃあ、伯爵夫人のマーサ・ブレントについては? 僕はね、彼女の伯爵を見る目が尋常じゃないと思っていたんだよ」
「たしかに夫人にもアリバイがなかったね。本人の言葉によれば、彼女は伯爵が殺された時刻、街に出かけていたそうだが、時間的に犯行が不可能とはいい切れない。伯爵を最後に見たというのは彼女だったから、伯爵を絞殺した後で出かけたのかもしれない。しかし、だとすると動機はなんだろうね、ワトソン君?」
「そりゃホームズ、彼女は伯爵を憎んでいたに違いないよ。君だってあの目つきを見ただろう? 父親の借金のかたに無理やり結婚させられたのだというじゃないか」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。だが絞殺というのは腑に落ちないね。伯爵も老いていたとはいえ、かつては武名を馳せた人だ。夫人の細腕で絞め殺せたとは考えにくい」
「しかし、その考えにくいことが起こったのかもしれないぜ。伯爵ももう年だったのだから」
「そうかもしれない。だが殺すほうの人間の心理を考えてもみたまえ。自分よりも体格の優った人間を殺そうと思ったら、刺殺か毒殺を考えるものだろう」
「だけど、つい発作的に首を絞めたら成功してしまったのかもしれないぜ?」
「そのとおり。つまり夫人についても、白とも黒とも断言はできない」
「ふむ……では伯爵の息子クライド・ブレントが犯人なのかい? 彼は問題となる時刻、テラスで人を待っていたそうだが、それを証言できる人はいない。別段、変わった物音などはしなかったといっていたが、彼が犯人だとしたらそれも当然だろうな」
「そしてクライドにも動機がある。彼は伯爵の財産を勝手に持ち出したことがばれて、勘当されかかっていた。だが伯爵が死んだことで、遺産相続権は彼の手に残った。しかし、彼が人を待っていたというのは本当だ。結局その相手は列車事故で来れなかったが、それを事前に知ることは物理的に不可能だ。事故がなかったら、まさにその相手が来る頃に父親を絞めていたことになる。普通、そんな危険を冒すだろうか?」
「つまり、クライドは犯人じゃないと?」
「まだどちらとも断定はできない、ということだね」
「……まさか、クレイソン男爵夫人が犯人だとはいわないだろうね? 彼女が伯爵を殺したとは、僕には到底思えないね」
「ほう、それはどうしてかね、ワトソン君?」
「どうしてもなにも、未亡人には動機がない。彼女の死んだ夫は伯爵と旧知の仲だったし、男爵が破産しかけたときに私財を投げ打って援助したのも伯爵だったはずだ。未亡人は、伯爵に恩こそあれど恨みがあるはずなんて――」
「ところが、事実はそうでないらしい。調べてみてわかったのだが、男爵の破産騒動は伯爵が画策したことのようなんだ。つまり、伯爵は自分で破産に追い込んだ男爵を自分で救ったことになる」
「男爵に恩を売るつもりだった?」
「そう――正確には男爵夫人にだ。当時、男爵家の使用人だった男によると、伯爵はクレイソン男爵夫人に横恋慕していたのだそうだ」
「まさか伯爵は、借金を肩代わりする見返りに関係を強要したというんじゃ……」
「ブレント夫人の時と同じ手さ。当事者三人のうち二人はすでに死んでいる。未亡人もいまさら醜聞を口外したりはしないだろう。だから真偽の程はわからない。だが、男爵が馬車を暴漢に襲われて亡くなった事件――その裏で、伯爵が糸を引いていたとしたら?」
「なるほど。男爵の死後、未亡人は伯爵を頼った。いや、頼らざるをえなかった。そうだとすれば、未亡人には夫を謀殺された復讐という動機があることになる」
「そしてアリバイがない。未亡人は気分が優れないという理由で自室にこもっていたそうだが、それを証明できるものはいない。ただし、ブレント夫人についてと同様、絞殺という手段を選ぶとは考えにくい」
「つまり未亡人も、黒ではないが白でもないと」
「そのとおり。この事件には物証が一切存在しないんだ」
敗北宣言ともいえる言葉をホームズはしれっと言ってのける。聞いているワトソンの方が穏やかではいられない。
「おいおいホームズ、君はさっき犯人がわかったといったじゃないか」
「結論を急いではいけないよ、ワトソン君。この事件を解決するには、犯人について考える前に容疑者四人の関係について考えなくてはいけないんだ」
「というと?」
「まずロンバートだ。彼とクレイソン未亡人、おそらく一度は関係を持った仲だろうね」
「なんだって!?」
「ほら、四人から事情を聞いた後、廊下にハンカチが落ちていたのを憶えていないかい? あのとき、私たちが拾う前にロンバートが拾いあげて、迷うことなく未亡人に手渡していた。だが、あのハンカチの柄は明らかに男物だったんだ。男爵の形見の品なのだそうだが、なぜそれをロンバートが知っていた?」
「二人はこれまで面識がないといっていたけれど、本当は既知の仲だったと」
「それも、人に聞かれて咄嗟に隠してしまうような関係ということだよ」
「なるほど」
「しかし、クレイソン未亡人はロンバートを愛してなどいない。反対に憎んでいる」
「なんだって……ロンバートと未亡人は浅からぬ関係だといったじゃないか?」
「それはロンバートに自分を信じさせるためだろうね。男爵の乗った馬車が襲われたとき、ロンバートも同乗していたんだ。そのときの御者の証言では、寄りたい場所があるといわれたので普段は通らない裏道を通ったのだそうだ。そして馬車は襲われて男爵は死に、ロンバートは生き残った」
「ホームズ、君にいいたいことはわかったぞ。ロンバートは伯爵に命令されて、男爵の馬車を人通りのない通りに誘導させたというんだろう。そして未亡人はそのことを聞き出すためにロンバートに近づいたというんだろう?」
「その通り。しかしここで興味深いのは、ロンバートの方でも未亡人を愛していなかったということだ。おそらく、ロンバートが伯爵の片棒を担いだという推測は正しいだろう。彼の宇宙は金を中心にまわっている。未亡人に近づいたのも男爵家の財産目当てであって、彼女自身に興味からではない」
「ふむ……」
「このくらいで驚いてもらっては困るよ、ワトソン君。伯爵の息子クライドとその実母ブレント夫人は仲が悪かった。君も感づいていたように、夫人にとって伯爵は憎悪の対象でしかなかった。それは伯爵の血をひいているクライドに対しても同様だったんだ――実の息子だというのにだ。クライドも随分と鬱屈した少年時代を送ったのだろうね、いまでは彼も夫人を憎んでいる。ワトソン君、きみは気づかなかったようだが、夫人のあの目つきは伯爵だけにではなく、クライドにも向けられていたんだよ」
ホームズは一息吐いてつづける。
「歪んだ環境で育ったためか、クライドは自分の意にならない状況や手に入らない物事に対してすぐに激昂するという短絡的な性格だった。ようするに子供なのだな。これは様々な人から証言が取れている。そんな彼が昔一目惚れした相手がクレイソン未亡人だったんだ。しかし伯爵の手前、彼は未亡人に言い寄ることができなかった。そうこうしている間に未亡人がロンバートと一線を超えたことに彼は気がついてしまう」
「なるほど、それで精神的に未熟なクライドはクレイソン未亡人とロンバートを憎むようになった。ロンバートに対しては逆恨み、未亡人に対しては可愛さ余って、というやつだな」
「その通り。だがこれで終わりじゃない。前にいったように、ロンバートは金と他人の命なら、迷うことなく金を選ぶ男だ。もしブレント夫人かクライドが犯人だったとしても、悲しんだり弁護しようと思ったりはしないだろう。むしろ、混乱に乗じて伯爵家の財産を掠め取ろうとするだろうな。クレイソン未亡人にとっても、伯爵の血を継いだクライドが犯人だったとしたら喜ぶにちがいないだろう。ブレント夫人とは似たような境遇同士、友情が生まれるような気もするのだが、実際にはその逆だ。女性というのはたとえ憎い相手であっても、自分と寝た男が他の女性に気をやるというのは許せないものらしい――あるいは矜持の問題なのかもしれない。ともかく、ブレント夫人はクレイソン未亡人に対して冷たく当たっていたそうだ。未亡人の方でも、男爵謀殺の計画を知りながら、なにもしなかった夫人に対して好意的になるいわれはなかった」
「ホームズ、ちょっと待ってくれ。クレイソン夫人は男爵謀殺について知っていたというのかい?」
「ああ、これはまだ話していなかったな。すこし回りくどくなるが、黙って聞いてくれたまえ」
そう前置きして話し出す。
「当時、ロンバートはブレント夫人にも近づいていたんだ。寿命からいっても、伯爵より夫人の方が長生きしていたろうからね。つまり、夫人が相続する遺産を狙っていたんだ。夫人にしてみれば、ロンバートは自分を救い出してくれる白馬の王子にでも見えたのだろう。しかし伯爵が二人の関係を怪しみはじめたので、ロンバートは夫人からあっさり手を引いた。結果から見れば、夫人はロンバートに玩ばれて捨てられたわけだ」
紅茶で唇を湿らせて、先をつづける。
「それがいま、夫人はあのハンカチの一件でロンバートとクレイソン未亡人の関係に気がついてしまった。自分を捨てたロンバートが、自分の夫――憎んでいるとはいえ――の思い人と関係を持っている。いわば二重の侮辱だ。夫人にとって、これほどの屈辱はなかっただろうね。それで夫人は、なんとかして未亡人の鼻をあかしてやりたいと思った。それであのとき――未亡人が馬車に水溜りの水を撥ねかけられて服を汚してしまったとき、『わたしの服を着るといいわ。あなたには、わたしのお古がよく似合うようですから』と言ったのだよ」
「ははあ、なるほど。僕はまた、随分な嫌味をいうと思っていたが、そういう裏があったとは気づかなかった」
「ところがだ、女の直感とでもいうのだろうか、未亡人はその言葉の裏面に気がついてしまったのだよ――夫人とロンバートはかつて深い関係にあったということにだ。それで未亡人は、夫人がロンバートから男爵謀殺の話を聞いていたかもしれないと思ったのだろう。あるいは、自分を嫌っている女性が自分の憎んでいる相手と関係していたということだけで十分に憎悪を掻き立てるものなのかもしれない。ともかく、あの水溜りの一件以来、未亡人の夫人に対する態度が変わっているんだ」
「それはさすがの僕も気づいていたよ。でも、夫人に嫌味をいわれたからだと思っていた」
「ともかく、夫人は自分を捨てたロンバートに対して悪感情しか持っていないし、夫人と未亡人も互いに反目しあっているんだ」
「――ちょっと待ってくれ」
ワトソンが手をあげてホームズを遮る。
「夫人がロンバートを憎んでいたことはわかった。だけどブレント夫人とクレイソン未亡人の軋轢は、伯爵が殺された後に生まれた感情だろう? 事件とまったく関係ないと思うんだがなあ」
「最後まで聞きたまえ。つまりなにが言いたいのかというと、容疑者の四人ともに伯爵殺害の動機があり、アリバイがない。誰にでも犯行ができたといえるし、誰が犯人でも決定的な証拠がない」
「それじゃ、犯人はわからないってことじゃないか」
ホームズは「まあ聞きたまえ」と人さし指でワトソンを制す。
「ここで四人の関係が問題になってくる。四人が四人とも自分以外の三人に対して憎しみを持っているか、まったくの無関心である。すなわち、仮に四人のうちの誰が犯人だったとしても、残る三人が弁護することはないのだよ」
「………」
「そして、この私ホームズは大英帝国が世界に誇る名探偵だ。私が黒だといえば、灰色でも黒になる」
「おいおい、ホームズ……」
「そして、この事件において最重要かつ最優先されるべきことはなにか? それは大英帝国が誇る名探偵に、未解決の事件があってはならないということなのだよ――っと」
ホームズは語尾をかけ声代わりにダーツを投げる。ダーツは今度こそまっすぐに飛び、的に突き刺さった。
ワトソンはようやく気がついた。ダーツの刺さった手書きの的には、四人の容疑者の名前が書きこまれていたのだ。
「つまり、犯人はこのなかに要るんだよ」
Entry13
スカイハイ
るるるぶ☆どっぐちゃん
廃墟だと思った。光に包まれた廃墟だと思った。
もちろんそれは私の錯覚だった。通された部屋は蛍光灯の数がやや多めだっただけで、ごく普通の部屋だった。
またか。と私は思った。思ったが、しかしこのような錯覚にはもう馴れていた。
(もしここが本当に廃墟だったらどうしよう)
小さい頃のように、そう怯えることは無くなっていた。
「お掛けになってお待ち下さい」
薦められたソファに座ると私は部屋に一人残された。
明るい部屋だった。多めの光が部屋中を圧迫し、部屋の色彩を平坦なものにしていた。
「先生、お久しぶりです。調子はどうです?」
デツス卿はいくらも待たせず、笑顔で部屋に現れた。
デツス卿は大柄な男だった。前に会った時よりもまた大きくなっている気がする。
紳士的な物腰。豊かな髭に覆われた穏やかな、自身深げな笑顔。優雅に差し出された右手。自分より弱い物を守ることに馴れた、強い腕。
「まあなんとかやってますよ。なんとかね」
私はそう答えて、彼の握手に応じた。
「この前は、実に面白い話をどうも有り難うございました」
「卿にそう言ってもらえると恐縮です」
「さすがにソラ研究の第一人者であられるお方です」
彼はそう言うと、窓に歩み寄り、ブラインドを開け放った。
「このソラの向こうに広大な世界が広がっている。世界の限界だと思われていたソラの、その先が在る」
彼はソラを仰ぎ見ながら歌うように言った。
「素晴らしい。私達には、まだ先があるのだ」
私の場所からも開け放たれた窓の先にある、ソラが見えた。暗く、深い、私達には見慣れた、ソラがそこに在った。
「ソラの先には何が在るんでしたっけ? 先生」
「ヒルが在ります。そしてその次がヨルです」
「あと何でしたっけ」
「タイヨウが在ります。その小さいものがツキ。そのさらに小さいものがホシです」
「素晴らしい」
彼はそう言うと、大仰な動作で窓を閉め、ソファに歩み寄り、そこに身を沈めた。
「私はソラの学問には無知、故に先生の仰ることを全て理解する事は出来ません。しかし先生、私は先生の仰る事にはとても興味が有りますよ」
「恐縮です」
「本当に素晴らしい」
彼はそう言って、拳を握りしめた。
「私はね。子供の時分から本が大好きで。特に絵本。それに少年向けの冒険物。大好きでしたよ。先生の話ではソラの先はどうやら絵本のようになっている訳では無いようですが」
「すみません」
「先生が謝ってどうするんですか」
「それもそうですが」
「まあとにかく。先生」
「はい」
「あの計画、本当にやってみようと思うんです」
彼は強くそう言った。
「本当に?」
「ええ」
彼は私の言葉に静かに頷いた。そして私の目を強く見た。
「私の理論は証明された訳ではありません」
「解ってます」
「それどころか私の考えは異端、いえ、もっと言えば学会では相手にもされていないのが現状です」
「先生」
彼は私の手を握った。
「私は本気なのです」
彼の手は大きく、強かった。私の両手でさえ、彼の片手で包めるかも知れない。
「先生の理論が異端視されるのは仕方が無いです。先生以外に真面目にソラを研究している学者はほとんどいないのですから。ですから外野の意見はどうだって良いじゃないですか」
「卿」
「先生。私に力を貸して下さい」
彼は一層手に力を込めた。強い力だった。望む物全てを手に入れてきた手。そしてそれが許された手。
私はその手を見つめた。
「ソラの先が在る、先生はそう仰る。先が在る。なら進むべきだ。ねえ先生、そうでしょう。先が在る。素晴らしいことです。人はいつだって先へ進まねばならない」
「ええ」
私は彼の手を見つめながら言った。
「ええ。そうなのでしょうね」
「人は先へ進まねばならない。やりましょう、先生。これは歴史に残る大事業ですよ。あのソラに挑む日が、ついにやってきたのです」
彼は手を奮わせて言った。
「やりましょう。先生の望む物や設備は全て整えさせます。幸い私には少々力がある。大抵のことは何とかなるでしょう。先生」
「解りました」
私がそう言うと、彼の手からは一瞬力が抜けた。そしてすぐにより一層の力を込めて、私の手を握った。
「本当ですか」
「ええ」
「素晴らしい」
「成功の保証はありませんよ」
「勿論、解ってます。大体、失敗なんて恐れていたら何も出来ません」
「そうですね」
「素晴らしい」
彼は私の手をするりと離すと、立ち上がり、再び窓を開け放った。
「ついにあのソラの向こうへ人類は歩み始める。ねえ先生、すぐに始めましょうね」
「ええ」
「素晴らしい」
開け放たれた窓の先に、ソラが見えた。暗く、深い、私達には見慣れたソラがあった。
私はそのソラをじっと見つめた。
「ねえ、先生」
キア女史はハンドルを握りながら私に声をかけてきた。
デツス卿との会談を終えた私は、卿の秘書である彼女に自宅へ送ってもらうことになった。
車は市の中央通りに差し掛かった所だった。あと二十分程で自宅へ着く。
「何でしょうか」
「先生は何故ソラの研究なんて始めたんですの?」
「私は小さい頃から、どうでも良いことが気になるタイプでした」
私は窓の外を眺めた。窓の外にはいつもの風景が流れている。膨大な数のネオンや街灯が暗いソラを埋め尽くしている、いつもの風景。
「いつもどうでも良いことが気になって。色々などうでも良い事を考えてソラをぼうっと眺めている、そんな子供でした。そうやってソラを眺めているうちに、今度はソラ自体が気になるようになってしまって」
彼女は私に質問をしておきながら、あまり聞いていないようだった。その感じが、私を喋らせやすくした。
「何故あんなにソラは遠いのか。深く、暗いのか。あの先には何があるのか。そもそもソラとは何なのか」
「先生」
「なんでしょう」
「先生は、本当にどうでも良い事が気になるお方なのね」
そう言って彼女は笑った。
「ええ。仰る通りです」
彼女を見ながら、私は答えた。
「あたし先生みたいなタイプ、知ってますよ」
「そうですか」
「あたしの弟なんて先生に結構似てたな」
信号が赤に変わる。彼女は車を止め、ハンドルにもたれかかる。
「いつもどうでも良いことばっかり考えてて。ぼうっとした子で。話しかけても返事もロクにしなくて。絵ばっかり描いてましたよ。あたしには解らない絵ばっかり」
「信号。青ですよ」
「あ、ごめんなさい」
彼女はそう言って、さほど慌てた様子も無く車を発進させた。
「あの子はあたしのこと嫌いだったみたいです。あたしはあの子のことが可愛かったからちょっとショックでしたね」
彼女は、ひどく穏やかに笑った。
「あの子は自殺しました。4年前です。仕事も軌道に乗り始めてたみたいだしお嫁さんも貰ったのに。理由は解りません。遺書は無かったし、それにあったとしてもきっとあたしには解らなかったのでしょう。ねえ、先生」
「なんでしょう」
「先生は、あの子に良く似てますね」
「そうですか」
「先生も、きっと早くに死んでしまうのでしょうね」
「そうかもしれません」
彼女は私のその言葉を聞くと微笑み、そして、それからはもう喋らなかった。
時間帯もあり、道は混んでいた。ヘッドライトとテールランプの洪水。私達はその中をゆっくりと進んで行く。
「どうもありがとうございました」
私達は家に着いた。車から降り、歩き出そうとした時、黙っていた彼女が、急に私に声をかけてきた。
「先生」
「なんでしょう」
「あたし、ヒルだとかツキだとか、先生の仰ること、全然解りませんわ」
「そうですか。すいません」
「あたし、全然解らないです」
「すいません」
私は彼女に向かって頭を下げた。
「あたしだって、一生懸命なんですけどね」
「すいません」
彼女は私をじっと見つめていた。私は彼女に何かを答えてあげたかった。しかし私の口からついて出るのは凡庸なことばかりで、何もうまくは言えなかった。
「すいません」
私は彼女に向かって頭を下げた。
「あたしだって一生懸命なんです」
「すいません」
彼女もまた、うまく言えないようだった。彼女は私をじっと見つめていた。
「私も一生懸命です」
私はそう言うのが精一杯だった。
「そうですか」
「はい」
「そう」
彼女は私のその言葉について、しきりに何かを考えているようだった。私は何かを言ってあげたかったが、何も言えなかった。黙っているしか、無かった。
「先生、今日は本当にお疲れ様でした」
彼女は暫く黙っていたが、いきなりそう言うと、車のキーを回し、エンジンを起動させた。
「計画、とにかく頑張ってくださいね」
「ええ」
「それではあたしはこれで失礼します。先生、おやすみなさいませ」
彼女は車を発進させ、行ってしまった。
小さい頃の自分が歩いている。母親に手を引かれて、小さい頃の自分が歩いている。
その日私は初めて公園に行った。何人かの友人が遊んでいた砂場へ、私は母の手を振りきって走った。
初めて入る砂場の広さに圧倒されながら、私は砂へ手を伸ばした。砂はさらさらと手の中で崩れた。私はまた砂へ手を伸ばした。砂はさらさらと手の中で崩れた。その感覚が私には楽しかった。私は暫くそうやって遊んだ。
砂をじっと見ていると、砂が細かい粒の集合であることが解った。。
私はふとこの砂場全体が一体いくらの砂粒から出来ているのか気になった。私は手の中にある砂粒を数え始めた。粒には他より黒いものがあった。白いものがあった。ひどく大きいものがあった。とても小さい物があった。数えているうちに、どこまでが一粒であるのか、私には良く解らなくなっていった。いくらも数えぬうちに風が吹いて、手の中の砂を吹き飛ばしていった。
風の吹いた先には、友人達が造った砂の城があった。砂で出来てるとは思えぬほど巨大で、精巧な、砂の城があった。
(「おい、なにやってるんだよ。こっちへ来て一緒に造ろうぜ」)
(「今度は山を造るぞ。その中にトンネルを掘るんだ」)
(「ちょっと待って。もうすぐだから。もうすぐ終わるから」)
何がもうすぐだったのだろう。何がもうちょっとだったのだろう。私は何が言いたかったのだろう。砂の数を数えて、私はどうしたかったのだろう。
(「ねえ、もうちょっと、もうちょっとだから」)
風が、砂の城を吹き飛ばしていく。私はそれに潰されないように、必死に砂の数を数えている。友人達はそれには見向きもせずに、砂の山を造り始めている。
(「もうちょっと。もうちょっとなんだ」)
そう言った側から、手の中の砂は風に飛ばされていく。私は泣くことも出来ず、なんとか数えようと無駄な動きを繰り返している。
「先生。先生、大丈夫ですか」
「先生」
目を開けると、卿が私を覗き込んでいた。
「ああ、ごめんなさい」
私は上体を起こした。
「大分寝てしまったみたいですね」
「いえ。仕方が無いです。計画もついに最終段階ですからね。先生はここ数日寝ていない。お疲れだったのでしょう」
「そうみたいです」
「お休みになられた方が良かったのでしょうけれど、大分うなされていたものですから」
「私はうなされてましたか」
「はい。少し心配になってしまって」
彼はそう言うと安心したのか、私の肩に置いていた手を離した。彼が手を離した後も、その手の感触は暫く私に残った。強い手の感触だった。何かを積み上げてきた手。何かを作り上げてきた手。
「卿」
「なんでしょう」
「砂場遊びは得意でしたか?」
私は自分の手を見ながら言った。
「砂場、ですか?」
「はい」
卿は少し考え、そして、
「覚えてませんね」
と言った。
「そうですか」
「砂場遊びとかはすぐ飽きてしまって。いじめっ子から女の子を守ったり、とかは覚えてますけど」
「そうですか」
「でも砂場遊びが何か?」
「いえ、何でも無いです」
私は立ち上がり、机に向かった。
「さて、もう少しですね。とにかく頑張りますよ」
「お願いします。でもご無理はされぬよう」
そう言うと卿は部屋から出ていった。
私は一人残された。
それからすぐに計画は完了した。
「いよいよ、ですね」
「ええ」
卿は興奮を隠しきれない様子だった。私の手を握り、じっとソラを眺めていた。
「では始めましょう」
私がそう言うと、係員は一斉に指示通りに動き始め、ソラへのアクセスを開始した。
ごごごご。
私達の見守る中、ソラはゆっくりとその黒い体を開き始めた。
「おお」
歓声が上がった。
私達の目に最初に飛び込んできたのは、青だった。今までみたことも無い、どこまでも抜けるような青だった。
そしてタイヨウ。ソラの闇も、青も、全て引き裂くように現れたそれは、想像よりもずっと大きく、ずっと明るく、ずっと優しく、ずっと光に満ちていた。
「うわああ」
タイヨウ。
そのタイヨウの下。
「ぎゃああ」
私達の体は、ゆっくりと燃え始めた。
人々は体に火をまとわせ、逃げまどい始めた。デツス卿もスタッフも、転げ回り、走り、必死に逃げ場を探していた。
「燃えてますわね」
「キアさん」
わたしの後にいつの間にか彼女が立っていた。
「ええ。燃えてますね」
ゆっくりと私は答えた。
不思議と熱さはあまり感じなかった。
「こうなることは解ってたんですの?」
「少しだけ予想外でした」
「そう」
彼女もあまり熱さを感じてはいないようだった。私達は並んで腰を降ろし、タイヨウを見上げた。
「世界は滅びるのですか?」
「どうでしょう」
私はタイヨウを見上げながら答えた。
「でも多分滅びはしないでしょう。ヨルはタイヨウは隠れているのだし、それに、あの人達は、砂でお城を造れるような人達ですから」
「砂? 先生、何を仰ってるの?」
「いえ、何でもありません」
「先生の仰ることは、やはりあたし解らないわ」
そう言って彼女は笑った。
「すいません」
そう言って私は彼女に頭を下げた。
私達は燃えていた。目映い太陽の光を一身に浴び、私達はゆっくりと燃えていた。
私の小さな手は、もう殆ど炭化してしまっていた。何も掴むことのないまま、その手はゆっくりと崩れ落ちていった。
(私は何も掴むことが無かった)
その崩れていった手を見ながら私はそう思った。
ずっと砂を数え続け、ずっとソラを見上げ、欲しいもの何一つ手に入れぬまま、何一つみつからぬまま。
何一つ掴めぬまま。
「でもねキアさん」
「なあに、先生」
「私はね。私はやっと、やっと何かを言えた気がします」
ソラを見上げ、私はそう言った。
私はもうあの砂の城を造ろうとさえしないだろうと思った。何一つ掴まないまま崩れ落ちていった私の小さな手を、私は、少し誇らしく思った。
「先生。でも、先生はまだ何も仰られてませんわ」
「そうですか。では言いましょう」
その後私が何を言ったのかは覚えていない。
だがその言葉がするりと、本当に自然に、まるで赤子の産まれて初めての泣き声のようにするりと私の喉から抜けていったことを、私は今でも覚えている。
Entry14
訓練
理夢
一月二十五日 天気不明
今日から日記をつけることにする。
しかし、何を書けばいいのか思いつかず、そのことを中佐に相談すると、自分の人生を思い出して書くと自己の分析になる、との助言を得られた。確かに、今日は自己の分析や自分の今の感情をうまくまとめられるかもと言う僅かな期待をもって日記をつけることにしたから、その的確な助言を受け入れようと思う。それにしても、先日中佐殿は若干十七歳にしてここに配属されて、多くの同僚が人事部に異議を申し入れたと聞いて、私もどのような方かと心配していたが、今日の助言を受けて、私自身は中佐殿に信頼を置いてもよいのではないかと思う。
話がそれた。
私がこの**軍戦略ミサイル部隊(*は検閲により削除された)に配属されたのはちょうど三年前。そう、よく考えてみれば今の中佐殿と同じ歳に配属されたのだ。私が何故この部隊に配属になったかと言うと、適性検査で私には殺意と言うものが欠落していると診断されたからだ、さらに診断医は人を殺傷することにひどい嫌悪感を持っているとも言っていた。確かに私は入隊してすぐに行われる仮想現実訓練で歴代誰もなしえなかった愚行、敵とされる幻想に向かって銃口を向けることすら出来ない、ということをやってのけたのだ。その診断は的を射ているのだろう。私は仮想空間の中で敵に囲まれてあっという間に蜂の巣にされてしまったのだ。兵士としての適性検査で私は落第になってしまった。そして配属されたのがミサイル部隊だった。敵から私は遠ざけられたのだ。初め私はミサイル格納庫に勤めていた。今思えばあの当時が一番私にとって幸せな時期だったのかもしれない。それから一年後、私は一度唐突に部隊を移され、技術部にまわされた。唐突な配置換えは軍の特徴とはいえ、私は当時、劇的な環境の変化に戸惑いを感じたのを覚えている。しかし、技術部で私が受けた講義は戸惑いを払拭してくれた。ミサイルに関しての講義だったからだ。私はすぐに自分がミサイル発射にかかわる部署に移動されることになると思った。予想通り一年後に今のミサイル発射部署に移動になった。其れからの生活はまた劇的に代わってしまった。一日三交代、きっちり八時間が待機時間になった。それ以外の時間もきっちり制限されるようになってしまい、其れまで日課にしていたテレビも制限された。一日に一時間私が指定して了承されたものだけだ。最近はドラマを見ていた。どこにでもあるような恋愛ドラマだ。そういえばもうすぐ最終回だったがどうなったのだろう。
また話がそれてしまった。
私が今いるミサイル発射部隊は極めて軍の中でも重要な位置にある部隊なのだそうだ。実際、扱っているミサイルは小さな島国なら、その存在を忘れてしまうくらいに消し去ることが出来るほどに強力だ。そのため、抑止力としてこれは重要な位置にあるのだ。と、前中佐は言っていた。手順は簡単なものだった、まず指令室に発射命令が下る。其れを私に伝える。私は金庫からキーを取り出し、安全装置を解除、72項目の発射シーケンスだが三分以内に終えられる。そして、司令室に発射コードを聞き、入力、キーをまわし、発射ボタンを押す。たったそれだけだ。それだけで島国がなくなってしまうのだから、これは恐怖を通り越して奇妙としか言い様がなく、私には現実感が全くない。と言っても、実際に武器として使われたことのない兵器に現実感を持つのはひどく不自然な気がする。
私の持っている悩みと言うのも、この不自然さからきているのかもしれない。
本題に入る前にこの部隊について少し書こうと思う。この部隊には、と言うよりもどこの軍隊にもあるだろうが、訓練と言うものがある。実践がなければ訓練をするのは当然のことだろう。その当然の訓練を私は何度もやっている。今日もそうだった。しかし、これは俗に言う、実践さながらの訓練である。実際ミサイルは発射されないものの、発射シーケンス、発射コード、キー解除、発射ボタンを押すことは実際に行われる。私にとっては実践そのものなのだ。これだけを聞いたらただの訓練に聞こえるが、この実践さながらの訓練には、私にとっては、とんでもないからくりがあるのだ。其れはまず、最初の司令室から来る命令に、其れを訓練と判断する言葉が込められていないのだ。そして、発射ボタンを押し、そのことを司令室に報告するときに、
「発射訓練、ご苦労であった」
と、一言言われて、先ほどのが訓練であったか、実践であったかの判断が出来るのだ。これは私にとっては一大事だ。自分の手で人を殺めてしまうかどうかも分からずに発射ボタンを押すときの緊張は誰にもわかってもらえないだろう。何度、司令室に命令が訓練であるか実践であるかはっきりさせるように言ったかわからない。しかし、返ってくる答えはいつも変わらない。
「貴官の要請は受けることは出来ない、何故なら、我々は戦時下ではないにしろ、その時と同じほどの緊張感を持っていなければならないからである。」
と、それだけだ。
全くの軍隊的正論、私個人の感情を無視した正論である。あまりにも司令室に同じ内容の要請書を出したので、前中佐に呼ばれたことがある。そして、訓練の重要性、士気の重要性の類の話を延々と聞かされ、辟易しながら眠りについたのを覚えている。
それから私は司令室にも、もちろん前中佐にも要請は出さなかった。私は常に曖昧な任務についている。
しかし、任務自体は単純、加えて、訓練がある週に一回、多くて二回程度。そうなると一年近くやっていて慣れないというほうがおかしい。ほんの十日くらい前までは、忠実に任務を遂行していた。命令を受ければ三分以内にシーケンスを終らせ、ボタンを押していた。何の疑問も抱かずに。
変調が起きたのは、今からちょうど十日前、一月十五日のこと。私の前の当番になっている、秋月中尉が中佐(この場合は前中佐)を殺害、そして銃口を口に入れ、自分の頭部を撃つ。と言う事件が起きたのだ。詳しい内容は伏せられているが、当初私には関係ないような事件に思われた。そして、事件の後新しい中佐が来た。先の若干十七歳の中佐だ。そして、そのときは何故だか分からなかったが、テレビを見るのを禁止された。
私は強い不満を感じ、中佐に直談判した。当初は直談判であったが、中佐のあどけない顔を見ているうちになぜか私は愚痴をいっていた。あれは今思うと久々に歳の近いものに出会って親近感を沸かせたからかもしれない。私だって二十一歳になったばかりだ。
話がそれた。
変調はまだ在る。週に一、二回程度だった訓練がどういうわけか最近、週に頻繁に行われるのだ。先週は五回だった、よく考えてみたら、先々週、つまり秋月中尉が自害した週は三回だった。そして、今週に入ってまだ一日しか経っていないのに、今日だけで二回あったのだ。一日に二回訓練があったことは今まで一度だって私が当直の時にはなかった。二回目の訓練をしているときにふと思った。
「これは本当に訓練だったのか?」
と、思ってしまったが最期、どうにもその疑念が頭から離れない。
「本当に訓練だったのか?実は本当に発射されたのではないか?」
などと、発射室で悶々と考えていた。
「訓練に決まっているじゃないか、なぜなら発射に伴う振動だってなかったじゃないか」
などと自分に言い聞かせてみるが、
「ハッ、何おめでたいこと言ってるんだ、映画みたいにロケットが地響きを伴って飛んでいくとでも思ってるのか?技術部でも無音、無振動のミサイル論文を何度読んだと思っている、お前だって其の類の論文を残したじゃないか」
などと、完全に言いくるめられ、むしろその疑念は深まっていくばかりである。
そうなってくると、全てが疑わしくなる。まず、回数の増えた訓練。これは、本当に戦争が始まったのではないか。そして、秋月中尉の中佐殺害、そして自害。これは秋月中尉がこの訓練が実は訓練ではなかったことを何らかの方法で知り、そして中佐を殺害、そして自害したのではないか。さらに、突然規制されたテレビ鑑賞。これは、戦争が起きているかどうか、むしろ、ミサイルが発射されどこかに着弾したのではないか、などの情報を私に見せないために行っているのではないか。そして、新しく入った中佐。年端も行かない年齢の者にさせたのは、上層部から操作しやすいため、あるいは殺害されても支障が出ないため。もしかしたら中佐は何も知らされていないのかもしれない。中佐さえも訓練であると命令され・・・
そういう考えが浮かんで着ては、沈んでいく。
今日、中佐にそのことを話そうと思った。しかし、実際は日記の書き方と言う、関係のない話をしてしまった。それは、中佐がもし訓練であると信じていたら?もし、事実を知っていたら私は中佐をどうしてしまうだろう。そんなことを考えていたら話す機会を失っていたからだ。
私は嘘は嫌いだ。だから、中佐に行った通りに日記を書いてみた。でも、結果は自己分析には程遠いものになってしまった。
これが訓練であるかどうかを調べる方法はないものか。
残念ながら今日はもう寝る時間になってしまった。考えながら寝ることにしよう。
――私はいつもの通りに、発射室にいる。
いつも通りの姿勢で命令がこないか待っている。
昨日、眠りに入る寸前に私の悩みを解決する、かどうかはわからないが少なくともこれが訓練であるかどうか見分ける方法を思いついた。
すると、測ったように司令室から発射の命令が来た。
私はすばやく金庫のダイヤルを三回転半させ、発射キーを取り出す。
そして、洗練されたピアニストのような手つきで70項目の解除シーケンスを終える。そして、二項目の座標決定シーケンスを今度は慎重に行う。この間二分、最速だ。
そして、司令室に発射コードを聞く。
「発射コードは2353214tdfhだ」
「了解」
短いやり取り。私は慣れた手つきでコードを押す。
突然、ヘッドホンにノイズが入った。
私は気にも留めずに、キーを挿し、まわす。
「…きさ……わかって…か…」
なにやら司令室がサワガシイ。
気にせずに発射ボタンを押す。
「やめろ――――」
ヘッドホンに司令室からの怒号と悲鳴が聞こえる。
どうやら、これは訓練ではないみたいだ。
わずらわしくなってヘッドホンを脱ぎ捨てる。
シズカニナッタ。
よく見ると自分の手が震えていた。
ソレはソウだろう。誰だって自分が死ぬのはコワイ。
分かっていた。
今から数分もしないで自分の真上にミサイルが降ってくるのだ。震えないわけがない。
単純なこと、着弾座標を自分のこの施設にしたのだ。
それだけで、コレガクンレンカドウカワカッテシマッタ。
後数十秒の命だ。
と、唐突に発射室の扉が開く。
ゆっくりとした足取りで中佐が入ってきた。
「自分のやったことがわかっているのか!?」
中佐は歳に似合わず重みのある声でいった。
「これは訓練じゃなかったんですね」
それに引き換え歳の行った私の声の方は軽い。
後数秒の命と思うと年端も行かない中佐にも軽くいえる。
「中佐は知っていたんですね、これが訓練じゃないって」
「いや、全て知っていたさ」
「なんてこった、かわいい顔してひどいもんだ、でもお気の毒に私と言う異端児がいたせいでこの施設、と言わずここ一帯が焼け野原になってしまうんですから、ど、どうもすいませんでした」
言っているうちに自分がとんでもないことをやってしまったと思い、ガチガチと歯が合わなくなってきた。
「こんなクンレンやめようと私は何度も提言したんだ、しかし、上層部のお偉方にはわかってもらえなかったよ」
「お、おたが、お互い上司にめぐまれません、ね」
「まったくだ、ははは」
そういって、中佐は屈託なく哂う。それに違和感を覚えた。
「中佐は怖くないのですか、自分の上にミサイルが降ってくるんですよ」
「私だって死ぬのは怖いさ、しかし、今回は死ぬことはない」
狂ってしまわれたのか…
「全く、私の隊からも脱落者が出るとはな」
「は?何を言っているのですか?」
中佐はワケノワカラナイ事をイッテイル。
「だから、この任務で脱落者を出したことをなげいているのだ」
「脱落者とは?何を言っているのですか?」
「まさか、まだ気が付いていないのかい?これはクンレンではないが、君たちが発射兵としての適正を持っているかどうかを見るものだったんだよ」
中佐が笑いながらナニカヲイッテイル。
「だから君は適正外となってしまったわけだ、全く残念…おっと動くんじゃない」
中佐はすばやく銃を構える。私が動こうとしたからだ。私が中佐に飛びかかろうとしたからだ。
「私は前中佐のように話し合おうとは思わないよ、中尉殿」
そういって、私の右太ももを撃ち抜いた。室内に銃声が、頭に響くほどの轟音で、響いた。
そうだ、銃声ですらこのように響くのだ。ましてミサイルが無音で飛んでいくわけがない。簡単なことだ。
ソウ、カンタンナコトダッタ。
私は無様に発射室の床に横たわるしかなかった。
「そう、おとなしくしていれば悪いようにはしないよ」
そういって中佐は先ほど私が捨てたヘッドホンを取り、
「中尉を取り押さえました、クンレンは終了です」
そう、訓練は終ったのだ。私は危険思想を持った人間として扱われ、精神科にでも入らされることだろう。
「なんですか?よく聞き取れません」
中尉が突然大きな声を出した。
「何があったんですか?」
私は首だけを中佐に向けて聞いた。
「……」
「中佐!!!」
「…ミサイルが、発射されてしまった」
顔を白くさせて中佐がつぶやくように言った。
「なんでですか!」
「司令室が!間違って、正しいコードをお前に教えたらしい…」
殆どかすれるくらいの大声で中佐が言った。その言い方で、其れが決して冗談はないことがわかった。
そうか、あれは正しいコードだったのか…
そう思ったらなんだか笑えてきた。
笑っているうちに唐突に意識が途切れた。
私はシアワセダッタカモシレナイ。
苦しまずに逝けたのだから………。
以上がクンレンの結果です。
霧島中佐と、新庄中尉は軍医の治療を受けていますが、精神に大きな障害を持っていますので現場復帰は難しいと思われます。
「そうか」
と、私は言って参謀を下がらせた。
どうやらこの訓練はしっぱいだったようだ。
私は、作戦を書いた書類をまとめて不可とした。
霧島中佐と、新庄中尉には名誉勲章が贈られることだろう。
それが、本当に名誉なことかはワカラナイガ・・・。
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