Entry1
シンクロニシティ
頴川 契・・・・・
私は治療院の受付をしている。ここでは按摩・鍼などの伝統的な施術を行う。古風な響きで、どこか寂れたイメージがあるが、肩こりや腰痛と言った現代病のお陰で、連日、大いに賑わっていた。
私の主な仕事は、そんな患者たちの治療時間の予約を聞き(電話が多い)、カルテを付け、治療が終わったら送り出す、という具合だ。最初の内こそ覚える事が多くて大変だったが、3年もの月日が経った今、目をつぶってでもこなせるようになった。
毎日同じ作業、同じ台詞、同じ顔ぶれ――。こんな日々が永遠に続くふうに思われた。
その日も一本の予約の電話から始まった。
「もしもしぃ? えーと、えーと、按摩をしてもらいたいんですけどぉ」
鼻に掛かった女の声。意外と患者には若い女性が多い。私は答える。
「はい。10時からのご予約をお承りできます」
「えぇーと、じゃあ、それでお願いしますぅ」
名前と希望の治療師を聞いた後、私は電話を切ってカルテを開く。須田ひとみ。年齢、35歳。
35歳?
それにしては酷く幼い声だった。しかも、2回ほど来院しているので、私は彼女をおぼろげながら記憶していた。もう少し態度がしっかりした雰囲気だったはずだ。
二重人格か?
一瞬、頭に突飛な考えが浮かんだ。しかし、まあ、電話になれば声が1オクターブ上がる人もいるし、別段、不思議がる事でもないかも知れない。
ところが、10時を10分過ぎても20分過ぎても、一向にやって来る気配がない。私は連絡を取ってみた。
コール2回で相手が応答する。
「もしもし……?」
40分前とは打って変わって、落ち着いた感じの声だ。
「あ、こちらは治療院ですが、本日10時のご予約の件で……」
「予約? 何の事ですか?」
「え? 須田ひとみさんですよね?」
「はい。そうですが」
「先ほど、按摩のご予約をされましたよね?」
「いいえ。してません」
「ええ!? そんなはずは……。い、いえ、それなら良いんです。失礼しました」
自分に非があるとは思えなかったが、ひとまず謝ると、彼女は何も言わずに電話を切った。
訳が分からない。こんな事は過去に一度だってなかった。
私は電話の着信履歴を調べた。そして、カルテの電話番号と見比べる。――全く同じ数字だ。ついでに発信履歴も見てみた。そこにも同一の数字が並んでいる。
あまりにも呆気に取られた顔をしていたのだろう、横を通り掛かった治療師の先生が怪訝そうに尋ねた。
「どうしたの? ぼーっとしちゃって」
「それが、その……」
私は今までの経緯を語った。先生は聞き終わるやいなや、急き込んで話す。
「ああ! あれよ、あれ! 何だっけ、エルメスの『ケリー』に似た奴……」
このブランド好きの女の先生は、どんな事でもブランドに結び付けて覚えている。
「もしかして『24人のビリー・ミリガン』ですか?」
「そうそう! 幼児から凶悪な犯罪者まで色々な人格を持つっていう……。多重人格者よ」
「まさか」
「最初に受けた『えーと』を連発するのが怪しいわ。いい大人なんでしょ? その時は子供の人格が現れていたのよ」
「そうなんでしょうか……」
私たちが話し合っている所へ、遅番の受付の後輩が出勤してきた。
「どうしたんですか? お二人とも真剣な顔で」
彼女にも早速、説明する。すると、別の意見が飛び出した。
「それは、絶対、宇宙からの交信を受けたんですよ!」
「はあ?」
呆然とする私たちに構わず、同僚は語り続ける。
「予約を頼んだ後、治療院に行くなという宇宙のメッセージを受信したんですよ。でも、こんな事、人には言えませんよね。だから、『予約してません』と嘘を吐いたんです」
按摩に来なかったのは何か理由があるとの意見は筋が通っていて頷けるが、その原因が「宇宙からの指令」とは……。
私は苦笑しながら後輩の顔を見た。そう言えば、彼女、最近、「スタートレック」に凝っていると話してたっけ……。
私は、ほっと一つ、溜め息を漏らす。
「ま、とにかく結局来ないんだし、これはこれで良しとしようか」
その後、しばらくは気になっていたが、仕事が忙しくなるにつれて、この出来事は意識の彼方へと消えていった。
勤めが終わり家に帰ってみると、留守電のランプが点滅していた。ボタンを押して録音されたメッセージを聞いてみる。長い間、会っていない友だちからだった。
すぐに私はその旧友に電話を掛けた。
「もしもし、あ、久しぶりー。元気にしてた?」
「元気、元気。全然、連絡しなくて、ごめんねー。引っ越しとかで、ばたばたしてて」
「引っ越し?」
「そう! 近くに来たのよー。あ! 明後日、遊びに来ない?」
「うん、行く行く。どこなの?」
「えーと、ね……」
こう友人が話す住所に何となく覚えがあった。今まで縁があった場所ではないし、どこで目にしたのだろう……。
一瞬、受け答えが途絶えたのに勘付き、友だちは心配そうに聞いた。
「平気? 都合悪い?」
「う、ううん。違うの。じゃ、よろしくね」
「分かった。待ってる」
次の日、職場でカルテの「す」の項をめくっている途中、手が止まった。
例の「須田ひとみ」さん、昨夜、約束した旧友と住所が一緒だ! しかも隣りの部屋!!
偶然の一致? それとも何かの意志が……。
私は動悸、息切れ、眩暈、「救心」が必要な症状に一気に襲われた。
休みになり、1年ぶりに友人と会うのに、私の心は鬱々として晴れなかった。問題のマンションの階段をのろのろ上り、チャイムを渋々鳴らす。すでに足音で分かっていたのか、いきなり友だちが顔を出した。
「さあ、上がって、上がって」
別れたのが、ついこの間のように奥へ誘う。ワンルームながら外観も内部も綺麗でこざっぱりとしている。
「なかなか素敵な住まいね」
「でしょー? 相変わらず一部屋だけだけど、前の所よりちょっと広くて家賃は一緒なんだ」
それからも友人は、勤め先にもより近くなったとか、安いスーパーマーケットが近所にあるとか、喋り続けた。しかし、私は落ち着かなくて上の空で相槌を打つ。
「どうかした? 他の用事でもあった?」
「う、うん。あると言うか、ないと言うか……」
煮え切らない私の態度に、友だちはきょとんとする。
「ね、ねえ。横の人って見た事ある?」
私は思い切って尋ねた。ここは端っこなので隣りは一つしかない。
「あー? 引っ越しした時に挨拶に行ったけど」
「どんな感じだった?」
「うーん。あまり覚えてないけど、30代半ばで落ち着いた雰囲気の人だったかなぁ」
ほぼ間違いない。私の記憶に残っている「須田ひとみ」さんだ。
「ここ2、3日のうちに会った?」
「そう言えば物音がしないな。見栄えが良くても安普請だから、結構音が聞こえるのよね。――何があったの?」
友人は身を乗り出して質問する。
「それがさぁ、世にも奇妙な話で……」
私は、一昨日からの一連の出来事を語った。案の定、旧友は喜色満面で立ち上がる。女のくせに昔と変わらずオカルトの類いが好きなようだ。
「へえ! 面白いじゃない! 早速、覗いてみよう」
さっさとベランダへと向かう。
「そこから見えるの?」
「首を捻ったらね。――だめだ。カーテンが閉まってる」
中へ入り、今度は壁に耳を当てた。
「なあーんにも聞こえないや」
お手上げの状態で、また、すたすたと玄関のほうへ歩く。
「つ、次はどこへ?」
「表から様子が分からないかと思って」
二人して隣りの扉の前に立つ。郵便受けからも覗いたが、ボックス式になっているので、真っ暗闇が広がるばかりだ。
「挨拶に行った時は、平日はいなくて週末はいたんだけど……。今日は休みだから在宅の確立としては高いはずよね」
「でも、その前に旅行に出掛けたとか」
「だったら按摩の予約を入れたのはどうして? あまり旅行直前には行かないでしょ」
友人は思い付いた考えを話す。
「こういうのはどう? 何者かによって監禁されているの。あ、後輩の子が話した宇宙人かも知れないな」
私は爬虫類っぽい人外生物が隣りの部屋を占拠している光景を想像してしまった。
「止めてよ。気持ち悪い」
こんな所で議論していても始まらないので、3日ほど経っても動きが見られなかったら、管理人に連絡を入れようと話がまとまった。
「さて……」
部屋に戻ろうと体の向きを変えて、何気なくドアノブに手を掛けた。すると扉が開くではないか!
「え!? 嘘……」
「無用心だなー」
私たちは顔を見合わせた後、玄関の中へ首を突っ込んだ。
「須田さん、いらっしゃいますか……?」
恐る恐る声を掛ける。部屋は薄暗くて、よく見えない。
つんとした酸っぱい臭いが鼻を突く。
胸の鼓動が激しくなった。
ようやく目が慣れてきて、全体が分かるように……。
「な、何!? これ!?」
辺り一面、ゼリー状の粘着性がある物体がはびこっていた。十字架に掛けられたイエスのごとく、それによって天井から吊り下げられている女性の姿があった。
「須田さん!!」
叫ぶと同時に、その傍らに立つ人物に気付く。いや、人物ではない。
濃い緑色の皮膚、顔の半分を占めている大きな目、尖った口、三本の指……。
宇宙人!?
「きゃー!!」
私は夢中で友人に取りすがる。彼女は果敢に向かって行こうとした。
「助けなきゃ!」
「止めて! 危ない!」
制止する私を振り切って、友だちは須田さんに近寄る。宇宙人が素早く動き、彼女に挑み掛かった。旧友は応戦するが、背丈が劣っているにもかかわらず、宇宙人の力は強いようだ。腕を掴まれた友人が苦悶の表情を表す。
「こ、これは夢よ……。こんなの現実のはずない!」
私は頭を抱えながら意味不明に喚く。
「もう嫌!! 消えてなくなって!!!」
どれくらい時間が経ったのか。本当は数秒間かも知れない。肩を叩かれた拍子に私は顔を上げた。そこには生きている友人の姿があった。
「どうなったの……?」
首を巡らすと、あのねばねばの物質や宇宙人は影も形もなくなっている。傍には須田さんが失神した状態で横たわっていた。
「何があったの?」
茫然自失として、私は彼女に尋ねる。
「あたしにも理解不明。あんたが大声を上げた途端、一瞬のうちに消えちゃった」
そう言って肩を竦める。
「訳が分からないわ……」
私は、まだ夢覚めやらぬ心地で呟いた。
「とりあえず救急車呼ぶ? 警察にも言ったほうが良いか」
「うーん、警察に何て話す?」
「……そうだね。119番だけにしよう」
程なくサイレンが鳴り響き、救急隊員によって須田さんは病院に運ばれた。成り行き上、私たちが付き添う。
医師の処置が終わり、須田さんは外傷などの異常は認められないと説明された。
「ただ」
と、医者が前置きする。
「今までに例がない脳波の動きがありまして……。アルファ波とシータ波が交互に出るんです。アルファ波とは何かに没頭している時、シータ波とは熟睡と意識のある時の中間的な状態の場合、それぞれ現れる脳波なんですが……。聞いたところによると、部屋で気絶しているのを発見しただけとの事ですよね?」
私と友人は俯きながら、こっそりと目を合わす。直感だが、この若い医師に何もかも打ち明けてしまったほうが良いと思った。彼女も頷いて同意を示す。
「実は――」
私は最初から順を追って説明した。
熱心に耳を傾けていた医者は、宇宙人登場の段になって、徐々に目を見開いていった。
「なるほど、あなたが想像したのとそっくりの宇宙人がいたんですね」
「はい。もう心臓が止まるかと思うくらい、びっくりしました」
「そして、消えてしまえと念じた瞬間、何もかもなくなった……」
物事を整理しながら、重大な件に気が付いた。
今まで、私が思い描いた通りの事が現実に起こっている……?
「先生、私……」
「いやいや、あなたのせいではありませんよ。今まで、こんな体験なかったでしょう?」
医者が自分の考えに慄く私を慰めた時、看護婦が近寄ってきた。
「患者さんが目を覚まされました」
「ああ、じゃ、あなたがた、お見舞いに行って下さい。僕は関係部署に連絡します。少し待っていて下さいね」
須田さんはベッドに上に座っていた。顔は青ざめているものの、目にはしっかりした光が宿っている。
「気分はいかがですか?」
私が話し掛けると、弱々しく微笑み返した。
「倒れているのを助けて頂いたそうで、ありがとうございます」
頭を深々と下げるのを見て、友人が慌てて抱き起こす。
「良いんですよ。隣りに住んでいる者同士ですし」
「ああ。あなたは……。そうでしたね」
それから、私のほうを見る。
「私はたまたま遊びに来ていただけで……。でも正確に言うと、ちょっと違いますね。治療院の受付をしている者です」
「あ!」
須田さんは鋭く声を上げて、口に手を当てた。
「私、一昨日、予約して……。それから、気を失ってしまったみたいなんです……」
「気絶した? その後の私からの電話は知らないんですか?」
「ええ。覚えていません……」
私は狐に抓まれたようになった。
「失礼ですが、電話する時、幼い声になると言われません?」
横から友だちが質問する。
「はい。緊張して『えーと』を連発してしまうんです」
となると、一番最初の電話は須田さん本人になる。では、あの元々の彼女の声の主は?
私ははっとした。あの時、私は須田さんの声を思い出していた。やっぱり私が影響を及ぼしている……?
私が思い悩んでいると、先ほどの医師が、貫禄がある、いかにも博士然とした老齢の人物を伴って現れた。博士は私には目もくれず、まっすぐに須田さんのほうへ歩み寄る。
「あなたは以前から予知夢を見たり虫の知らせを感じたりしませんか?」
「え? は、はい。よくあります」
「やっぱり。あなたにはシンクロニシティの能力があるんです。それも強力な」
「シン……? 何ですか、それ」
「日本語に直したら共時性もしくは同時共調性と呼ばれます。相手が想像した物事を、あなたが具現化させるのです。例えば、お母さんが子供に元気に育ってほしいと願いますね。当人や周りの努力、その他諸々の要因もありますが、大概の場合は逞しく成長します。こう言うふうにシンクロニシティは極めて一般的な能力なのです。その中でも特に双子同士などは共時性が強いと言われています。さらに、あなたは、ずば抜けた能力を持っています。ここまで具体的な状態を形成するとは想像以上です。しかし、それと共に非常に危険です。一歩間違えば生命も危ぶまれる。是非、我が研究所で保護したいのです」
博士が差し出した名刺には「超科学研究所」と刷り込まれていた。
「よろしくお願いします」
須田さんは静かにお辞儀をした。
病室を出た後、医師に「今の事は他言しないよう」と釘を刺された。元より、誰に喋ろうとも思わない。信じてくれる範囲ではないのだ。
しかし、退屈な毎日に少しだけ新鮮な風が流れた気がした。
Entry2
二色の花火
立花聡・・・・・
満たされない思いは徐々に膨らみ、私の足下から浸水してきた。生温い水に飲まれていくにつれて、何か急かされたような傲慢な態度や、つまらない虚勢の張り方に抗っていた自分を放り投げる。感じる事も理解する事も困難になる。
酒に酔った人間は平気で人を傷つける。私はその都度腹を立て、そしてそれは彼等の格好の肴に変貌する。ふらふらと泳ぎ回る弱体化した魚を見て、彼等はまた増長し、魚に向け水面に石を投げ入れる。苛立つ魚は最期の力を振り絞り、必死で水面に顔を出し、罵声を彼等に向かって投げ返すのだが、当然空しく空を切る。魚は悔しさを通り越し、自分の無力さが作り出す堪えきれぬ重力に引かれて深い水の底に沈み込み、嵐が去るのをじっと待つようになるのだ。
傷付いた私は逃げ場を探す。そこは冷たい風が吹く屋外だったり、すぐそばの便所だったりするのだろうが、彼等はそれを許さない。代わりに黄土色に変色した恐ろしい液体を勧め、つまらない欺瞞に満ちた文句を並べて笑う。
昔から妄想が唯一の手段だった。盃を持ちながら、回想する。騒がしい席だからこそ、妄想は意外な方向に導かれ、私を楽しませる事がある。私が嫌々ながら酒の席に顔を覗かせるのはそんな娯楽を知ったからかもしれない。
「私はピンクの花火になりたい」
ある女がそういっていたのを思い出した。打ち上げられた花火を見上げながら呟いた言葉だ。私に向けた言葉なのか、自分への言葉なのかは分からない。ただ、とても視覚的で同時に幻想的な台詞だった。花火が照らし出した女の横顔もまた美しかった。
確か高校になって初めての花火大会だった。町中一夜の催しに色めき、商店街で空を見上げると普段の洗濯物に混じって赤や黄色、緑の旗が飾られていた。昼過ぎから待ちきれない多くの人が縁側に座り込む。酒を煽りながら将棋を指し、その横では子供がスイカ割りを路上で楽しんでいた。
かくいう私も正常ではなかった。女を連れた花火はその日が初めてだった。前日から当日の予定を思い、独善的で一方的な空想にふけった。そしてその大半は、嬌声が頭の中から漏れだしそうなほど卑猥なものだった事を覚えている。
煩雑な茂みを浴衣姿で走る私はひどく高揚していた。期待や優越感、緊張、不安、ごたごたと音が立ちそうな程雑然と積み上げられた感情が私を満たしていた。女の家まで昂ったまま駆けた。しかし女の家のチャイムを押し、女が扉を開けると私の浅はかな思いや考えは吹き飛ばされたのだ。
女は美しかった。濃紺の浴衣を纏った別の生き物とさえ感じさせた。普段の白い肌は透けるような肌で、限り無く淡い萌黄色のような色彩を放つ。澄んだ肌の上には黒髪の整った顔だちがある。唇の上の淡い赤色は艶やかで、頬は少し紅潮している。何故だか私には目を覗く事ができなかった。私は圧倒されていた。女とはこれほどまでに美しく姿を変えられるのかと思った。学生服姿の垢抜けない印象の女が、浴衣やほんのりとした化粧だけで大きく変わる。女の持つ妖艶な血や魅力に私は怖くさえなったのが忘れられない。今になって、目を覗けなかったのは女が神聖なものに感じたかもしれないと思う。
神聖なものを具現化したかのような存在に出会うと私の妄想は慌てて逃げ出した。代わりに守らなければいけないという使命感が出来上がっていたのかもしれない。現に私は、いつものように女に冗談を投げかける事も出来ず、隣を歩きながら周囲に架空の外敵を作り出し、目を光らせた。会場まで何を話したかも覚えていない。記憶にあるのは会場までにある大きな橋からの景色だけだ。遠くに沈む太陽が私達を包み込む。眩しさに気を取られ何気なく光源を向くと、女の横顔が目に入った。逆光で影となった輪郭の曲線がそのまま夕日に重なった景色だけ覚えている。
どれ位女の思い出を探っていいたのだろう。気が付くと隣の男は帰り支度をしている。辺りを見渡すと、何人か立ち上がり鞄の中を弄っている。集金を始めた男が私の前にも訪れてきて、私は財布をとり言われた金額を手渡す。
久しぶりに学生時代の、それも高校時代の事を思い出した。小さな居酒屋の暖簾を潜りながら、先ほどまでの思い出に浸る。あれから十年以上たつ。女の様々な部分を知り、それ以上に社会の仕組みを体験した。光る理想は、淀んだ現実に埋もれているのだと気が付いた。知れば知る程、学生時代の明るい過去を振り返る事が怖くなっていった。耽美な過去に気がとられると私は身動きが取れなくなる。夢とは儚いものだ。何も捨てずに追い駆けると、必ず見失う。そこで私が捨てたのは甘い過去だった。
先ほどまでの嫌悪された空間から一歩外に出ると、涼しい風がそこに留まる弛んだ空気を洗い流した。酔いどれ達は、その後も酒を煽ると言って私とは別の方向に歩みだす。大通りに出て、タクシーを拾おうと手を挙げる。その手はまるで自己を主張したような挙げ方だった。
記憶の最後には女の尋ねた言葉があった。終電間際の室内、がらんとした車中で私は答えを考えた。花火の最中、女は私に横顔を向けながら呟いた。うまく聞き取れない振りをして答えなかったのは、私にはその答えがはっきりと映らなかったからだ。答える術を知らなかった。そして私はそんな答えを表現できる訳でもなかったからだ。
「あなたはどんな花火になりたいの」
今、答えがのどに引っ掛かっている。もう少し、待ってはくれないか。
「お母さーん。はやくきてよー」
「今いくから、待ってなさい」
子供に追われている生活、名前が変わってから十年経つ。八つになる息子もいる。最近はサッカーに夢中らしい。毎週の試合に私の手を引き連れていく。こぼれんばかりの笑顔や、悲壮感を伴わない無垢な泣き顔に毎日が費やされる。素敵な日々だと思う。
美化された記憶しか覚えていない。素敵な思い出ばかりで自らを埋め尽くす。人ってなかなかにうまく出来てると思う。臭いものには蓋をして、いい匂いは何度でも嗅ぐのを繰り返す。どんなにきれいな朝日でも、別れた男が隣にいるなら思い出さない。どんなに鮮やかな海の色でも、隣にいるのが裏切った親友なら私は忘れたい。でも、そうして生きていくといい匂いはどんどん減ってゆく。臭いものがだんだん重なってくる。気付いた事は絶対なんてないってこと。
電話は初めは何かの間違いだと思った。名前を聞いた瞬間に、忘れたはずがガラガラ崩れていった。今さらに会いたいと言われても、私には会いたい理由がない。忘れたい理由ならたくさんあるけれど。会う約束をしてしまったのはきっと出来心だ。
十一時二十分。約束の十分前についたのは私のせいじゃない。旦那が出てったのが何時もより早かったからだ。電車が待たずに来てしまったからだ。私のせいじゃない。
待たされるのは前から嫌いだった。それなのに、いつも私がまたされるのは呪われているからかしら。もしそうならそろそろ許してもらえてもいいんじゃない。私はもう十分に対価を払ったでしょう。
不意に私の名前を呼ぶ声がする。声の主は男じゃない。女の声。高い声に振り向くと、恰幅のいいおばさんが私の前に立っていた。私が名前に反応すると、おばさんの声が少し高くなった気がした。
時折こんな日が訪れる。ただひたすらに言葉を投げかけられ、なじられる。抗う事は出来るけれど、抵抗はめんどくさい。どちらか選ぶなら、私は受け入れるタイプだから。火遊びはいけないと小学校の頃教わった。出来の悪かった私は、聞き入れられずに焚き火を校庭でやった記憶がある。大人になってした火遊びは、緊張感があって楽しかった。パートの上司と何ヶ月かの火遊び。でも、そのうちに火は下火になる。狭い部屋だと酸素なんてそのうちなくなってしまう。上司は私を引き止めたけど、私はもう嫌だった。何事もなく三ヶ月が過ぎてもう終わったと思うのが間違い。時間が立ったからもう終わったと思えたのは私の見当違い。おばさんの嫉妬があの男のためなのか私には分からないけれど、起こっているはずなのに少し楽しそうに見える。優越感なんて私に対して抱かないで欲しい。
一時間近くの詰問が私には何日もの時間に思えるくらい長かった。もしかしたら、喫茶店を出る頃の私は、幽霊みたいに青白い顔をして出てきたんじゃないかと思った。帰り道の途中、子供の遊ぶ声が響く。声の方を振り向くと小さな公園があり、息子と同じくらいの少年達が野球を楽しんでいる。気が付くと、私はふらふらと公園に入り込みベンチに座っていた。
涙が堰を切ったかのように流れ出して、自分で驚いた。私は強い女のはずだった。少なくともそう思っていた。あの程度で私が泣くはずがない。私は自分に言い聞かせる。私の体は私の命令を無視して涙腺を活動させる事をやめようとはしない。自分の制御を失った自分自身が腹立たしい。あの女が、あの男が腹立たしい。憤っているはずなのに私の体は悲しくてしょうがないみたいに涙を流し続ける。私は何も間違ってはいない。私は何も悪い事はしていない。ただ運が悪かっただけ。納得させようにもそれでは不十分の様で、どこかしらから来る感情の昂りを押さえきる事は出来なかった。目の前でボールを追う少年達でさえ、不思議な私の涙腺を刺激しているようだった。
涙を流し続けている事とは別に、私の心の奥の方は冷静になっていた。目を赤く腫らすのを遠くの方から眺めているような感じだった。ガラス張りの向こう側とは違って、穏やかで安定した空間だった。私はそこで一人で静かに波が引いていくのを待っていた。
取引先を回った昼過ぎに、私には密かな楽しみがある。取引先のビルをでた後、向かいのコンビニで昼食を買う。そしてその後、公園に向かうのだ。公園はビルのまん中に置き去りにされたような場所で、そこには涼し気な風が吹く。私はそこで小一時間かけて、ゆっくりと昼食をとる。優雅な気持ちにさえなれる時を私は愛していた。
二つしかないベンチには、同年代だろう女がうなだれていた。隣のベンチに腰を掛けてみると、泣いているのだと分かった。じっと眺めるのは失礼な気がした。私は気にせずカサカサと音を立てて、昼食を取り出し箸を割った。しかし好奇心は押さえきれない力だ。私は自然と女のベンチに顔を向けた
それはピンクの花火だった。
涙で、口紅で、ピンクとなった女。頬までも紅潮し、桃の様だ。そして、女の横顔はいつか見た曲線美を描いている。暗く陰った陰影が蘇る。
全く変わっていないようだった。少なくとも私にはそう見えた。泣きふせってはいるが当時と同じように、きれいだった。
声をかけようかと思った。女の名前を呼べば、気付いてくれる可能性は十分にある。しかし、一体何を話せばいい。いまさらどんな言葉が私たちに相応しいと言うのだ。十年以上も離れていた中で、私が女に掛ける言葉などどこにも見つからないではないか。それともあの頃の、昔話にでも話を咲かせようとでもいうのか。それほど私は愚かではない。
私は昼食に手をつけた。静かに、女に気付かれないように。泣いている女に私が何かしてやれる事はない。たとえそれが私の以前の女であっても。
無意識のうちに隣を見ている自分がいる。涙を流す姿は私の心を締め付ける。だが一方で私は、女の泣き顔にハッとさせられた。涙を拭う事で、化粧がぼける。その顔は女の無垢な部分をうまく表現された絵画のようだった。体裁をうまく繕った女が見せる失態の側面。その側面には普段では映らないような暗く、それでいて優し気な色彩に彩られているようだ。吸い込まれそうなその感覚は私に、あの花火の様々な情景を彷佛とさせるには十分すぎる程だった。
単色の発光体が無数に集まり、一定の明るさを生み出す。太陽には程遠く、闇夜にもまた程遠い光。私はその曖昧な美が好きだ。曖昧な私たちと、同種のものであると感じてしまうからだろうか。それとも夜空に微かな抵抗を示す、弱い力の儚さを感じるているかもしれない。私は花火を見上げながら、朧げな好意を持っていた。花火自身にも、そして女にも。
物思いに耽りながらの昼食が終わった。有意義な時間ではなかったかと思った。自分が思い出に浸る、感傷的な行為を喜ぶ人間だと改めて思った。そして、その感慨に誘った女との一方的な再会を愛おしく思い。感謝した。
食後の一服に興じるためのマッチを擦る。硫黄の匂いは花火の残り香の様だ。
花火の匂いがする。たった一度だけ、花火大会に男と行った事を思い出した。
初めての花火は、最後の花火となった。
私は花火に嫉妬した。
美しく燃え尽き、残り香を残す花火に嫉妬をしてしまった。心から美しいものだと思った。でも、きれいすぎた。一瞬の閃光で見るもの全てを魅了する力強い光。平凡な私には足りないものを全て持っているかの様だった。私は何故か単なる光や音と、自分を比べ悔しくなった。
今でも私は、何も変わっていない。一瞬に全てを賭けるような事はできず、小さな幸せを望むだけ。脆弱な精神が脆弱に成長した。だから、私はこんなに涙もろい。
私はあのとき、花火になりたいと呟いた。何色になりたかったのだろう。自分を変える為の呪文だった。悔しさを感じるような魅力を得たくてと願を掛けたのに。
一緒にいた男は何色の花火だったんだろうか。尋ねたかどうかも分からない。でも、私の色を聞いた男は、少し驚いた顔をして、それから少し口元が緩んだ覚えがある。整った顔だちではなかったけれど、その笑顔は魅力的だった。
女は立ち上がり何事もなかったかのように歩き出した。単に気丈に振る舞っただけなのか、私には分からない。リズム良く刻まれるヒールの音が、セミの鳴き声にかき消されてゆく。その姿は、いい女の姿だった。
元気が不思議と湧いてきた。以前まで思い返したくなかった思い出にも、私を鼓舞するものがあるようだ。それが分かっただけでも、私の気持ちが少し晴れた気がした。立ち上がり、地下鉄を目指し歩き出す。
後ろから、変な男の声が聴こえる。
「私は青い花火になりたい。ピンクの花火を優しく引き立てる青い花火になりたい。落ち着いた包み込む青の、柔らかな大人になりたい。あなたはピンクの花火がいいと言う。ならば私は、いや僕は、あなたを包み込む青の花火になりたい」
そうだ、私がなりたかったのはピンクの花火だ。
すぐに振り向いた。しかし、誰もそこにはいなかった。ただ、さっきまで座ってた男が消えていた。
私はピンクの花火が良かった。華やかな人間になりたかった。
私にそのことを思い出させた言葉。ずっと昔、ある男からの待ち望んだ告白をされたような言葉だった。
長い事待っていたような気もする。
Entry3
Nocturne
猫月終・・・・・
ぽろん。
上京してきたときに持ってきた、ほとんど唯一の道具であるギターを爪弾く。俺にもたれかかるようにして幼馴染の珠美が眠っている。彼女の体は少し重くて、ギターを弾くのに邪魔ではあったが、俺はその重みを心地よく感じた。静かな、微かな寝息が聞こえる。なんて幸せな週末の風景。ギターは穏やかな俺の感情を反映して、優しい音を紡いでいく。ヘンツェのノクターン。傍らに置いてあった黒いシンプルな置時計に目をやると、もう針は三時を過ぎていた。そろそろ寝るか、とギターをそっと脇に置く。すると珠美はうっすらと目を開けた。短めの前髪は彼女の目を覆ってはいない。
「ああ、起こしてしまったか、すまない」
「ゥ・ぢううん、寝てなんていなかったよ」
明らかに彼女は寝息を立てていた。彼女の目はいまだ焦点が定まっていないといった感じだ。それでも俺は彼女の言うことに合わせた。
「そうか。じゃあ、そろそろ寝るか」
彼女は目をごしごし擦りながら上目遣いで俺を見る。
「うん。でも”いつもの”聞かせて。そうしたら寝る」
いつもの、とは先ほどまで弾いていた曲である。とても簡単な曲だが、珠美はいたく気に入っているようだった。俺は促されるまま、できるだけ優しく、ギターを静かに奏ではじめた。彼女はまた目を瞑る。
俺は目を開けた。天井が視界に入る。一瞬それが、まったく知らない部屋のそれに見えた。はっ、と目を見開くとそれは俺と珠美の楽園のそれだった。珠美はまだ寝ている。部屋の隅には脱ぎ散らかされた洋服が雑然と積まれている。時計に目をやる。十一時だった。今日は日曜日。特に急いで起きる理由もない。珠美はまだ寝ている。寝かしておいてやろう。俺は彼女が目覚めるまで、答えの出ない問いをずっと考えていた。自分は何がしたいのか、これからどうするのか、俺は本当に珠美を好きなのか、こんな世界でも生きていたいのか。そう、俺はこの世界が嫌いだった。
「ごほっ、ごほっ」
俺は急にむせた。喉に痛みが走り、一拍遅れてそれが内臓に達する。俺はゆっくりと体を起こし、布団から這い出ると背の低いテーブルに置かれていた薬と水の入ったコップに手を伸ばす。その黄色いカプセルを二つ、口に含んで水で流し込む。血の匂いが少し、した。
ごそ、と布の擦れる音が背後からしたので振り返ると、珠美が上半身を起こして不安そうに俺を見ていた。
「なんだ、もう起きたのか」
「ゥ・ぢ大丈夫?」
「ああ。いつもいつもそんなに心配する必要はないよ。心配したってしなくたって、死ぬときは死ぬんだ」
「ゥ・ぢそんな悲しいことを言わないで。心配に思う気持ちを止められないの」
「ゥ・ぢありがとう」
彼女の瞳から涙がひとすじだけ、零れる。涙というものがこの上なく苦手な俺は、彼女を正視することができずに目を逸らした。嫌な空気だ。自分が原因で誰かが泣く。それは嫌だと思った。正直言って、彼女のそういう俺を思うところが少しうざったかった。でも俺はそんなことを思っても決して顔に出したりしない。まして口にしたりはしない。少し、無理をしていた。彼女と俺のスタンスは違っていた。しかし、二人とも、相手と近づきたいと思っていた。少なくとも自分はそうだったし、彼女を見てもそう見えた。だから、近づくためにぶつかるような邪魔な部分は抑えていった。
この部屋にはカーテンがない。窓からは柔らかな初夏の日差しが差し込んでいた。快晴のようである。気分を変えよう。無理にでも。
「散歩にでも、行こうか」
公園の青々とした芝生に二人、並んで寝そべった。白っぽい青の空を見て、あの雲は何に似てるとか、くだらないことを言い合った。そういう何気ない会話ができることを今は幸せに思っていた。そう、大切なものはいつもさりげない。
ぐぅ。彼女のお腹が鳴った。俺はちょっと笑った。腕時計に目をやる。もう二時半だ。
「メシでも食おうか。何が食べたい?」
「ラーメン! 一角屋のやつ!」
間髪入れずに即答されたので、俺はまたも笑った。彼女のこういうところは好きだ。無邪気、というか。
「最近調子悪いね。大丈夫? ちょっと目を離すと死んでそうなやつだからなぁ。ははは」
叉焼麺を目前にしながら彼女はそう言い、笑って見せたがそれが冗談ではなさそうなことは顔を見ればすぐにわかった。俺も「はは」と笑った。餃子をつまみながら、ラーメン屋の貫禄のある古びたラジオの話す声に耳を澄ます。流行の曲が流れていた。
「なぁ、俺って元々こういう存在なんだよなぁ。薬で自分の輪郭をはっきりとさせて、この”世界”というプログラムに顕在化させているわけだけど、元々なかったはずの存在なんだよなぁ。それって結局俺じゃないってことなんじゃないのかな。って最近思っているんだ」
急に彼女の顔が曇った。
「そんなことないよ! もし、もし存在していなかったら、私は今まで生きていないよ、きっと。何をどうやったって生きていかなきゃだめなんだよ。頭で考えちゃだめなんだよ、存在する権利は誰だって持ってるんだから。もし、もしそれでも存在していたくないんだったら、せめて私のために存在して」
うん、と俺は生返事をした。嫌だ。誰かのために存在する? 俺は俺のためだけに存在する。そして自分が存在したくないと思ったら自分で存在を消してやる。
店の主が”営業中”のプレートを裏返して、”準備中”にした。俺はカウンターに代金を置いてのれんをくぐった。
家に帰ると、俺はまたギターを弾き出した。カルリのロンドハ長調。楽器はいつも心を反映する。乱れた心で弾かれたギターは乱れた音しか出さなかった。ボサノバを弾いて、とせがまれたのでイパネマの娘を弾き始めたが、あまりに音が汚いので弾くのをやめてしまった。ギターを傍らに投げ出し、畳の床にごろっと横になる。彼女も寄り添うように寝た。窓から晴れきった空が見える。心なしか、前にいた街より空の色が薄い。俺はまた、答えの出ない問いを始めた。きっと遠い目をしていたのだろう、彼女が不安そうに俺を見つめた。
「ちゃんと私を見て」
そう、彼女は言った。しかし俺は応じなかった。自分のせいで人が喜んだり悲しんだりする。それこそが自分が存在しているということなのではないだろうか。
「ごほっ、ごほっ」
苦しい。が、もう薬は飲みたくない。
「ほら、薬を飲んで」
「さっき、珠美が見ていないときに飲んだ。すぐ効くさ」
見え見えの嘘だ。彼女は、そう、と小さく呟くとうつむいた。
俺は、幸せだ。ほとんどすべての煩わしいことから逃げて生活できているし、自分が本当に彼女を好きなのか、よくわからないが、珠美もいる。今は変化がないことをただただ幸せに思っている。
月曜。夕方から俺はバイトに出かけた。がっしりしたギターのケースを携えて、バーのドアを開ける。カウンターに行くとマスターがグラスを拭いていた。
「おう、今日もよろしく頼むよ」
「はい」
段々とお客が入ってきて、洗い物をしていた俺は店長に促されてギターを取り出してバーの隅に設けてある小さなスポットライトがあたっている椅子に体重を預けた。
ぽろん。
静かめの曲を選んで弾き、クラシックからボサノバに移った。
こっちを見て、聴き入っている客はほとんどいなかったが、たまに拍手がもらえた。
店が閉まってからしばらく、後片付けに精を出した。
「お疲れ様。いや、ギターって音は綺麗なんだけれど、暗い曲が多いよねぇ。もっと明るめの曲を選んで弾いてよ」
「はぁ。」
「それから、人形を持ってくるのはやめたらどうかね」
「え? 人形って?」
「いやね、人の好き好きだからいいんだけどね、まあ君がそんなに大事に思ってるんなら私は言うことはないけどね」
「はぁ」
よくわからない。何かを勘違いしているようだ。
「珠美、行こう」
俺はカウンターにいた珠美に声をかけて店を後にした。マスターはなぜかいつも奇異の目で見つめる。
帰り道、正面にもう少しで完全に満ちる月が出ていた。俺は太陽より月が好きだ。あのささやかな光。優しく辺りを包む。俺も珠美も誰も彼もを。平等に。
「月が綺麗だな」
「そうだね。そういう、感受性が豊かなところ、好きだよ」
お世辞でもそう言われて悪い気はしない。
軽く、咳払いをした。口の中に血の匂いが広がる。内臓も、もう限界かもしれない。
「なぁ、俺は変わったかな」
布団にもぐり、珠美の頭を抱き寄せながら、俺はそう独り言のように言った。
「んー、どうだろう。あんまり変わったって気はしないなぁ」
「そうか」
最近自分は偽者なんじゃないかという考えにかられている。この世界で生きていけるように少しずつ順応して、生き易いような自分に改造していっているような。自分は自分でありたい。人は変わる。変わっても魂は同じ、一人の人間だろう。だけど、元々の自分という領域をちゃんと確保しておきたいのだ。
彼女の寝息を確認してから、俺も目を閉じた。
火曜日。目を覚ました十二時には外は雨。激しく打ち付けてくるような雨ではないが、確実に地面に降り注ぐ。今日もバイトは夕方からなので、昼はのんびりとしていられる。珠美はいつも通り、まだ夢の中だ。夢の中、か。今見ているこの世界がすべて夢だったらどうだろう。ひょっとしたらこの俺さえも誰かが見ている夢なのかもしれない。
窓を開けると湿り気を帯びた空気が部屋の中に流れ込んでくる。カーテンレールに吊るされている金魚鉢のような風鈴がちりんちりんと鳴る。窓から見えるのは灰色の空と、隣のアパートの庭。その庭の木が、雨に打たれている。葉が揺れている。幻想的な風景で、本当に夢なんじゃないかと思った。確かめたかった。
「珠ゥ・ぢ」
珠美に話し掛けようと彼女を見たら、彼女は人形になっていた。そんな、あり得ない、と思って一瞬目を逸らしてから視線を戻すと、いつもと同じ顔で珠美が寝ていた。
「んゥ・ぢどうしたの? 変な顔してるよ」
「いや、別に」
「私、別にって嫌い。どう思ってるのかはっきりと言ってくれなきゃ」
しかし、珠美が人形に見えた、などと言えるはずもなかった。
「本当に何でもないよ。ちょっと、この雨の景色が不思議に思えただけ」
ふうん、と彼女は呟いた。納得のいかない顔をしている。そうだ、食事でもしよう。
「朝ご飯を食べないか」
「うん、そうしよう」
朝ご飯と言ってももうすぐ一時だ。俺は手早く米を研ぎ、味噌汁を作り始めた。我ながらいいお婿さんになれると思う。米が炊けるまで三十分。また会話のない時間ができた。二人暮し、案外苦手なのかもしれない。
この世界が嘘だって本当だって自分のやることに大差はない、きっと。だからそんなこと考えなくてもいいんだ。
炊飯器から白い湯気が立って、米が炊けたことを告げるピーという無機質な音が鳴った。納豆と、米と、味噌汁をテーブルに乗せた。しかしまったく食欲がない。というか咳き込んでもいないのに口の中には血の味がする。俺は朝ご飯を目前にして畳に横になった。もう少し腹が減ればもうちょっとは食べたくなるだろう。
「どうしたの、食べたくないの?」
「うん、あんまり食欲がないんだ。風邪かな」
「大丈夫?」
彼女は本気で心配している。俺は彼女の気持ちを知りながら薬を飲むことを放棄して少しずつ死へ近づいていっている。俺の心は背徳感でいっぱいになった。
「そんなに心配しなくたって大丈夫だって」
頼むからそんなに心配しないでくれ。なるようになるだけだから。
「晴れていたらまたあの公園に散歩にでも行きたい気分だ」
「そうだね、また昼寝したいね」
そのときはまだ、またあの公園で珠美と昼寝ができると信じていた。
夕方になって、俺は傘とギターを持って、珠美と一緒に家を出た。雨はやみそうにない。まだ日は完全には落ちていないと思うが、空は雲に覆われてすっかり暗くなっている。
店に着くと、マスターが出迎えてくれた。
「どうしたの、顔色悪いよ。いつも言ってる病気かい? 薬はちゃんと飲んでるかい?」
「いえ、病気なんかじゃないです。ただの性格でした、病気だと思っていたのは」
薬を飲んでいないことがそんなに顔に出ているのだろうか。
ギターを置こうとして、激しい眩暈に襲われて床に膝をついた。
「大丈夫? 今日は帰ってもいいよ、どうせ今日あたり客なんかいないだろうし」
「いえ、大丈夫です。もしかして自分のギターを聴いてくれてる人がいるかもしれないと思うと、帰りたくはないです」
そんなに立派な存在理由はないと思うからだ。
その日はマスターの言う通り、ほとんど客はいなかった。が、その分二、三人の客はちゃんと聴き入ってくれた。調子に乗ってオリジナルの曲を弾いてみたが、反応は既成の曲と同じものだった。少しがっかりした。本当はひどい眩暈で倒れ込みたいくらいだったが、責任感でカバーした。気づいたら、責任感が俺を動かしていた。好きだから、という理由でこのバイトを始めたはずだったのに。
家に辿り着く自信はなかった。珠美の顔もすっかり青ざめていた。よろよろと細い路地に迷い込んで、地面に座り込んだ。傘はさしているものの二人で一つの傘なのでどうしても雨に打たれる部分は出てくる。
「珠美ぃ、俺、どうなっちまうのかな」
「ゥ・ぢどう、どうしたらいい? 私、どうしたら、ああ」
珠美はすっかり泣き顔だ。俺のことでこんなに悲しんでくれる人がいる。なんて幸せだったんだ、俺は。目の前にあった幸せに気づいたふりをしながら、必死で見まいとしていたんだ。何かが足りない、と常に思い。もう欲しいものはすべて手に入れていたのに。その大事なものを大切にしてこなかった。それが今になって悲しかった。珠美の俺を見る顔が、何より俺の存在を肯定してくれている。彼女は悲しんでいる、俺が消え入ろうとしていることを。
しかし、最初に消えたのは彼女のほうだった。
「珠美ぃ、ゥ・ぢお前、ゥ・ぢお前が、好きだゥ・ぢ」
精一杯、笑ってみた。満たされた気持ちだった。珠美のほうを見ると、そこには珠美の姿はなく、小さな女の子の姿をした人形が一つ、ぽつんと落ちていた。
「た、珠美、珠美、嫌だ、嫌だよ、俺。嫌なんだ」
また珠美と一緒に公園で昼寝をしたり一角屋でラーメンを食べたりしたかった。残された力でギターケースを開き、ギターを抱える。
「これが、好きなんだろ」
俺はそう言ってヘンツェのノクターンを奏で始めた。
俺の、手が、足が、消えていく。体の輪郭の線がぼやけてきて、次第に中のほうまで透明になっていく。この世界というプログラムに俺という存在を規定できなくなっていく。俺は誰だ。俺の名前は、なんだったんだ。俺の、名前は。一分と経たず、俺の体は消え去った。この、気持ちだけを残して。
そこで俺ははっと長い夢から覚めた。
Entry4
「サクラ」
満峰貴久・・・・・
ある駅前のアーケード街、その中ほどの細い横道を通り、健一はいつも行く喫茶店に入った。
一階の入り口横にあるレジでコーヒーのチケットを買い、薄暗い店内の階段を二階に上がって行く。開店したばかりの時間で、他に客は誰もいなかったので、一番奥の窓側の席に腰掛けた。すると、いつのまについて来たのか、白黒ぶちの猫が横に来て健一の顔を見上げていた。警戒するように耳を後ろに寝かせ、普段は細長い尻尾を少し太くしてゆらゆらさせている。この喫茶店の一階の客席でいつも丸くなっている、「サクラ」と呼ばれている猫だった。何年か前、桜の季節に客が拾ってきた仔猫がそのまま住み着いて居るのだった。
「サクラ」はしばらく健一の顔をじっと見上げていたが「ミャー」と短く鳴いておすわりの姿勢になった。健一が手を伸ばして喉をかいてやると、気持ちよさそうに目を細めながら首を伸ばしてくる。頭を撫でようとしたところで、プイと健一の向かいの席に飛び乗り、そのまま丸くなって目を閉じてしまった。
健一は所在なさそうに、ポケットから取り出したタバコに火をつけ、大きく煙を吐き出しながらチラッと腕時計を見た。
(おいおい、いい若い者が昼間っから喫茶店なんかに行ってないで、ちゃんと学校に行って勉強しといたほうがいいぞ)
突然、健一の後ろのほうから声がした。もちろんここには健一以外だれもいないし、健一が独り言を言ったのでもない。さっきからタバコの煙を吐き出しては、落ち着かない様子でちらちらと腕時計を見ているだけである。
(でも、懐かしいなあ。ここには毎日のように来ていたもんなあ)
また、さっきの声がした。
(マスターが書いた油絵が何枚もかかっていて、薄暗い店内に流れるクラシック。コーヒーは炭を溶かしたような味で不味かったけど、安いし、雰囲気が好きだったからなあ。誰か友達がくるまで、何時間でも粘っていたっけ。どうせ今日も集まって麻雀でもするつもりだな。もったいない時間の使い方してたものだよな、今思うと。もっと他にすることはたくさんあったのになあ)
健一は、この声には全く気付かないようで、運ばれてきたコーヒーを啜っている。健一の後ろに誰かがいることは確かだ。
(えっ、誰だおまえはって。あ、私のことですか?私は健一です。ほら、ここに座ってさっきからタバコを吸っている本人ですよ。正確に言うと、今あなたと話している私は四十年後の健一です。今日の朝からずうっと一緒にいるんです。残念ながら本人には見えないようですがね)
(あれっ、ちょっと待ってくださいよ。でも、そうか、ということは、これを読んでいるあなたには私の姿が見えるんですか?見えないとしても、私の存在はわかるようですね。ああよかったあ、誰も気付いてくれないと思っていましたから。ただ、そこにいる猫の『サクラ』は気が付いたみたいですけどね。私が健一と一緒にこの店に入って来たとたんに首をもち上げると、耳をピンと立てて、目をまん丸にして私のほうを見ていましたから。そのまま私たちの後をついて来て、不思議そうに私の顔を見ていましたが、怪しいものじゃないと判ったんでしょう、安心したようにかわいい声で鳴きましたよ)
(でも、これは一体どういうことになっているんでしょう。そう、わかるわけないですよね。私だって何がなんだかわからないんですよ。朝、気が付いたら、ここにいるもう一人の自分が寝ているベッドの上に立っていたんですから)
(ええ、ちょうど夢枕にでもたっているみたいにね。私も最初は夢だと思っていたんですよ。ああ、若いころの自分だ、二十歳くらいかな、懐かしいな、なんてね)
(あ、私の歳ですか?私は今年六十歳で定年を迎えましてね、さあ、これからは自分の好きなことをして残りの人生をすごそうと思っていたんですよ。ま、特にこれといった趣味もないんですけどね、広く浅くって言うやつで。幸いなことに、敬子がしっかり貯金だとか保険なんかも掛けていてくれたおかげで、退職後も贅沢さえしなければ何とか生活はしていけますから)
(はい、敬子って女房のことです。昨日の晩も最後の仕事から帰ると、敬子が今までご苦労様でしたと言って、いろいろ手の込んだ料理を用意して待っていてくれたんです。
私は最初、記念にどこか気の利いたレストランにでも行って、食べたことのないようなご馳走でも食べようと言ったんですけど、そんな所だとかえって気を使うばかりで、落ち着かないからって反対されましてね。それから、二人で酒を飲みながら、あ、敬子はあまり飲みませんがね、昔話に花が咲いたんですが、敬子の顔を見ているうちになんだか悪いことをしたなあっていう気持ちになってきて。こんなはずじゃなかった、敬子には何もしてやれなかったんじゃないかと思い始めたら、急に言葉が出なくなって、酔った振りして寝てしまったんです。それで、目が覚めたらこういうことになっていたという訳なんです。)
(ええ、敬子はまだ元気ですよ。だけど、敬子には苦労ばかり掛けて、好きな旅行にもあまり連れて行ってやれなかった。昔はね、退職したら二人で世界旅行でも行こうなんて言ってたこともあったんですけどねえ、海外旅行すらいけなかった。)
(子供ですか? ええ、娘が二人です。どちらも結婚して、孫も四人います。かわいいですよ。ただ、狭いアパート暮らしですから、正月にみんなで集まっても、泊まることもできないんですよ。遠いところから来てその日のうちに帰るんです。何日でもゆっくりさせたいと思っても無理なんです。広い家に住みたいと思っていましたけどねえ。子供たちにもずっと相部屋で我慢させてしまったし。自分の部屋が欲しかったでしょうねえ。)
(あ、そうそう、これが夢じゃないと解かったのはね、いつまで経っても、このもう一人の健一のそばから離れられないんですよ。夢だったらすぐに場面が変わったり、見たこともない場所に行ったり、他に人が出てきたりとかするでしょう。だけど、背後霊みたいに、ただぴったりと後ろにいるだけなんですよ。ほら、よく言うでしょ、肩の上に人の顔が乗っているように見えるって言う、あれですよ。)
(もちろん、幽体離脱っていうことは私も考えました。これが、その状態なんじゃないかとね。それで、このもう一人の自分がまだ寝ている間になんとかして元の体に戻ろうと思って、重なってみたりしたんですよ。頭のほうから入ってとか、足のほうからとか色々やり方も変えて試してみたんですよ。だけど、全て無駄でした。 よく考えたら、幽体離脱の時って臍とか頭の先から出てる銀色の糸でお互いが繋がってるって言うでしょう。そんな物もなかったし、そもそも、ちょっと考えれば解かることだったんですが、二十歳と六十歳じゃあ同一の体になれるわけありませんよね)
(えっ? 何ですって、人が困っている時にそんなこと訊くなんて、人事だと思って面白がっていませんか? でも、まあいいか、他に聞いてくれる人もいそうにないし、私もだいぶ落ち着いてきたから、いまさらじたばたしてもしょうがない。教えてあげましょう。あのね、浮かんでいるんですよ。そう、ただひたすら)
(もちろん、手足は動かせますけど、だらりと降ろした状態が自然みたいですね。突っ立ったままの姿勢でね、だけど、全然離れることができないんですよ、何故だか。健一が右に行けば右、左に行けば左っていう具合にね。影みたいな感じって言えばわかると思います。トイレに行かれた時は参りましたね。不思議なことに、匂いなんかは感じませんでしたけど。で、ちょっと壁に手を当ててみたらですね、なんと、スーッと入っちゃうんですよ、手が。何の抵抗もなく。びっくりしましたよ。物でも身体でもなんでも突き抜けちゃうんだから。健一の頭を叩こうが、足を蹴飛ばそうが、私には何の感覚もないし、もちろん健一も気配すら感じていません。大声を出しても聞こえないし、それから、やっぱりというか当然というか、鏡にも自分の姿が映らないんです。洗面所の鏡を見た時、すぐ後ろにいるはずの私の顔が映っていないんですよ。これにはさすがに全身の力が抜けました)
(そうなんですよ。結局、残った答えは、自分はこの世には存在しないということなんです。自分は死んで、どういうわけか意識だけが若い自分の前に現れたっていうことなんでしょう。信じたくないけど、夢だったらもうとっくに覚めているはずですからね)
(何でって、それはこっちが聞きたいくらいですよ。そんなことは神様しか知りませんよ。私は今、仏の状態ですからね、解るわけないでしょう。死んでしまったからといって、何で成仏できない私が二十歳の時の私に取り憑かなきゃいけないんですか)
(このまま、ここにいる健一が六十歳になって死ぬまで一緒なんですかね。同じ人生を繰り返していく自分を見ながら、何もできずにただ後ろに居る。この健一が死ぬ時、私はどうなってしまうんでしょう。同じ人間の意識が二つできるのかな。死んだらまた自分が二十歳だった頃の所に現れたりしてね。なんだか哲学的だけど、漫画かSF小説みたいだなあ)
(あのね、笑い事じゃないでしょう。これでも私は真剣なんですから。このまま、あと四十年も一緒にいるのかと思うとね。何も出来ないんですよ。大声を出しても相手には聞こえないし、手を出しても通り抜けてしまうし、今まで自分がしてきたことをただなぞって見ているしかないんですから。注意してやることも、ここではもっと頑張れと、後押ししてやることもね。ああ、一体何でこんな事になってしまったんだろう。今まで自分が何も考えずに生きてきたことに対する神様の罰なんだろうか)
その時、若い女性が一人二階に上がって、足早に健一のいるテーブルに向かって来た。
「待たせてごめんなさい。同じような横道があるから、入る場所を間違えちゃったんです。あらっ、サクラちゃんじゃないの、珍しいわねえ。いつもは一階から動こうともしないのに。」
そう言うと、『サクラ』をそっと抱き、膝の上に乗せて健一の前の席に腰掛けた。 健一は少し慌てた様子で三本目のタバコをもみ消しながら「ああ、僕もまだ来たばかりだから」と、訳のわからないことを言っている。
(あっ、敬子だ。どうして敬子がここに来たんだろう。それに、うっすらと化粧までしているということは、そうか、今日は初めてデートした日じゃないか。ここで二人きりで会ったのは一回しかないんだから)
(ええ、よーく覚えていますよ。大学のクラブの帰りによくここに数人で集まってはいましたけどね。ひとつ年下なんですよ。小さくてかわいいでしょう。一目で好きになったんですよ。真面目で優しいし、いつも会えるのが楽しみでした。まともに話しかけることもできなくて、離れたところからちらちら見ているだけでした。 たまに目が合うと慌てて目を逸らしていましたよ。やっと、この二日前に決心して誘ったんですけど、この後どうしていいのかわからなくてね、半日ただ歩き回っていました。どこをどう歩いたのかも忘れてしまいました。ただ、桜が満開の公園を歩いたっていう記憶はありますけど。文句も言わずに付き合ってくれましたよ。 いい子でしょう。懐かしいなあ、昔も今も変わってないなあ。あれっ、ちょっと、私の話、聞いてますか?)
(まだまだ一緒にいたかったなあ。これからしてあげられることだってたくさんあっただろうに。いきなり独りぼっちになってしまって、可哀想に。残念とはこういうことを言うのでしょうね。いまさら何も出来ないとはわかっているけど、何とか気付いてもらう方法はないものでしょうか。今からだったら十分間に合うんだから。このままじゃあ私の気が収まらない。そうだ、どうせ聞こえないんだから思いっきり大声で言ってやろう)
(こらーっ、健一、もっとしっかりしろーっ)
(もっと長生きしろーっ)
(そして、もっともっと敬子を大事にしてやれーっ)
「痛いっ」
「あっ、どうしたの、大丈夫? 手から血が出てるよ」
「ええ、サクラが何かに驚いて爪を立てたの。大丈夫よ、きっと何か怖い夢でも見たんでしょう」
(あれっ、悪いことしちゃったなあ。こんなことになるなんて。猫には聞こえていたのか。もっと小さい声で言えば良かったな)
(ところで、今叫んだら私の足元が急に霞んできました。あなたには見えないでしょうけど、だんだん上に昇ってきます)
(成仏するんでしょうね。きっと、神様が最後に自分の一番うれしかった日を見せてくれたんでしょう。もう思い残すことはありません)
(でも、敬子が『サクラ』に引っ掻かれたって言う覚えはなかったなあ)
それっきり、声は消えた。
「お母さん、私たちもそろそろ寝るね」
「おかげさまで、今年もみんなそろって無事によい正月を迎えられました」
「うちらの旦那は酔っ払ってもうとっくに寝てるから、お母さんも早く寝な」
「はいはい、二人とも今日はご苦労様。お父さんも今日は大喜びだったらしくて、張り切って飲みすぎたみたい。皆と揃って会えるのは年に何度も無いからねえ」
「私は自分の部屋で寝るのが楽しみでね、昔のままにしておいてくれてるから、色々思い出すんだ」
「そうだね、私の部屋も来るたびに懐かしいなあって思うもの。私たちの子供の写真も増えていくし、子供たちも今にそう思うようになるんだろうね」
「みんなと一緒によく旅行なんかも行ったね。去年はお母さんとお父さん二人で海外旅行なんかも行ってるし」
「そうそう、そのとき、サクラをうちで預かったんだ。でも、サクラってもう三代目になるけど、いつも雑種で白黒のぶち猫だね。名前もずーっと同じだし」
「お父さんも私もこういう猫が大好きだからねえ」
「ふうん、サクラっていう白黒のぶち猫は、二人の仲を取り持つ何か大切な思い出でもあるって言うことなのかな」
「何を言ってるんですか」
「でも、子供が大きくなるのも早いけど、三年も経つんだね、お父さん退職してから。もう六十三歳か」
「そうだねえ、よく、俺は一度六十歳で死んだけど、その時に二十歳の自分に偶然出会って、気合を入れて戻ってきたんだ、なんて言っていたことがあったねえ」
「私も前にその話を聞いたことあるよ。夢でも見たんでしょ。よく意味がわからなかった」
「六十歳過ぎてもみんなのことを大事にするって言いたかったんじゃないの」
「ふふ、お付き合いする前は何となくいい加減で、頼りない人だと思っていたんだけど、でもね、本当はとても優しくて、しっかりしている人だったのよ」
「はいはい、あーご馳走様でした。このへんで私達はもう寝ます。お休みなさーい」
「じゃあね、お母さん、お休みなさあい」
「お休み」
一人になった部屋で、敬子は膝の上で丸くなっている「サクラ」の頭を優しく撫でた。
その手の甲には、うっすらと小さな傷跡があった。
Entry5
『オカルト・パンク!』
橘内 潤・・・・・
東京都心、摩天楼の最上階。
スーツに身を固めた男性、二人。傲慢さを隠すことなくスーツから滲ませた男が、表情とスーツの下に感情を押し隠した男に話しかける。
「能代よ、いい眺めだと思わないか?」
「はい、社長」
窓際に立ち、自分を振り返らずに話し掛けてくる室生に、能代は抑揚を抑えた声で追従する。
「ここから見る東京はまるで、おれに傅いているようだと思わないか……なあ、能代よ?」
「はい、そう思います。社長」
能代の機械的ともとれる返答に、室生は満足そうに喉奥を笑みに軋ませる。
悦に入っているその背中を、能代のガラス球のような両眼がじっと見据えている。
「ときに社長。“天使”というものをご存知でしょうか」
脈絡のない問いに、室生は訝しげな顔を振り向かせる。
「処女懐妊で生まれてくるという両性具有の赤子……だが、それがどうかしたか?」
「非常に美味なのだそうです。グルメと毒舌で有名な、かの山岸女史も、食べるのに夢中で文句ひとついわなかったとか」
「おれにも食わそうと?」
その口調は支配者の優越を隠してもいない。
能代は表情を変えぬまま首肯し、先をつづける。
「はい。白鷺亭の女将が、社長のために特別に用意したので是非、食べにいらしてほしいと」
「……今晩の予定はどうなっている?」
「山一専務らと会食予定でしたが、日程をずらしてほしいとの連絡をお預かりしております」
「損失の弁明を考えつかなかったものだから、料理でおれの機嫌を伺おうという心算か」
室生は鼻先で傲然と吐き捨てる。
過日の秘書による内部告発未遂問題で、山一啓介は失脚の危機にあった。室生の不興をかった――失脚の理由はそれで十分なのだ。
室生はしばし思案げな表情をするも、すぐに唇の片端で嘲笑を浮かべる。
「まあいい。やつの企みに乗ってやろう。やつの解雇など、いつでもできるしな」
いつでも、だれでも意のままにできる――傲岸な主に、能代は頭を下げることで表情を隠した。
夜の東京。
色とりどりに弾けるネオンと交錯する喧騒を、立ち並ぶ街頭ヴィジョンが急きたてる。
『HMV訴訟の公判がはじまり、人々の注目を集めています。この事件は治療のために投与された非聖別製剤によってヴァンパイア・ウィルスに感染した血友病患者やその遺族が、都議会と霊薬会社五社に対して損害賠償を……』
『わたしはいま若者に大人気のスポット、多磨霊園にきています。毎週金曜の夜に初代空手十段の大塚博紀が現れて、集まった若者に喝を入れてくれるのだそうです。これは多磨霊園がマグス・ネットワークスと提携して……』
『肉体疲労時にネクタル堯帝液! 天台烏薬、千ミリグラム配合。医薬品です』
『ウロボロスの尾を掴め! 世紀末ジャンボ宝くじ、絶賛発売中』
『今日のトピックスをまとめて、ニュゥゥス・フラァァッシュ!! ――降霊管理法違反で都内の葬儀社社長が逮捕。易占局が三年後の人災確率を発表。東京株価動向指数が十ヶ月ぶりに上昇。電霊公社が電話料金値上げを白紙撤回。隅田川から男性の水死体。エイスエレメント社が次世代OSの召喚に成功……』
リムジンは夜を知らない雑踏を掻き分け、赤坂へと向かう。その後方を、年代物のカブがつかず離れずで走っている。
高級外車を尾行するのは、仕事のうちでも簡単な部類にはいる。だから鹿瀬は片手ハンドル、欠伸混じりに運転していた。
「大企業のワンマン社長殿は赤坂でお食事ってか。羨ましいかぎりだね、まったく」
車道が空いていくにつれて快調にスピードを上げていくリムジンを追って、鹿瀬もアクセルを踏み込んでいく。
それにしても――と、鹿瀬は思う。天使を最初に食べたやつは、いったいどんな神経の持ち主だったのだろうか? 天使は人間女性の胎から生まれるのだ。処女懐妊で両性具有という異常性の上に生後半日以内で死亡するとはいえ、局部以外は人間の赤子となんら変わらないという。
如何に美味だといわれても、鹿瀬はとうてい食べる気にならない。
「人間、贅をきわめると堕落するもんなのかね。そうはなりたくないもんだ」
わずかに開いた窓から流れていく言葉は、高級料亭ともリムジンとも縁のない、しがない何でも屋の負惜しみにしか聞こえなかった。
「本日は白鷺亭に於越しいただき、誠にありがたく存じます。われわれ料理人一同、室生さまのために誠心誠意尽くさせていただく所存です」
「能書きはいい。さっさと料理を持ってこい」
「……かしこまりました」
料理長は一礼して座敷を下がった。入れ替わるように、女将が燗酒をたずさえて現れる。
温燗から立ち昇る吟醸香に、室生は鼻をひくつかせた。
「ほお、いい酒だな」
「圧縮醸法ではない、昔ながらの手法でつくった酒でございます」
さり気ない口調で説明しながら、女将は室生と能代の盃に酒を満たしていく。それが終わると、「失礼いたします」と一礼して下がっていった。室生はそれを見送ることもなく、すでに盃を口に運んでいる。
「美味い。酒も人間も、やはり天然物だな」
「………」
室生の言葉に、能代の眉がぴくりと動きかける。能面に走った微細な変化を見逃さず、室生は口の端に嘲りを象る。
「能代、おまえも飲め――といっても、おまえにこの味はわからんだろうがな」
「いただきます」
能代は被りなおした仮面に表情を押し込め、盃を一息に呷る。温められた吟醸香が、味蕾の上で華をを咲かせ、余韻を残して喉の奥へと流れていく。
室生は嘲笑を湛えたまま、口を開く。
「どうだ、美味いか?」
「はい、美味しいです。……やはり天然物が一番ですね」
「そうか、そうか――くっ、はっ」
能代の答えに、室生は憚りのない哄笑に喉を震わせる。
「………」
自分と同じ顔が満足と嘲りに歪むのを、能代は無表情に見つめていた。自分がこの下衆な男の模造品であるのだと思うたびに、錬金合成された血液が逆流するのを感じるのだった。
「冷めないうちにどうぞ」
女将は椀盛りをふたりの膳に載せると、一礼して襖を閉めていった。
室生は緊張と奇異の視線を、蓋をされた椀に注ぐ。「天使葛たたき、松茸、針ねぎ、柚子」の椀だと女将は説明していた。
「さて、天使の肉はいかほどの味だろうか……」
室生は手をのばし、椀の蓋を開けようと――
「……なんだ?」
襖の向こうからきこえてくる複数の足音に、室生は手を止める。どうやら足音は、ふたりのいる座敷へと近づいてきているようだ。
「おい、静かにさせてこい」
室生はあごで能代に指示する。
「かしこまりました」
だが、能代が立ち上がると同時に、襖は廊下側から乱暴に開けられた。
よれよれのコートを羽織った壮年の小男を先頭に、目つきの鋭いスーツ姿の男達が座敷へ上がりこむ。
「動くな。警視庁だ」
桜の印章を刻んだ手帳をかざし、コートの刑事が座ったまま椀の中身を口に放り込む室生と立ち上がったままの能代とを交互に睨みつける。それから、その視線は室生へと固定される。
「室生宗達だな。文化財保護法および鳥獣保護法違反の現行犯で逮捕する」
その宣言を一顧だにせず、室生は口にした天使肉を咀嚼する。なお付け加えるならば、天使を食すことはワシントン条約にも抵触している。キリスト教圏でその罪が発覚しようものなら、異端審問官の即時判決でもって、三分後には断頭台の露になれるだろう。
だがここは日本。まして、ミカド重工本社のある東京だ。その社長である室生を、官憲の使い走りごときが、どうこうできようはずもない。
「おい、貴様。自分がだれを相手にものをいっているのか、わかっているんだろうな?」
ごくりと肉を嚥下し、室生は猛禽の笑みを刑事へと向ける。しかし刑事は動じないどころか、
「もちろん、わかっているさ。ミカド重工の“元”代表取締役社長、だろ」
“元”を強調して、皮肉めいた笑みに唇をゆがめた。
室生は一笑に伏そうとして……その表情を固まらせる。刑事と相対する視界の隅に、笑みを湛える能代を認めたからだ。
能代に最も近しい自分でさえ、彼がこれほどあからさまな顔をするのを見たことがなかった。盛大な弧を描く唇は、嘲りと憐憫と嫌悪と――いままで能面の下に隠してきたすべての感情を湛えて笑っていた。
室生の両眼が険しさに染まっていく。陽炎のごとき怒気をまとって、能代を睨め付ける。
「おい、どういうことだ?」
「どうもこうも……刑事さんの仰るとおりですよ」
恫喝めいた言葉に答える能代は、もういつもの無表情を取り戻している。だが、瞳には嘲笑を宿したままだ。
「あなたはもう、我が社とは関係のない人間です。社長が現行犯逮捕という不祥事にならなくて、本当によかった。事後処理は山一新社長が上手くやってくれるでしょう」
「やつが社長だと!? 能代……PHS風情が主人を裏切ってただで済むと思うな!」
自らの複製に怒号を浴びせると、室生は刑事へと詰め寄った。
「おい、おまえ! おれを逮捕するんだったら、やつも同罪だろ。はやく逮捕しろ」
刑事は降りかかる飛沫に顔をしかめながら手錠を取りだし、失笑する。
「能代さん、でしたっけ? 彼はあんたのPHSだ――つまり、あんたの所有物保管義務違反だ」
「……おれの弁護士を呼べ。やつが来るまで、一言もしゃべらんからな」
手錠が室生の両手首を拘束した。室生は抵抗しなかったが、奥歯をぎりぎりと軋ませて唸る。それを聞いて、「ああ――」と能代が思いだしたように口を開く。
「そうそう、蛭田顧問弁護士ですが、もう逮捕されている頃でしょうかね?」
動きを止める室生の背中に、能代は淡々とつづける。
「蛭田弁護士は五千近いペーパーカンパニーを黙認していたそうですよ――ご存知でしたか、社長?」
天候の話でもするような口調だが、最後の一言にだけ明らかな揶揄が含まれている。
室生はふり返って能代を睨みつける。悪鬼も逃げださんばかりの形相だ。次いで、鬼の形相から修羅のごとき凄絶な笑みへと転じる。
「……おれは物権を行使するぞ。室生宗達がその名において我が形代に命ず――きさまは今ここで廃棄処分だ!」
室生の怒号が座敷中に響きわたる。オリジナルたる室生の呪言に、その模造品である能代は逆らえない。呪言が擬似聴覚を経てオートマトン【Automata 錬金脳】――CGU【Central Gematriing Unit 数秘演算法陣】とそこに召喚されたOS【Operating Spirit 制霊】を主とする中枢器官――に認識された瞬間、能代の人格は停止崩壊する。
――はずだった。
「なぜだ……なぜ壊れない!?」
呪言はたしかに、能代の回路中枢に伝わったはずだ。だが能代はよろめきもせず、冷笑を浮かべている。敗者への憐れみを込めて、ゆるりと首を振る。
「あなたの人権は、その手錠をかけられたときから制限されている……もちろん、物権も」
むしろ淡々とした言葉だったが、それは勝利宣言だった。室生はなおも視線で射殺そうとしたが、もはや能代の冷笑を覆すことはできなかった。
刑事が、室生の拘束された腕を掴んで急きたてる。
「さあ、行くぞ。特に信仰している宗教がなければ、あとは閻魔さまの沙汰次第だ」
コートの刑事があごで示せば、それまで黙っていた他の刑事たちがその脇を固めて歩きだす。
刑事たちに囲まれて遠ざかっていく室生を見送り、能代はひとり座敷にたたずむ。
「くっくっ……」
ついに堪えきれず、笑い声が漏れだす。初めは唇の隙間から滲むように、徐々に空気を振るわせ始め、
「くっくぁっはははっ、ぁあっははははっ」
堰を切って溢れだした哄笑は、まるで能代という人格全てを飲み込んだかのようだった。
笑いつづける能代の顔は、室生となにひとつ変わるところがなかった。
室生を乗せた護送車を見送ると、加畑は料亭のそばに違法駐車している古惚けたカブへと近づいていく。そのカブに寄りかかっていた鹿瀬は、手を振って加畑を迎えた。
「お疲れ、カバさん」
「その呼び方は止めろといってるだろ」
ノンキャリア生え抜きの加畑を「カバさん」と呼ぶのは、鹿瀬しかいない。
「小さいことは気にしない。大物逮捕で、オカミから報奨金たんまり貰えるんでしょ」
「不良探偵のタレコミで、ってのが気にくわねえんだよ。……だが、おまえを逮捕できるんだから、そのくらいは我慢してやるか」
唇を楽しそうにゆがめる加畑。皮肉と疲労を感じさせる、独特の笑い方だ。
「おいおい、カバさん。ちょっと駐禁くらいで逮捕なんて……」
鹿瀬は片眉を持ちあげて、おどけた顔をする。
「違えよ馬鹿。おまえ、天使肉の密輸に関わってたんだろ? こいつは国際的な重犯罪だぜ」
束縛のルーンを刻んだ手錠をちらつかせ、勝ち誇る加畑。
鹿瀬は一拍の間を置いてから、見透かすように目を細め、
「カバさん……奥さんの具合、どうだい?」
唐突にそう聞いた。
途端、加畑の表情が目に見えて険しくなる。
「おまえには関係ねえだろ」
「病状がまた進行したんだって? このペースだと、都議会と和解する頃には手の施しようがなくなってるだろうなあ」
「てめえ!」
加畑は声を荒げて、うそぶく鹿瀬の襟首を掴み上げる。鹿瀬は息苦しさに眉をしかめながらも、加畑の眼光を正面から受け止める。
「HMV【Human Metamorphosis Virus ヒト霊核変性ウィルス】の進行を抑えるには、くそ高い聖水が必要なんだろ?」
わざわざ、あんたにだけ情報を流してやったんだぞ――視線でそう告げる。
加畑は答えない。眼光は千路に乱れ、固まった表情のなかでそこだけが内心の葛藤を語る。
「……礼はいわねえぞ」
結局、加畑はそう吐き捨てると、突き放すように鹿瀬を解放した。よろめき、たたらを踏む鹿瀬を尻目に加畑はさっさと踵を返す。
「要らねえよ、そんなもん」
鹿瀬も吐き捨てると、去っていく後姿を見送ることなくカブに乗り込んだ。
一ヵ月後、HMV訴訟から人々の関心は遠ざかり、代わってミカド重工が民事再生法を申し入れた話題がメディアを席巻していた。
あの事件以後、能代と刻銘されたPHSは消息を断っている。所有者をなくした彼がいまだ機能しているのか否か、だれにもわからない。
そしてPHS【Personalized Homunculus Secretary 自己転写ホムンクルス】を所有することが、ハイデガー・スパイラル【Heidegger spiral 存在乖離に起因する差異の拡大再循環】を発生させて、オリジナルとPHS双方の人格に深刻な影響を及ぼすことが統計上、明らかとなった。この、いわゆるピグマリオン症候群を理由に、都議会がその強制回収を公布したのは今朝方のことである。
しかし鹿瀬にとってなによりも心残りなことは、まったく別のことだった。
あの晩、能代をカブで県境まで送り届けた際に、天使がどんな味だったのかを聞かぬままだったことが、今でも悔やまれてならないのだった。
Entry6
証明
伊勢 湊・・・・・
炎天下の生温い空気を引き裂くような打球がレフト側フェンスへ伸びる線に沿って舞い上がり、そしてわずかに左に逸れた。一瞬止まった世界に歓声と蝉の声が戻る。主審が差し出す新しいボールを受け取ったオレは、和志にそのまま投げ返さずにマウンドまで走った。
「大丈夫や、大丈夫。大袈裟やな。ファウルやないか」
明らかに肩で息をしている。県予選準決勝、連日の猛暑と連続登板。限界は強がりな言葉だけではもう隠すことはできなかった。
「もう無理なんやないか?」
サードの忠光が言う。予想通り和志が突っかかっていった。
「ああっ!? それでどないするゆうんじゃ?」
額をぶつけるような勢いだ。観客の目がなければ襟首をひねり上げているだろう。
「気持ちは分かるけど、野球はチームのスポーツじゃろうが」
「じゃから、他に誰が投げれるゆうんじゃ、ボケ。おまえらわしの肩と心中じゃ」
忠光がそのあまりの言い草に言葉を失っていた。自己中心的。そうも言えるのかもしれない。しかし和志はリリーフのいないこのチームをその肩で引っ張ってきてくれたのだ。やりたいようにやらせてやりたい。
鉄夫がおったらな。考えても仕方がないのにまた思ってしまう。たぶん同じことを考えていた忠光に一度視線を投げてから和志に言った。
「和志、大丈夫なんじゃろうの?」
「当たり前じゃ」
「無様さらすなや」
「分かっちょるわ、ボケ」
和志はオレの手からボールを奪い取った。視線が交差した。それからオレは忠光に「しゃあないわ、肚くくるで」と言って背中を押した。
鉄夫が突然練習に来なくなったのは春のことだった。
オレたちははっきり言ってそれほど強いチームではなかった。選手層は薄く、これまでにたいした実績もなかった。それでも今年は、もしかしたらという期待があった。和志と鉄夫。二人の豪腕ピッチャー。二人はまさにライバルで毎試合ごとにどっちが先発で行くかで揉めていた。監督とキャプテンのオレは頭を悩ませたものだが、どっちが先発してもなかなか打たれはしなかった。去年の県大会で準優勝まで行ったのもこの二人の力が大きかった。
期待感は年を越えてますます大きくなり、新入部員も例年より明らかに多かった。仲が良いのか悪いのか「新入部員が多いんわ、わしのお陰じゃ」と二人で言い争いをしていたかと思えば、二人で並んで投球練習をし「こうしたほうがええかも知れんな」といろいろ研究しあっていた。甲子園という言葉が現実感を持っていた。
だから部室に二人きりで、監督からそれを見せられたときは何があったのか状況を飲み込めなかった。それは白い封筒だった。新入部員のうちいくらかが毎年辞めていくのは見てきたが、実際にそういう封筒を目にしたのは初めてだった。手渡され、表の字の上に何度か目を這わす。退部届。そして鉄夫の名前。何度見ても変わらなかった。オレは中の紙は見ずに監督に聞いた。
「なんで、ですか?」
「なんも聞いてへんか? まあ、そうかもしれんの」
「なんかあったんですか?」
「あいつの家、大変なことになっちょるんや」
それは初めて聞いた話だった。鉄夫の親父さんが工場をやっている親戚の借金の保証人になっていたという。その親戚はある日突然借金をそのままにして消えてしまった。鉄夫の親父さんは親戚の行き先は分からないと言い、結果借金をかぶることになった。
「家も抵当に入ってな。町営住宅に引っ越したらしいわ」
「ひでぇ…でもなんで鉄夫が野球部辞めんといかんのですか」
「新聞配達始めたらしい。高校生やからそんなもんしか出来んのやろうが、学校が終わったら夕刊も配るし折り込み広告も挟んだりするらしい」
なんで、と際限なしに繰り返しそうになる言葉を飲み込んだ。納得は出来ない。鉄夫は何も悪くないのだ。しかし、それが鉄夫が決断したことでもあるのだ。オレが何か言うことではない。そう自分に言い聞かせて悔しさを飲み込んだ。
部員たちにはオレから話した。誰もがその理不尽な悔しさを奥歯で噛み締めているようだった。受け入れるしかない。どうしようもないことなのだ。皆同じ気持ちだと思っていた。
誰もその気持ちを表には出すまいと頑張っていたが、甲子園への期待感は明らかに薄らいでいた。和志と鉄夫に頼りきっていたため、リリーフの準備が出来ていなかった。二年の吉川はまだ投手として完成していなかったし、いずれにしても残念ながら二人には大きく見劣りした。それでも誰も鉄夫を責めはしないはずだった。それは仕方がないことだったのだ。
ただ一人だけがそれを受け入れはしなかった。
練習が終わり家に着いてすぐに電話が鳴った。監督からだった。
「おまえ、鉄夫のおる町営住宅近いやろ。すぐ行け」
「どうしたんですか?」
「和志が暴れちょるんや、わしもすぐ行く」
何がどうなっているのかわからなかったが、オレは自転車を走らせた。近くまで来ると和志の怒鳴り声が聞こえてきた。
「鉄夫、出てこんかい、こらぁ。おまえ悔しゅうないんかい!」
お巡りさんがもう来ていて和志の体を押さえていたがそれで止まる和志ではなかった。住宅の住人が周りを取り巻いていた。お巡りさんは「近所にも迷惑やから」と明らかに効果のない説得を続け、和志はそれを全く無視して叫びつづけていた。
「ふざけんなよ、ボケ。逃げんな、出て来い。新聞配達くらいわしが手伝うちゃるわ。それともなんか、わしに先発取られんのが怖いんかー!」
オレは自転車から飛び降りて和志を前に立った。
「何しとるんじゃ、こんガキ」
「やかましいわ、すっこんどれ」
体に怒りが込み上げてきた。
「おまえ鉄夫の気持ちが分からんのか!」
いつの間にか叫んでいた。
「おまえには分かる言うんか、あいつの気持ちが。こら鉄夫、おまえええんやな、ほんまにええんやな? 野球捨ててええんやな!」
オレは言葉をなくした。和志もそれを最後に叫ぶのを止めた。いいはずがなかった。いいはずなんてないのだ。鉄夫は野球が好きなはずだ。オレたちのチームもライバルの和志も、そしてみんなが一緒の時間も。その気持ちは仕方がないで済むものではない。でもやっぱり仕方がないのだ。和志は小さく震えていた。目をつむると、家の中で拳を握り締めて震える鉄夫の姿がまぶたの裏に見えた気がした。
レフト線の大きなファールの後、和志は得意の内角ストレートで詰まらせてピッチャーゴロで打ち取った。七回が終わりゼロ対ゼロ。延長戦になれば和志はもたない。もちろん和志は投げると言うだろう。だからこそ延長戦に入るわけにはいかなかった。点を取らなければいけない。しかし実際はいくら強く思っても思いだけでは球は前へは飛ばない。投手としての格は明らかに和志のほうが上だが、愚直な練習しかしてこなかったオレ達には相手投手の巧みな変化球はある意味魔球に等しかった。焦れば焦るほどバットが空を切る。炎天下に響き渡るブラスバンドや声援は「頑張れば勝てる」と根拠もなく主張する祈りのようで、それが今はかえって現実を浮き彫りにしていた。
あの後から和志は一切鉄夫のことには触れなくなった。ただそれまで以上にストイックに練習をこなした。走り込みをすることが多くなり、投げ込みの投球数も増えた。その姿が、上手く言えないげど、どこか痛かった。
オレも以前に比べると走ることが多くなった。グランドではなくロードワークに出る方を好んだ。川沿いに海のほうへ向かって走っていく。その先にある港の少し手前には鉄夫の住む町営住宅があった。具体的に何かを期待したわけではない。むしろばったり会えば言葉に詰まるだろうと思った。それでもただほっとくのも何か薄情な気がして、オレは自分でも何がしたいのか分からぬままグラウンドでボールが見えなくなった後で薄暗い川沿いの道を走った。
川べりを歩く鉄夫を見かけたのは虫の声もまばらに聞こえる季節が夏へ足を踏み出し始めた頃だった。その期に及んで自分が話し掛けるその言葉さえも決めていないことに気が付いた。もともと学校でのクラスも違いそれほど接点がなかったこともあり、あの後オレは鉄夫と話していなかった。正直に言うと他の誰かがいるときに会話を交わすのは何か気まずくて、こうやって暗い川べりは走るくせに、廊下などではばったり会わないように気を付けていたのだ。
しかし会話は考える間もなく始まった。暗さが災いした。鉄夫は立ち尽くすオレが誰なのか確かめようと目を凝らしてこっちを見て、その視線がまともにぶつかった。
「鉄夫…」
「よう、しばらく。元気か?」
鉄夫も困っているのか、元気かなんておかしな事を聞いてくる。自分もろくな言葉は返せなかった。
「ああ。まあな」
「どうや、チームは?」
「ああ、頑張っちょる」
「そうか」
何を話せば良いか分からなかった。ただ何か出来ればと思った。それだけは正直な気持ちだった。
「状況とか、どうなんや?」
なんとか紡ぎだすようにそう聞いた。
「あんまりな。夏休みになったら引っ越すかもしれん」
「引っ越す?」
「ああ、どないしようもない」
どないしようもない。悲しく胃の中に重くのしかかる言葉だった。
「なんか、出来ることが…」
しかしその言葉は全て言うことなく止められた。
「ええんや、ええんや。気にすんな。それともなんか? おまえも和志みたいに新聞配達手伝うとか言うんか?」
鉄夫は軽い口調でそう言った。やはりあのとき鉄夫は家の中で和志の叫びを聞いていたのだ。
「じゃけど…」
「気持ちはありがたいけどな、そんなことしてもなんにもならんで。どうしようもないことなんじゃ。仕方ないんじゃ。新聞配達もの、たいした金にはならんのや。でも、仕方ないんや」
鉄夫は相変わらず軽い口調でそう言ったが目は空の星を眺めていた。暗くて見えないはずなのに、その強く握り締めている拳が見えた。言葉が返せなかった。野球をやっているせいもあり体はもう父親より大きい。でも、それだけだ。オレには何も出来なかった。そんなことさえ分からずにいた。
「仕方ないんじゃ。でも心配せんでええ。なんとかなるやろ」
それは確信でも希望でもない。鉄夫の覚悟だった。
「試合頑張れよな」
何も言えないオレに鉄夫が声をかけた。
「ああ」
「和志がきっとやりおるから、あいつを助けてやってくれや」
「ああ、まかしとけ」
まだうるさいとは言えないほどの虫の声が余計寂しく鳴り響く川べりの、星が見えてきた暗い空の下、オレたちはただ小さくて、空を見上げていた。
「よっしゃ、ちゃっちゃと終わらせて次で点取るぞ」
和志が相変わらずの軽口でそう言う。この守備を終わらせれば、次は和志からの打順だった。円陣を組んでグランドへ走り出る。
連日の試合と猛暑にもかかわらず和志の球は依然速かった。簡単に一人目をセカンドゴロに打ち取る。しかし衰えないスピードとは裏腹に球の重さはなくなっていた。握力の限界が近いのかもしれない。それでも二人目を三振、三人目をレフトフライと三人で攻撃を終わらせた。その直後だった。和志がマウンドで苦痛に顔をゆがめていた。左手のグローブで右腕を押さえている。
「和志!」
みんながマウンドに駆け寄る。
「大丈夫や、次はわしらの攻撃じゃ。戻るぞ」
心配するナインを引き連れて和志は三塁側のベンチへ歩いた。ベンチでは監督が腕を組んで待っていた。和志はその視線を無視してバットを握る。
「いつからじゃ」
監督が声をかけた。和志は目を合わせぬまま答えた。
「七回から。でも大丈夫や」
「どう見ても大丈夫やないやろ!」
レフトの掛井が声をあげる。少ない三年のうちの一人だ。
「やっかましーな。はよバッターボックスに立たんと審判に怒られてるやろ」
なんでもないようにそう言ってのけるが、顔に浮かぶその痛みは隠せずにいた。いくらなんでもこれ以上やらせるわけにはいかなかった。
「和志、交代や。代打を出す」
「なんやとボケェ!」
和志は襟首を掴んできた。しかしその手に握力は感じられなかった。
「もう無理じゃ」
「じゃあ誰が代わりに投げるんじゃ、誰が代わりを出来るんじゃ!」
思わず和志の襟首を掴んでいた。
「調子のんな、おまえの代わりなぞなんぼでもおるんじゃ、ボケェ!」
しかし次の和志の言葉にオレは力を失った。
「わしの代わりなぞ、どうでもええ。鉄夫の代わりは他におるんかぁ!」
誰もが答えなかった。ブラスバンドと蝉の声が妙にはっきりと聞こえていた。そんな静粛の中、和志が突然頭を下げた。
「わしに、行かせてくれ。証明したいんじゃ、あいつのことを。わしが出来ることを鉄夫が出来んはずはないんじゃ」
監督さえも何も言わなかった。なにもできなかった。情けなくて悲しくて、でも闘志に燃えていた。
「円陣じゃ」
円陣を囲んで声を張り上げ、和志をバッターボックスに送り込んだ。もう、先の試合のことなど考えないでおこう。ベンチに座ると監督が「これでわしもマスコミやらPTAの非難の的や。大人もたいしたことないのぉ」と一人ごちたので、いませいぜい自分たちができること、元気な笑顔を飛ばしてやった。
和志はサードゴロに倒れたが次の二年の岡本がレフト前で塁に出た。これでオレに打順が回ってくることが確定した。次の忠光はバッターボックスに入る前に和志とオレの顔を交互に見てから「一点でええんやの?」と言ってからバントを決めた。さっきまで打順が回ってこないことにいらついていたのだが、さすがにこの打席は気が重い。賭けるしかない。初球のヒットアンドラン。オレは和志の豪腕に賭けたのだ。この場面で和志という豪腕ピッチャーを擁するこのチームに初球ストレートを投げる胆力は相手ピッチャーにはない。そう踏んだ。スコアラーに確認してみたが初球はカーブが多いというがストレートもあるという。しかし和志の球を受けるオレに対してストレートはない。投げれるはずがない。そう信じてバッターボックスに立った。
次の瞬間から一塁ベースを踏んで振り返るまでは良く思い出せない。ホームベースを振り返ると岡本がみんなに迎え入れられていた。二塁ベースを目指さなければいけないことすら忘れ、オレは両手を天に突き上げた。この観客席のどこかにいるであろう鉄夫に向けて吠えた。
「和志、分かっちょろうの」
「当たり前じゃ」
「無様さらすなや」
「分かっちょるわ、ボケ」
背中を叩いて和志をマウンドに送り込んだ。鉄夫が羨ましかった。オレには確信があった。現実の壁さえ破り和志は投げきるであろうということを。最終回、あと三人を切って落とした後のことを思い浮かべミットを構えた。要求はストレート。どうせ他にはありはしない。しかしそれでも打てるはずがない。
天を突き刺すガッツポーズの直前、埃っぽいグランドの空気とバットの起こす風を切り裂いた白球がミットで大きな音をたてた。
Entry7
ステンドグラスローリング
るるるぶ☆どっぐちゃん・・・・・
お経が聞こえてきた。
あたし達は二人並んで立ち、ステンドグラスの光を浴びている。
宗教に興味があった訳じゃ無かったのに、何故だか宗教関連のことを沢山調べた時期があった。誰にでもあることなのかもしれない。あたしが知り合った外国人、外国人というか西洋人はみな東洋の宗教、東洋哲学のことをとても良く知っていた。禅、とか大好きなんだよな、彼らは。パーティに呼ばれて行った所、皆がタキシードにシルクハット、蝶ネクタイで緑色の敷物にアグラで車座になっていた。
「何をやっているの」
「禅だよ」
と彼らは答え、何やら呪文のようなものを呟き出した。
「禅パーティだよ」
あたしは彼らと共に、呪文を適当にぶつぶつ言いながら二時間も怪しげな、畳のような敷物の上で禅を組んだ。
「これでやり方はあっているのかい」
「別に、お経に正しいも間違いもないしね」
隣の建物から聞こえてくるお経は、かなりいい加減な代物だった。こんなお経は他の何処でも聞いた事がない。
そのようなものがいつも聞こえてくる。
その上、彼らはあたし達の所にも毎日来る。玄関で、二人組がお経を唱える。修行なのだそうだ。いつも違う二人組が現れる。きっとそれなりに信者の数が多いのだろう。
隣でカナが書き物をしていた。消しゴムを何度も何度もかけて皺々になってしまった紙に、シャーペンの芯をぼきぼきと折りながら、彼女は五秒に一文字程度の速度で書いていた。彼女はシャーペンには慣れていない。だが彼女の字はとても綺麗だった。彼女は小さい頃から厳格に育てられ、習字教室にも通わされていたのだ。
カナとは高校の時に知り合った。文化祭で、一緒にジュースを売った。情熱的なクラスメイト達が張り切って屋台や売店を作る中、あたし達は何もしないでただジュースを売った。あたし達は経済理論だけで、つまりは薄利多売方式で、クラスメイト達の煌びやかな売店の、三十倍以上の利益を出した。あたしとカナは違う大学へ進んだが、留学先でばったりと再会した。帰国してからは暫く行き来が無かったが、このアルバイト先の教会で、またしても再会することになる。
「もう詩は書かないって決めたんじゃなかったっけ?」
彼女は返事をしない。紙を睨み付けたまま、シャーペンを少しずつ動かしている。
シャーペンの芯が、またぼきりと折れた。
「今日も良い天気ね」
あたしは手を顔の前にかざして言った。
「こんなに天気が良いなら、今日はきっとお客さんが沢山来るのだろうね」
あたし達は三時間後、教会に集まる人々と共に賛美歌を歌う。聖歌隊なのだ。聖歌隊のアルバイト。時給は三千円。割と良いが、一日に二時間程度、それが週に二回しかないのだから、月給で考えると大したことは無い。
「そうね。きっと叔父さんと叔母さんも来るわ」
彼女は紙から目を離してにこりと笑った。
彼女は母親を早くに亡くしていた。彼女は父親に厳格に育てられたのだが、その父親も二年前に亡くなった。冬登山に言った先で遭難にあったらしい。
あたしは彼女の父親の写真を見せて貰った。想像していたよりもずっと小柄で、優しそうな顔をしていた。
「叔父さんと叔母さんも、来るわ」
彼女の言う通り、彼女の叔父さんと叔母さんは確かに毎回来ていた。彼らはいつも時間通りにやって来て、会場の一番後に並んで座った。彼らはそこから、あたし達の姿を写真に収める。シャッターを何度も切り、会場をストロボフラッシュの強い光で包む。
そうやって撮られた写真はあたしの家に後日届く。
「届いたの? じゃあ今から見に行くわ」
カナに連絡すると、彼女はそう答える。あたし達は喫茶店で会い、一緒に写真を眺める。
深夜の喫茶店には色々な人が現れる。あたしは写真では無く彼らの方が気になってしまう。
「これを見て。とても良く映っているわ」
彼女はそう言って写真を指差す。あたしは気が散っていて、ああ、とか、うん、とか生返事をするだけで、あまり写真は見ていない。周りばかりをきょろきょろ見てしまう。真っ白な衣装の黒人、四つ子の兄妹、弦の切れたギターの張り替えをしている長髪の男。それらの向こう側に、女の二人組が居る。彼女達はあたし達にそっくりだった。二人組は、あたし達の側にいつも居た。毎回同じ喫茶店を使うわけでもないのに、彼女達はいつも側に居た。二人は、見かけるたびにどんどん髪が伸びていった。色は白くなり、ワンピースも白くなり、時代がかったデザインになり、頭には緑色の冠までしている。口の周りには、真っ白な付け髭までしていた。
彼女達は何かをしなければならないようだった。そこで結局、彼女達は子供達を連れてきた。子供達を騙してテーブルの上に立たせ、自分達が映ったその大量の写真を手に取る。子供達は命じられたままに手を前に突き出す。彼女達はその両腕を、根本からすぱりと切り落とし、前もって用意しておいた羽根を、その傷口に押し当てる。その羽根はいかにも安っぽいものなのだが、子供達は邪魔だった手が切り落とされて自由になり、さらには好みである安っぽい、大人の安直な権威主義的では無い、本当に何も考えてない安っぽいデザインの羽根が取り付けられて満足なので、彼らはそれでぱたぱたと羽ばたく真似をする。
天使のように愛くるしい笑顔。
サチは彼らから無理に目を離すようにして写真を指差して笑い続けている。苦しそうに眉根が寄っていた。
「どうしたの」
「なんでもないよ」
カナはそう言って水を飲む。あたしも水を一口飲む。水は冷たかった。氷がいつまでも解けない。
「酔っちゃったのかな。ちょっと飲み過ぎたのかもしれない」
カナはそう言ってまた水を飲んだ。そしてお腹を押さえる。
「大丈夫?」
「大丈夫。ちょっとトイレ行ってくるね」
彼女はアルコールなど一口も口にしていないのにそう言って、席を立とうとした。足がよろけている。
「一人で大丈夫?」
「一人で大丈夫」
そう言われても勿論安心出来無いのだが、彼女は昔から強情なところがあって、人にはあまり頼りたがらない。仕方が無いので後から黙ってついていく。
彼女は個室に入った。あたしは洗面台に寄りかかり、彼女を待つ。
蛍光灯がちらちらと眩しい。それもその筈で、天井の蛍光灯を遮るように何かが浮かんでいたのだった。
天使のような笑顔。
ふわふわとしたピンクの巻き毛の女の子だった。彼女はあの二人に貰った羽根で、飛んでいる真似などをしているのだ。
「ねえ、ちょっと」
あたしは女の子に声を掛けた。
「なあに」
女の子はそう言ってにこりと笑い、羽根をひらひらと動かして床に降りてきた。
「そんな所でそんな風にしていたら、みんなに迷惑だとお姉ちゃんは思うんだけど」
「みんな、ってだあれ?」
女の子は羽根を動かした。それで風が起こり、あたしの帽子と眼鏡がずれる。彼女の巻き毛もずれた。どうやら彼女の巻き毛は、カツラらしい。
「そのカツラも、貰ったの?」
「ううん、買ったの。帽子の代わりにもなって、便利よ。ところでさっき言っていたみんなってだあれ?」
「みんなは、みんなよ」
「めいわく、ってなあに?」
女の子の笑顔はますます愛らしいものになっていった。子供とは、このように笑える者のことをいう。
そしてあたしも、昔は子供だった。
あたしは質問に答えないまま彼女の顔を見つめていた。彼女のすぐ後にある壁のタイルが、割れているのに気づいた。割れているタイルは何枚もあった。あたしは割れているタイルの数を数え始めた。三枚。四枚。五枚。
「六枚。七枚。八枚」
女の子もあたしと同じことをしているらしい。割れているタイルを一つ一つ声をあげて数えている。
「九枚、零枚、一枚」
タイルはとても沢山割れていた。だが女の子はどうやら二桁の概念はまだ理解していなかったらしい。数は九にいくと、次は零になった。
「七枚、八枚、九枚」
次は零になる所だった。だがそこでカナが、
「うう」
という声を出した。
女の子はタイルを差していた羽根をするりと下げた。
「可哀想ねお姉ちゃん。苦しんでいるみたい」
「そんなことは無いよ。彼女は泣いてなんか居ない。あたしがついているしね」
「ねえお姉ちゃん」
「なに」
女の子は笑ったまま羽根をあげた。そしてピンク色の巻き毛をその羽根で器用に掴む。
「これ、あげるよ」
女の子はそのピンクのカツラをずるり、と頭から外した。
カツラの下から、女の子の本来のものであろう髪の毛が垂れ下がる。綺麗な黒髪だった。
あたしはカツラを手に取る振りをして、女の子の羽根を掴んだ。
「なにをするの?」
あたしは答えず、さらに手に力を込めた。女の子は羽根を震わせて天井へと飛び上がろうとする。
「こんな所で飛んでいたら、みんなに迷惑だと思わない?」
「みんなってだあれ? 迷惑ってなあに? ねえ、嫌、離して」
ずるり、という音が聞こえた。
見ると、手には羽根があった。
女の子は羽根を無くしていた。
「ねえ」
カナがトイレから出てきた。
「どうしたの?」
あたしは慌てて羽根を服の中へと隠した。
「何でもないよ。行こう」
「ああ、うん」
あたし達はトイレの外へと出る。
「あああん、あああん」
背後から、女の子の声が聞こえてきた。
「どうしたのかしら」
「なんでもないわきっと」
「そうかな」
「もう身体は大丈夫なんでしょう?」
「ええ、大丈夫」
「じゃあ良いわ、行きましょう」
店内へ戻ると、あの二人はまだ居た。子供達に、お菓子を配っている。
紙のピストルやプラスチックの人形、ふわふわしたカツラなどを売っている。
「ありがとうね。ありがとう」
カナを家に送ると、彼女はそう礼を述べた。
あたしも家に帰る。
服を着替えようとした時、シャツの下から、忘れていた羽根がはらりと落ちた。
あたしはそれをゴミ箱に入れるのも躊躇われ、取り敢えず部屋の片隅に置いておくことにした。
喫茶店には相変わらず子供達がふわふわと漂っていた。あたしは彼らから羽根を奪った。
羽根は部屋に溜まっていく。
あたしはそれで、羽根ペンを作ろうと決めた。
ぼきり。またシャーペンの芯が折れた。
「詩、止めたんじゃあなかったっけ?」
あたしの言葉にカナは何も答えない。のろのろと手を動かして文字を書いている。
「今度、羽根ペンをあげるね」
あたしは言った。
羽根ペンはもう何本か試しに作ってみていた。あの喫茶店で会う子供達で試し書きもしてみた。ぷにぷにしたお腹に、あたしは絵や文字を書いた。子供達のお腹に、様々な図形が描かれる。なかなかうまく描けた。自分にこんなに絵を描く才能があるとは知らなかった。あたしは図書館や本屋に行き、様々な画集や画法の本を読み耽った。絵はみるみるうちに上達した。もっとうまくなりたい、と思った。もっと沢山書きたい、と思った。
喫茶店で会うあの二人組はどんどん年老いていった。彼女達は、結局はそれが望みだったのだ。そして夏が終わる頃には彼女達はまたフリダシに戻り、子供達と一緒に店内を飛び回っていることだろう。彼女達は皺々になっていた。目ばかりが爛々と光り、その輝きで、彼女達は百万光年先、未来、過去などを見据えている。この二人にはその内に賛美歌を歌ってやろうと思う。きっと二人は泣いて喜ぶに違いない。
「羽根ペンは実に良いものだよ」
あたしがそう言うと、カナは顔を上げてあたしを見た。
遠くで呼び鈴の音がした。
「お客さんだね」
あたし達は入り口へと歩き出す。
「ようこそ」
あたしはそう言って教会の扉を開いた。
「おめでとう」
扉の向こうには人が二人立っていた。
「おめでとう」
彼女達はそう言ってカナに花束を渡した。
「誕生日おめでとう」
「ありがとう」
カナはそう言って、花束を受け取った。
二人は満足そうに頷いた。二人組は片方が白いワンピース、片方がヴェルサーチの黒い男もののスーツであったが、二人とも女であった。したたかで頭の良さそうな顔をしている。自分の才覚を頼りに生きてきた女の顔だった。それで随分と成功を収めてきたのだろう。
「叔父さん、叔母さん」
カナはそう言った。
「誕生日おめでとう」
彼女達はそう言って懐からクラッカーを取り出した。そして紐をつまみ、にこりと笑う。
「誕生日、おめでとう」
ぱん。
破裂音と共に、カナが倒れた。
「カナ」
二人組はもう一度、おめでとう、と言い、くるりと背を向け、去っていく。
「カナ」
あたしはカナの肩を掴んだ。カナは目を閉じ動かない。
「どうしたの、あれは祝福のクラッカーなんだよ。お祝いされたんだよ、そのクラッカーなんだよ。どうしたの? いったいどうしたの」
カナのポケットから封筒が落ちた。
封筒は、いつもあたしの家に送られてくるあの封筒だった。
あたしは封筒を手に取り、中身を出した。
中身は、皺々になってしまった紙ばかりであった。
「こんなふざけた写真は見たことがない」
あたしは写真を封筒に戻し、カナの身体を持ち上げた。
そしてふらふらと歩き出し、病院へと向かった。
「治りますか?」
「治しますよ。必ずね」
「良かった」
「クラッカーは祝福のために使うものですからね」
若い医師はそう言ってあたしの手を握り、そしてカメラを構えて写真を一枚撮った。
「後で送りますからね」
そう言って彼とカナは手術室へと消えた。
待合室はひんやりとしていた。あたしは水を飲んだ。コップの氷は先程から全く溶けない。だが寒くもない。
テレビがついていた。チャンネルが五秒に一回ほどの間隔で変わっていった。どのチャンネルもプロ野球ばかりをやっていた。みな凄まじい老人だった。
「この年まで現役なんて、まさにプロの鏡ですね」
アナウンサーがそのように述べた。解説者がインチキだと丸解りのお経で返事をした。それをアナウンサーもお経で返す。
みな宗教に興味があるようだった。
待合室は、子供ばかりだった。羽根をみな無くしている。あたしが羽根を奪い取った子供達だ。
子供達は本当に身軽そうに歩き回っている。
あたしは羽根ペンを取りだした。そしてカナの皺々になってしまった紙に、あたしは絵を描き始める。
隣にはいつのまにか女が居た。女は黙ったまま、皺々になってしまった紙に何かを書いていた。
カナにそっくりだった。
テレビの中の野球選手がボールを打った。ボールは大きな曲線を描いて何処までも飛んで行く。
あたしはともかく絵を描き続けた。絵はどんどん上達していった。
羽根ペンはさらさらと動く。周りの全てがどんどんと流れていっても、あたしの筆は止まることがなかった。どんな写真よりも理想的に、あたしは世界を紙に書き留める。
辺りは真っ暗だった。その中であたしは女と二人、ベンチに腰掛けている。
あたしは書き終えた絵を片っ端から封筒に入れ、郵送した。
遠くにちかちかと光るステンドグラスが眩しい。
Entry8
わたしのけもの
ながしろばんり・・・・・
ママはお仕事、帰ってません。
ドアノブは目の高さ。紘子はしばしの間立ちつくして考えた後、ノブの鍵穴から内側を覗こうとする。家の中が見えるわけではない。でも、気配だけする。
生き物の気配。じいっという機械の動く音はメーターの廻る音で、自分の家なのに中に入れないのは、ママが駄目だって云うからだ。夕方の四時までは帰ってきちゃいけないと云う。新しいお仕事でいないのだ。
一月前から部屋中に立ち篭める匂いや、山羊のような猿のような真白い像にはどうしても慣れなかったけれども、ママが元気になったので我慢している。居間の隅には、白い本が何冊も積み上げられていて、ママは家にいるとずっとその本を読み耽っている。紘子が邪魔をしないように並んで宿題を片付けていると、ひそかに嬉しそうにしている。
不意に思いついて、束ねて積んである古新聞の束によじのぼる。戸には大人の目の高さに、内側から来客を見るためのスコープがついている。古新聞から足を掛けて、不安定な足場から紘子はスコープに飛び付く。一瞬だけスコープから白い光が見えて、紘子は軽い音を立てて地面に降り立つ。支えにしたドアがどしん、と鳴る。細かい埃が降ってくる。長い梅雨に突然の晴れ間、さして暑くは無いが湿気た空気に額が汗ばんで、拭う。
きっと誰かがいるはずだ。紘子はもう一度戸に飛び付いてみて、なおもドアの方を見つめていたが、あきらめてランドセルを背負って部屋の前を去る。アパート入口の鉄柵が軋んでしまり、しばらくすると扉から若い男がでてきて、紘子の去った方向を見つめている。
「紘子だった?」
男の背後、部屋の奥から女の声がする。
「ああ。そろそろやばいんじゃねえのぉ?」
「そうねぇ」
男が部屋の奥に戻っていく。入り口のドアはしっかりひっぱらないと、閉まらなくなってしまった。
「絶対に疑ってはいるでしょ」
「まだガキだからよ、疑ったところで何もできやしねぇって」
女は骨の浮いた男の手を取って引き寄せると、湿った布団にもろとも横倒しになる。絡んだ舌が音を立てて離れると、上乗りになった女は男の首筋に顔を埋める。
「子供の悲哀、やな。俺が張本人とはいえ」
「大丈夫。あの子についてはうまくやるわ」
「ガキがいるなんて言わんかったもんな、おまえ」
「そうとでも云わければあなたは私になんか目もくれなかったでしょ」
ぶっ、とわざとらしく噴出して、嫌なガキだ、と舌に出す。
「いいの? 布教師が選り好みして」
「選り好みしねえのは神様だけで十分だ」
「馬鹿。ねぇ、そろそろ…ね、もう一回」
男に鎖骨を舐められて粗くなっていく呼吸の中で、女は、ママはふと紘子の顔を思い浮べる。でもその輪郭もカーテンの隙間からの西日に燃えてなくなってしまった。
「やな餓鬼だ、やな餓鬼だ、やな餓鬼だ――」
律動、激情の赤が女の首に燃え移り、やがて部屋全体を真っ赤に染めていった。
今日も紘子はママについて街に出掛けていく。元々体の弱かったのが、街を歩き回るようになって丈夫になったのだと紘子は思っている。ママが元気になるから、だから、紘子は学校を休んでもいいのだ。事務所の人にもらった飴を口に、母子は住宅街を歩いている。青空が円く見えた。このまま梅雨が明けないだろうか。
「世界は病んでいます」
紘子とつながったママの左手には、たくさんの筋が浮かんでいる。細くて筋張ったママの手の甲から、紘子に緊張が伝わってくる。
「あなたの幸せについて、一緒に考えてみませんか?我々イヅチ会は…」
「表の表札が見えなかった? ウチは宗教はいいんだから、いらないんだから」
応対に出たのは恰幅のいいお婆さん。概ね大体人は苦々しげに応じてくる、のを紘子が無表情に見上げている。
「お話だけでも少しさせていただけませんか」
「いらないといっているでしょうが。警察を呼ぶわよ」
お婆さんは聞く耳も持たず家のなかに引きこむ。行こう、とママは紘子の手を引く。紘子の目は閉じていくドアから動かない。なんでママは怒られているのだろう。しっかりと握り締められた右手に、紘子はそっと左手を被せてみた。聞いてはいけない事。これは、ママのお仕事だからだ。
「あんたもねぇ、小さい子をダシに話を聞いてもらおうだなんて随分な遣り方だと思わない? その子の学校はどうなっているのよ、学校は」
吠えたてる白い犬を抱いたおばさんは、目を細めて紘子を見る。哀れみは軽視をも孕んでいて、何か取って喰われそうで紘子は身震いして、おばさんを睨み返す。
「御覧なさいよ、嬢ちゃんがすっかりおびえているじゃないの。あんたもいい年して幸せを云々説教する暇があったら、自分の娘を学校に遣ったらどうなのよ。自分の娘を勝手にひきずりまわすような人に幸せをどうこう云われたくないわ」
ママは軽く頭を下げて去ろうとする。紘子の目には白い犬とおばさんが同じ顔に見えて恐かったし、なんだかママが可哀想で、腹が立った。
「紘子は、学校にいきたい?」
真昼の商店街は賑やかで、二人だけ影のようで。影が薄暗い喫茶店に溶け込むかというと、決して、そうでもないらしく。
「ママが大変だから、どっちでもいいよ」
「そう、ありがと」
「でもね、ちはるちゃんとか、けいちゃんとかが心配してるんだって。松浦先生もね、ママに会いたいって書いてあったよ。そうだ、連絡帳があるの。渡すの忘れてたしね、あの」
ウェイターが来る。ママはコーヒー、紘子はプリンと紅茶を頼む。背筋の良い後姿が薄暗がりに消えて、ちょっと振り向いた気がした。
「学校は楽しい?」
「うん。でも、ママと歩くのも楽しいよ。ママ、輝いてる」
「輝いてる?」
「昔より、元気になった感じ」
女は、はっとして紘子を見る。
ただ、屈託の無い笑顔が目の前にある。
「そう? 元気に、見えるかな」
「うん。きっと沢山歩くからだよ」
女は剥がれ落ちるママの顔を、そのまま、
「そ、そうかぁ、沢山歩く……からかな」
思わず赤くなるのを、紘子は不思議そうな顔で見ている。
「紘ちゃん……ごめんね」
「ん?」
ウェイターがお盆を運んでくる。青磁のポットには保温用の布キャップがついていて、花の刺繍がいくつもほどこされている。
「お好みの濃さで注いでくださいね」
「はぁい」
「只今プリンもお持ち致します」
紘子はウェイターの行く末をまじまじと目で追っている。その横顔を見ながら、ママは溜息を一つついた。
「紘ちゃんは、幸せ?」
「うん」ウェイターの動向から目を離さない。
「そう、っか…」
「ママが元気なら、それでいいよ」
注がれた紅茶は、夕日の褪せた色に見えた。
「ママ、輝いてるって」
「輝いてるって?」
蛍光灯の白い色。円い輪の形の光は、絶頂の後の気分に相俟ってぼんやりと目に沁みた。女は目をきつく閉じる。
「紘子がね、昨日、そんなこと言ってたの」
「やめろや、こういう時に」
「ね、私、輝いてる?」
「やめろよ、いい加減にしろ」
「煙草はやめてよ、匂いが残るわ」
男は女を睨むと、指先から煙草を弾き飛ばす。青いカーペットの上に白く一本転がって、ますます言いようのない苛立ちに男は背中を向けた女に手を回す。うん、と一つ唸ると女は男の方に倒れこんでくる。
「昨日の活動はどうだった」
「全然ね。向井橋の住宅街はどうもみんな元気で。あんまりにも紘子が哀れがられてね」
「御利益も糞もねぇ」
あらためて箱からタバコを一本引っ張り出す。女が止めないのを確認して、火を点ける。
「逆効果、か。俺も本部の方から言われてるから、少しでも……な」
「ねぇ、紘子は学校の方に遣りたいんだけど、駄目かな」
「好きにすりゃあいいだろ、こうなったらガキぁ使えねぇだろ」
「紘子のことをガキって呼ばないで」
「ったく、娘の所為で部屋に小聖像しか置かねぇ、布教は下手、うめぇのはセックスだけ…と。輝いてますな、奥さん。やれやれ」
男は喉に絡んでいた痰を吐き出して塵紙に丸めると、起こしていた半身を倒して目を閉じる。
「ちょっと、今寝られると紘子が帰ってきちゃうってば」
「三十分もしたら起こしてくれよ。どうも、おめえといると夜の集会に持たなくて…」
男は語尾を飲み込んでそのまま眠りに就こうとする。女は平べったい男の胸をしばらく叩いてみたり胸毛を引っ張ってみたりしていたが、男はあっという間に眠り込んでしまった。
煙にぼやけた視界、妙に湿気た部屋の中の様子が、まるで二人の汗が蒸発したせいのように思えて、女は立ち上がって窓を薄く開ける。埃っぽくて温い空気が流れこんできて、女はまた窓を閉める。諦めた女は化粧台の、姿見の前に立ってみる。化粧台に置かれた「聖像」と並べて見る肌は決して白いとは言えないが、少し肋の浮いたところを覗けば、まだまだ若い躯だと思った。鏡に映った女の姿は、十数年変わらない躯だ。隣の部屋で眠っている男と出会うずっと前から。紘子を身篭もる前から。そして、青森でトラックに乗っている夫と出会う前から。ただひとつ、女のけものが放たれて輝いて見える。それだけのことだった。
「お帰り、遅かったわね」
戸を開けると台所だ。ママが野菜を刻んでいる。奥の居間の方からは大相撲の中継が聞こえてくる。
「運動会の予行演習でね、それから友達のところで遊んでたの」
「あら、ちはるちゃん?けいちゃん?」
「ううん、孟鹿寺」
「孟鹿寺? あの北口の」
「うん。澄正君のお家」
駅北口の孟鹿寺。結構な広さのある真宗のお寺だ。
「仲、いいんだ」
「学校行くときに毎日通るからね、お寺の中」
「そうなの」
「その方が近いし。通学路の地下道って、最近変な人が出るらしいよ」
カン、カン、とガスの燃える音がする。テレビでは押し出しで入間川の勝ち。
「今日の御飯、何?」
「野菜炒めなんだけど、いいよね」
「うん。あんかけ、かけてね」
「ちょっと待って、片栗粉…あったかなぁ」
紘子は卓袱台のうえで腕を組んでいる。大関日吉錦対関脇玉勝間、突出しで日吉錦の勝ち。
「でね、澄正君のおじいちゃんが和尚さんなのにね、若い女の人を…」
ママがお茶碗と箸を持ってくる。手伝うよ、と立ち上がろうとする紘子の腕をママが掴む。
「わかったわ。でもね紘子ちゃん、そのお寺の子と付き合うのはこれからはやめてちょうだい」
「なんで…なんで遊んじゃいけないの」
「どうしても、よ。いい子だったらあんな所にいかないで」
「あんなところ、じゃな――」
ママの声が震えていて、紘子は言葉を飲みこんだ。掴まれた肩に爪が食いこんで、目に涙が浮かんだ。
「いい子…だったら?」
「そうよ。紘子ちゃんはいい子でしょ? 紘子ちゃんがいい子ならばママはいつだって幸せよ」
ママの顔は歪んで見える。ちゃんとずっと言うことは聞いてきたのに。私がいうことを聞けばママは幸せだって言ったけれども、ママの顔は溶け始めている。違う、ママじゃなかった。この人、ママじゃない。
お願いよ、と紘子の肩を掴む力が緩んで、ママじゃない何かが台所に戻っていく。スリッパを引っ掛ける足首が違う。半袖からはみ出た二の腕が違う。パンツが形造る尻の線が違う。紘子は茫然として後ろ姿を見送った。
「ところでひろちゃん、日曜日の運動会のお弁当、何がいいかしら?」
テレビのヴォリュームを一気に上げる。千秋楽、横綱犬朗丸と大関伊世湊の結びの一番。何があっても、聞きたくないし、聞こえない。
「ママじゃない?」
「うん」
澄正と紘子が孟鹿寺の境内を掃いている。紘子より一つ上の澄正。坊主頭に瘤が一つ浮いている。
「そんなわけねぇだろ」
「ママだけど、ママじゃない。なんていうか…」
なんていうか、その後が出てこない。
「なんていうか、池内めぐみさん」
「おまえのお母ちゃん、めぐみって言うんだ」
「うん。めぐみさん」
「いいじゃん。何か変?」
「澄正君にはわからないよ」
紘子が箒を操る手を止める。砂利から通路を横切って蟻が数列にわたって歩いている。たいして獲物もなく、大勢の黒い蟻がただ行進しているだけで、紘子はじっとその様子を見つめ始めた。
澄正も、紘子と並んで蟻の群を目で追った。
「女王蟻ってさ、どうして生きていられるんだろうね」
「そりゃあ働き蟻が食べ物を運ぶからだろ」
「なんで運ぶんだろうね」
「そりゃあ、女王だからだろ。ああ、女王蟻が働き蟻のお母ちゃんだからだよ。だからみんなお母ちゃんに食べさせ……」
「パパが帰ってきたら、どうしよう」
澄正はぎくりとして紘子の方を見る。紘子は呆けたように蟻の列を見ていて、澄正は言葉もなく立ちあがってまた境内を掃き始める。音に気が付いて紘子も掃き始める。今にも降り出しそうな厚い雲でさえ、盲目な蟻には無関心なことなのだろうか。しばらく二人とも押し黙ったまま、ずっと箒を動かし続ける。
逢魔が時のひたすらに、鍵の開いた、ママのいない空っぽの部屋が残された。空っぽの部屋には家財道具があって、卓袱台のうえには一枚のメモとラップのかかった深皿が乗っている。メモの字が見えなくて、思い出して紘子は蛍光灯の明かりを付ける。
――突然でごめんね。ママは今日人と会うことになって、帰れないかもしれません。でも、明日は運動会なので、お弁当はちゃんと作るから心配しないでね。明日は晴れますように。 ママより――
一気に読みあげて紘子はメモを四つに折る。四つに折って悲しげに卓袱台に座り込む。深皿にはチャーハンがまるく盛ってあって、ラップの内側に付いた水滴の玉。ママが輝いているんじゃなくて、紘子がいい子だったから幸せだったおか、それとも私がいい子だったから、ママが輝いて見えたのか。
でも、今の紘子は不幸せだ。
チャーハンを電子レンジにかける。なにもなくなった卓袱台の上で宿題を広げて、さて書こうと思ったところで電子レンジが呼ぶ。皿をレンジから取り出そうとして指先を火傷して、手から離れたチャーハンは床にでん、と落っこちる。幸い皿を下に着地したので大丈夫、かというと卓袱台まで運んだ途端に皿が真っ二つに割れてしまう。ラップをはずしたチャーハンの表面は水滴でふやけて、紘子は力なく、泣いた。私、のけものだ。
世界から、社会から、ママから、台所から、のけものだ。きっと澄正君のおじいちゃんだって、ママが何をやっていたか知っているに違いない。だったら澄正君も知ってる、先生も知ってる、みぃんな知っているんだ。私だけ知らない。蛍光灯がジジ、と唸ったかと思うと一度、点滅した。気が付かない紘子に気を使ったのか、蛍光灯はもう一度、点滅した。紘子が顔を上げると、さらに二、三度点滅した。明日は運動会なのに。きっと楽しい運動会なのに、紘子だけとり残された、のけものだった。そうだ、パパはどうしたんだろう。今日帰ってきてくれるはずのパパ、何も知らない、私と同じで気の毒なパパ。
背後で電話が鳴る。飛びつく。刹那、切れる電話。
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