第5回6000字小説バトル

エントリ作品作者文字数
1 伊勢 湊 6000
2 欠片を手ずから、髪に編み込む るるるぶ☆どっぐちゃん 6000
3 砂漠に降る雨 立花 聡 6000
4 平山氏のある朝の出来事 ハンマーパーティー 6000
5 『トラブルシューターズ』 橘内 潤 5253
6 ハイエースで行こう ごんぱち 6000
7 安住の地 ながしろばんり 6000

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エントリ1       伊勢 湊


 子供の頃のことだ。庭には井戸があって、水質検査で飲料水には適さないとされてはいたけれど、それでも僕の目にはこのうえなく綺麗に見える水が丸い縦穴の中にはいつも満ち溢れていた。僕しか知らないことだったが井戸には不思議な力があった。水面は月の光にのみ反応する不思議な鏡だった。
 晴れ渡った月夜にこっそり部屋を抜け出す。平屋の古い家で、部屋からそのままサンダルを履いて庭に出れた。子供には少しだけ重い板の蓋を外すとなみなみとした井戸の水面に月明かりが差し込んだ。
「こんばんわ」
 僕は声をかける。水面に立つ筈のない波が立つ。押しては引き、引いては押す波。そして水面に一人の女の子の姿が浮かび上がる。カサレア。月夜の晩だけに会える遠い友達。少し浅黒い肌に大きな目。日本人ではない。
「こんばんわ」
 微笑とともに僕に届くその声がどこの言葉なのか僕には分からない。でも僕には意味が分かる。井戸の水面の波を通してそれは僕の言葉になる。意味を持った振動として僕の体を直接揺らす。物語は幾夜にも及ぶ。知らない世界の、一人の少女の物語。ときにカサレアは泣く。今日も死体を見たという。人間の死体。僕はまだ人間の死体を見たことがない。夏が終わる頃、大事にしていたカブトムシが死んだ。悲しかった。でも、カサレアが伝える悲しみとは何かが違うと感じていた。ただ何なのかが分からなかった。
「誰もいないの。だから私が死体を運ぶの。とても重いし、それにどこへ行けば良いかが分からない」
 涙が水面に波紋を作る。僕はそれを悲しく思う。
「いつか僕が大きくなったらきっと一緒に運んであげるよ」
「いやよ。本当は運びたくないのだもの」
「じゃあ、運ばなくて良いようにカサレアを連れに行くよ。僕の家の周りじゃあ死体は見ないんだ。カサレアの友達も、近所の人も、みんな来ればいい」
「本当?」
「うん、本当だよ。とっても君に会いたいんだ」
 思えばそれは初恋か。僕は母さんの鏡台からこっそり借りてきたリンドウの髪飾りを水面にかざす。ちょうどカサレアの髪に飾るように。
「君に会いに行くよ」
「うん」
 しかし約束は守られない。全てが光の届かない闇に帰される。夜な夜な彷徨う僕に気が付いた両親が僕を井戸から引き離そうとした。カサレアとの話に夢中になっていた僕は背後に近づく両親に気が付かない。父さんが僕を背中から捕まえ、僕は暴れた。その拍子に手に持ったリンドウの髪飾りが井戸に落ちる。水面には大きな波紋。そしてカサレアは消えた。
 次の日、両親は僕を狐憑きのお払いに連れて行き、帰ってくると井戸は埋められていた。全ては月の光さえ届かない闇に埋もれて、もう声は、聞こえなかった。

 六時。目が覚める。夕方だ。久しぶりに幼い頃の夢を見た。その後、僕はあまりにあっさりと死体を見た。祖父、祖母、兄、母、そして父。十二歳になる前までの話だ。僕は福岡の母方の伯父に引き取られ、井戸のある家の住所は忘れてしまった。伯父と伯母は親切にしてはくれたと思う。しかし僕はなぜかその親切を素直に受け入れられはしなかった。
 高校時代、僕は一生懸命に受験勉強をした。なるべく生きていく上で役に立つとか立たないとか、そういう意味は考えないようにして、ただひたすら情報を詰め込んだ。それは知識ですらなかったが、それでも努力の甲斐があり名門と謂われる東京の大学に合格した。伯父と伯母の元を離れる大義名分ができ、僕は福岡を離れた。

「あの終わり方が違うと思うわけよ。もっと主人公の視点からその心情を描ききらないとダメだよ。だから一流になれなかったんだよ。あっ、すいません、こっちにテキーラ・サンライズもらえますか?」
 もともと大学に入った動機が不純だったためか、英文科という学部のためか、それとも大学自体がそういう場所なのか、入学して半年で僕はもう大学という場所に魅力を感じなくなっていた。一度魅力を失ってしまえば、目に入るものは全てただ鮮やかさを失っていく。
酒は嫌いじゃないし、地方から出てきた僕にも親切にしてくれるクラスの仲間たちのことも好きだ。なのになぜか苛立ちが募る。入学当初のクラスの飲み会では誰しもが自分の好きな作家の名前を控えめに言うだけだった。それがいまでは一端の批評家のごとく死んだ作家を批判する。死んだ者を高いところから見下ろしている。でも、仮にその作家が誰かの批評を受け入れて作品の一部を書き換えても、また他の誰かがその部分の文句を言うだろう。やがて一つの大きな宝石のようだった作品はその硬度を失い、もろく崩れ去っていくかもしれない。いや、それさえ無意味な思考だ。それを書いた人間はもう死んでいるのだから。
誰もが電子レンジで温められた肴をつつきながら楽しそうに語っている。全然悪いことじゃない。でもなぜか我慢出来ない。抜け道のない会話にも、チェーンの居酒屋で出されるテキーラ・サンライズにも、なにもかも。
「ねえどうしたの?」
 気が付くと立ち上がっていた。まるで紙芝居の紙をめくられたように。
「あっ、いや、帰るよ」
「えっ、なに? ちょっとどうしたの?」
 隣に座っていた高槻に上手い言い訳も出来ぬまま、それでも視線が繋がったままの時間が耐え難くて僕は鞄を手に歩き出した。最低だ。自分でも何がしたいのか分からない。焦りだけが体を突き動かしていた。
「まあ、こういうときは男同士のほうがいいからさ」
 そう言っている一番仲の良い笹木の声を背中に聞きながら僕は店を出た。

「なにいらついてんだよ、おまえ。高槻が心配してたぜ」
 隠れ家と呼んでいる小さな居酒屋。いつものようにカウンターに座り、薄めのチューハイを飲む。酒を飲むことのなかった半年前からは想像も出来ない姿だ。
「なんかあったか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
 実際に何かあったわけでもない。上手く言葉に出来る説明など一欠けらもない。どうしたらいいか分からなくて顔をカウンターの端に置かれたテレビに向けた。そこに、記憶の端に眠っていた顔を見た。記憶が音をたてて浮上してくる。幼いときの夢、のはずだった。自分の中でもそう納得していた。でも、その映像はいま目の前にある。
 どこか遠い国の内紛のニュース。軍の装甲車が砂煙を上げて進むその後ろで、小さな子供たちを従えて石造りの井戸の前で必死に何かを叫び続ける女性。歳は同じくらい、でもその顔には幼い頃の面影があった。そして黒髪に光る青い髪飾り。リンドウ。あの日、井戸の底に沈んだはずの、あのリンドウの髪飾り。
「いまの見たか?」
 顔をテレビに向けたまま聞く。もうテレビは軽自動車のCMを流していたが、顔を背けることが出来なかった。
「いまのって、ニュース?」
「そう。装甲車の後ろにいた女の子、リンドウの髪飾りしてた」
「へぇー、よく見えたな。リンドウって日本以外にもあるんだ」
「知らない。でも、あの髪飾りは日本のだよ」
「はぁ? なんで分かる?」
 確信はあった。問題はその自分を信じれるかどうかだった。
「確認したい。いまのニュースってもう一度見れるかな?」
「さあ。おまえ今日やっぱなんか変だぞ」
「テレビ局に言ったら見せてもらえるかな?」
 僕は笹木のほうに振り返った。笹木は一瞬びっくりして、それから少し眉をひそめ、そして言った。
「詳しくは分からないけど、少なくともすぐは無理だな。ああいうのって確かライブラリ映像として処理されるはずだから」
「そうなのか?」
「ああ。だけどもっと簡単に見る方法がある」
「ホントか? どんな?」
「インターネット。どうせ詳しくないだろ? 教えてやるよ。ただ、話くらいしろよ」
 作り話をするだけの余裕はなかった。しかし分かってもらえるとも思っていなかった。どうせ信じてもらえないだろう。それこそ作り話だと思われるだろう。別にそれで構わなかった。意外にも笹木は「そうか」とだけ答えた。僕は「ありがとう」とだけ言った。

 翌日、笹木の言う通りインターネットで画像と音声付でそのニュースを見ることが出来た。カサレアに間違いなかった。どういうわけなのかは分からない。でも、顔には幼き日の面影があり、髪にはリンドウの髪飾りがあった。あれは、夢ではなかったのだ。そう、信じていた。頭のどこかではそう信じることに十分ではないとは分かっていたけれど、何かに突き動かされるように僕はそれを信じた。
 立ち止まると焦げ付きそうで僕は動き続けた。外務省のウェブサイトを調べると、その紛争地域には危険情報が出されており、「渡航の延期をおすすめします」とのことだった。ただ法的に渡航を制限するということではないらしいので旅行会社に行って渡航が可能か聞いてみたが、やはりビザの関係もあり極めて困難ということだった。
 旅行会社からの帰りに財布の中身に不安を覚え銀行に寄った。残高を見ると高まっていた熱が下がっていくのを感じた。伯父にあまりお金を出してもらわなくて済むように新聞の編集部で夜間のバイトをしていたが、それでも貯蓄はゼロに等しかった。なんだかんだ言っても酒も飲めば遊びにだって行く。生活費は何とか自分で工面できるようになってきてはいたが、学費は完全に伯父に頼っていた。
そのときふと、大学を辞めようかと思った。いまのバイトは大学の名前で取ってもらったようなものだが、探せば仕事はなんとかなるかもしれない。大学を辞めれば伯父に負担をかけることはない。いや、そうではない。その手から飛び出すことが出来る。浮かんだ考えが意思を後押しする。辞めることは、それほど難しいことじゃない。しかし、思い留まった。正確には先送りにした。ニュースは連日紛争の悪化を報じていた。あの日の約束が甦る。と同時に井戸の存在も。
 大学を辞めてお金を稼いだとしても渡航するには時間がかかりすぎる。待てない。いま出来ることがしたい。
 家に帰り、押入れの奥にしまってあった両親の遺品の箱を開けた。その中に友人から父に宛てられた手紙があった。封筒の表に住所が書いてある。東京都中野区中央。おぼろげながら記憶にある。近くに行けば分かるだろう。
 あのニュースを見た翌日から大学の授業には出ていない。明日も出るつもりはない。今晩バイトに行けば明日は休みになっていた。
スコップと懐中電灯は必ずいるな。そう思った。井戸を、もう一度掘り返すために。

 南口を出てそびえ立つデパート群に挟まれた大通りを歩く。大きな交差点を左に曲がると郵便局が見えてきた。こんなに近かったんだと愕然とする。遠かったのは自分の記憶と、それに気付くためのなにか。夕暮れ時の風景はその雰囲気も手伝って僕をあの日に戻す。保健所前の交差点を直進する。駅前の喧騒はもうない。次の交差点で少し立ち止まる。左のはずだ。小学校があって家はその近くのはずだ。今は誰が住んでいるか分からない。もしかしたら取り壊されてるかもしれない。まずはそれを確かめなければならない。
 記憶の場所には意外なものがあった。そこだけ、時間が止まっていた。あの日と変わらぬままの、いや、正確に時間の分だけ古くなった家があった。一目見て分かる。生活の空気がない。いったいどういうことだろうか? 庭には草が生えてはいたが誰も住んでいないにしてはきれいにされていた。完全にほったらかしにされていればその程度で済んでいるはずはない。
 名ばかりの低い門は簡単に開いた。短い前庭を歩き玄関前でそれを目にした。表札。そこにあったのは僕の名前だった。玄関の扉に挟まれた幾枚もの紙切れ。書かれた内容は日付け以外はどれも同じだった。「念のためにメモを残しておきます。今月の掃除終了致しました。中野区家政婦協会」
 それは父さんの意志なのか、それとも伯父さんの意志なのか。しかし、いったい何故? 僕はその意味に動揺を止められない。いったい僕は何を、何処を目指していたのだろう? 疑問符ばかりが頭を駆け巡る。それでも、この計画を止めるわけにはいかない。僕は確かめなければならない。
 コインロッカーに入れたスコップと懐中電灯を入れた鞄を取りに僕は駅へ戻った。

 まだ真夜中前だったが僕は埋められた井戸を掘り始めた。この界隈なら淡い光で手元を照らし掘るのであれば近所に気付かれることもないだろう。幸いにも月も明るかった。井戸のあった場所は石が組んだままだったのですぐに見付かった。土も思ったより柔らかかった。そのときになって急に恐怖を覚えた。その先に何があるのか。それが手の届くところにきて、目の当たりにするのが恐かった。少し寒い。汗をかくそばから乾いていく。虫の声がする。井戸が、どんどんその姿を取り戻していく。その先に、カサレアはいるのだろうか? 

 ちょうど真夜中頃だろうか、ふいに物音がした。井戸の土もいつまでも柔らかかったわけではなく、なかなか掘り進まなくなっていた作業にいつのまにか僕は没頭し、また疲労していた。言うべき言葉も用意せぬまま僕はゆっくり振り返った。そこには高槻がいた。手にコンビニの袋を持っていた。
「どうして?」
「笹木君に聞いたの」
「あいつ、信じてたのか」
「私も疑ってないわ。笹木君が言ったのよ。もし信じるんなら高槻が行ってやった方がいいって」
 いつの間にか額に浮かんでいた汗を拭った。僕は井戸を掘る作業に戻り、地面の土を眺めたまま高槻に言った。
「なに持ってきたの?」
「缶ビール」
「いまは飲めないや」
「いいの。待ってるから」
 スコップの持つ手がなぜか止まっていた。あれだけ突き動かされるようだったのに、心が焦げ付くような気分が青い月の光に溶かされて井戸の底に染み込んでいくようだった。知らず知らずに水滴が井戸の底へ一粒、また一粒と落ちていた。自分が泣いていることに気が付いて、泣きたい気持ちになった。家族を失い、見知らぬ街に引き取られ、でも僕は涙を流さなかった。可哀想と言われることを否定し、闇雲に勉強した。失くしていたものがなになのかも分からぬまま焦り、再会したカサレアを自分より可哀想なんだと勝手に思い込んだ。テレビに映ったカサレアの叫びが、言葉が、僕には聞き取れなかったというのに。
 僕の心は踏み固められたように硬くなっていて、涙を流す余裕さえなくなっていた。それがいま、溢れ出てしばし青い月明かりを映し込み、そして井戸の底へと消えていく。
 消えていくまでの短い間、井戸の底の水滴にカサレアを見た。カサレアだけじゃない。父さん、母さん、兄ちゃん。それに祖父ちゃんと祖母ちゃん。伯父さんも、伯母さんも。僕は二人にどれだけ笑いかけただろうか? 笹木や学校の友達、そして振り返ると高槻がいた。
「終わったの?」
「うん」
 とても単純なこと。僕は一人じゃない。
「喉、乾いたよ」
「はいはい」
 高槻が軽く目頭を拭って缶ビールを手渡してくれた。






エントリ2  欠片を手ずから、髪に編み込む     るるるぶ☆どっぐちゃん


 冬の空に蝶は居ない。冬は蝶の季節では無い。春の空を美しく彩っていた蝶を、今は一匹も見ることが出来無い。少女は初めて蝶に触れた春のことを思い出した。蝶は黄色と薄い緑の中を黒い線が迷路のように入り組んで走っている羽根を持っていた。冬の空には蝶は居ない。少女は母の手に引かれて広葉樹の森を抜ける。遊園地に辿り着いた頃、空には虹が出ていた。
 母は美しかった。雪のように真っ白な肌と、長く細い手を持っていた。顔は五色の宝石で飾られ、爪には二色のマニキュアが塗られていた。身体は酷く細かったが、コートのお陰でそれも今は気にならない。コートにはウサギが三十匹使われたのだという。あなたのは十匹分だ、と少女は母親から聞いた。ウサギのコートは助かった。寒さは全く気にならなかった。空には蝶は居ないが虹が出ている。メリーゴーラウンドに乗っている間、少女は風も気にせずずっと虹を見ていた。
 それにしても虹である。虹とはなんだろうか。少女は思う。父親の書斎には何百冊も本があった。少女は母親の居ない昼間は使用人達から隠れてずっとそこで過ごす。オーク材で出来た古く大きな書き物机が窓際に置かれていた。その上に少女は本棚から持って来た本を積み上げて座り、日が沈むまでの間、窓の外を眺めたり、本を読んだりした。虹について書かれた本は何冊もあった。少女は気儘に、あまり選ぶこと無く本を持ってくるのだが、一日に読む十冊程度の本の中に一冊は、必ず虹に関するものがあった。少女はそれを読んだ。時にはレコードをかけながら。父親は、五枚しかレコードを持っていなかったから、ベートーヴェンと、モーツァルトと、カミギリのジプシー音楽集と、もう一枚のベートーヴェンを順番に聴いた。後一枚レコードは残っていたが、少女はそれは大人になってから聞いてみようと思っていた。まだ袋を見てもいなかった。虹については、古今東西の人が書いていた。それは熱心に書かれていて、読んでいて少女は楽しかったが、あまり良く解らなかった。虹は、絵で描かれていることが殆ど無かった。
 少女は部屋からクレヨンを持ってきた。そしてクレヨンを七色使って、風景写真の空に半円を七つ描いた。七日間かけてゆっくりと。
 それを少女は、母親にいきなり見せはしなかった。少女はまず、メイドのサニイに見せた。
「これ、どうかしら?」
「ああ、良いもんですねえ」
「そう?」
「虹ですねえこりゃあ。空に虹が架かっている」
「良かった、虹だって解ったのね。嬉しい。あたし、虹を書いたのだから。本にはあまり虹が描かれているのを見たこと無いから、あたし、虹を描いたの」
「うまいもんですよ。虹なんて、ここでは滅多に見ないですからね」
 サニイはそう言って空を見上げた。
「私の住んでいた所は、雨は降らなかった。虹ばかりが、毎日のように空に浮かんでた」
 サニイは独り言のようにそう呟いた。冬の光をその浅黒い顔に浴びながら。
 サニイはその後、少女の家から物を盗んで逃げ出した。盗んだ物は少女の母親の口紅が二本、銀の食器類が数点、そして何故か少女のクレヨンと絵の具一式だった。だから少女はそれ以来、虹を描いたことはない。風景写真の他に、家族の写真、少女が物心つく前に七つで死んだ兄の写真、父の写真、蝶の写真などを用意していたのだが。そのそれぞれの空に、虹を描くつもりでいたのだが。
「丁度良かったわ。クレヨンは、子供っぽいと思っていたから。クレヨンで描いた虹なんて、子供っぽいと思っていたから」
 少女はそう言った。誰に言うとも無く。
「そう」
 母親だけが少女のその言葉を聞いていた。
「その通りです。クレヨンなんて、子供っぽい。あなたはもう大きくなったのだから」
 テーブルの向こうで彼女はそう言い、立ち上がった。
「あなたは、あなたの死んだ御兄様よりも、大きくなったのだから、美しくなったのだから」
 母親は歩き出した。しゃらしゃらというドレスの衣擦れが聞こえた。手にはワイングラスを持っていた。金細工が施され、古い大きな宝石が埋まっている。グラスには、ワインがなみなみと注がれていた。
「あなたは大きくなった。そして美しくなった」
「美しい、ってどういうことなのでしょう」
「あなたは、美しい」
 そう言うと母親は、ワイングラスをゆっくりと傾けた。
 真っ白なテーブルクロスに、ワインの濃い紫色が広がっていった。
「あなたは、美しい」
 ワインはゆっくりと注がれていく。母親は、右手で少女の頬を包んだ。
「あなたは、美しくなった。こういう色があることも、知っておくのが良いでしょう。こんな色は、クレヨンには無いのだから」
「そうね。だけれど美しい、というのはどういうことでしょう」
「もうすぐ、あなたは美しい立派な女になるでしょう。髪も今のような黒では無く、燃えるような金色に変わっていくでしょう。あたしのように」
「そうでしょうか」
「ええ」
「このワインの色は、見たことがあります」
 少女はテーブルクロスを指差した。まだワインはグラスから注がれ続けている。
「この真っ白なテーブルクロスに広がっていくワインの色は、見たことがあります。このような雨が、いつか降っていました」
「あなたは、美しいのです。さあ、髪を編んであげましょうね」
 母親は、手ずから娘の髪を編んだ。テーブルに生けてあった花が少女の髪に編み込まれた。
「飲みなさい」
「はい」
 少女は差し出されたワイングラスを受け取った。グラスにはワインがなみなみと注がれている。
 少女はそれを、一気に飲み干した。
「雨の味がします」
 少女は答えた。
「とてもおいしいです」
 ああ、それにしても虹。空は灰色の雲に覆われ、遠くに見える尖塔には色も見えず、だが虹だけが空に、七色に輝いている。
 虹とはなんなのだろうか。少女は思う。少女は観覧車に乗っていた。メリーゴーラウンドから観覧車へ。地上を見下ろす。母親は空へ向けて手を振っていた。少女は空を見上げる。音も無く稲妻が走っている。虹。虹とはなんなのか。少女は窓に手をかけた。そしてバッグから、化粧道具を取り出す。化粧道具は母親が誕生日のプレゼントにくれた物だった。少女はバッグを開けた。中を探る。中には蝶が一匹入り込んでいた。羽根は黄色と薄い緑色に黒い線が走り、迷路のよう。春に少女が初めて触れた蝶が、バッグに紛れ込んでいた。少女は蝶を取り出し、従者に渡す。少女の周りには従者がいつも三人居る。観覧車にも、勿論一緒に乗り込んでいる。一番若い、少女よりも若い従者がその蝶をおずおずと受け取った。
 少女は口紅を取り出し、窓に線を弾き始めた。ゆっくりと、優雅に、出来るだけ滑らかな曲線を描くように。観覧車はがたがたと揺れた。だがそれでも、少女は実に滑らかに半円を描くことが出来た。少女は虹の七分の一を、ガラスに写し取った。
「ねえ」
「なんでしょうかお嬢様」
 年若の従者は、揺れる観覧車にバランスを崩しながら答えた。
「何か、書くもの持って無い? 赤色以外の」
 少女もバランスを崩した。少女は床に倒れ、その上に従者が倒れ込んできた。
「すいません」
「ねえ、持って無いの?」
「すいません。私は何も」
「そう」
 少女は少年を見上げてそう言った。
 窓の外には稲妻が走っている。
「今のは近かったわね。あの稲妻、とても近かったわ」
 ゴンドラの直ぐ側を、三本の光が通り過ぎて行ったのを少女は見た。
「お嬢様、危ないです。窓の側には近寄らないようにお願いします」
 従者は少女に覆い被さり、そう言った。それにしても虹。窓の向こうには、七色の虹。虹とはなんなのか。虹はますますその大きさを増していくように見える。ますますその弧を滑らかに、完全な物にしていくように見える。少女は窓に描かれた半端な半円に気づいた。虹を見るのにその歪んだ赤い半円が邪魔だった。少女は従者の下でもぞもぞと身体を動かし、窓に足を伸ばす。そして窓ガラスを、思い切り蹴飛ばした。
 ガラスはがしゃああん、とやけに音を反響させて割れ、粉々に砕け散った。
 少女はその光景を少年従者の肩越しに眺めた。手に口紅を持っていたことに少女は気づき、唇にその紅を塗る。欠片はバラバラに割れ、飛び散っていく。三角に割れた物、星形に割れた物、中には半円に割れた物もあり、丸い形の欠片もあった。それらはキラキラと輝いていた。光の加減か、赤く光っている物もあった。青く輝いている物も。深い紫色の光を放つ物も。雨は降っていないので、少女はそれを錯覚だと思った。
 大半の欠片は、地上へ墜ちていった。何割かは、ゴンドラの中に落ちた。少女は自分のすぐ近くに落ちた欠片を見た。欠片はなかなか美しかった。虹。いつまでも落ちることのない欠片もあった。それらはゆっくりと空へと羽ばたいていく。少女は欠片を手に乗せた。欠片は、透明な蝶のように見えた。
 少女の手から離れ、欠片は空へ飛び立っていく。虹。空には虹がある。虹とはなんだろうか。蝶は虹へ向かう。少女は少年の肩越しに、確かにそれを見た。
 欠片は空を飛ぶ。少女は口紅を塗る。少女は床に落ちていたバッグを手に取る。中を探る。蝶はもうそこには居ない。少女はマスカラと手鏡を取り出した。
 欠片の蝶はキラキラと輝きながら虹へと飛び続ける。幾つかは虹に確かに辿り着いた。だが全てが虹へと辿り着けたわけではなかった。一匹は森の木の上に降りていった。他の一匹は時計台の針の上に。
 虹の真下に落ちた蝶もいた。
 そこは町外れの草原だった。草原には花は一つも無い。キラキラと光る欠片は随分と目立った。
 女の子は、蝶を手に取った。
 女の子は一人で草原に遊びに来ていた。花が咲かないかな、と思っていたのだ。彼女は花の代わりに、蝶を手に入れた。
「お母さん、お母さん、見て。あたし、こんな物を手に入れたのよ」
 少女は家に帰り、母親に蝶を見せた。
「どれどれ。まあ綺麗な蝶だねえ」
 母親は赤子に乳をやりながら答えた。
「こんなに綺麗な蝶は見たことが無い。いや、いつか見た気もするけれど」
 赤子は真っ白な肌を持ち、綺麗な金髪だった。母親は自分の浅黒い肌を気に入ってはいなかったので、そのこと素直に喜んでいた。
「いつか、見た気がするね」
「いつ?」
 女の子も美しい金髪だった。女の子は母と同じような肌と黒髪が好きだったので自分の姿が残念だった。黒髪に花を編み込むととても綺麗なのに。女の子はそう思った。
「いつだったろうね。もうずっと遠い昔のような気もする」
「そう」
 女の子は蝶をカゴの中へと入れた。
「夢で見ただけだったのかもしれないね」
 母親はそう言うと、口紅を塗った。二色の唇を上手く使い、上唇とした唇を塗り分けた。
 それから間も無く、冬は終わった。
 赤子はすくすくと成長した。年を追うにつれて髪は伸び、背は伸び、姉をあっという間に追い越していった。
「姉さん」
 青年に成長した彼は舞台俳優になった。
「姉さん有り難う」
 草原に立てられた野外舞台には、大勢の観客が詰めかけていた。あの日、女の子がガラスの蝶を見つけた草原である。
「頑張ったわね」
 女の子は花束を手渡し、弟の肩を抱く。
「とても綺麗だったわ。本当に。凄く綺麗だった」
 草原には拍手が割れんばかりに響き渡っている。青年に与えられた役は、夭折した天才の役だった。僅かに七年しか生きられなかった彼の役を、青年は見事にやり遂げた。
「有り難う。嬉しいなそう言って貰えて。うわあ、綺麗だなあ。こんなに綺麗な花束は見たこと無いよ」
「素晴らしい舞台だったわ」
 女の子の言う通りだった。演技、演出、脚本、美術、どれをとっても完璧な物だったし、青年は素晴らしい俳優にだった。七色の衣装がとても似合っていた。少年の最後の一年、七歳の一年間は、それで演じられた。虹とはなんだろうか。彼は思い続けてきた。その最後の一年を、彼はその衣装で過ごした。七色の輝きは観客を魅了した。灰色の冬も、紫色の雨が降る夜も、その輝きが褪せることは全くなかったのだ。その衣装は一人の女優がデザインした。もう一人の主人公とも言える、少年が死んだあとも生き続け成長していく、妹役の女優である。彼女は稽古の間も寡黙に過ごしたが、ただ一つ、少年の最後の衣装にだけ口を出した。当初の予定は金色のガラスのような質感のものだった。それを彼女が柔らかな布地を使った七色のものに代えさせたのだった。
「とても良い舞台だった」
「姉さん、有り難う。とても嬉しい」
 女優は、抱き合う二人を微笑みながら見つめていた。彼女は肩まで伸びた黒髪に花を結い込んでいた。
 鳴りやまぬ歓声。人々は舞台の向こう、遠い空に、赤い小さな虹が浮かんでいること発見し、ますます強く拍手を送る。
「虹だ! 虹だ!」
 歓声はますます強くなる。

「舞台の成功を祝って」
「姉さんの健康と美しさを願って」
「乾杯」
 二人はグラスを合わせた。グラスにはワインがなみなみと注がれている。
「今日は姉さんの誕生日だったね」
「あら、あなたのじゃ無かったっけ?」
「そうだったかな」
「どうだろう」
「解らなくなっちゃったね」
「ワインのせいかな」
「とにかくおめでとう」
「とにかく有り難う」
 二人はメリーゴーラウンドから降り、観覧車に乗った。黒衣を着た係員の少年は、黙って観覧車の扉を開けた。
「見て、虹よ」
「うん」
「綺麗ね」
「そうだね。綺麗だ」
 観覧車は二人を乗せて高く昇っていく。ゴンドラは、窓ガラスが無かった。その為、風がとても心地良かった。七色の衣装が風に揺れ、キラキラと輝いた。
「ねえ、姉さん」
「なあに?」
「それ、どうするつもりなの?」
「これ?」
 女の子は虫篭を指差した。中にはガラスの蝶が一匹居る。夕日を受けて、それはきらきらと光っている。
「死んでしまったね。ずっと僕達で可愛がってきたけれど」
「試そうと思って」
「何を」
「この子は元々ガラスだったのか、それとも本当に蝶だったのか。そして、何処へ行きたかったのか」
 女の子は窓際に虫篭を置いた。中から蝶を取り出す。
 遠くには虹。
「虹とはなんなのだろうか」
 青年が舞台の台詞を言った。
「虹とはなんなのだろうか。あの遠くの空に輝く虹。虹とはなんなのだろうか。僕は知らない。あんなに美しいものを僕はずっとずっと解らなかった」
 その台詞と共に青年は最後の衣装に着替えるのだ。
 風が吹く。きらきらと衣装が揺れる。七色に輝く。遠くには虹。二人の乗るゴンドラは、遂に観覧車の頂点に辿り着いた。女の子は虫篭の扉を開く。
 眼下に誰かが手を振っているのが見えた。少女だろうか、少年だろうか、青年だろうか、老人だろうか。ともかく空へ向かって手を降っている。美しい人だった。
 女の子は手を振ってそれに応えた。
 風が吹く。カゴから空へと、蝶は放たれた。空には虹。風は強く、強く吹く。冬の空に、蝶は放たれた。






エントリ3  砂漠に降る雨     立花聡


 彼は歩いていた。
 そこは広大な砂漠。何もない不毛の大地。道など明確ではなく、ただ先人の足跡を辿り、歩く。
 一つの砂丘の大きさはまちまちで、山のようで大きく鋭いものがあれば、なだらかな坂道のようなものもある。彼にはその多様な砂の彫刻が気晴らしとなった。
「あぁ、次はなかなかに手強そうだ」と、呟いてみたりする。そして、新たな砂丘ごとに、
「一、二、三、四、五……」と数え始めた。腰元にあるアルミ性のカップがカタカタ鳴り続けた。小銃の先端からは、左手の汗が伝わったのか、水滴が落ちた。
 一列に長く連なった行軍であった。ちょうど、中心よりも少し後方に彼は位置している。
 砂漠を歩いていて彼が気付いたことがある。砂と砂の間には切れ目があり、それはある種、砂漠の端なのではないかということだ。そこには弱々しそうな雑草が微かに芽吹いており、そして更に周りには、小動物が息づいているようだった。過酷な環境のなかで、もしかしたら、その一部だけは、おこぼれのような柔らかな状況を作り出しているのでは、と思わせる。
「七十二、七十三」
 一体、幾つ目の七十台なのだろうか。しかし、彼がそれを思い浮かべる余裕はなかった。
「なぁ」後ろの男が話し掛けてきた。
 男の声に返事をすることはない。ましてや、男を振り返ることも彼はしなかった。ただ、彼のカウントのリズムが僅かに乱れた。
「七十四」
「おれがすごい田舎で生まれたことは話しただろ、本当にすごいとこなんだ、猪なんて毎日見るんだから、見たことあるか、猪」
「七十七、七十八、七十九」
「猪って、案外臆病なんだよ、犬に吠えられると、慌てて逃げ出しちまうんだ。いや。でも。そうか…、まぁ、とにかく弱いんだよ。それでな、なんの話しだっけか。あぁ、そうそう…」
「八十一、八十二」
「田舎なんだ。学校なんてさ、全部で五人しかいないの、五人だよ。五人。出席なんてないさ、先生が朝来ると、『あいつ、今日はどうしたんだ』って言って、自分でそいつんちまで行くんだ。授業なんてありゃしないよ。だっておれたちも付いてくんだから」男はケラケラ笑いだした。
「八十六」
「おかしかったなぁ。そいつんち行ったら、家族みんなまだいるんだよ。農家って朝早いんだ。早くに起きて、霜落としたりしないといけないから。でさ、そいつんち行ったら、家族みんなが目を丸くして言うんだ。『しまった、寝過ごした』って。口を揃えてだよ。あぁ。おかしかったなぁ」
 男は暫く笑っていた。

 当初、果てしなく長いと感じられた坂道は、終わりに近づいてきたようだった。既に彼の数字は二百近くになり、それはつまり随分と大きな砂丘だったことを意味していた。
 ちょうど二百を数えようかとしたとき、彼は立ち止まった列に気が付いた。すると彼はすぐさま、その場に座り込み、大きなリュックを降ろし、缶詰めを取り出そうとするのだが、砲身を握りしめていた左手がなかなか開いてはくれない。右手で、ゆっくり一本づつ指を剥がし、何度か動かしてみて、感触を取り戻そうとする。そして、ようやく缶詰めを取り出すと、リュックの止め具の部分にくくり付けたフォークを取り出した。缶の蓋は、案外に軽い。その蓋を開けると、凝縮された塩漬けの匂いがした。
「まずいなぁ、本当にこんな味の濃いものが体にいいってのが信じられない、軍隊七不思議だね、こりゃ」
「そうだね」彼は男に返事をした。束の間、緊張から彼は解放され、返事をする余裕が生まれた。
「そうだろ、友達の家のやけに薄い味付けの方がまだいい、そう思わない?」男はフォークを缶の底まで深々と突き刺すと、かき回し始めていた。
「よくわからないけど」
「そうか? 友達の家の晩飯を食べると、やけに薄味で味なんかしないもんなんだ、健康志向ってやつ?」
「そういうもんなんだ?」
「そういうもんだ」男は彼に念を押した。
「そういうもんか。そうか、覚えておくよ」そう言うと、男は笑っていた。
「お前、変なやつだな、変わってる」
「そうかな?」男の笑いは決して嫌らしくなく、彼は好感を持った。
「そうだよ。なぁ、おれ、お前に下の名前教えたっけ」
「聞いてないと思う」彼は男の喉元を見た。軍に入っても、人の目を見て話すことは彼にはできなかった。
「おれ……」
「ごめん。もう行かないといけないみたいだよ」彼は立ち上がりながら、前方を指差し、声を遮った。多くがリュックを背負い、歩き始めようとしている。彼等は準備を急ぎ、大きな鞄を背負うと小走りに合流した。

 砂漠で見る陽炎は美しい。何か本当の太陽の力を目で見ているような気にさせる。蜃気楼が砂漠には表れるものだと、彼は思っていた。しかし、想像していたものを見ることはなく、代わりにもっと別の雄大な砂漠を見た気がしていた。
「九十二、九十三」彼は変わらずに数えていた。
「おふくろに手紙を書こうかと思ってんだ」
「九十四」
「でも、おれ、字へたくそだし。第一、手紙を書いたことが今までないんだよな」
 彼のブーツには砂が入り込んでいた。まるで、実際に砂漠を歩いているようだ。微粒の砂はソックスすら通り越し、素足に感触を与える。それは汗と混ざって少し湿り、不快であった。
「なんて書けば、いいんだと思う? 元気でやってますって書けばいいのかな。そういや、いつも心配ばかり掛けてるな」
「九十八、九十九」
 銃にとって砂は大敵だ。入り込む場所が悪ければ、最悪の場合、不発、暴発と言うこともあり得る。軍事の歴史がつまった小銃の先端には、薄いゴムが装着されており、人口抑制や性病の蔓延を防ぐのが目的の平和の使者を、殺人の為の道具に利用されるのは不思議で、皮肉のようでもあった。彼が先端を触ると、こびり付いた砂がぱらぱらと風に流されていった。
「なぁ、どうすればいいと思う?」
「百二。百三」彼は歩くことに没頭していた。
「そうか、こんなこと、どうでもいいな」男は少しの間、口を閉じた。

「これでも彼女はいたんだぜ、結構かわいいんだ。おれには勿体ないくらいの、いい娘でさ。一度、写真立てを送ったことかあるんだ」
「十三、十四」彼は新たな丘に挑み始めていた。
「おれ、金がなかったから、自分で作ったんだ。夏に行った海で貝殻拾ってさ。柄にもないっていうなよ。おれ、そんときは結構いいかな、って思ったんだから」
「十五」
「でもさ、手渡して、ちょっとすると、彼女泣き出しちゃったんだよ。おれ、どうしたらいいか分からなくて、なんで泣いているのかも分からなくて、それで、分からなくて、逃げ出しちゃったんだよ、その場から」男の声は、今も困っているような声だった。
「十六」
「そしたら、彼女からそのあと電話が来たんだ。さっきはごめんなさいって、なんで泣いたかは聞けなかった。別に、それで別れただとか、何かあった訳じゃないけど、でも、最近こっちにきて、無性に何故だか気になるんだよな。その時の泣き声を思い出そうとしてみるんだけど、低かったのか、それとも高かったのか、もしかしたら、声なんて出さずに泣いていたのか。どうしても思い出せないんだな」
「二十、二十一」その後の数字はなかった。

 二十キロ以上の装備を背負い歩く。日中の気温は、非現実的な数字をたたき出し、おそらく、アルミでコーティングされた特殊な布を纏っていなければ、数時間と持たずに倒れ込んでしまうのだろう。なで肩の彼は幾度も、リュックを背負い直し、その度に金属は乾いた音をたてた。
「おい、お前、休憩だってよ」後ろから、背中を引っ張られて彼はやっと気が付いた。
「おい、しっかりしてくれよ」男は心配そうだった。
「ごめん、でも集中して数えていないと、倒れてしまいそうだから」
「大丈夫か。まだ水残ってるか? ないならおれのやるから」
「大丈夫。まだ、水も残ってるし」自分の彼は水筒を振ってみせた。タップンと、なにか固まってしまったような音を中身はたてた。
「ほんとだ。あのさ、一口もらっていいか、おれほんとはもう、ほとんど残ってないんだ」男ははにかんだ笑顔で、彼を見た。
「うん」彼は笑った。
「お前、いいやつだな」水筒から口を離すと、男が言った。
「でも、自分だって僕に水を分けてやろうとしてたじゃないか」彼は男の喉仏が揺れるのを見た。一口を大事に口の中で回して飲んだのだろう。
「でも、実際はほとんど残ってなかったんだし。つい、言葉にでちゃっただけだ」
「だからだよ」
「そうか。お前、いいやつだな。やっぱ、いいやつだよ」
 男が繰り返す「いいやつ」は彼にとって悪い気はしなかった。

 左手に大きなパイプが見えてきた。太さは腕を目一杯に広げた位だろうか、所々がしっかりと固定されており、金属のそれはとても頑丈そうに見える。人工物が自然の中に放り投げられていると、それはまさに違和感でしかなかった。
 彼が前方の手信号に気が付いたのはそんなときだった。部隊が速やかに集まる。
「二時の方向に、二名の不審者。パイプラインで何か作業をしているようだ。これから、我々は任務に乗っ取って、彼等を尋問する。応じない場合、まず威嚇、その後もこちらの指示に従わないようであれば、再度威嚇の後、彼等を拘束、尋問する。極力、相手に向けて発砲しないよう。各自マニュアルを徹底すること」
 そして最後に「安全弁を外せ」と付け加えた。
 「威嚇」「拘束」現実感のないその言葉は、彼の体を確かに強ばらせた。通信兵は慌ただしく連絡をとり、周りは小銃を肩に当てている。彼は自分が照準を通して辺りを見て、目的に向かい、歩き出していることに、何かを感じるだけの余裕はない。
「動くな」異国の言葉なのだが、それは重々しく響いた。照準は大きな布を纏った二人組の上方、しかし、数センチ視点を下げ、思いのほか軽い引き金を引けば、血を流すかもしれないのだ。
 二人は両手を挙げながらなにやら相談をしている。
 突然、二人は走り出した、パイプラインに沿って。
 タンッ。軽い発砲音。その後に続く、異国の言葉の大きな怒声。威嚇には応じない。怯まずに走っている。
 一斉に走り出す、武装された集団。
 不審者は走り続けた。何か小さなものをこちらに向けている。
 パン、足下が弾けた。それが拳銃だと気付く。
 タタ、タタタ。
 変わらず、空に威嚇し続けた。
 気が付くと、不審者に離されてきていた。彼は無意識に照準を遠くの動体に合わせていた。引き金を引く。
 その瞬間、彼は怖くなった。

 その日は砂漠での野営となった。明日の午前中には目的地に到着すると聞いた。
 日中とはうってかわって夜間はとても冷えた。
「きれいだよな。空」
「うん」遮蔽物の全くない空。彼は見上げている。
「しっかり見たことなかったよ、こっちに来るまで。小学校のときに天体観測ってあっただろ、おれ、苦手だったな。なんか実感もてないだろ、どれだけ離れてるかとかそういうの」男は髪の毛を掻きむしっている。
「うん。でも僕は好きだったな。ほら、あの星なんか、何百万光年も離れているんだって。現実的じゃないから、僕は好きだった。色んなことを忘れられそうだったから」
「お前、ロマンチストなのな」
「僕が? そうなのかな?」
「向こうじゃ、いつも何してたんだ」
 男は平らげた缶詰めを放りなげると、煙草をつけた。
「なにもしてないよ」彼は少し寂し気に返事をした。
 美しい星空だった。星座表の一番大きいサイズを見ているような、何の邪魔のない空だった。彼は初めて星を体感している気がしていた。
「おれ、難しいことなんにも分からないけど、ここにきて良かったと思ってるんだ」
「うん?」
「だって、向こうじゃおれなんか、邪魔者で、いっつもみんなに馬鹿にされて、悪口言われて。でも、ここならなんか頼りにされている気がするだろ」
「うん…。うん」彼は二度頷いた。
「さっきの奴ら、うまく逃げたかなぁ」柔らかな大地に体を投げ出した。男は大の字に寝転がる。
「僕、さっき引き金引いたんだ。照準合わせて引いた」
 彼は撃つ真似をした。
「もちろん当たってなんかないんだけど、撃った瞬間、とても怖くなった。おもちゃみたいな音だから、実感ないけど、僕は彼等を殺してたかもしれない。そう思うと、とても怖くなった」
「うん」
 男はそれ以上なにも言わなかった。ただ、暫くして「黙っといてやるよ」と言った。
 男は突然、ペンライトを灯した。そしてリュックをごそごそと荒らし始めた。
「なぁ、一緒に手紙考えてくれないか」男は便箋を取り出すと彼に切り出した。
「おれ、なんて書けばいいか分からないから、一緒に考えて欲しいんだ。おふくろが安心するようなやつ。まず『拝啓』だろ?」
「自分の親にそんなに他人行儀な書き出しじゃなくていいんじゃないの」
「手紙ってのは『拝啓』から始まるもんだろ」
「じゃあ、そうしよう。君の手紙なんだし」
「良し、拝啓だ。拝啓、ハイケイ? なぁ、拝啓ってどんな字だ?」
「こんな字だよ」砂に彼は文字を書いた。男はライトで照らすと、「お前、頭いいな」と言った。

 拝啓。おふくろ。元気ですか。おれは元気で砂漠を歩いています。こっちは凄く暑かったり、寒かったりしています。任務で砂漠を歩いているけど、悪くないです。初めて砂漠を見たときは驚きました。ほんとうに砂ばっかで何もありません。こっちでは友達も出来ました。結構変な人だけど、いい人です。だから、楽しくやっています。だから、心配しないでください。春には帰ります。その時、また色んな話をします。それから……。
 
 その先は男は彼に教えてくれなかった。恥ずかしいと言っていた。だが、男は何度も字を尋ねてきた。その度に、彼は砂の上に字を書いてやり、その都度男は「お前、頭いいな」と口に出した。
 
 砂漠の夜は静かだった。
 彼は男と二人で前方の警戒を行った。暗視スコープを通して見る砂漠は、なお静かに感じた。
「なんにもないな。こんなもんなんかな、夜の砂漠は」
「そうなんじゃない?」彼は、男の側を見た。そこにはきれいに顔が写し出されていた。
「お前、いじめられてただろ」唐突な男の質問に彼は答えなかった。
「いたんだよ、おれの知り合いにも。何か弱っちくて、なよなよしてるやつが」
「僕は違うよ」彼は言い放った。
「そうだな。そう、なんだよな。ごめん、悪かった。お前はいいやつだよ」その男の言葉は真意らしかった。そして、もう一度「いいやつだ」と呟いた。
 少しの間、沈黙が続いた。それを破ったのはやはり男の言葉だった。
「なぁ、明日、雨だといいな」
「うん?」
「だから、雨だといいなって」
「でも、ここは砂漠だよ」
「だからだよ、雨なら暑くないじゃんよ」
 男は顔をこちらに向けて笑った。スコープ越しでは、歯がひどく白く光った。彼も少し笑って、「そうだね」と呟いた。
 暗視装置越しの空は、黒く塗りつぶしたような、まるで夜の雨空のようだった。






エントリ4  平山氏のある朝の出来事     ハンマーパーティー


 今日もまた人の海に溺れ漂い、平山成男氏の一日は始まるのだった。いつもの朝は民放のワイドショーまがいのニュース番組の「今日の運勢」コーナーなど無視する平山氏だったが、たまたまその朝、テレビの電源を入れた瞬間に目に入ってきたのは、平山氏の星座である天秤座が仕事・恋愛・金銭運ともに大凶であり(テレビの画面では蒼ざめた悪魔がうなだれているアニメーションが流れている)、慎重に行動しないと災いが降りかかる恐れあり、というものだった。平山氏は苦笑いしたが、低血圧の妻と高校二年の娘の不機嫌な表情を前に、笑いは消滅してしまった。
「行ってくるよ」
 茶髪の娘はあからさまに無視し、妻も平山氏に聞こえるか聞こえないかの声で何か言ったが聞きとれず、平山氏も確認しようともせず玄関を出るのだった。
 駅のホームで、いつものようにカバンから文庫本を取りだして読みだした。西村京太郎である。読むというより取りあえずのスタイルである。満員電車の中で、自分は痴漢などする人間ではないという意思表示のためでもあった。
 平山氏の住むマンションは埼玉県東部の某駅から徒歩十分のところにあった。娘がまだ平山氏を父親扱いしていた当時購入したもので、十年前のことである。そのころは妻とも性生活があり、こうして満員電車に揺られて通勤するのも苦痛ではなかった。愛し愛される妻と娘のためだったからである。そしてお決まりの夫婦間の倦怠と娘のコギャル化で、いつの日か平山氏は貯金通帳に数字を刻むだけのマシーンと化した。そして今さら新たに人生をやり直したり、趣味を見つけて生きがいにするようなヴァイタリティはもう枯渇していたのである。
 その朝も埼京線の快速電車は満員だった。ホームで待っていた平山氏に後ろから誰かがぶつかってきて、痴漢否定のアリバイ用の西村京太郎の文庫本を落としてしまった。拾おうと後ろを向こうとしたが、人の波に流されてそのまま車両内に押しこまれて気がつくと最後尾の車両の角の方にいた。一番角にうつむいた一人の青年がいて、そのまん前だった。もう一人中年の男がいて、平山氏とともにその青年を隠すように立つはめになった。そして平山氏の前には白いジャケットと膝上十センチくらいのやはり白のスカートのOLが押しこまれてきた。早くも車両の中に熱気がみなぎっていた。
 車内の乗車率と不快指数はともに二、三百パーセントを超えていると思われた。平山氏はいつもの文庫本が無いため、両手のやり場に困った。胸元に持って来たりまた下に降ろしたりしているうちに、前のOLが怪しい気配を察知した、とでもいいたげに後ろにちらちら視線を向けるようになった。
 電車は何事も無く池袋にたどり着き、どっと人の波を吐き出すとまた吐き出したものを飲み込んだ。平山氏付近の人々は車両の角だったので、わずかに体の接触から解放されただけで、またすぐに元の体勢に戻された。そして電車はゆっくりと動きだした。
 高田馬場を過ぎたころ、電車が急停車した。ちょっとした緊張感がみなぎり、淀んだ空気が少しずつ車両の床に沈殿していくようだった。平山氏の額から汗が一滴、流れ落ちていった。まだ自動制御の冷房にスイッチが入る温度ではないらしい。かすかにどこかでヘッドフォンからシャカシャカと音がもれていた。
「停止信号です。しばらくお待ちください」
 そのまま十分ほど過ぎ、新たにアナウンスがあった。乗務員のせき払いが混じっただけでまったく同じものだった。
「停止信号です。しばらくお待ちください」
 そして十分後にやっと説明があった。
「ただいま、新宿駅構内にて異状が発生したとの連絡がありました。処理が済むまで、いましばらくお待ちください」
 車内からいっせいにため息や、舌打ちの音が響いた。しばらくして車内は再び静まり返った。ヘッドフォンからもれる音だけが車内のBGMになっていた。
「いやらしい! いい加減にしてください!」
 今度は女性のきっぱりした大きな声が車内に轟いた。平山氏は目の前のOLが突然大声を発したことに驚愕した。
「痴漢か?」
「この人です」
 OLは平山氏の右手をつかむと上にたかだかと持ちあげた。平山氏は周囲の視線に恐怖を感じた。小動物の存在を察知した猛獣のような顔つきの若いサラリーマンを頭と頭の間に見ることができた。正義感にまかせて日ごろの鬱憤を晴らすタイプの目つきが平山氏の恐怖心を倍加させた。しかし、幸いこのぎゅう詰め状態である。正義感氏はすぐにそれを実行することはかなわなかった。
 平山氏の額をあぶら汗がしたたり落ちる。
「い、いや、わたしじゃない」
 OLはきっと振り向き、平山氏に言った。
「みんな、そう言います。むだですよ、とぼけても。秘密兵器があるので、次の駅ではっきり分かります」
「秘密兵器。おもしろいことを言うな。お嬢さん、今は俺は真ん中辺にいるけど、降りるときそいつを捕まえるから、しっかり見張っときなさい」
正義感氏が言った。
「はい。お願いします」
 平山氏は声を大きくして反論した。
「冗談じゃない。わたしはやってない。OLさん、その秘密兵器とはどういうことですか?」
「言えません。言ったら、すぐに対抗策を取られてしまいます」
 平山氏は歯ぎしりした。なぜ、自分がこんな目に合わなければならないんだ。恐怖心は怒りへと変わりつつあった。
 これが濡れ衣なら真犯人がいるはずだ。このOLの後ろに位置し、手を伸ばしてOLの臀部に触れることが可能なのは、平山氏、隣の中年男、角でうつむいている青年、この三者である。
「ちょっとお嬢さん、わたしはほんとにやってないんです。そこで提案ですが、今ここであなたの、その尻を、いやあなたに痴漢できるのは、わたしと隣のこの方と、この青年だけと思いますがそれは納得してくれますか?」
「今度は他人に罪をなすりつけるんですか?」
 平山氏は必死に弁解した。
「いや、ちょっと最後まで聞いてくれ。だから、あなたのその秘密兵器とやらが物的証拠のことならば、わたしも含めてこの三人が次の駅で降りて、警察の立ち会いのもとにその物的証拠とやらを検証するってのはどうでしょう」
「ええ。そういうことならいいですわ」
 平山氏はホッとため息をつき、少し挑戦的な口調で隣の中年男の方を向いた。
「あなた、それでいいですね?」
「え、ええ。い、いいですよ」
 中年男は少しおどおどして言った。そして平山氏は振り向いて、さっきからうつむいている青年にも言った。
「あなたもいいですか?」
 ひょっとしたら、反駁してくるのじゃないかと平山氏は思った。最近の若者は少し意見するとすぐにキれる。だが青年は黙ったままだった。平山氏は、自分たちの滑稽なやり取りに呆れて無視しているのだろうか、と思った。しかし、青年は全く身動きしない。ぎゅう詰めなのだから身動きしないのは当たり前だが、呼吸すらしていないようなのである。実際、活力が全く蒸発しているといった風の若者をよく見かけることはあるが、そういうことではないようである。平山氏は眠っているのかもしれない、と思い、そっと肩を揺すった。
「き、君」
 平山氏はその青年の肩の感触に不自然さを感じ、ふと視線を下げて声を上げた。
「お、おい、君」
 平山氏は状況を把握した時点で大声で叫んだ。
「死んでる!」
 途端に車内がざわめきだした。平山氏が青年をよく見ると、その胸から数センチばかりナイフの柄のようなものが飛び出しているのが見えた。
「刺されてる!」
 ざわめきが大きくなった。OLは驚愕の表情で、平山氏やその隣の中年男、そしてその青年を順ぐりに見渡した。ざわめきはより大きくなりだした。同じ車内に人殺しが乗り合わせているかもしれないという恐怖心も拡がりだしたのである。
「窓際の人、誰か窓を開けてくれ! 窒息しそうだ!」
 その言葉で窓際の連中が窓を下げ、外気が車内に入りこんだ。
「あのー、非常脱出用のレバーを動かしましょうか? 線路伝いに新宿駅まで歩いた方が安全じゃないでしょうか。警察にも連絡しなきゃいけませんし」
 非常レバーの目の前に立っているサラリーマン風の男が言った。
「いや、やめといた方がいい。今度は逆に電車が動き出せる時に動けなくなるから。それに殺人犯というか、痴漢というか、そいつを取り逃がしてしまうことになる」
 正義感氏が言った。平山氏は彼らの会話も頭に入らなかった。なんてことだ、と思った。痴漢の次は殺人か。しかし、自分が全く無実だとすると疑いを隣の中年男に向けざるを得ない。どうなってるんだ。OLは今度はチラチラと警戒するように平山氏を見る。今度は自分が殺されるのではないかという恐怖心から、さっきとは違ってまともに平山氏を見れなくなってしまったのである。そこでまたアナウンスが入った。
「ええ、ただいま前の電車が発車した模様です。信号が変わり次第、発車いたします」
 乗務員のアナウンスに多少の安堵のため息が車内にもれた。痴漢と殺人という二つの未解決の問題は残しているが、取りあえず電車が新宿駅にたどり着くことになったことに乗客たちはほっとした。そしてゆっくりと電車は動き出して、平山氏をはじめ朝からとんだ目に会った労働者たちを新宿駅へ無事に搬送し終えたのである。
 ドアが開くと、わっと乗客が降り出した。ほとんど全員が奥の平山氏たちを横目で警戒しながら早足で降りていく。平山氏の隣の中年男がドサクサにまぎれて降りて逃げようとしたが、平山氏は男のそでを握って、ちょっと待ってください、と強く言った。OLは挑戦的な態度でその様子を監視していた。人ごみがやわらぐとともに、死体が崩れ落ちた。平山氏、OL、中年男、死体、正義感氏が車内に残った。車両から真っ先に降りた乗客が呼んだらしく、すぐに駅員が駆け足で飛びこんできた。
「どうしました」
「痴漢です」
 OLがすぐさま言った。
「殺人です」
 平山氏が言った。
「痴漢が殺されたんですか」
 駅員が言った。
「痴漢はこの人です」
 OLが平山氏を指した。
「いや、違う。わたしじゃない。殺したのもわたしじゃない」
 平山氏は断固として否定した。駅員は、困ったなと言いながら、うろうろしていた。平山氏はOLに向かって言った。
「あなた、さっき秘密兵器があるとか言ってましたね。それはわたしが痴漢をしたという物的証拠があるとでも言うのですか」
「そうです」
「もう逃げも隠れもしませんから言ってください」
「わたし、数日前にも痴漢にお尻を触られましたが、やってないの一点張りで逃げられました。手の甲が当たっただけだと、確かにわたしは掌でなでまわされたのです。それで鉄道警察の人もそれ以上は追及できなかった。だからわたし、ここ数日、スカートのお尻の部分に蛍光塗料を塗っておいたのです」
 平山氏はほっとした。それが本当なら自分の痴漢の嫌疑は晴れる。すると、OLの次に静寂を破った男が言った。
「じゃあ簡単だ」
 平山氏は隣の中年男の顔がカッと赤くなるのを見逃さなかった。
「すぐにでも調べてください。密着してたから手の甲には多少、ついてる可能性はあるが、べったりと掌についてるようなことはありえない」
 平山氏は自信たっぷりにそう言うと、隣の中年男が切り出した。
「痴漢はわたしです」
 全員が中年男に注目した。
「痴漢はわたしです。でも、人殺しはしてません」
 OLは表情を険しくした。
「あなただったんですか。許しませんよ。乗ってすぐ触りはじめたでしょう。こういう女の敵はのさばらせておくわけにはいかないわ」
 平山氏は濡れ衣を着せられた自分に対する謝罪の言葉が無いことが歯痒かった。中年男はOLに頭を下げた。
「いや、ほんとにすみません。魔がさしてしまったのです。ただ、たしかにわたしはこのOLさんのお尻を乗ってすぐに触りはじめてしまいました。ということは、わたしがこの青年を刺したのならその蛍光塗料がついているべきですよね。わたしは痴漢はしたが、殺
人は犯していない、ということを言いたいのです」
 正義感氏が口を開いた。
「ナイフを調べてみれば分かる。この青年の胸にナイフを刺せる位置にいるのはそこの中年さんのお二人しかいないわけだから」
 平山氏は慌てた。
「ちょっと待ってくれ。わたしはやってない。ナイフの指紋でもなんでも調べてみてくださいよ」
 正義感氏はカバンで青年の死体の胸の部分からニョッキリ生えているナイフを隠すようにした。
「まったく光らない。たしかにあんたは痴漢じゃないかもしれないが、殺人の重要参考人いうことですね」
 まったくついてない。平山氏はなんて朝なんだと呆れかえった。このままだと殺人犯にされてしまう。平山氏は大きくため息をついた。妻と娘の侮蔑の表情が頭をよぎった。平山氏がもう観念したときだった。数人の男たちが走ってこちらに向かってくるのが分かった。
「いた、いた。一本次の電車じゃないか。しかも、一番前の車両じゃなくて、一番後ろの車両だ」
 その中の一人が大声でそう言いながら、車両に入ってきた。
「たしかに長髪の青年だ。胸にナイフも刺さってる」
「あ、これね、こちらの中年の人が一応容疑者です。今、みんなで・・・」
 正義感氏がそこまで言うと、鉄道警察隊の一人がさえぎるように言った。
「いや、もう犯人は前の駅で捕まってます。この青年、刺されたのにフラフラと人込みにまぎれて電車に入れられてしまったらしいんです。返り血を浴びていた別の若者を駅員が取りおさえましてね。全部、白状してます。わざとぶつかった、ぶつからない、で言い合いしてるうちにキれてしまったとかで。今はすっかり反省しとりますが」
 平山氏を含め、全員が拍子抜けした顔で立ちすくんだ。
「なんだ、そうだったのか」
「まったく、なんてことだ」
 平山氏はそうつぶやくと、へなへなと座りこんだ。痴漢の中年男は少しずつ後ずさりその場から立ち去ろうとしたが、OLに手をつかまれた。
「すいません、その殺人とは別件で、この人に痴漢されました」
 鉄道警察隊の一人が驚いた顔でOLと中年男の方を向いた。
「ほんとですか。じゃあ、さっそく事情を」
 中年男はがっくりと肩を落とした。正義感氏が平山氏の肩に手をかけた。
「えらい災難でしたね」
 平山氏は、自分に疑いかけといて現金なものだと呆れたが怒る気力はすでになかった。
「……」
 この若い男の正義感は分からないでもない。だが自分はそれほど寛容でもない。
 やがて警察が来て、死体の処理をはじめた。OLと中年男が鉄道警察隊といっしょに詰め所に向かった。
 あのOLは一言もわびなかったなと平山氏は思った。仕事が終わったら、新しい文庫本を買わなくてはと思った。西村京太郎はやめて大藪春彦あたりに変えてみるかと思った。それが平山氏が今考えつくことのできた、せいいっぱいの抵抗だった。






エントリ5  『トラブルシューターズ』     橘内 潤


 エルことエルバート・ジャスパーは彼専用のデスクで液晶画面と睨みあいをしていた。格闘ではなく、睨みあいである。
 さきに根負けしたのは液晶画面ではなくエルのほうだった。
「どうしろってんだよ、くそ!」
 頭をかきむしりながら、ばしばしと画面をこづく。
 画面に映されたファイルの見出しはこうだ――公有地管理についての意見調整書。いわく、公有地が雑草だらけで猫のたまり場になっているから雑草を刈ってほしいと苦情をよせる市民。対して、街中で猫が集まれる数少ない場所だから、現状を維持するべきだと主張する動物保護団体。
 この対立する両者を調停しろというのが、エルに与えられた仕事だった。
 ファイルはほかにもあったが、どれも大同小異の内容である。つまり、どれを後回しにしても大差ないということだ。
「やってられるか、こんな仕事。辞めてやる、くそ!」
 エルが今日六回め、市政局苦情対策員に任命されてから何百回目かのトラバーユ宣言をしたとき、扉がノックされた。
「はいはい。開いてますよ」
 どうせ局長あたりが嫌味でも言いにきたのだと思って、エルはおざなりに答える。だから、入ってきた人物を見て驚いた。
「失礼します。本日付で苦情対策課に配属されました、リー・スタンリーです」
 女性はエルのすぐ前で不動の姿勢をとってエルの返事を待つ。当のエルは想定外のことに、間抜けな顔をして女性をまじまじと見つめていた。
 二十代になりたてといったところだろうか。小柄でいささか色気に乏しい体を、ウェスト絞りめのテーラードスーツとタイトスカートできめている。清潔感ただよう群青色と、上下とも左脇にそろえたスリットが若々しさを主張していて、なかなか好印象だ。
「……あの、なにか?」
 エルの不躾な視線に、女性の眉がひそめられる。その下の両眼は、スーツよりも濃い青色だ。通った鼻筋に薄めの唇――それらが小さな輪郭に行儀よくおさまっている。整った顔立ちだといえよう。だが、いまは当惑にゆがめられている。
「ええと……よろしくお願いします」
 女性は、ともかく挨拶を済ませてしまおうと考えたようだ。勢いよく下げられた頭に遅れて、バレッタでまとめられた栗色の尻尾髪が宙を舞う。
「ああっと、こちらこそよろしく」
 つられて、エルもお辞儀。
「………」
「………」
 ふたりとも相手が頭を上げるのを待っているのか、不自然な姿勢のままで沈黙が流れる。
 さきに沈黙を破ったのは女性のほうだった。おそるおそるといった感じで口を開く。
「あの……ひょっとして、わたしのこと、伝わっていませんでした?」
「ああ、うん。なにもきいてなかったと思うんだけど……」
 女性はふたたび眉をひそめる。
「おかしいですね……ジャスパーさんにも辞令のコピーが送信されてるはずなんですけど」
「――メール!」
 エルは慌てて液晶に指先を走らせ、メーラーを呼びだす。市政局宛の山のような苦情メールがすべて転送されてくるので、最近はまともにチェックしていなかったのだ。
 はたして、件のコピーはたしかに届いていた。市政局は新たに苦情対策課を設立し、エリック・ジャスパーを苦情対策課課長に任命する。並びに入局したてのリー・スタンリーを苦情対策課へ配属する――堅苦しい言回しで、そう記載されていた。
(おれが課長? んで、この女が部下に?)
 エルの怪訝そうな視線を無視して女性――リーは改めて頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「あ、どうも。こちらこそ」
 つられてエルも――また――頭を下げた。



 エルは、ワイン一杯でうっかり口を滑らせてしまったことを後悔していた。
「え! ジャスパーさんって、あのリカルド・ジャスパーの孫なんですか!?」
 リーの表情は、まったくエルの予想通りだった。これまで、エルが「英雄リック」の血をひいていると知ったものは全員、「まさか、冗談でしょ」という顔をしてきた。リーもまた例外ではなかった。
 苦虫を噛みつぶすエルをみて、リーは笑うのを失敗する。
「……本当、ですか?」
「冗談で言うかよ、こんな笑えないこと」
 実際なにかの冗談だ――とエル自身も思う。だが、エルの祖父が解放戦争の英雄リカルド・ジャスパーであることは、記録の上でも記憶の上でもたしかなことなのだ。記憶といっても、エルは父に連れられた病院で一、二度会った程度にしか憶えてはいないのだが。
 英雄リックの人となりは公式記録や教科書をみるより、子供向けチャンネルやコミックをみたほうが理解しやすい。粗野な振るまいと精力みなぎる風貌。いかなる苦痛と犠牲をも厭わない、鋼の意思と肉体。常識にとらわれない大胆な発想と、それを成功させるだけの行動力を持ちあわせたクールガイ。とくに部下数名だけを連れて地球に潜入し、要人もろとも地球港を爆破した作戦は、もう何度映像化されたかわからない。
 エルにわかるのは、英雄リックが大衆向けに誇張されたものだということを差し引いても、自分にその血が流れているとは到底思えないということだった。
「だいたい、俺の親父からしてそうなんだ。能なしのくせに骨董品が趣味で、大金はたいて粗大ゴミを買いあさるようなやつだった。ぼくが子供の頃は、よく入院中の祖父に呼びだされたりしてたもんだ」
「ジャスパーさんもついて行ったりしたんですか?」
「うん。だけど物心つく前だったから、ほとんど憶えてないけどね――ああ、でもあの目だけは、はっきり憶えてる」
「目?」
「たぶん初めてのときだと思う。ベッドの上から親父を睨みつけているのだけど、ぼくはその目がもうこれ以上ないってほど恐くてね。それでぼくが泣きだしちゃって祖父のお説教が終わったものだから、親父はそれから祖父に呼びだされたときは必ず、ぼくを連れていってたんだ」
「英雄リック、老いてなお英雄たる――ですか」
「心不全で死んだところをみると、やっぱり祖父も人間だったようだけど」
 エルが唇をにやりと曲げると、リーは一瞬きょとんとした顔をしてから、小さく声をたてて笑った。エルもつられて笑う。
 ひとしきり笑ったあと、エルは硬めの表情を作り直す。
「――さて、今度はきみのことをききたいのだけど、いいかな?」
「……なんでしょうか?」
 リーの声は明らかに身構えていた。エルはどう切りだすか逡巡した挙句、単刀直入に切りだす。
「入局したばかりのきみが、どうしてぼくの部下に任命されたのかな?」
「……あの、どういう意味でしょうか?」
 リーは眉をしかめる。その表情は駆引きでなしに、エルの質問の意味を理解できていないと語っている。
「……? 内示のとき、局長になにか言われれなかった?」
「なにか、ですか……」
 眉を寄せてしばし思案したあと、リーは「そういえば……」と呟く。
「通勤のために近くに引越したといったら、礼金も払ったのかね?、と言われました。どういう意味だったんでしょうか」
「すぐに解約することになるから、礼金分損したな――って意味だろうね」
 局長らしい、わかりにくい嫌味だなとエルは失笑をうかべる。だがリーは、ますます訳がわからないというふうに眉をしかめた。
 エルは溜息をついて、説明しだす。
「苦情対策員というのはつまり、ぼくを厄介払いするために局長が用意した役職だ。わかりやすく言うと、ぼくを辞めさせるための嫌がらせってこと」
「嫌がらせ?」
「そう。リゲルは英雄リックを名誉市民といして招き入れた。それこそ、星を挙げてのセレモニーまでやってね。だから、その三代目がいかに無能でも簡単に首を切るわけにはいかない」
 リーが話の腰を折る。
「どうしてですか? 切っちゃえばいいじゃないですか、首」
「切っちゃえばって……人ごとだと思って。リゲルとしては穏便に依願退職ってかたちにしたいわけ――だけど局長は、苦情対策員というポストの使い道に気づいたんだろうね」
 意味深な笑みをリーに向けてつづける。
「きみ、採用試験の成績は?」
「上から四番目ですけど……」
 市政局の採用試験結果は、情報公開の一環として市民全員に開放されている。
「へえ、頭いいんだね。それだけ優秀な人間だと、理不尽に首を切るわけにはいかないわけだ」
 リーは眉間に皺を寄せ、首を傾げる。
「面接ではなにを話したの?」
「ええと……市政局は意義のある情報公開をするべきだ。試験結果よりも公表すべきことがある――まあ、そんな内容です」
 エルはくっくっ、と苦笑する。
「つまり、局長が年に何回ゴルフグラブを買い換えるかを公表しろということか。そりゃ、局長も辞めさせたくなるというものだ」
 リーは何度か口を開閉してから、
「つまり、局長は辞めさせたいけど正当な理由がないわたしを、自分から退職させるために……」
「そう。そのために、苦情対策課なんてものを作って配属させたんだろうね。ご愁傷さま」
 グラスをかかげて笑うエルを、リーが睨みつける。
「そういう嫌味は、女性に嫌われますよ。ジャスパーさん」
「ご忠告どうも。それと、ジャスパーさんっていうのはやめてくれないかな? どうせ短い付き合いになるんだろうから、気軽にエルって呼んでくれ」
「……わかりました、エル」
「じゃあ改めて、乾杯」
「……乾杯」
 チン、とグラスが鳴った。


 苦情対策処理デスク――エルとリー専用のオフィスはいま、人間ならざる生物に占拠されていた。
 その生物はしかし、人間ふたりに襲い掛かるということもなく、室内をごろごろしていた。または走り回ったり、はやく餌をよこせと催促してきたり、所構わずトイレにしてみたり……。
「エルさん、見つかりました! これであと十二匹です!」
 電話を切ったリーは、この生物――猫どもの大合唱に掻き消されまいと声を張りあげる。
「なに、本当か! ――って、まだ十匹以上残ってるんじゃないか! あ……こら、だからトイレはそこじゃないと何度も言ってるだろ――ばか、シャツを引っ掻くな!」
 エルはふてぶてしい猫どもに、今日で一週間近くつづけていることになるトイレ教育を施しているところだ。生後三ヶ月くらいの子猫はあっさりとトイレ砂の場所を覚えるのだが、すっかり成長しきった奴らはわざと反抗しているとしか思えない。
 公有地管理についての意見調整――ようするに、空地に住み着いた猫の問題を解決するために、エルとリーは大量のマタタビを空地に散布して、うじゃうじゃ集まってきた猫をへべれけにさせてオフィスまで運んできたのだ。そしていま、彼らを引き取ってくれる里親探しに奔走している――というわけだった。
「なに言ってるんですか、エルさん。あれだけいたのが、あと十匹程度まで減ったんですよ。これは……すごいことです!」
 いっそ投げやりでヤケクソな言葉は、自分自身に言い聞かせているのだろう。
 エルはちっちっ、と指を振って、
「そりゃ、子猫は拾われやすいさ。だけど、あと残っているのはどれも、すれっからしの野良猫どもだ――これからだよ、正念場は」
 ――と、やはりヤケクソな笑顔で言ってのける。
「ぅ……」
 リーはまだ里親の決まっていない猫たちを見まわして、結局、反論の言葉を思いつかずに溜息をひとつ。
「それに、だ――」
 皮肉げに口の端をゆがめてから、エルは猫に引っ掻かれて絆創膏だらけの手を液晶画面に踊らせて、リーのデスクにデータを転送する。
「これは……、……ぇ――」
 首を傾げつつも、リーは送られてきたデータの題名と中身を確認して――表情を固まらせた。
 そこには『野犬追放駆除についての意見調整』と記されていた。いわく、「住環境と景観の改善のための野犬追放駆除」を提言する一部住民と、その提言を「無責任な飼い主による飼育放棄、捨て犬になんの対策も講じず、安易に殺すことで解決しようとするものだ」と猛反対する動物愛護家たちの意見を取りまとめて報告書を提出するように――ということだった。
「猫の次は犬ですか……リゲルも平和ですね」
 今日だけでも何度目かわからない溜息をこぼすリー。
「当の犬猫にしてみたら死活問題だろうがね――なあ、リー」
「はい、なんです?」
 エルは猫の爪切りを諦めて、リーへと振り向く。
「仕事、止めたくなったかい?」
 その問い掛けに、リーは一瞬だけ息を飲んで――不適に笑う。
「いいえ、まだまだ。わたしの取得は打たれ強さと粘り強さですから――局長のほうが根を上げるまで、辞めてなんてやるもんですか」
「そうこなくっちゃ――よし、ぼくは犬のほうの準備を進めておくから、猫のほうはきみに任せたぞ」
「はい、わかりました」
 元気よく答えてふたたび里親探しのためにウェブフォンをコールする彼女を、エルは楽しげに目を細めて見やる。
 この女性ならば、苦情対策課なんかから抜け出して、もっとやりがいのある仕事に就く日も遠くないだろうとエルは確信している。
(できれば、その前に……)
 そのまえに、いつの間にか定着してしまった「エルさん」がまた「エル」に戻ればいいな――と思いながら住民団体の主導者宅をコールするのだった。






エントリ6  ハイエースで行こう     ごんぱち


 朝日の射す住宅地を、一台の灰色のワゴン車が走る。
 車体の側面には、「お年寄り送迎車」の文字と、財団のロゴが入っていた。
「ふぁああ、眠いねぇ」
 帽子をかぶった庄内米助がハンドルを握りながらあくびをする。
 ワゴン車は、朝の町を走る。
「もう八時だろ、そんなに眠い時間じゃねえだろ」
 助手席の安芸柿男は、眼鏡をかけエプロンを着けていた。名札には『ポプラケアセンター』の文字が入っている。
「だっていつもは、タモさん観ながら着替えるんだよ?」
「優雅な生活だな」
「画家だからね」
「一応、な……ふぅ」
 大きく深呼吸をして、安芸は自分の頬を叩く。
「……そろそろだ」
「うん」
 車は減速して、ゆっくりと停まる。
 すると、少し離れたところにいた、歳の頃は八〇過ぎと思しき男が、杖をつきながら歩み寄って来た。
「お早うございます! ポプラケアセンターです! お迎えに参りました!」
 安芸は満面の笑みで、男に頭を下げる。
「お早う、今日もよろしく、センセイ」
 男は一礼して車に乗り込もうとする。
 が、足がワゴン車のステップまで上がらない。
「乗れないですね」
「って、オイ。いつも乗ってるだ――でしょう?」
 しかし確かに男の足は上がらず、踏み台でもない限り、自力で乗れそうになかった。
 通行人が、それとなく視線を向け通り過ぎる。
「ええい!」
 安芸は男の腰を掴んで、車内に持ち上げた。
「ありがとうございます」
 男は一番後ろの席に座る。
「どういたしまして」
 安芸は扉を勢い良く閉め、鍵をかけた。
「動くよー」
 車が動き始める。
 角を一つ曲がり、乗り込んだ場所は見えなくなった。
『な? 上手く行っただろ』
 運転席のすぐ後ろの席に座った安芸は、庄内に耳打ちする。
『うん……そうだね、凄いね』
『介護施設の送迎車のフリをすれば、年寄りは絶対信用する。しかも、施設を使える奴らってのは、大体金持ちだ。その上、目も耳も物覚えも悪いから、俺たちの事なんてバレやしねえ。営利誘拐にこれだけ向いた標的もねえぜ』
『その通りだね。やっぱり頭良いなぁ』
 その時。
「センセイ」
 後部座席から、男が声をかけた。
「おわっ!」
「これ」
「へ?」
「これ」
 男が差し出したのは、黄色い小さなノートだった。
「……あ、ああ。連絡帳かよ」
 安芸はノートを受け取った。
 表紙には、「山城大作」と書かれたテプラが貼ってあった。
(丁度良い、電話番号……)
 安芸は連絡帳をめくる。
 一ページ目に、住所、連絡先の記入欄がある。
「え?」
「どしたの? 柿男君」
「ば!」
 安芸はそうっと振り向く。
 山城は何を考えているのか、外を眺めている。
『馬鹿っ! 大声で名前を呼ぶな!』
『ゴメンゴメン。でも大丈夫だよ。聞いたって覚えてないって』
『万が一って事があるだろ。顔格好ならごまかせるが、名前だと一発でアウトだ。気を付けろ!』
『ゴメン……それで、さっきはどうしたの?』
『……ああ。ちょっと、な』
 住所、氏名の記入欄には、何も書かれていなかった。

『どーすんだよ!』
 小声で安芸は怒鳴る。
『え? ボクに言われても、知らないよ。そうだ、交番で調べて貰えば?』
『お前は馬鹿の国から馬鹿を広めに来た馬鹿野郎か! もういい!』
 安芸は山城の方を見る。
「すみません、山城さん」
「なんです?」
「電話番号、教えて貰えませんか?」
「ない」
「へ?」
「電話のような高価なものは、引いてないです」
 あんぐりと安芸は口を開ける。
「は、はぁ。んじゃ、住所は」
「松山市です」
「まつやま? おい、どっちだっけ、まつやまって」
「えーとねぇ、確か西の方だよ」
「そうだっけっかなぁ。隣町にもそんな地名なかった気がするんだが……」
「隣にはないよ。松山って、四国だもん」
「し!?」
 安芸は怒鳴る。
「おい山城さん!」
「はい?」
「気付いて、ごまかしてるのか?」
「ごまかすって、何をです?」
「あんたの家、まつやまじゃないだろ」
「いいえ、松山です」
「嘘をついたってすぐ分かるぞ」
「松山ですよ」
 当たり前のように山城は答える。
 安芸はしばらく彼の目を見つめていたが、首を横に振った。
「ウソをついてる目じゃねえな」

 車は東名高速を西に走る。
「うん、そう、晩御飯食べちゃって――そうじゃなくて、昔の友達と会っちゃって、明日まで痛飲する事になったんだ。そうそう、じゃ」
 安芸は電話を切る。
「あー、一体どうなってんだ? なんで電話ねえかなぁ」
 シートにだらりと腰掛け、彼は頭を抱える。
「上手く行ってるじゃない?」
 庄内は鼻歌混じりでハンドルを握っている。
「どこがだ! まだ身代金の要求も出来てねえんだぞ」
「だって、まだ逮捕されてないじゃない。それよりも、身代金決めようよ、いくらにする?」
「ああ? もう決めてるだろ? 互いの借金の四百万に、当座の逃亡資金を考えて、三百万三百万で、一千万」
「うん。でもさぁ」
 バックミラー越しに、眠っている山城が見える。
「そんなにお金払えるのかなぁ。服も何だか汚れてるし」
「払えなかったら、借金でも何でもして用意するさ。親を助けるのに、出し惜しみするわけねえだろ」
「そうかなぁ」
「俺だったら一億だって出すぞ。内臓の三つ四つ売ったってな。それが当たり前だろう?」
「ふふ」
「何だよ?」
「柿男君はいい人だねぇ」
「……営利誘拐するのは、悪い人だよ」
「でも、連帯保証人になって出来た借金を返すためでしょ?」
「お前は生活費だったよな」
「うん」
「エンゲル係数高そうだもんな」
「エンゲルス?」
「どうして資本論が出て来るんだよ?」
「さあ?」

「ご飯買って来たよー」
 庄内が弁当を提げ、サービスエリアの駐車場に停められた車に戻って来る。
「ほれ、山城さん」
 安芸は弁当を蓋を取って、山城に手渡す。
「ありがとうございます」
 山城はそれを膝に置いて、野菜の煮転がしを口に入れて噛み始める。
 自分の弁当を食べながら、安芸は彼の様子をちらちらと伺う。
「よく噛むなぁ」
「お年寄りはよく噛むもんだよー」
 庄内は、弁当をがばがば口に詰め込んでいる。
「それにしても長くねえか?」
「食べ物で苦労した人だから、大事にしっかり噛むんでしょ」
「そーかな」
 安芸が野菜の煮転がしを食べる。
 ほどほどに煮られたニンジンは、まだ歯ごたえがあり、あんまり味が染みていない。ゴボウは細く、筋張っている。レンコンもボソボソしている。
「何か気になるんだが――」
 振り向くと、山城の口は止まっていた。
「え?」
 いや、口だけではなく、身体全体が動かなくなっている。
「うわわわ!」
 安芸は慌てて山城の背中を叩く。
 すると、ほとんど丸のままのニンジンが、山城の口から飛び出した。
「はぁはぁはぁはぁ……ありがとうございます」
「ば、ばか! 喉に詰まってるならそう言え!」
「喉に詰まってる時は喋れないよぉ」
「こんなもん噛み砕けねえのか? 綺麗な歯してるくせに」
 山城の口には、白い歯が見える。
「柿男君、多分それは入れ歯だよ」
「あ……そっか」
 安芸は弁当を見る。
 野菜の煮転がし、イカフライ、焼き魚、シュウマイ。
「野菜も喰えねえんじゃ……ひょっとして、飯は粥とか喰ってるか?」
「はい。いつもはお粥を」
「包丁かナイフ持って来い」
「えっ?」
 庄内が目を丸くする。
「そんな、いくら足手まといだからって、早すぎない?」
「ばっ、馬鹿野郎! 食い物を刻むんだよ! 刻めば噛めなくても呑み込めるだろうが」
「ああ、そっか」
「それから、粥。レトルトでも何でもいいから持って来い。スプーンも要るな」
「うん、分かった」

 食事と休憩を終えた彼らは、名神高速道路を突っ走る。
 日が傾きかけていた。
 山城は、崩れるように座っており、顔色が悪い。
「山城さん、腰大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
 答えと裏腹に、山城は腰を所在なさげに動かしている。
「……腰、痛むか?」
「はい、痛みます」
「なら始めからそう言え!」
「やっぱり、車は乗り心地が悪いんじゃないかなぁ」
 ハンドルを握りながら、庄内が言う。
「ボクもそろそろ運転疲れて来たしー」
「んな事言ったって、松山に行かなきゃならねえだろうが」
「うん。だから、瀬戸大橋を渡らないで、大阪から船に乗らない?」
「船……か」
 安芸は後ろの席の山城を見てから、小さく舌打ちする。
「分かった。そうしよう」
「高速降りたら、大阪港へ向かうね」
「船代、身代金に足してやる」
「必要経費って扱いで、税金少し減るかなぁ」
「身代金に税金なんかかかるか!」

 船室のベッドで、山城は眠っている。
「うー、揺れんなぁ」
 その寝顔を横目で見ながら、青い顔の安芸はポケットボトルのウイスキーをラッパ飲みした。
「ふう」
 窓に大粒の雨が叩きつけられ、船は緩やかながら絶え間なく揺れ続ける。
「ボクもいい?」
「ああ」
 安芸は庄内にウイスキーを手渡す。
「……ねえ」
「なんだ」
「警察に捕まったら、どうしようか?」
「ばーか、捕まらねえように、わざわざ計画立てたんだろうが」
「でももしもの話だよ。ほら、警察で拷問された時、柿男君の名前とか居場所とかを吐くかどうか」
 庄内はぐいぐいウイスキーを呑む。顔色は全く変わっていない。酔い止めではなく、単にウイスキーが呑みたくて呑んでいるだけらしい。
「この二十一世紀に、警察が拷問なんかするか!」
「分かんないよ。政情不安な土地だと、賄賂は取るし拷問はするし、誘拐団と結託してるって話もあるし」
「ここは、日本だ!」
 ウイスキーを引ったくった安芸は、ぐっと瓶を空ける。
「まあ、もしもだな、もしも捕まった時はだなぁ」
「うん」
「俺はお前の事全部喋る。ペラペラ喋る。逃げそうな場所から、昔の女――は、いなかったか。ともかくそういうの全部喋り尽くすから覚悟しやがれ」
「えー、酷いなぁ」
「だからお前ぇも俺の事話しちまえ。どうせバレんだから」
「あ! 柿男君は言わない気だな!」
「ば、ばか、言うに決まってるだろ。白状しまくりだ」
「えへへ。じゃあ、ボクも柿男君の事、誰にも喋らないよ。逆さ吊りにされて竹刀でひっぱたかれても、生爪剥がされても、畳針で足に穴空けられても、電気ショックかけられても」
「……いや、言って。それ、重すぎる」
 安芸は閉じた窓を見る。
 窓際のテーブルに置かれたペットボトルの中身が踊っていた。
「しっかしこのジジイ、こんなに揺れるのによく眠っていられるなぁ」
 山城がベッドで静かに眠っている。
「戦争で船にでも乗ってたんじゃない?」
「船乗りって面じゃねえよ、このジジイ。見ろよ、この弛んだ顔」
「じゃあ、どんな人だったのかなぁ」
「興味ねえな。今はタダのボケ老人だ」
 と、山城が突然目を開けた。
「うわっ!」
「あ、起きた」
「……センセイ、トイレはどこですか」
「あー、連れてってやるから、独りで立とうとするな。転んだら、骨折るぞ骨!」
 山城の腰を抱えるようにして、安芸は船室から出て行った。

 翌日。
「よっ、よっ、とっ、はっ!」
 山城を背負って、安芸は急な階段を駆け上る。
「山城さん、ほれ見ろよ!」
 最上部の甲板に出ると、青空が広がっていた。
 瀬戸内海は真っ青で、遠くに町並みと緑の陸地が見える。
「おお……松山ですね」
「家の場所、覚えてるだろうな?」
「はい、勿論」
 山城は陸地をじっと見つめている。
 不安そうな表情は消え去り、穏やかに微笑んでいた。
「……そりゃいいんだけどよぉ」
「はい?」
「いい加減降りろ! 重い!」

「ここ……か?」
 車から降りた安芸は、呆然と呟く。
 目の前には、パチンコ屋があった。
「山城さん、こんなもん経営してたのか」
「いや、違うんじゃないかな」
「……おかしいですね? 確かここに、私の家が」
 山城は首を傾げている。
「確かに生まれてから四十年、ずっとここで暮らしていたんですが」
 間が空いた。
「なに?」
「へー、山城さんって四十歳だったんだぁ」
「って違うだろ! おい!」
 安芸が怒鳴る。
「まさか、お前、ここに家があったのって」
「はい?」
「昔の事じゃねえだろうな?」
「昔じゃありませんよ」
「えーと、山城さん、あんた、今何歳だ」
「四十二歳です」
「やっぱり」
 嬉しそうに庄内が手を叩く。
「ばかっ、えーと本当の年齢は、連絡帳にあったよな?」
「えー? あ、本当だ。八十二歳――あれれ?」
「自分の年齢も分かんねえぐらいボケてやがった!」
「四十年も前だと、家はないかも知れないよねぇ」
「知れねえじゃねくて、現に目の前にパチンコ屋建ってんだよ! なあ、山城さん!」
 安芸は、きょとんとしている山城の肩を掴む。
「お前の家、もうねえよ。印象に残ってるのかも知れねえけど、ねえんだ」
「そんな阿呆な。だって私は、この家に」
 山城は呆然と呟く。
「これは、現実だ。あんたの家は、ここにはねえんだ。やっぱり、元いたあの辺に、娘だか息子だかの家があって、居候してるんだ」
「でもいつも会社に行って、帰って、妻がいて、たった一人の息子がいて。でも、仕事に失敗して、関東に出た。息子は結婚が遅くて、私が還暦の時にやっと嫁さん見つけて……」
 山城の目に感情が蘇り、いつしか涙が浮かんでいた。
「そう――私の妻が死んだ後、独り暮らしは心配だからって、息子が自分の家に呼んでくれて」
 両手で顔を覆う。
「息子夫婦は優しかった。でも、何もさせてはくれなかった。役に立たない自分が情け無くて、退屈で、働いていた頃が懐かしくて」
 声に抑揚が出ていた。
「山城さん……あんた」
「松山に帰りたい、帰りたい、一度は帰りたいと思いながら、そんな機会も、言い出せるだけの勇気もなくて……君たちが連れて来てくれたんですね」
 山城は深く頭を下げた。
「本当に、ありがとう」
「いや、そう、じゃねえ」
 うつむいたまま、安芸は寂しげに笑う。
「だよねー」
「俺たちは、あんたを誘拐した、それだけの」
 遠くからサイレンの音が聞こえていた。
「犯罪者だ」

「ちぇっ、自首しても懲役は受けるんだな、やっぱり」
 旋盤をかけながら、安芸は隣の庄内に小声で声をかける。
「誘拐は重罪だからねぇ。でも、二年で済むんだからいいじゃない」
 庄内は楽しそうに金属部品に色を着けている。
「まあな。自己破産したから借金もチャラだし」
 安芸は、泣きそうな笑い顔を浮かべる。
「女房とも離婚成立しちまったし」
「悪い事ばっかりじゃないよ」
「何か良いことあったか?」
「うん。例えば――例えば」
 口ごもりながら、庄内は答える。
「ねえじゃねえか!」
「いやいやあるって。ほら、山城さん、ボケがすっかり良くなったっていうじゃない?」
「それはあのジジイと家族の良いことで、俺の良い事じゃねえよ」
「ま、いいじゃない。二年で済むんだし」
「まあ、な」
 安芸は笑った。
「ね?」
 庄内も笑った。
 二人は、声を上げて、心から幸せそうに笑った。
「十三番、十七番! 作業中に私語をするな!」
 看守の怒鳴り声が響く。
 窓から入った南風が、作業場を通り抜けて行った。






エントリ7  安住の地     ながしろばんり


 ユイスマンスからの七年ぶりの手紙だった。せむしで育ちが悪くて、世の女性とは縁遠かったが、秀才の名前をほしいままにしていた男だ。別れてから七年経ったおれにこそ女房も子供もいなくて、手紙に背中を蹴飛ばされる感じ、商売道具の原稿用紙や辞書をまとめて、ふらりと彼の元に出かけることにしたわけだ。リパリア・タンターグ行きの電車に乗って二つ山を越えると海岸線に出る。クラウディスという港町だ。
 船の積荷を上げ下げする仕事だそうだ。敬虔なクリスチャンが多いのか、遠く坂の上には大聖堂が見えるし、日曜日の市場は閑散として、黄色の蝶が飛びまわっている。春先の港町、日向ぼっこの鬚面に、手紙にあった住所の道を聞く。傾斜のきつい町で、山の高みには貴族の避暑地が多いそうだ。駅の裏手のラマ牧場には各々の貴族持ちのラマが飼われている。無数のリボンをつけてしゃなりしゃなりと歩くラマを横目に海に出ると、干からびたレンガの直線に、水平線を失った海が見える。河口、運河の脇、立ち並ぶアパートメントからオムレットの匂いがする。この感じは悪くない。エンリケ通り、手前から三軒目のアパートの一階四号室、ユイスマンス・シャコール。間違いない。

 ――初めておらっちのことを包み込んでくれた女だった。おらっちなんかよりずっとずっと大きな女だが、よく働くしキスも上手い。いままでの生活が神の与えたもうた試練だとすれば、おらっちはようやっと、安住の地に辿りついたのかもしれない。

 奥さんはコッペリア、とだけ名乗った。確かに私の視線の先に鼻の穴があって、そのまま倒れこんだら、その雄大に突き出た胸に顔を埋めかねない。ユイスマンスから伝えられていなかったのか、コッペリアは酷く困惑した顔で、とりあえずといった風に席を勧めてくれた。オーブンの、薬缶に向かうぎこちなさ。突き出た腹と重い足音。妊娠しているのだろうか。
「ボウ君は? いないんですか」
「ああ、ちょっと」
 奥さんは先程のしかめた顔から一転、顔を赤らめたが、今度はそのままあふ、と身を捩じらせた。
「お、おい、大丈夫かね」
「いや、な、なんでもな、アフ、あん、だ、駄目だったら、お客さんの前で」
 きょとんとする俺のまえで、マダム・コッペリアはくねくねと身悶えている。ぱんぱんに太った両腕でたわわな胸を抱え込むと、ぎゅっと抱きしめた顎から二重にも三重にも肉がはみ出て、妙に幼げになる。
 いい女だな、と思った。
「あの、ちょっとすみません。ちょ、ちょっと、すぐもどりますから。ウフ、おほほ、ほ、ごめんなさい、ちょっと」
 出会ったときの寡黙さはどこへやら、奥さんは口元によだれを浮かべながら、ふらふらと外に出ていってしまった。一人ぽつねんと取り残されて、あらためて、この長屋をぐるりと見渡してる。右隅から洗濯籠、水甕、オーブン兼暖炉、食器棚。吊るされた唐辛子の束、にんにく。水甕は周りの装飾がシノアズリーで、口の幾分か欠けたあたり、舶来の品をうまいこと貰い受けてきたのだろうか。
 部屋は隅のダブルベッドも含めて一間。部屋の壁は元々漆喰で塗られていたのだろうが、今となっては殆どレンガが剥き出しになってしまっている。奥に引っ込めて設けられたオーブン兼暖炉も、支える天井のほうでずいぶんレンガが抜け落ちてしまっていて、覆いを失ったところから煤がこぼれて真っ黒になってしまっている。
 壁一枚隔てて、外からコッペリアの低くがみがみ言う声と、甲高い、懐かしい声がする。部屋は左の耳から背後の扉に廻って、私が慌てて立ち上がるのと、ドアが勢い良く開くののタイミングを合わせることにした。
「ユイスマンス!」
「ようエド! すまねぇな、ちょっと匂うかもしれねぇが」
「どこにいたんだよ」
「どこってほどのものでもねぇんだが、まぁ、よく来てくれた」ユイスマンスは俺にしがみつく。磯のような、南国のフルーツのような、匂い。あとから戸を閉めた奥さんが、着替えてくださいよ、と奥の洗濯籠に向かう。奥さんが歩くたびに軋む床。でも、いくらか足音が軽いのを、おや、と思う。
「海にでも落ちたみたいだ」
「……まぁ、違いねえけれどもな」
「はン?」
「おまえさん……後生だから、顔だけでも洗ってくれるかい。あと、頭も」
「しょうがねぇな、まぁ、あとで話すさ」
「な、なんだよ」
 海に落ちた、にしては様子が妙だ。奥さんは青く燃えるコンロに鉄瓶をかけると、ベッドの脇の戸棚から布切れを取り出すと、後ろ向きにスカートを捲り上げて念入りに拭いているようだった。おれの視線に今更に気付いた顔で、とんだ失礼を、と俺に詫びるのだった。
「はやくお茶でも出してくれや」
 水甕の水でばしゃばしゃとやって、ユイスマンスの縮れた毛が硬そうに尖っている。
「日曜で休日だといってもどうも、することも無くてな」
「教会に行けばいいだろう。丘の上には立派な聖堂もあった」
 立ち並ぶ貴族の別荘からさらに頭一つ高く、よく磨かれた鐘を思いだす。
「あそこも去年まではな、宮殿付きの大聖堂を引退した立派な司教様がいらしたが、あの方が亡くなってからは彼の孫だという男が司教をやってるよ。神学校を出たての若造で、おらっちより学がねぇんだよ。ありゃあ、駄目だ」
「お前は神学じゃなくて、経済学で学校にいたじゃないか」
「その経済学にいた人間でさえわかるような駄目ぶりなんだよ。自分がカソリックであることにさえ悩んでやがる」
「なんだそれ」
「いつぞやは自分のことを牧師だなんて呼びやがって、あんな司教じゃ行っても面白くないわけよ。別に求道でいるんじゃない。悩むのが趣味だから神父になったみたいなもので、ろくなもんじゃない」
 小男ユイスマンスは意地の悪い笑みを浮かべて俺を見上げている。この男は学生時代に時からずっとそうだった気がする。自分がせむしであることも、それでいて周りから差別されたとしても、最後にはいつもこの、意地の悪い笑みが用意されていたと云っていい。
「で、教会に行かないで、どうやって信仰を示すんだよ。まったく教会にいかないというわけにも、いくまい」
 紅茶の入ったティーポットを持って奥さんがテーブルに戻ってくる。目の前、ユイスマンスだけではどうも横に広すぎた空間が、奥さんが席につくと一気にみっしりと埋まってしまった。
「いや、結婚式はちゃんと教会に行ったよ。なぁ?」
 そうね、と奥さんは食器を操る手を止めない。
「むしろ」ユイスマンスは顔を寄せる。「あのボンボン司教のせいで、俺は真の信仰を手に入れたのだろう、と思うよ」
「砂糖は結構ですよ、マダム」俺は不審げにユイスマンスの顔を見据えた。ますます意地の悪い笑み。「なんだよ、どこかの自然哲学崇拝みたいに、近代知にデーモンとして意識配置されたダイモニオンを崇めよ、とか言いだすんじゃないだろうね」
「いや、そうじゃねえんだ」ユイスマンスとコッペリアは互いに顔を見合わせる。「”μακαρ ευδαιμων τελεδαS θεων ειδωS……”(※)。ディオソニス密儀じゃねえけれどもよ、あのソクラテスの聞いた聖霊の声なんてのは、決してアポロンの神託なんかじゃなかったってことだ。デーモンがダイモーンであるがごとく、これを今で言う理性と、抑制された本能だって考えてみた、ってわけよ。教会で結婚式を挙げてみたけれどもさ、当の神様なんざ、イスラムのテロだって防げやしない。そうだろう。永遠の愛を誓うったって、見りゃわかるとおり、うちのカミさん、あんまりしゃべらねえし、そんな口約束が通じるほど、世の中甘くねぇ、とおらっちが思うのも、お前だったらわかってくれるはずだ」
 ユイスマンスの左の耳たぶは、学生時代の旧友の不義理で切り取られて、当の旧友ともども、どこにもない。
「なんだか話がずれてきている気がするが」おれはしばらく考えこんだ。「信仰の話、だったよな」
「そうだよ、でも、やっぱり神はいるんだと思う。こうやって、おらっちに最高のカミさんを出合わせてくださった」
 奥さんの目尻に沢山の皺が溢れて、そのまま脂が搾れそうだ。
「手紙にも書いたと思うが」ユイスマンスは曲がった背中から、さらに顔を寄せる。「コッペリアは、おらっちのことを身体中で、愛してくれるんだ」奥さんにしたたか背中を張り飛ばされて、ユイスマンスはマグカップの中に顔を突っ込んだ。
「なんだよ、惚気かよ」
「いや、エドワード、お前だから言うが」ユイスマンスの口をふさごうと躍起になる奥さんと必死で格闘する。片手で抑えこまれた顔面の、げじげじ眉と口先を、指の先から突き出して、こう言い放った。
「おらっちぁさっきまでよ、か、カミさんの穴の中にいたんだ」
 バン、と大きな音を立てて、木のテーブルにユイスマンスの首がめり込んだ。本能的な危険を感じて恐る恐る奥さんを見上げると、真っ赤に上気した顔で、にこやかに微笑んでいるのである。そういや、この前翻訳の仕事で受けた童話の挿絵のオークって、ちょうどこんな顔を、していたような。
「じゃあボウ、お前の潮っぽい匂いは……」
 ユイスマンスは、無言で大きく頷いた。奥さんは俯いたままだ。
「実はカミさんよぉ、おらっちで三度目の結婚なんだけどよ、色々な不幸でなかなか続かなかったらしくてな。それで、うちの海運屋の親方の姪御だったもんで、俺もこんなだからさ、割れ鍋に閉じ蓋ってんで一緒になったんだけれども、あの、それでさ……」
 ユイスマンスの顔がみるみるうちに皺くちゃになる。げじげじ眉の下、皺と皺の間から、大粒の涙。
「はじめてこんなに優しくしてもらってよ、おらっちな、一晩中あたたかい身体に抱かれたまま眠るのって、本当にうれ、嬉しくてよ、オウ、オウオゥ……」
 言葉を詰まらせて泣き出してしまう。テーブルにボタボタと音がするのに気がつくと、コッペリアも鼻水で襟を濡らしながら、すすり泣いているのだ。奥さんのパンパンの指が、ユイスマンスの頭をクシャクシャとなでる。
「取り乱してすまねぇ……それでな、ある夜、カミさんのマンコはでっけぇなぁ、と常日頃思ってたからよ、ちょっと足から入ってみたんだよ。な?」
 奥さんは取り出したバスタオルで、盛大に鼻をかんでいる。
「そしたら不思議なもんで、脚の先から髪の毛一本一本まで、するする入っちまうんだよ。あれよあれよというまに、尻から、腹から、この曲がった背中からするすると入っちまって、それで、それっきりだぁ……。気持ぢよぐて」
 ユイスマンスは奥さんからバスタオルを引っ張ると、こちらは涙を拭いた。どうやら先にかんだ洟がついて糸を引いているようだが、一向気にするふうでも無い。
「おらっちぁよ、お前に見てもらいたかったんだよ。学生時代には色々な差別もあって、一緒にいたおまえさんにもずいぶんととばっちりが行ったんだろうと思う。だからよ、おらっちぁよ、お前に今幸せだって、生涯の伴侶と一緒になれたんだ、って。それを見てほしくてよう……」

 一夜明けて、未明からユイスマンスは港に働きに出ていった。早朝の市場さえ済んでしまえばこれといって仕事が無いそうなので、おれも仕事帰りを待つことにする。
 うちでずっと待っているのもアレですから、と奥さんに促されて、おれは早朝のクラウディスの町を歩くことにする。市場への大通りを行き交う馬車の群には積荷が満載されていて、地響きを上げる様は圧巻だったけれども、でも、一本通りを外れてしまうと閑静な長屋街で、時折目に付くバーの看板が、朝の光で白茶けた表情を見せている。くわえタバコで水を巻く老婆の横をすぎると濃い水の匂いがして、おおきな石造りの水溜場に主婦がニ三人いるのを見かけて、あとはそれっきりだった。なんにもない、ただ生活に必要な細かな凹凸があるだけの、天気のいい日が続いていた。
 小一時間も町並みを歩くと、歩けるところはみんなめぐれてしまう、箱庭のような町。こんな平和な場所で、あれだけの迫害を受けていたユイスマンスが泣かんばかりの幸せを抱えて、今日も生きている。昨晩も夜中に目が醒めて、ふと床の上からベッドを見上げたときの、あのユイスマンスの幸せな寝顔は、一体なんだったのだろうか。学生時代には「哀れな」学友のイライラの腹いせに左耳を切り飛ばされたユイスマンス。安住の地を見つけた、と手紙に書いていたが、あのせむしは、なんで、おれを呼んだのだろう。自分の幸せのためだろうか。でも、誰かに己の光栄を打ち明けたとて、あんなに幸せそうな表情が、出来るものなのだろうか。
 立ち止まる。ふと空を見上げる。ユイスマンスのアパートの屋根の上、どこまでも青い空。すかすかの白亜。
 扉をそっと開けると、低く重くいびきの音が聞こえてくる。水甕や洗濯籠の横で、奥さんが椅子に寄りかかって眠っている。薄く目は開いているけれども、でも、朝の家事を終えて、いつも昼までまどろんでいるのだろう。
 おれはそっと扉を閉めると、奥さんが目を開いたときに俺が映らないようにしゃがみこんだ。長いスカートの下からはみ出た足はうぶ毛で一杯で、スリッパの脱げた足は、思いのほか慎ましやかだった。
 スカートの端に指をかける。ゆっくり引き上げようとして、自分の手が震えているのに気がつく。ならば、と幾分か勢いをつけて引き上げる。垂れ下がった肉のゆるみから膝の硬い皮に吹き出物一つ、内腿の肌は思いのほか白くて、うっかり鼻水を啜り上げそうになるほど興奮しているのに気付く。奥さんは身動き一つしない。膝のところまでスカートを捲り上げて、おれの頭ほどもある太ももを慎重に、全身全霊の力で押し開く。尻肉が巨きすぎて下着の履けないコッペリアの下半身は肉の壁のようで、会陰から恥骨の生え際まで、確かに俺の二の腕まで入りそうなほど、長く大きな外性器。足のうぶ毛の延長みたいな陰毛が広がっていて、むしろ女というよりもなにかの動物を思い出させた。あのせむし男は、この中に安住の地を見つけて、そして、今日も元気に仕事に出かけているのだ。俺は舌打ちした。部屋の中に響くのは鯰のようないびきばかりで、おれはいよいよ無感情に陰唇を横に広げてみる。すると、狭いと思っていた穴が急に鯉の口のように開いて、ああ、これなら頭ぐらい入るかもしれない、ぽっかりと開いた穴をしばらく見つめてみて、おれは急に奥さんのスカートを元にもどした。理由をつけるとすれば、そうだな。暗い深淵から、その天国の扉の奥から、小さな四つの目が、きろりと俺のことを見ていたと、そういうふうに思ってくれればいい。あの、ユイスマンスによく似た黒い縮れっ毛と、奥さんによく似た厚いアヒル口をもった二人の子供がいたと思ってくれれば、それでいい。おれはそっと部屋を出ると、うららかな春の日差しが哀しくて、とりあえず港まで歩くことにした。

※作者付記::※1:マカル エウダイモーン テレダース テオーン エイドーズ。(ああ、幸ある神よ、幸いに……)ソクラテスはエウダイモーン(ευ + δαιμων)を「善き聖霊の知らせ」として重視した、と。結局はダイモーンへの回帰だったんじゃないか、というのが今回の作品の、ミソ。








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