エントリ1
覚醒 14の愛
庭
前歯が欠けている。
体型がひょろひょろしている。
このようなイメージから、ごく一般の人々は誰を連想するのであろうか?例えばあなた。 今ここに高く挙手をし「ニカウさん」と陰気に呟くあなたは私と共に寄り添って歩いてまいりましょう。そう。 私の場合このようなイメージから連想する人物といえば「ニカウさん」の他になく、私が妻に産ませた男女織り交ぜて12人の餓鬼のうち、最も醜い次女の容姿がこの「ニカウさん」そのものになっているということに突然気が付いたちょうどその日、遠くアフリカの草原からニカウさんの訃報が届いた。 私は大急ぎで12人の餓鬼共がじゃれあい、重なり合いながら暮らすカオティックな8畳間の前に立ち、息切れを鎮めるため破れ襖の取っ手に手をかけてややしばらく深呼吸を繰り返してからおもむろに戸を開けようとしたのだがやはり興奮していたのか、ついつい力が入りすぎて襖は敷居から外れてしまい、出もしない乳を与えるようにして半裸で末息子に添い寝する長女と、ひもじさのあまり乳も出ない長女の乳首を吸い続ける末息子の上に、その襖が覆い被さるようにスローモーションで倒れていった。他の餓鬼共は一様に口をあんぐりあけて襖が倒れていくその様を眺めていたし、私も同様に成す術もなくそれを眺めていたのだが、倒れてみると特別に大きな音がするわけでもないし、どちらかといえば静かにふんわりと倒れ、長女も末息子も命に別状はないし、というよりも襖の下敷きになったらなったでそのまま体勢をかえることもなくふたりは添い寝を続けていて本物の母子を想わせるほどに冷静。変わったことといえば襖が倒れた風圧で、腐れ畳の上に積もっていたカビと雑菌まみれの埃が部屋中に舞い上がり充満し、いよいよ餓鬼の巣から放たれるカオスが限界まで膨れ上がったことくらいのものだったのだけど、どうもこれがいけなかったようだ。 私としては単純に「ニカウさんが死んでしまったという事実をニカウさんと酷似した次女の目の前で発表し、それをネタにして次女を囃し立て、貧しくて気が落ち込んでばかりのこの家の餓鬼共に笑顔の火を灯してあげよう」という言わば、善意の心で餓鬼部屋に走ったのだが、ちょっとした粗相から思い切り混沌の種を撒き散らしてしまったが為に私自身その種を吸引してしまい、脳の中で意識の中でそれは芽を吹き、急成長し、狂い咲いて無力、叫び咲いて脱力、惚け咲いて自虐の境地に陥ってしまったのである。 灰色の埃に覆い尽くされた空気。わずか8畳の部屋がまるで宇宙のような絶望と怨嗟に支配されていてその角、その隅ドン詰まりからよろりと立ち上がる無気力で巨大な影。筋肉もなくただひょろ長いだけ四肢を持て余している次女のその影は蜻蛉のように存在感の薄いまるで残像。実体化しない影を無理矢理に見ようとして私の脳裏には草原に倒れて爽やかな風に吹かれている屍となったニカウさんの幻影が・・・。 「ニカウさん草原に死す」 私はその瞬間そう呟き、この娘の名前をその通り「ニカウさん草原に死す」と改名することを心に決めた。同時にそれまで次女になんと言う名前を付け、なんと呼んでいたのかを忘れてしまった。 ニカウさん草原に死すは欠けた前歯を剥き出し「かっ!」とひと声嘶いて、また埃だらけの混沌の片隅に蹲った。膝を抱え頭をその間に挟み込んで。 私はそれきり3畳の自室に引きこもった。 どれほどの期間なのかまるで見当もつかないほどの長期にわたって猛然とキーボードを叩いていた私はタイピングが異常に速くなり考えることすらしないまま、もちろん文法なんか知ったことではなく文章の切れ目すらなく段落さえなく、句読点なんて生意気な、時に言葉ですらないイメージのような意識そのものをタイプするようになってそうすると止まらなくなってしまって、例えば小便がしたいとしても「もう少し」、大便をひり出したいと感じても「なんのなんの」、腹が減っても高楊枝、眠っているのか起きているのかも判然としない、はっきりと感じられることがひとつもない状況の中でどれくらい生活していたのだろうか、ただならぬ悪臭を感じて初めて自分がまだ現世に生きているのだと気が付いた途端に何もタイプするものがなくなって私はキーが打てなくなった。 脱現世的意識の中でも人としての尊厳を捨てることはなかったのか、糞尿を垂れ流してこそいなかったものの敷きっ放しの煎餅布団には大小便の小さな断片や沁み、それにどこから流れ出たものか若干の血痕が付着していて、部屋のあちこちには食った覚えもないのに食器類が残飯と共に散らかり放題の有り様。主にこれらの腐敗が悪臭の原因であったのだろうとひとり納得していたのだが、そんなことより何より体が重い。動かない。あぐらを組んだ太腿を確認しようとしたのだが、全く見えない。私自身の胸から腹にかけての肉が前に迫り出してしまっていて下のほうは確認不可の状況に陥っている。無理矢理に両手で胴回りの肉を押さえ込んで覗いてみたら凄まじくぶよぶよした肉の塊があって、そこに踵が食い込んで完全にキマッテいる。組んだ足を崩すことができないと思うと足の先端に感覚がないことが不安に思われて、その麻痺は徐々に下半身全体に広がっているようで、かなりヤバそうな気がしてきて心も体もジタバタし始める。何とか足を解こうと思って足掻き、もがくほど踵はおろか足首までが太腿の肉に食い込んで身動きが取れなくなった。私はついに自分の足首を掴んだまま後ろに倒れた。
部屋が狭いのである。畳3枚分のスペース。立って半畳寝て1畳と言うが、寝るはずの1畳には確かに布団が敷いてある事はある。だがその上には腐りかかった、あるいは腐り果て干からびた魚介類肉類酒瓶等が散乱していて実質的には寝る環境にはなく、更に壁際にはパソコンが鎮座ましますがっちりした卓袱台があって畳の色などは半畳どころか1/4畳も見えやしない。何が言いたいのかというと無様な姿で仰向けに倒れたのはいいが、背中は一升瓶と腐敗した残飯を下に敷くような形になっているし、狭さのあまり私の頭は後ろの壁に叩きつけられて首が不自然に折れ曲がっている。苦しい。呼吸ができない。私は必死だった。背中が痛いし、このままでは臭くなってしまう。両足を切断された肥満蛙が仰向けで泳ごうとするように無様な姿勢で飛び跳ね、跳ね回り、そのたびに後頭部をがんがん壁にぶつけて壁や床がギシギシと軋んでいるし家そのものが揺れている。衝撃と摩擦で後頭部の毛髪が擦り切れて、寝てばかりいる乳児によくあるような後頭部の薄毛状態になっているのではないかとビクビクした心境になり、そうなるともう心配でたまらず、わざと頭を壁に擦り付けてゾリッという感触を確かめ続けては安堵と不安の感情を交互に味わうというマゾヒスティックで不毛な行動を繰り返していた。 そしてある瞬間、なんの前触れも抵抗もなく足首は太腿から外れた。あまりにもあっさりと訪れた安堵と快感のあまり私は射精してしまった。言い忘れていたがその時、私は全裸だった。1番搾りの濁液を顔面に浴び、律動と共にほとばしる自身の精液を迫り出した胸から腹に浴びて私は、情けなさのあまり泣いた。そしてその快感に耐え切れず失禁した。ああ、生暖かい。嗚咽のリズムと同調して腹の贅肉が震えていた。そして踵に激烈な痛みを感じ、また同時にちょっと言葉では表現できないようないやな音、炸裂音というか、破壊音というかいかにもそういった調子のノイズが脳を震わせた。
引きこもってからずっと無心にキーを叩き続け、間違いなくそこに表現された私の言葉、私の意識、私のイメージ、私の精神の深奥に渦巻くノイズ。そしていまや全てがシンボルとして見事に結実してハードディスクに格納されて現世に住まう俗人の心に触れ、にわか文学者や形式崇拝論者からは厳しい批判を受けながらも、意識の最奥を手探りで穿り返そうという気概をもった求道者の記録。それは一瞬にして失われおそらく永遠に俗人の心にもにわか文学者や形式崇拝論者の目にも触れることはないだろうし、私は2度とそれを思い出すことさえできない。 あぐらが解かれた勢いで私はパソコンの設置してある卓袱台に強烈な踵落しを食らわせてしまい、キーボード諸共卓袱台が真っぷたつに割れて地盤を失ったパソコンは畳に崩れ落ち、ケーブル類は引き千切れてモニターもパソコン本体もうつ伏せにひっくり返ってしまった。ほんの数秒ハードディスクのシュルッというかすかな悲鳴が聞こえたような気もしたのだが、思いのほか静かにそれは死んでいった。私の引きこもりの歴史と共に。
エントリ2
大きな木の下で
THUKI
人の手によって規則正しく並べられた並木道は夏ということもあり、蝉の声が耳障りになる位に五月蝿い。 しかし、それにも勝るぐらいの車の音と排気ガス、それによって発生する光化学スモッグはそれ以上に人々の心を不快にさせる。 雲ひとつない青空なんぞ、この暑さの中では決して気持ちの良いものではない。 そんな臭くて五月蝿い町の中で、大学生になる栗田ミクは他の人々にもれず不快な顔をして歩いていた。 「はぁ〜・・・・・・・」 今日だけで通算15回目のため息である。 「何が悪かったのだろう?」 そんな独り言も今日で5回目になる。 一昔前まではそのようなこともなかった。 今思えば、あの頃が自分の中で一番幸せだったと思う。 ことの始まりはミクの友人である二人が付き合いだした頃だった。 異性の友人であるユウジと同性の友人であるアサミ。 最初、二人が付き合いだすと聞いたときは正直寂しかったが、嬉しかった。 それで、何かが変わるなんてことも考えもしなかった。 最初の変化はアサミが冷たくなったこと。 鈍感であったミクには分からなかった。 何も分からなかった・・・・いや、分かったところで何ができたのだろう。 気がついたらアサミは自分のことを完全に敵視していた。 理由はユウジとの友情を続けていたこと。 ・・・・・・・・胸が痛くなった。 ミクにとってはどちらも大切な友人だったから、どちらも何も変化することなく昔みたいに付き合えると思っていたのに・・・・・・。 ユウジは相変わらず変化なく付き合ってくれるが・・・・微妙な変化が痛い・・・・いや、むしろ変化しているのは自分かもしれない。 どちらにしてもミクにとっては胸が痛む出来事である。 「はぁ・・・・・・」 もう、数える気力もない。 別にミクはユウジが好きだったわけでも何でもないし、それどころか一度たりとも異性としてみたことがない。 それに、ミクには他に好きな男性がいた。 名はカイト。 事実、カイトとはけっこう仲良くなったし、何度かデートまがいのことだってした。 ・・・・・・しかし、カイトには最近彼女ができた。 実に嬉しそうに、照れくさそうに言うカイトを前に告白なんて絶対無理だと思い、さらに彼から嫉妬の原因になるからといって口もあまり利いてもらえなくなった。 気持ちの上では完全なる失恋である。 誰にも相談できなかったのがすごく悲しかった。 それなのにユウジからアサミのことについて相談なんかに乗ったりして・・・・・・結局、自分はなんだったのだろう。 確かに、自分にも汚点があったと思う。 汚点なんて自分からではあまり見えるものではないのに、それを自分で感じるということは周りから見たらよほどのことだったのだろう。 それでも、ミクは自分なりに頑張ってきたつもりだったし、自分が正しく、友人やカイトのためになる行動をとってきたつもりだった。 その結果がこれである。 気持ちの上で友人を失い、好きな人にもフラれてしまった。 もし、これが自分の取ってきた行いの結果だとしたら、それはあまりにも残酷であった。 それとも、自分が正しいと思ってきたこと全てが間違いだったのだろうか・・・・・ 「!!」 そんなことを考えながら歩いていると、突然、車道をはさんだ向こう側の歩道にカイトの姿を見かけ、姿を隠す。 彼女と楽しそうに歩く姿・・・・・・。 ・・・・・・目頭が熱くなるのを感じた・・・・・・・。 (あぁ・・・・・・私、まだ彼のことが好きだなぁ・・・・・・) そんなことを考える自分がいて情けなくなった。 正直、旅に出たい。 どこか、一週間でいいから、どこでもいいから身を隠したい。 しかし、それを現実が許してくれない。 学校、バイト、親。全てがミクを縛り付けていた。 「もう、ヤダ・・・・・・・・」 呟いたところで、何が変化するわけでもないことぐらい分かっているのだ。それでも呟いていないと、どうにもならない。 正直、ここ一週間で何回涙を流したのだろう。 人が生きる上ではおそらく感情は邪魔なだけなのであろう。もう、一生笑えなくなっていいから泣きなくない。 そんなことすら考え出す始末である。 そんな時は何を見ても辛くなる。自分の誕生日が仏滅だった。たった、それだけの理由だけで辛くなるのだから、救いようがない。 もっとも、自分の誕生日が大安だったとしても大して気持ちが楽になるわけでもないだろうが・・・・・。
「はぁ・・・」 帰り道、家族の前で何食わぬ顔をしなければならないのが辛いため、寄り道をする。 立ち寄ったのはこの近くを流れる空川の岸。 そこに不自然にたつ大きな一本の広葉樹のほとりが、ミクの小さな頃からのお気に入りの場所だった。 木の種類はいまだに分からない・・・。 「木さんはうらやましいよね。こうやって一人でもたっていられる。どんなにバカにされたって、どんなに辛いことがあったって、しっかり根を張って立派に立っていられる。私はダメだよ・・・。今にも倒れそう。」 今や愚痴を聞いてくれるのは、この大きな木だけである。 それがあるだけでもまだマシと思える自分が嫌だ。 「私、これからどんな顔して学校に行けばいいの?」 急いで家に帰り、すぐにバイトの支度をしなければならないことぐらいミクにだって分かっている。 だけど、心がうまく身体についていってくれないのだ。 できることならこのまま川辺の石ころにでもなりたい。 「!」 感傷に浸る時間は、携帯のバイブレーションに邪魔された。 かばんから取り出すと、画面に『メール受信1通』の文字が。 ・・・カイトからだった。 『今日、俺のこと意図的に避けたよね?』 内容はこれだけ。 今のミクには重過ぎる内容だった。 『彼女といたみたいだから気を使ったんだよ。私が声をかけたら彼女嫉妬するでしょ?』 それぐらいしか返せない自分が情けない 『そっか、ありがとう。でも、俺も本当はミッキーと遊びたいんだ。でも、そんなことしたら、ミエコに怒られるから・・・。』 それぐらいで怒るような彼女、さっさと別れたほうがいいよ・・・。 そんなことが言えたらどんなに楽だろう。 結局、ミクが返した内容は。 『分かってる。いいよ、私になんか気を使わなくても、彼女といつまでも仲良くね(^^)』 だけだった・・・。 少し涙を流し、立ち上がる。 バイトに遅れそうになって、結局ミクはその日、家に寄らずそのままバイト先に向かうことにした。
「なぁ、ミク。今日暇?」 次の日、キャンパスでユウジに声をかけられた。 同じ専攻。顔を合わすのは日常茶飯事。 「うん、あいているけど・・・。」 今日はバイトが休み。家でゆっくり本を読むことぐらいしか予定はない。 「そっか、なら今日俺の家に来てくれないかな?その・・・少し相談したいことがあるんだ。アサミのことでさ。」 「うん。分かった・・・。」 私のお人好し。 「そっか、それじゃ、俺の家知っているよな?」 「そりゃ、何度も行っているしね。」 作り笑いが精一杯の努力。 今にも涙を流しそう。 「悪いな。」 そう言って立ち去るユウジを見ながら、心の中で『バカヤロー』と叫ぶ。 彼を見ていると、二度と自分に声をかけてほしくないと思っている自分と、これ以上友人を失いたくないと思っている二つの自分がいることがまじまじと分かる。 今日も昨日と同じぐらいの真夏日。日焼けクリームすら貫通しそうな太陽の光がミクの心を締め付ける。 「ねぇ、今ユウジとしゃべっていたでしょ?」 後ろから聞こえるアサミの声。 いつから彼女の声はこんなに怖くなったのだろう? 「うん。今日一緒に遊ばないかだって、別に私ひとりじゃないから大丈夫だよ。」 嘘も方便。 本当のことを彼女に言う勇気は、今のミクにはない。 ・・・・・情けない。 「そう言う問題じゃないわ。ユウジが他の女に声をかけること事態が問題なのよ。分かっているでしょ。私が今どれだけ苦しいか?」 「・・・うん。」 一人埼玉から上京して、大学の友達しかいないアサミ。 不安だらけの新天地でユウジに出会い、恋に落ちた。 その前までは、自分から離れようとすらしなかったのに・・・。 純潔をささげた相手がそれほど大切なものなのだろうか? 「今日、ユウジとの約束断ってよね。」 「え?でも・・・。」 「女の友情をこんな形で壊したくないの。分かっているでしょ?」 もう、友情なんてとっくに壊れているよ。 「分かった・・・。」 小さくつぶやき、ミクは瞳から流れそうになった涙を必死にこらえた。
『ごめん、今日は急用ができて行けなくなった。また次の機会ね。』 大きな木の下で昨日と同じようにメールを打つ。 彼との友情もこれで終わるのだろうか? そう思うと、淋しいながらもどこかでほっとしている自分がいる。 思えば、アサミにユウジを紹介したのは自分だった。 あの時は純粋に二人が仲良くなって、三人で仲良くカラオケとかにでも行けたら素敵だな。と思っての行動だった気がする。 「ねぇ、木さん。運命って分からないね。先生が昔『神様は自分が乗り切れる試練しか与えないんだ』とか言っていたけど、私、今の試練をとても乗り切れそうにないよ。できることなら昔に戻って、すべてをやり直したい・・・。」 大きな広葉樹は何も答えない。暑い南風に揺られて、葉をこすれあうだけの音がミクの耳を刺激する。 「やっぱり、ここにいたのか?」 突然聞こえる男の声。顔を見なくても分かる。 ユウジだ。 「なに?今日は会えないって言ったはずだよ。」 「急用ができてか?お前の『急用』っていうのはここにきて、一人たそがれることなのかな?」 とりあえず今は何よりも重要なことだ。 「別に・・・ユウジには関係ないじゃん。」 「あるさ。せっかく久々にお前と話せると思ったのに、こんな形でキャンセルされたんじゃ、納得できない。」 「私と話さなくても、今のユウジにはアサミがいるでしょ?彼女ときちんと話しているの?」 「いや、最近はうまく行ってないよ。正直別れようかとも考えている。」 その言葉、聞き飽きた。 「まだ付き合いだして間もないのに何言ってるのさ?せっかくできた新しい恋人じゃない?」 「なぁ、ミク。やっぱり俺、お前のこと・・・」 「やめてよ!」 ユウジはミクの中で異性ではない。 そんな人間から『好き』なんて言葉聞きたくもない。 「なんでさ?今、俺がどれだけ勇気を振り絞ったと思っているんだ。少しは俺の気持ちも考えろよな!!」 なら、ユウジも私の気持ちを考えてよ。 「ゴメン・・・。でも、ホント二人はお似合いだよ。端から見ててうらやましいぐらい。私もあなたたちを見ていると早く彼氏が欲しくなっちゃうな。」 この言葉がユウジを傷つけることぐらい分かる。 だからあえて言うのだ。もう、自分を好きにならないように・・・。 「そうだな・・・。悪かったな。こんなところにまで邪魔して、それじゃ、俺これからアサミと会わなくちゃいけないんだ。また明日大学でな。」 「うん。バイバイ。」 手を振り、精一杯の作り笑顔。 ユウジが見えなくなって、また少し涙が出た。 『俺たちの友情、これぐらいじゃ壊れないよな?』 ユウジから来たメール。適当な言葉で返しといた。
バイトもなくて、学校もない。そんな日が月に一度あるかないか。 ミクの生活はとにかく忙しい。それが今の彼女の唯一の救いとも言える。 なのに、今日に限って学校もバイトもなく、ミクは読書に没頭しようとしていた。 家の中では何かと家族が邪魔だから、今日も大きな木のふもとに来ている。 携帯は家に置いてきた。何者にも邪魔されたくなかったら。 夏の日差しは日に日に強くなる一方。早く秋が来て欲しいものだ。 もっとも、秋が来たところで自分の気持ちに整理がつくかどうかも分からないが・・・。 どこから聞こえるせみの声。川の流れる音、車が走る音に子どもたちが遊ぶ声。ミュージックも聞こえる。 読書をしながらミクは自分が非常に小さい存在とだと思い知らされる。 ここには、心を縛る複雑な人間関係も時間すらない。 なんと言う贅沢だろう。できることならこのまま時が止まってくれれば良いのに・・・。 ふと、上を見上げた。 空は遠く、むかつくぐらい青い。 それでも、ここは木の葉っぱが影になっていてとても涼しい。 「そういえば、木さん・・・わたし、あなたに登ったことないよね。」 なんとなく思った。 大きな広葉樹は何も答えない。 「ちょっと、登らせてもらうね。」 その行為にどんな意味があるが分からないが、上に行ってみたい。 少しでもあの空に近くに・・・。 衝動に駆られたミクはすぐさま実行に移した。 木登りなんて子ども遊び。 子どもができて、20歳の女性にできないはずもない。 本を、地べたに置き、都合のいい枝を伝って、どんどん上に登っていく。 すこしでも空の近くに・・・広く大きな空の近くに・・・。 「ふぅ〜」 ひと段落してため息をつく。 人が支えられる木の枝の大きさは分かっているつもりだ。 そのため、これ以上登ることは理論上不可能だった。 枝に腰を下ろし、上を見た。 相変わらず空は遠かった。 高さはマンションの二階ぐらい。 空にはまだ遠い。 でも、下を見ると地面がとても離れていた。 自分の力でここまで来たのがうれしかった。 先ほどまで遠かったミュージックが近くに聞こえる。 子ども声がさらに遠く、車の音も聞こえない。川の流れる音すらこの距離では木の葉が揺れる音でかき消されそうになる。 そんな中ではっきり聞こえるミュージックと木の葉がこすれあう音。 不思議な感覚だった。 「木さん、なんか私は今とっても不思議、昔『辛いときこそ笑うんだ。』なんてことを本で読んだけど、今ならなんとなくその気持ち分かるような気がするよ。」 読んだばかりのときはさっぱり意味が分からなかったというのに・・・。 遠い音たちと、近くの音。耳を澄まし、少し自嘲気味に笑いだす。 「辛いよ・・・辛すぎるよ・・・ハハハ・・・。」 言葉とは裏腹にミクの口はにやけていた。 自然と目から涙がこぼれてくる。 それでもミクの笑いは止まらない。 辛く、悲しく、だけど笑わずにはいられない。そんな不思議な感覚。 それで何が変わるわけでもない。明日からまた、なきそうになるぐらいの辛い日々が彼女を襲い、毎夜、枕を涙でぬらすことには変わらない。 だけど、この瞬間ミクの中で何かが変わったのだ。 吹っ切れるなんてすごいことじゃない。 「今日、よく見たら快晴じゃない。」 初めて気がついた気がした。空はとても広く青いものだと。 せみの声が聞こえた。ミュージックが遠くなった。 ミクは木を降りた後、明日も学校に行こうと思った・・・。
エントリ3
チャーのおはなし
つば
この町にはもう3日間も雨が降り続いている。町の中心にある公園では野良犬たちが夜に集まり、雨にもかかわらず今日もたわむれている。その野良犬のうちリーダー的存在であるチャーが言った。 「オレは人助けをすることにした。」 突然言った言葉に他の犬たちは首をかしげた。その中のチャーとよく一緒に公園のごみをあさりに行くジョンが聞く。 「人助けがしたいだと?お前は犬なんだぞ!それにお前は人間に捨てられた犬だろ?それなのに人助けがしたいのか?どういうことだ。」 ジョンが聞くのはもっともなことで、チャーは昔から人間を嫌っていて、自分を捨てた人間を恨んでいた。だが、3日前の夜、チャーにある出来事が起こった。 3日前 土砂降りの中、チャーが一匹で映画館の裏の路地を歩いていた。すると突然目の前に黒い傘をさしたスーツ姿の老人が現れた。チャーは驚き立ち止まった。スーツの老人はチャーの方に近づいてきた。チャーは老人に向かって唸った。すると老人がチャーに話しかけた。 「そう唸るでない、チャー。」 チャーは驚きのあまり唸るのをやめた。人間の言葉が分かったのだから驚くのは当然である。チャーが目を丸くしていると、老人は喋りだした。 「わしの言葉が分かって驚いたか?チャー。わしがこうしてお前に話しをかけられるのも数分のことじゃ。だから用件だけ言うぞ。チャーよ、人間にならないか?お前が人間になって人助けをするのじゃ。どうだ?すぐに答えをださなくてもよい。もし人助けをする決意ができたら、一週間後、同じ時刻にここに来い。一週間の間、この町には雨が降り続くからな。では、一週間後にまっておるぞ。」 話し終わった老人は路地を歩いていき、いつの間にか消えていた。チャーはその夜考え込んだ。 (人間になるだと。ばかな、人間になどなってたまるものか。このオレを野良犬にしたのは人間だ。いずれ絶対に復習してやるのだ。人間になどなってたまるものか。) そんなことを考えているとき、ある考えが浮かんだ。 (人間になれば自分をすてた人間に復習するのも簡単じゃないのか?・・・) だが、老人の言ったことを思い出した。 (老人は人助けをしろといっていたが。人助けなどはごめんだ。人間を憎んでいるのに、人助けをする奴がどこにいるのだ。) その夜、チャーはぐっすり眠った。 次の日、相変わらず朝から雨は降り続いていた。チャーは昨夜の出来事が頭からはなれず、ずっと考えていた。 (馬鹿馬鹿しい。だいたい犬が人間にどうやってなるのだ。昨日の老人は何者だ、夢だったのではないか。オレに人間の言葉が分かるはずがないのだ。あれは夢だったに違いない。夢にきまっている) チャーは昨日のことを忘れようと、ジョンを誘って公園にごみをあさりに出かけた。公園でごみをあさっていると、朝のマラソン中の若い少年が通りかかった。少年はチャーたちを見ると近づいてきた。チャーは唸った。 「うなるなよぉ」 少年が言った。その言葉がチャーには理解できた。 (昨日の出来事は夢じゃなかったのか。) チャーは驚き唸るのをやめた。チャーの心臓の鼓動が早くなった。ジョンは相変わらず唸っている。 「なんだお前、首輪しているじゃないか。捨てられたのか。かわいそうに」 少年はチャーを見ていった。少年の目は優しかった。チャーは人間を憎んでいたことを一瞬忘れていた。少年はチャーをなでようとしたが、ジョンが強く唸ったので手を引っ込めた。 「唸るな」 チャーがジョンに言った。ジョンは唸るのをやめて、不思議そうな顔でチャーを見た。少年はジョンが唸らなくなったのでチャーをなでた。人間になでられたのは何年ぶりだろうか。チャーは人間に飼われていたときのことを思い出した。 チャーは小さな女の子にいつも可愛がられていた。そのころ、チャーはその女の子が好きだった。いつも一緒に遊んでいた。チャーは色々と楽しいかったことを思い出していた。そしてふと、捨てられたときのことを思い出した。あんなに可愛がられていた自分が捨てられた原因。それは、女の子を噛んでしまったことだ。いつものようにチャーと女の子は遊んでいた。が、チャーの尻尾をうっかり女の子が踏んでしまった。チャーはキャンと鳴き、とっさに女の子の足を噛んでしまったのだ。チャーは本能的に噛んでしまったのだ。チャーはものすごく後悔したが、女の子は泣き始めた。その夜、チャーは女の子の父親によって、この町の山に捨てられたのだった。 チャーは少年になでられながら、そんなことを思い出し。涙ぐんだ。はっと、そばにジョンがいたことを思い出し。チャーは少年を振り切って公園から駆けでていった。ジョンは何がなんだか分からず、また少年に唸った。少年はたじろぎ、またマラソンをはじめ、ジョンはまたごみをあさりだした。 チャーは自分が捨てられたのが、自分が原因であることを思い出し、人間になぜ今まで憎しみを持っていたのか考え出した。自分が捨てられたのは自分のせいじゃないか、今までずっと人間に裏切られたのだと思っていた。だが実際は自分が悪かったではないか。飼われていた頃が楽しくて、いざ野良犬になったときの辛さが人間に対しての憎しみに変わったのだ。 その夜、チャーはいつもの夜の集まりには参加しなかった。夜の間ずっと映画館の裏の路地で出会った老人のことを考えていた。 (あの老人は何者なのだろうか。よく思い出すと、どこかで会ったような気がする。あの老人に出会ってから人間の言葉が分かるようになった。オレが人間になれるというのも本当なのだろうか。どうしてオレなのだろうか・・・) チャーはいつの間にか眠っていた。 雨が降り始めて3日目の朝。チャーは一匹で町を歩いていた。いろんなところから人間の言葉が聞こえてきた。 小さな子供を連れた母親が歩いてきた。子供がチャーを指差して言う。 「あっワンワン!」 「うん、ワンワンいるねぇ。かわいいねぇ」 などと母親が答えながら通り過ぎていった。チャーは前にも同じ場面に何度か出くわしたことがあったが、今まで人間の言葉が分からなかったために、勝手に自分で人間の言っていることを決めつけていた。 「汚い犬ぅ〜」 「近づいちゃだめよぉ〜」 今までチャーはすべての人間が自分に対して、この手のことを言っているものだと思っていた。しかし、実際人間の言葉が分かるようになって聞いてみたらどうだ。人間とはなんと純粋な生き物だろうか。チャーはもう人間を憎んではいなかった。チャーは、いま周りにいる人間が、昔憎んでいた人間とはまるで違う生き物のように感じられた。そしてチャーは自分を可愛がってくれていた、あの女の子にもう一度会いたいと思うようになった。 チャーは思った。人間になれば会えるじゃないか。人間になればきっと会える。会えるに違いない。チャーは人間になることを決めた。「人助け」も、女の子に会うためならかまわないと思った。人間になるとしたら、犬の言葉が分からなくなってしまうかもしれない。チャーは犬の仲間たちに伝えておかなければと思い、いつもの夜の公園の集まりに参加した。集まりでは相変わらず皆じゃれあっている。 「みんな、聞いてくれ!オレは人助けをすることにした。」 皆は首をかしげる。そして、ジョンがきく。 「人助けがしたいだと?お前は犬なんだぞ!それにお前は人間に捨てられた犬だろ?それなのに人助けがしたいのか?どういうことだ。」 チャーはあまり詳しいことは言わない。犬の仲間たちの中には人間を嫌っている者ものもたくさんいるし、自分が人間になるなどと言ったら、みな騒ぎ出すだろうし、信じないかもしれない。 「とにかく、オレはこの町から出て行くと思う。オレはあと四日でいなくなる。皆と別れるのは寂しいが、あと四日は仲良くしてくれ。それと、人間を嫌っている者もいると思うが、人間はそんなに悪い生き物じゃない。嫌わないでやってくれ。ああ、今日は皆で歌が歌いたいな・・・」 チャーはそう言い終ると歌いだした。皆はきょとんとしていたが、ジョンがつられて歌いだすと、皆が続いて歌いだした。その夜は町中に犬の遠吠えが響きわたった。 次の日から、チャーは犬の仲間たちと過ごす時間をたっぷりと楽しんだ。人間の言葉がしきりに聞こえてきた。チャーは人間を好きになってきていた。時には悪いことを言う人間もいたが、ほとんどの人間はよい生き物なのだと思えた。 雨が降り始めて一週間後の夜、チャーが映画館の裏の路地にいた。もうすぐ老人が現れる時間のはずだ。チャーは暗くて見えにくい路地の奥を目を凝らし、じっと見ていた。すると、暗闇の中からスーツ姿の老人が現れた。老人はゆっくりとチャーのところまで歩いてきた。 「よく来てくれたなチャー。来ると信じておったよ。もうすぐお前の変化が始まる。人間になって目覚めたときは戸惑うかもしれんが、まずこの町の山にある小屋に来なさい。よくお前の仲間たちが泳いで遊んでいる池の近くの小屋じゃ。そこでわしは待っておる。そうそう、服をここにおいておくからな。人間になったらこれを着なさい。では、小屋でまた会おう。」 言い終ると老人は暗闇の中に消えていった。そのとたん、チャーはめまいがしてきた。目の前がぐるぐると回り始め、チャーは倒れて気絶した。 チャーは太陽の光で目が覚めた。雨はやんでいた。チャーは路地で一晩気絶していた。チャーは起きあがろうとしたが、うまく起てない。前足と後足の長さがおかしいのだ。チャーは倒れてしまい、自分が人間になっていることに気がついた。倒れたまま自分の体をまじまじと見続けた。指の関節がウニョウニョと動くし、足の長いこと長いこと。チャーは自分の体を動かすのが楽しくなってきた。そして起ってみることにした。二本の足で立つなど、当然初めての経験なのだから慎重にゆっくりと起った。が、すぐにバランスを崩し倒れてしまった。うまく立てないのも無理はない、チャーは指先だけで起とうとしていたのだ。何度も挑戦していくうちに起ち方が分かり、歩くことも出来るようになった。ジャンプしてみたりして遊んでいると、老人の置いていった服が目にはいった。チャーは今、首輪しか身につけていないのだ。チャーは服を着てみることにした。しかし、どれをどう着てよいのか分からない。チャーはいつも見ていた人間の格好を思い出しながら服を着た。チャーはなかなか頭がよく、とりあえず着ることができた。歩くことも出来るようになったし、チャーは小屋に行くことにした。路地から出てチャーは小屋に向かおうとしたが、いつも見ていた町とは別世界に見え、今自分がどこにいるのか分からず、ときたま目線を低くして場所を確認しなければならなかった。チャーとすれ違う人は、チャーをおかしな目でジロジロと見た。チャーの歩き方が原因だ。背中をぐたっとまげて、手は前にぶらんとたらしながら歩いているのだ。口からは舌をペロッと出し、ハッハッと息をするものだから変に見られるのは当たり前である。チャーは道を間違えながらも小屋にたどり着いた。チャーは小屋のドアを手で掻いた。ドアなどを開けたことがなかったので、ガリガリと掻いた。 「はいってよいぞ。」 中からあの老人の声がした。チャーはそのとき自分でドアを開けなければならないことに気がついた。チャーはドアの開け方が分からない。 「開けてくれ。」 チャーは老人に言った。ガチャっとドアが開き、老人が出てきた。 「よくきたな。ほっほ〜、なかなか良い男じゃないか。しかし、なんだかおかしな姿勢だな、舌もだすな。うむ、まずお前は人間らしくならねばならんな。今日から特訓じゃ。」 老人はそう言って小屋の中に入っていった。チャーも老人に続いて小屋に入った。その日から老人のとても厳しい人助けのための特訓が始まったのである。 そう、ヒーロー仮面3代目青色、そのなも「ブルー・スリー」が誕生しようとしていたのである。
エントリ4
windmill
森岡拓也
私が小学二年生のときだから、あの出来事は十七年も前のことになる。 私は、その十七年の間にいろいろな経験をしてきた。といっても、特別なことがあったわけじゃない。日本に住んでいる私ぐらいの歳の女性ならば、一般的に、普通の、人生であったと思う。 小学四年生で初恋、小学五年生で初潮。中学二年生で初めての彼氏ができて、中学三年生の時にファーストキスを体験。同じ年に、高校受験があって、学区内の真ん中よりも少しレベルが高めの高校に入学。あっちの方の初体験は、高校二年のとき。大学は、実家から電車で一時間程度で通える私立大学に入学した。その日常はそれほど退屈でないにしても、それほど楽しいものでもない。バイトしたり、友達と遊んだり、彼氏とデートしたり。勉強は、そんなにしていなかった。 大学を卒業して、規模で言えばそれほど大きくはない、とは言えそんなにぎりぎりでもない会社に入社。それを期に、実家を離れて一人暮らしをはじめた。仕事は、そんなに大したことではなく、毎日書類とパソコンとにらめっこ。お昼休みには、友達と一緒にお昼ご飯を食べに行って、服、髪形の話、化粧品はどこのメーカーのどの色が好いだとか、たまに合コンの話があったり、上司の愚痴があったり。 こうやってあらためて振り返ってみると、本当に平凡な人生だったことがよく分かる。私が小学二年生のときに経験したあの出来事を、一つだけ、除いては。 私が小学生のときに住んでいた町には、大きな公園があった。本当に大きな公園で、たぶん、野球のグランドが二つ、乃至三つは入るんじゃないかというぐらいの大きさだった。朝や夕方になると、犬を散歩させる人や、ジョギングをする人が、ちらほらと見られた。昼から夕方にかけては、たくさんの男の子が走り回って遊んでいた。夜になると、変なおじさんが出てくるから、暗くなるまで遊んではいけない、と母によく言われた場所でもあった。 その公園には一つだけ変わったところがあった。大きな風車が三つ建っているのだ。風力発電の実験施設か何かであるというのを小学校の社会で習った記憶がある。 公園のちょうど真ん中に立ち入り禁止区域があって、それは、かなりの敷地面積があった。公園全体のちょうど半分くらいは、立ち入り禁止になっていたのではないだろうか?その区域との境界には、金網でできた、とても高いフェンスがあった。おそらく、十メートルぐらいはあったであろう。その向こうが風車のある場所だった。ドーナツの真ん中の穴が風車のあるところで、生地の部分が公園として使える領域という風に考えてもらえばいい。 風車は、風があろうがなかろうが回っていたような記憶がある。地上で風がなくても地上から離れた所では、風というのは常に吹いているものらしい。風車はいつでも大きな羽をゆっくり、ゆっくりと回転させていた。 小学生だった私は、その公園にいた。記憶はそこからスタートしている。前後関係はよく覚えていない。公園で遊んだ帰りだったのか、友達の家に遊びに行った帰りだったのかもしれない。何せもう十七年も前のことなのだ。覚えていることは、その場所が公園のフェンスのすぐ近くであったことと、私が手に縄跳びを持っていたこと、そして、少し離れた正面にロボットが立っていたことだ。 それがロボットであると分かるのは、ロボットらしいロボットだったからだ。体は基本的に金属製、腕や膝などの関節の部分は蛇腹のプラスチックのようなもの。手は、マジックハンドそのもの。目は、非常ベルなんかについている赤いランプ。頭にはアンテナ。お腹の部分には、なんだかよく分からない、タコメーターが二つ付いていた。今にして思えば、どうしてそこまでロボットらしいロボットを作る事ができたのか不思議に思うぐらいだ。 私は、怖かったんだろうと思うが、その姿を見た瞬間に一歩も動くことができなくなってしまった。ロボットは、体を左右に揺さぶりながら、不器用にこちらに歩いてきた。一歩歩くごとに、ガチャガチャと音がした。 ロボットは、私の目の前に立った。ロボットの大きさは、そのときの私よりも少し高いぐらいだったから、百二十センチぐらいの背丈であったのだと思う。ロボットは、そのマジックハンドのような手で、硬直している私の二の腕あたりを、ポンポンと二回、軽く叩いた。 それが何かの合図であるかのように、私の体の硬直は、一気に解けた。 「こんにちは」と私はロボットに言った。 「コンニチハ」とロボットは、いかにも『ロボットらしい声』で応えた。 「あたし、ミカ」と私は名前を言った。「あなたの名前は?」と続けてロボットに尋ねた。 「ワタシノ、ナマエハ、エイチ、ワン、ダブル、デス」 「えいち、わん、だぶる?それがあなたの名前?」 ロボットは「ハイ」と答えた。 「変な名前」と私は笑った。「ここで何してるの?」と私は訊いた。 ロボットは、両目をチカチカと点滅させて、頭のアンテナをクルクルと回し、お腹についている右側のタコメーターの針がピコピコとせわしなく動きだしたその状態が、少しの間続いた。 「ワカリマセン」とロボットは答えた。 「分からないの?」と私が言うと、ロボットは「ハイ」と答えた。 「じゃあ、あたしと一緒に縄跳びして、遊ぼう」と私は言った。 ロボットは、またさっきと同じ状態になった。そして、「ナ・ワ・ト・ビ・ハ、ナンデスカ?」と私に尋ねた。 「縄跳びしたことないの?」と私はロボットに言った。今考えると、当たり前のことで、縄跳びをしたことのあるロボットの方が珍しい。でも、なんと言っても、私はそのとき小学二年生だったのだ。 「じゃあ、あたしが今からやるから見てて」と私は持っていた縄跳びで、何度か跳んで見せた。そして、ロボットはその様子を、目をチカチカさせながら見ていた。 二十回ぐらい跳んで見せた後で、「こうやってやるのよ、分かった?」と息を切らせながら私はロボットに縄跳びを持たせた。 ロボットは、縄跳びをそのマジックハンドのような手で持とうと何度か試していたが、そのたびに上手く掴めずにすぐに落としてしまっていた。私はそれを見て、ロボットの手に縄跳びを結び付けてやった。 「これで跳べるでしょ?」と私はロボットに言った。ロボットは手に結び付けられた縄跳びをしばらく眺めていたが、「ハイ」と答えた。 ロボットは腕を肩から大きく回し、縄跳びをしようとした。しようとしたはずである。でも、腕を回転させる速度が遅すぎたため、縄跳びは頭に付いているアンテナに引っ掛かってしまい、跳ぶどころか上手く回すことさえできない有様だった。 「下手ねぇ」と私は腰に手をあててあきれるように言った。「もう一回、もっと速く回してみて」と私はロボットに言った。ロボットは「ハイ」と答えた。 縄跳びが回る速度は、確かに、さっきよりは速くなった。でも、やっぱり、アンテナに縄は引っ掛かってしまった。 ロボットは両目を点滅させて、「ゴキタイニソエズ、ザンネンデス」と言った。 どことなく、しょんぼりとした感じがロボットの体から滲み出ていた。それを見た私は、ロボットのことがかわいそうになった。今の私だからこそ分かる。そのときの私も含めて、子供という生き物は、とても残酷だ。そもそも、ロボットに縄跳びをさせたのは、私である。ロボットは、縄跳びができなかった。相手にやりたくもないことをさせて、それができなかったら、あきれたり、哀れんだりする。こんな残酷なことがあるだろうか?この文章を読んでいるあなたにだって、自分が踏みつけた蟻が、苦しそうに足を引きずっている姿を見て、その蟻を哀れんだり、挙句の果てには『がんばれ』などと応援したりした覚えがあるはずだ。そのときの私のロボットに対する気持ちは、その状態にピッタリ符合する。 そのときの私が、挙句の果てに、導き出した答えは、「じゃあ、二人跳びをしよう?あたしが縄跳びを回してあげるから」といった物だった。「二人跳び、分かる?」と私はロボットに尋ねた。 「フ・タ・リ・ト・ビ、トハナンデスカ?」とロボットは答えた。縄跳びを知らないのだから、当然の回答であった。 「あたしと二人で縄跳びをするの。あたしが縄跳びをまわすから。いい?いくよ?」と私は縄跳びを持ってロボットと、ほとんどくっついてしまいそうな距離に立った。私は、私の背後から頭上を通過してロボットの背後に向かって縄跳びを回した。縄はロボットの足元に引っかかってしまった。ロボットは跳ばなかったのだ。 「分からない?」と私はロボットに尋ねた。ロボットは、「ハイ」と答えた。 私は、どうやったらこのロボットと一緒に縄跳びができるかを考えた。私が考えている間、ロボットはずっと私のことを見ていた、ような気がする。 しばらく考えた私が出した解答はこうだ。 「いい?あたしが、『ハイ』って言ったら上に跳ぶのよ?分かった?」 「ハイ」 私はさっきと同じように、私の背後から頭上を通過してロボットの背後に向かって縄跳びを回した。そして、「ハイ!」とロボットに合図を出した。ロボットは、打ち合わせどおりに跳んだ。私もうまく跳ぶことができた。わたしが「ハイ!」と合図を出すと、ロボットは跳ぶ。私も続けて跳ぶ。それが何回も何回も続いた。 十回跳んだ時点で、私は一旦、縄を回すのをやめた。 「できた、できた!!」と私は喜んで拍手をした。でも、ロボットは、何も言わなかったし、何もしなかった。 「嬉しくないの?」と私はロボットに尋ねた。ロボットは「ワカリマセン」と答えた。 「分からないって、どういうこと?」と私はロボットに尋ねた。 「ウレシイトハ、ドウイウコトデスカ?」とロボットは私に逆に尋ねた。 私は、とても寂しい気持ちになった。
私の記憶は、そこから一気に不明瞭になる。 そこから、ロボットと何をしたのだろうか? 何を話したのだろうか? どうやって別れたのだろうか? そして何よりも、私は『嬉しい』という感情をロボットに説明できたのだろうか? 私は、ロボットと一緒に縄跳びができたことを、素直に喜んだ。しかし、ロボットは、私と一緒に喜んではくれなかった。そのロボットに感情というものがあったかどうかも疑わしい。あの時の私が『寂しい』と感じたのは、喜びをロボットと共有することができなかったからだ。
私は、来月結婚する。 私は、喜びを感じている。しかし、同時にあの時の私が感じた『寂しい』という気持ちも心の中に存在する。 私は結婚できることを、嬉しいと感じている。しかし、彼はどうなのだろう?と考えてしまうのだ。もちろん、訊けば『嬉しい』と答えるはずだ。でも、彼の本当の感情は、私が知ることはできない。 私は信じるしかない。 私が『嬉しい』と感じているならば、きっと、彼も『嬉しい』と感じているはずなのだから。
私は、書き上げた文書ファイルを保存し、パソコンの電源を切った。 パソコンのファンの音が無くなると、どこかしら重苦しい静かな空気が部屋を包んだ。私は、なんだか憂鬱になった。 コーヒーでも飲もうかと椅子から立ち上がったときに、インターホンが鳴った。 「はい」と私はインターホンに向かって応えた。しかし、向こう側からは何の応答もなかった。 「どちらさまでしょう?」 やはり沈黙。 イタズラかしら?と思いながら、インターホンを切る。コーヒーを淹れるために、再びキッチンに向かう。 再びインターホンが鳴った。 「はい」と私は応える。しかし、またもや沈黙。 私は、仕方なく、ドアチェーンをかけたまま、ドアを少しだけ開けた。 ドアの向こうに立っていたのは、あの時のロボットだった。私が記憶している、そのときのままの姿でロボットはドアの前に立っていた。私は一度ドアを閉めて、ドアチェーンを外した。 「どうしたの?」と私はロボットに言った。他になんと言っていいのか、分からなかったのだ。 「オヒサシブリデス」とロボットは言った。 「本当に久しぶりね。どうしてここが分かったの?」 「ワタシハ、ロボットデスカラ」とロボットはよく分からないことを答えた。私は、その答えに、小学二年生だったあのときのように笑った。 「立ち話もなんだから、入ったら?」と私は部屋に入るようにロボットに勧めた。 ロボットは、目を点滅させて、アンテナをクルクルと回した。その姿も、あのときのままだった。 「ザンネンデスガ、アマリ、ジカンガ、ナイノデス」とロボットは言った。 「そう、それは残念ね」 ロボットは、マジックハンドのような手に持った、どこかで摘んできたのであろう花を、私に差し出した。 「これを私に?」 「ケッコン、オメデトウゴザイマス」とロボットは言った。 「ありがとう。どうしてそのことを知っているの?やっぱりそれも、ロボットだから?」と私は花を受け取りながら言った。 「ソウデス」とロボットは答えた。「ワタシハ、アナタニ、アウタメニ、ココニキマシタ。アナタガ、ケッコンサレルトイウジョウホウヲ、キイタカラデス。ジョウホウヲ、ニュウシュシテ、スグニ、ワタシハ、アナタノトコロニ、イカナケレバト、カンガエマシタ」 「どうして?」 「アナタガ、オシエテ、クレタカラデス。ウレシイトイウコトハ、アイテト、ダキツキタクナルコトダ、ト」 ロボットはそう言うと、私の腰に手を回した。それは抱擁というには、いささか不恰好すぎたが、嬉しいという感情を表現するには十分であった。私もロボットの体を抱擁した。 「ありがとう」と私は言った。 「ワタシハ、ウレシイデス。アナタモ、ワタシニ、ダキツクトイウコトハ、ウレシイノデスネ?」とロボットは私に尋ねた。 私は、涙が頬を伝うのを感じながら、うん、とうなずいた。 昔の私の方が、自分の気持をうまく表現できていたのだ。 うれしいという感情を伝えるのは、そんなに難しいことじゃない。考えることでもない。 次に彼に会ったら、彼に抱きついてみよう。きっと、彼は私を抱きとめてくれる。 「デハ、ソロソロ、オイトマシマス」とロボットは言った。 「もう行っちゃうの?」と私は、涙を拭きながら言った。 「スミマセン。ジカンガナイノデス」とロボットは、謝った。 私は、ロボットの頬の部分にキスをした。 「また、会いに来てくれる?」と私は、ロボットの目を見ながら言った。 ロボットは、目を点滅させて、アンテナをクルクルと回した。 「モチロンデス。アナタノ、コドモニモ、アイタイデス」とロボットは言ってくれた。 私は少し笑って、「ありがとう」と言った。 「デハ、マタ。アウヒマデ、オゲンキデ」ロボットはそう言って、私に背を向けて歩き始めた。 「またね。バイバイ」 私は、そう言って、ロボットの背中に、手を振った。
エントリ5
鍋奉行
ごんぱち
「そ、そんな、アホな……」 てっぽう屋竜次はがっくりと畳に膝を付く。 布団に横たわっていた侍の顔から血の気が完全になくなり、下が弛んだせいか糞尿の臭いが僅かに洩れて来る。 (アホな。仕込みは完璧やった。死ぬわけ) だが、目の前の死体は、何よりも雄弁に竜次の失敗を語る。 頭の中が冷たく、表の店の喧噪が、ずっと遠くに聞こえていた。 「えろう……すんませんでした」 竜次は連れの侍に向かって、畳に額をこすりつける。 「首なら好きなだけ切ってんか。けど、奉行所には、ワイだけが悪かった言うてくれはりませんか。女房子供や使用人まで罪人扱いされるんは、あんまりや」 侍は黙って刀を抜いた。 竜次は目を閉じて、首をすくめる。 だが、いくら待っても、刃は竜次の身体に降りて来なかった。 「お侍、はん?」 竜次は片目を開ける。 いつの間にか、侍は刀を収めていた。 「貴様を斬って捨てたところで、仏は生き返らん」 穏やかな口調だが、ぞっとするほど冷たい目をしていた。 「お主、江戸に招かれておったな」
江戸城の奥座敷。 座敷の隅で毒味役二名が箸を付け、その後将軍の前に運ばれる。 飯も、焼き物も、汁物も、遠い廚から持って来られる全ては冷めて、湯気が立つ事はない。 将軍が、一箸二箸付けた皿は、すぐに下げられていく。家中の者に下げられるとはいえ、贅沢には違いない。 毒味役が、ふと訝しげな顔をする。 食が進んでいない。一箸も付けられない皿が多い。 「今日は腹具合が優れぬ」 言い置いて、将軍は廊下へ出た。 小さく腹が鳴った。 将軍は足取りも軽やかに――しかし、足音を立てずに、廊下を歩く。 いつの間にか、紋のない裃を付けた侍が現れ、将軍に付き添っていた。 大奥へ至る長い廊下に、ふいに分かれる廊下がある。 相当に注意してもなお気付かぬそこを曲がって更に歩くと、小さな離れに辿り着いた。 侍は戸を開ける。 中には、座敷がしつらえてあり、中央には珍妙な形の火鉢が、そして上には一人分にしては大きすぎる土鍋が置かれていた。 「お待ち申し上げておりました」 その向こう側で頭を下げているのは、目のギョロリとした、口の大きく、小太りで背の低い侍だった。 「待ちかねたぞ、鍋改方」 「本日は、アンコウにございます」 「アンコウ? フグを所望した筈であるが?」 「フグは殿中御禁制の上、調理の難しき魚。鍋改方総力を上げ、最高の料理屋を手配しておりますれば、しばしお待ちを」 「そうか」 鍋改方・鍋代味善は鍋にアンコウの肝を入れ、煮立つ寸前に引き上げ、将軍に出す。 将軍は汗をかき、フゥフゥ冷ましつつ、それを頬張る。 将軍が、調理したてのものを喰う。当たり前で、異様な光景だった。 「ううむ、旨い。いや、普段が不味過ぎるのだ」 崩れつつも完璧に近い作法で、将軍は箸と口を動かす。 「毒味で冷めた食い物、魚と言えば鯉と鮎ばかり」 「くれぐれも、他の者の前で仰られぬよう」 「愚痴も鍋の前故じゃ」 「こちらも煮えてございます」 「おうおう良い香りじゃ」
ひと月後の晩。 箱形の宝泉寺駕篭が、闇に紛れて半蔵門脇の隠し入口から江戸城内に入り、土間で止まった。 「はぁ……」 駕篭から降りたのは、竜次だった。 「本当に……江戸のお城や」 「こちらへ」 いつの間にか、紋のない裃を着けた侍が現れていた。 「あ、はい」 長く暗い廊下を竜次は案内されるままに歩く。 どれほど歩いたか、分からなくなった頃、一枚の戸の前で案内の侍は足を止めた。 「――てっぽう屋竜次殿が到着いたしました」 案内の侍が声をかける。 『待ちかねた。通せ』 ガラガラと不自然に大きな音を立てて、戸が開かれる。 「うわ……」 思わず竜次は声を上げる。 広い廚だった。 無数の包丁、杓子、鍋、釜、まな板、ざる、水瓶にへっつい。様々な調理道具が、几帳面に整理され置かれている。そして、一人の小太りの侍が、つかつかと歩み寄ってくる。 「名は?」 ほとんど間髪入れずに、小太りの侍は尋ねた。 「へ、へぇ。てっぽう屋竜次いいます」 ギョロ目に少々面食らいながら、竜次は応える。 「店を始めて何年じゃ?」 「二十四年やけど」 「二十五年ではなかったかの?」 「え?」 竜次は指を折って数える。 「いや、二十四年ですわ」 「――ふむ」 小太りの侍は、案内の侍に視線を向ける。案内の侍は無言で頷いた。 「てっぽう屋竜次殿、長旅で疲れておるところすまんのじゃが、フグを傷ませるわけにもいかん。早速取り掛かっていただけないかの?」 「へぇ」 竜次はまな板に向かう。 「あの、お侍様?」 「鍋代と申す」 「……鍋代様。将軍様にお出しするやなんて、ほんまでっか?」 「ほんまじゃ」 少しおどけた顔で、鍋代は笑った。が、そのギョロ目のせいか、何やら化け物に睨まれているようであった。
まな板の上に、大坂の市で竜次が選んだトラフグが用意される。 たすき掛けをした竜次が、出刃包丁を持つ。大坂から持って来たいつも仕事で使っている包丁だった。 「竜次殿」 唐突に、鍋代が声をかけた。 「悪いが、包丁を少し預けて頂こうか」 「いや、けど、慣れた包丁やないと、刃先が狂うよって」 「ちょっと借りるだけじゃ」 「は……はあ」 竜次は出刃包丁を渡す。 「身を切る包丁もあるじゃろ?」 「いっ! け、け、けど」 「それから、突然じゃが、服もこちらで用意したものと替えて貰おう」 「服も、着慣れたものでないと」 「大丈夫。ちゃんと、竜次殿の服じゃ」 篭に下帯まで含めて、着物が一揃い入っている。 「内緒で竜次殿の家から運ばせて貰った。すまんが、これは決まり事での」 着替えを見届けた鍋代は、今まで竜次が着ていた服を部屋の外の侍に預け、竜次の包丁を洗い始める。 「良い包丁じゃの」 「はぁ、まあ、商売道具やから」 「じゃが、手入れが少し悪いのぅ」 「そ、そないな事あらへんです」 「いやいや、突然江戸で料理をして欲しいなんて頼んだんじゃ、動揺するのも仕方ない。面倒かけるのう」 鍋代は言いながら、包丁を軽く研ぎ、柳葉包丁をザルに、出刃包丁をフグのまな板の上に置いた。 出刃包丁は綺麗に洗われた。 ――例え毒を塗ってあったとしても、一滴も残らないほどに。 「おおきに」 竜次は包丁を握って、小さく溜息をついた。
『江戸での仕事、毒を残して料理をして貰おう。勿論、その後の逃げる手引きはする』 包丁を持ったまま、竜次は手を動かさない。 『厨では、あらゆる場所から見張られる事になる。だが連中は、料理については所詮は素人。危険なのはただ一人――』 「どうなされた?」 鍋代が尋ねる。 「ええと、そないにジィッと見られると、手が鈍るんですわ」 「おお、これは失敬したの」 鍋代が少し離れた場所で、野菜を切り始める。 だが、その視線はさり気なく竜次に向けられていた。 竜次はフグの背に包丁を当てようとする。 「ああ、竜次殿。武家ではあるがの、ここでは気にしなくて良い。いつもと寸分違わぬように頼みます。腹開きで」 「は……い」 竜次はフグの腹に包丁を入れ、手際よく腸を取り出す。 その動きには一分の無駄もない。毛ほどの傷を付ける事もなく、腸も肝も卵巣も皮も確実に取り除く。 瞬く間に、フグは白い身に切り分けられた。 「残りも頼む」 鍋代が、後九匹のフグを差し出す。 「そないに使うんでっか?」 「竜次殿の店だと、五匹を混ぜておったの」 「へえ……」 竜次はフグを次々に捌いていく。その熟練の手は、意識もなく動く。 「はあ、出来ま――」 「すまないが、包丁を置いて三歩下がって貰おうかの」 「え?」 「さあ、ひい、ふう、みい!」 鍋代の声に追い立てられるように、竜次は下がる。 「すまんの」 鍋代は、今し方捌いたフグのうち、最初に捌いた二匹と、最後に捌いた二匹を取って捨てる。 「!」 「すまん。竜次殿を信用しておらぬ訳ではないが、手はどうしても、最初と最後に乱れるものでの」 「いや、かまへんです……」 「すまんの」 鍋代は取り出された腸を並べる。 「何してはるんです」 「肝が半分足りんの……」 「いっ!? あ、ここ、ここや」 竜次は、足元の床を指さす。 「うっかり切り飛ばしてもうたんや。あは、ははは」 「おお、それは気付かんかったの」 拾った肝と腸を、鍋代は箱に入れる。 それから、その箱とまな板を、どこからともなく現れた侍に手渡す。 直ちに代わりのまな板が用意された。 「さ、次を頼む」 すっかり洗い終えた包丁を、鍋代は竜次に手渡した。
大きな皿にフグの身が並んでいく。 厚めだが滑らかに切られた白い身が、皿の模様を浮き上がらせる。 「大したものじゃの」 感心した風に鍋代は頷く。 「いや、なんも。こないな高そうな皿、使うんは初めてですわ」 竜次は頭を掻く。 ――その時。 髷に中指が触れた。 中指に鬢の油が付く。 そして、次のフグのひと切れを置く時、中指は皿を撫でた。 撫でた位置は、皿の模様の正面手前。 毒味役が決して箸を付けず、将軍が必ず喰うであろう場所。 早鐘のように鳴る胸を押さえ込み、竜次は次の身を置いた。 「竜次殿?」 ふいに鍋代が声をかける。 「はひっ!?」 「火はどのぐらい通せば良いかの?」 「え、ええと、せ、せやな。生でも喰えるもんやから、身が白ぅなって、チリチリしたらええと思うわ」 「なるほど。タラと同じ要領じゃの」
「おお、待ちかねたぞ、てっぽう屋」 調理を終えた竜次が案内された座敷には、紋のない裃を着けた侍に脇を守られて、将軍が座っていた。 将軍の前には、フグの皿、野菜の皿、そして火鉢にかけられた土鍋が置かれている。既に火は起こり、煮立たぬ程度に温められた土鍋の蓋の穴から、湯気が吹き出していた。 その鍋の前で、鍋代が火加減を見ている。 「遠路ご苦労。礼を言う」 将軍は鍋の方が気になる様子で、少々早口になっていた。 「あ、え、えと、おおきに、ホンマおおきに。ゆっくり食べたってや」 「ふふふ。愉快な男だな」 「左様でございますのう」 笑いながら、鍋代は土鍋の蓋を取る。 「……どでかい鍋やな?」 「皆で食べられる工夫での」 鍋代は、手際よく野菜やフグを入れる。 「皆?」 鍋代は視線を座敷の隅に向ける。 そこには、侍が二人、膳の前に座っていた。 「兄弟か何かで?」 「毒味役じゃ」 煮すぎず、しかしきちんと火の通ったフグを取り、毒味役に渡す。 毒味役は、それを食べる。 一連の動作は、竜次の目にすら手際よく自然に見えた。
「変わり、ございませぬな」 四半刻後、医師が毒味役の診察を終え、下がった。 「お待たせしましたのぅ」 じっと鍋と、天井と、その周囲に視線を向けていた鍋代が、微笑む。 鍋代は鍋にフグを入れる。 毒味役の位置にまで控えた竜次は、鍋代の手をじっと見つめる。 まだ、大皿の手前側の身ではなかった。 鍋代のギョロ目は鍋から離れる事はなく、絶妙の煮具合で引き上げられる身は、純白を残しつつ出汁の味わいを過不足なく纏う。 熱いものに慣れていない将軍は、それを少し長めに吹き冷まし、口に運ぶ。 「む……」 一瞬、静けさが訪れる。 ぷつぷつと鍋の出し汁が音を立て、時折火鉢の炭がはぜる。 その静けさを崩すように、二度、三度、将軍の咀嚼する音。 「うまい」 また、静けさが訪れた。 今度の静けさの方が、長かった。 静けさを破ったのは、鍋代だった。 「次が煮えてまいりました」 鍋代の真剣な表情に、ほんの一瞬、これまで一度も見せなかったような、嬉しげな笑みが浮かんでいた。 竜次は彼らを見つめる。 満足げな将軍、嬉しそうな鍋代。 (半刻もしたら) 無邪気とも言える顔で、将軍はフグの身を頬張る。作法を少し崩して、どんどん貪り喰う。幸せそうに。 (駄目や) 竜次はフグの身の残る大皿を凝視していた。 (あないに嬉しそうに喰う人を) 立ち上がり、大皿をひっくり返す。それだけで良い。調理に失敗したのを思い出したと言っても良い。 だが、竜次の足も、口も動かない。 妻と子が、ズダズダに切り裂かれる光景と、フグを捌く時の光景が重なる。 ――鍋代の菜箸が、皿の正面の身を取る。 「……ぁ」 竜次は微かに声を出しかける。 だが、誰も気付く者はいなかった。 身は、煮られ、引き上げられ、将軍に。 鬢の油に混ぜられた毒は、かの侍から渡されたフグ毒を更に凝縮したもの。煮れば多少毒は溶け落ちるが、鍋代の引き上げの早さなら、充分に致死量が残る。 「本当に、うまい」 将軍は、フグの身を頬張った。 (喰わせてもうた) 次のひと切れ。 その次のひと切れ。 そして、大皿の上から身は完全になくなり、見事な模様が現れた。 「うむ、旨かった。礼を言うぞ、てっぽう屋」 将軍は腹をさすり、いそいそと座敷から出て行った。 「さあ、片付けますかの」 「ええと、ワイは急ぐんで……」 竜次が座敷から出て行こうとした時。 「急いどるようじゃったのに、引き留めて悪か――おっと」 大皿を持ち上げた鍋代が、ほんのすこし体勢を崩した。 と、大皿に僅かに溜まっていた水が、こぼれ落ちた。 「……水?」 竜次は目を見開く。 「ああ、やはり出てしまったの」 鍋代は苦笑いをする。 「出来るだけ、味が抜けぬよう洗ったのじゃがの」 「洗った!?」 思わず竜次は怒鳴っていた。 「将軍様に出す直前に、食材と食器に鍋は、全部拙者が一度洗う事にしておるんじゃ。味を落とすような真似をしてすまんかったの」 「そ……そうでっか、はは。はは、あはははは……」 竜次は崩れ落ちるように笑った。
廁の床の一部が開き、隠し通路が現れた。 「……あのお侍の言うてはった通りや」 竜次は通路に入る。 と。 「しくじったか」 影にいたのは、竜次の店に現れた侍だった。 「……どだい無理ですわ」 竜次は溜息をつく。 「鍋奉行、鍋代味善、か」 竜次の腹には、侍の小太刀が深々と突き刺さっていた。 「一つ……訊いてええか?」 「なんだ」 「あのお侍、本当に、ワイのフグで……死んだんか?」 血が溜まっていく。 「いや。貴様を引き込むため、持ち込んでいた毒をのんだだけだ」 「味は、どやった。あんさんも、喰うたろ?」 「うむ、旨かった」 「せやろ……将軍様も、褒……」 竜次は膝をついて、そのまま突っ伏した。
ずぞっ。 夜啼うどんの屋台で、鍋代はうどんをすする。 「旦那、何だかご機嫌ですね?」 「ふふ、お勤めが上手く行ったもんでの」 「なるほど」 「しかしこのうどん、まずいのう。汁が塩辛いばかりじゃ」 「鰹節の一掴みも入れりゃあそりゃ味も良くなるでしょうがね、こちとら商売でやってますんで」 「そうじゃのお……」 ずぞぞぞぞっ。 「まあ、残ったうどんをおみおつけの残りに入れるなんてぇのは旨いんですが、店にゃあ出せねえですし」 「おみおつけ……」 ずぞぞっぞぞぞっ。 「……なるほど、案外、鍋の残り汁でも合うかも知れんのぅ」 湯気が、満月をおぼろにしていた。
エントリ6
わたしたちの
るるるぶ☆どっぐちゃん
柱の一つが、半ばで折れていた。 空を見上げる。柱についた色とりどりのネオンサインがちかちかと空を埋め尽くしているが、折れた柱の先にだけは真っ黒な夜空が見えた。こいつが折れることも、あるもんなんだな、と思った。断面の複雑な形状からは、どのようにして折れたのかは全く解らなかった。コンクリートの欠片が、辺りに一面に散らばっている。 ともかく僕は道を歩き続けた。欠片は道の上にまで及んでいた。蹴飛ばしながら歩く。からからから。蹴飛ばすと欠片は、そのような音を立てて何処までも転がっていく。からからから。からからから。大きなものも小さなものも、コンクリートの欠片は同じような挙動を見せて転がっていく。 道は次第に暗く、狭くなっていった。コンクリートの欠片などは、すぐに見えなくなった。迷っていたのだ。そしてその当然の帰結として、僕は行き止まりに辿り着く。 行き止まりには、女のポスターが貼られていた。 壁一面を使った大きなポスターである。暗がりに慣れた目に、鮮やかな色彩が眩しかった。 「メルドゥ! メルドゥ! メルドゥ! メルドゥ!」 ポスターにはそのような文字が沢山印刷されていた。文字は薄いピンクの蛍光色だった。年若い少女が履く下着の色はこのようなものじゃあないか、と考える。 「メルドゥ!」 女は半裸であった。ショールのような良く解らないひらひらとした布が、胸や股間をかろうじて隠しているだけだった。ポスターの隅には見慣れたロゴが描かれている。どうやらティシューの宣伝ポスターであるようだった。 「やあ」 声がした。 「ここだよ。ここ」 声は不意打ちのように頭上から聞こえた。見上げる。壁の向こう側には沢山設えられた螺旋階段が印象的な大きなビルが立っていて、その五階に、男が居た。 男はベランダの手摺りに身をもたれさせ、僕を見ている。 「解るかい?」 男の声が狭い路地の中に響き渡る。 「ここに居るんだが。解るかな?」 高圧的な響きを持った声だったが、嫌いでは無かった。 「解ります」 僕は答える。 「そうか。良かった」 男はそう言うと、屈んで何かを拾った。 「君、これでも使いなよ」 そして男はこちらへと、その長細いものを投げた。 男が投げたのは傘だった。傘は空中でぱん、と乾いた音を立てて開き、ゆらりゆらりと落ちてくる。薄いクリーム色の地に、濃い緑色と茶色のストライプが所々に施された傘だった。雨などは降っていないからその模様を、僕ははっきりと見ることが出来た。 僕は手を傘に向かって伸ばす。静かに回りながらゆっくりと落ちてくる傘を捕まえるのは、非常に簡単だった。小鳥を逃がした時はこんなではなかったな、と思った。小鳥はくるくると旋回しながら、空の果てへと飛んでいった。非常に滑らかな、飛行機やヘリコプターなどとははっきりと違ったその挙動は、実に魅力的なものだった。捕まえることなど考えず、僕は見とれた。隣に住んでいた女の子が飼っていたものだった。 「どうも」 僕は傘を持ち、男にそう礼をする。 「ねえ、何をしてんの?」 がらがらがら、窓の開く音がし、男の背後から光が溢れ、そしてテレビの音と共に、甘ったるい女の声が聞こえた。 「ねえ、どうしたのよ? なにをしているの?」 「なんでもねえさ」 「ねえ、はやくこっちにいらっしゃいよ。あたし、さむいわ」 「今行くよ」 男はそう答えると、部屋の中へと入っていった。がらがらがら、と音がし、テレビの音が消え、そして光も閉じた。 僕は傘を片手に、女のポスターを見上げる。 ポスターは見れば見るほど見事なものだった。女は美しく、これ以上無いほどの幸せそうな笑顔であるし、デザインも優れたものだった。しかしそれでもここが行き止まりには違い無い。僕は振り返り、来た道を戻る。 くるくると迷いながら歩く。急に路地裏の暗がりから抜け、明るい道に出る。上空まで伸びた柱がずらりと並ぶ通りだった。 柱に取り付けられたネオンサインが音も無いまま明滅している。さっきと同じところに戻ってきたのだろうか。折れた柱の断面を見つめるが、同じような気もするし、違う気もした。 煌々とネオンの明かりが点いた、まだ折れていない柱の下に、女が倒れている。 女はやたら着込んでいて、ぶくぶくと着膨れたその身体を、胎児のように丸めていた。 「そんなに寒かったかな」 息を吐いてみる。真っ白い息が、雲のように伸びていった。 「寒いか。まあ確かに今は冬だし、寒いか」 女の身体の下には、赤いシミが広がっていた。血だった。女は、刺されていた。 「さて、どうしようかな」 ネオンがちかちかと点滅するたびに、血の表面に映り込んだネオンも色を変えた。血は随分うまくネオンの光を反射するもので、直接にネオンを見るのと殆ど変わることが無かった。 僕は女の身体を抱きかかえ、左右を伺う。 見えるのはネオンサインばかりで、赤い十字は何処にも見当たらなかった。僕はともかく歩き出す。病院らしい白壁のある大きな建物を探しながら、歩き出す。
「なにをしているの?」 女は突然、くるりと顔をこちらに向けてそう言った。彼女の顔が、グランドピアノの蓋に映り込んで二つになる。彼女はグランドピアノの上に、寝ているのだ。 グランドピアノの上で女のキズを縫い合わせている最中に、彼女は目を覚ましたのだった。 「ねえ、あなた、ここでいったい何をしているの?」 「キズを縫っているんですけれど」 僕はそう答える。女はきょとんと僕を見る。 「刺されてましたよ」 僕は手を止めて言う。 「あなた、刺されてました。お腹を。随分と深く、広く」 「あたしが?」 「はい」 「あたしのお腹が?」 「はい。沢山血が出ていましたよ。血は随分とうまく、ネオンサインの光を反射してました」 「そう」 女は起こしていた上体を戻し、ピアノの上に再び横になった。 「そっか。あたしは刺されたか。そうか。刺されたのか。あたしは刺されたのか。道理で、道理で痛いはずだわ」 そう言ってふう、と息を吐き、女はだらりと手を降ろす。 女の指が鍵盤に触れた。 「ていうかなんでピアノの上なの?」 「この建物に、平べったいところがここくらいしか無くて。なんだかこの建物はひどくごちゃごちゃしているから」 僕は止めていた手の動きを再開させる。 「こんなに広いんですけれどね」 「そうね」 女は周りの、ごちゃごちゃと様々なものが雑然と並べられている風景に目を向けた。その中には脱がせた女の服も、一塊りになって置かれていた。女は、実に様々な種類のものを着ていた。脱がせるのにかなり手間取った。ともかく僕は、キズの手当に邪魔そうなものは全てを脱がせた。その結果、女は今、殆ど裸である。 「確かにそうだわ。ごちゃごちゃしている」 女はそう言って鍵盤に指を這わせた。そして彼女はカタカタと鍵盤を鳴らし始める。 メロディーが室内に流れた。 「ピアノ、うまいんですね」 「そうね。毎日練習すれば、うまくなるわ」 「毎日練習したんですか?」 「毎日練習してるわ。昨日だってした。今だって、してる」 「ピアニストなんですか?」 「違うけど」 「そうですか」 そこから暫くは悪戦苦闘が続いた。女の肌はつるつると滑り、なかなかうまく縫い合わせることが出来無かった。血ばかりが沢山出た。ピアノを聴きながら、僕はキズを縫い続ける。響き続けるフレーズは、練習用の単調なものだった。彼女はそれを、ひどく真面目に、滑らかに弾きこなし続けた。繰り返し、繰り返し、弾き続けた。 やっとキズを縫い終わる。僕はふう、と溜息をついた。 「終わりました」 「有り難う、麻酔も無しで縫ってくれて。おかげですっごく痛かったわ」 「ははは。ところで似てますね」 「なにが?」 「キズの形」 僕はボタンを外し、服を脱いだ。そして女の前に屈み込み、身体開いて見せる。 「ほら。似てる」 うっすらと胸部に走る傷跡を、僕は指で撫でた。 「本当だ」 女は自分の腹の傷と、僕のを見比べる。 「本当ね。本当に似ているのね」 僕の胸に走るキズを、女が手でなぞった。 「呆れるくらいに、似ているわ」 「そうですね。呆れるくらいに似ている」 「誰に刺されたの?」 「それが解らないんです」 「そうなの。あたしもよ」 女は手を離し、唇に持っていった。どうやら笑う時に爪を噛む癖があるらしい。人差し指の爪を噛みながら、女は笑った。 「本当に、似ているものねえ」 そう言うと彼女は、僕に身体を寄せてきた。そして僕の肩に両手を回し、僕の胸と、腹を合わせる。腹と胸なので、中途半端な姿勢になった。この姿勢は普通に抱き合うよりも、ずっと接近することになった。 「ほら、見て。見てよ」 彼女は僕を見下ろしながらそう言った。 「ほら、こうやって近くで見てみると、こんなに似ているわ」 「そうですね」 僕達のキズは、近づけてみると実にぴたりと一致して見えた。僕はさすがに驚いた。まさかこんなにぴたりと一致するとは、思っていなかった。 「凄いですね。びっくりだな。まさかこんなにぴったりだとは」 「そうね。本当にぴったり」 「僕らは、もしかしたら同じ人に刺されたのかもしれませんね」 「そうねえ。本当にそんなふうに見えるわ」 そう言って女は笑った。つられて僕も笑う。 傷口は本当にぴたりと一致していた。一つの心臓を共有する二匹の蛇のようであった。 「良い眺めね」 女は照れたように、窓の方に顔を向けた。 窓の外には女の言葉通り、素晴らしい夜景が広がっていた。瞬く星々。瞬くネオンサイン。本当に素晴らしい光景だった。傷跡はネオンの輝きを受けて、白く輝いてみえるのだった。ネオンサインの輝きは傷跡を傷跡では無く、一つの心臓を共有する二匹の蛇のように見せていた。 「本当に良い眺め。凄いわね。あたし達の街は、こんなふうになっているのね」 「そうですね」 「こうやって見て、初めて解ったわ。あたし達の街を、やっと見たわ。本当に、良い眺めね」 「ええ。そうですね。ここからなら街の全てが見渡せる。ていうかそのように設計されてますからね」 「そうね。そうする必要があるのだものね」 なんていっても、ここは発電所の管理室だったのだ。ごちゃごちゃとしているのも、当然だった。なにしろここから、街の電力の全てを管理しなければならないのだから、ごちゃごちゃとするのも当然なのだ。 「しかし飛び込んだところが、まさか発電所だったなんて。済みません」 僕は頭を下げた。 「病院がなかなか見つからなくて。でもまさか発電所だったとは。他にも色々ありそうなものなのに」 「良いよ。病院なんかよりはマシよ」 「そうですね。良い眺めですから。ここからは全てを見渡せますからね」 僕は抱き合ったまま、傷跡をぴたりと一致させたまま、夜景を眺める。街の全てが見渡せた。ネオンの看板をつけたあの大きな柱がずらりと並んでいる。そして、その中で一本だけ、欠けている。ここからはは、それがはっきりと見えた。柱の断面をここから見ると、柱は自重から折れたのだということが、折れたのは寿命だったのだということが解った。それを僕は、何故か少しだけ悲しく思った。 「ここからは、全てが見渡せる。ここにピアノが置いてあって、助かった」 「でもちょっと眩しいわね。ネオンは。凄く沢山あって、凄くきらきらしているから」 「そうですね。じゃあ消しましょうか」 僕はピアノから降りて、システムコンソールの前に立った。薄いクリーム色のコンソールに、茶色と緑と赤のボタンが沢山並んでいる。 「解る? 大丈夫なの? そんなにボタンがいっぱいあって。解るの?」 「大丈夫です。なんとなく見当はつくから」 そう答え、僕は赤色のボタンを押す。 途端に、がしゅうん、と音がして、夜景から全ての輝きが消え去った。 「ほら、当たった」 「本当ね」 「どうですかこれで」 「良いわ。全然眩しく無い」 振り返ると、女はピアノの上でかたかたと震えていた。 「寒いですか?」 「ええ、ちょっとだけ」 「さっきコートを脱がせてしまったからな。コートは血まみれだったからもう着れないし。大丈夫? これ、着てよ」 僕は着ていたジャンパーを女に着せる。 「大丈夫。大丈夫よ。ちょっと寒いだけだから。有り難うねジャンパー。これ、君の匂いがするね。君の匂いがするよ」 女は震えながらぼそぼそと、そんなふうに答えた。 「こらあ」 突然がたん、と音がして、背後の扉が開いた。 「イタズラをしては、いかんよお。ここは大事な場所なんじゃから、イタズラをしては、いかんよお。あれほど言ったじゃろうがあ。イタズラをしてはいかんと、言ったじゃろうがあ」 部屋に飛び込んできたのは緑色の制服に身を包んだ老人で、彼はこの施設の管理人だった。 「駄目じゃよう、本当にこんなことをしちゃあ」 かつかつと靴音を響かせ、彼は僕らに近づいてくる。 「全く。あれほど言っておいたのに」 「済みません」 「触ったらいかん、と言っただろうが」 「そうですね」 「全く」 そう言うと老人はコンソールの前に立ち、ボタンを操作し始めた。複雑な動作を、複雑に繰り返して彼はボタンを押した。ぱち、ぱち、とボタンの操作音が響き続ける。 「あんたかい、さっきピアノを弾いていたのは」 老人はパネルの操作をしながら言う。 「ええ、そうです」 「うまいもんだね。本当にうまいんもんだ。とても見事な演奏だったよ」 「有り難う御座います」 「わしはちっともうまくならん。折角ピアノも買ったんだが」 「練習したもので。あたし、練習したんです」 「練習か。毎日したのか?」 「ええ、毎日です。あたし毎日練習しました」 「そうか。練習ね。毎日練習か。じゃあ、あんたはピアニストなのかい?」 「いえ、違いますけれど」 「そうか」 それきり老人は黙る。 かた。かた。かたん。ぱちん。かた。ボタンの操作音だけが部屋に響いている。 ぱちん。かた。かた。かたん。 僕達は抱き合い、黙ってその光景を眺めていた。 ぱちん。 びゅううううん、という音が響き渡る。 「ふう。やれやれ、だ」 老人はそう言って椅子に座り込んだ。 夜景に明かりが急速に戻っていく。 「やっぱり、夜景はこっちの方が綺麗ですね。比べてみて解ったけれど、こっちの方が、随分と綺麗です。街はこっちの方が、随分と綺麗です」 「そうね。本当にそうだわ」 ピアノから降りながら、女が言う。眩しそうに目を細めながら、窓辺へと歩み寄っていく。 「そろそろ、帰ろう。あたし、そろそろ帰りたい」 「そうですね。幸い傘も、僕が持っていることだし」 雨など降っていないのに、何故か僕はそう答える。 「そう。それは良かったわ。傘があって、本当に良かった」 雨など降っていないのに、何故か女はそう答える。 「素敵な傘ね。素敵な傘で、本当に良かった。素敵な傘があって、本当に良かった」 夜空を、数羽の小さな鳥達が横切っていく。
エントリ7
老人と湖
立花聡
H県北の山中に名もない湖がある。 A鉱山の脇を流れる川を南下すると、大きな一枚岩にさしあたる。その岩を西にいくらか登った所にある小さな湖だ。いや、池と言ったほうがいいかもしれぬ。とにかく、澄んだ水の塊がそこにはあるのだ。 風もない夕暮れには水面は鏡に変わり、覗いた者の姿をうつしだす。赤く憂う色彩でぼうっと浮かび上がり、木の葉や魚の息吹きでわずかでも湖面が揺らぐと、本当に自分が揺れているような錯覚すら覚えるうつくしい湖であった。 その湖を老人が覗きこんでいる。 湖の脇にはこれまた大きな岩がおかれ、表面は日中の陽光のせいで熱い。老人は四肢を岩にしかと固定して、首をのばして湖面をうかがっていた。眼下は静かにたたずみ、波紋ひとつ立たない湖面。銀を溶かして作った床のようにかがやいている。まるで底などないように鈍くひかり、薄いが確かなベールが丁寧にひかれているようでもある。見つめていると吸い込まれそうなかがやきと、実際の眼下の高さに目眩を感じ、このままふらふらと落ちて行きたくなる。老人はそのたゆった引力に気が付くと、どうしても顔を戻してしまうのだ。それから岩の中央にあぐらをかき、落ちつきなく右足を細かく震わせた。 老人は湖にその身を投うじようか迷っている。誰も訪れることのないこの場所でひっそりとその人生を終わらせようと考えているのである。 迷っているのは、死に関してではない。老人の腹はとうに決まっていた。妻に先立たれ、息子は彼が二十歳のときに上京してからそれきりである。四十年近くも仕事一筋で趣味らしい趣味もあらぬ。友人は次々と死んで行く。老人はもう未来になんの希望もなくなっていた。ただ真白に煙がかかった短い道が終焉を待つばかりである。それならばせめて自分で終わらせてやろうと老人は心を決めたのである。 しかし、いざ事に挑もうとなると足が進まぬ。未練などどこにもないはずなのに、体が動かぬ。安直に言うならば、それは死に対する恐怖である。未知の行為が持つ独特の空気のせいである。 数週間、悶々と心を低回し、最後に選んだ湖という手段である。老人はここに来るのは、子供の時分以来であった。老人は川を下るとき、もしも湖がなくなってしまったなら自殺をあきらめようと考えていた。また、以前のようなうつくしさが失われていたならば、考え直そうとも思っていた。そこにきて、心の景色とは寸分違わぬ景色があったのだから、老人は驚いた。湖のまわりを樫やブナがしげって、無数の葉が、そこかしこに散らばり、枯れ葉に転じ、それがまた周囲の瑞々しさを強めているようであった。微かな違いなど、心に浮かばないほどの力強さを秘めているのであった。老人が驚いたのは、その景色のせいだけではない。自分の意志が不意に結論へと導かれた驚きであった。 作者はさっき「老人は湖にその身を投うじようか迷っている」と書いた。しかし、それは正しい表現ではない。老人は死にたいのではない。死ぬしかないと考えているのだ。老人はできることならば生きたいと思っている。従って「老人は生きる理由をさがしている」というのが正確な状況であろう。今、老人の世界は絶望的であり、地獄的である。明快なできごとなどあらぬ。あるのは、淀んだ暗いトンネルである。老人はそこに光を差し込むことを望んでいた。老人はずっと理由をさがし続けていたのだ。それは自己の心のなかであったり、また湖であったり、先に行った妻の幻影であったりするのだが、老人はそのどこにも理由を見つけることができなかったのだ。結局、湖を今、覗き込んでいる。ここまで追い詰められても、なお理由をさがしているのである。 老人はその為に自らの心の機微を丁寧になぞろうとした。一瞬の思いつきになにか見つかるのではないかと、期待した。しかし、辿れば辿るほど見つかるのは衰微していった人生のかけらばかりであった。ここにきて、老人はその事実に打ちひしがれた。いよいよ身を投げるという局所に至ってしまいそうであった。老人はそれでももう一度という思いが立って、体を岩にまかせた。 見上げると、無数の葉が夜空を飾っている。上空には風が吹いているのだろう。さよさよと気持良く葉が擦れあう。右腕には真っ赤な蚊のさされた痕ができていた。 そのとき、老人は湖面に響く奇妙な音を聞いた。老人は体をゆっくりとおこし、音の方向を見るのだが、既に日はとっぷりと沈んでしまい、目の端にもなにかを捕らえることはできい。気のせいかとも思って、体をもう一度横たえようとすると、今度ははっきりとがしゃがしゃという音がきこえる。闇の中に風が起こす音とは明らかにちがう、しっかりとした葉の擦れる音である。老人は驚き、眼を凝らすのだが、やはりなにも見ることはできない。なにか得体の知れないものに遭遇するかも知れないという思いは、当初の驚きから、とらえどころのない恐怖に変わっていった。 熊やもしれぬ。夏に入ろうかというこの時期に熊が現われても不思議ではない。老人は目をしっかりと音のする方向に見据えながら、固い体をほぐすように立ち上がろうとした。 しかし老人は恐怖に体が掴まれていながらも、どこか思いが軽くなっていた。 死を意識しながらも、不意の死は嫌なようである。むしろそれは、老人にとって待望の一瞬の光であるかもしれなかった。凝り固まり、静態せざるを得なかった行為から体が解放されたのだ。熊になぶり殺されるのは本意ではないだろう。そう思って、老人は自らを納得させようとした。 老人はそのとき、男女の話し声をきく。衣擦れのような音と、かすかな会話の切れ端をつかんだようである。もうあたりは闇につつまれている。湖はもうすっかり光を失い。時折雲間からうかがう月光が、かすかに反射する程度であった。音が近づくたびに、老人はそれが人間の話し声であると確信する。しかも、若い男女のような様子である。 老人は困惑した。男女であるなら、このままここを立ち去るべきか、それとも彼らが離れるまで待つべきか、である。どうやら老人のことを彼らは気づいてはいない。老人は持ち上げた体を再び、小さくたたみ中腰になると、両手を岩につき、あちらの様子を探った。今の時期であれば、恋人同士がこをおとずれたとしても不思議ではない。明瞭となりだした頭がそう言い、きっとただの者の恋人同士であろうと高をくくった。 勢いをましていた恐れの炎は急速に力をうしない、代わりに老人の胸には男女に対する興味がわき起こる。つつみこむ恐怖と好奇心は半々に老人の体を動かした。一体、どのような奴らなのか、影の形だけでも、見てやろうと思ったのだ。 老人は音を立てないように留意しながら、岩をおりようとした。階段のように大小の岩が折り重なっており、所々、すべりやすい苔になっている。無造作にのびた木々の葉も、岩を覆い隠すように重なりあっている。老人は慎重に枝を持ちながら、やもりのように静かに素早く男女の背後に回ろうとした。そして、男女が老人が先ほどまで悩み続けていた岩の袂までくると、老人は湿った地面に足を下ろし、彼らに気づかれぬようにうしろをとり、そして手軽な草影にその体を器用にしまいこんだ。 あたりは夏特有の、むせ返るような湿気に満ちており、その湿気が草のあの粘っこい匂いを振りまいている。両膝を地面につけていると、自分の汗と地面の水分が混ざるように膝先を湿らせる。周囲は男女の沈み込むような足音しか聴こえない。老人は自らの出す息遣いさえ忘れているようであった。しわがれた両眼の皺をのばすように、大きく目を開き、耳をこらす。 さきほどまで、岩に横たわっていたせいか、体の節々が痛い。老人は右腕の痕を掻きむしりながら、男女の影を見つめた。年の頃は、十代から二十代、いや男のほうは三十に乗っているかもしれないように思える。声の具合から男のほうが年齢が上であることは計れるが、何を喋っているのかは、聞き取れない。ただ二人の揺れる影が互いにぶつかったり離れたりする様子から、それは恋人同士であるように思えた。老人の心は恐怖はきれいに吹き飛び、好奇心だけが大きくなっていく。腕時計をみると、微かに八時と文字盤はひかっていた。 彼らの影と老人の距離は、わずかに数歩を数えるほどまで近づいた。老人は体を硬直させると、二人の影の動きを追った。影はそのまま湖についたようである。老人も狡猾な猫のように後を追った。 老人は距離を保ちながら、ちょうど二人の後方にたくましく育ったブナの木が二本ならぶ、場所に回った。老人はそのうしろに姿を隠すと、男女の様子をしげしげと見つめたのだった。 反射する月光に女の横顔がうつった。初々しさがのこるその横顔は、容易に彼女が十代であることを想像させる。光りのわずかな違いから、皺ひとつない、滑らかな質感がつかめる。男はさっとその頬を、指先でなでたようであった。 二つの影は、湖の先まで来ると、急に距離が近くなり、重なりあう。また、反射していた湖面と二人が重なり、逆光となった。一つになった影が、左右に広がったり、縮んだりしている様子は、昔みた影絵のようであった。その一端は女性らしい細い線と、もう一端は太めのたくましい線である。まるで対の陶器のような曲線を描き出している。更にそれをさえぎるような木々の滑らかなのび方が彼らのまわりを飾り立てている。その光景は老人に一種の絵画を見たような感慨にひたらせた。普段なら好んでみるような姿ではないはずなのに、いま老人は線がゆらりゆらりと、くっついては離れる模様を無心で魅入っていた。老人はブナの木に体をまかせ、首をにゅうっとその間に差し込み、体を二人の方向に固定した。かさかさとしたブナの皮を左手で触っている。汗ばみはじめた掌は無意識にブナをそっと離れ、右手の刺された腕をなでた。 あれは男の腕であろうか、少女(老人はその女の姿に神聖さを感じ、処女のような柔らかな印象から少女であると思い込んでいる)の胸元に節だった指先を先端にするりとすべっていく。少女はその指先が入るとともに、はっきりと顎の線がうかがえる。口元が開く。二人の早い息遣いとともに、鼓動までこちらに届いて来るかのようである。そして少女の指先はもてあそぶように男の手を握り、胸元から遠ざけた。少女が艶かしく笑ったように見える。男はその笑顔を確認すると、少女の胸に顔を当てがい、腕で少女の腰元をしっかりと抱いた。少女は愛おしむように、男の頭をやさしく抱きしめた。 老人はうつくしいと思った。男女というものはすばらしいものであると思った。繊細な線美がその姿の裏にあることを初めて知ったのだった。 少女は男の髪をなで、男はそれに呼応するように頭を徐々に持ち下げ、手元は少女の胸元にある。少女はといえば、顔を左右に恥ずかしそうに振っているのだが、男の行為を確認する一瞬だけ、しっかりと目を向けているようである。その交互に顔を振る様に、ちらりと彼女の顔の稜線がうつるのだが、鼻先がちょんととんがり、唇が官能的に膨らんでいる様子であるので、老人は少女の女の様をみたようで、それがまたうつくしかった。 老人は妻の姿を思い出した。今までどうしても、浮かべることの出来なかった記憶である。妻の官能に歪んだ顔が、不意にいま浮かんできたのだ。二人を見たからではない、影を見たからである。黒いはっきりとはしないシルエットだからこそ、そこに自分を投影することができたのだ。老人はその想像に酔った。若い自分と、瑞々しい妻がそこにはある。 老人の首元に冷たいものが落ちた。老人は軽い狼狽と共に音もなくそれを払った。それは軽い葉であったようであった。 すると、老人は急に勇気が湧いてきた。それは先ほどまでとはまるで逆の勇気である。今までどちらにも踏ん切ることのできなかった理由のない勇気である。つまり、単なる感傷ではないかと、老人はふとそう思ったのだ。 老人は可笑しかった。 さっきまで生きるか死ぬかを考えていたはずだ。それがどうだ、いまじゃ、あの二人を覗き見ることに心がいっぱいではないか。老人の顔がぼろぼろとほころんできて、二人に背を向け、ブナに体を立て掛け、ゆるんだ口元を押さえた。 背後から少女の嬌声がひびくなか、老人は眼前に広がる、夜の山をながめた。二人の息遣いの他はなにもない夜である。数えきれない木々がしげり、そこから葉がのび、月光をさえぎっている。その向こう側から、涼風が老人たちを目掛けて吹いて来た。心持ち強い風音がざざざっと、波のように迫って来る。老人にも二人にも波は均等である。老人の薄くなった髪を通り抜け、そのまま湖に走って行った。 少女がきゃっと、声を上げた。男が、不満そうな声を出す。振り返ると、どうやら少女の衣服が風に流されたようである。湖の側を二人で見ていた。彼らは、衣服の行方をさがしているようであった。老人はその先にちらりと視線をうつすと、すぐに目をもどした。すると視界の端に、かすかなに彼女のであろう白いシャツを見つけた。ふわりと湖面に浮かんでいる。彼らからは見えない位置なのだろう。二人はまだあたりをさがしている。老人から見える白いシャツは月明かりをいっぱいに吸い込んで、輝いているように見えた。まるで空中に浮かんでいるようであった。先ほどの岩からながめると、きれいだろうと思わせた。 しゃがみ込んでさがす少女を男は強引に立たせ、抱きしめる。少女はシャツが名残惜しそうに、首をまわすのだが、男の腕にかかる強さに、あっと声をもらすと、少女も腕を男の背中にもどした。それを見届けると、老人は静かに踵をかえした。 老人はつま先をたてるように地面に細心の注意を払いながら歩き出す。葉のすきまから、ささやかな光が差し込んで、足下を照らしだし、獣道を導いている。老人はその道をたどりながら、はっきりとした足取りで歩いた。靴裏から冷気のような気配が上ってきて心地が良い。男女の音が遠ざかるほど、川の流れがはっきりとしてくる。老人にとって代わり映えのしない、音色であるはずなのだが、今晩はやけに鮮明で、そして新鮮であった。老人は川につくと、ひときわ大きな岩に体を寄せると、あぐらをかいた。尻とふくらはぎが微かに痛んだ。その痛みが無性に愛おしくなって、老人はそこを丁寧にさすった。 川がよどみなく流れている。老人はその音に体を任せるようにほーっと、ひときわながい息をはくと、頭上に広がる空を見上げる。雲はどこかに流れて行ったようで、天井には星空である。老人は随分と忘れていたものを見るかのように、珍しそうに目を細めた。満月であることにその時、気づいた。 老人の脳裏にはかつての妻の横顔が浮かんでいた。
エントリ8
『ジ・ハード』
橘内 潤
「ハッハァ、そんなんじゃ当らないゼ!」 浄銀弾がイズィの残像を撃ち抜いて、床に積まれた肉袋に穴を開ける。黒く濁った血が噴き出して、毛足の長い絨毯を浸していく。ゴシック調の館は、イズィの食べ残しで埋め尽くされていた。そのほとんどが恍惚の表情で干乾びていて、血を流している塊はたったいま生産された肉袋――サイードの同朋で、つい先刻まで生きてショットガンをぶっ放していたばかりの、できたてほやほやだ。 「くそ……悪魔め!」 撃鉄が空振りして、慌てて装填する。銃にとっての最大の隙。だがイズィは、血塗れの絨毯に仁王立ちのままだ。黄金の懐中時計を、わざとらしい素振りで眺めてはにたにたと唇を揺らしている。 「一秒経過、二秒……三秒……おっと」 三十二口径の浄銀弾頭が懐中時計の文字盤を破壊する。 「それから悪魔じゃない。吸血鬼イスラエル様だヨ」 ふいに耳朶を震わせた言葉に、サイードの心臓が跳ね上がる。飛び退きざまに弾丸を叩き込めば、掻き消える残像。サイードは残像を追って、つづけざまに銃を咆哮させる。錬金心肺が唸りを上げて酸素を体中に送り込み、魔導神経系が人外の反応速度で残像を射程に収める――それでも、残像しか捉えられない。 「チッチッチッ。そんな腕じゃぁ、ハエも撃ち殺せないゼ」 声を頼りに振り向けば、イズィこと吸血鬼イスラエルはもとの位置に同じ姿勢で立っていた。生乾きの体液で台無しになった絨毯の中央で仁王立ちしている。深紅の瞳でサイードを睥睨し、一本立てた人さし指でみずからの首筋をとんとんと叩く。 「はい死んだ。今日七回目、通算百と二十二回目だ……もう少し楽しませてくれないかナァ」 大仰な身振りで肩を竦め、溜息を漏らす。 「黙れ黙れ黙れ!」 頭の天辺まで真っ赤にしたサイードは、怒りにまかせて引鉄を引き絞る。セミオート機構の銃は引鉄から指が離れるまで撃鉄を往復させ、あっというまに全弾撃ち尽す。だがイズィには一発として掠りもしない。優雅に身をくねらせれば、まるであらかじめ打ち合わせていた演舞であるかのように、弾丸はイズィのすぐ脇をすり抜けて積み重なった肉袋に穴を穿つ。 「ヒュー、危ない危ない」 吸血鬼にとって、聖別された銀の弾丸は掠るだけで致命傷となる。己という存在の一から十までが呪詛で構成された吸血鬼は、肉体という枷からほど遠い。物理法則を無視した身体能力、治癒能力を誇り、死すらも吸血鬼には近づけない。吸血鬼を殺そうとしたら、その肉体を滅ぼすよりも、その存在の根源である呪詛を滅することを考えるべきである。そのための浄銀弾なのだ。 秘力を込めた銀の弾頭が吸血鬼に触れれば、そこから祓魔式――対呪詛ワクチン――が解放されて、吸血鬼という呪いを解呪していく。そうなれば完全解呪に至らなくとも、治癒不能の傷を負わせることができる。 ――だが、掠りもしなければ意味がない。 サイードの乾いた唇が動く。 「……殺せ」 唯一の武器、浄銀弾はもうない。逃げるという選択肢は始めから捨てている。イズィの紅い瞳から目を逸らさないのは、せめてもの抵抗――抗魔コンタクト越しでも吸い込まれそうな光を放つイズィの妖眼をまっこうから睨みつける。 イズィは大きく息を吸い込み、盛大な溜息を溢す。 「ハァァー、わかってないナァ……サイード、きみたちはぼくの子供たちを皆殺しにしたんだ。そう簡単に安らぎを与えてあげたりするわけ、ないじゃないカ」 「それはこっちの科白だ。イスラエル、おまえは何人、おれの同胞を殺したんだ!」 激昂するサイードに、イズィは嘲笑を浴びせる。 「おいおい、殺したのきみだろ、サイード。きみがその銃で大切なお友達を撃ち殺したんじゃないか……そこの奴らにしたみたいにサァ」 振り向いた先は、折り重なったまだ新しい死体だ。サイードと共に館の玄関扉をぶち破った同胞たちだった。そのうちの何人かは襲撃を予見していたイズィの牙に掛かって吸血鬼と化し、また何人かは至近距離で魅了の魔力を秘めた紅瞳に睨まれて下僕と成り果て、サイードを襲った。そしてサイードの銃弾は、一片の躊躇も見せることなく同胞を肉袋に変えたというわけだった。 「そう――サイード、おまえが殺したんだよ」 「ちがう! おれは救ったんだ。ああするしか奴らを救えなかったんだ。殺したのはイスラエル、おまえだ!」 咆える。イズィは涼しい顔で受け流す。 「いいや、おまえが殺したんだ。なぜって? 殺されそうになったからサ」 反論を許さず、矢継ぎ早に言葉を射掛ける。 「殺されたくなかったから、殺した」 「死にたくなかった。だから殺したんだヨ。仲間よりも両親よりも恋人よりも、自分を選んだんだよ」 「救いつもりなんてなかった。ただ死にたくなかっただけだ。サイード、おまえはそういう人間なんだヨ」
記憶が蘇る――。 幼き日に、親友とふたりで戦闘訓練を抜けだして遊んだ日のこと。 「ぼく、本当は訓練なんて嫌い。でも、そう言ったら怒られるから、ふたりだけの秘密だよ」 親友の言葉にサイード少年は頷いた。サイードは彼の夢物語のような話を聞くのが好きだった。 「ぼくは戦い方よりも、字を覚えたいんだ。本をひとりでも読めるようになって、ぼくみたいに本を読みたがってるひとたちに読んで聞かせてあげるんだ」 夢物語だ、とサイードにも彼にもわかっていた。いかに幼くとも、そんなことくらい理解していた。だから、サイードは彼の夢を聞くのが好きだった。 けして夢で終わらせるまい。いつか戦い方を忘れてもいい日がやってくるときのために、親友の夢を忘れるまい――その思いを胸にしまって、くる日もくる日もつづく戦闘訓練を乗り越えてきた。 けれど――いまその親友は、呼吸を忘れた肉袋となってサイードの視線の先にある。だれよりも争いを嫌い、争いを終わらせるために己の夢を殺してきた男を――親友を撃ち殺したのは、他ならぬサイードだった。 サイードの手には、まだその手応えが消えずに残っていた。
「―――」 サイードの膝が崩れ落ちる。屍から染みでた湿気を吸った絨毯に両膝をつき、まるで神に赦しを乞うような姿勢。 「サイード、きみは悪くない。そう……しょうがないことだったんだヨ」 イズィはいつの間にかサイードの傍にいて、母親のように彼を抱きしめる。ふたつの鼓動が触れ合う。イズィの鼓動が、ゆっくりとあやすようなリズムでサイードを包み込む。戦意を失った男の目は虚ろで、映す吸血鬼の姿にも反応を示さない。 「さあ、おやすみ。サイード……」 イズィのささやきが、静謐さを取り戻した館にそっと響く。抱きすくめる頬が近づき、吸血鬼の濡れた牙がサイードの首筋に触れる。 ふたつの影が重なる。ふたつの鼓動が重な――らない。 「――!?」 サイードの鼓動が感じられなかった。己の鼓動は聞こえるのだが、触れているサイードの肌からは心臓の音が聞こえてこなかった。 「おまえ、ゴーレムなのか?」 イズィはそう口にしてから、即座に否定する。サイードは魔導回路で動くゴーレムのように愚鈍でも、肉体組織の腐りはてたゾンビのように鈍重でもない。サイードはたしかに人間だ。だが鼓動が聞こえない。 「うん? これは一体、どういう手品……だ……あ――?」 サイードの胸元を肌蹴ようと手を伸ばして、イズィは体勢を崩して絨毯に頭を打った。視界が横転するまで、なにが起きたのかわからなかった。 「な、に……が……?」 イズィは起き上がろうと手をつくが、力が入らずにまたも突っ伏す。身体の内側から頭を殴打される感覚に、視界が明滅する。腹の奥から込み上げてきたものが喉を塞ぎ、吐血となって口腔から溢れる。 サイードは先ほどと同じ体勢のまま、ただ両眼には明らかな意志の光を宿してイズィを見下ろしていた。その口元にはイズィと同様、込み上げた血が伝っている。 「サイード、おまえ……なにを……グッ」 横倒しの視界で睨みつけるも、込み上げた血の塊が言葉を許さず。常ならば物理を超越した再生能力も、いまはなぜか機能していない。見下ろすサイードも蒼白い顔で動けず、イズィに止めを刺せずにいる。 イズィは激痛に襲われる思考を必死に纏め上げ、現状を把握しようと努める。 ――方法は不明だが、サイードには奥の手があったのだ。そしてそれは、自分に再生不可能なダメージを負わせると同時に、サイード自身にも深手を負わせる類のものだろう。でなければ、いまこの好機をサイードが逃すはずがない。そしてまた、この奥の手を発動させるには自分と密着する必要があったのだと思われる。でなければ、自分まで動けなくなる攻撃を仲間が全滅するまで使わなかったことと辻褄が合わない。いや、仲間の死すら計算に入れての作戦だったのかもしれない。心を折った振りをすれば、自分が警戒を解いて接近すると計算した上で――。 「……くくっ、見事だサイード。おまえは、わたしの考えていた以上の男だ。表面上は、同僚の死に激昂してみせても、内心ではすべて計算ずくのことだったのだな。だが、たったひとつの誤算はおまえ自身へのダメージの跳ね返りが大きすぎたことだ」 吸血鬼――人間を獲物とする狩猟生物の本性を露わにした獰猛な笑みを向ける。深紅の視線が捉えるのは、隠し持っていた浄銀弾を装填する余力もないサイードだ。 イズィはいまだ倒れ伏したままで、立続けに血反吐を吐くサイードを嘲笑をする。 「いや、こんかいは本当にヤバかった。殺されるかと思ったヨ。実際こうして動けずにいるんだから、もしキミに運があれば、わたしは死んでいたのかもしれない。だが現実はどうだ? わたしは死んでいない。天は、わたしに生きろと仰っているのだよ、ハッハァ!」 けたけたと哄笑が血塗れた空気を鳴動させる。その両腕は身体を起こそうと絨毯を押し付けるも、がくがくと震えるばかりで一向に起き上がれそうにもない。だがそれでも確実に、身体は持ち上がっていく。もう吐血もない。 「吸血鬼イスラエル……おまえを裁くのは天じゃない。おれだ……おれたちだ!」 サイードは震える手で、取り落とした弾丸を拾い上げ銃身へと込めようと全霊の力を手に送る。錬金心臓の刻む鼓動を強引にイズィの鼓動と同調させることで、振動として祓魔式を送り込んだ代償は大きい。人間の何倍も速く強烈に刻まれる吸血鬼の鼓動は、サイードの毛細血管を破裂させ、脳や内臓といった重要器官に重大な過負荷を与えた。イズィを捉えて密着状態をあと十秒もつづけていれば、鼓動のリズムに紛れ込ませた祓魔式を完全に送り込めていただろう。だが、腕をまわすだけの力も残されてはいなかった。 鼓動を戻したところで、内部の深いところにダメージを受けた肉体はそう簡単に立ち直れるはずもない。それでも、サイードは気力を振り絞って両腕を動かす。 「うぅ……ぉぉおおっ!」 憤怒の形相。血塗れた口元からは咆哮が溢れて、血に淀んだ空気を振動させる。浄銀弾を装填しおえる。構える。だが、照準が震えて定まらない。 「クッハッハハハッハァッ!」 イズィの表情が示すのは嘲り。震える両腕で上半身を持ち上げ、次いで脚を動かそうと力を込める。その間も視線はサイードを射抜き、震える銃口を嘲笑が打ち据える。 「おおおぉあおぁああっ!」 「ファッハハハハハハァッハァ!」 ほんの一瞬、銃の震えがとまる。照準が定まる。その瞬間、撃鉄が炸薬が叩き、爆発のエネルギーを受けた浄銀弾が銃身を駆け抜ける。螺旋状の回転を与えられた弾丸は銃口から撃ちだされて、片膝をついた吸血鬼の眉間へと肉迫する。イズィは躱せない。祓魔式により損傷した肉体の再生は、砂時計の砂二粒だけ及ばない。迫る銃弾、だがイズィはこれ以上ないほどの獰猛な笑みに唇を割って睨みつける。 背後へ倒れこみながら首を右へいっぱいに仰け反らせる。銃弾が左の瞼を掠めて破り、角膜の表面を擦って後方へと駆け抜けていく。 ――どさり イズィが絨毯に倒れると同時に、背後で肉袋が爆ぜる。血はすでに出尽くしていたのか、噴水は溢れでない。 「やったか――!?」 倒れこむイズィに駆け寄るだけの力は、サイードには残されていない。白煙立ち昇らせる銃を取り落として、イズィを凝視する。直撃ではないが手応えはあった。掠めただけでも勝ちだ――そう気を緩めた刹那、イズィは立ち上がった。空中から糸で吊るされた人形のように、物理を嘲笑うかのごとき異様な所作――それは正しく、吸血鬼イスラエルの立居振舞いだ。 だが無傷ではなかった。 「サイード・アッサラーム……」 掠れ、静けさに押し込められた怒りの声が澱んだ空気を波立たせる。 「サイード・アッサラーム……おまえと、おまえの仲間はわたしの子供たちを虐殺した。そしていま、わたしの眼を奪った。この眼は、二度と月光に泣き濡れることはないだろう……」 浄銀弾の掠めた左眼を、イズィは自らの手で抉り出していた。絨毯に落ちた深紅の眼球は、もう塵と化して消えている。落ち窪んだ眼窩と、残された血色の瞳孔がサイードを捉える。 「憶えておけ、サイード。わたしはおまえたちの同朋を子供を大地を、おまえたちの全てを、おまえたちの血で汚すだろう……」 睥睨するイズィを、サイードは動かない身体を激情に打ち震わせて睨みつける。 「それはこちらの科白だ、イスラエル。おまえは、おれの同朋を子供を大地を蹂躙した。その償いが片目で足りると思うな!」 微動だにせず怒りの視線をぶつけ合う二個の生命。三つの瞳。だが、深紅の隻眼は深まる闇へと溶け込んでいく。 「サイード……いまは殺さない。おまえには、わたしに歯向かったことを後悔させる死に方を与えてやる。それまでは、平和を恵んでおいてやろう……せいぜい楽しむんだナ。ハッハッハァッ」 声だけを残して、吸血鬼イスラエルは消えていった。 残されたのは血で汚された聖堂と、同胞の屍と、悪魔から与えられた平和だけだった。 「――ならば、」 サイードがすり潰すように低く呟く。 「ならば、おれはこの平和を、次なる聖戦へと備えるためだけに費やそう――」 そう言ったら、ふいに笑いがこぼれて止まらなくなった。身体じゅうに激痛が走っても、ひたすら笑いつづけた。 高らかに謳われることのない宣誓は、まるで呪詛のようだ――笑わずにはいられなかった。
老境にさしかかったサイードの前で、何人もの少年たち二人一組になって戦っている。彼らが振るっているのは刃を潰したナイフだが、その目は真剣そのものだ。 サイードは重々しい声で少年たちを叱咤する。 「いいか――武器を持ったら躊躇うな。余計な感情など今のうちに捨てろ。おれもおまえたちも、次の世代が夢を叶えられる国をつくるための道具なんだということを忘れるな」 少年たちは頷き、同胞同士で殺しあう訓練をつづけた。
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