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3000字小説バトル
チャンプ作品
『かつら』薮野椋十
 秀樹が自分の頭頂部の毛がだんだん薄くなってきているのに気づいたのは二十六歳ぐらいだった。育毛剤を使ったり、お酢を薄めてリンスしたり、蜜柑の皮で頭皮マッサージしたりと、いろいろ手段を講じたが全然効き目がなく、三十五歳でまだ独身というのに頭の方は大分薄毛が目立つようになって毎日憂鬱だった。どこかの雑誌で男はこれからの人生を髪の毛が抜けた状態で過ごさなければならないと思った時から、心の中に大きな変化が起こると書いてあったが、秀樹の現在の心境がまさにそれだった。世田谷に住んでいる叔母も彼の頭をしげしげと眺めては、
「秀ちゃん、大分薄くなったわね。お父さんの遺伝かしら」
 彼は五年前に心筋梗塞で死んだ父親の頭を思い出した。まばらになった髪の毛を一九分けにしていた。全体に体毛が濃い点も父親譲りだった。
「カツラ試してみたら。最近精巧なのができていて殆ど分からないらしいわよ」
叔母の言い方が少しからかい気味のように受け取れたので、彼はむっとして、
「冗談やめてよ。カツラなんか始めたら職場の人に何言われるか」
勤め先の女子社員の顔がちらついた。ひそかに思いを寄せている子もいた。

 三月。黄砂まじりの強風の吹く日、秀樹は人事部長から大阪営業所転勤を申し渡された。
「大阪はえげつないリフォーム業者が多いけど、うちの会社は誠実、信頼が売りだから。しっかり勉強して帰ってきてくれよ」
 ショックだった。十年以上も本部営業所で頑張ってきて、それなりの販売実績もあげてきた。係長のポストも目前だと思っていた。好きな女の子とも別れなければならない。もっとも彼女の方は秀樹の転勤のニュースに何の反応も示さなかった。示すわけが無いのだ。彼が好意を抱いているなどとは露ほども思っていなかったのだから。
 その日の晩、彼はテレビの前でぼんやり考えた。今度の転勤を自分の人生の転機にしようか。そろそろ結婚も真剣に考えないと一生独身ということにもなりかねない。イメージチェンジも必要かもしれない。
 その時テレビに大手カツラメーカーのCMが映った。美人の若い女性が男性のヘアーチェックをしているところだった。男性はうっとりとした表情で女性の頭皮診断を受けている。
(これだ!)と彼は思った。先ずヘアーチェックをしてもらう。その上でカツラを買うかどうか決める。ひょっとしたらカツラでなくて、今まで試したことのないような育毛法を教えてくれるかもしれない。

 翌日、秀樹は都心のカツラメーカーの営業店へ足を運んだ。テレビに出てくるような美人のお姉さんではなく、中年の眼鏡をかけた神経質そうな男性がコンサルタントだった。コンサルタントは椅子に腰掛けた秀樹の背後に立ち、彼の頭皮を指で押さえつけるように揉んだり、スコープを近づけてモニター画面上の白っぽいグロテスクな毛根をチェックしたりした後、大きな溜息をついて、
「今さら育毛は無理でしょう。こんなに抜けてしまう前にもっと早く来るべきでしたね。私としてはカツラをお勧めします」
 所詮行き着く所はカツラかと思って暗鬱な気分になったが、一応値段を尋ねてみる。聞いて驚いた。一個四十万円以上、百万円もする物も有るとのこと。それにカツラの耐用年数は二年から三年。途中で壊れた場合は修理に出したりしないといけないが、その間はげ頭をオープンにしておく訳にはいかないので、最低二個は持ってないといけない。ランニングコストも考えに入れると大変高額な買い物になる。下手したら車が買える値段だ。
 秀樹は別のやや地味な感じの店へ行ってみる。ここでは先刻の店の半額から三分の二程度の価格で購入できる。ただオーダーメイドではないので、安くなる分自分の頭の形や髪色に合わないことがあるとのこと。装着方法もピンやテープのみといった代物だ。どうしたものか考え込んでいると、これまた中年の店員兼コンサルタントのおじさんがアドバイスをくれた。
「売る立場でこんなことを言うのも変だけど、カツラを使うかどうかは慎重に考えた方がいいですよ。一度カツラを使うとなかなか外せないし、ストレスも溜まりますよ。カツラは始める時よりも止める時のほうが勇気がいるんです。ばれないように一生使い続けようと思って、最新の技術を施してもらったら年間の費用はすごいですよ。家庭のある方は特に大変です」
 秀樹が今度新しい職場に変わるのでイメージチェンジしたいのだと話すと、おじさんは秀樹の頭を映した写真をプリントアウトしながら、
「それじゃどうでしょう。カツラを一生使い続けるかどうか決める前に安いカツラで試してみるのは」と言った後、サンプルを棚から取り出してきた。
「これは全頭カツラです。髪の毛は全部剃ってつければ地毛との境も色の境もないし、とにかく安くてお得です」
「安い分すぐばれませんか?」秀樹は不安になった。
おじさんは少し躊躇いがちに、
「ううん…… 実はカツラはいつかは必ずばれます。どんなに精巧なものでも、やはりどこかに不自然な点が出てくるんです。立場上大きな声では言えませんが、いっそスキンヘッドで通したらどうですか」
そして一段声を落として、
「私の甥も若はげで悩みましたが、転勤の時、頭ツルツルにして安いカツラをつけて新しい職場へ行ったんです。自己紹介をした時に自分でそのカツラを外して実は私はズラなんですと言ったら大爆笑。すっかり人気者になりました。そのうち面倒くさくなってカツラなしのスキンヘッドで通しましたが、その頭を気に入ってくれる彼女もできましてね」

 朝十時に新大阪駅到着。地下鉄に乗り淀屋橋で降りる。昇降階段を上がって御堂筋に出た途端ビル風に巻き込まれた。秀樹は慌てて頭を押さえた。おじさんの言うとおり髪の毛を全部剃って、両面テープでカツラを固定したが、強風に煽られたらたちどころにずれてしまいそうだった。でも自己紹介のときにカミングアウトすれば大丈夫。そう思ったら緊張感が解れてきた。
 営業所は御堂筋沿いに整然と林立するビルの一角、損害保険会社所有の建物の十八階にあった。オフィスに入る前にトイレで入念にチェック。堂々と胸を張って受付の女性に来意を告げる。

「田所秀樹君は新宿の本部営業所に十二年おったベテランや。最近うちの営業所数字が下がっているから強力な助っ人が欲しいって人事に頼んでたところや」
 恰幅のいい五十がらみの営業所長が秀樹を皆に紹介した。社員が仕事を中断して立ち上がり、一斉に秀樹の方を見た。ざっと二十人くらい。殆ど若い女性ばかりだった。男は営業で出ているのだろう。可愛い子がちらほら混じっている。(いいぞ! 手順どおり行くぞ!)
 しかし手順は狂ってしまった。
「田所です。よろしくお願いします」
 大きな声で叫ぶように言ったまではよかったが、勢いよく頭を下げた拍子にカツラが…… オフィスの中がシーンと凍り付いてしまった。営業所長も目を丸くし、口をポカンと開けている。
 秀樹は額にずり落ちてきたカツラをはがして、
「僕、実はズラなんです。ハ、ハ、ハ」とおどけた調子で言うと、場の空気が少し和んだ。
 しかし、ばれたから仕方なく告白したと皆思っているに違いない。無念だった。


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