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第8回高校生1000字小説バトル
Entry5

つばさ雲

作者 : 暁
Website :
文字数 : 1000
「母さんは……去年死んだ」
何年も連絡を取らずにいて、そして何の前触れもなく帰ってきた俺
に、父は独り呟くように言った。
 振り向くと、もう戸の隙間からは父の背中しか見えなかった。
 戸が、遠慮がちに閉まる。
 俺は動けなくなっていた。

 母が、死んだ。

 気がついた時には、俺は薄暗い部屋で寝転がっていた。
 母がいないこの家が信じられなかった。
 目の前のものが皆空々しく、虚しい。
 俺の精神は、まるで母の後を追って死んでしまったかのようだっ
た。それはそれで良いかもしれない。その誘惑をはね付けるのは、
苦痛以外の何ものでもなかった。
 だが、確かめたい事があった。
 二階の南側の窓辺だ。母がいつもいた場所は。小柄な身体に似合
わない大きな椅子に腰掛け、いつも窓の外ばかり眺めていた姿が、
今でも鮮明に浮かんでくる。
 母は、一体何を見ていたのだろうか。
 それだけが、母が俺に残した唯一の暗号のような気がした。

 この部屋の時間は凍りついていたようだった。しかし主を失った
椅子の背もたれは、その骨格のような影を床に落としていた。
 椅子に座ると、窓際に置かれた光沢のある、小さな木製の箱に、
目がとまった。
 手にとって蓋を開いてみると、中に納められた金色の円筒がゆっ
くりと回り出し、そして、和音を奏でた。
 オルゴールだった。母の物なのだろう。
 一つ一つの和音は連なって、奏でられては消え、消えてはまた次
の音色が奏でられ、それはひとつの音楽となった。優しく、どこか
寂しさを秘めた旋律。

 その時だった。

 窓の外の世界が、あまりにも突然、俺の眼前に広がったのは。
 小高い山の稜線に掛かった淡い雲が、沈みかけた陽に今にも溶け
出しそうだ。
 夕凪に波打つ麦の大地がずっと続いている。
 緩やかに弧を描いて飛ぶ鴉たち。
 幼かった時とはまるで違っているようで、しかし変わらない風景
が、そこにあった。
 俺はオルゴールの蓋を閉じ、元の場所に慎重に戻した。それが涙
で濡れるのを恐れて。
 これはきっと、母の掛けた魔法なのだ。

 三日後、俺は身支度を整えて、玄関の外に立っていた。
 悲しみは、あの時の涙に流れ落ちてしまった。
 寂しさは、胸の奥底で俺を揺り動かしていた。
 朝靄に霞む地平と、あの小箱が奏でた音楽だけが、俺にとって大
事なものなのだ。
 一対の筋雲が、地平線に大きく神々しく翼を広げているのが見え
た。
 母の旅立った先を信じられるような、そんな雲だった。






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