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第15回中高生1000字小説バトル Entry4

「煙草」

家に帰るとバスルームは鮮やかな赤色の海で、体温を失った母親が力無く倒れていた。
湯船に満たされた色の洪水を、銀色に鈍く光る剃刀が行き場を無くしてゆっくりと浮遊する。
110をダイヤルする指が、驚くほどしっかりしているのが分かる。
確認などしなくても、「彼女」にもう再び温かさが宿ることは無く、彼女がこの世界の色彩に触れることが無いことは誰の目にも明らかだった。
彼女が再び呼吸をし、その声を発することは無い。
けれど、私が取り乱して嘆く理由など何処にも存在しはしない。
その身体、今はもう身体ですら無いそれを目の前に唯立ち尽くしていると、
警察がやってきて「彼女」の身体を持っていった。
きっと数時間前までは存在していただろう「彼女」のいない部屋だけが後に残る。
あっという間だ。
本当にあっという間だった。
それはきっと「彼女」が行為に至るまでにかかった時間の三分の一程にもならないんだろう。
バカみたいだ、と思う。
被害妄想に飲み込まれて自己嫌悪に溺れそうになって、それで勝手に死んだ。
あんなに認めて欲しがっていたのに、自分から消えることを選んだ。
大きなガラスの扉を開けて、裸足のままバルコニーに出る。
冷たいコンクリートの上に座り込んで煙草を吸った。
さて、これからどうしようか。
私を引き取りに来るのは父親か、それとも叔母か。
別に、どっちだって変わらないけれど。
煙なのか吐息なのか、溜め息と一緒に空気が白く染まった。
小さな頃に誰かから聞いた話を思い出す。
自殺をした人間の魂は地上をさまよい続けるらしい。
嫌になって自らの手で終わらせようとしたこの世界に、居続けなければいけないのだ。
冬の紅く染まった空にひとすじの白線が昇っていく。
シンとした痛みが、私の頬を刺す。
赤くそまった煙草の先が、時折オレンジ色に変わった。
「彼女」のことを思う。
「彼女」のあまりの脆さに、少しだけ切なくなる。
哀れもう。悲しもう。「彼女」のために胸を傷めよう。
今だけは。
次第に灯かりの燈りはじめた街が眼下で朱色に輝いている。
肩先で揺れる切ったばかりの髪の毛が少しくすぐったい。
夕陽が、ゆっくりと落ちていく。
私は生きていくのだ。これからもずっと。
いつのまにか小さな一粒の雫が、頬を伝って落ちた。
初めて、私は「彼女」を心から愛しいと思った。
忘れずにいよう、「彼女」のことを。この移り行く日々の中で。
「彼女」はもういないのだから。

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