←前 次→

第16回中高生1000字小説バトル Entry10

旋律の記憶

 バス、と云うほど低く無く、テノオル、と云うほど高くは無い、
そんなこゑの持ち主の男が、静かに唄を謳ってゐた。
何処かで聞いた事の有る、懐かしい旋律を、記憶任せに謳ってゐる。
そのやうな感じがした。
名前や歌詞までは思い出せないが確かに私はその唄を知ってゐる、そう思った。

 真っ黒な式服を身に纏い、椅子へと腰掛けて謳う男。
休日の公園には少々不似合いな様子であった。
天気は上々。
しかし何故か、公園には私と男、それに、キャッチボオルをする親子しか居ない。
晴れ上がった空では、雲が様々に姿を変え、
不可思議な形を作り上げては崩れていく。
風は冬の厳しさを持ち合わせてはゐたものの、
二、三日前のものとは比べ物にならぬほどに暖かである。


 穏やかな休日に現れたこの男、一体何者なのであろうか。


 しかし、この男の奏でる緩やかな旋律は、この上なく私を癒してくれた。
高く、時には大変低く、
総てを忘れてしまう程に優しい「うたごゑ」が、私へと浸透して行く。
入浴時に湯から身体へと浸透して行く熱のごとく、
私の身体にはこゑが伝わってゆく。
身体がじんわりとふやけてゐくのが、はっきりとわかった。

 何故だか、咽喉が熱くなった。
そして、突然、私は男の声に共鳴する様に、男に合わせて謳いだしてゐた。
その曲を、私はほとんど知らなかった筈であるのに、
如何してだろう、まるで昔からこの唄を謳っていたかの様に、
私の咽喉からは旋律が溢れ出て来た。

 重ね合わされた曲は、先程より一層美しいものであった。
狂おしいほどに完成された旋律が、更に私を包み込んだ。

 曲が終ると、不意に男は私の方を向いた。
笑顔である。
私も、満面の笑顔を返し、男に質問した。
「この曲は何という曲でしたか。」
男は、立ち上がり少し眩しそうに空を見上げた。
「貴女は、御存知の筈ですよ。」
「…思い出せないのです。何処で聞いた曲かさえ、おぼろげで。」
男は自分の横に置いてゐた、黒い鞄の埃を払い落とし、
鞄の上に置かれてゐた帽子をそっと自分の頭の上へ乗せた。
「貴女は、ずっとずっと昔にこの曲を聴いていた筈です。」

 私は、結局曲の事は、聞き出す事は出来なかった。
それから二、三日後、私はこの曲の事をようやく知る事が出来た。
それは、母の父が好きだった曲で、
母は私を身篭ってゐた時に、よくその曲を聴いてゐたのだと云う。
母は、よく覚えていたものね、と笑った。


 私も、何故だか可笑しくて、一緒にくすくすと笑った。

←前 次→