「……なんで誘ったほうが遅いのよ。っていうかいないし。」 時刻は朝の七時過ぎ。開放一番に学校に入るのはいつの間にか当たり前のこととなっていた。しかし、今日は特別な用があったのだ。 彼女の名前は彼方由佳。高校二年で帰宅部。家の事情でバイトをしながら生活している。運動はめっぽう苦手で、学校内でも1,2を争うくらい。その代わりといっては何だが、勉強は学年一位。入学してからこの方一度も転落したことがない。ついこの間行った校外模試でも県トップを誇った。 彼女が待っているのは校内一の馬鹿こと納谷祐樹である。こいつ、由佳とは全くの正反対で、運動はできるが、勉強はいまいちという。いつもは遅刻ギリギリに来るこいつは昨日の放課後、とんでもないことを言い出したのだった。 「あのさ、彼方。いつも朝何時ころ来てるんだ?」 「七時ころかな?」 「し、七時?!……まぁいいか。」 「…………?」 「明日七時に屋上に来い。」 「……はぁ?なんで?」 「いいから。わかったな。七時に屋上だからな。」 そして、学校に来てみると思ったとおり彼はいなかった。念のため、こうして屋上へ向かってはいるのだが、校門が開いた時は私一人しかいなかった。 屋上には私たちのいる階から倍階段を上らなければならない。ここまで来るのにも疲れるのに、どうして屋上なんかまで行かなきゃならないのか。正直、三階にも着いていないのに、膝が笑っている。 「……ったく、……どうして……私が……屋上なんかに……行かなきゃ……ならないのよ。」 何とか屋上に着いたときには全身から汗が吹き出ていた。立っているのもやっとなくらい。扉を開けて、誰もいなかったら。そんな思いがふと脳裏に浮かぶ。 「そんなことあったら、絶対許さないから。」 バタン 重いドアを開けると、そこに彼はいた。 「よお、遅かったじゃん。」 「あんた、私を殺す気?」 「なんだよ。もうバテバテなのか?」 頭の内でブチっという音が聞こえた気がした。 「まぁ、由佳にしては早いほうかもな。」 それって。と声に出したつもりだったが、一瞬にしてそんな気はどこかに消えていってしまった。 「……これ。」 「誕生日おめでとう、由佳。」
「気がついたら、夜が明けていた。」 そんなことはよくあることで、わざわざ掲示板に書き込む奴なんて、僕ぐらいしかいないだろうと思う。でもさ、みんなにとっては−−正確に誰とは言えないけど−−ありふれたことでも、僕には初めてのことだったんだよ。 初めて何かをした日って、えらく感動しないかい?僕はしてしまうんだよ。前、そんなことを言って友達に笑われた苦い思い出があるんだけど。たとえばさ、さすがにみんなだって、初めて学校に通うようになった日とか、印象に残っているだろう?僕にはそれがほんのささいなことでも感じられるんだよ。 「今日、はじめてガムを踏んだ。なんだか嬉しい」 変人だなんて言わないでくれよ。いくら僕だって、そのあとの靴の底の処理に困って、「もう二度と踏みたくない」って思ったんだから。 「今日、はじめて人に顔面を殴られた。やっぱり痛いんだな」 決してマゾヒストなわけじゃないよ。たださ、なんか、テレビとかでしか見たことなかったから、やっぱり感動しちゃうんだ。 「今日、はじめて人に告白された」 この日のことは一生忘れないだろう。僕は心の底から嬉しくて、こらえきれず涙を流してしまった。その時、優しく手をにぎってくれた彼女の温もりは今でも感じることができる。 初めてのデート 初めてのキス すべてに僕は感動をした。そしてそのたび僕は涙を流した。そのたび彼女は手をにぎってくれた。 「あぁ、これが恋か」 初めて感じた気持ち なんだか彼女とすごす時間はひどく心地よかった。 だけど、僕は誘惑には勝てなかった。 時間が流れるたび、夜が明けるたび、僕は新たな「はじめて」を求めずにはいられなくなった。「これはもうやった」「あれはもうやった」「それはまだやってないか?いや、もうやってしまった」日に日に初めては減っていく。反比例して僕の欲求は日に日に増殖してしまう。 誰にも、止められやしないんだよ。 たとえ君でも 無理なんだ みんな−−やっぱり誰とは言えないけど−−が言う、「マンネリ」なんて言葉じゃ埋められない思いで、僕の心にはどんどん隙間ができていくんだ。 もう、君といてもどうしようもない。 もう、初めてが見つからない。 それは、僕にとって別れを意味するんだよ。 今になって思うけど、何度も経験したいと思ったのは君のぬくもりだけみたい それでも「はじめて」が僕を呼ぶんだ 心の隙間、埋めなきゃならないんだ あぁ、どうやら僕は、「はじめて」依存症みたい
自転車で片道1時間の通学路を、俊樹は毎日通っていた。長い上り坂を延々と登り、汗を吹き飛ばし乾かすように駆け下りる。人は、それは大変だろう、と、いたく同情してくれるが、慣れてしまえばそれが日常であり、別段大変だとも思わなかった。 だが、そうといってもやはり、毎年夏が来るとうんざりする。登下校1時間の間に、吸水性の悪いシャツが汗でまみれ、肌にぺたぺたとくっついてくるのが、気持ち悪い。その上、炎天下の中、毎日学校へ通うだけで疲れがたまる。それでも、小学生のときからの皆勤賞をみすみす逃すのは、なんだか勿体無いような気がして、俊樹は毎日ペダルを踏んだ。 夏の風物詩はいろいろあるが、俊樹にとっては逃げ水だった。アスファルトから立ち上る陽炎が、道路を濡らしているかのような錯覚を生み出す。高校生になってからは、夏休み中でも補習と称して授業があるが、その登下校の大変さを、俊樹は逃げ水を追いかけることで乗り切っていた。 長い坂を上りきると、最初はゆっくりと、だが徐々にスピードをつけて、逃げ水を追いかける。もちろん、追いかけても無駄だとは知っている。逃げ水はあくまで錯覚であって本物ではない。だから「逃げ水」というのだ。それでも追いかけてしまうのは、憧れや夢などというものを追いかけてしまう衝動に似ていた。 風が耳元でうなる。周りの景色が流れていく。逃げ水はその名のとおり逃げていく。車がアスファルトに映る。はっとする。道路の上にはどこにもいないはずの、まだ若い女の顔が、逃げ水に歪んで映っていた。 俊樹の体に奇妙な悪寒が走った。甲高い急ブレーキ音を発して自転車は止まる。自動車がその脇を通り抜けていく。遠くの逃げ水に、水色の車の色が映る。あの女性はどこにいるんだ。俊樹は思わず見回した。 くくくっ ふいに聞こえた音。 耳に障る、その、女の哂い声のような音は、単なる鳥のものかもしれない。だが、そこには雀の群れしかいないように見えた。 汗が冷えて、ぶるりと体が震える。町も道路も真っ赤に染める夕日が暑い。ゆっくりと、ゆっくりと、ペダルを踏んで、自転車は走り始めた。 もう逃げ水を追おうとはしなかった。夏はすべての境界線が曖昧になる。だから、あの女も、きっと夏が生んだ錯覚だったのだろう。 ジジジ、と鈍い音がして道路を見やる。そこには、もう二度と鳴くことのないだろう蝉が、小さな影を残して横たわっていた。