novel
MAO
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決斗傘時雨(けっとうかさしぐれ)

「背に腹は代えられぬか」
「士魂を喪うては先祖累代に申し訳が立ちませぬ」
「しかし、のう」
 梅雨とはよくいったもので、梅果夭々、凛として雨に映え。
 鳴子清八郎、元は品川藩三万石の直参旗本の家、されどお取り潰しとなって野 浪の身、傘張りを口に糊する手立てとして、なめくじ長屋に居る。
「しかし、ではありませぬ。武士道に生きるは身の貴賎にあらず、貴方様も亡き 山縣信佐衛門の娘婿なれば、大和魂たるものをお見せなさいませ」
 清八郎の妻千枝、父親は品川藩の武芸師範、鬼の信佐と呼ばれた豪傑だった。 娘も父譲りの偉丈夫で、貰い手なく一回り下の清八郎に寿いだのが二年前。どう もこの夫婦、清八郎よりも千枝のほうが、過分にも武士である。
「しかし、だな。千枝よ、相手は北野藩、尊王派の若侍。血気にはやるのに、わ しは太刀打ちできようか」
「貴方様」
 ふっ、と雨が消え。
「血気は一閃の気を喪いまする。貴方様も父上の門下なのであれば、一撃必殺の 心根はございましょう」
「一撃、必殺」
「ええ、最初の一撃でしとめねば、己が死にまする」
「そ、そうか、だがしかしお前」
「あなた」
 このアナタ、が蛇に睨まれたようで、かなわない。
「もし無念にも討ち果てたとあらば、千枝も後を追いまするゆえ、御心配めさり ますな」
 長雨のはずだったのに、遠くで神が鳴る。

「清八郎殿」
 飛び起きる。丑三つ時、枕を蹴転がして這い、漆喰壁にしたたか頭を打った。
「相変わらずの蚤の心臓じゃわい」
 振り返ると揉み上げから顎にかけての剛毛、げじげじ眉の下から二つの目玉が ぎょろりと覗いており。
「ど、どうしたんだ、千枝。そんなに鬚を生やして」
「寝ぼけるな、おれじゃ、信佐じゃ」
 見上げれば身の丈六尺半に目方四十貫弱、熊とも見える大男。ただ、顔ばかり は千枝と瓜二つで、鬼瓦をかぶって貼りつけたよう。
「おっ、親義父どのっ!」
「あ、よいよい。それよりも、北野藩の若侍と果たし合いだそうじゃが」
「は、親義父殿の御耳にも入られましたか」
「入ったもなにも、おれが婿どのの一大事とあって、こう、夢枕に参じた次第じ ゃ」
 まだ降っているらしい。屋根を叩く雨音に負けじと、隣に寝ている千枝のいび きが、大鯰のように響く。
「お主、殺されるぞ」
「へ、こ、殺されますか」
「うむ、明日切られて死ぬ。そう冥土の戸籍役に伝えが入ってな、それでこの信 佐も慌てたわけよ」
「それでは、行ったら若侍に殺される、行かなければ今度は千枝にころさ……」
「なにをブツブツ言っておるのじゃ」
「いや、なんでもございません、ございませんが……」
「そこでわしゃ、お主を助に参った。お主に死なれてはあの器量じゃ。千枝が一 人路頭に迷う」
「へぇ」
 二人して千枝の顔を覗きこむ。闇に慣れた目で見れば見るほど、開いた口が風 穴すさまじき洞を思わせて。思わず身震いした清八郎に、信佐もばつの悪そうな 顔をしてみせた。
「そこでな、お主の袴があるだろう。あれをおれが隠す」
「袴を、でございますか」
「本来ならば潔く戦ってもらいたいが、冥土のほうで死ぬというのだから致し方 ない。おれも人の子、千枝の親じゃ」
 袴が無いということになっては千枝も表を歩かせまい。
「確かに、うちには袴をあつらえる銭もございませぬ」
「武士の面目から着流しもさせぬ娘じゃ。何しろ融通の効かないところがあって な……」

 烏カァで夜が明けて、なめくじ長屋に雨の降る。
「ちょっと貴方様、起きてくださいまし!」
 揺り起こされておきると、いつになく悲壮な顔の千枝がいる。
「お、親義父どの!」
「ねぼけないでくださいまし、泥棒ですよ、泥棒が入りまして!」
「そうか、入ったか!」
 夢かと思えば親義父どの、草葉の陰からひょっこりと。部屋の中、どこを見ま わしても袴が見当たらない。御丁寧に礼式の裃まで綺麗さっぱり無くなっている 。ああ、父上が知ったらどんなに口惜しがろう、と悔しがる千枝と顔を合わせな いように、清八郎はにんまりと厠へ――
「ああ、そうですわ!」
 千枝の声に、井戸周りの長屋の衆が、一斉に振り向いた。

「先日、貸本の蘭学書で読んだ話でございますが、メリケンでは大金山が出て、 村人が我を先に金山に殺到したとか」
「メリケンて、あのペルリ提督のメリケンか」
「鉱夫は野営の布幕を猿股代わりにして、発掘にいそしんだと書いてございまし て」
「猿股」
「猿股です」
「それでは少々布が厚い」
「ええ、鋲でとめないと猿股にならないとか」
「はて、それが一体」
「おわかりになってくださいまし、あなた」
「なんと?」
 きょとんとした顔の清八郎、千枝の視線に合わせて視線をずらして行く、と、 正午に問屋に納める番傘の束がある。
「もし、おまえ」
「ご心配なさりますな」
 千枝は初めて笑みを浮かべる。
「柿の渋ですもの、雨は弾きます」
「……されど」
「貴方様は鬼信佐の娘婿です。ここで尻尾を巻いたとあれば末代までの恥……い や」
 鬼の信佐の娘もまた鬼。十八もとうに過ぎて年増、出鼻どころか開ききった茶 殻。
「武士道不覚悟、ここで二人して果てとうございます」

「まだ来ないのか、鳴子清八郎はっ」
 若侍がたすき掛けに誠の字の鉢巻、鼻息も荒く神明社の境内に立ちはだかる。 周りには尊王派の同士か、同年の輩が三人。
 長雨に霧の立ち込めて、普段なら見通せる境内の段下も、いまは見えず。
 いよいよ果たし合い、とはいえど北野藩士西口小十郎、齢十八にして、今日初 めて人を斬る。前日は緊張して眠れなかった。四年前、元服の折に父から贈られ た刀を抜いてみようとして赤鰯、錆だらけ。刀なんぞ使わなければ錆びないと思 っていた。ざりざりと音を立てて梅雨は情けなく、急に落ち込んだものの、ここ までして後に引けないのは若気であろうか。いや、武士たる己は果たし合いの法 度をも破るのであろうか。たかが痩せ浪人、されど刀の切れ味に違いはなかろう 。斬るより突いたほうが強いことを、若者は耳学問で知っている。
 とにかく、初めて人を斬る。
 霧の向こうから草鞋の擦れる音がする。昨日の、脇のものを握った重さを思い 出す。普段の竹刀とは訳の違う、命を抉る重みだ。
 石段の下からわきあがる霧から、一つ黒い影が浮かび上がってくる。ぼんやり とした闇は白光の中でびっこを引いているのか、ふらりふらりと人外の動き。し ぶしぶ長屋を出た清八郎、なにしろ歩きにくい。帯で留めれば骨が立つ。刀をさ せばずり落ちる。とかく石段は登りにくい。加えてしくじった信佐が行く道に何 匹も野良犬をけしかけたからたまらない。信佐のことなどとうに忘れていた清八 郎、犬を追い払い、ようやっと境内にまで上りきって、もう、ずたぼろのへとへ と。
「待ちわびたぞ鳴子氏」
「おう、臆せなんだか」
 骨身に凍みる雨粒、清八郎は出そうで出ないくしゃみに落ち着かない。
「ゆえあって決斗のさだめなれど、悪く思うな鳴子氏。赤城の山も今宵が限り、 あ、濡れてまいろう」
 時代背景はさておき。なにしろ近頃の若侍、芝居が好きで容から入る。
 強風一閃して霧雨を吹き上げて万端。寒くて歯の根が合わない清八郎、無言で 目だけ見開いて、へっぴり腰。動かぬ清八郎、をいぶかしんだ小十郎、はっとし て、
「や、ややや、お、おのれ」
 どうしたことか、急に真青な顔になって吃り口。
「おのれ鳴子、この日の煩悶の果てに朽ち果て、半ば生霊として出おったか」
「な、何を申す」
「見よ、下半身がからかさの怪ではないか」


文字数:3000



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