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nove1 狭宮良ドレインアウェイ
巻き上げ機のリールが気狂いめいた大音量で軋む。既に軋むと云うレベルを超えている様
なそれにも逃げ場のない洋上の乱反射にも、配属されたその初日に慣れて仕舞った。幾ら
日に焼けようが鼓膜が鈍くなろうが、命を落とすことさえなければそれで良いのだ。
逆に今になっても慣れることが出来ていなかったらと思うとぞっとする。それこそ地獄だ。
――しかし彼奴は順応しすぎではないのか。
圭次との共同作業を命じられて十日目になるけれど、彼の適応能力にはことある毎に感服
させられた。ヒセイの眼から見ていると、彼は上官の命で云々と云うより、蒸溜器と友達
になったとでも呼べるような風情だ。
「飽きないか、もう十日だぜ」
「え?」
操作レバーに手を掛けている彼との距離は精々五米くらいのものだが、ヒセイの怒鳴り声
は巨大な鎖の悲鳴に掻き消された。
何、聞こえない、もう一回云って。訊き返す彼の言葉も切れ切れになって届く。ああ自分
の方が風下なのかと気付いてヒセイは舌打ちをした。
ぎりぎりと今にも切れて落ちそうな揺れ方をしながら鋼鉄のバケツが頭上高く吊される。
真面に見上げると海水の飛沫が眼に入るので上目遣いに位置を確認して、右手を上げて彼
に合図を送る。べつに、なんでも、ない、今度はある程度聞き取れたらしく相手は大きく
頷いた。甲板のうえでは、何もかもの動作を大袈裟にしなければ伝わらない。
「行くぞ」
思い切り良く手を振ってみせて圭次はレバーを下げた。
バケツの底が抜けると同時に水のかたまりが降って来る。そしてまた耳を引き裂く轟音。
おそろしく晴れた空と照り付ける陽射しにも関わらず、二人がレインコートを着ているの
には一応の理由があるのだ。
水槽の波も大方収まると辺りは静かになった。圭次が歩いて隣に遣って来る。これから塩
の味のするこの水を汲み上げて蒸溜にかけなくてはいけない。何故だか知らないがこれが
手作業だと云うのだから泣ける。実際この船上で一日に使っている真水の量がどれほどの
ものなのか、是非にも教えて欲しいとよく思う。
水槽の端に立った彼はその水面を覗き込み、そんなに詰まりそうな塵芥もないのにな、と
云った。似た様なことを考えていたのだろう。塵芥の問題にしてみた処で、機械にひとつ
かふたつ網を張れば済む話なのだ。
うんざりしているヒセイとは対照に、圭次は気を取り直して水汲みに掛かろうとしている。
「なあ飽きないの、この仕事」
改めて尋ねると彼は手を休めて此方を見た。
「ヒセイは」
「俺は二日目くらいに飽きたよ」
圭次は明るく笑って濡れた甲板にその儘座った。自分も座ろうかと水の侵食を逃れた場所
を探したが見当たらず、手摺りに腰を下ろす。飽きるだろ、飽きるんだよ普通は。
「まあ海のうえでも学校よりましだからさ」
だから飽きるとか思ったことないけど。それに機械動かすのとか面白いし、海なのに真水
飲めるんだぜ、彼の眼は見渡す限り何もない海面を向いている。ヒセイは少し迷ったが海
の方を見るのは止めておいた。煌々と鱗を並べた大洋は確かに美しいけれど、あまり長く
見ていると眼を傷める。
夜になってから痛んで眠れないなどと云う羽目になるのは御免だ。それに――幾ら美しい
ものでも、最初は思いも寄らなくても、こんな状況下で日々見せ付けられていてはいつか
飽きるのだ。今はそれを忌まわしいと思う余裕がないだけ助かる。
「学校の方が良いよ。肉体労働もないし」
「合わないんだ」
「何が」
「俺と学校」
「ああ、そう云う」
確かに圭次には学校は似合わないかも知れない。想像しようとしても妙に非現実的な像が
浮かぶだけだった。船にいる方が余程現実的だ。単にそうしてしか彼を知っていないから
だと云われれば否定は出来ないけれど。
ふとキツネアザミは如何だろうなと思う。あの通信兵は丁度ヒセイと同年で、矢張り従軍
する以前は学籍にあったと云っていた。学校と今とどっちが良いといつか訊いてみようか、
それを皮肉でも何でもなく口にすることが出来る、日々が平たく過ぎていく今のうちに。
ああ、でも。
想像は付く。彼なら多分いつもどおりの拗ねた風な表情で、別にどっちでも良いよ、など
と応えるのだろう。実に詰まらない。どうせ小さな船のうえに詰まらなくないものを探す
こと自体が間違っているのだ。
了解した筈のことにも腹が立つのは、理不尽の度を超したこの仕事の所為だ。横の圭次に
眼を戻すと、彼は真正面からヒセイの顔を指差して笑った。
「何だよ」
「凄え情けない顔。死にそう」
ヒセイは向いてないな、学校行っといた方が良かったんじゃないか。彼のその口調は嬉々
として此方を断じた。云われてみれば、自分でも随分拠りどころのない様子をしているの
が分かって、本当に情けない気分になる。
「五月蝿い、好きで来たんじゃないんだ」
「中隊長殿に説教されるぞ」
「地獄耳にも限界はある」
船長は何より隊の風紀に厳しいので評判が立っていた。待機の続くあいだに士気が下がる
のは一番恐れる処だからだ。落ち始めれば全員に伝染するまでに時間は掛からないし底も
知れない。無理のないことだと云うのは皆が解っているけれど、それに文句を垂れないで
いるほどには諦めが付かなかった。上官に文句のない部下は只の嘘だ。
戯けた言葉が脳裡に浮かび、その儘呟くと圭次が呆れた様に首を振った。
――言論の自由。
「日射病じゃないの、頭」
「じゃあ何で御前はならないんだ」
気合いの差なんだろ。太陽に負けるなんてさ、ほら真水が要る。
水槽の波は完全に静まって汲み上げられるのを待っていた。ああ綺麗だ、鏡の如くと云う
たとえも満更でもないな、汚れた海岸からは欠片も見えないものだ。思い付く限りの塵芥
を集めて並べたのではないかと疑う様な、本国で最後に見たのはそう云った海岸だった。
海の真中はとても綺麗だ。こうして切り取ってみても何もない。
先刻圭次が云ったように、蒸溜に支障のありそうなものは殆ど見当たらない。人間の醜さ
は結局人間の近くに戻ることになっているのかも知れない、そう考えてから益々情けなく
なった。どうかしている。
日射病か、そうか。
レインコートを脱ごうかと思案してみたが、潮気で上着が重くなるだけだと改めて止めた。
だからと云って洗えば翌朝困るのは眼に見えている。それこそ隊長に怒られるだろう。
今になって士気も何もあるのだろうか。
「何呆けてるんだよ」
日射病ではないのかと自分で云っておきながら心配する方向には流れない、その彼の気質
は僅かにせよ此方の気を楽にする。
真水作るぞ、そう宣言して圭次は立ち上がった。振り仰げば彼の真黒の髪は光を集めて熱
を持っている。海みたいだと思う。まるで陽光を自分のものにしたかの様に煌々と光る。
実際、ヒセイの髪の色の浅いのに比べれば彼はずっと暑いのが当然なのに、確りと仕事に
馴染んでいるのは寧ろ彼の方だ。
「御前は船が似合ってる、矢っ張り」
彼は首を傾げて眩しそうに腕を翳した。そうかな。
「良いよな圭次は。そうやってても格好良くてさ」
「はァ?」
真面目に誉めてるんだよ、真面目に。そう云い募ったとき頭上にベルが響いた。これまた
唐突に刺さるような大きさだ。何だ一体、圭次が拡声器のある司令塔を見上げて時鐘かと
云う。一緒になって其方を見たが、特別に何かが分かるのでもなかった。
――違う。ついさっき十時が鳴った
鳴った筈だ。重機の音に紛れる御蔭であまり自信はなかったが、汲み上げを始めて直ぐに
聴いた憶えがあった。じゃあ何だよ、そんなことまで知るか、俺達に関係あるなら連絡班
が来るだろ。
短銃を磨く此方の手元をじっと眺めていた少尉が、不意に口を開いてねえ、と云った。
「はい」
「丁寧だね」
有り難う御座います、秋嵐が頭を下げると少尉は椅子を下りた。近くまで寄って来て床に
座る。そうして興味深げに見る様な作業でもなかろうにと思ったけれど、上官に向かって
そう云う訳にはいかないので黙って少しばかり身を引いた。相手は秋嵐の動作に合わせて
気遣うらしく下がったがまた乗り出して覗き込む。
刃物研いだりとかも出来るの
――いえ、其処迄は
そう
船長室は一時間ほど前から主がいない。
私室に戻るからその儘仕事を続けるようにと云い残して船長が出て行きそれから暫くして
少尉が訪れ、そのほかの変化は何ひとつとしてない。この一時間ただ銃器類を磨いていた
だけだ。主人が外そうが客人が来ようが何と見えて変わる仕事ではない。向こうにしても
此方にしても、傍にいていない様なものだ。
こうも頻繁に手入れをしなくてはならないほど使われてさえいないものを、日々同じ順番
に並べては埃を払う。上官の側仕えほど下らない役目はない。
現実に実用に供される様になれば、きっと磨くこともなくなるだろう。
船外での肉体労働を課された仲間達は一様に不満を吐いていたが、そんな声を聞く度毎に
これに比べれば身体を使う分だけ良いのに、と考える。
彼等などには気疲れするばかりのこの仕事は耐え難いに違いないのだ。
つと眼を上げて見ると、姿勢こそ変わっていないものの少尉の焦点は既に秋嵐を逸れて、
その背後、斜め上の窓へずれていた。当然其処には空しかない筈だ。
この男は全く暇なのだろうか、呑気なものだと呆れてからその大元の原因に気付く。彼に
当てられた船長補佐の名は、船長に仕事がなければ同じく仕事がないのだ。待機と云うの
だからまあ暇に決まっている。
「君はどれだけ続くと思う」
「……え」
「待機だよ」
この時間さ、もう皆疲れて来てるから。
少尉は窓から眼を離さずに訊く。どうせ予想だ、君なら予想くらいは付いているだろう。
「それは。自分には判り兼ねます」
「本当に」
「はい」
見通しはないこともなかった。普段から船長室やら会議室やらについて入る秋嵐の耳には、
割に詳細にまわりの状況が伝わって来ていたからだ。それなのに何も考えないで流すこと
が出来るほど秋嵐の頭の回転は遅くなかった。
もうそろそろ何らかの進展が見られても良い頃だと思う。先の問いにしろそれを踏まえた
ことだったのだろうが、一兵卒が口に出して仕舞っては身の程に過ぎると云うものだろう。
――賭けでもしようかと思ったんだけど
ただそれだけだよ
彼はのんびりと眼を細め、それからふと誰かに呼ばれた風に何もない机の方を振り返って
ベル、と呟いた。ベルが鳴ってる。その台詞に秋嵐も耳を澄ます。神経を凝らしてみれば、
何処か――防音の為か遠くに聴こえる、多分船外だろう――から確かにそれは届いていた。
一定のパターンのある音は、初めは気付かないような小さなものでも一度捉えると逃がす
ことがない。
時鐘かな、彼は此方を見て云った。
時鐘であれば船室内でも鳴ると思いますが、ああそうか、そうだね、冷静に答えると少尉
は簡単に納得する。間の抜けたこの男はこれであの中隊長の補佐が務まるのだろうか。
ベルは未だ止まずに続いている。この音は耳につくから良くないな、少尉がそう云うその
うしろで今度は連絡管が喋り始めた。
中隊長殿いらっしゃいますか此方は通信室、此方通信室です
少尉はそれには振り返らず秋嵐の手元の短銃を見詰めて黙殺し、連絡管は四度呼び掛けを
繰り返したあとで応答なし、を最後に打ち切られた。
ベルが止む。
「何か変わったね」
顔を上げ秋嵐と視線を絡ませて少尉が笑った。
あ、止んだ、ヒセイが誰の鼓膜にも明らかなことを云いながら顔を顰めた。
彼は額の汗を拭ってどうすりゃ良いんだ、と困惑したように独り言を吐いたが、如何せん
圭次にも何ひとつ分からなかったのでそれは本当にただの独り言になって甲板に落ちた。
つい今し方までがあまりに五月蝿かった御蔭で、周囲は必要以上に静まり返っている。
「如何する」
「どうって云ってもなあ」
さっき連絡班が来るから待てって云っただろ自分で。そう云うと彼はまあそうだけど、と
曖昧に肯定した。来るならだよ、来るかどうかまでは俺は知らない。
「それなら待つしかないだろ」
取り敢えず司令塔から眼を引き剥がしてまた海を見る。これだから海軍に志願したのだと
云っても過言ではなかった。水の色は一面には同じだけれど、時々刻々と変わっていく。
退屈することがないし、何よりも綺麗だ。そして広い。陸にいると嫌でも地に足が着いて
仕舞うから、絶えることなく移動しているかの様な錯覚のある海ならば、どんなときにも
未だ気が安いだろうと思ったのだ。
正解だったな、ぐるりと周囲を見渡すと通路を出て来た船員と眼が合った。
急ぎ足に抜けて来た彼は、圭次とヒセイの姿を認めると訝しげな表情で此方に足を向ける。
その顔には見憶えがあった。慥か船内業務、通信兵か何かだったような気がする。幾度か
食事の席で近くにいた、ヒセイを通して知っただけだから詳しくはない。
「えっと……狐」
「キツネアザミ」
彼は簡潔かつ愛想のない声で訂正し、突っ立った儘の片割れに何してるのと云った。
今の御前聴こえなかったのか
今のって、さっきの。そうだよそれで確認に来たんだよ、僕は元々船内業務なんだから。
「それ俺も聴いた、大きかったし。あれが如何したって」
「あんたもか」
二人のあいだに割って入ると、通信兵は全く呑み込めていない様子のヒセイをおいて圭次
の方を見上げた。苛立ちを隠そうとしない視線に睨まれてやや上体を反らす。相手の胸の
無線機が喧しく呼び出し音を鳴らし、彼は左舷前方確認終了、急ぎ戻りますと云ってそれ
を切った。ほらあんた達が早くしないから呼ばれたじゃないか。
――何だよ
あのベル。船内に戻って待ての合図だよ、甲板業務の訓練やっただろ
――船内に?
待機は終わりだ。船長の指示を受ける
やっと終わるのか、ヒセイが云い通信兵は今から始まるんだよと補足する。御前この仕事
飽きてたよな、丁度良いじゃないか。ああそうだけど。会話を聞きながらヒセイの顔色を
見遣ると、彼の体調は回復したらしく先程より大分明るく開けた声をしていた。ただでも
暑苦しい軍服に重ねたレインコートを無造作に脱ぎ、此方を顧みる。船内に戻れってさ、
行こうぜ。
良いのか脱いで、服潮臭くなるぞ。尋ねると彼は笑って踵を返した。つい五分もまえには
死にかけた熱病患者の顔をしていた癖にと思う。その変わり身は何だか好ましくない。
「もう良いんだ待機終わったから」
「何でそうなるんだよ」
だからその儘だって。ヒセイの向こうで通信兵が圭次を一瞥して怖いの、と云った。一瞬
その言葉の意味が掴めなかったが、直ぐに否定すると彼は興味を失くした風で出入り口の
扉を引いた。どれだけ開け閉てをしても降って来る錆が三人の肩を汚す。
揃って扉を潜り通路を歩く。甲板上が明るすぎた所為で通路は薄暗い。圭次やヒセイには
私室と云うほどのものはないから、指示を待つと云えば下の寝所くらいだ。階段を降りた
処でヒセイが前を行く通信兵を呼んで、学校にいるのと今とどっちが良いと訊いた。
「学校に決まってるだろ」
そうか間違えたとヒセイは訳の解らないことを呟く。圭次は学校好きじゃないんだっけ。
「俺は真水ずっと作ってるのが良いな」
至極真面目に答えを選んだつもりだったのだけれど、彼は眼を伏せて息を吐いた。溜め息
と嘲笑のあいだを取った様な息の吐き方だった。こんな毎日変わらない海のうえで作業だ
なんて最悪だよ、俺なんかには出来ないんだ結局。
圭次には一体その何がいけないのか疑問だったがそれは云わなかった。
「もう何でも良いんだ。動けるなら」
だってその為に此処に来てるんだろう御前それ忘れてないか、皆そうなんだよ嫌でもさ、
ヒセイの眼が淡く光を帯びている。肉食の獣のそれが夜光るように、蛍光灯のしたで。
怖いの?
――違うよ
ああ此奴は馬鹿だ、矢っ張り熱病じゃないかと圭次は思った。そんなのは間違ってる。
執務と私用のそれぞれに用意された部屋が半端に離れているのが不便で、泊夫藍は行き来
の度に首を捻る。すぐ隣に寝所のある観測や通信の方が余程便利だ。曲がりなりにも船長
の職に立っていながら、何故こうした些末な不便を感じなくてはならないのだろう。
設計者が自分の上役を嫌っていたのかも知れない。多分彼も船乗りだっただろうから。
船長室の扉を開けると、床に銃器を磨いていた秋嵐が立ち上がって敬礼をした。知らぬ間
に来ていたらしいアイズミも遅れて振り向き、ああ船長、と云う。
取り敢えず見回してみたが指示した筈の特務班長は来ていなかった。
「ジェイは」
「え、いや僕は見てないけど」
「それから床に座るな」
アイズミは不満のある顔をしたがそれでも立ち上がり、入れ替わりに座る秋嵐を指差した。
その指の先におかれた当人は慣れた遣り方で頭を下げる。
「彼だって座ってるじゃないか」
「彼のそれは役目だ」
ああ、そう。彼は取り敢えず納得した様に頷いたものの、椅子に落ち着く気はないらしく
少しうろうろと歩き回ってから窓のまえで止まった。二重の強化硝子に手を突いて船外を
眺める。その手の置き方の妙なのは、以前泊夫藍が硝子に指紋が付くから触るなと云った
からで、それから彼は手の甲や爪の先で窓に触れる。
海を見てると手を突きたくなるんだよ、解るだろ
――解らない。実際にはそうは云わなかったが。解らない、そうして一言否定したからと
何かひとつでも良いことがある訳ではないのだ。こんなときに仕事を抱えて海など見ては、
その広さが必要以上に自身が縮んでいくような感覚を齎らすだけだと、そう思っても。
そうだ何かあったのか、と突然アイズミが訊いた。あの人呼んだんだろう、ほら、ええと
特務班長。
「御前いつから此処にいたんだ」
「半刻くらい前から」
「それなら連絡が来ただろう」
でも僕は聞いていないよ。どう云うことだ、第一報は此処の連絡管に来る筈だぞ、泊夫藍
が眉を寄せるとアイズミはあっさりと首を縦に振った。来るには来たけど……あれは船長
の専用線じゃないか。
「船長のいないときの為に補佐がいるんだよ。御前が受けないで如何するんだ」
アイズミは小さく肩を竦めてみせた。次からそうするさ、ただ聞きたくなかったんだよ。
彼の台詞に黙って作業を続けていた秋嵐がほんの少し眼を上げ、また自分の手元に戻した。
多分呆れているのだろうと思う。秋嵐は泊夫藍が目にかけて選んだ兵で、予想したとおり
卒なく責務をこなして立ち働いていた。それを一番近くに見ていると、皆が皆これくらい
優秀ならと望まずにはいられない。
何も全てにおいてでなくて良いのだ、それぞれの任に上手く立ち回ることさえ出来れば。
「今ので待機が解けた」
そう教えてやるとアイズミはそれは凄い、と呟いて窓際から一歩退がった。それはつまり
もう戻らないんだな、これから面倒は全部自分持ちだ。
「どれだけ続くか賭けようと思って、彼に持ち掛けた処だったんだけど」
「下らないことを」
「下らなくはない、数少ない娯楽のひとつだ」
そうだ船長、賭けないかこの任務。成功と失敗と
彼は此方に遣って来て椅子の背に掛けた上着を取り、袖を通しながら云った。
――誰を相手に云うつもりだ、仮にも船長の俺がどうして失敗を取れる?
勝つに決まってるだろう。勝たないなら意味がない
そんな不公平なゲームには乗らないよ、そう告げたが彼はじゃあ僕が失敗の方を取ろう、
と笑った。中身なんて何方でも良いんだ別にさ、結果の出る目安さえあれば。金釦を弄る
彼の爪先が楽しみを待つ子供のそれとあまり変わらないので、兎にも角にも先を見ようと
する質の泊夫藍は暗澹たる心持ちにさせられた。何を賭けようか。彼はと云えば泊夫藍の
胸中とは関わりなく、まるで屈託のない様子で話を続ける。
――だからそんなものは何も
云い掛けた端を引き留める。金は元より金目のものにも差し出すに足るとは思われない、
既にそんな駆け引きは出尽くして仕舞っているのだ。ましてこのときから戦場になろうと
云うのに、只の軍人に賭けられるものなどひとつきりしか残されていない。
「戦地に賭すものさ」
「それは、」
命だよ命、他に何がある
アイズミの声を断って扉が開く。
凛と人を打つ調子の主は特務班長だった。アイズミのうしろになって戸口は見えないが、
支給の軍靴と違った鋲の音は他と比べて高いから直ぐにそうと知れる。私は違うけれどね、
失敗だなんてそんな馬鹿な話は君の小隊だけで十分だよ。
「酷いな、何にしろ僕の命はないじゃないか」
まあ賭ける分には……船長に御返しして頂くことも出来るが。人の揃ったのを見て取った
補佐がやっと執務の席に戻り、視界を遮る影がなくなって眼を向けると端正な顔が面白く
なさそうに此方を見ていた。元のつくりが整っているだけに、そうした様子は精巧な機械
を連想させる。何処か人を離れた空気があるのだ。
私は失敗はしませんよ
――解ってるよ、遅かったけれど何をしていたんだ
配下に指示を出していましたから。特務班の準備は出来ています
――それなら良い。それを聞きたかった
これから集会があるがまあそれは君は出席しなくても構わない、特務班長は何も云わずに
眼だけで頷いた。普通なら穏やかにも見えそうなグレイの眼は刃を呑んだような気配で、
口調だけは慇懃でも、気を許すつもりのないことをはっきりと語っている。
民間の職業軍人と云うのは皆こんなものなのだろうかと今更になって思う。派遣だろうが
何だろうが有能ならばそれで良い、そう主張したのは泊夫藍自身だったが、ふと敵味方の
別を失って仕舞う様な気分に捉われた。
――出来るかぎり死傷兵の出ないように
はい
副船長からは何かあるか、一応筋に沿って尋ねてみたものの、アイズミは先の特務班長と
同じくらいに詰まらない表情をして出来るかぎり死傷兵の出ないように、と泊夫藍の台詞
を繰り返した。私からは以上です。
それを受けた特務班長は僅かに眉を寄せ、分かりました、と応える。客観的に見れば彼が
不満を抱くのも無理のないところだけれど――泊夫藍やアイズミの様な頭脳労働ばかりの
士官など、実戦においてはそれほどの役にも立たないことを知っているのだ。
「それから」
続けようとしたとき背中で連絡管が呼んだ。此方通信室より報告。
「ああ済まない、ちょっと良いかな」
手で待つように知らせると彼は少しうしろへ下がった。周囲を見回して秋嵐に眼を付けた
らしく其方へ歩み寄る、其処まで確認してから泊夫藍は連絡管に向かった。
船長室だ
――甲板退去、確認終了致しました
じゃあこれからの指示を各部へ連絡。了解しました、どうぞ、管の向こうの声には緊張が
窺われた。待機解除の報せは初めに通信室に届いた筈だから、彼ももうこれからの指示に
予想が付いているのだろう。現停泊点から予定通り航行開始、全艦に待機解除を放送して
……交替制業務に今就いているもの以外は全員会堂に整列するように。船長及び副船長の
訓示がある、以上。
及び副船長の、と云う処で肩越しに本人を見遣ると、彼は白地に拒否の仕草をしてみせた。
こう云ったときだけはやたらに器用だ。
――了解
「君の仕事は何」
「船長室付きの庶務であります」
これからはどうなるの、臨戦態勢時はと云うことですか。耳の裏側に聞こえる特務班長と
秋嵐の会話が一区切りするよりまえに、終了します、と連絡管が挟まれて泊夫藍は途中の
二言三言を聞き逃した。
――それは護衛に当たると思います
管をおいて特務班長を呼ぶと、彼は一方的に話を切り上げて遣って来た。その手に分厚い
紙の束を渡す。現在迄の定時報告と状況の変化を纏めた写しだ、必要に応じて見てくれ。
彼が肯定の素振りをしたのはただ単にそれを受け取ったことに対しての証であって、実際
に全部を読むかどうかは怪しいものだと思ったが何も云えなかった。まあ新しいあたりの
何枚かは参考になるだろうし、その判断は此方によることではないのだ。
「これだけですか」
「ああ」
泊夫藍が云い終わるのと殆ど同時に、彼はそれでは退室します、と告げて扉に向かった。
それから忘れものに気付いた様な軽い所作で振り返り、ちらと秋嵐に眼を遣って彼は何処
の所属ですかと云う。秋嵐は一通りの点検を済ませたらしく片付けを始めていて、今度は
話に名が上がっても顔を上げなかった。
「彼は船長室の直属になっている、特務班には貸せない」
「何故ですか」
「……聞いただろう。護衛なんだ、万一の盾だ、だからだよ」
秋嵐は矢張り黙して自分の手元に徹している。もし彼が此方を見ていたらもう少し違った
理由にしたかも知れない。
そうですか。特務班長の線の細い容貌に遠慮のない軽蔑が浮かんだがそれは半瞬で消え、
彼はあっさり引き下がって身を翻した。アッシュグリーンの流線を残像に扉が閉まる。彼
の髪は泊夫藍のそれよりは短かったけれど、纏めなくてはならないほど長いのはその二人
くらいだったし、何より丁寧に染められた色の所為で随分目立っていた。落ち着いていて、
不思議なほど彼に良く似合う。
特務班長が部屋を出て仕舞うと秋嵐が手を止めて戸口と二人の上官を見た。視線が合って
先の特務班長に感じた風な錯覚に陥ったが、ただ指示を求められているだけだと気付いて
瞬きをする。何処かが磨耗している。
「集会だ、行くぞ」
アイズミは椅子を立って、待つのが長過ぎていけないんだと云った。中身は知ってるのに
いつ来るのか判らない、皆が疲れて来ている、そんなのは当然だろう。
殲滅だね
――何が楽しい
楽しいとは云ってないさ
秋嵐が軽機関銃の銃床で床を突く。重い音だ。船長室の備品扱いになってはいたものの、
多分自分達が使うことはない筈だ――艦自体が実戦に巻き込まれれば話は別だけれど――
だからつまり護衛が要るのだ。
あの特務班長は違う、もしこの任で血を流すことがあっても足を止めたりしないだろうし、
その気位の高さは微塵も揺らがないだろう。
扉に手を掛けて室内を見渡すと海が眼に入った。質量の知れない広がりが水平の向こうに
続いて、油を散らしたかの様な光点が形を歪めながら動く。
そうしながらも乱れることのない平面は人々を縮ませ、変わることなく泊夫藍の本能さえ
狂わせる。我々はこんなにも小さいのだ、今は何処にいて的は何処にあるのだろう、訳も
解らないで縮んで消えていく。
その限りには何も見えないのに、盲目であるのとどれだけ違うと云えるだろうか。
海に触れようと、そのとき其処には窓があるからとアイズミは嘯く。それが行き場のない
逃避でも果てのない大洋への憧憬でも、我々は小さすぎて何処にも行けはしない。
何も見えない、もし触れたなら同じく底のない水のなかで何が見える、
「殲滅だ」
泊夫藍の声は誰にも届かず、滑りだした船のエンジンに紛れた。