nove2
白銀霧理

マイスリー

雨が降っている様な気がした。
 ずっと頭痛が収まらない。酷い眩暈と耳鳴りと吐き気で死にそうだ。薄暗い蛍光灯の下で一人で蹲って、
どれだけ時間が経ったのかもう良く解らない。耳の下から顎にかけてのリンパが押し縮められた様に狭くな
って苦しい。飲み込む唾液は水の様に粘度がなく、その癖喉を通す時には何か異質なものでも含んでいるか
の様に引っ掛かりながら降りていった。呼吸が浅くなる。目を開けていられない。重苦しい、青黒いばかり
の視界に囲まれた小さな檻の中で押し潰されそうだった。
 雨が降っていると思ったのは、体調が悪い時にいつも雨が降るから、その習い性だ。根拠はない。
 押し潰されて死にそうだ。



 丸く空けられた窓の向こうをゆらりと海月が漂って通り過ぎた。内臓の透けた薄いゼリー質のドームの様
なその生き物達は日々咀嚼し、或いはただ彷徨う様に浮遊する中で一体何を思っているのだろう。分厚い圧
力ガラス(実際にはガラスではないのかも知れないが子供には判じ得ない)の填め込まれた鉄扉は驚くほど
冷えていて、触れているだけで指先の熱を全て奪っていった。ちりちりと痺れる様な痛みが走る。
 退屈と云う言葉の煮凝った様な船の中で凝視に耐えるものは驚くほど少ない。不確定な動きを見せるのは
丸窓から見える深海を蠢く微生物ばかりで、さして広くない艦内では立てる靴音さえも皆一様だった。充分
に明るい筈の蛍光灯の光は妙に薄やれて見える。メインの船室では今日も指南書の様なチェスが繰り広げら
れているのだろう。将棋も碁も麻雀もうるさいから、云い渡されてそれじゃあと少佐が持ち出したものだ。
 あとは双六もあるけど、みんなでやる?
 彼の提案は即座に却下され(バックギャモンとかならまだ付き合ってもいいんだけど人生ゲームはちょっ
とね、と黄色い髪の青年は苦笑した)、唯一彼と同じ様にごく退屈な遊戯を楽しむ趣味のあるらしい少尉が
ぽつぽつと相手をしている。恐ろしく古風で格式ばった古典音楽の様なチェスはきっと子供でなくとも憶え
てしまうだろう。見るべきものが何もない。同年代の少年達ほどあからさまではないにせよ、子供は退屈に
欠伸を噛み殺していた。
 大して広くない船の床は男所帯で荒れているのが常だ。誰ぞの母親の写真やら鉄アレイやら空缶やらポル
ノ雑誌やら、そう云うもので埋め尽くされる筈の床はしかし、磨き上げられたとまでは行かないもののきち
んと片付いている。乗組員に几帳面な性質の人間が多いからだ。
 深い海の中をすべるように航行する潜水艦は子供の知っているどんな船とも違って、口を閉ざした貝の様
に揺れも震えもしなかった。たとえエンジンが死んで動かなくなってしまったとしてもきっとすぐにはそう
と判らないだろう。それほどに道行は静かだった。深すぎる沈黙と丸窓の外の不可解な光景は何処か宇宙を
彷彿とさせた。
 興醒めなチェスの試合にしばし付き合っている間に船室の奥からふらりと一人の青年が現れた。
 彼は御伽噺の様な名前を持っている。御伽噺にしか出て来ない様な、何か箱の名前だ。玉手箱とかそう云
う類の、見た事も触った事もないが存在自体には親しんでいる様なそう云う奇妙な箱の名前を彼は持ってい
た。
 気怠く緩んでいた場の空気がすうと揺らいで、少佐以外の全員が其方をそれとなく注視する。
 この青年が現れるといつもこうだ。子供にその理由は知れない。安い間仕切りで仕切られた向こう側には
笑ってしまいそうに馬鹿げて物々しい計器類が累々と連なっている(流石に子供が其方に入ると皆いい顔を
しない)。明滅を繰り返す聖誕祭のデコレーションの様なとりどりのランプが何処か殺伐とした様子で輝い
ていた。それは何かを模した様で啓示的で、どうしようもなく薄っぺらい。
 彼は重い様子で口を開いた。
「……状況に変化無し、引き続き作戦を遂行せよ。だそうです」
「そ」
 少佐の返事は飽くまで軽い。少尉は腕を組んだままで肩を竦め、灰になりかけていた煙草を揉み消した。
 青年はほんの少し眉を寄せ、辺りに放置してあったちゃちなスツールを引き寄せて其処に座った。口元を
押さえて暫し黙る。少し眠たそうだった。
 黄色い髪の青年が微かに笑いかける。
「お疲れ様」
「有難う。交代頼むよ」
「少し寝た方がいいよ、気疲れしただろう」
「そうする。何かあったら中尉が解るから、そっちに云ってくれ」
「ああ」
 手短な会話を残して黄色い髪の青年は席を立った。衝立の向こうには何か通信機器のようなものがあるら
しく、それを傍受するのは主に御伽噺の青年の役目らしい。彼が外す時は黄色い髪の青年が請け負うのが暗
黙のローテーションだった。彼らは言葉少なに労い合いながら聖誕祭の前で役目を全うする。
 黄色い髪の青年は実質的に子供の世話役だ。この船に乗ってすぐに少佐が俺の隠し子を頼むとか何とか云
って彼に押し付けたのだ。青年は嫌な顔をする訳でもなく役に甘んじている。命令に忠実なのか、単に子供
が好きなのか良く解らない。どの道子供には大して関係のない事だった。大抵の事なら世話を見られずとも
自分でする。
「君もついて行ってやって」
 黄色い髪の青年がそんな風に云って子供の背を押した。御伽噺の青年は微苦笑する。
「別にそんな」
「倒れた君よりは役に立つだろう」
「倒れたりしないよ」
 呆れた様な声を出す。黄色い髪の青年は揶揄う様に肩越しに手を振って衝立の向こうに消えた。
「……先生に宜しく」
 彼の姿が見えなくなる寸前、呟かれた科白に青年はごく僅かに肩を竦めて見せた。



 医者は紙の様に真っ白な顔をして薄暗い蛍光灯の下にあった。その顔色には奥行きと云うものが感じられ
なかった。白く貼り付けた様で、所々の陰影はどす黒く青ばんで死んだものの様に沈んだ。四畳ほどの狭苦
しい医務室の蛍光灯は彼が其処にいるというだけでより一層不健康な光を放っている様に見えた。ありとあ
らゆる白いものは殺伐とした色をしていた。全てのものが色褪せて死に掛かっていた。
 最初その部屋の扉を開けた時、医者は書き物机の前に座って両肘の間に頭を埋め、じっと耳を塞いでいた。
彼が呼吸をする度に白衣の薄い背中が浅く上下した。御伽噺の青年はその様子をじっと見守っていた。彼が
その机の前から立ち上がり此方に向き直る様子は生まれたばかりの草食獣の子供が覚束無く立ち上がる場面
を彷彿とさせた。何度も膝が抜けて彼は草の上に足をついた。それでも彼は立ち上がらない訳には行かなか
ったのだ。彼の匂いを嗅ぎ付けて死肉を漁るけものが集まってしまう前に、彼は生き残るためにどうしても
そうしなければならなかったのだ。
 彼は殊更にゆっくりと椅子を引いて、重たげに頭を持ち上げた。やわらかそうな茶色の髪が頼りなく風に
散った。それから両腕を机に突っ張って上体を持ち上げ、喘ぐ魚の様に鋭く短く息を吸った。薄い背が僅か
に痙攣した。そして、錆付いた人形の様にぎこちなく椅子から立ち上がった。動作の間中伏せられていた目
蓋の下で忙しなく眼球が動いていた。彼は骨張った両手で顔を覆い、今度は細く長く空気を吸い込んだ。ゆ
っくりと上下した肩の動きでそれが判った。
 そうして彼は漸く上体を捻る様にして此方を向き直った。目遣いのきつい、大きな瞳だ。痛みを堪える様
に眉が寄せられていた。
「……御免。何?」
「眠りたいんですけど、少し頭が痛むから軽い鎮痛剤を貰えますか」
 医者は遠くを見る様に目を細めて青年を見た。それから諦めた様に一旦目を閉じ、額を指で押さえて暫し
固まった。そのまま口を開く。
「普段使ってる薬は? アレルギーとか、喘息の発作」
「特にないです。いつもは頭痛もあまりしないし、最近は御医者にも掛かっていません」
「座って」
 小さな寝台の上に青年を促す。固めのマットレスを敷かれたそれは誰かを寝かせるためのものではなく、
単純に横になって診察を受けるためのものの様だった。
「今、睡眠薬しかないんだ。軽く、記憶が飛ぶかも知れないけど」
「構いませんよ」
「――麻薬は」
「いいえ。経験もないです」
 彼は少しの間青年の瞳を覗き込んだ。値踏みする様な視線だった。仕方ない、戦場に麻薬は付き物だ。
「何か原因に心当たりがある? 二日酔いとか、寝不足とか」
 医者は少し早口になった。はじめはゆっくりと言葉を選ぶ様にして話していたのが、徐々に、ほんの少し
ずつ饒舌になっていった。多分彼は仕事の話をするのが気楽なのだ。医学的知識に関してのみ、彼は此処で
は王様になれる。事実彼の澱んだ様な色を映していた瞳は少しだけ光を取り戻していた。湯気で曇った硝子
越しに覗いた蝋燭の様な淡く微かな光ではあったが、光である事に間違いはなかった。
 御伽噺の青年は少し口篭った。
「――国が負けるかも知れない」
 医者は少しの間動きを止めて彼の方を見た。それから軽く俯いて青年から目を逸らした。
「ああ……」
 医者の仕草は何処か人を不安にさせた。口調や動作の端々の細かい仕草が、何か心苦しい事を隠している
様に見える。この部屋の空気がこうまで張り詰めているのは皆がその秘密を探ろうと構えなければならない
からだ。
 そう云う事が気になるんだね、と彼は云った。御伽噺の青年は黙って目を閉じていた。
 気になる訳ではない、と彼は云いたいのだろう。彼はただ単にその訃報を皆に伝達しなければならないポ
ジションにいるから、その厄介な伝言を聴いて伝えるのが億劫なだけだ。
 でも、だからと云って何故彼がわざわざ意に染まぬ事を云ったのかは子供には良く解らなかった。
「海は好きですか」
 不意に青年は云った。
 医者は眉を寄せた。
「どうして」
「僕は苦手なんです。頭痛はその所為かとも思ったんですが」
 医者は殊更にゆっくりと口を開いた。
「……国が負ける所為だよ」
 彼の瞳はあの最初の何も映らない濁った色に戻っていた。



「――どっちが勝つと思う?」
 少佐は子供の頭にぽんと手を置いて屈託なく云った。
 三日ほど前の事だ。彼らは矢張り同じ様に退屈なチェスの盤面を囲んでいて、子供はその横で同じ様に退
屈していた。
 少佐の手は硬くて大きかった。そしてきつい煙草の匂いがした。僅かに癖のついた前髪の隙間から覗く細
い目を見詰めると彼は口元で笑った。
 彼らはいつもの様に下らないチェスの試合をしていて、だから子供にはその結果は判り切っていた。白は
常に黒を追い込んだ。黒が少尉で白が少佐だ。上官の顔を立てて黒が負けに甘んじているのか、或いは本当
に腕前の差なのか、観戦している方には判らない。
 子供は白の歩兵を摘んだ。丁度子供の右手の親指くらいの大きさのその駒は三百六十度個性のない顔でじ
っと命令を待っていた。
「こっち? 嬉しいなあ」
 少佐はそう云って子供の頭をぐしゃぐしゃと掻き回す。
「ポーンってのがいいな。戦いに勝つのは何時だって雑兵だ」
「王様はフィギュアヘッドだからねえ。くっついてればいいの」
「でも俺達はそうは行かない」
 アレだってくっついてるだけじゃ役に立たない。二人はそう云って意味ありげに笑った。後ろのスツール
で黄色い髪の青年が冗談めかして肩を竦めた。
「そうじゃなくてね、本当の喧嘩はどっちが勝つと思う?」
 働く王様もいるだろう。子供は思う。例えばあの医務室の半病人。
 少佐は腕を伸ばして子供を引き寄せ、膝の上に座らせた。そう云う事を喜ぶ様な歳の子供ではないのだが、
彼は別に子供を喜ばせようとしてそうした訳ではない。彼はただ単純に珍しい玩具と戯れているだけなのだ。
焦茶色の髪の中に顎を埋めて遊ぶ。子供は目を閉じて無抵抗だ。
 現在の戦局など子供は知らない。子供はこの潜水艦が着岸する予定の港のある町の地理に詳しいからと云
う理由でこの船に乗せられているだけだ。敵戦地でも占領地でもない、第三国の現地民だ。案内をしろと小
金を握らされただけで関わりはない。
 そう云うのは子供の住む界隈では良くある事だった。実際に船に乗るのもこれが初めてではない。子供は
どうしてだか口を利かなかったからその分重宝がられる節があった。ついうっかり、で口を滑らせる事がな
いからだ。無関係な国の渡し屋の子供に兵隊達は概ね優しかった。こうして膝に抱き上げ、ぽつぽつと故郷
の話の輪の真ん中に置かれていたりする。いずれにせよ子供は喋らない。ただじっと聴くばかりだ。
「少尉は?」
 黙り込んだままの子供を放って矛先を変える。彼は面白そうに眉を上げて足首を膝に乗せた。
「わざわざ訊いてどうする」
「別にい」
「あんたはどう思うんだ?」
「そりゃあ白が勝つさ」
 その話じゃないんだろう。間延びした口調に苦笑しながら少尉は云う。上官にこんな口利きをしたなど外
にバレれば降格ものだ。二人の間にはとても似た色の諦観に似た雰囲気が漂っていた。戦争を歓迎しても拒
絶してもいない空気。彼らは状況に甘んじている。
 大人になるとそう云うものを読める様になって来ると以前町の大人に教わった。流れに逆らっていい事は
ない。それだけは憶えておきな。それでも逆らうのは自由だし、骨のある人間になりたきゃ厭でもそうせに
ゃならん時がある。河の流れを形作るのは石だが、石そのものに決定権はない。石を動かすのは河で、石が
なければ河は河たり得ない。不思議なものだ。
「あんたは国では何をしてたんだ」
「――僕ですか?」
 急に話を振られて黄色い髪の青年が顔を上げる。それからちょっとばつの悪い顔になって、失礼致しまし
た、と頭を下げた。少尉が苦笑する。黄色い髪の青年は少し口元を緩ませたが、表情は真面目だった。
「自分はまだ学生でした。状況が許せば、修学に邁進したい考えであります」
 堅苦しい語調は彼のポリシーらしい。前の戦争の映画みたいだと御伽噺の青年に揶揄われていたのを子供
も聴いた。彼はカウンターテーブルに読みかけの本を置き、綺麗に背筋を伸ばして上官二人をじっと見詰め
ている。姿勢の良さと、それと裏腹な表情の穏やかさが彼を道化でも胡麻擂りでもない規範に忠実な兵隊に
仕立て上げていた。冗談の様な口調を違和感なく付随させている。器用なものだ。
「家族は?」
「両親と、弟が一人あります」
「弟さんは引っ張られたの」
「現在は陸軍の方で任務に当たっております」
「陸か。確かあんたも、元は陸軍の配属だったよな」
 ふと少尉は少佐の方に水を向けた。少佐は壁を動かして騎士を取った。歩兵の射程距離に自分から滑り込
む。あからさまに誘っている。チェック、と脈絡を無視した言葉を吐く。それからやっと顔を上げて、細い
目を一層細くした。碁盤目の板の上は煙草の煙で薄く靄がかっている。
「元々俺は傭兵だからさ。御国の為の無償奉仕もそろそろ厭になってきたし」
 これが終わったらその脚で何処か国の外へ逃げる、と彼は悪びれもせずに宣言した。その為にこの子に来
て貰ってるんだし。
 少尉はお手上げだ、と云う様に両手を挙げた。
「呆れたな。どうして士官なんてやってるんだ」
「腐れ縁さ」
 そう云って少佐は無表情のまま、長く伸びた前髪を軽く掻き回した。



 ゆっくりと浸してゆく様な温い沈黙が落ちた。医務室に特有の薬臭さと冷気をそれとなく子供は楽しむ。
医者はあれからずっと口を開こうとせず、几帳面に整えられた事務机の棚の中から何種類かの薬を取り出し
て選別していた。
「――此処で飲んでくれる、規則だから」
 趣味の悪いピンク色のシートに褐色の錠剤が並んでいる。医者はその中からひとつを慣れた手つきで切り
取ると青年に渡した。青年は素直にパッケージから薬を取り出し、プラスティックの安いコップで温い水と
ともに錠剤を流し込んだ。薬は飲んだ瞬間に効いた気がして少しおかしいね、と穏やかに微笑む。そして言
葉通りにひとつ空欠伸を漏らした。
 その動作の間中、医者は手持ち無沙汰な風に事務机の前に立ち尽くしていた。椅子に掛けようとしないの
は彼が無意識に警戒しているからだ。青く冷たい空気に彼の戸惑いと苛立ちと孤独が混じって澱む。気詰ま
りな沈黙が重い。
 御伽噺の青年がコップを手渡そうと顔を上げたところで控えめにノックの音が響いた。
 医者の纏う空気が一瞬酷く張り詰めるのが伝わってくる。
 こんな風に傍観している方にまで如実に伝播するほどの緊張と云うのは尋常でない。何故こんな男が医者
などやっているのだろう、と子供は疑問に思った。彼自身がどうしようもなく病的で思い詰めていた。損な
われる事を恐れるのは与えられる保証のない人間のする事だ。彼が何かを補修しつくりだすほどの余裕を持
ち合わせている様にはどうしても見えなかった。
 扉の向こうは暫く沈黙していたが、返事がないのに焦れたのかそのまま微かに錆びた音を立ててドアが開
いた。
 立っていたのは中尉だった。
「取り込み中かな」
「いいえ、もう済みました。御用件は」
 御伽噺の青年は屈託なく答える。中尉はふん、と軽く相槌を打つ様に首を傾げ、開けたままのドアを見て
少し逡巡すると中に入って扉を閉めた。
「そろそろ昼だろう。倉庫に行く用があるからついでに飯も取って来る。君達は何か食べるかい」
 彼もまた軽い口を利く。上官がああでは規律を守る事など馬鹿らしく思えても仕方ないかもしれない。此
処では黄色の髪の青年の方が滑稽に見えるくらいだ。
 中尉はこの船の記録係も兼ねていて、いつも寝室に据え付けられた小さな書き物机に向かって分厚い日誌
に平坦な日常と任務の様子を綴っている。そうでなければ其処で私物の本に目を通し、夜間なら軽く御禁制
のウィスキーを呷っていたりした。他人のいるところで個人的な事をするのが厭なのか、皆が集まる大きな
部屋にはあまり姿を見せない。
 綺麗に背筋を伸ばした所作は何処か黄色い髪の青年に似ていたが、中尉の方が幾分素っ気無いところがあ
った。子供にかかずらっている事は殆どない。
「私は結構です、今薬を戴いて飲んだところですから。君は?」
 子供は軽く頷いた。再び青年に何がいい、と訊かれ、今度は横に首を振る。別に何であろうと構わないし、
大体元から名前は違えど味は似たり寄ったりのレトルトなのだ。子供のジェスチュアに一番慣れているのは
黄色い髪の青年で、その次が何故かあのやる気のない少佐だった。彼の仕草や口調は観光客に怪しげな民芸
品を売りつける露天商の話術に良く似通っていると子供は思う。ある意味で人心を掌握するのに長けている
のかも知れない。
 今にして思えば成程、確かに彼は根無し草だ。誰かを仕切ったり命令したり機雷の発射スイッチを押すよ
りは、身一つでふらりと出向き、相手の眉間に銃口を突き付けている方が似合うだろう。あのやる気のない
視線で、銜え煙草のままで。彼の予言通りなら恐らく彼の道行きに自分は付き合わされる事になる。構いは
しないが、そうなったら負けるかも知れない彼らの国は一体どうなるのだろうと少しだけ考えた。
「先生はどうします」
 中尉の問いかけに医者は拒絶の視線を返し、それから僅かに首を振った。中尉は少し肩を竦めた。
「食べないと身体に障りますよ」
 医者は何も云わなかった。
 その様子を見て諦めたのか中尉はゆるりとドアノブに手を掛けた。ふと気付いた様に子供の方を向く。
「ああ、君、ちょっと手伝いに来てくれないか。多分一人だと持ちきれない」
 大して重たいものではないから、と付け足す。
 御伽噺の青年が云った。
「僕が行きましょうか」
「……あんたは、駄目だ」
 それまでずっと口を噤んでいた医者が不意に口を挟む。全員の視線を集めて彼は居心地悪そうに眉を寄せ、
一度大きく息を吐いてから途切れ途切れに続けた。
「薬が、効いてくる。途中で意識がなくなったりすると、転んだりして危ないから……」
「そうですか」
 それなら矢張り、と中尉は子供の方を見た。別に断る理由はない。
 中尉はお邪魔様、と誰にともなく云って安い造りのドアを開け、仄暗い廊下に滑る様にして出て行った。
子供もそれに続いた。



 倉庫の電灯は薄暗かったが、黄色いそれは医務室の青白い不健康な光よりも随分光らしく見えた。
 食料や水の類は使用頻度から一番手前の方に纏めて積んである。中尉はそれには目もくれずに倉庫の一番
奥まった空きスペースに軽く寄りかかって立った。こおん、と云う高くくぐもった音が狭い倉庫の中で反響
する。重い扉が閉まった音だ。
 彼の背中の後ろにはダクトパイプの通ったパイプスペースがあるらしく、細い管の中を空気が駆ける音が
低く濁流の様に振動になって伝わった。
「君に頼みがある」
 中尉は細かに震える鉄板の壁に背を預け、低く視線を流しながら云った。
 彼は無造作に積んであった積荷を少しずらすと、その中から黒い表紙のB5サイズのファイルを取り出した。
子供にも見覚えのあるシンプルすぎるデザインのそれは彼が毎日几帳面につけ続けていた航海日誌だった。
中尉はそれを何か忌々しいものであるかの様に暫くじっと睨み付け、やがて薄明かりの中に翳す様に閃かせ
た。
「船が着岸したらこれを持ってすぐに身を隠して欲しい。それで、これを燃やすなり何なり、消して欲しい
んだ」
 子供は彼を見上げた。
 中尉は不機嫌そうな顔をしていた。
「国が負けると、これは軍事裁判の証拠品になる可能性がある。君は無関係な国の人間だし子供だから見つ
かっても直ぐに保釈されるだろう。現地民だから地理にも長けている筈だ。身勝手なのは解っている。頼む」
 彼の不機嫌はどちらかと云うと不貞腐れたと云う雰囲気の方が近かった。何が気に喰わないのだろう、国
が負ける事か、或いはもっと単純に地道に続けてきた作業を自分の手で無に帰さなければならない事か。彼
の後ろでダクトが聖誕祭のノイズにも似た重低音を奏でている。聴こえている事を忘れそうに低い、その癖
耳が壊れそうに鳴り響く頭痛を誘うメロディだ。
 理不尽であると思った。
 こんな、こんな大仰な機械を使ってまでの殲滅戦になど興味もなければ関係もなかった。だからこそ気楽
に、何の心構えもなく兵士たちの郷愁を右から左へと聴き流していたのだ。これは金銭を介在させたビジネ
スだった筈だ。謂れのない残業を引き受ける理由は何処にもない。
 けれど、彼や彼らの雰囲気がそれを許さないと感じた。
 流れだ。ダクトの中を流れて行く低い濁流に強く押し流される。逆らっていい事など何一つない。
 踏ん張るのか、身を任せるのか、即決する事は出来なかった。
 子供は彼に背を向け、倉庫の入り口に向かって歩き出す。重たい扉と格闘していると中尉は何かを投げて
寄越した。反射的に受け取ったそれはレトルトにありがちな分厚い銀色のパッケージに包まれた流動体の栄
養食品だった。
「……悪いな」
 振り返った一瞬を逃さず、念押しする様に中尉は云った。廊下の光は眩しく、退屈で物憂かった。
 愛すべきは沈黙だ。整いきった論理でも気の利いた反駁でもない、沈黙だ。
 誰かのいるところに行きたくなくて、医務室の前で足を止めた。此処は静かだ。殺伐として張り詰めてい
るが、静かだ。
 その中で王様の医者が独りでぽつぽつと呟く様に話すのが聴こえた。痩せ細った、裸の王様。
「海が怖いんだ」
「匂いを嗅ぐだけでも駄目で、何度も吐いた」
「こんなところに来るくらいなら死んだ方がマシだと思った」
「手が震えて、唇が痺れて」
「ずっと耳鳴りが止まないんだ」
「……あんたが麻薬を持ってなくて良かった」
「普段は、あんまり使わないんだけど……リタリン」
「雨が降っている気がしないか」
「重りをつけて沈められている」
「押し潰されて死にそうだ」
 ――聴くべきではなかったのかも知れない。ただ、子供には此処しか行き先を思いつけなかったのだ。 
 口を利けない事を良かったとも厭だとも思わないが、今回だけはそれが褒められた特徴である様に思えた。
 断続的な王様の独白が不意に長く途切れる。
「国が負けたら、一番に貴方に云いたいと思ったんです」
「……」
「貴方が一番帰りたがっている様に僕には思えたから」
 青年は再び眠りに落ちた様だった。きっと目が醒めたら憶えていないのだろう。何もかも。
 理不尽だと思った。
 こんな物憂い蛍光灯の下で、退屈なチェスの試合の中で、不自由なドラッグに沈んで、一体どれだけの人
間が濁流の中で溺れて行ったのだろう。
 白い廊下はまた沈黙に閉ざされた。
 それでも、愛すべきは沈黙だ。



 戦争が終わって船を下りて、もしも無事なら新聞を買いに行こうと決めた。
 無性に今日の天気が知りたかったのだ。
 足元に叩きつけられた透明のジェリーが流れ出してきらきらと光を跳ね返した。





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