タイマン野郎その2
マニエリストQ
QBOOKSのすべての女性読者に捧げるゴシックロマン
サマータイム、ふたたびの恋
双発機の翼が激しくゆれているのが機窓から見えた。
遥か眼下には濃緑色の海原が茫洋と、芥子粒のごとく小さく見える洋上の船は、時間が停止したかのようで、僅かな動きもない。曇天の航路に、いま翔るこれもまた、穹窿には極めて小さな飛行物にすぎなかった。時たまよぎる濃雲の塊が翼を隠しては、気弱い乗客の不安を煽っている。
「もう少し早めに来るべきだったなあ」
隣の座席でスポンサーの高岡が独り言のように、それでも何とかなるだろうといった具合に、凝り固まった背筋を伸ばしながら言った。
「シーズンオフになってしまったからね。ピーカンは難しいかも。そろそろ台風が来そうだし……」
危なげにゆれる翼を見つめたまま、中原は答えた。
「まあ、中原さんの腕で何とかしてください。デザイン次第でどうにでもなるでしょ。なにせ、やっと部長を口説き落としてのロケですからね、それなりにやらないと」
そう言って、高岡は機内サービスのアイスコーヒーを飲み干した。
中原は憂鬱だった。それは条件の悪いデザインの所為ではない。夏をテーマにした食品のポスターデザインなど、中原にしてみればお手のものだし、コンピュータを駆使すれば鈍い写真も真夏のごとく変えることが出来る。カメラマンもそのことを承知していて、斜め前の座席で気楽に居眠りをしている。だから、中原の憂鬱は、そんなことではなかった。頑に反対したにもかかわらずロケ地に選ばれてしまった島に、思い出したくはない忌わしい後悔が十数年を経ても、いまだに脳裡から失せていなかったからだ。
そろそろ島に着く筈だった。
ぽつりと雨粒が窓を打った。思う間もなく、天空はにわかに薄墨をぶち撒けたがごとく薄暗くなり、斜に打ちつける激しい猛雨となった。薄闇の中に無気味な閃光が幾本も走りはじめて、機体が左右にゆれながら激しく軋む。機体の震動が尋常ではなくなっていた。
「いやだなあ……」
高岡は窓に首を伸ばし、上目遣いで空の様子を窺っている。
「まずいね……」
すでに島の上空に入ったか、中原は鬱蒼とした密林の上辺を、薄闇の中に確認することできた。密林が切れたところで、断崖に孤立した、すでに十年前に閉鎖してしまったホテルが現れる。その真上を大きく旋回し、密林を切り開いた小さな空港へと滑りこむ――。
「本当にまずくなりましたね。無事に着陸できるのだろうか……」
暢気に構えていた高岡の声が心無し頼りない。その高岡が訝しがるぐらいに、中原の視線は閃光が駆け巡る窓外の下に執拗に向けられていた。そして、濃霧の煙る断崖の淵に、まるで水面の靄から突き出たようなホテルの尖塔を見た。
それは、一瞬の光景だった。鋭い閃光と狂気じみた大音響とともに、金属質で真っ白な光がすべてを捕えていたからだ。
空豁としたホテルのロビーに黴臭い湿気が漂っていた。マーブルストーンの床は夥しい塵に被われ、歩くたびに足跡がくっきりとのこる。中原は時おり顔面に付着する蜘蛛の巣を払いながら、どこからか幽かに入りこむ薄い外光の中をゆっくりと進んだ。
フロントカウンターの上に指を伝って歩いた。指は埃を掻き分けた長い線をつくり、小さな呼び鈴の前で止まった。汚れた指先でその頭を軽く叩く。乾いた音が木霊し、中原の視線を幅広い重厚な階段へと導く。段を射る外光の中に微少な埃がきらきらと舞っていた。ホテルは、埃と塵と、黴に侵されていた。
階段に足を掛けたその時だった。中原は見上げた先に、ふと掻き消えた女の後ろ姿を認めた。その後ろ姿を追って、階段を上る。塵が舞う。
そこは、広々としたホールだった。
流れるクラシックジャズのメロディ。
ゆるやかなダンスに興じる人々。
華やかだが控え目な雑談。
音もなく回転する天井の扇風機。
グラスの当たる小さな音。
壁のボードに飾られたダンスを興じる宿泊客たちの写真……どうしてか、その一枚に中原の手が延びていた。
女に手をとられ、中原は踊る。
腕の中に、階下で見た後ろ姿の女がいた。二人の軽やかなステップは螺旋を描いてホールを回転するが、どこか重心を喪失しているかのようで、中原には床の感覚が得られない。
「はじめから」
女が中原の耳もとで囁いた。麗しい微香が中原の神経を妖しく絡める。
「なにを?」
「なにもかも」
「きみとだったら、それもいい」
女の透き通った黒い瞳の中に、一瞬にして女に魅入られた中原がいた。
物憂気なジャズのメロディがつづき、ダンスは永遠に終わりそうもない。なぜなら、
「ダンスは独りでは踊れないわ。それに、お別れのためのダンスは、女にとって死ぬほど残酷……あなた知ってて?」
と、女が呟いたからだ。ダンスはつづく。
「きみとだったら、いつまでも踊っていたい」
「あなたはいつでも、そう言うのね」
「いつでも?」
「あなたは、実に巧みにわたしに持ち掛けたのだわ。あの時このホテルで、お別れに最後のダンスをしようと」
女は自嘲するかのように、くすくすと笑んだ。
「わたしは悪夢を見るようだった。幼かったのだわ。堪えることが出来なかったのだから」
「きみは、だれ?」
「だから、もう一度はじめから、わたしたちは出逢いからやりなおすのだわ。そして、いつまでも終わらないダンスを踊る……」
女の腰に当てた掌がぬるりとした。見ると、掌は真っ赤な血に濡れている。女の瞳の中を探ったが、自分の姿がどこにも見つからない。深奥のどこまでも、どす黒い暗闇があるだけだ。気がつくと、女の豊かな髪が濡れていた。次第に夥しい雫が落ち出し、やがて女の全身が濡れた。女は海の匂いに満ちた。ホールは二人だけになっていた。
ダンスはつづく。回転の速度が増す。女のドレスが千切れて飛ぶ。深紅の血がホールの白壁を染める。女の黒髪がホールの空間に大量に舞い散る。美しい肌が瘡蓋のように剥がれてホールのすべてに付着する。ダンスはつづく。すべてが剥がれるまで、ダンスはつづく。ダンス、ダンス、ダンス……中原の腕の中には、ただ海と血の匂いだけがのこっていた。それでも、中原は踊る。ジャズのメロディに乗って、いつまでも踊りつづける。
沈みかける太陽が断崖と密林を茜色に染めている。
ホテルの庭には幾筋もの黒煙が立ち昇って、二つに折れた機体が燃え燻っていた。背にした密林から、夏の終わりを告げているのだろう、蝉の啼く声が弱々しく漏れてくる。断崖の下には海潮音が轟き、白い泡沫を撒いては波が砕け散っていた。十年を経たいまもなお、岩に付着した長い黒髪の束を洗いながら。
庭に四散した機体の金属に紛れて、乗客たちの私物や、肉体や、様々な記憶や思い出までも、無惨な形で投げ出されていた。乗客の持ち物だろうか、横倒しになったジュラルミンのスーツケースの端に小さな青い炎がゆらいでいる。はずみでラジカセかなにかのスイッチが入ったのだろうか、中からジャズのメロディーが流れていた。晩夏の夕べに、それは気怠く物憂気な、サマータイムのメロディだった。
傍らにセピア色に変色した一葉の写真が落ちていた。その中に、十年前の中原と女が若々しく楽し気に踊っている姿が、色褪せて写っていた。
寄せては返す波間に、男が俯せになって浮いていた。まるで重心を失ったダンサーが踊るかのように、海面にゆれて、断崖の岩に近づいては押し返されていた。それを招き寄せるかのように、海中の長い黒髪が優雅に棚引いた。
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