novel
Began
去来今交草子(きょらいこんまじわりぞうし)

 戸を叩く音。
 静か過ぎるその音は、まるで死神か何かがひっそり近づいてきたかのような感を与える。森の奥深いこの小屋に、しかもこんな夜更けに人が訪ねてくるはずがなく、案外とそれも当たっていそうであると、一人ぽつねんと囲炉裏端に座る老婆は思った。
 それにしても遅すぎる迎えだよ。
 戸の向こうにいたのは、窮屈そうなボロを着た、十六歳くらいの少女だった。死神と言うにはあまりに可愛らしかったけれど、その服装や、白く色褪せた腕や足は、到底この世のものとは思われない。
 はて、地獄からの迎えだとてっきり思っていたが、それほどおぞましくはないか。
 老婆をじっと観察していた少女がおずおずと口を開く。
「おばあさんはもしかして、生きてる人?」
 意味を汲み取れず、呆けたように老婆は考え込む。
 とりあえず、老婆に用があってここに来たのではないらしい。少女は遠慮気味に言葉を続けた。
「心の置き場所がわからないの」
 憔悴しきったその目を見て、さすがの老婆にも優しさの断片は生まれた。すでに崩れそうなその断片をゆっくり紡いでいきながら、少女を家の中に招き入れた。

 老婆はまだ若い頃、先祖代々伝わる酒屋の長女として、村の中で暮らしていた。やがて結婚して店を継いだのだが、その夫はすぐに病死してしまった。再婚した彼女は、新しい夫をそそのかし高利貸にも手を伸ばした。新しい夫は必死で店を切り盛りしていたが、その実、裏で算盤を弾いていたのは彼女だった。彼女が強欲な自分に気付いたのはその頃からである。はじめは店の名を汚さぬよう慎重にしていた高利貸の仕事も、やがてべらぼうな金利をとるようになり、ある日突然破滅した。怒った村人が店を襲い、力ずくで証文を破棄させたのである。彼女の夫はそのとき殴られ死亡し、子供には逃げられ、懐に隠したいくばくかの金だけを伴って森の奥に潜んだのだった。
 夫を殺した村人への怒りは今も収まらないが、それ以上に、自分の強欲さに歯痒い後悔が残っている。悔やみきれないこの思いは、死んでから償うしかないのだろうと思い始めた。地獄なんてものを本気で考えるなんて、かつての自分が知ったらどんな侮蔑の目を向けることだろう。
 そんな老婆だから、地獄から逃げてきた、と云う少女の言葉すら臆せず信じ、地獄についての話を真剣に聞いた。その姿を見て、少女は饒舌になる。親身に話を聞いてくれていると思うとは、皮肉な話だ。
 百数十種の地獄。鬼に追い立てられた罪人たちの行く先。
 熱沸河。全地獄をあまねく流れる赤い川。
 人の心を喰らう赤鬼。地獄の入り口に立つ番人。
 その赤鬼の手首の瘤。赤鬼が自ら手首を切り、その血を川に流した跡の醜い瘤。
 地獄の入り口の赤鬼は、罪人の体の一部を喰いちぎりそこから心を喰らう。ある人は腕、ある人は目、ある人は……。それが罪人の姿であると云う。老婆が地獄に落ちたなら、汚らしい執着心で算盤を弾いたその右指が喰われるのであろうか。喰われた心は鬼の血となり、やがて川となる。その川に溺れた罪人は、様々な苦悩に永遠と揉まれ苦しむのだ。
 老婆を襲う震え、それは地獄の風景に対してではなく、自分よりはるかに若い少女が地獄を語っているということに対してであった。
 少女は突然立ち上がり、胸の前をはだけた。老婆の前に立ったのは、なるほど地獄の罪人であった。少女の右胸は深くえぐられ、乳房も心臓もそこには残っていなかった。白い骨が突き出し、血はもはや干からびて黒ずんでいる。それを見た一瞬間、老婆の中の優しさが確かに殺がれたのだった。
 ぷくりと思い浮かぶ言葉。心は、優しさを殺ぐところに存在するのではないか。
 穴の開いた少女の胸の中で、何かがせわしなく閃いていた。凝視すればそこに何かが見えそうであるが、ただれたような胸がそれより先に吐き気を催させた。
「ある時、赤い川の中で、私の心を見つけたの。慌てて胸の中にしまったわ。でも心はうまく働いてくれない。きっと置く場所が違うんだ」
 老婆が顔を背けたのを見て、少女は急いで胸を隠し、小さく侘びた。少女は話を続けたが、自分のことについては何も触れないままだった。少女の胸にはどんな過去があるのだろう。それとも、前世の記憶など持ち合わせていないのか。
 心を捕まえた少女は、いつの間にか川岸に横たわっていた。起き上がったとき目が合ったのは、そこにいた地蔵様。地蔵様の服を剥ぎ取り、罪人の姿をひた隠しにしてさ迷い歩いたのだと云う。
 老婆はふんふん頷きながらも、汚らわしいその少女を家から追い出さんがために、早く話を切り上げさせられるような筋書きを組み立てていた。腹黒いことを考える頭は、まだボケてはいないようだ。とりあえず、先刻思いついた心の居場所について話してみる。
「人が他人に対して優しくなれないのは、その優しさを殺ぐところがどこかにあるからですよ。優しさとか勇気とかを殺ぐところ、そこに心があるのではないかな。そこにずっと留まっているのかどうかは知りませんけど」
 少女は静かに頭を垂れ、そのまま動かなくなった。
 それを見ていた老婆はやがて気付く。心のない少女は、思うこと、感じることができずに、ただひたすら論理的に考えを推し進めているのだ。言葉の転がる道を慎重に伸ばして、その途次、口に出してゆっくりと整理していく。
「地獄、地獄を見たとき、地獄を思い出したとき、私の優しさや勇気はひゅるりと消えてしまう。それじゃあ、私の心を置くべき場所は、地獄かあ」
 少女は眉根を少し寄せてみせた。心をなくした人間は泣くことができるのだろうか。老婆は好奇心で少女を見守る。
「一度地獄を見たら、もうそこにしかいられないってことか。ああ、やっぱり逆も成り立つ。生きてる人の心の置き場所は」
 そこで少女は言葉を止めた。泣いたのだろうか。老婆にはわからない。無性に苦しくなって、目が熱くなって、瞼を開けていられなかったからだ。生きている限りは、心の置き場所はこの世にある。悔やみきれない様々な思いも、この世にあるべきもの。体の中に流れ続けるべきもの。
 目を開くと、少女が驚いたように老婆を見つめ、その目元を濡らしていた。
 なにくそ、私は泣かないぞ。老婆は自分の目元に触れてみたが、頑張らなくとも涙なぞ流れない仕組みになっているらしい。
 今更になって気づいた心の置き場所が、地獄の少女に対する優越感で生まれたものとは思いたくなかった。意地でも思うまいと、老婆は少女を近くに招き寄せた。少女の右胸に手を伸ばす。よく見れば、服の上からでも、胸のふくらみが片方だけ欠如しているのがわかった。服をのけ、少女の心を凝視する。
 はじめは少女の身体を駆け巡っていたであろう心が、そして川として地獄を流れていたと云う心が、今は少女の胸の一点に押し込められていた。少女の心に手を触れる。不思議な感覚だった。老婆の心がその指の先に押し込められていく。そして、二つの心が交わる。
 戸を叩く音。
 地獄の追っ手かしら、そう立ち上がる少女を制し、老婆は裏口へと少女を連れて行く。少女の手を引くその右手は、罪人の手なのだろうか。
「あんたはもっと、旅を続けるんだよ」
 笑顔で少女を送り出した後、老婆は戸の音に向き直る。その音は、老婆の右指にじっと収束していく。
 ふと願う、今は皺だらけのこの指が、死んだら、元のきれいな指に戻りますよう。

文字数:3000


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