novel
マニエリストQ
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 道の幅が縮小していた。聳えていたはずの病院の壁が低かった。小川は丈の長い雑草に覆い尽くされた溝だった。
 風景はことごとく記憶と異なっていた。新しい街になっていたのではない。薄く煤けた低い街並は昔と同じだった。しかし、街はたしかに変わっていた。匂いも、色も、温もりも、街のあらゆる光彩が微妙に違っていた。
 私はやっとのことで立ち止まると、皺だらけのハンカチで額に浮いた汗を拭った。初夏の宵、私は意識の曖昧に浮遊し、過去の街をまるで夢遊病者のように、もう四時間近くも歩いていた。いつまでたっても目的の家を見つけられず、記憶の裏切りに臆した私は、異郷の迷子のごとくさまよっていた。縮んでしまった道幅が視覚の均衡を狂わせるのか、ときおり、定まらない平衡感覚に戸惑ったりもした。数十年を経て生じた齟齬が、記憶の静脈を不整にし、目に入るすべての風景を歪曲していた。
 私は、この歪んで見える風景になにを期待していたのだろう。陳腐な感傷に過ぎないと自嘲してみる。職安での仕事探しを打棄ってまで、ふと思いついたかのようにこの街にやって来たものの、ここにはよそよそしい景色だけがあって、蘇生するのはただ一つの光景ばかりだった。それはいまだ忘れ去らぬ記憶なのかと、苦い感情が湧く。けれども、他人事のように覚めた記憶でありながら、いま過去の街をさまよってみれば、あの記憶の光景は私自身のはじまりではなかったかと思えてくる。数十年もの遠い昔の、取り戻さなければならない私の〈原因〉であったかもしれない。それとも、頑是無い子供の取るに足りない過ぎてしまった一夏の出来事であったのか。
 
 思いついたかのように、蝉の黒いシルエットが不器用な羽音をたてて梢から飛んだ。
 もう一時間も経ったろうか。夕餉の前の黄昏時、蒸した空気のなかで二人は小さな軒下に立っていた。三つ違いの妹は、随分と可愛がっている兎の縫ぐるみを大切そうに小胸にかき抱いている。小学生の私は、半ズボンの下の貧弱な脛を喰う蚊をひっきりなしに叩いている。淡い茜色の空遠く鴉が啼いて、不安を募らせたのか、妹は寂し気に私を見上げた。父も母もまだ仕事から戻りそうにない。
「もうすぐおわるさ……」
 誰に言うでもなく呟くと、妹が小さな顎をこくりこくりと幾度も動かした。その小さなおでこに汗の玉が浮いていた。
 二人の視線の先に、向い家の瀟洒な庭があった。鈍色の散水機が、芝生に涼し気な水飛沫を撒き散らしている。それは、かたかたと規則的な機械音をたてながら、ゆっくりと回っていた。
 今日は集会の日だから辛抱するのよ。
 朝、母はそう言い残して父とともに仕事に出ていった。
 慣れていることだった。月に何度かあるいつものことだった。
 冬のある日、半日がかりで海峡を渡り、幼い子供にとっては終わりがないような永い時間を、黒煙を撒いて走る汽車に揺られてこの街にやって来た。若い家族四人、辿り着いたのがこの小さな間借の家だった。
 仕事が落ち着けば広い家に移れる。
 そう言っていたのは、新天地に描く夢に躍起になっていた父だった。痩身の父はいつでも異様なほど目を輝かせていた。そんな父が写っている色褪せた家族写真の一枚が、いまでもどこかにあるはずだ。
 間借の条件は、集会のある日には部屋を開け渡すことだった。今日も、蝉と合唱するかのような濁た念仏の唱和が軒下に聞こえてくる。いつか覚えてしまったのだろう、延々とつづく念仏にあわせて、妹は小さな唇からぶつぶつとそれらしきものを漏らしていた。その妹のおかっぱ頭を私は平手で叩いた。妹は唇を噛んだままそれきり黙ってしまった。二人の視線は相変わらず庭に注がれていた。
 近くの野原で遊べばいいものを、何故かそうはしなかった。集会の終わりを、待つものだとばかり思っていた。妹の面倒と、たとえ間借の家でも、留守を守ることが長男としての役目だと思っていた。小学生になったばかりの私にほかになにができたろう。幼い妹と二人でどんなことができたというのか。それはきっと、ただおとなしく待つということではなかったか。父を待ち、母を待ち、そして念仏の終わりを待っている。ひたすら待つ、ということではなかったか。
 狭い部屋で一心に念仏を唱える集会の意味を私は知らなかった。不自由な間借という事情も理解できなかった。たんに解りたくなかっただけなのかもしれない。解ってしまえば、それが永遠のことになってしまうと、幼いながらに恐れたのかもしれない。海峡を渡る前には、集会があるからと軒下に立つことは一度だってあり得なかったのだから。
 若い父の野心に母も妹も私もが托生して、家族は一つの夢を追っていたのだろうか。それこそ、お題目のように父が家族に唱えていた言葉は、〈家を持つ〉だった。
「ジュース……」
 妹が小声で言った。
「がまんしな」
「お水、つめたいかな」
 散水機の撒き散らす水が霧のように庭いっぱいに舞っていた。
「ああ」
「きもちいいかな」
「ああ」
「お水……いいな」
「もうすぐさ」
 私は自分に言い聞かせるように言った。
「もうすぐだ」
 妹も自分に言った。
 空はますます沸き上った雲を真っ赤に燃やしていた。
「あんたたちここにいたのかい。もういいんだよ」
 功徳、功徳と言いながら、ぞろぞろと外に出てきた念仏女たちの一人が言った。
「あんたんとこ、扇風機いれなさいよ。暑くてかなわないわ」
 功徳、功徳、功徳。赤く染まった念仏たちが一人ひとり消えていく。私は、漠然とだが、元々なかった出来事なのだと、消滅する念仏女たちの光景にそう感じた。
「くどく、くどく、くどく」
 妹が呟いた。
 唐突に、私は妹の兎を奪った。
 次の瞬間、兎は茜色の宙にゆっくりと大きな弧を描いて飛んでいた。それはどれほどの時間だったろう。一瞬のことであったかもしれない。あるいは永遠であったかもしれない。
 やがて芝生に落ちた兎は、散水機の水飛沫を浴びて、みるみる痩せ細っていく。まるで手垢に染まった汚れを洗い流して、濡れた緑の庭に相応しい、新品の縫ぐるみになっていくかのようだった。
 汗ばんだ手でそっと腕を掴まれた。何故か嬉しそうに庭を見つめ、きらきらと茜色に輝く妹の横顔があった。

 見覚えのある小さな路地を見つけた。薄闇のすぐ奥に、記憶の家があった。小さな軒もそのままにあった。貧弱な窓硝子に微かな明かりが灯っていた。近づいて、おずおずと軒下に立ってみた。
 もっと高かったはずだと頭上の軒にそう感じた。こんなにも小さな窓だったろうか。こんなにも狭い庭だったのか。向いの粗末な庭に呆れた。こうしていると、幾度も幾度も聞いた念仏の唱和が聞こえてくるようだ。あの時の念仏女たちは、どうしているだろう。功徳、功徳と、いまでも人のために生きているのだろうか。それとも、功徳が功を奏して仏の世界にいくことができたのだろうか。蚊が多いのは昔と少しも変わらなかった。
 ふと気がつくと、あの時の姿のままに幼い妹が私の隣に立っていた。庭を見つめて、にこにこと楽しそうに笑む妹がいた。
「わたしのうさぎ、きれいなお庭でよかったね」
 そんな声を聞いたような気がした。
 妹の喜ぶ顔を見て、いまようやく、私は私の〈原因〉を知り、取り戻せたような気がした。
 再び庭に目をやると、そこに懐かしい我が家が見えた。娘が犬と戯れ、その傍らで、妻が静かに私を見つめていた。


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