相川拓也

泪雨

 カーテンを閉めきり、朝七時でも薄暗い部屋の中、男はクラリネットを吹く。陰鬱
な旋律である。空虚な音色が流れる。乱暴なフォルテ。傷だらけの演奏が終わる。
「恭一……」
 男は母の声に振り返る。
「おいで」
 恭一が母について父の部屋に入ると、布団の中の老人を沈んだ表情の人々が囲んで
いる。
「奥さん」医師が声をかける。「先ほど亡くなられました。もう少し、早くお戻りな
ら良かったのですが」
 ちらりと恭一の方を見る。母は虚ろな目で医師に礼を言っている。恭一は母の頭ご
しに、顔を布で覆われた父を見る。本当に、もう目を覚まさないのだろうか。
 葬儀などの手続きはその日の明るいうちに済まされた。夕方には、集まった親戚も
みな帰って行った。家はすっかり静かである。夕食の仕度の音がするほかは、何も音
がしない。
 相変わらずカーテンを閉めきった部屋で、恭一は座っていた。譜面台の上で開いた
ままの楽譜を見つめる。この音を聞きながら父は死んだのか。自分は父を看取らなかっ
た。しかし音で見送りはした。それでいい、と彼は自分を納得させる。だがいくら納
得させても、何となくすっきりしなかった。そして今までのように、しばらくすれば
父はまた目を覚ますのではないかとも思った。日はすっかり落ちて部屋の中は闇であ
る。母が呼びに来る。
 夕食は静かに進む。二人は黙々と食卓の上の皿を空にしていく。恭一は古くなった
漬物の入った器を見ながらつぶやく。
「漬物まだ残ってんの」
「ああ。だって恭一食べないから、なかなか減らないのよ」
 うん、と恭一は気のない返事をする。
「たまには食べなさいよ。もう、最後なんだし」
 この母の一言で、恭一の目の前にある漬物が急に命をもったもののように感じられ
た。父はこれを漬けているとき倒れたのだ、と思い出す。恭一は色あせた大根の糠漬
けを箸でつかみ、口に運ぶ。不味い。塩気が口の中に滲む。変質した大根を唾液と共
に喉の奥へ流し、飲み込む。口の中に居心地の悪い塩気が残る。母はあれきり黙って、
無表情で食事を進めている。恭一の方にちらっと目をやって、かすかに唇だけで微笑
む。
「お父さんも、暇だよね、しょっちゅうこんなの漬けて」
 まったくね、と母は答える。食卓は再び静まりかえる。食器の音が響く。
 食事が済んでも、居間は静かなままだった。母は新聞を見ている。
「お悔やみ欄?」と恭一が聞く。
「うん、明日載るんだなぁって」
「ああ……」
 少し間をおいて、恭一は無理に鼻で笑いながら、
「ちょっと信じられないよね」
 母は黙って新聞に目を落としている。恭一は笑い顔の後始末に困る。
「お父さんは、亡くなったんだよ」
「まあ……そうだけど」
 言葉に詰まる。恭一には父が死んだなどとはとても信じられなかった。ちょっと線
香見てくるね、と恭一は立ち上がる。父に会いたかった。声をかければ目を覚ます、
と半ば確信しながら、父の遺体のもとへ向かう。
 父の部屋に入り、恭一はその枕元に座った。顔にかけられた白い布をはずす。眠っ
ているだけのような父の顔。起こそうとしてみる。肩に手をかけた瞬間、恭一はぞっ
とした。循環が止まり、硬直した父の身体は、生き物のものではない重みを恭一の手
に伝える。手はそのまま頬に触れる。ひんやりした組織の感触に呆然とする。再び布
で父の顔を覆い、新しい線香を立てる。そのまま立ち上がって、部屋を出る。
 恭一はつとめて無表情に居間へ戻る。無言で自分の椅子に座る。
「仕事はどう?」
 母が出しぬけに尋ねる。
「え……」
「だから、オーケストラの仕事」
「ああ、まあまあだよ」
「ドヴォルザークが良かったってよ、お父さん」
「え、聴きに、来てたの?」
「そうよ、読めもしないのに楽譜まで買って」
 はぁ、と言ったきり、恭一は言葉を見つけられないでいる。
「恭一がコンクールで金賞取って以来ね、お父さんクラシックにはまってたのよ。恥
ずかしいのか何なのか、恭一がいないときしか聴いてなかったけどね」
「コンクールって、高二の時の?」
「そうそう、『アメイジング・グレイス』」
 記憶の中の父と現実の父とが、恭一の頭の中で交錯する。
「でさ、あの時、吹いてたの何?」
 母が聞く。「あの時」と恭一は反芻して思いあたる。
「『鳥たちの深淵』」
 この曲を吹いている間に、父は父でなくなった。ふうん、と頷く母に恭一はごめん、
と謝る。
「いいのよ、早く呼ばなかったのだって悪いんだし。最期は静かだったってよ。眠る
ようだったって。恭一が吹いててくれたお陰よ」
 うん、と恭一は答えたものの、後悔はやまなかった。父の側に座って看取ってあげ
られたらどんなに良かっただろう。母も夫の死に立ち会えたのだ。時が逆行しないこ
とを恨んだ。そして何よりあの時父の側を離れた自分を恨んだ。あの時はそれで父の
死に抗ったつもりでいた。しかし逃げただけだったのだ。
「今さら後悔したってしょうがないじゃない」
 ああ、と震える声で返事をして、恭一は壁の方を向く。
「後悔したって、もう、お父さんには、分かんないんだし……。どうせじゃ、また何
か吹いてあげれば? 天国への旅が無事に成功するように」
「もう夜遅いよ」
「大丈夫よ、天国に向かって吹くんだから」
 届かないんじゃなかったのかよ、と恭一は思わず吹き出す。気持ちの問題なの、と
いう母の弁解を聞き流して、恭一は楽器を取りに行く。
 今吹いても、もう父には届かないかもしれない。天国はあまりに遠い。しかし、恭
一と母にとって、父は確実に存在しているのだ。いると信じずにはいられなかった。
その父に、せめてもの罪滅ぼしをしようと思った。

 曲が始まる。更けていく夜に、アメイジング・グレイスが響く。雨が降っている。
自動車が雨音を立てながら、光る轍の上を走っていく。


作者注:「鳥たちの深淵」……オリヴィエ・メシアン(1908-92)作曲「時の終わりのた
めの四重奏曲(Quatour pour la fin de temps)」の第3曲。クラリネット独奏。


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