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篠崎かんな
かなたへ向かい
目を開けた。
そこに入ってきたのは荒れに荒れたマンションの一室。
私は再び目をつぶり、枕に顔を埋める。
一週間前までの綺麗に片づいた部屋が思い出される。暖かな空気と、清潔感と……生きる活気のような物がある生活。
「……お腹すいた」
食欲に動かされ目を開ける。異物だらけの床を這い台所へと進む。冷蔵庫を引っ張ると、白いライトが何もない庫内を映し出した。
お腹が震えて同時に低い音が響く。
最後に何か食べたのいつだっけ……昨日? 一昨日?
流し下の戸棚を開ける。調味料のボトルの奥に壺があった。母が手間をかけて作っていた糠漬けの壺だ。一日に一度はかき混ぜていた。キュウリや白菜や、母は何でも漬けて、何でも食卓に上げた。
もやのかかる頭で手を伸ばす。蓋を開けたとたん、悪臭が立ちこめた。顔をしかめ、蓋を戻す。母がいない、だからこの壺はこんなにも悪臭を放つ。かき混ぜる人がいないから、死んでしまったから。
一週間前……私の目の前で母親は倒れた。そして、三時間後には息を引き取った。
糠漬けの壺に両手で触れる。掃除してない、買い物行ってない、洗濯してないし、洗い物してない……全部、母がやっていたから。
通夜やら葬式やら忙し過ぎる仕事に追われ、泣く暇なんか無かった。ショックが大きすぎて心が受け止められないでいた。
今、この持ち主を失った壺が、悪臭を放つ糠漬けが母は死んだのだと無言で伝えてくる。
涙が流れて、嗚咽が漏れて、私は壺に頭を付けて泣いた。唯一のたった一人の肉親を失った悲しみを初めて実感した。
何もする気が無い、何もしたくない、だって、もう母は居ない……。
私はフラフラとドアを開けて外に出た。
空は何色だろう、見る気は無い。
風はうっとおしくて、なびく髪もうっとおしい。
マンションの屋上、なんでこんな所に来たんだろう。ゆっくり歩いて柵の所まで行く、下には小さくなった建物が並ぶ。
母が居ない世界。母が居なくてもずっと続く世界。絶対に……変わらない世界。
風が大きく吹き荒れて、気配はすぐ側に現れた。風が産んだ気配、私はゆっくりとそっちを向いた。
「ひさしぶり、マミさん」
そう言ったのは男の子だった。色あせた緑色のボロボロの服を着込んだ男の子。
「誰? あなた」
覚えが無かった。男の子はにっこり笑う。
「あっ、そっか。これから会うんだっけ……僕は、時の旅人」
「時の……旅人?」
「昔、マミさんと会った事あるんだよ。僕がまだ大きかった時」
意味が分からない
「小さかった時、じゃ無いの?」
「ううん」
男の子は首を振った。
「時の旅人は時を越え、自由に行き来、出来る。でも、僕らだって時には縛られていて、年を取る代わりに年を失う。僕も昔は大人だったんだ」
「時を越える……どこに行くの?」
「僕は今から『終わり』まで行く、時の終わる所まで。最後まで旅してみたくなったから。その途中で、約束通りマミさんに会いに来た」
「約束? 終わり?」
「僕も、もう年だからね。そうそう、きっと僕が訪ねてくるから、そしたら言って欲しいんだ『追わないで、きっと君もそのうち分かるから』って。ね」
にっこり笑った笑顔、純粋で希望に満ちた顔。
「じゃあ、ばいばいマミさん。これから来る僕によろしく」
風が男の子をかき消した。
「何だったんだ……一体」
私は消えた場所を眺め続ける。
再び風が渦巻き、人を形作る。現れたのは、鮮やかな緑のフードを着た男。
「ねぇ、君。男の子を見なかった? 僕と……似たような服を着た」
男は焦った声で言った。
「あなたも、旅人?」
「知ってるの……君、僕から聞いたんだね。僕はどこに行った? どこに行くって言っていた?」
さっきの男の子の顔が目に浮かぶ。楽しそうに活き活きと笑う男の子の表情。
「なんで? なんで、探してるの?」
「時の旅人は若くなって行く。生まれた時は大人で死ぬ時は子供なんだ。だから、経験を補う為と、幼くなった行動を制する為に、二人で行動する。年を失った僕と、大人の僕」
旅人は必死な顔で私を掴む。
「もう一人の僕がどこかに行ったんだ。何か遠い所へ行くような事を言い残して。彼はもう寿命が残り少ないのに……」
「『追わないで、きっと君もその内わかるから』」
「えっ?」
「そう伝えるように言われた」
「どこに行くって?」
「時の終わり」
男の顔から力が抜け、膝から崩れた。
「時に終わりなんて無い。ある訳ないのに……、行くだけ無駄だって言ったのに」
大人の言い分だった。全てを知った大人の理屈、堅い考え。目の前の男は、あの子の純粋さも希望も持ってはいなかった。
「きっと、ある」
私は呟いていた。
「彼は、きっと時の終わりにたどり着くわ」
あの子の目。年期の入った肌の中の信じ切った目。時を越えてきた彼があんなに信じているんだから、絶対にどこかにある。
男が立ち上がる。意志を取り戻した、強い目で私を見た後、にっこりと笑った。
さっきの男の子の笑顔と、なんら変わりなかった。
「君、名前は?」
「マミ」
「……ありがとう、マミさん」
風が旅人を渦巻き始める。
「もし、僕が時の終わりを見たいと思ったら、その時は絶対マミさんに会いに来るよ、約束する。……未来は分からないけど」
「分からない? 未来は変わるの? ねぇ」
「変わらなかったら……誰も生きる意味ないじゃないか。時の旅人が存在する意味も無い」
大きく吹いた風が男の姿を消した。
未来は変わる……。私が変える、だから私も存在する。
お母さんはこの世界に居ない。だったら、私はお母さんの様に生きようと思う。
この世界は私が変える。
私は初めて空を仰いだ。真っ青な目の冴える様な青空だった。
部屋に帰って、とりあえず糠漬けをかき混ぜようと思った。
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