歌羽深空

君にヌカヅケ★

上唇と下唇の先。そんな所に、1日数本しかない電車に乗って行く。ここまで手をかける理由は、我が自慢の恋人佐伯さんとの初めてのデートであるからだ。近場といえど男にとっては小旅行。恋人同士にとっては愛の逃避行。愛を誓った恋人達の初めての旅には、電車が良いと僕はふんだのだ。

佐伯さんとは付き合って3週間の清い付き合いだ。唯一やましい事といえば付き合う事となった際、僕はお付き合いの了承を佐伯さんのご両親から頂いていない事だ。彼女のような少女を育てたご家庭の事、きっと格式高い名家に違いない。それ位の挨拶は、やはり必要だったと思う。

駅に行くと、佐伯さんは今時の女子には見られない程の清楚さと可憐さをたたえて立っていた。僕はあまりの可愛さに、鼻からの流出物を抑えるためにトイレに駆け込みたくなったが、我慢。

「ごめん。遅れて。」
「あ、下山君。気にしないで、私もさっき着いたばかりだから。下山君はいつも遅刻するから早めに集合しておいて正解だったね。」

・・・・・・逆である。普通この場合僕が待っていて、遅れてきた彼女に優しい言葉をかけるのではあるまいか。まあ、過ぎてしまった事は仕方ない。次回、これを教訓とするとしよう。

出発前の寂れたホームには、人はもう見当たらない。電車の上で一匹鳴くカラスの声がひどく響いて聞こえた。
車内に乗り込んだ瞬間目の前が真っ白になる。しまった、眼鏡が曇った。僕は眼鏡を外し、シャツの袖でくもりを拭く。眼鏡を素早く顔に戻すと(いや、だって眼鏡は体の一部ですから)、あたりを見回した。さすが1日数本しかないだけあって、始発から乗ってもこんでいる。すると隣にいた佐伯さんが何か見つけたようで、3つ先の座席まで行って振り向くと、小さく僕に手招きした。空席でも見つけたのだろうか。僕が行くと、彼女は指をさし

「あそこの席が空いてるから、頼んでみよう。」

と言った。そこには体臭から、服装から、あらゆる所から「カタギの人間ではないです」と訴えかけてくる屈強の男達が座っていた。そう、たとえ着ぐるみの中にいて顔は見えずとも、子供に風船を配っていたら子供が全員泣き出してしまいそうな男達である。しかし彼女はそのような彼らをものともせず声をかけた。僕もいざというときに彼女を守ってやらねばと覚悟を決めた。

「すみません、相席良いですか?」

その時の笑顔をなんと形容したら良いか。僕は男達の脳から彼女の笑顔のデータを抜き取ってしまいたい衝動に駆られる程、その笑顔にノックアウトされてしまった。男達もそうであったのか、静かに頷くと足を引いて僕達を席へ通してくれた。

「佐伯さんありがとう。」
「どういたしまして。」

彼らはなぜか青白い顔をしていたが、彼らにあまり深く関わりになりたくないので、無視した。窓の外には、電影風景が広がっていた。

と、突如どこかから異臭がする事に気づいた。なんだ、この懐かしくも好き嫌いの激しそうな匂いは。そうだ、これはヌカヅケの匂いだ。誰だこの小旅行の幕開けに、禍々しい異臭で水をさすのは!そう思い、匂いの先を探る。そして匂いが最も強くする方向を探り当てた時、僕は凍りつくと同時に少し泣きたくなった。匂いの中心は、佐伯さんであった。

別に僕は彼女がヌカヅケ臭をただよわせていた事に涙したわけでない。彼女を先程まで卑下していた自分に腹が立ったのだ。そういえば、彼女の趣味は料理だと聞いた事がある。まさかここまで熟練した腕の持ち主であったとは!僕は彼女が学生ながら毎日根気よく糠をかき回し手や家がヌカヅケ臭くなるのをものともしない猛者であった事に少し感動した。

田園風景は終わり、窓はすっかり川のものだ。彼女は「世界の車窓から」のテーマ曲を音符で小さく口ずさんでいた。すると、さっきまで黙っていた男達が話をはじめた。僕はできるだけそれを聞かないように彼女の鼻歌に更に耳を傾けたが、彼らの声の音量ときたら、それらの僕の努力を簡単に打ち破ってしまう。

「どうする。」
「どうするって言ったって。」
「エンコどころの騒ぎじゃねえぞ。」
「母ちゃん・・・・・・!」

彼らがなにやら嘆いていると、彼女が小さく呟いた。

「まさしげ、何やってるのかな。」
「まさしげ?」

と、突如目の前の男が泡を吹いて倒れ出した。

「大変!大丈夫ですか?」

優しい彼女は男に呼びかけ、耳元で一言呟いた。すると男は無表情に立ち上がり、どこかへ消えた。彼女がもう一人の男へ笑いかけると、彼もまたどこかへと消えた。

「なんて言ったの?」
「『トイレは向こうですよ』って。」
「優しいんだね。」

電車はもう、僕らの降りる街へ近づいてきていた。そしてしばらくすると、男達が帰ってきた。しかし、誰かと一緒にだ。明らかに彼らとは違う男。荒っぽさと共に品位すら感じる、男の中の男。彼は僕に言った。

「君か、下山君というのは。」

僕の名前を何故彼が知っているのであろう。

「いやいや、マサとシゲがすまない事をした。ったく、サツキに気づかれるたぁてめえらもまだまだだなあ。」

ん?サツキ?それは佐伯さんの名前・・・・・・。

「すみません組長!」
「せ、せめて!」
「黙れ!で、下山君。私も同行させてもらってもいいかね?父親として、ねえ。」

無言の圧力。目だけ笑わない笑顔。僕は頷かないわけにはいかなかった。許せ、佐伯さん。

「良かった。では失礼する。ほらサツキ、向かいの席に。彼と話をしたい。」
彼女の父が隣へ座る。その瞬間、僕のわき腹に金属質の感触。彼は耳元で呟く。

「何、人様の娘に手を出してるんだい。」

パンツの濡れる感覚がした。先程の男のように口から泡が溢れる。幸せな時ってもんは、そう長く続かないもんなのさ!

遠くなる視界の中、佐伯さんは・・・・・・苦笑いしていた。


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