芦野 前

洗礼


JからTへ

日が沈むまでに使いの者を送るので、50万ポンドを渡してください.
良い返事をお待ちしております.



 街の片隅、薄汚れたアパートの外。
 僕は読み終えたタイムズ紙にマッチで火をつける。
 あふれる求人広告にまぎれた「要求」はあまりに小さく、目を凝らさなければ気付かない。
 しかし充分だろう。
 今朝、一人娘を誘拐されたばかりのテーラー家にとっては。
「レイ、早く入れ」
「オーケー」
 石畳に落ちた燃えかすを足でざあっと擦る。
 灰は青空に舞いあがり、そのまま風に流されていく。
 僕は辺りに人がいないのを確認してからドアを閉めた。


 カラダは発育途上だが顔はまあ悪くない、というのが、見たところの「令嬢」の感想だった。
 いっときの楽しみくらいにはなるだろう、などと考えていたら釘をさされた。
「人質には手ェ出すなよ」
 思春期の少年が考えることなんて、ジェームスにはお見通しのようだ。
 娘は粗末な木の椅子に後ろ手に縛り付けられている。
「なあ」
 正面から顔を覗き込む。
 かませていた猿轡はきつかったらしく、抜き取ると白い肌に赤く痕が残った。
「名前なんていうのさ」
 返ってくる声はない。
 ただ、二つの青い瞳がこちらを見つめている。
「ラチェットだ」
 代わりにジェームスが、コーヒーを啜りながら告げる。
「テーラー家の一人娘、ラチェット。正式に社交界に出てきたのは七年前。テーラー家は近辺の工場主と契約を結んでいる大銀行だ」
「よく調べてあるのね」
 思ったより落ち着いた声をしていた。
 うつむいた顔は大きく巻かれた金髪に隠され、表情がよく見えない。
「危険な橋を渡るシュミはないんでね」
 ガキのおもりを頼むぞ、とだけ言い残し、ジェームスはコーヒーカップを持って隣の部屋へと行ってしまった。
 ラチェットが口を開く。
「縄がきついわ。少しゆるめて」
「おい……」
「おもり、してくれるんじゃないの」
 僕はため息をつくと、椅子の後ろにひざまずく。
「あの人が何で私を誘拐したのか、あなたは知ってるのかしら」
 その問いに軽い揶揄のようなものを感じて、眉をしかめる。
「知ってるさ。僕はジェームスの片腕だもの……僕らには、金が必要なんだ」
 ごォん、ごォんと、開いた窓から近くの工場の音がきこえてくる。
 蒸気機関で動く力織機の煙は、薄汚れた街をさらに曇らせる。
 アークライト、クロンプトン、ワット。
 産業革命で生産量の高い機械が発明され、人手は余るようになり、僕とジェームスも工場を解雇された。
 ちょうどその頃、ラダイト運動が起きた。
 打ちこわしと呼ばれるもので、解雇された労働者が工場の機械を手当たり次第に壊していくという、暴動だった。
 何人もの仲間が参加し、そのまま帰ってこなかった。
『革命は、もう暴力では成功しない……必要なのは、権力だ』
 すべての権力は議会が握っている。
 議会へは、一定の金を持っていないと出席できない。
『金が要る』
 あのとき、ジェームスは絞りだすような声で言った。
「ジェームスは議員になる。そうしたら、きっとこの社会を平等にしてくれる」
 頬と同じように赤い痕がついたラチェットの手首を見ながら、レイは呟く。
 肌はきめ細かく、滑らかで白い。
 いいものを食べて大切にされている証拠だ。
「ふうん。あなたは、何でもかんでもジェームスジェームス、なのね」
「……違う」
「じゃあ貴族からの妨害について自分で考えたことあるの? 議員になったところで意見を無視されるリスクについては?」
 僕は答えにつまる。
 目を細くしてラチェットは笑う。
「あんた、ホントは何もわかってないでしょう」


 午後からだんだん風が強くなってきた。
 窓を開けて空を仰ぐと、灰色の雲がすべてを覆っている。
 ……嵐が来るかもしれない。
「どういうことだ!?」
 ガシャンと、何かが割れる音がする。
 隣の部屋からだ。
「私に怒らないで下さいよ。それじゃ、確かに仕事は完了しましたから。小切手はもらっていきますよ」
 男が出て行っても、ジェームスはテーブルの上で拳を握り締めている。
「ジェームス? どうしたの」
「……失敗だ」
「え?」
「テーラー家が金の支払いを拒否した。俺たちの計画は失敗だ!」

「ばっかみたい」
 いつ、この部屋へ来たのか。
 ラチェットは音もなく、入り口に立っていた。
 ひどく冷たい表情をしていた。
「あたりまえだわ。私は十歳のとき、家政婦代わりにテーラー家に入ったの。あれは私の叔父にあたる人間よ」
 ジェームスが息を呑む。
 ひくり、と左の頬が引きつるのが見えた。
「テーラー家の正式な養子はもうずっと昔から決まってる。こういうことになるから、公表なんてしないけど」
 くすりと笑って、ラチェットは呟く。
「私は『ハズレ』よ。残念でした」
 パン!
 頬のすぐ横を、何か嫌なものが恐ろしいスピードで通り過ぎていった。
 ラチェットがいるはずの場所から、どさっという音がした。
「ジェームスっ!!!」
「人が来たらまずい。レイ、さっさと……」
 パァ……ン。
 もう一度あの乾いた音が響いて、それっきりジェームスの声は聞こえなくなった。
 僕はおそるおそる、振り返る。
「ラチェット……?」
 左肩からおびただしい量の血を流しながら、それでもラチェットの右手は拳銃をにぎっていた。
 立ちのぼる一筋の煙は、窓から吹き込む強い風ですぐに流れる。
「ねえ、驚いた?」
 ラチェットの息は荒い。
「これ、デリンジャーっていうのよ。まさかこんなところで役に立つなんて、ね」
「しゃべっちゃ駄目だ」
「なんで私なんか気にしてるの? あなたは顔を見られた誘拐犯よ。私がここで死ななきゃあなたが死ぬのよ」
 止血をしようとしていた手が、思わず一瞬止まる。
 それを見てラチェットはまた笑う。
「あなた、本当に何もわかってないでしょう」
 僕の腕をにぎりしめる、手のひらが妙に熱かった。
 左肩からあふれる血は、どんどん広がっていく。
「なあ、おまえ、なんで笑ってるんだ……?」
 ラチェットは僕の唇に、人差し指で自分の血をぬりつける。
「そうね」
 緩やかに息が吐き出される。
「もうこれ以上、汚いものを見なくてすむからよ」
 しばらく、二人ともそのまま動かなかった。
 強い雨が吹き込んでくる。
 ガタガタと、古びた窓枠が揺れる音がする。
 ラチェットが口の端を上げる。
「レイ。あなたはダメ。あいつらの様に、死んで濁った目になっちゃダメ。走って、はしって。いつまでも、走り続けなさい」
 ラチェットがポケットから弾を取り出す。
 撃たれるのか。
 うまく回らない頭でぼんやりと考えたが、ラチェットは銃を僕の手の中に落とした。
 そして信じられないような力で僕を突き飛ばすと、ふらっと立ち上がり部屋を出て行ってしまった。
 ケラケラと狂ったように笑いながら。


 カンカンカンと錆びた鉄の音がするけれど、階段を降りているのか上っているのかよくわからない。
 外はひどい嵐だ。
 叩きつける雨が、すべてを洗い流していく。
 憲兵に引きずられていった仲間、これまで見てきた「思想」の欠片、ジェームスの血の匂い、そういった今までの僕、すべてを。
 唇を噛みしめると、ラチェットの味がした。
 塗りつけられた血の味は舌先から広がる。
 まるで初めて飲んだブドウ酒のように、くらくらと内側から僕を侵していく。
 僕は一瞬だけ立ち止まり、ポケットの上からデリンジャーを確かめると、嵐の中を走り出した。


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