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MAO
鉄塔、むらさき
洛急新今井駅のまえを東へ。駅を通りすぎて第一洛浜、国道十五号線をのぼると右手にビール工場が見える。天辺、今宵も雲のきれ間からもれる月が夜のなかにぼんやりとしていた。こんな夜おそくにまで工場の煙は立っているのだろうか。いや、そうではなくてきっと国道をてらすだいだいの光源の列が、夜をうす汚くしているのにちがいない。対向車に眼をやられそうになってペダルをこぐ足に力をこめる。赤白く薄汚れたライトバンがよこを通りすぎていく。
尚人の電話にあらがいようもないあたしは、駅の裏手の高台から自転車を漕ぎおろした。海にちかくなるにつれて産業道路がふえてくる。昼は学校にいくのにかよう道、いまは道路を爆走する運ちゃんと同じ気持ちなのだとおもう。昼間とちがうのは、いいようのない使命感、きっとそうだ。
開発によって門前の道路に線路をむりに敷かれてしまったお寺がある。お寺を過ぎると打ちっぱなしのコンクリートに鉄塔がそびえたつ。送電が山からきたのか山にむかうのかはわからないが、街のライフラインはあたしの視界左半分でひっそりとしている。昼間、鉄塔はどんな色をしていたろうか。工業道路にそった電線を見あげて、一本、二本、三本目で緩やかなカーブをめぐって、目の前の鉄塔は白銀にひかってみえる。ひかってみえるのはいまだぬれているからで、ぬらしているのは紫のペンキだ。鉄塔の中ほど、工業高校の作業服に身を包んだ尚人は左手で自分の体を支えたまま、構造を支える巨きなボルトに執心しているようだった。
まってた、と尚人が怒鳴る。変声期がなかったのではないかというたかい声で、自動車の廃棄音のすき間をくぐって耳にとどく。買ってきたコンビニのおにぎりを受け取った尚人の手が紫に染まって、つよい溶剤のにおい。
風のせいじゃないけれど、とわざとおおきな声で言う。ちょっと足が震えちゃってさ、あわてて自分の方に向けてペンキ缶、被っちゃったんだよ。やっべえよコレ、あさって旋盤あるのにさ。旋盤の授業ははネジやボルトが次々と出来ていく作業なので、尚人にとっても「生きている」時間なのだという。
生きるだの死ぬだの、そんなことをあたしは尚人からよく聞く。現代文とか古典なんてさ、今使えるだけ知ってりゃ困らないじゃん、数学なんて九九さえ出来れば死なないってジイサンも言ってたし、材料の計算は体でおぼえないと役に立たないって。あたしは、尚人の意見に半分だけ賛成する。
それで、今度は鉄塔にペンキを塗っている。ペンキを塗っているのはあたしのせいだという。付き合いはじめたのは、尚人がうちのとこやの、実家のとこやの常連になったからで、うっかり店に置いていった傘と、その刹那急の土砂降りが大きな原因だ。尚人が改札を通る寸前、傘をもっておいかけてくるあたしを見て別の意味の「生きる」ことを見つけたという。あたしはあたしで、雨に濡れたシャツから透ける背中の筋肉にキュン、ときてしまったのだけれども。
海にも最もせりだしたこの鉄塔が人知れず紫色に染まっていたら素敵だろう、と尚人は言う。もちろん見つかってしまったらひどく怒られるに違いないし、そんな男のプライドらしきものもバラバラになって死んでしまうのだろうとあたしは想像するのだ。でも、おまえを駅で見たときにこの鉄塔を紫にぬってやろうと思ったんだ。いつの日にかこの鉄塔に何かしてやろうと思ったけど、具体的に何をするべきか、この鉄塔を紫にぬっておまえと一緒にビール工場のむこうに掛かる月を見るんだ、って、そんな馬鹿なこと、出来るはずがないじゃない。
食事を終えると尚人は接続ボルトに器用に足をかけてのぼっていく。靴のサイズがあたしと同じ二十五センチで、小柄なからだには似合わない筋肉をそなえて、左手にペンキ缶を下げて右手だけで体重のほとんどをささえている。みるみる間に街灯の高さを越えて、闇にかくれ、ようやくライトグレーの作業着だけが鉄塔に張り付いて見える。この場所からでは白銀灯が邪魔でうすぼんやりとしか見えず、ああそうか、街灯の高ささえ越えれば残るは海の向こうの船、とおくの港の灯、そして月のひかりなんだ。
ダンプカーの地響きに連れて、仕事帰りらしき会社員が不審げにとおりすぎる。自転車を鉄塔のわきにとめて、あたしは鉄塔を囲む金網からはるか上、おそらく見えるであろうペンキ缶の鈍い光沢を予想した。けれども刹那落ちてきたのはびちびちととろみのついた液体で、鼻の詰まる感じから間違いなくコレは尚人、いや紫のペンキであると確信する。左眼の中に入った塗料を手の甲でぬぐうと、まもなくして耳元をかすめてコンクリートで音を立てるハケの硬さ、金網のむこうにおちてけたたましい音をたてる金属のバケツ。ようやく見上げると声一つ立てずぶらんとなって落ちてくる尚人の姿を観止めて、思わず「馬ァ鹿」とつぶやいてしまうあたしなのだった。
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