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未卯
ストロー
真夏で、朝の電車だった。だからしょうがなかった。
乗換駅のエレベータをあがった先のホームでは、いつものように雅美が待っていた。雅美は駅がふたつだけ離れていて、同じ電車を使う唯一の同級生だ。
「おはよお」
細い目を線にして笑う。アイロンのかかったブラウスのボタンを一番上までとめて、ぱんぱんの鞄を下げ最後尾にまっすぐ並んでいた。はやりとはいえない素直なショートカットに、肌からは高級な寝具のにおい。少しつんとくるそのにおいを、毎朝すこしうらやんでいた。
「寝不足?」
「かもしんない」
「待ちきれなかったんでしょ」
なにも疑わないみたいな笑顔。その清潔さに毎日酔いつぶれそうになる。
電車からどっと人のカタマリが排出されて、隣であ、と嬉しそうなこえ。スカートを引っ張るだけの動作でも、気持ちが伝わってきてぐしゃぐしゃになる。好きなんて、どうしてそんな純粋に出来るのだろう。
「今日のめざまし占い、当たったみたい」
はみだしそうなこえに、よかったねの言葉がどうしてもでなかった。反対側のドアにもたれ、視線が私に向かってくる。夏の暑さのせいにちがいない。押しあげてくるサラリーマンの波にのまれながら、下を向いてひとのすくないところを探すしかなかった。
放課後、予想通りメールが来た。いつもの喫茶店に五時。プリントを提出しに職員室へ行った雅美を待ちながら、鞄の中でメールを繰り返し読む。行けない、行きたくない、行かない。親指を1ボタンに近づけた瞬間、羽毛ぶとんのにおい。
「誰とメール?」
「大丈夫、帰ろう」
「彼氏でしょ、彼氏」
「いないってば。友達が今から会えるかって。こないだ買ってきたクッキーの喫茶店」
「ふうん、じゃあ今日も長沼でお別れかあ。残念」
しまった、とおもったときにはもう遅かった。また買ってきてあげるね、と苦笑いをして携帯は鞄の奥底にしまう。マナーモードの振動が腰に響いた。
四時五十五分に喫茶店に着くと、いつもの一番奥の席に崇はいた。この暑いのに、ブレンドのホットをなんてこともないふうに飲んでいる。すこし伏し目がちにコーヒーを飲む仕草が、私はとてもすきだ。
「待たせてごめん」
「いや、俺のほうが近いから」
「冷めちゃったでしょ」
「コーヒーチケット、丁度二枚分あるんだ」
これだから金持ちは、とぼやくとふっと下がり眉でわらう。父親から譲り受けたらしいオメガの時計に、つやつやの黒髪。陸上部の身体に少し太めの眉の崇は、私にはもったいないほど上品な少年だ。店員さんにアイスカプチーノを頼むと、勝手に「ケーキセットでモンブラン」のこえが入る。目が合うと笑う。目の前にあるレモン風味の水道水を飲みながら、私は泣きたくてしかたなかった。
ガムシロップを先に目の前に、つづいて少し崇に近いところにアイスカプチーノは置かれた。手に取り、砂時計を眺めるように、つぎこまれてゆく透明な液体に見惚れる。三分の二は減ったところで止めの手が入る。
「有香、入れすぎ」
「甘いのがすきなの」
「にしても、限度ってもんが」
崇の口に近づけ、無理やり流し込む。わざとらしく咳こんで
「気持ち悪。こんなのカプチーノじゃねえし」
とやけに叱られた。なんだか腹が立ち、シナモンパウダーをさっきよりずっと大げさにかけまくる。においが鼻をかすめ、無性にグラスを倒したい衝動にかられた。ストローを口にくわえてかきまぜると「下品」と頭をもちあげられる。ストローを取り上げられた唇は大切なものを失ったみたいだ。もう一度自分のものにしたくて、無駄な動きばかりをする。仕方なく指先でストローを持ちかきまぜる。ガムシロップはもう見えなくて、とけてしまったのだとおもった。
席を立ち上がると、伝票を奪われる。タメなんだからと言ってもきかない。紅茶クッキーをレジで先に買い、階段を下りてそとにでる。しめった空気。小雨が降りはじめていた。
「さっきまで晴れてたのにな」
後ろで紺色の折りたたみ傘がひろがる。
「なんでそんなものもってきてるの」
「乙女心と秋の空、って言うだろ」
笑いながら私は紺色のなかに閉じ込められた。まもってもらっている代償なのだろう。
「まったくだね」
大好きなモンブランを遠慮して注文しなかったことも、雅美のことも私のきもちも、みんな気付いているのだろう。私も言わない。崇も言わない。その代わり私は家から反対方面の喫茶店まで交通費を使って行き、崇は食事代を全部おごってくれる。お金だけで心の中まで解決するのなら、どんなにか良いだろう。不意に触れた手は、繋がなかった。
駅前では排気ガスと雨のにおいがまじりあっていて、思わず鼻を覆う。
「ひとの死んだにおい」
「グロいこと言うなよ」
私のきもちは分かっていても、感覚には一生近づいてきてくれないのだろう。すきなにおいも、すきな味も、すきな時間も。ぬれた排気ガスのにおいの中で、クッキーだけが鞄のなかで音をたてていた。
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