葉月みか

脱出

あんたがあたしを蝶の名前で呼んだあの日から、あたしは飛べなくなった

抱くと麝香の香りがするからって
そういう蝶がいるんだって
酒瓶ばっかり転がった部屋の隅から
全然ガラじゃない昆虫図鑑を引っ張り出して
片頬だけで笑ってみせた
あんた

今ごろ
あたしが飛び出してったばかりのあの部屋で
もう新しい蝶でも標本してるんだろう

知ってた
昆虫図鑑の索引には知らない名前が並んでて
展翅板には色とりどりの蝶がピンで刺されてる
そんなこと
別に
知ってたけど

薄汚れた飲み屋街
いい加減歩き疲れたあたしは
紫色に発光する
スナックの看板にもたれて
座り込んだ

もっと他にマシなものがあったはずなのに
あたしが咄嗟に引っつかんできたのは
こんなに分厚くて重いだけの昆虫図鑑

ミジメで情けなくて悔しくて苦しくて苦しくて苦しくて、ほんともう嫌なんだってば

あんたがあたしにくれたキレイな蝶の名前
そのページを破り去って
あたしは立ち上がる

もうすぐ明日が今日になる
だけど、リセットされることなんか何もない
自由が幸せなのか、そんなこと判らない

一度だけ振り返ったら、スナックの看板にあんたの知らないあたしの名前があった


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