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poem 氷月そら mail:beem_sora@hotmail.com
恋心
もう、思い出せません
貴方様をはじめてお見かけしたのが
いつだったかなんて
覚えているのは
ざあざあ降りの雨の中
傘もおさしにならず
橋の上に ただ 立っていらしたその後ろ姿
上下のお召し物も
腰に刺した大小も
雨に濡れてしまっていました
お顔は見えなかったのですが
その立ち姿は本当に美しかった
「匂い立つような美しさ」まさにそのもの
いえ、実際に良い香りがたちこめていたのかもしれません
そして中でもいちばん素敵だったのは
雨に濡れて 少し形の崩れたちょんまげ
だから私は親しみをこめて
貴方様を「ぬれちょん様」とお呼びすることにしたのです
ぬれちょん様、だなんておかしいですか
立ち姿も麗しい貴方様に
ぬれちょん様、だなんて呼び名は
ふさわしくないとお思いでしょうね
でも
貴方様のその濡れたちょんまげは
そう呼ばせてしまうほど 素敵だったのです
「ぬれちょん様」
心の中でそうお呼びするだけで
私はとても幸せになれたものです
町中でちらりとそのお姿をお見かけしたときは
もう 心の臓が飛び出るかと 思ったほどです
でも どうしても声がかけられなかった
だって私は町娘
ぬれちょん様にはふさわしくない
でも、やっぱり……
やっぱり好きです、ぬれちょん様
そして
再びあの橋の上で
ぬれちょん様に会えた あの日
向こうから歩いてこられるぬれちょん様に
今日こそ声をおかけしよう
意気込んで 声を出そうとした そのとき
私は見てしまったのです
ぬれちょん様、
隣の女子(おなご)は……誰?
さよなら 私の恋心
所詮 身分違いの恋だったのです
さよなら 素敵なぬれちょん様
私はあの日のぬれちょん様のように
雨の降る中 傘もささずに
上から下までびしょびしょに濡れていました
もう この恋を断ち切ってしまわなければ
恋と一緒にこの命も
共に 一思いに ちょん切ってしまおう
さよなら 私の恋心
さよなら さよなら
「ねぇ、考え直して」
「嫌よ」
「どうしてよ、あたし好きだった」
「あんたには関係ないわ」
「ほんとにいいのそれで?」
「いいんだってば、もう無意味なの!」
「ぬれちょん様でしょ、原因」
「そうよ悪い?」
「悪いってあんた……分かってる?」
「分かってるわよ! いいから早くしてよ!」
「分かったわよ。切るよ。それにしてもびっしょびしょね」
「だって切るのに濡れてないとだめでしょ?」
「まぁね。まったく失恋して切っちゃうなんてバカだって言ってたのあんたよ?」
「……好きだったの。本気で。今なら分かるわ、その気持ちが」
「だってさぁ……ドラマの中の話じゃない」
「うるさい! 早く、乾かないうちに、濡れてるうちにちょん切って!」
「はいはい」
ばさ。
さよなら 私の自慢の長い黒髪
さよなら さよなら
髪は女の命です。