第12回テーマ:「汽水域」
「ちょっとスミマセン。タバコやめてもらえませんか」 「あ、申し訳ない」 「…ホント、神経疑うわ」 「はぁ」 「このお腹見てワカラナイ? 私妊娠してます。妊婦デス」 「…はい。すぐ消します」 「いくら灰皿が備えつけてあるからって、どこでも吸っていいわけじゃないでしょう。考えたらワカルでしょう」 「…あの…すみません。他の人も見てますし、そのへんで…」 「何よ! 悪いのはソッチでしょ。ここは喫煙車両じゃないんですよ。デッキですよ。デッキ。間。連結部。ワカッテルわよ。禁煙車に移ればいいだろうってんでしょ。それができたらやってるわよ! そもそもアンタが移りなさいよ。全くニコチン中毒症のクセに」 「いや、そこまで…」 「混んでるんだから静かにしてよネ!」 「…あのなー、いいかげんにしてくれ、ませんか。静かにするのはそっちだろ! 煙草吸ってるだけで病人扱いかよ! いいかげんにしてくれよ! 確かにあんたが妊婦さんだって、気付かなかったのは悪かったよ。だけどな。妊婦っていうだけで偉いのかよ。子供産む奴は王様かよ。ちょっと煙吸ったくらいで、お前のガキの程度なんてたかがしれてるよ」 「…自分のイッテルることワカッテんの。どこの誰だか知りませんけどね。自分だって子供だったんでしょ。さぞお上品なお母様からお生まれになったんでしょうね!」 「聞き飽きてんだよ。そんな台詞」 「あー、面倒クサイ。煙草の吸いすぎで脳ミソの血管収縮し過ぎてなくなってんじゃないの」 「だからもう消しただろうが!」 「すぐ大声出す。学習能力ゼロ。反省無し。最低。煙草とか以前の問題。とにかくスグ謝りなさいよ」 「お前がな」 「じゃ、どうするの、ナグル? 暴力で解決する? やってみなさいよ。乗車率200%で出来るもんならやってみたらイイじゃないよ! 煙草も我慢できないんでしょ! やりたいことやりなさいよ!」 「…いや、だから、落ち着いてくださいよ。お願いします」 「キモイ。泣き落とし? ホント頭オカシイんじゃないの? そんなんでこの、怒りが収まるわけないでしょ。謝りなさいよ。禁煙しなさいよ。今すぐこの場で宣言しなさいよ。いっそその口を縫ってオシマイなさいよ!」 「…あの、ほら、皆見てますし。ね。あんまり騒ぐと体に悪いですよ」 「ギゼンシャ」 「は?」 「好きなだけ吸え、ガンで死ね」 「…お前、何様だよ」 「誰か、車掌さん呼んできてクダサーイ。変な人がいまーす」 「どっちが!」
前略、堤防の上から。 眺めている。左目は緩やかに上下する波からさかのぼって川の終わり。視界の左上はじに錆びた橋が見えるの。はげた白ペンキで[しばさぎななないだ]って描いてある。なななって面白い。右目はほとんど真っ暗。鼻のおかげで光は差し込むけど、灰白黒青のコンクリートばっかり見えて、もう、見るものもない。 私、首だけ、独りきり。 風が出てきた。海鳴が、とんびの声が近づいて、海のにおいと水のにおい。ぽつ、ぱつ、頭髪の上、塩ビの首筋の上、降ってきて、びょう、とひとしきりの風が過ぎてあっという間に雨になった。雨になり風になり、風になり雨になり、勢いはますます強く、後頭部から私の巻毛をかきまわして。 今度は私の正面、海面から空へ吹き上がる風。尖った鼻の先をぐいと持ち上げられるとたまらない。うみ、そら、うみ、そらと視界が揺れて、左の頬に雨粒がわっとたかる。髪の根元にまで水が染みて、もうどうにでもなれと思ったとき、雨粒は、風は云うのだ。風の詩、雨の唄、夜を独りで過ごす防人の唄、旋頭歌、長歌、挽歌、コンテンポラリーポエム、さまざまに唄って、ひとつも意味が無い。やめろやめろ、意味も無く思いつきで言葉を詩といって放つのはやめろ、私の頭、あたま、ぐるぐるして、いやになってしまう。これだから、自称詩人などどうしようもないと思ってしまう。首筋から脳の中に吹きすぎる言葉に蹴転がされてごろんごろんぼちゃん、あああ、とうとう海に落ちてしまった。なんといっても空っぽですから私、髪を振り乱して海の底へぶくぶくぶく。 波の下は案外静かなもので、水も思っていたより塩辛くなかった。 ぼらが寄ってきてよく喋る。塩は上に浮かぶ、水は下に溜まる。得意げに太っている。この辺の水が塩辛くないのはね、川からの水が流れ込むからだ。ぼくは別におごって知識をひけらかすわけではないのだ。なんといってもぼらよりうえにとどというのがあるのだ。とどのつまりというだろう。あれよりはマシじゃないかねあははあはは。 しばらくすると雨も止んだらしく、海の底にも光が差すようになる。するとめじなやら、こちやら、かれいやら、ほうぼうやら、かわはぎやら、いろいろとやってきて、自分の作った小話をぼそぼそしゃべるのだ。たなごなどは小さいから、私の首の穴から入り込み、髪の毛の間に絡まってぼそぼそ聞かせようとする。 ああいやだいやだ、私は物語も、大嫌い。
「呼吸をしてはいけないの」 古ぼけたゆりかごを抱いたまま、茉莉がツメクサに語りかける。サイズの合わない真っ赤なハイヒールがツメクサに絡め取られ、幼い素足は立ち枯れた葦の突き出す水面に触れている。 「苦しくなるだけだから」 颯太の瞼の裏に焼きついた薄桃色の蕾は、呼吸するたびに颯太の胸を内側から刺す。母の手が摘んだ蕾。ペダルを踏む靴の中で取れないままの石のようだ。 颯太の視線の遠く、水門が海風を阻んで、そこで空気が塞き止められている。 三月の庭は一日ごと、空気に新しいものが混じる。ゆたりと降りてくる暖かさと揺り返しのような冷気が植物の脈動を加速して、吹き出した若芽の息遣いが縁側に寝そべる颯太の鼻をくすぐる。 仰向けた颯太の視線の先、庭の隅にある大人の背丈ほどの桃の木に母が寄り添い立っている。つばの広い帽子から母の頬が白く覗けて、透きとおる手は桃の蕾を摘んでいる。細い指先が枝を撫ぜると、明朝にも開花せんばかりに膨らみきった蕾がぷつり、ぷつりと小さな音を立てて離れた。淡い桃色の蕾粒は、芝に置かれた古いゆりかごにぱたぱたと落ちてゆく。蕾に触れるたび、指にくっと力が篭り、爪の根元が蕾よりわずかに濃い桃色に染まる。幾度も袖を通してない学生服が壁で小さく揺れた。颯太はいても立ってもたまらぬように腹の辺りが疼いた。「出かけるの」庭から尋ねる物憂げな母の声を背に、颯太は無言で自転車のスタンドを蹴り上げた。 海風が潮の香りで教室を満たした夏至の頃まで、茉莉と颯太は机を並べていた。いつしか茉莉は葦の陰でゆりかごを抱いて暮らすようになった。血管の透ける腕には幾重にも網目模様がついている。レースのような薄い青と赤の文様が、大きすぎるワンピースの肩口に吸い込まれていた。 「死ばかりだ。ゆりかごの中は死でいっぱいだ」 颯太は茉莉の腕からゆりかごを奪い、川に投げつけた。水面に落ちた古い藤蔓は水を吸って灰色に崩れながら河口へと流れ、ゆっくりと小さくなる。はじかれた茉莉は葦の藪に倒れた。尖った葦が腕を刺して、白い肌に赤い血がひとすじ流れる。風のない静寂した色彩の中に流れる。颯太はそれに口づけた。腕ははじめ唇を冷たく跳ね返したが、すぐにその熱に慣れた。水の匂いと茉莉の息遣いが近い。熱を持った舌に絡む血は、冷たいまま時を止めている。幾つかの終わりと始まりが錯綜する風景の奥で、水門が霞む。颯太は強い眩暈を感じた。
「きすいいき?」 「そう。汽水域。川を流れてきた真水と、海の塩水が混じっているところのことだよ。川と海とのあいだ」 「あいだ?」 「そう、あいだ。あのね、海で蒸発した水っていうのは雲になって雨になって、そして川を流れて海に還っていくものなんだよ」 「うん」 「川が海にやっと辿り着いて、会えるところがその汽水域なんだ。ねえ、僕はまだ、それを実際に見たことがないのだけれど、君はどんな光景だと思う?川と海とが交じり合うそこは、どんな色をしているんだろうね?」 「……わかんない、けど」 「けど?」 「きれいな色だといいな」 「そうだね。きっと、綺麗だよ」 そう優しく囁いた声が、耳の中でふいにこだました。小さい頃前に交わしたこんな会話をふと、思い出した。 幼なじみのお兄ちゃん。五つくらい年上だったろうか。小学生の頃よく遊んでもらった。どこか遠い所の大学に行く為にお隣の家を出てしまったきり、姿を見ないのだけれど。あの頃、そのお兄ちゃんのことをあたしはとても好きで、あまり理解出来なかった彼の言葉に一生懸命頷いていた。彼があんまり嬉しそうに話すので、その笑顔を崩したくなく、子供心に必死だったのを覚えている。 何故急にそんなことを思い出したのかはわからない。きすいいき、という彼が発するとはちみつの様に甘く聞こえたあの響きが蘇ると、同時に当時思い描いた風景が脳の奥にざあっと広がった。 川の透き通った水と、海の深いネイビーブルー。それらは美しいマーブル模様を描いて互いに侵蝕しあい、やがては溶け合って濃く青く海へ染み込んでゆくのだ。川から絶えず水が流れ込むからひっきりなしにマーブル模様は出来て、出来てはいつの間にか消えていく。生まれては消える、あたしが生まれるずっと前からそれを続けている。そしてあたしが死んでしまった後も変わらずに、途切れずに。 あたしは今、汽水域を見る為に一人列車に乗っている。朝早い車内はがらがらで、この車両にはあたし以外誰もいない。列車は昇ったばかりの太陽の白い光の中をごとごと進んでいる。あたしの周りには冷たくてしんとした空気が流れている。 あたしはあの頃と違って色々な事を知ってしまった。海の水が本当は青くないこととか、そういう生きていくのに必要のない色々な事を。 だけど、まだ今ははっきりとその風景を思い描くことが出来る。出会える気がするのだ、まだ、今なら。 だからあたしは、会いに行く。