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第21回1000字小説バトル
Entry24

メロンパンの誘惑

作者 : 一之江
Website : 海へ行く家族(短篇集)
文字数 : 1000
 昼休みになっても、中須は食欲がなかった。一応弁当の蓋を開け
てはみたものの、好物のノリ弁を前に溜息が一つ出ただけ。風邪気
味だった。
「はい、これ」
 顔を上げると、同じ部署の瑞恵が大きなメロンパンの入ったビニ
ール袋を差出しながら、にこにこ笑っていた。中須には、そのメロ
ンパンが非常においしそうに見えた。
「具合悪いんでしょ。はい、風邪にはメロンパン」
「僕に?」
「はい、ついでに買ってきました。おいしいですよ」
「ありがとう。いくら?」
「やだ。いいですよ。いつもお世話になってるんだから」
 ふやけた意識のなかで、中須は絶対的な感謝を込めて瑞恵に微笑
みかけた。
 と、不意に「あれ」と、瑞恵が声を上げた。「中須さんも、『む
くむく抱き枕』欲しいんですか」
 中須は瑞恵の視線の先を追った。机の上に缶コーヒーの空き缶が
たくさん並んでいた。それらにはみな、小さなシールが貼ってある。
10枚集めると『むくむく抱き枕プレゼント』に応募できるシール
だ。
「まさか」と中須は慌てて笑いながら否定した。
「じゃあこれ、貰ってもいいですか? あたし、集めてるんです」
 中須は少し躊躇した。『むくむく抱き枕』を欲しがっているのは
妻だった。しかし、妻がそんなものを欲しがっているだなんて。い
やそれよりも、このうまそうなメロンパンは。
「いいよ」と、中須は答えてしまった。
 午後、中須の机からごっそり移動した空き缶たちは、斜向いの瑞
恵の机の上にずらっと並んでいた。潤んだ瞳でちらちらそれを見る
度に、中須の胸は少なからず痛んだ。
 ねえ、何通ぐらい応募したら当たるかしら、と妻は真剣な面持ち
で訊いたのだった。あたし、どうしても欲しいんだけど。じゃあ僕
が集めてあげるよ、と中須は笑いながら答えた。当たるぐらいまで
飲んでやるさ。妻は嬉しそうに、ありがとう、と微笑んだ。
 メロンパンの甘味がまだ舌に残っていた。妻の手製の弁当は食べ
ることができなくても、メロンパンはすんなりと腹に入ってしまい、
いまだにその至福の余韻が残っていた。
 別に悪いことをしたわけじゃないさ。
 中須は自分に言ってみる。が、妻にはやはり言えない気がした。
 なあに、そんな変梃な枕なんかじゃなくて俺を抱いてりゃいいじ
ゃないか、と心の中で呟いてもみる。が、何言ってんのよ馬鹿、と
いう妻の軽蔑のこもった眼差しが瞼に浮かぶだけ。そうだよな、ま
さかそんなこと。やっぱり言えないな、と中須は思った。






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