第51回1000字バトル

エントリ作品作者文字数
1チャイルドフッヅ エンドべんぞう1000
2セカイのオワリ651
3美恵子中川きよみ1000
4チョイス卯月羊1000
5池田 哲1000
6夏の終わり第1素描室1000
7センチメンタル浅田壱奈1000
8僕たちのサンバ夢追い人1000
9キボコ幻想ヒヨリ1000
10お気の召すまま鈴矢大門1000
11哀れみて一つを深く眠らせ土筆998
12手の石が作動し全ては吹き飛ぶ。アナトー・シキソ1000
13ゼッタイ評価ごんぱち1000
14DRIVEるるるぶ☆どっぐちゃん1000
15イナゴ日向さち1000
16『肉人形の自動演奏(ホムンクルスのオルゴヲル)』橘内 潤997
17嵐が森III棗樹1000
  
爽秋企画特集[セクハラ 〜愛の脱藩者たち〜]
18セクハラ佐藤yuupopic1000
19セクハラ立花聡1000
20(作者の要望により掲載終了しました)
21セクハラ(その代償)満峰貴久1000
22彼@岸@花さとう啓介1000
23セクハラ太郎丸1000
24何もわかってないもふのすけ1000
25セクハラながしろばんり1000
26セクハラ越冬こあら1000
27セクハラニョロ鰻田1000
28セクハラ詠理1000
29セクハラ伊勢 湊1000
30セクハラカピバラ1000
 
 
バトル結果発表

バトル開始後の訂正・修正は受け付けませんので覚悟してください。






エントリ1 チャイルドフッヅ エンド    べんぞう


 父は仕事に行っている。母もご近所にちょっと出かけている。微妙に曇っている昼下がり、裏の勝手口の向こうには入道雲が見える。今日も夕立が降るのかな。目に見えるすべてが淡くて暗い色で見えるのは、きっとさっきまで狭い庭に出て遊んでいたせいだろう。居間にある20インチの大型テレビからは、さっきから画面いっぱいに1秒と続かない『色とりどりの絵』が次々と出ては消え、そのスピーカーはなにやら「フザケルンジャネェヨ」と歌っている。どういう意味なんだろう?


僕はほの暗い、真っ昼間の部屋の中で、座るところが丸く、背もたれも肘掛もない椅子に腹ばいになって、そのうつ伏せになっている自分のお腹を中心に軽く回りながら考え事をするのが好きだった。うつ伏せで眠るとお腹が圧迫されて悪い夢を見るものだと、前に母が言っていた。



「いい子でお留守番しててね」と言って出ていったけど、どういい子でいれば良いのだろう? その「座るところが丸い椅子」に腹ばいになって考えてみる。そんなようなことを考えた後は、いつも決まってこう考える「自分は人間に生まれているんだ…」



蝉に生まれていたかもしれない。蚊かもしれない。いや、もしくはアサガオに生まれていたかもしれない。しかしさしあたって今回の一生は「人間」である。人間に生まれるとめんどくさいんだよね。友達付き合いとか。そればっかりじゃない、僕は太っているから、きっと女の子にはもてないんだろうな。ケッコンとか、できるのかな。



「人間って、人間だよなぁ。人間。って人間で、人間って人間ってニンゲンってニンゲンって…」




自分のお腹に全体重を預け、音楽はいつの間にか変わってはいたものの、相変わらずテレビからチャカチャカと流れ出ている。何で僕は人間に生まれたんだろう? 僕はこのあと、何年ニンゲンとして生きるんだろう? このあとの人生って楽しいのかなぁ??




がららら。母が帰ってきた。


「ツヨシちゃんおみやげよぉ。大好きなスイカ、切ってあげるからねぇ」

「やったぁ」


スイカだ。うれしいね。僕にとってはまだ5回目の夏が来たばかり。人生はこれからだ。それだけ考えると、目の前のテーブルまで椅子からジャンプした。





あれから23年。僕は28になった。気がつくと馬鹿みたいに明るい性格になり、いつの間にかニンゲンについて考えることはなくなった。僕はいつから子供じゃなくなったのか、病院で我が子を初めて抱きながら考え始めた。




エントリ2 セカイのオワリ    陽


世界には終わりがきまってました。
それは均しく皆死ぬ日。どんな若者も子供もそれから逃れることは出来ま
せんでした。

ある人は悲しみに明け暮れ
ある人は絶望し
ある人は愛を育み
ある人を自分の夢を果たし
ある人は世界中を旅し
ある人はいつもと変わらない日常を
生きました

その日は訪れました。その様は死に神に魂を狩られるようでした。
手元の電話のようなものに
「オワリダ」
というメッセージが届くのです。
ある区間ごとに順番が決められ、皆、その順番に従い小高い丘に足を運びました。
その丘が死に場所でした。重い足を運び
その時を小高い丘はゆっくりと刻みます。

プルル…
という無機質な電子音が響いて、電話に目を向けると
一人
また一人
と魂が狩られ
身体が崩れていきます。

文字と同時に体温と血液が一気に奪われる消失感。
意識は同時に奪われました。
辺りが灰色に変わった瞬間、暗いところに意識が吸い込まれていく感覚です。
ふっと身体を何かが通り抜け、魂はどこかに堕ちていきました

そこは何でもあって何にもない所でした
食べ物も住むところも全て満たされていますが、
そこには自分一人しかいませんでした。
また、永遠に続く扉をあけなくてならないという義務がありました。

彼等は朽ち果てることをなく、扉を開け続けました。
永遠に…それは狂うことも許されない罪と罰。

彼等は自らの命を絶った人たちでした。そしてある一定期間の猶予を与えられた
のち、扉のある世界に送られたのでした。より罰が辛くなるように…と。
それは誰かわからない絶対の人が創ったルール。
変わる事がないルールでした。




エントリ3 美恵子    中川きよみ


 「久しぶりだね。」
 きれいな声だった。
 昼下がりの喫茶店の窓辺は私たちが高校生の頃から何一つ変わらぬ様子でくらくらしてしまった。
 美恵子と会うのは7年ぶりくらいだった。

 突然の事故で美恵子の夫が亡くなった時、私は結婚して違う街にいたし実家も転居していたので、同級生から伝え聞くまでしばらく知らなかった。そして美恵子は最愛の人を亡くしたショックで誰にも会わなくなって閉じこもってしまった。
 親友だしとても心配だったけれど夫が元気に暮らしている私では美恵子の悲しみに共感しきれず逆に傷つけてしまうように思えて、結局電話もかけそびれた。美恵子がまた太陽の光を浴びる生活をするようになった時、初めてホッとして絵葉書を送ったくらいだった。

 私はその後いろいろあって最近ようやく離婚した。
 深夜、突然涙声で美恵子が電話をかけてきてくれた。
「頼子ちゃん、大変だったんだね。」
 愛らしい子猿のような美恵子が私のために半泣きで受話器を握る姿が目に浮かんだ。
 美恵子は私の離婚を夫を亡くした悲しみに重ねて心から同情してくれた。浮気者の夫との愛憎劇の末に離婚して心身共にくたびれ果てている私では、本質的に悲しみの純度が違う。でも喪失感を分かってもらえたことで意外なくらい癒された。
 自分がひどく疲れていることをはっきり悟って、週末には休みを取るから美恵子が住むあの懐かしい街で会おう、と約束をして受話器を置いた。

 「きっときちんと食べてないんでしょう? 私が作ったふりかけだよ。自分で言うのもなんだけれど美味しいよ。これでご飯だけでもちゃんと食べてね。」
 佃煮の空き瓶に詰められたお手製ふりかけ。
「なんかオバサンみたいだよ。」
 二人で笑う。
 この手のやさしさは昔から私を少し傷つけてそしてとてもなぐさめた。
 対等の不幸だから今は何を言ったとしても美恵子を傷つけないだろうなんて打算で考えてしまった私に、澄んだやさしさがしみ通る。
 ふと、心根の美しい人の声だ、と、美恵子の声を聞いたおばあさんが言ったことを思い出す。骨折して入院した私を毎日学校帰りに美恵子が見舞ってくれていた。原爆の後遺症で目がよく見えない隣のベッドのおばあさんは、美恵子の声を聞くことをとても楽しみにしていた。

 深い谷を越えそれでも美恵子の声は変わらない。
「どんなに嫌でも、やっぱり一歩ずつ地道に進むしかないんだよね。」

 紅茶はとてもすっきりしていた。




エントリ4 チョイス    卯月羊


 結婚して、すぐに子供ができた。私は今まで勤めていた会社を辞めて、「100パーセントのお母さん」になった。

 私は、結婚するのは30歳を過ぎてからと決めていた。もうしばらくは、刺激的で楽しい今の仕事をしていたかったのだ。
 それなのに、私は24で結婚した。何がきっかけだったのかは、突然すぎて、私自身もよく覚えていない。それから三ヶ月。私のお腹の中に真新しい命が宿った。私は「お母さん」になってからも働いていたかったのだけれど(「50パーセントのお母さん」でいたかった)、夫の「側にいてやってくれ」という一言に折れた。

 あれから五年、私はエプロン姿が良く似合う、どこにでもいる一人の「お母さん」になっていた。今日も娘を幼稚園に送ってきて、買い物にでかける。こんな生活にもそろそろ慣れないといけないなぁと思いながら。

 帰り道、私は公園のベンチにあなたを見つけた。長すぎず、短すぎない、丁度いい長さのすらりとした手足。黒い髪。大きな瞳。あなたは、とても美しかった。私は自分の胸がドキドキと音をたてるのを感じていた。

 その日以来、私は時々あなたを見かけるようになった。あなたはいつも美しく、いつも違う男性と並んで歩いていた。あなたは自由だった。それは私の求めている自由とはまるで形の違うものだったけれど、私はあなたに憧れた。家庭に縛られず、自由に生きる女性の美しさ、あなたにはそれがあったのだ。
 私が失った、もう一人の私。
 私は本当に仕事を辞めるべきだったのかしら?


 ある朝、目を覚ますと、ベランダにあなたがいた。あなたの大きな瞳の奥に、私が映っている。
「一緒にくる?」とあなたが訊ねた。
 私は少し迷ったけれど、横にいる夫と娘の寝顔が私をひき止めた。私は幸せなのだ、ふとそんな言葉が私の頭をかすめた。
「誘ってくれてありがとう、でも私は行けないわ」
 私は答えた。
「本当にいいの?」
 あなたはもう一度だけ訊ねた。
「うん。それに、よく考えたら、私は鼠が大嫌いなの」
「そう。じゃあ、またね」
 あなたは耳をピンと立て、ひらりとベランダから屋根へと飛び降りた。しっぽが揺れる。そして、外で待たせていた今日だけのボーイフレンドを連れて、あなたは何処かへ行ってしまった。


 あなたが去った後、私は「にゃあ」と鳴いてみた。やっぱり、しっくりこない。これでよかったのだ。私はようやく本物の「100パーセントのお母さん」になったのだ。




エントリ5     池田 哲


時は江戸時代。一人の侍がある城下町を歩いていた。
コンクリートで舗装されているはずもない道を歩いていた。
道を真中にして両側には土の匂いのする家屋がずらっと並んでいた。
天気は現代の気象予報では曇りと判断されているだろう。
そのいわゆる曇りである空はその城をよりいっそう暗く引き立てていた。


侍は道をズンズン歩いていく。その身なりはボロボロの茶色い着物に刀を装備。
頭にはもちろんマゲを結っている。誰からみても当時の侍という格好であった。
道を歩いているとそのマゲを結った頭に、突然として硬くて小さいものがバチンとあたった。
侍の足元に落ちたものは竹とんぼだった。
大方、子供がこれで遊んでいて手がすべり、拙者にあたったのだろう。
案の定、小さな女の子がビクビクしながら侍の方をじっとみつめていた。
現代でいう小学1年生くらいだろうか。
侍は足元に落ちた竹とんぼを拾い、その子に竹とんぼを渡した。
そして頭をなでなでしてやり、無言でその場を立ち去った。
女の子は笑顔をみせ、また嬉しそうに竹とんぼで遊び始めた。
そんな光景を背中に感じながら、侍は心の闇に光を感じた。

そのとき、侍の前方で3人の女が小刀を侍に向けてきた。
「父上の敵!」
と3人が侍を取り囲む。
3人の女は必死だった。よくみると一人はこめかみに汗がひとすじ垂れている。
いつか斬った悪党の娘たちであることを思い出した。
3人の構えをみて侍は「やられる」と感じた。剣法を中途半端にかじった者達ではない。
今日この時に命をかけて拙者を殺そうとしている。
侍はさっきの女の子を思い出した。あの時に感じた心の闇を照らした光・・・。
それを思い出すと途端に力が抜けた。
侍はわざと斬られることを望んだ。小刀を握っていた女は勢いよく侍の懐に飛び込んだ。
侍は腹に冷たいものを感じ、やがてその冷たさは暖かくなり、そして痛みへと変わった。
「すまなかった」
侍は痛みからきたのではない涙を流して道に倒れこんだ。
目を閉じていたが女3人が逃げていくのがわかった。

何かが拙者に近寄ってくる・・。侍はまぶたをあけた。
それはさっきの女の子であった。しかしその顔つきはさっきの笑顔ではなかった。
じっと侍を怖い目つきで睨んでいた。そして侍の顔面におもいきり一発蹴りをいれた。
「父ちゃんをよくも殺したな」
そういうと女の子はさっと逃げていった。
侍は目を閉じ、死が近寄ってくるのを感じた。
そしてとてつもなくおそろしい孤独感を感じた。




エントリ6 夏の終わり    第1素描室


 少しだけ無理をして散歩に出た。

 外はなんだか涼しかった。私は長袖の服を羽織ってきた判断に満足しながら公園に向かう。日光は十分に差していたけれど、気温は嘘みたいに上がらない。どうやら夏は昨日終わったようだった。まだ高いところにいる太陽を見上げてやる。勝ち誇っていたのも昨日までだ、もう大きい顔はさせない。

 アスファルトの道から赤レンガの敷き詰めてある歩道に曲がると、そこが目指す公園だった。涼しいのに相変わらず日ざしは強く、木漏れ日だけが夏のままだった。吸い付けられて、私はそのまま木々の下を歩いていく。服も、肌も、光と影のまだらになって、私は大きな爬虫類のように醜くなった。私は過ぎていく時間のことを考えていた。何かをしなければならない。時間は放っておいても過ぎていって、すぐにも私のことを迎えに来るだろう。しばらく経てばこんな木陰に入らずとも、すぐに私は消えないまだらで一杯になってしまうのだ。その前に。

 その前に。とは思うが、林の中で一呼吸するだけで、すぐに私は元の怠惰な私に帰ってしまう。はやるのは気持ちではなく、体でもなく、本能のような部分だけだった。自分の終わりを知っているのはどうやら本能だけのようだった。はたして本能とは自分の部品なのだろうか。

 林からのろのろと出てみると、大きな噴水の前に出た。平日の午後早くでは、ベビーカーを押す若い母親が一人いるばかりで、ドウドウいっている噴水のほかは静かなものだった。私は涼しくなってすっかり人気を落としている噴水をまわると、公園の隅にある大きなポプラの木に近付いていった。幹のしっかりした大きな木で、これから寒くなるとはいえ、まだ緑の葉を十分に茂らせていた。

 木を見上げた。その時、大きな風が吹いた。

 風は噴水の方からやってきて、私の足下でまくれ上がり、ポプラの木を突き上げて空に吹き抜けた。風が抜ける瞬間、なぜか私には風をハッキリと目で追うことができたし、風があたりの音や匂いをすべて持ち去っていくことも感じ取ることができた。

 風が激しく吹き抜け、バサバサと葉が揺れた後、ポプラの木から途方もなく沢山の何かが剥がれ、地面に向かって落ちてきた。私は木に近すぎたので、その降り注ぐ何かの中に立ち尽くした。


 降ってきたのは無数のアブラゼミだった。すべてもう死んでいた。


 私はセミたちの亡骸を屈んで眺めながら、夏は今日になって終わったのだと知った。




エントリ7 センチメンタル    浅田壱奈


 ひんやりと冷たい風が頬をかすめる。街には、秋の匂いが広がっている。誰かに呼ばれた気がして、香奈は足を止めた。誰もが香奈を素通りして行く。気のせいかと、向き直ったとき、秋の色をした街路樹が目に入った。
 街は夕方で、疲れた顔をした人々が行き交っている。夕日は、それらを優しい光で包んでいる。しかし、香奈はその光から見放されている気がした。別に、嫌なことがあったわけじゃない。仕事はうまく行ってるし、人付き合いも問題無い。それでも、見放されている気がしてならないのは、この季節だからだと思った。香奈は、この季節が好きではない。辛い思い出があるから。
 街路樹の葉っぱが、風に揺られて落ち葉に変わる。ひと夏を過ごした恋人にさよならを告げるように、名残惜しいといった感じで何度も風にあおられる。そして、ようやく地面に広がる落ち葉の一部となった。その瞬間、見も知らぬ人の足が、その落ち葉を踏みつけた。何人もの人が、その落ち葉を踏みつけて通りすぎて行く。その落ち葉は、何度も踏みつけられて、バラバラになていった。香奈は、その落ち葉に過去の自分を見た気がした。
  ずっと支えになっていた人との別れ。別れた後の自分。
 地面に広がる落ち葉と、あの頃の自分に何の違いがあるのだろう ……。
 もうすっかり忘れたものと思っていた。毎日が充実していて楽しいから、そう思っていた。でもこの季節が来ると、やはり切なくなってしまう自分がいる。そして、忘れたと思っていたのにと、思う自分がいる。
 香奈は苦笑した。あの頃から、何の進歩もない自分に気付いたからだ。また、そんな自分を情けなく思い、少し泣きそうになった。けど、その気持ちを心の奥に押し込んだ。その変わりに、深く溜め息を吐いた。切ない気持ちも、一緒に吐き出すかのように。ほんの少しこだけ、体が軽くなった感じがする。
 香奈は、この季節が好きではないが、嫌いでもない。
 そして、ゆっくりと歩き出した。
 落ち葉は相変わらず地面に広がっており、行き交う人々に踏みつけられていた。香奈も踏まないように気をつけてはいるが、無数に広がるそれをよけて歩くことは難しかった。
 やがて香奈は、夕方の街の風景に溶けていった。
 街には秋の匂いが広がっている。秋の夕方の光は、優しく街を包んでいる。しかし香奈は、その光から見放されている気がした。
 それでも光は、何一つの例外もなく、優しく街を包んでいた。




エントリ8 僕たちのサンバ    夢追い人


「夏も終わったな」
 嘆息を漏らしながらそう呟いた雄二の鼻毛はサンバを踊るように情熱的に揺れた。
「いや、まだ夏は終わってない。だってまだサンバ踊ってる奴もいるし」
 夏の終わりに落胆して俯いていた雄二が、えっ、と言いながら驚きを露にした顔をこちらへ向けると、雄二の鼻毛も全貌が露になった。これを超える黒はないだろうと思われるほど黒々しい長く太い鼻毛が蛍光灯のぼんやりとした明かりに照らし出された。まるで古代ローマで権力者が奴隷に向け、振るっていた鞭のように程よく撓っている。
「サンバ踊ってる奴って誰だよ」
「誰って、あいつだよ。昨日お前が学校で鈴木のことを鼻で笑ってる時に、お前と一緒になって笑ってた奴だよ、鞭みたいに体が柔らかい奴。ほら、わかるだろ」
 そんな奴いたかなぁ、と一日前のことを必死で回想して長い鼻毛ちゃんを鼻からぶら下げた雄二はひどく滑稽だ。
 必死で思い出そうとしている雄二が口を閉じたまま深い息を鼻から吐いた瞬間、鼻毛ちゃんが身震いするようにプルプルッと震えるものだから、僕は思わず、ぷっ、と声を漏らしてしまった。笑うのを限界で必死に堪えた。それにしても、あんなに長い鼻毛がプルプルッ。プルプルって。そりゃないぜ。まったく。これ以上の奇跡の遭遇にはこの先お目にかかれないだろう。

 あれから学校で昨日起きたことを頭の中で反芻していた雄二は結局何も思い出せないままベッドに横になって寝てしまった。雄二ははっきり言って馬鹿だ。ありもしないことを必死で思い出そうとして、鈴木なんて奴は学校に一人もいないのに。
「鼻息荒くて眠れないよ」
 雄二の寝言かと思った。しかし、寝言のわりにははっきりとした口調から、すぐに鼻毛ちゃんがしゃべっているのだとわかった。
「こいつの鼻の中すごく汚いんだよ」
 雄二の寝息に揺れながら鼻毛ちゃんがしゃべるせいで、鼻毛ちゃんの声には見事なビブラートが掛かっている。
「でも、雄二じゃなかったらとっくに抜かれてたか、切られてたぞ」
「切られるのは痛いから嫌だが、早く抜かれたいね。お前抜いてくれないか?」
いいよ、と言いながら僕は雄二の眠るベッドの脇に腰を下ろした。
「いいかい?抜くよ?」
「ちょっとその前に俺の遺言を聞いてくれ」
「なんだい?」
「君の鼻毛のほうが、俺より長いぞ。それに二本もだ。君なんかに笑われたくないよ」
 くそっ。鼻から血が出そうな勢いで鼻毛ちゃんを力一杯引き抜いた。




エントリ9 キボコ幻想    ヒヨリ


 彼がパカンと口を開けた。
 真琴もポカンと口を開けた。


「とにかくね、格好いいの。素敵なの。最高に神秘的なの!」
 そこで一息。真琴は相手の言葉を待った。
 返ってきたのはごく簡単な一言。
『理解できない』
 携帯越しに聞く諒子の声はいつもより三割増に冷たいが、真琴はめげない。
「それは諒ちゃんが実際に彼を見てないから。見れば判る! あの魅力はねぇ、ブラックホール級の引力よ」
『……引力、ね』
 うんざりした口調で、諒子は話題を変える。『それより真琴、絵は描けたの?』
「や、全然」
 真琴は画版に留まった小さな羽虫をふうと吹いて飛ばした。真っ白い画用紙が、午後の日差を眩しく跳ね返している。
『全然って、あんた何の為にそこにいるのよ』
「彼と運命的に出逢う為かな」
『バカ』
 諒子の溜息を聞き流し、真琴は彼に目を戻す。

 先程大欠伸の引力で真琴を虜にした彼は、今はプールの中にいる。伸びやかな泳姿が人目を引く。時折水から顔を上げ、その黒目がちの瞳でプール脇の真琴の姿を捉えては(息をのむ真琴)、又さりげなく逸らし(消沈する真琴)、流れる雲など眺めている。

『真琴?』

 真琴はグイと身を乗り出す。足が疼いてじっとしていられない。飛び込んでいきたい。あの大きな口の中に螺旋を描いて吸い込まれていきたい。ここは北半球だから渦の回転方向は左回り、けど彼は南半球出身だから体内回転記憶はきっと右回り、両方向に巻く渦の中で真琴の体は雑巾のように絞られテーブルクロスのように広げられ、それを繰り返すうちに真琴を真琴たらしめている厄介な二重螺旋はするすると解けて一筋のレールになる。そうなれば後は簡単。40mの上空からただ一尾の魚めがけて海に飛び込むカツオドリのように潔く、真琴は、かつて真琴であったものは、彼の中心へ真っ直ぐに降り立つのだ。軽快に、爽快に、余分な物を捨て去って、同じ鼓動に溶け合って、原始の存在に戻るのだ。

『ちょっと、話がないならもう切るよ?』

「あ」我に返る真琴。「ごめん。彼に見とれてて」
 と、彼が豪快な飛沫と共に水から上がった。休憩の時間らしい。プールサイドに寝そべって目を閉じる。
 ブロンズに光る広い背中を見つめ、真琴は大きく息を吸った。錆びた手摺から立ち上る鉄の匂いに酔いそうになる。
「諒ちゃん」声を潜めて。「これってやっぱり、恋かしら?」

『バカ!』

 ……動物園中に響き渡るような大声で、たった一言、諒子が怒鳴った。




エントリ10 お気の召すまま    鈴矢大門


「ねえ、れえるのさきには、なにがあるの?」
「行ってみればわかるさ。」

 あたしは、そのひとについていった。そのひとは、いつのまにか、あたしのそばにいて、あたしを、そのれえるのそばまでつれていってくれたのだ。あたしはそのれえるのうえのはこのなかにはいって、そのおとこのひとといっしょに、れえるのさきをめざすたびにでた。あたしはそのときようちえんにかよっていた。やがてれえるのわかれみちがあらわれて、あたしたちはそのなかのいちばんきれいなひろいみちをえらんだ。そのとき、あたしは、しょうがくせいになった。そこで、きいてみた。

「ねえ、レールのさきには、なにがあるの?」
「行ってみればわかるさ。」

そのままのきれいで広いいっぽん道のうえを走るゴンドラの中、あたしはその男の人といろんなことを話した。あたしの家族のこととか、友だちのこととか、学校のこととか、夢のこととか。やがて道はまた何本にも分かれた。そこで今度はこうてつが鈍く光るレールを選んだ。私は中学生になり、ゴンドラの装飾は何だか派手になっていった。でもレールの上を突っ走るゴンドラは、一度も止まることがなかった。私は隣の、昔から変わらない男の人にたずねた。

「ねえ、レールの先には、何があるの?」
「行ってみればわかるさ。」

 次に分岐点が現れたとき、あたしはたまらず、また、尋ねた。もうあたしは高校3年生だった。

「ねえ! レールの先には何があるの?」
「行ってみればわかるさ。」
「もう何年も乗っているのに、まだ着かないの? あたしたち、どこに向かってるの?」
「行ってみればわかるさ。」
「答えてよ。ねえ。答えて。」
「……。答えて良いのか?」
「ええ。」
「死、だよ。」

 ああ、その瞬間あたしは理解したのだ。いや、知っていたんだろうか。きっとそうだ。確かに、あたしは知っていた。止まらないゴンドラに、いくつもの分岐路、選択。人生のミニチュアが、まさしくそれだった。ゴンドラの上のあたし、そして、男の人。意識と、無意識。気づかないフリをしていたんだ。誰だって、死ぬことなんて、考えたくない。

「止まらないよね。」
「止まらない。」
「降りたいな。」
「無理だよ。もう、君はレールの上を歩んでるんだ。逃げられないさ。さ、また次の分岐路がもうすぐ現れるよ。どこへ行こう。行き着く先は、全部同じなんだから、好きなところへ行こうよ、ね?」




「そうね…。仕方ないか、もうレールの上だし。」




エントリ11 哀れみて一つを深く眠らせ    土筆


 満月だ! 眠れない馬が、厩舎から顔を出して月を見ている。
 前の池では、鯉が跳ねた。池の水には、満月が卵の黄身のように浮かんでいる。ぽしゃんという幽かな音が、辺りの静寂に溶けていく。

 ふと横を見ると、隣の厩舎でも馬が顔を出して、月を見ていた。
「何だ。お前もか」
「ああ、こんな月の光に照らされると、とても寝てはいられない」
 と隣の馬。
「この分だと、明日のレースは無理だな」
 とこちらの馬。
「ああ、それもやむを得ないさ。馬主の期待を裏切ると思うが、馬だって機械じゃない。恨むんなら、満月を恨んでもらいたいもんだ」
 と隣の馬。
「まったくだ」
 この二頭は隣り合ってはいても、馬主は違う。そして馬主側からすれば、ライバルに当たる。明日のレースに備えて、競馬場に隣接する仮厩舎で一夜を過ごしているというわけだ。
 しかも下馬評では、二頭のうちどちらかが優勝するのではないかと囁かれていた。
 月光の下、よく見ると、起きているのはこの二頭だけではない。少しく間をはさんで建つ厩舎でも、四、五頭が首を出していた。馬の首の輪郭が影絵のように浮上して見える。その中には、穴馬と目される馬も混じっている。
 二頭の馬の対話は、こちらにも波及してきていた。
「あいつら、こっちを出し抜いて、一、二着をせしめる相談をしてるわけじゃないだろうな。そうなったら、こちとらは騎手に蔑まれ、馬主に灸をすえられ、聴衆の罵声を浴びることになる」
「そんなことあるもんか。元々あいつらは最高級の血統の下に生まれてきてるんだ。俺なんざ、優秀な血と雑な血を一緒にして、あわよくば突然変異あらわれよ! というわけで、今ここにいるんだぜ。やつらは眠ればきっといい成績を収める。それを承知で起きてるんじゃねえか」
「だってよ、満月で眠れねえから、起きてるんだろうよ」
「ちげえねえ」
 こうやって、眠れぬ馬達の目をますます冴えさせて、満月の夜は更けていった。
 だが、月の光に見守られて終始眠っている馬がいた。そこだけ馬の首の影絵が、抜け落ちていた。

 さて、レースは思いがけない決着を見た。駄馬中の駄馬、予想だにしなかった馬が優勝したのである。この馬は種馬となる実績なく、さりとて観光用としての外貌もなく、このレースを最後に馬肉市場に出されることになっていた。その名は、ムーンライトセレナーデ。不相応な名であると、嘲笑の中を生きてきた馬である。




エントリ12 手の石が作動し全ては吹き飛ぶ。    アナトー・シキソ


「大佐に会えば、あなたの猫は取り戻せるわ」
「猫じゃなくて靴ですよ」
「見えるかしら?」
俺は女がちらりと向けた視線の先を見る。
灰色の、先の尖った岩の山があった。
てっぺん近くを、きっと5メートルはありそうな鳥みたいなものが旋回している。
「山?」
「城よ。大佐の城」
「大佐……。軍人なんですか?」
「昔はね。今はただの年寄り。自分で歩くことさえ出来ないわ」
「で、あの飛んでるの、鳥じゃないですよね?」
女は大佐の城の近くを旋回する〈鳥〉をちらっと見た。
それだけ。見ただけだ。
女は俺に石を手渡した。
「大佐に会ったら、これを」

俺は、尻のポケットから石を取り出し、右手で握った。
「今、手に持ったものは何だ?」
ソファに座っている俺に迫っていたジジイはそう言って車椅子を止めた。
俺が石を握ったまま立ち上がると、ジジイはほんの少し車椅子を後退させた。
「石だな。貴様、石を握ってるな?」
俺は車椅子のジジイを無視して、靴を捜した。
ざっと見回したが見当たらない。
扉付きの戸棚があった。開けてみたら中は水槽になっていた。
見たことのない、エビのようなものがいて、水槽の底で目玉をユラユラさせてる。
「オモチャじゃないぞ、本物だ」
俺は振り返って、ジジイを見た。
ジジイは、さっきよりも更に距離を置いた場所で俺を見ていた。
「そいつだけじゃないぞ。ここには他にも色々と居る。しかも全部本物だ」

「既に失われた動物たちが、大佐の城にはたくさんいるわ」
「失われたというのは?」
「絶滅したって意味よ」

俺は、窓際に歩いて行き下を見た。
プールがあって、アザラシみたいなものがいた。
クジラみたいにデカイ。死んで浮いているだけみたいにじっとしてる。
入り口とは違うドアに向かった。
開けたら、頭が天井のあたりにあるダチョウのような鳥が突っ立っていた。
鳥の目で俺を見下ろしてる。
俺はドアを閉めた。
ジジイは、俺との距離を取るように車椅子を移動させながら、後ろから俺に言う。
「全部本物だ」
ダメだ。自分で捜しても埒があかない。
俺はジジイを見た。ジジイがへへと笑う。
「その石を使わないと約束するなら、猫は返そう」
もううんざりだ。
「靴だ!」
ジジイはゆっくりと首を振った。
「貴様の靴に関する決定はもう覆りはしない」
あの猫が来て、俺の裸足に何度も頭をこすりつけた。

君ノ靴ハ既ニ脱ガサレタノダ。最早、君ガ靴ヲ履クコトハナイノダヨ。

そして、俺は見た。
そう。手の石が作動し全ては吹き飛ぶ。




エントリ13 ゼッタイ評価    ごんぱち


「伊勢崎、そこ訳してみろ」
「はい『彼は牧師だけでなく、牧師の衣類まで嫌っている』」
「おおお、よく答えられたな! 偉いぞ伊勢崎!」
「な、何ですか、突然? いつも普通に答えてるじゃないですか?」
「うむ、先生思うところあってな、これからお前らを絶対評価する事にした」
「絶対評価?」
「教師たるもの、生徒の行動を依怙贔屓なしで評価しなければならん。従って、褒めるべきは、誰がやっても褒める事にしたわけだ」
「なるほど」
「――じゃあ木村、さっきの英文と良く似た日本の諺を答えてみろ!」

「ほー、今日の昼飯は弁当か、伊勢崎」
「ええ、まあそうですけど」
「母親の手作りか?」
「いえ、今日は母の具合が悪かったんで、昨日の残りとかで適当に」
「ほー、自分で朝の支度と、弁当を?」
「残り物ですよ、本当」
「素晴らしい! 今時珍しいな! 偉いぞ伊勢崎!」
「べ、別にそれほどのもんでも」
「いやいや、大したものだ!」

「うおおおおおお、俺は今、猛烈に感動しているぞ、伊勢崎!」
「なっ、何ですか?」
「誰にも言われないのに、進んで掃除をするなんて!」
「大袈裟な。窓に貼ってあったシールを剥いだだけでしょうが」
「とんでもない。この荒んだ世の中で、自ら学習環境を整えようというお前の心意気、先生は深く感じ入ったぞ!」
「はぁ……」

「伊勢崎!」
「これから部活ですから手短にお願いしますよ」
「毎日部活に行ってるのか?」
「知ってるじゃないですか。そうですよ」
「校則違反の深夜バイトもせずに?」
「まあ、そうですけど」
「偉い! 凄い! 感動した!」
「……部活行きます」

「おぅ、伊勢崎! 部活が終わったら真っ直ぐ帰るのか」
「帰り道でどーして遭うかなぁ……」
「偉い。流石だ!」
「疲れてるんですけどね」
「ここから先には駅前繁華街があるのに、よく真っ直ぐ帰られるな。本当に偉い!」
「無理矢理褒めなくていいですよ」
「無理矢理なんてとんでもない――おっ、あれは我がクラスの野島と酒井!」
「何だよ」
「文句あんのか?」
「どうした、痣だらけじゃないか? ケンカか?」
「だったらどうってんだよ」
「まさか、相手を殺したりしてないだろうな?」
「んなわけねーだろ」
「ただのケンカだよ」
「そうか、手加減が出来るなんて偉いぞ!」
「うっせえな」
「相手してらんねー」
「うんうん、偉いぞ。大したものだ。まったく大したものだ!」

「ああ……なるほど」
 伊勢崎は呟いた。
「叱れない事の口実だったわけね」




エントリ14 DRIVE    るるるぶ☆どっぐちゃん


 この男がこんなに運転がうまいとは思わなかった。だってギターなんて持っているんですもの。肩にギターなんて。メーターを覗いてみる。意味ありげな五、六桁の数字をメーターはさしているけれど、あたしには良く解らない。車のことなんてあまり興味が無かったから。とにかく風景は凄かった。なんだかどんどん色々なものが通り過ぎて行く。あたしには生まれて初めての高速道路だった。きらきらと光り輝く赤いスポーツカーを、あたし達はするりと追い抜く。
 あたしはバッグの中へ手を入れ、本を開いた。
「万引きなんて、いけないよ」
「万引きじゃないわ。だって店番のあの男の子、あたしが本を手に取るととても愛らしく微笑んだのよ? あれはあたしに、それを持っていって欲しい、っていう合図だったんだわ。運命だったのよ」
「レジには男の子なんていなかったよ。レジには石像があるだけで」
「石像だったのは鷹よ。石像の鷹が飛び立つのを、あの男の子とあたしは一緒に見上げた」
 本は詩集だった。なかなか良い詩集で、あたしの好みだった。ひたすら美しい言葉ばかりが並んでいる。ああでも窓を開けると詩集は風に負けて、どんどんバラバラになって車外へと吹き飛ばされていってしまう。
「止めて止めて。詩集が」
「詩集なんて良いじゃないか。僕が歌ってあげるよ」
 男はハンドルから手を離してギターを構えた。ギターなんてダサくてヤダなあ。頭の悪そうな男の子達は、いつも駅前に座り込んでじゃかじゃかうるさく弾いていた。でもこんなに間近でギターを聴くのは初めて。
 車はよたよたと頼りなくよれ、壁にぶつかったり跳ね返されたりする。それでも車は走り続ける。
「僕の歌はどうだい?」
「まあまあ、ね。あなたはあまりじゃかじゃか弾かないから、そこだけが良いわ」
「ありがとう」
 男のギターには弦が無かった。なるほど、これならうるさく無い。発明だな、と思った。
 車はいつの間にか花園を走っていた。色とりどりの花々。七つの小川が静かに静かに流れている。
「砂漠に向かっていたんだがな」
「ね」
 車はぶちぶちと花を轢き散らしていく。花びらが舞って、視界が花色に染まる。車は走り続ける。男が次の曲を歌う。詩集はどんどん風に飛ばされていく。あたしはそれをうっとりと見つめる。
 花園はどうやらビルの屋上にあったようだ。あたし達はフェンスを突き破る。そして眼下に見えるさっきまで走っていた高速道路へ飛び降りていく。




エントリ15 イナゴ捕り    日向さち


 稲刈りの時期といえば、イナゴ捕りだった。
 幼かった私は兄の前を歩き、飛び上がったイナゴを兄が捕まえる。私だって懸命に捕まえるのだけれど、不規則にピョンピョンと跳ねるイナゴは、大方、私の手から逃れていってしまうのだった。
 私たちにとっては、蛋白源としてのイナゴというより、虫捕り遊びの獲物といった向きが強かった。トンボやセミと比べて、たくさん捕獲できるのも魅力だった。
 土手の草を足でかき分け、踏み倒しながら、イナゴを探して歩く。踏み倒したのとは関係なしに草が揺れたと思ったら、そこから何かがピョンと飛び跳ねて、再び草の間に隠れた。保護色だから、姿は把握しづらい。やみくもに手を伸ばし、また逃げられてしまう。慌てて追いかけて、どこにいるのかを探る。
 そこだ。
 さっと伸ばした手に、生き物が包み込まれる。しかし、イナゴとは明らかに違う柔らかい感触が伝わってきた。
 手を開くと、飛び出したのはアマガエルだった。カエルなんていなければいいのに、と文句を言いながら、次の獲物を探す。
 草が揺れたので、またカエルかな、と思っていると、田んぼの土の上へ飛び出したのが見えた。おんぶだった。
 おんぶとはつまり、メスがオスを背中に乗せているやつだ。一気に二匹捕えられるチャンスである。
 一歩一歩、ゆっくりと近づく。大丈夫、気付かれていない。そう思って手を伸ばしたら、直前で、オスがメスを置き去りにして逃げてしまった。それと同時に、メスも逆方向へ逃げた。
 どっちを追ったものか迷った挙句に、オスを追いかけていた。メスのほうが一回り大きいけれど、考える余裕はなかった。
 必死になって追っていくうちに、用水路の反対側にある土手へ逃げられてしまった。捕まえるためには、幅が一メートルほどある用水路を飛び越えなくてはならない。私は諦めた。追ってみたところで、捕まえられる可能性は低い。
 兄のところへ戻ると、さっきのメス捕まえたぞ、と教えてくれた。自分の袋と兄の袋を比べると、断然、兄のほうが大きく膨らんでいる。中では、ぎっしりと詰まったイナゴが、ピシピソと音を立てながら、袋を蹴飛ばすのだった。
 イナゴがぎっしりと詰まっている様を見たくなり、袋を開いた。すると、不用意に開いたものだから、中から数匹が飛び出てきてしまった。
 飛び出したうちの大半は、兄が捕まえてくれた。逃がしてしまうよりは良いけれど、やはり、袋を比べてしまう。




エントリ16 『肉人形の自動演奏(ホムンクルスのオルゴヲル)』    橘内 潤


 キリ キリ キリ……
 発条の軋む音が、書物と機具に埋め尽くされた室内に響く。
「ついに……ついに完成した」
 感動のあまり掠れた声で呟いたのは、初老の男。
 白髪の混じる斑の髪に、伸び放題の髭。まともな食事を摂っていないのか、頬はげっそりとこけていて、睡眠の足りていない両眼は充血して爛々としたかがやきを湛えている。
 一言で形容するならば、異常。
 両眼のかがやきは、正気のものだとはとうてい思えない。
「……お、と……ま、は……」
 錆びた金属を擦り合わせたような、きれぎれの声。
 それは、男の目の前で椅子に座っている一体の人形からだった。
 人体を忠実に模してつくられたそれは、顎関節に使われている発条を軋ませて、ゴムの薄膜でつくられた声帯を震わせていた。
 だがその声は、人間の声ときき間違えるにはあまりに作り物めいていた。
 男は失望を露わにする。
「やはり、駄目か……」
「……さ、……は……る、く……」
 人形は与えられた命令を実行しようと、自身の機構を作動させて声を紡ぎつづける。だがやはり、人間であるべくして作られたそれは、人間ではないのだ。どこまでいっても、紛い物。精巧な人体模型ではあっても、男の求めていることからすれば、オルゴール以下でしかなかい。
「やはり駄目なのか、駄目なのか。……人間とまったく同様の機構を作ったはずなのに、どうして駄目なのだ? どうして言葉ひとつ、まともに話せんというのだ?」
 男の苛立ちに、もちろん人形は答えない。ただ、求められる言葉を発音しようと、フェルトの唇を開閉させている。
「……やはり、そうなのか。そうなのだな。」
 呟く男の瞳は、狂気の色を増していく。
「機構は人間と同じなのだ。それで駄目だというならば、部品も人間と同じにすればよいのだな。そうすればよいのだな」
 打開策を見いだした男は、ささくれた唇を笑みにゆがめる。この部屋に鏡があれば、男自身が嫌悪をおぼえたであろう、ゆがんだ笑みだ。
 人形は――なだらかな曲線から、年若い女性を模したのだろう人形はただ、発条と歯車と石油の循環する稼動音を、怨嗟のように低く響かせているのだった。
「もう少しだけ待っていておくれ、月鈴。すぐに話せるようにしてあげるからな」
 初老の男は人形に頬擦りして、いとおしげにささやく。
 人形は答える。
「ま、は……な……い……」


「……お、と……さ……ま、は……、……る、く……な……い……」




エントリ17 嵐が森III    棗樹


 夜の名残の月の下、僕は安全靴を空に投げ、落ちてきた靴の先に広がる空間に向かって足を踏み出した。
 歩き始めて二、三時間後。
 夜が明け、空を覆う勢いで朝焼けが広がる中、僕は初めて行く手に目を凝らす――。





 作業の合間に見上げる空には、たいてい、白く弱々しい光を放つ球体があります。それが太陽だと聞かされたときは、心底驚いたものでしたが、新しい仕事や地表の環境に慣れることに心を傾けるうちに驚きも薄れ、今では休憩前や終業間際、時計がわりに見上げるほどの関心しか持たなくなってしまいました。
 僕は現在、地上コロニー建設にむけて、汚染物質を除去するプラントの立上げにかかわっています。と言っても、やっていることは単純な肉体労働、純粋な土木工事であり、防護服と分厚いマスクをつけての作業は骨が折れますが、壁や天井のない、無限に広がる空間に身を置くのは、やはり気分がいいものです。
 同僚達は、僕が植物ドームという恵まれた場所で働きながら、地上勤務を希望したことを知って呆れ返っていますが、僕は自分の選択を後悔したことはありません。つらいときや落ち込むときもありますが、そんなときはいつもドームのことを思い起こすのです。
 暗闇の中、森に向かって落ちていくあえかな光。絶え間なく湧き出る泉。草いきれ。落ち葉の感触。掘り返した土の甘い匂い。花々と新鮮な果実の恵み。
 ドームにいた頃あれほど憧れていた地上にいながら、気が付くと、考えているのはドームに関わることばかりだったりするのだから、皮肉なものですね。
 そうそう、博士には黙っていましたが、僕はポケットにこっそり嵐草の種子を忍ばせてきており、植物が育ちそうな場所を見つけては蒔いているのです。が、干からびた大地で芽吹くことはなく、僕の密かな企みはことごとく失敗しています。

 それでも。

 夜を徹した作業を終え、仲間達が地下の施設に帰って眠りにつく今日のこの明け方も、僕は一人地上に残り、文字通り夢のような彷徨を続けるのです。





 選んだ方角は間違ってはいなかった。
 探し求めていたものは、五キロほど先の山かげに、黒々と横たわっていた。
 遠目にも、彼らの姿が以前とはまるでちがうことがわかる。くすんだ色の葉。低い樹冠。絡み合う枝々。醜くも逞しく進化した彼ら。
 嵐の中を生き抜いた森は、今この瞬間も、地表を駆け抜ける風に激しく煽られながら、しなやかに立っている――。






エントリ18 セクハラ    佐藤yuupopic


 困った。先月、中途採用したばかりの、佐藤さん、にずっと、困らされ通しだ。
 弊社のような、社長と、経理・総務兼務の社長の奥方、制作・営業兼務の俺、プログラマー、制作アシスタントのアルバイト含め、総勢五名の、画に描いた如きの弱小企業にとって、佐藤さんのようにデザインも営業も両立可能な、即戦力は、願ったり叶ったりだった。が、『パンツが常に見えやすい』一点を、除けば。
 最近はズボンの事を、パンツと云うが、では、なくて、正真正銘の下着の方だ。女の子が、床の物を拾ったりするのに、身体を伸ばしたまま前に屈むと、ズボン(下着と差別化するために敢えて野暮ったいが、称す)とシャツの隙間が開いて、肌が現れるのは、街でもよく見かける悪くない光景だが、佐藤さんの場合は、「そこは背中じゃなくて、尻なのでは?」と、心配になる程、常軌を逸して肌が、露出している頻度が高い。一切隠そうともせず、好意的に云えば惜しげもなく、出し放題だ。ある種、セクハラじゃあないか?
 品の好い小花柄が鮮やかに散っていたり、凝った刺繍が施してあったり、見えない処のお洒落に手向ける心があるのなら、二十六歳女子、しまえよ。隠せよ。惜しがれよ。何か気を遣うポイントが違わないか。「ああ、今日はベビーピンクか」と、当たり前のように受け止めている自分、腑に落ちぬ思い胸に、昨今。
 見なければ好いのだろうが、そうも行かない。俺も一応、男だからね。頼むから、オーバーオールとかワンピースとか、背中が寸分も開く隙のない衣服を、ぜひ纏って欲しい。この際宇宙服とか、着ぐるみでも構わない。外廻りの時だけ着替えてくれるなら。俺がズボンのベルトの上に、たっぷりパンツ、はみ出させていたら、決まるはずのコンペも、ブッ飛ぶ事必至だろう。女子は得だな。……ああ、もしかしたら、気にしている俺の方がおかしい気すらしてきた。ので、意を決してみよう。そう、可能な限り、自然に。
「佐藤さん、いつもパンツ、出てるけど、そう云うの、今、流行ってんの?」
「う……すみません、この間まで女性ばかりの職場だったもので……すっかり油断してました……以後、気をつけます」
 何だよ、気づいてなかったのかよ。そんなにばつが悪そうな顔するなよ。俺が悪いのか? あ、なんか伏目がちな睫がきれいだな。いや、そんな事思ってる場合じゃあないな。落ち着け。俺のこれ、てセクハラなのか。違うよな。……困ったな。




エントリ19 セクハラ    立花聡


 尻を撫でられる違和感を感じる。京子はゆっくりと右手でその手を掴んだ。
「もう。止めて下さい」
「病人をいたわる気持ちはないのかい。高い金を払って入院してやっとるというのに」
 皺が深く彫り込まれた左手を下げながら、老人は言った。
「あんまりそんな事ばかりやってると、セクハラで訴えますからね」
「こんなか弱い老人にひどい事ばかり言って。看護婦はもっと患者を大事にするべきじゃないかのぅ」
 老人は戻した左手で顎髭を触りながら、にやりと笑った。
 本当に憎たらしい顔をする、と京子は内心思った。

「ほんとにあの人なんとかならないかしら」京子はカートの用具を戻しながら呟いた。
「やられたの?」同僚の智美がその声に気付く。
「今日なんか帰り際にまで触ってきて。あきれて言葉もでなかったわ」
「飽きもせずよくやるわね、あの人も。でも、京子だけよ、触られるの。私も他の子も触られた事ないもの」
「なんで私だけなんだろ。そんなに嫌って欲しいのかしら」
「逆よ、逆」
 智美はファイルを閉じながら言った。
「京子の事が好きなのよ。いたでしょ、小学校とか好きな子に悪戯して喜んでる男の子」
「まさか、もう七十近いおじいちゃんよ。そんなに幼稚な訳ないでしょう」
「ま、いいじゃない。あと数回で佐藤さんともお別れするんだし。で、どうなの彼と? どこ行くか決めた?」
 智美は体を京子の側に向きながら、顔を覗き込んできた。
 その後、京子の苦情は、新婚旅行を詮索する同僚の声にかき消された。

 寿退職を前日に控えた最後の夜勤の日だった。
 最後の見回りだと考えると、どこか感慨深いものがある。京子はそう思いながら、懐中電灯片手にベッドを回っていった。
 不意に尻を掴まれた。京子は叫びそうになりながらその手を払った。
「佐藤さん」自然と語気が強まる。
「悪かったの、手が勝手に」
「早く寝て下さいね」最後だと言う事もあって、京子はそれ以上追求しなかった。
 しかし、歩き出すとまたあの感触が伝わってくる。
「いいかげんに…」手元の懐中電灯を露骨に老人に当てた。
 そこには光にまばたきもせず、見つめてくる二つの目がった。
「あんた、ほんとに辞めるのか」
 老人の初めて見る真剣な表情に京子はたじろいだ。
「えぇ」
 老人は身じろぎもせず京子を見つめ、それからゆっくりと、頭を下げた。
「今までお世話になりました。ありがとうございました」 
 それは老人からの、初めての感謝の言葉だった。




エントリ21 セクハラ(その代償)    満峰貴久


「社長、何とかなりませんか」
「何とかって、どうすればいいと言うんだ」
 人事部長に言われて社長は声を荒げた。

 ロボット産業株式会社、営業部長の関原が女子社員に極めて評判が悪いということは社長も知っていた。
 無類の女好きで、宴会の席でも仕事中でもみさかい無く女子社員に触り、下品な冗談を言っては嫌われていた。しかし、彼の抜群の企画力と営業力、交渉力のおかげで倒産の危機を免れたことも何度かあったのだ。

「このままでは我が社の女子社員がいなくなります」
 営業部の女子社員十五名のうち、六名が辞表を提出してきたのだった。これにつられて、残りの九名にも、他の部にもその波紋が広がっていた。
「そんなことになったら、社内的に問題があるのじゃないかと、採用にも、ひいては取引先にも影響が出る事は免れません。今まで女子社員に訴えられなかったのが不思議なくらいです」
「ふん、女なんていつもそうだ。居心地さえ良ければいいと思ってる。気に入らない上司だとグルになって文句をいうし、一人が辞めると皆辞めると言い出す。会社のことなんかこれっぽっちも考えていないんだからな」
「あれで、顔がもっとましなら、まだ女子社員の不平も減るんでしょうが」
「整形でもしろというのか? 性格までは変わらんだろう」
 人事部長が苦笑した。社長もつられて苦笑した。
「社長、もしもの話ですが……」
 人事部長の真剣な顔に社長は思わず身を乗り出した。

 一ヵ月後、新しい営業部長の人事が発表された。
「何でも、関原部長の脳の思考回路をそのままコピーしたそうだよ。部長、首になったのかな」
「当然でしょ。でも、コピーなんて、そんなことが本当にできるの? でも、ロボットのほうがまだましね。関原、最悪だったもん」
「だけど、俺達、ロボットに使われるって言うことだろ」
「私たちはロボットだろうが何だろうが関原以外なら誰だっていいわよ。仕事だけは出来るんだから」
「だから、俺達営業はこの会社にいる限り部長にはなれないし、その上にも行けないって事なんだよな」

 ガシャッ、ガシャッ。
 ドアを開けて新営業部長が入って来た。その姿は、とても現代のロボットとは思えない、『オズの魔法使い』に出てくるブリキのロボットのような形をしていた。
 口から出てきた声は、あきらかに中に人がいることがわかった。
「私が新任の『関原二号』です。よろしく、えへ」

 一週間後、ロボット産業株式会社は消滅した。




エントリ22 彼@岸@花    さとう啓介


 流れる景色をどうでもいい事だと感じながら、疲れた身体をシートにあずける。
 ガラガラの特急電車喫煙車両。
 瀬伊は草臥れたスーツのポケットから煙草を取出すとおもむろに火を点け、外の景色に煙を吐きかけた。
 冷めたコンクリートの街並みは朝を迎えようと、小さな埃でキラキラと輝く。車窓に微かに映る自分の顔は、悲しい世捨人のようにうっすらと微笑んでいた。

『止めて下さい! 気軽にお尻をさわるなんてセクハラだわ』
『その言葉セクハラよ!』
『冗談も程々にして。私あなたを訴えます!』

 会社に着いて、いつものように挨拶をした瀬伊だったがどうも様子がおかしい。おちゃらけキャラの瀬伊の態度に、女性社員の視線は今迄に無い冷たさがあった。
(どうしたんだ、いったい?)
 瀬伊がオフィスに入ると、バタバタと部長や課長がダンボール箱を持って走り回っている。その先には黄緑色のスーツを着た背の高い赤毛の女性が腕を組んでいた。
「あはは、彼岸花みたい。課長、あれ誰ですかー?」
「ばか! お前、失礼だぞ、昨夜のニュースを見なかったのか?」
「本店の連中がこの会社を売ぱらっちまったんだよ! ここも外資になったのさ」
「お前もあんな田舎の営業所に遷されるとはなぁ」
「部長、どう云う事ですか?」
 瀬伊が自分のデスクに行くと、無造作に辞令が置いてある。
「下関営業所勤務ー? それも明日からじゃん!」
 瀬伊がぶつぶつ言っていると、赤毛の女性がやって来て彼の肩に肘を掛けた。
「ユー、セクハラメン。シモのゼキね」
「シモのゼキ?」
「そう、オ・オ・ゼキじゃなくて〜、シ・モのゼキ。オーグレイト!」
 彼岸花は鼻で笑った。瀬伊は切れそうになる。彼岸花の腕を払い落とし襟元を掴もうとしたが部長と課長に羽交い締めされた。
「畜生! チビデブだと思って馬鹿にすんなー!」
 瀬伊の叫びは彼岸花の後ろ姿と一緒にフェードアウトしていった。

 窓の景色が色褪せた緑色に変わり、時折流れる民家の風景は瀬伊の心を落ち着かせる。
 土手のススキや雑草の合間に紅い花がちらほらと目に付いた。嫌な色だなと思いつつ窓際に顔を寄せる。線路脇の土手の所々に紅い彼岸花が咲いていた。
 瀬伊は携帯を取りだし、おもむろに花言葉を検索してみた。
【彼岸花……】
 瀬伊は黄緑色のスーツを着た赤毛を思い出し力なく呟いた。
「悲しいよ……まったく」

 車窓には紅い彼岸花が妖しく笑っているように、永遠と流れ続けていた。




エントリ23 セクハラ    太郎丸


 専務の紹介で入社した秘書が入ってくると、甘いりんごの香りがした。
「如月琴音です。よろしくお願いします」
 左側で束ねた髪は肩に垂れ、小さな顔に不釣合いとも思える大きな目は、緊張しているのか瞬きを繰り返している。
 十分に発育したであろう胸は濃い紫色のブレザーを押し上げ、短いスカートが形の良い脚を際立たせていた。
 私が差し出した手を、琴音は遠慮がちに握る。
「まっ仲良くやっていきましょう」
 私は琴音の手を両手で包んだ。戸惑ったような口元と目が可愛い。

 娘と同じ年だが、琴音の仕事は目を見張るものがあった。

「これからの予定はどうだったかな」
 琴音は大ぶりの手帳に目を落した。
「2時間程予定は入っておりません。5時からの開発進捗報告会の後、○×連盟会長からのお誘いで、銀座へ行く事になっております」
 2時間も空いているか…。私は琴音の喋る口を見ながら、気になっていた胸に視線を移した。
 今日の琴音は、胸のボタンが2つ程外れ、大きな谷間が覗いている。そして、それは私を呼んでいた。
 私は立ち上がると琴音の後ろへ廻り、肩を抱いて胸元へ手を伸ばした。
「ヒッ」
 琴音は手帳を落したが動かない。
「ボタンが、外れてるよ」
 私は掠れる声でそう言いながら、ブラウスから溢れそうな胸を手で包んだ。琴音の胸は押し返すような弾力があった。
 通りすがりに琴音の尻はよく触ったが、流石に胸は始めてだ。
 私は後ろから琴音の口に吸いつき、胸を両手で揉みしだいた。琴音と私の息は同じように荒くなっていた。
 それから時間が空くと、私は琴音との秘密を共有するようになっていた。

 マスコミも呼んだ新製品発表会の日、開発部長や専務との最終打合せを終わらせ、来賓の人達との挨拶も済ませると、私は会場の隣りの部屋で、ゆったりと時間が来るのを待った。
「コーヒーどうぞ」
 カップを置いた琴音は突然スカートに手を差し入れると、パンティを器用に脱いで私に渡した。
 そしてニコリと私に微笑むと、ブラウスの袖を引き千切り、ボタンを飛ばして大きな胸を露にし、スカートのジッパーに手をかけた。
「キャーッ」
 大きな声に、何だ。どうした。そんな声が聞こえてドアは開かれ、フラッシュがたかれた。
「社長。何をしたんです」
 非難の声に、パンティを持った私が答えを探していると、琴音のスカートが落ちた。
 顔を被って泣き出した琴音の股間には、あるはずの無いものがぶら下がっていた。




エントリ24 何もわかってない    もふのすけ


 事務員の不二子さんはムチムチとしてプリンとしてピカイチのグラマー女子社員である。
 山崎課長は言った。
 「不二子くん。君はとても健康的だね」
 不二子さんは眉をひそめた。
 「課長それはセクハラですわ、このクソハゲ」
 山崎課長はドキーンとして胸がキュンとなった。そういう場面ではないのだが彼はマゾっ気がある。
 気を取り直して山崎課長は反論した。
 「君!私はそういうつもりで言ったのではない。では君が最後に言ったクソハゲというのはセクハラとはいわんのかね」
 「違います。それは事実ですわ。あなたはセクハラの定義もわからないのですか。その胸毛の多い胸に手を当てて考えなさい」
 「ムム……じゃ、あれは?私が中学の時、卓球部に入ろうとして体育館に行くと一緒に柔道部が練習をしていてね、するとその顧問が私を見るなり『畳で死ね』と、すっかり入部希望だと勘違いしてたのだよ、これは太っていた私に対するセクハラではないのかね?私はずっとそう思っていたが違うのかね」
 「いいえ、体格のいい男の子が入ってきたのだから当然の行為です。それより……」
 不二子さんは山崎課長にピンと指を突きつけた。
 「何時も何時もイヤらしい目で私を見て!本当はあなた私を抱きたいんでしょう!!」
 山崎課長はたじろいだ。
 「な、何をいうんだ!確かに私も男だ、そう心に思う事はある、だが一度も口に出したことはないだろう!」
 「ほら言った。セクハラですわ!」
 「じゃ、私が本当に愛する人ができてしまって、その人を抱きたいと思った時、何と言えばいいのかね!セクハラだと思われてしまうではないか」
 不二子さんは腕を組んだ。
 「そうね、じゃ、テストするわ。その思いを私にセクハラにならないようにぶちまけなさい。この白豚」
 山崎課長は大きく一つ深呼吸した。そして精一杯格好つけて言う。
 「不二子。今日は君と一晩中星を見てランデブー」
 「ぬるいわ!!」
 不二子さんのビンタが飛んだ、山崎課長は転がり壁に激突した。
 「下心見え見えなのよ!もう一度!!」 
 山崎課長は体を震わせ両拳を強く握りしめた。そして叫ぶ。
 「不二子さん!僕のほとばしる熱いパトスはもうはち切れそうです!!」
 「ダメよ!!」
 「何故!」
 「だってあなたの存在自体セクハラなんだもん!」
 ……ああこれで今日はSMクラブでハイヒールに踏まれなくてもいいなぁ
 その瞬間、そんな事を山崎課長は思っていた。




エントリ25 セクハラ    ながしろばんり


 不可解な夢から覚めると朝の六時半で、私は女だったことに気がついた。少々ポカンとして、会社に行くには時間があったので身体を凝視して、試しに弄繰り回してみる。少々出てきたおなかのラインはそのままに、女だった身体はあちこちを蚊にくわれていた。タンスの中にはショーツが並んで丸まっていて引き抜くのにもドキドキしたが、出掛けるときにはしっくり馴染んだスーツのおかげで、大して違和感が無かったように思う。
「お、伊勢村君、今日は早いじゃないか」
「おはようございます。昨日はちゃんと帰れました?」
 係長の南、昨日は私と二人で飲んでた。私より一回り上という二児の父で、中学生になる娘の愚痴を延々と繰り返す。
「申し訳無かったね、ずいぶんと過ごしてしまって、君こそ――」
 湯呑を持って私の背後、返された手の平がスカートの布地、尻の肉をぅわん、と弄って、
「あの後ずいぶん待たしちゃったんじゃないかぁ? その、彼氏」
「なっ……」
「冗談だよ。昨日のことは忘れてくれ」
 そのまま給湯室に消えていく。あれ、昨日? 昨日は娘さんに高校生の彼氏が出来たとかで。
「中学生のときによ、女の子を誘って遊園地なんか行ったかぁ? お前な俺なんかそんなこと、恥ずかしくて出来なかったのにそれをだな、なんかアレほら、ヨーカドーだったっけデパート。あそこに新しく服なんか買いに行っちゃって」
「まぁ、そういう子が多いんでしょうかねぇ、そんなもんっすよ」
「イカン、そういうモノわかりのいい大人ばっかりいるからイカンのと思うぞ。俺ぁね、君が男だからわかってくれると思って喋ったんだ。君が賛同してくれなかったら僕は、僕は途方にくれる」
 目頭をおさえる係長の横顔。脂で照かった鼻の頭は、屋台の電球に鈍く光る。あの脂を湛えた皮膚のブツブツ、私は急な嘔吐感でトイレに駈け込もうとする。嘘、なんで、あの、なんでこんなに気持ちが。うエっ……
「おおっと伊勢村君、ちょうどよかった」
 給湯室から出てくる鼻だけ、思わず見てしまう。
「いや、ちょいとお茶が無くて……ん?、なに、吐きそう? もしや君、ひょっとしてあれなんじゃないかね、うン?」
 瞼の筋肉にあらん限りの力が入って、睨みつけようとして、あやうく壁の掲示板にぶつかりそうになり、身体を捻って何とかトイレになだれこむ、と同期の和田がアサガオから目を丸くしてこちらを見ていて、
「お、おい。こっちは男子便所だぜ?」
 なんて。




エントリ26 セクハラ    越冬こあら


 秋深き日曜日の夕刻。家族三人の食卓。季節ものの秋刀魚の塩焼きには、大根おろしと酢だちが添えられていた。
「ねえママ、セクハラって何?」娘の質問に私の箸は秋刀魚を挟んだまま停止した。

「許すも許さないもないでしょ。和解は成立したんだし。あなたも充分反省してるっていうし。相手が悪かったと思って我慢するしかないじゃないの」裁判所からの長い坂道を下りながら先に歩く妻が言った。そして、不本意で不名誉な戦いは離婚という最悪の結末をなんとか回避した。

 その女子社員はけっこう美人で、どちらかというと性格も陽気で、周りからそれなりにチヤホヤされていた。私もそんな雰囲気の中、軽口を叩き合っているつもりでいた。周囲に比べ、特に酷いことを言った覚えはないが、私だけがある日突然訴えられた。
 彼女は全てが私の所為だと主張し、同僚は拘わりを恐れて口を噤んだ。

 私はその後、会社を移り、心機一転を図ったが、噂は転職先にまで届き、再度退職を余儀なくされた。半年間の就職活動後、二回目の転職に合わせて引越した。
 その間の不安定な収入を補うため、妻はパートの時間を延ばして働いた。女子社員への軽口の償いは、私たちの人生を捻じ曲げた。
「だから、許すわよ、私は。でもね、アヤコが後ろ指差されるようなことが起きたら、私は絶えられませんから。別れますから。アヤコを連れて出て行きますから」妻はことあるごとに娘の名を出し、毅然と語った。

「『せく』っていうのは、博多弁で痛いっていう意味だから、『せく腹』っていうのは、『はらがせく』っていうことで、『お腹が痛い』っていうことじゃないかなあ。お国訛りは面白いねえ」気を取り直した私のトンチンカンな説明に妻も娘も顔をしかめた。
「セクション、セクト、ハラハラでドキドキっていう事かも……」しかし私は、意味のない説明を繰り返すより他に無かった。
「いじめよ。いじめ。大人のいじめなのよ」空気の重みに耐え切れなくなった妻が早口で答えた。
「へええ。大人にもいじめがあるの。誰がいじめっ子なの。パパ?ママ?」質問は核心に向かい始めた。
「アヤちゃん、大人のいじめはねえ、いじめっ子とかいじめられっ子とかいないのよ。初めは、いじめているつもりの人も、そのうちに他からいじめられて、結局はみんながいじめられてしまうものなのよ」そこまで言うと妻は、聞き入る娘を食卓に残し、部屋に入った。三尾の秋刀魚が冷め始めていた。



エントリ27 セクハラ    ニョロ鰻田


「お、湯上り美人だねぇ」
 部長のお決まりの台詞にげんなりしても愛想笑いは絶やすこと無く。浴衣は部長のリクエスト。いや、むしろそれは命令と言ってもいいだろう。
「やっぱ社員に女の子がいると違いますねぇ。こぅ、雰囲気がパァーっとするっていうか」
 部長に小声で話す後藤先輩の声はすっかり出来上がっており、多恵子の耳にもはっきりと届く。
 宴もたけなわ、突然襖が開いてケバい格好をした女が入って来た。目を白黒させるばかり多恵子は、後にそれがコンパニオンという人だと知る。社員達に寄り添い勺をする彼女。多恵子は自分が勺をしなくて済むと安堵するがそれもつかの間、目の前で繰り広げられる乱恥喜騒ぎに、顔を赤らめるのは酒のせいではない。特に若い社員はハメを外して多恵子の目の前で股間を晒す始末。
「はっは、だめだよ後藤君。今年は新入社員に女の子も居るってこと忘れちゃ」
「んな固いこといわないでくらさいよぅ、毎年恒例なんスから多恵ちゃんには慣れてもらわなきゃぁ。ねぇ、多恵ちゃん」
 顔を背ける多恵子。いつも営業成績トップの後藤先輩でも、下半身が裸では説得力もない。しかし驚いてる暇もなく部長の手が彼女の肩に乗って来た。
「君ぁよくがんばっとるよ。近頃の若い娘にしちゃ珍しいくらいだよ」
 酒臭い息に眉をひそめる。私はコンパニオンじゃないんだから、と言いたい多恵子であったが相手は部長である。
「さぁてさて、毎年恒例有馬温泉女体盛りぃー!」
 コンパニオンの一人が裸になって座卓に横たわる。そして刺身をメインに海草や大根のツマなどが盛り付けられてゆく。股間には、それは見事な伊勢海老。上手い具合に尻尾が大事な部分を包み隠している。
「きゃっ! まだ生きてるぅ!」
 浮かれた声のコンパニオン。もぞもぞと触覚を動かす伊勢海老はすでに虫の息。懐かしい海の底を夢見るか、生憎そこは生暖かい女のまたぐら。目の前の茂みは悲しいかなワカメではない。
「やだやだ、足動いてるって、足!」
 やがで四方八方から箸が伸び、切り身の一枚一枚が剥がされる毎にピンク色に紅潮した肌が露わになってゆく。伊勢海老はメインディッシュ。しかし多恵子は、当然とも言うべきか、とても箸を伸ばす気になどなれない。
「ああん、イッちゃうよぉ」
 その前に伊勢海老が逝ってしまうだろう。
「多恵ちゃん、海老食いな海老」
 そして、女の臭いの染み付いた伊勢海老が多恵子の前に置かれるのであった。




エントリ28 セクハラ    詠理


「説明しなさい」
 震える声で先生はロッカーを開いた。ざわめく蛆が、米のように白い。


 土砂降りのスコールが止まない放課後、美香と誠吾と浩次は赤レンガ広場に出る。水を含んでどす黒い色をした広場の北東の、階段下の隙間に座る。三人はここでさいころ型の箱に入った飴や砂糖漬けの干し梅、サンザシなんかを食べながらトランプをする。それから放課後の放送曲と雨音のリズムと、バナナの木から差し込む暗い光がちっとも合ってないことなどを話して、小さな焚き火をする。

 ある土砂降りの放課後、三人は赤レンガ広場に出た。いつもの隙間に座る。ポケットからお菓子を出してかじろうとした美香が、ふと手を止めた。音がするのだと言う。誠吾が耳を澄ませると、確かに雨粒が水道管を垂れたような甲高い音がすると言う。けれど浩次には違うふうに聞こえた。猫が鳴いている、と。もっと下のほう、確かにそこから子猫の鳴き声がするのだと浩次は言った。
 あっと気付いた三人が足元を見ると、子猫が水流にのまれまいと必死でドブ底を引っ掻いていた。

クラスメイトはとても暖かく子猫を迎えた。その手のタオルと、お弁当の残りと、余ったロッカーと、表面だけ光った目で、子猫の鳴き声を真似るように猫と三人を撫でた。
 飼いはじめてひと月もすると子猫は一人で散歩することを覚えた。干からびたネズミや光る虫をくわえて戻ってくる。じきに夜にも外に出歩くようになったので、三人はクラスの窓をそっと開けておいた。猫は大きくなった。

 ある土砂降りの朝、三人は赤レンガ広場を通って登校した。広場の隅、ドブの周りに人だかりができている。通り過ぎようとすると、浩次が足を止めた。あの足の林の間から猫の声がすると言う。
 そろそろと覗き込んだ三人は、腹から紅色の腸、口から黒ずんだ血液を撒き散らしている猫をみた。


 ロッカーの赤い餌箱に、蛆が競うようにたかっている。
「説明しなさい」
 まだ震えている。
「これも、捨てなきゃいけないのよ」
 三人の見つめる白い渦を指して、先生はつづける。
「クラスの皆にも謝りなさい」
 表面だけ光った目の渦の中心で、三人は見つめる。
「何も言わないんだったら、帰りなさい」

 晴れた放課後だったけれど、三人はいつもの隙間に座った。そしてただ焚き火をした。
 黄色くあがった煙はすぐに黒くなった。やがて白くなるとあたりはゆっくりと暗くなりはじめた。そのたびに白い煙はだんだんと細くなっていって、ふっと消えた。




エントリ29 セクハラ    伊勢 湊


 同期の柏田といつもの居酒屋のカウンターでレモンハイを飲む。
「うちの課のこずえちゃんに、いつもより綺麗だね、恋人でも出来た? って聞いたらさ」
「聞いたら?」
「それってセクハラですかぁ? って言われたよ」
 柏田が声を出して笑った。
「そうか。そいつぁ、良かったなぁ。もう、だいぶん経つもんなぁ」
 そう、あれから七年になる。祝福された社内結婚。実際出来すぎた妻で幸せな日々だった。ただ、短すぎた。妻と妻の両親が乗った車の交通事故。誰も帰らなかった。私は、私と同じく全てをなくした妻の妹の理恵と二人、途方に暮れ立ち尽した。
「妻の事故があってから、周りがみんな腫れ物扱いでなぁ。誰も私生活には触れてこないし、ましてや女の話題なんて振ってこなかったからなぁ」
「よく言うよ。自分がどれだけ塞ぎ込んでたか分かってないだろう」
 笑みが漏れる。照れ笑いだ。
「そうかな?」
「おまえには間違っても、それセクハラです、なんて言えなかっただろうよ、誰も」
「そうか」
「それだけな、時間が過ぎたってことだよ」
 そう、七年。いまでは理恵と暮らした時間は妻と暮らした時間より遥かに長い。
「理恵ちゃんとはどうなんだ? 随分長く一緒なんだろう?」
 お互いが何かの代わりではなくなっている。それは確かなのだが、しかし・・・。
「ああ、まあ・・・」
 どう言おうか迷ってたら大将が電話の受話器を押さえて柏田に「奥さんだよ」と言った。そう、まさにそういことなのだ。私たちには、それが、まだない。柏田はしぶしぶ電話を取り小声で話す。どうせ下手な言い訳でもしているんだろう。でもそれが、羨ましかった。肩をすくめた柏田が戻ってきた。「帰ったほうがいいんじゃないか?」と声をかけたが、視線は私を通り抜け、戸が引かれた音のした店の入り口に向けられていた。そして笑いながら私に視線を戻した。
「おまえもな」
 振り返った。理恵がいた。どうしたらいいか分からない様子で立っている。
「柏田さんが、ここで飲みすぎることがよくあるって、その、教えてくれたから」
 再び今度は柏田に振り返る。柏田は「へへっ」と笑うと大声で店長におあいそを告げた。
 まったくこの野郎、とも思ったが、私もそろそろセクハラという言葉を浴びせ掛けられる歳だ。いやむしろ遅すぎたのかもしれない。
「ごめん、飲みすぎた」
 そそくさと消えた柏田と反対方向、私鉄の駅までの駅前通、真横を歩く理恵にそう言ってみた。




エントリ30 セクハラ    カピバラ


 水曜日の昼休み。隣の課の水谷さんが、たまには女同士でランチでもどう、なんて誘ってきた。どんな話をされるか見当がついたので内心気が重かったが、口では快くOKした。
 案の定、水谷女史は初めから核心をついてきた。
「坂下さん、今朝の課長のアレ、あんなこと言われてなぜ怒らないの?」
「えぇっと、私、別に気にならなかったし――」
「そうかしら? アレってセクハラだわ」
キレモノと噂されるだけあって、こんな時にも容赦ない。注文したラザニアが運ばれてきたが、私にはなんの味もしなかった。

 今朝のアレ、とはこういうことだ。

 その日の朝、私は九時半なんて遅い時間に出社した。席について早々、課長に尋ねられた。
「坂下クン、こんな時間にどうしたの」
「ちょっと寝坊しちゃって。すいません」
「困るねえ。新婚さんだし夜が激しいのはわかるけど、昼間はシャンとしてもらわないと。ねえ」
私は、ふざけるような甘えるような調子で、こう答えた
「やめてくださいよお。結婚してもう半年なんですから、新婚じゃないですよお」

 気にならなかった、なんて嘘だ。私だって、課長に
「昨日の夕方に突然アンタが頼んできた報告書の修正を朝四時までかけて仕上げたせいで寝過ごしたんだよこのドハゲ」
くらいのことは、言ってやりたかったのだ。円滑な業務遂行のためには、人間関係に角を立てるわけには行かないから、表向きは穏便に済ましているだけ。会社勤めなんてそんなものだ。

 水谷女史の演説は、ますます熱を帯びてきた。
「坂下さんだけの問題じゃないの。セクハラは、言われた時にはっきり指摘しないと、いずれ他の女性まで嫌な思いをするのよ。そういうことも考えて欲しいわ」
 あなたと一緒にしないで、と思う。東大卒でMBAまで持つ水谷さんなら、言いたいことを言っても社内の立場が変わったりはしないだろう。でも、私はそうは行かないのだ。
 湧き上がる角張った言葉たちをグッと飲み込んだ。そして味のないラザニアと一緒に、胃の中に収めた。

 午後二時頃。胸焼けがして気分が悪くなった私は、そそくさとトイレに立った。個室に入るなり猛烈な吐き気に襲われ、胃の中味を全てもどしてしまった。私がトイレで吐いていたなんて知れたら、つわりだ妊娠だと噂が立つのだろうか。そしたら私は、きっと「違いますよお」と笑って言うのだな。なんて考えていたら自分が情けなくて悔しくて、洋式便器に取りすがって、少しだけ泣いた。





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