第57回1000字小説バトル

エントリ作品作者文字数
1スキー場物語有機機械913
2親の身勝手君島恒星1000
3ウロボロスの叫声紫色24号1000
4我慢できなかったんだよう満峰1000
5丸いやつ日向さち1000
6ゴーストライダーハンマーパーティー1000
7スーパーおばけリゾットスナ2号1000
8(作者の要望により掲載終了しました)
9荷車越冬こあら1000
10春風、それも歌かるるるぶ☆どっぐちゃん1000
11ウサギとブタとシャツ夢追い人1000
12真夜中の文句配達・出所鈴矢大門1000
13喚ぶなら今ごんぱち1000
14桜色の伝説篠崎かんな1000
15Just Like Paradiseべんぞう1000
16藁の中のウサギ土筆1000
17きみしかいないながしろばんり1000
18右手で左踵を持ち上げろ。アナトー・シキソ1000
19毛玉太郎丸1000
20記念樹立花聡1000
21桜色の扉さとう啓介1000
22トランスファー犬宮シキ1000
23春が来た蛮人S1000
24真空ストランズ伊勢 湊1000
25『いろはにほへと』橘内 潤983
 
バトル結果発表
 ※投票受付は終了しました。

バトル開始後の訂正・修正は、掲載時に起きた問題を除いては基本的には受け付けません。




エントリ1  スキー場物語     有機機械


 こんなとこ夏になれば何もないただの山奥の荒れ地なのになあ。
 僕は改めて感慨に耽る。そんな何もないただの山奥の荒れ地に今は最新ヒット曲が響き渡り、レストランは賑わい、真っ白な斜面にはたくさんの人々が溢れている。そんな感慨を抱いた後に、再び人っ子一人いない夏のこの場所を想像すると今度はとてつもなく寂しくなる。そうだ、これはこの地の本当の姿ではないのだ。誰も知らないだろうけれども、一年の大部分ここはしんと静まり返り、もしもここで命を落としたりしたら誰にも気付かれることなくその肉体が朽ち果てるのを待つしかないような場所なのだ。
 そんな何のたしにもならないようなことを考えながらリフトの乗客係をやっているうちに今年の冬もそのピークが過ぎ、降る雪は湿っぽくなり、太陽の照りつける日が多くなり、来客数も少なくなっていった。しかも今シーズンは近年稀にみる暖冬で、三月に入った時点で積雪量がみるみる減っていく。来客数の減少に歯止めがかからなったスキー場が、赤字を抑えるために今シーズンの営業を終えるしかないという段階になったとき、その日はやってきた。
 その日は朝から雪が降り続き、スキー場では猛吹雪になっていた。視界はほとんどなく、下界から上がってくる客もほとんどいない。そんな日は特に自分の職場が浮き世から隔絶された場所であるということを思い知る。そんな日でも僕は客がいる限り外に立ち、吹雪を避けるようにうつむく乗客を黙々とリフトに乗せ続ける。
 気が付くといつの間にか雪が止んでいて、素晴らしいパウダースノーの斜面が星が瞬き始めた薄暗い空に伸びる。仕事を終え新雪の匂いを嗅ぎ付けたスキーヤーやスノーボーダーがこのへんぴな場所に集まり始める。誰もがクリスマスプレゼントを渡される直前の子どものようにそわそわしながらリフトに乗っていく。自然に僕はそんな彼等に声をかけてしまう。
「今夜は最高ですよ」
 彼等は笑顔で頷きながらリフトに乗っていく。
 またある者は見ず知らずの僕のような乗客係に声をかけていく。
「今夜は最高ですね」
 僕は笑顔で頷き彼を山頂に送りだす。
 そんな日は、こんな仮りそめの場所での儚い営みにもとても価値があるように思える。







エントリ2  親の身勝手     君島恒星


 深夜。
 僕は大学病院の3階フロアーにある、産婦人科の待ち合い室で身を丸めていた。
 急に、ゆっくり漂っていた空気が波立つように乱れた。
 孫でも産まれるのだろうか? 心配そうな顔つきの品の良さそうなおばさんが、目を輝かしながら入ってきたかと思うと、僕を見つけ、声を弾ませながら勝手に話し始めた。
「ご出産ですか? わたしは初孫なんですよ。最近の嫁は身体が弱くてだらしないけど、孫だけは産んでもらわないとね。今は超音波とかでわかるそうで…うちの孫は男の子ですって、小さいのが付いていたって…時代は変わるものですよね。昔は産婆さんが…」
 僕はただ適当に、相槌をうっていた。
 看護婦が緊張した顔で僕を呼びにきた。
 ついにその時がきた。
 椅子から立ち上がった時には、頭の中は真っ白になっていた。今、自分が何をすればいいのかわからないまま、看護婦に言われたとおりに赤い液体石鹸で手を洗い、白衣を着て集中治療室へと向かった。
 生まれてくる娘に、重度の障害があることは事前にわかっていた。それこそ医学が進歩したおかげだ。でもそれがわかってからは、不安な未来のことばかり考えてしまい、妻と落ち込み続けていた。無事に生まれてきても普通の子のようには、生活できないと言われていた。実際に娘をおなかに抱えている妻は、僕なんかよりも辛かっただろう。医者は母胎を守るために、帝王切開をして娘を取り出した。娘の身体には無数のビニールチューブが刺さり、巻き付いている。
医者に助からないことを告げられる。
 助かっても普通の子供のように生活はできない。僕らの生活も巻き込まれてしまう。
 身勝手な親の考え…
 娘は僕の目の前で、目を開けることなく、口をパクパクしながら息を引き取った。産まれて数時間の出来事だった。
 婦長さんが、新しいタオルにくるんだ娘の亡骸を抱かせてくれた。
「何もできなくてごめんね!」
 そう言うのが精一杯だった。
 待合室に戻ると、まだ話し足りないおばさんがいた。
「男の子でした? 女の子? うちは、私似の男の子でしたよ。名前をね…」
 状況をまったく考えないおばさんだ。僕は答えるかわりに涙を流した。
 説明する気にもなれず、無視してソファーに座ると、また涙があふれてきた。
 今日、娘が誕生して、娘が亡くなった。
 僕はこう思うことにした。
 娘は僕たちの生活を守るために身を引いてくれたのだと…
 やはり、親の身勝手でしかないか…







エントリ3  ウロボロスの叫声     紫色24号


〜これは歌じゃない。何か悲しい生き物の咆哮だ〜

 茜は最初にその曲を聴いた時、何故かそう思った。
 声は… その叫声は狼の遠吠えにも似て原始的で物悲しく、剰え、幾度も血を吸ったナイフのように錆びてざらついている。そのくせ揺籃めいて安慰で、シヴァのようにセクシーでもあった。まるで声だけで世界を破壊し尽くし、また愛し尽せるとでもいうかのように。
 恐らく精神は暴力的な祈りと浪漫的な呪いの間に直立し、同時に生と死のあわいに茫洋と広がってもいるのだと想念され、いずれにしろ不確定な両極を揺らいで定まらない。
 その事が叫声を、何か悲しい生き物へと変貌させているように思えてならなかった。
 この世界に居場所を見つけられない孤独な魂の咆哮… そんな子供じみた想いを茜は抱いた。

 …抱きはしたが、所詮は歌だ。暑苦しいロックに過ぎない。
 数週間後には、そんな曲の事はすっかり忘れて、茜は試験勉強やカラオケやバイトに忙しかったし、メールやデートに現を抜かし、ごく普通に日常を消化し、特別、幸せでも不幸せでもなかった。

「…死んだんだって…」
 そんな会話の断片が茜の耳に飛び込んできたのは、新年度が始まってまもなくの事だった。
 件の声の主が死んだという。
 桜のピンク色が窓外で、専横な園児のように暴れまくっていたのが目にうるさかった。

「…しても死ななそうな奴だったの…」
「…やらせ? 命がけの? …」
「…なんかさ、廃墟でゴミみたいに転が…」
「…? クスリ? …」
「…いう奴に限ってポックリ逝くんで…」
「…の王道…」

〜死ぬのはいつも他人だ〜

 会話に加わらず、科白の川を眺めていた茜の脳裏に、誰かのそんな至言が浮かんだ。

 ふーん、死んだんだ。人だからね。いつかは死ぬ。

 茜は他人事のように… 事実他人事なのだから、そう思った。
 思ってはみても、何故か胸中はざわついた。

 その晩夢で、茜は叫んだ。
 悲しい生き物となって歌うように吠えた。
 叫びは叫びを誘発し、際限がない。人から人へ、大地から大地へ… 挙句、地球が吠え始めた。

 …目覚めて気付いた。人は誰もが悲しい生き物なのに違いないと。
 白も黒もカラフルも… 叫び続けなければいられないのが命というものの本性で、そこに意味などありはしないのだろうと諒解した。

 茜は銀波のさざめく湖面のような気持ちで、久しぶりにあのCDを手にした。
 聴きながら思う。

 さて、私は何を歌ってやろうか…。







エントリ4  我慢できなかったんだよう     満峰


 国際スパイ組織の容疑者宅に公安の家宅捜索が入った。
 中央のソファーに座ってタバコをふかしている係長のいる応接室の隣の部屋からは、容疑者を尋問する声が聞こえてくる。他の捜査官は全ての部屋をくまなく捜索していた。
「おい、ここで間違いないんだろうな、それらしい機械とか暗号表なんかありそうじゃねえけどなあ」
「半年かけて調査してきましたから、間違いありません」
「で、機密書類がここにあるということも間違いないんだな」
「協力者の自供で、今日その書類を持って出国するということでした」
「機密書類か、公安部の給料を上げるとか書いてあればいいのにな、こんな面倒な捜索は刑事課にでも任しておけばいいのに」
「でも、これは我々公安部の手柄ですから」
「だからって給料が上がるわけでもねえしなあ。部長がほめられるだけだ。今頃うれしそうに結果報告書でも書いてんだろう」
 係長は何の指示を出すでもなく、いらいらとタバコを吸い続けた。

「おい、誰かタバコを持ってないか、切らしちまった」
「いえ、職務中ですから持って来ていません」
 ほかの誰も持っていなかった。
「ちぇっ、みんな真面目だねえ」
 仕方なく係長はテーブルの上に置かれたタバコの箱に手を伸ばした。
「あ、それは容疑者のものですからちょっと」
「かまやしないよ。ほら、もう三本しか残ってないんだし、それとも何かい、この中に書類をマイクロフィルムにして隠してあるとでも言うのかい。今どきそんな面倒なことするもんか」
「しかし」
「しかしって、いいよわかったよ。ほら、どうだ、手で潰しても中に何か入ってる様子はないぞ」
 そう言って、係長は三本のタバコを指で揉んだり潰したりして見せた。

「なんだか、潰したりしたもんで味が悪くなっちゃったなあ」
 三本のタバコを吸い終わったとき、隣の部屋で事情聴取していた係官が勢いよく出てきた。
「係長、やっと吐きました。やつはこのタバコの……」と言ったまま係官は目をむいた。
 事の重大さを察知した係長の額に汗がにじんだ。
「な、何だ、このタバコがどうかしたのか。これはもう調べたぞ。ちょうど切らしちまったもんで」
「マイクロフォントで印字した紙を、三本のタバコに巻き変えたんです。とほほ……」
 係官の後ろで容疑者がにやっと笑った。

「ようし、帰るぞ。ここには何ーんもなかった。情報は間違っていた。我々の見当違いだったんだ」
 捜査官たちはそそくさと容疑者宅を後にした。







エントリ5  丸いやつ     日向さち


 春は好きだけど、終わりが来ても惜しいとは思わない。
 最初は窓を開けているせいかと思っていたら、床にモルが落ちていて、桜の香りを発していた。
 見つけた時にはアーモンド形に近くなっており、そこから更に丸く大きくなって、ピンポン球ぐらいになると四肢らしきものまで生えた。何かに似ていると思ったが、次の日に起きると、バレーボールの某キャラクターとそっくりの形になっていた。
 更にその次の日、口があるわけでもないのに喋り出した。その声は、まるで中年オヤジだ。
「桜が散ったら、なあ、人間だって寂しいだろ」
「それが美徳なんじゃないの」
「ぱっと咲いてぱっと散る、なんてやってられっか。侍じゃねえんだぞ」
 元は桜の花びらだったのだろうと思う。某キャラのような身振り手振りは、喋っていてもいなくても同様だ。
「もう散ってるじゃん」
「いいや、俺にはもう一花咲かせる力がある。だから腐んねえだろうが」
 でも犬みたいな臭いがするよ、と言おうとしたが、やめておいた。桜の香りはあいかわらず出ていたけれど、いつの間にか混じっていたのだった。
「もう一花って桜の花のこと? それとも何か違うことすんの?」
 質問が癪に障ったようで、そんなこと教えられるかバカヤロウ、と飛び跳ねる。中身はほとんど空気らしく、ボールの跳ねる音がした。

 モルは、ずっと大きくなり続けていた。
 外の桜並木は若葉が生え揃い、花の頃とはまた違った形で街を彩っている。普段はあまりじっくり見るわけでもないのだが、休日の午後、やることもないのでぼんやり眺めた。ほとんど車も通らず、音といえば、子供たちのはしゃぐ声がゆるい風に乗って届く程度だ。空の青が眠たげで、ソファに凭れながら、まぶたの力がゆるむままに夢と現の境界線をぶらつくことにした。
 現へ半歩ほど踏み入れたら、モルが暑い暑いと騒いでいることに気がついた。目に若葉の色がストレートに飛び込み、モルは小刻みに跳ねている。
 窓を開けてやると、新緑の香りが入り込んできた。換気ぐらい自分でやれよ、と思って振り返ったら、モルが目を広げると同時に背中から床へ倒れこんだ。
「夏の匂いだ!」
 倒れた勢いで転がっていくと、玄関のドアが独りでに開いて、幅に余裕があったとは思えないのに何のためらいもなく外へ転がり出た。道に出る所まで追いかけてみると、一直線になっているその道を、自転車くらいのスピードで視界の向こうへ消えていった。







エントリ6  ゴーストライダー     ハンマーパーティー


 県の広域農道の彼方から爆音が響いてくる。
 端樹は長い髪をなびかせながら音のほうへ顔を向けた。
 乾草の山から兎が飛び出して農道を横切った。残雪が太陽の光を反射する。
 竜三は毎年のことで端樹の数メートル後ろにしゃがみこんで煙草を吸っていた。
「来たべ」
 竜三はゆっくり立ち上がって端樹の後ろ姿を見つめながらエンジン音に耳を澄ました。蜃気楼のなかをドライバーのいない単車が疾走してきて二人の前で急停止した。
「和夫」
 エンジンキーがゆっくりと回転しエンジン音が止んだ。ハンドルがゆっくりと二人のほうに首を向けた。陽光が鉄塔に反射して端樹の瞳を突き刺した。昔、このバイクの後部座席にまたがって和夫にしがみついていた時、彼の指輪に反射した同じ光を思い出させた。
 山風が吹いて残雪散らばる黄金色の土の上の蜃気楼が震えた。市街地のビル群が逆さまになって揺れていた。野菜畑の花がしぼんでいくように音をたてて雪が解けていった。
 端樹にはこれが幻影の呪縛なんかではないことは分かっている。和夫が事故死してから仲間たちはみんな去ってしまった。走り屋だったことを忘れ、あるいはいい思い出にしてしまっていた。走りつづけているのは二人と一台。年に一度の狂走。あたしが和夫を忘れられないんじゃない。
 あんたがあたしを忘れられないのさ。でも、ここにいるこのダサい男もけっこういい男だよ、和夫。
「行こうぜ」
 竜三が声をかけた。端樹と竜三はそれぞれのマシンにまたがるとエンジンをかけた。無人のマシンがそのハンドルをゆっくりと前方に向けた。そして二台が後を追うように走りだした。匂いたつ電流が瑞樹の足の裏から脳天へと突き抜けていく。
 浮雪が煙り立つ農道を三台のマシンがうなりをあげて突き進む。運転手のいないマシンのタコメーターの針は小刻みに震えながら右方向へ振り切られ、二台を置いてきぼりにした。見えない光が農場一体を照らし、空中を疾走していったマシンは消えた。瑞樹と竜三はスピードを落としながら坂を下り、市道に入った。
 大鷲が奇声を発して飛び廻っていた。農場の西端の深い森は声をひそめていた。
「やっべー、クソ最高」
「このまま湖岸に行こっか」
「おうよ」
 瑞樹はアクセルを踏むと国道へ入る小道に方向を変えた。少しハンドルをとられた。視界が少しかすんだせいだ。竜三は、何やってんだべ、と声をかけて横についた。二台はゆっくりと並んで走っていった。







エントリ7  スーパーおばけリゾット     スナ2号


 僕が彼女と初めて会ったのは、大学生活7日目、桜舞うキャンパス。僕の目は、彼女に釘付け。一目惚れだった。

「じゃーん」
玄関を開けると、彼女が買い物袋を手に佇んでいた。
「真に、おいしいもの作ってあげようと思って」
無邪気に笑う彼女を、僕も微笑んで迎え入れる。
 彼女の趣味は料理。一人暮らしの僕のために、手製の弁当を持ってきてくれた時は、羨ましがられたものだ。だけど、どんなに皆が欲しがっても、僕は一人で全部食べた。
 彼女は、僕にとって最高の彼女だ。ほんとに最高。
 しかし、彼女と付き合うようになって僕の胃は、明らかに衰弱してきた。
 原因は分かっている。彼女の料理だ。
「真、いつも残さず食べてくれるから、作りがいあるんだ」
ふふ、と笑う。僕も笑顔を返し、直後、自分の顔が引きつっていないか、手で触って確かめる。よし、大丈夫。
 初めて彼女の料理を口にした瞬間、僕の脳内は、暗黒に閉ざされた。まさに、殺人的。彼女が暗殺者に見えた程だ。しかし、僕が死を覚悟しながら完食すると、彼女は、天使じゃないか、という笑顔で、
「おいしかった?」
僕が何て答えたかは言うまでもない。
「今日はね」
彼女が振り返った。
「私のとっておきを作ってあげる」
とっておき。妙な汗が背中を伝った。
 僕が、真実を告げるのを諦めたのは、彼女がちゃんと味見をしていることを知った時だ。自分の料理の味を知らないならまだ分かる。
 想像するに、彼女の母親もまた、類稀なる味覚の持ち主なのだ。彼女はその味で育ってきてしまった。それは、彼女の父親が早くに亡くなっていることからも証拠付けられる。そして僕はそこに、彼の、妻に対する愛を感じる。
「出来たよ」
ついに彼女が、激臭を放つ皿を、僕の前に置いた。
「特製、洋風リゾット。さ、召し上がれ」
天使の笑顔。僕は、掌に尋常でない汗を感じながら、スプーンを握った。ひと匙、口に含む。飲み下す。
 ああ、これが巷でよく言う、走馬灯か。
 彼女のスペシャル料理は、まさにスペシャルだった。今までとはレベルが違う。たった一口なのに、僕の体の中で、革命が勃発している。断頭台の露と消えようとしているのは、僕の胃か、食道か。
 顔を上げると、彼女が幸せそうに僕を見ていた。
 もし、生きてこの危機を乗り越えられたら、指輪を渡そう。一生、この子と一緒にいよう。
 そう決心して、僕は、震える手に無理やりスプーンを握らせ、にっこりと彼女に笑って見せた。







エントリ9  荷車     越冬こあら


 荷車を引いていた。道はなだらかに上ったり、下ったり、平坦であったりした。私は日がな一日、荷車を引いていた。腹が減ると沿道の草や果実を取って食べた。暗くなると道の端に眠った。夜明けと共に起き、また、荷車を引いた。
 何日か引いていると、行く手にぼんやりと人影が見えた。近づくと女だった。荷車を引きながらだんだんと近づいてくる女を凝視していると、彼女も私を不思議そうに眺めていた。そして、彼女の真横を通り過ぎ、荷車を引いて、今度は彼女から遠ざかって行った。
 私も彼女も口を利かず、挨拶も交わさなかった。しばらく引いて振り返ると、彼女は少し離れて付いて来ていた。そして、彼女はそれからずっと付いて来た。
「押してくれませんか」
 私は、勇気を出して、大声で彼女に訊いた。
「はい」
 彼女は小走りに荷車に追いつくと、後ろから押してくれた。前引き後押しで、荷車はずんずん進むようになった。私は嬉しくなって、口笛を吹いた。彼女はそれに合わせて、唄を歌った。
 彼女が疲れると、荷車に乗せてやり、私が引いた。彼女を乗せていると思うと心地良く、重さが増えた事は気にならなかった。
 彼女は私の妻になり、やがて一男一女を授かった。妻は子供達を荷車の上で器用に育てた。私は毎日、妻と子供達を乗せた荷車を引いた。
 子供達は大きくなり、荷車を引く手伝いが出来るようになった。私が引き、妻と子供達が押し、荷車は、いっそう勢いを増して進んだ。
 ある日、娘が熱を出した。何日も熱は下がらず、娘は死んだ。道沿いに穴を掘り娘を埋めた。三人で花を飾り、三人で泣いた。そして、三人で荷車を引いた。
 やがて、息子は青年になり、独り立ちを宣言し、親から離れて行った。荷車は前引き後押しに戻った。
 娘と息子がいなくなってから急に老け込んだ妻は、やがて病に倒れた。私は妻を荷車に乗せた。今や荷車は一日かけてもほんの少ししか動かないが、私は荷車を引き続けた。
 その日ついに、妻は息絶えた。私は妻を道の端に下ろした。もう穴を掘る気力もなく、仕方なしに妻の隣に横たわった。
 何日も横たわっていた。見知らぬ若者が二人とも死んでいると思ったのか、荷車を勝手に引いていってしまったが、私はそれを静止する事も声をかけることさえしなかった。もう荷車を引く事もなくなった。
 私は妻の冷たくなった手に私の冷たい手をのせた。そして、小さく口笛を吹いた。
 私の話はこれで終わりだ。







エントリ10  春風、それも歌か     るるるぶ☆どっぐちゃん


 愛犬を連れ、海へ散歩に出掛ける。久しぶりの散歩に犬は手綱を引きちぎらんばかりに興奮し、わんきゃん鳴き散らしながら私の周りをグルグルと回った。犬という生き物は、本当に可愛い。
 海にたどり着く。春はすぐそこまで来ていた。海は未だ氷りづけのままである。波音は全く聞こえない。静かな、とても静かな海である。だが日は高く、風はぬるみ、実に気持ちが良かった。春はすぐそこまで来ている。
 若者達が砂浜にドラムセットを組み、ギターにアンプを繋ぎ、歌を歌い始めた。良いね。下手くそな音楽だけれども、良いね。海がこんなふうに物凄く静かだとやっていられないものね。春の初めのこの季節は、海がこのようなこの季節は、歌でも歌わないとやりきれないものね。私なんかは人を初めて憎んだとき、憎んでしまったとき、とても暑くて、焼き切れんばかりに暑くて、それなのにとても寒くて、そしてとても静かだったから、波の音くらい無いと、とてもじゃあ無いけれどやっていられないよ。音楽無しじゃあ、未だに手が震えて、震えが止まらなくて、気が狂いそうになるよ。
 手綱を放すと、犬はもう十四歳、人間で言えば私以上、相当な高齢であるにも関わらず目眩滅法に走り出し、転びながら放尿、嬉ションをし、またジグザグに走り出すのだった。
 音楽。歌。犬のわんきゃんいう鳴き声。風が吹く。微かに海から氷の軋む音がそれに混じる。春はすぐそこまで来ている。
 砂浜に立てられた重厚な金屏風に、がつんと音を立て犬が激突した。狩野派風の見事な金屏風で、犬は見事に吹き飛ばされたが、すぐ立ち上がるとまた小便を漏らしながら走り始めた。金屏風の前には着物の女が居て、咲き始めた花々を素足で踏み散らしていた。
「あたし、金魚が好きでねえ。金魚をおまつりでいつも買うのだけれど、でも必ず死なせてしまってねえ。だからあたしはいつも泣くことになるの。金魚はばらばらに砕けていってしまってねえ、赤いかけらになっていってしまってねえ、それがとても綺麗でねえ、赤いばらばらのかけらはとてもとても綺麗でねえ」
 女は踊るような動作で花を踏み散らし続ける。
「泣きながらそれを見てねえ、あたしはとても悲しいのだけれどねえ、とても、とてもやりきれないくらいに、悲しいのだけれどねえ」
 ああ、解るねえその感じ。そうか、そうだね。悲しいね。だが美しい。なるほど。それも生か。それも死か。それも踊りか。
 それも歌か。







エントリ11  ウサギとブタとシャツ     夢追い人


 窓の向こうにはどんよりとした黒い雲が徐々にその大きさを増している。
「雨が降りそうね」
 サンダルを履いて庭に出て洗濯物を取ろうとしたら鼻先に水滴の冷たさを感じた。窓越しに見るよりも空には今にも大雨を降らしそうな黒い雨雲が空を覆っていて、私は慌てて洗濯物を竿から取り始めた。バスタオルはまだ僅かに水分を含んでいる。「天気予報の嘘つき」と心の中で呟いた。
「あれ? ピンクのシャツがない」
 どうしたのだろう。家の中に入って取り込んだ洗濯物を探ってみたが、PLAYBOYのピンクのシャツがどうしても見当たらない。確かに今朝起きてすぐ洗濯機に突っ込んだはずだ。もしかしたら風に飛ばされたのかもしれないと玄関を出ようとすると、外はすでに地面をえぐりそうなほどの大雨が降っていた。傘を差していってもこれでは濡れてしまうだろうと思い、傘を持たずに庭に出た。
 文字通りあっという間に私はずぶ濡れになってしまった。古着屋で買ってきたカーキ色のトレーナーとデニムパンツは水をいっぱい吸って想像以上に重くなり、動きづらくなった。
 ひよこのような足どりで必死に庭に出たが、辺りを見回してみてもシャツは見当たらない。
 隣の家まで飛んだかもしれないと思い、塀越しに隣の庭を見回しても見ても青い芝生が相変わらず綺麗に生えそろっているだけで、そこにピンクの行方不明者を見つけることはできなかった。

「ハクション!」
 裸のままバスタオルにくるまって、ココアを飲んでいると何故だか幸せな気がしてくる。窓から外を眺めてもシャツの姿はない。私のお気に入りのシャツ。古着屋で八千円だったかな。私にしてみれば高価な代物だ。八千円では決して諦められない。なんとかして見つけなければ。

「ただいま。突然雨降ってきて大変だったわ。天気予報は嘘つきね」
 買い物袋を片手にぶら下げた母もずぶ濡れになって帰ってきた。紺のパーカーは濡れて、黒のパーカーのように見える。
「タオル持ってくるから玄関で待ってて」と私は言って乾いたタオルを取りに行った。
 玄関に戻って思わず唖然とした。
 パーカーを脱いだ母はピンクのシャツを着ていたのだ。それはまさに私が探していたシャツだった。
「そのシャツって……」
「これ小さいわね」と太った母が脱ごうとしたシャツのウサギは、伸びてブタになっていた。初めからブタだったのかな?
「ああ、なんてかわいらしいブタなの!」
 ブタはニヤッと笑った。







エントリ12  真夜中の文句配達・出所     鈴矢大門


 指の先の皮を剥いていたの。爪との境目のある白いところって、何だか嫌なもの。ゆっくりと引っ張って剥く。すると、ぺろん、と剥がれた、かと思いきや、何かがさらに繋がっていて。今度はその白い糸みたいなものを除けようと思って、くいっと引っ張ってみた。するとその糸は何の抵抗もなく伸びてきたの。ここで切ろうかと思ったんだけど、なんかするすると出てくるのが楽しくて、そのまま引っ張り続けて。するすると糸は次々に出てくる。わたし、わくわくしてきたわ。白い糸はまだまだ出てくる。

くい、する、くい、する、くい、する、………。

なんなのかしら、これ。何だか白くて気持ち悪いし、つやつやしすぎ。わたしはちょっと怖くなってきた。

くい、する、くい、する、くい、する、………。

まだ伸びてるわ……。私、これを切っちゃった方がいいような気がするのは気のせいかしら……。大体なんで体から糸が出てくるのよ。ああ、何だか腹が立ってきた。腹が立つといえば、あいつ、今日卒業式に来なかったのよね。何考えてるのかしら、全く。

くい、する、くい、する、くい、する、………。

大体いつもいつも適当なのよね。待ち合わせは遅れて当然、ノートは借りて当然、単位は取って当然ってのが救いかしら。それにしてもあの適当さ加減はちょっと度が過ぎてるのよ。もう、腹立つわ……。

くい、する、くい、する、くい、ぐい。

何で手ごたえなんか出てきてるのよ、もう! いい加減腹立つのに、私の手を煩わせないで欲しいわ、全く。何で卒業式を忘れるのよ、でっかいイベントじゃない。馬鹿だあほだと思ってはいたけどここまでとは思ってなかったわ、もう。ああ、引っかかるんじゃないわよ!

ぽん!
『あなたの文句、お届けしました。』

…。………。
何なのかしら、これ……。誰にお届けしたのかしら、これ……。何をお届けしたのかしら、これ……。

仕方ないから、私はぐっと伸びて寝ることにしたの。ごきり、と背骨が鳴って、必要以上に伸び伸びした気もしたかしら。同じ姿勢で居過ぎたからだと思うけどね。あたしの体、大丈夫かしら。

白い糸は、翌日になったら綺麗になくなってたわ。意外と夢だったのかしら。ううん、きっと夢よね。そういえば、真夜中にあいつからメールが来てた。やっと卒業式を思い出したようね……。ほんとにしかたないったら。ま、いいか。今日はいっしょに買い物に行こうっと。洗濯物干し竿が欲しかったのよね。電話しなきゃ!







エントリ13  喚ぶなら今     ごんぱち


「ふぅ……」
 ヘッテルギウス氏は、地獄の四丁目のバーで、ブラッディ・マリーを傾ける。
「どうされました」
 髑髏で出来たシェーカーを洗いながら、バーテンのニスシチが尋ねる。
「上司のナベルスから『もっと魂を回収しろ』ってケツ叩かれてね」
「頭三つで怒鳴られるのは、大変ですね」
「かなわんよ」
 ヘッテルギウス氏は、ぐっとグラスを空ける。
「良い魂の集め方はないもんかね、マスター?」
「そうですね」
 バーテンはグラスを磨きながら応える。
「三つの願い、なんてどうですか?」
「結構難しいんだよなぁ。無茶な願い事されると費用もかかるし、何より『叶える回数を増やせ』なんて言われたら……」
 ヘッテルギウス氏は、肩をすくめる。
「でも、他に妙案もないか」

 翌日、人間の悪魔召喚儀式を辿って、ヘッテルギウス氏は地上へ現れた。
 ヘッテルギウス氏は、魔法陣の前で腰を抜かしている人間を見下ろし、幾分早口で言う。
「魂と引き替えに、願いを三つ叶えてあげましょう」
「ち、ちょっと待ってくれ!」
(よしっ、かかった!)
「分かりました、ちょっと待ちます――残り二つです」
「あっ、えっ、そんな!」
 大事な一回を消費してしまった事で、人間は更に混乱する。
「い、え、と、そう、そうだ、金、金と女と権力と……」
「二つに絞って下さい」
「あ、そうか、ええと、待ってくれよ……」
(よっしゃっ、こいつはアホだ!)
「はい待ちます。これで二つ目」
「あああああっ! そんなぁっ!
 ヘッテルギウス氏が、にんまりと笑った時。
「じゃ、増やして、願い増やして!」

「マスターの言った通りだよ。三つの願い、いけたね」
 ヘッテルギウス氏は、カニバリ・ソーダを一息で空ける。
「きっと今ごろあの人間は、千個に増えた願望に辟易しているだろうさ」
「叶える回数ではなくて、願いの方を増やしてしまった訳ですね」
「そゆこと――次はブラッディー・ドッグ」
「はい、ただいま」
 ヘッテルギウス氏の前に、固まった血で縁取られたグラスに注がれたカクテルが置かれた。
「……しかし」
「どうしました?」
「揚げ足ばかり取ってると、しまいには誰も契約に乗らなくなるかも知れないなぁ」
「人間も悪魔も、当たりのない籤は引きませんからね」
「籤か……そうだな。たまには見返りなしで、本当に幸せにしてみるかなぁ。呼び水に」
 ヘッテルギウス氏はグラスの縁を舐めてから、ブラッディー・ドッグを飲み干した。

 ――さあ、喚ぶなら今。







エントリ14  桜色の伝説     篠崎かんな


 ついに人口2000人を切った事を受けて、我が村、西葉村も大々的な村おこしをする事になった。西葉村といえば、面積の96%を占める森林。農林業、あふれる人情味、神楽、民謡などの独自の生活文化……
「そんなのもう古いです村長!」
 企画観光課、奥村は言った。
「民謡も自然も、今の人は興味無いんですよ」
「何か考えがあるのかね? 奥村君」
「西葉川の滝に伝説を作りましょう」
「伝説?」
「感動的な奴を……訪れたら、幸運が起こるとか、健康になれるとか、そんな話があれば、観光客だって増えますよ」
「どうせなら、縁結びにしないか?」
「それはかまいませんが……」
「訪れたら結ばれる、そんな話だ」
 そういえば、奥さんとうまくいっていないと、噂になっていたなぁ……。
 そのおかげがどうかは分からないが、議会もすんなり通り、村おこし計画は始まった。

 滝まで道路が造られ、吊り橋が架けられた。村出身の作家に依頼し、駆け落ち心中の話を作らせる。
 春には桜が咲き誇る事から滝の名前は『桜咲香滝(さくらざかたき)』に決まった。桜も恋も、咲き香る滝。そんな意味もあるが、某有名曲に乗っかるのが一番の理由だ。

「すごい、桜きれーい」
 満開の桜に囲まれた壮大な滝。しぶきが飛んでくるほどの吊り橋の上で。洋子は楽しそうにはしゃいでいる。
「桜よりも、滝がメインなんだよ。洋子」
「ここから名家の女性が身を投げたのね……」
「あぁ、二人の思いが残っているから、ここを訪れたカップルは幸せに成れるんだよ」
 奥村は洋子の肩に手をかける。
「いい所よねぇ……」
「なぁ、洋子」
「なぁに?」
「結婚……しないか?」
「えっ……」
 赤くなるほほが可愛い。あと一押しだ。
「絶対幸せにする。この滝に誓うよ」
「本当?」
「あぁ、洋子の為なら、この滝に飛び込めるよ」
 綱に手をかけ身を乗り出す。
「愛してる、洋子」
「私も……」
 その声と共に背中感じる感触。洋子の手だったのだろうか、そう思った時には滝に向かって落下していた……
「私も愛しているわ。だから許せなかった……なんで浮気してたのよ」


「お前、桜咲香滝って知ってるか?」
「あぁ、行くと結ばれるってやつだろ」
「それが裏の伝説があってさぁ……企画した男がな、そこで彼女に殺されたんだわ。だから……行くと絶対別れるの」
「マジか?」
「あぁ、お前彼女と縁切りたいって言ってただろ、行ってみれば?」

 桜咲香滝は沢山の観光客を集め、村おこしは成功した。







エントリ15  Just Like Paradise     べんぞう


 春の嵐。やっと動けるようになったらこれだ。桜吹雪が舞い散るのは遥か遠く。このアスファルトの上で舞い散っているのは黄砂だ。これが現実かぁ。


僕はさっきまで、暗くて静かで、なんとなくヒヤッとした所にいた。っていうか、生まれてからずーっとそういう所にいたので、それはそれで居心地が良かった。でも何もする事がない。それがどういうわけか、なんとなく動きたくなったのだ。もぞもぞと動いていると、なにやら明るいところに出た。眩しいし、いろいろな音がする。何よりも暖かい。僕はこの世界を『パラダイス』と名付けてみた。

『パラダイス』には匂いがある。風の匂い、草の匂い、花の匂い、そして、蓼の匂い。まだ食べたことはないが、蓼はきっとおいしいに決まってる。だっておいしそうな匂いがするから。僕は蓼に向かって歩き始めると、石のように固い地面に出た。なんか変な匂いが混じっている。蓼の匂いは薄まったけどきっとこの固い地面の向こうにあるはずだ。固い地面は歩きづらいし、なんだか熱いし、何よりもこの強い風に対して踏ん張りが利かない。よろけてコロコロ転がってしまう。でも一心不乱に目標に進み続けることができる。これは現実だ!

黄砂は痛い。さっきからビシビシと当たるのだ。それでも僕は進み続けるよ、おいしい蓼のために。さっきまでいた暗い所ではこんなこと考えることも出来なかった。生きているって素晴らしい。



「素晴らしい天気だね」

誰もいない助手席を見て呟く。臼井は初ドライブに密かに憧れていた佐伯を誘おうと決めていた。しかし一ヶ月前、教習所で佐伯が誰かにコクったと聞いた。地元に残った臼井は春の嵐の中、モヤモヤした気持ちのまま一人でクルマで出掛けることにした。

今頃、佐伯は何をしてるんだろうなぁ。暖かな春の陽気の中、臼井のクルマは田園風景を走る。目の前の道路ををコロコロ転がる緑色の虫なんかまったく目に入っていなかった。




僕はもう春の嵐になされるがままだった。こうやって転がったほうが歩くよりも早かった。コロコロコロコロ楽しいよね。これは現実だ。生きているって素晴らしい!

遠くから何やら『大きなもの』が来た。一瞬暗くなったと思ったら、僕のカラダの後ろ半分を持っていかれた。ビックリしたが、直後にぼーっとしてきた。黄砂にまみれて薄れてゆく意識の中、蓼のことを考えていた僕は、最後に『大きなもの』の中の人間と同じ事を思った。


「これが現実かぁ…。」







エントリ16  藁の中のウサギ     土筆


 小学生の妹を連れて、枯野を歩いていた。間もなく日が暮れるので、心がせいていた。早く枯野を出て、バス停に辿り着かなければならない。
 野には大きな積み藁がいくつも出来ていた。一つの積み藁の前を通りかかったとき、妹が足を止めて、
「藁の中で子ウサギが死んでる」
 と言った。妹が言う前に、私も積み藁の奥の方に子ウサギらしきものが、硬直 してこちら向きに坐っているのを見たような気がしたので、妹と一緒に藁の奥を覗いた。夕日が積み藁の中を照らしていた。
 やっぱり子ウサギがこちら向きに坐っていた。どうしてこんなところに、子ウサギが?
 不思議に思いつつ、そこを離れて歩き出した。ますます夕日が赤く輝いてきていたし、バスの時間が気になっていた。
「やっぱりウサちゃんでしょう。可哀想にね」
「‥‥‥」
 妹は子ウサギは死んでいると決めつけているが、私は腑に落ちないものがあって、黙っていた。子ウサギの強張った表情は、確かに死んでいるように見えたが、眼は開いていたし、耳もぴんと立っていたのだ。
 それに何より解せないのは、子ウサギが死んでいると言った妹自身、昨年交通事故で他界しているからだった。

 私は後ろ髪を引かれる思いで、妹を原野に残したまま、積み藁のところに戻ってみた。
 はたして子ウサギは硬直して、藁に背を凭せ掛けるようにして坐っていた。私が覗き込んでいると、俯き加減だった子ウサギの面が上がってきて、片方の耳が、ぴくりと折れ曲がったのだ。動いたということは、子ウサギは生きているのだ。私は妹に、
「子ウサギは死んでなんかいなかったぞ」
 と言ってやれるので嬉しくなっていた。
 子ウサギは、うっかり居眠りしてしまったところを、見咎められでもしたかのように、もう一度耳をぴんと立て、顎も完全に上がって私と正面から眼を合せた。鼻先がうっすらと赤かった。赤いのは夕日のせいだけではなく、ウサギの鼻の自然の赤さだった。
「おい、お前はどうしてそんなところに入り込んだんだよ」
 私は、早く妹に教えてやりたくて、足を速めた。

 妹は待たせた原野にはいなくて、不安になっていると、バスが来て、客が乗り込んでいるところだった。
 私が着く前にバスは走り出してしまった。
 バスの窓が一つだけ開いていて、そこから顔を出して手を振っているのは妹だった。
「子ウサギは生きていたぞ!」
 私は必死に叫ぶが、手を振り続ける妹を乗せて、バスは行ってしまった。







エントリ17  きみしかいない     ながしろばんり



 大根を抱えて帰路について、そのまま眠ってしまったようだった。目を開くと炬燵布団の緋色で、口元から顎を伝ったよだれが、赤黒く染みを作っていた。額を天板の角で支えていたので、みっともなく痕がついてしまっていることだろう。顔をあげて、視線の先は真っ暗のガラス戸。欠伸がてら、蒸れた首筋をかきむしると、爪の先から垢が擦れて落ちた。
 大根は帰り道に吉野の奥さんにもらったものだ。俺の腿より太いような立派な大根で、賽の目に切って即席のカクテキ、という考えも脳裏をよぎったが、大根をくれたのが吉野の奥さんだったので、やぱり煮付けにする。新聞紙に包まれた姿はむしろ白菜のようで、抱えあげるとずっしりと根菜の重みが胸板にかかる。持ち上げると、畳に土の零れる音がして、あわててよたよたと台所に向かって、流しにごろり、とやった。底に積んであった小皿が派手な音を立てる。そうかあいつ、片さないで行っちゃったんだな。
 早朝、便所でもがく美代を抱えあげた。救急車が来るまでの十分間。足腰に力が入らないと、はやく着替えたいと泣きじゃくった。風邪気味、糖尿、脳梗塞。思いつく要因はいくらでもあったが、久々に抱きかかえた腿の細さに、とうとう、という覚悟を促されているのだと思った。近所の人々が見守る中救急車に乗りこんで後、美代の飲んでいた常備薬、保険証、替えの寝間着、紙袋の中身を気にしながら隣りの町の病院まで行ったり来たりする。ようやく本日は御役御免になって、吉野さんの家の前を通って帰ってきたわけだ。
 大根を敷詰めて水から炊く。思い出して、だしのもとを鍋の水面に満遍なく振りかける。冷蔵庫から鍋にする予定だった豚肉のパックを取りだして、そのまま粉末の浮いた上に落としこむ。失敗を匿すように蓋を閉じて、火を弱めておく。
 電話が鳴った。きっちり三回のベルで呼吸を整えて、肘のきしみを意識する。
「まぁ、あれですわ。エネルギーゼロ、っちゅうコトですな。糖尿の薬を飲んでおいてあんまり御飯、召し上がらなかったでしょう。それで神経が動かなくなってしまったんですな。まぁ栄養をつけていけば問題は……」
 電話を切って、不意に五臓六腑の奥から恐ろしい震えがやってきた。それは深く浅く呼吸を狂わせて、しゃくりあげる寸前でがくがくと歯を震わせて、おれは十数年ぶりの涙とともにへたりこんだ。
 立ちこめるだし汁の匂いに、醤油を足さなくては、と思いながら。







エントリ18  右手で左踵を持ち上げろ。     アナトー・シキソ


空からはいろいろ降ってくるから、外では晴れてても傘をさしてる。
柄の太い黒のコウモリで、もう五回は修理した。
貰い物だけど気に入ってるからいつまでも使ってる。
今もまた雨とか雪とか雹とかではないナニカが空から降ってきた。
それで僕のコウモリは今パタパタ鳴っている。

紫外線降り注ぐ屋上プールは無人。
僕はプールサイドに立って、ガムを噛みながら傘をさしている。

空から降ってくるそれはキラキラしていて、音も立てずにプールの水に消えていく。
それは蛙や鳥ではない。金でもない。
コンタクトレンズ。
コンタクトレンズが雨のように降っている。
僕はしゃがんで人差し指を舐める。
コンタクトレンズを指につけて拾う。
柔らかい。ソフトコンタクトレンズだ。

水が跳ねた。
水泳選手がプールの水から出てきて、目の前の縁につかまって僕に言う。
「悪い。遅くなった」
「いや、大丈夫だよ」
水泳選手は競泳用のオレンジ色したゴーグルをしたまま空を見上げる。
「今日のこれはなんだ?」
僕はソフトコンタクトレンズだと教えてやる。
「へえ」
水泳選手はそう言って、プールサイドに溜まったコンタクトレンズをまとめて掴む。
手の中のそれをしばらく眺め、コメントなしで投げ捨てた。
「今日はメッセージも預かってきた」
水泳選手はどこからか赤い携帯電話を取り出す。
ずぶ濡れの携帯電話だ。
「完全防水タイプの最新式」
水泳選手はそう言って、自分で折り畳み式のそれを広げ、どこか押す。
「聞けよ」
水泳選手はずぶ濡れの携帯電話を僕に差し出す。
僕はずぶ濡れを耳に当てメッセージを受け取る。
そして空を見上げた。
けど、コンタクトレンズが当たって目を開けてられない。
水泳選手も空を見上げる。
「コンタクトレンズがジャマで見えないな」
僕は携帯電話を水泳選手に返す。
水泳選手は携帯電話を折り畳んでどこかにしまい込む。
「いつも通りプールの栓は開けておいたから」
「いつも助かるよ」
「いや。じゃあ、俺は帰るから」
水泳選手はそう言うと、大きく息を吸い込んで、ズボッと水中に消えた。
入れ替わりに水中から黒い何もない顔が一度に百人現れる。
百人はただ黒い影だ。
百人の黒い影は次々にプールから上がり、屋上全体を這い回る。
みんな、自分のコンタクトレンズを捜している。
そうしてる間もコンタクトレンズは次々空から降ってくる。
僕は噛んでたガムをプールに投げ捨てた。
百人の黒い影が一斉に顔を上げ僕を見る。

僕はデカイ音で鼻を啜り影を消す。







エントリ19  毛玉     太郎丸


 それを始めて見たのは、米寿を迎えた時だった。
 私はその時、3日程前の祭日に子供や孫達がお祝いをしてくれ、出来あがってきた写真を、暖かくなってきた陽射しにゆるゆると縁側で見ていた。
「……」
 何だか声が聞こえたような気がして、メガネを外しながら庭を覗き込むと、ボタンの花の脇に子犬くらいの大きさの毛玉がいた。
 毛玉としか表現のしようがないのだが、茶色いそれはふわふわと柔かそうな毛が生えていた。
 その毛玉を見た途端、私は声をかけた。
「マリンじゃないか?」
「そうだよ。また見えるようになったのか勝敏?」
 そうだ。あれは私が小さい頃一緒に遊んだマリンだ。
 幼稚園に入る頃まで一緒に遊んでいたのに、どうして忘れてしまったのだろうか?
 当時マリンは他の人には見えないようだった。空想上の動物だと親達は思っていたようだが、私は彼と一緒によく遊んだ。あまりも母が「そんなものいないんだから」と言うものだから、私はマリンと一緒に遊ぶのを隠していたのを思い出していた。
 そのマリンがまた見えるようになったのかと思うと、私は白くなった頭の天辺まで嬉しさで満たされ、そしてそれは口から溢れ落ちた。
「マリン懐かしいな」
「そうだぞ勝敏。久しぶりなんだ」
 私は縁側に誘ったマリンと一緒に、夕方まで懐かしい昔の頃の話を楽しんだ。
「それじゃ、またな」
 マリンはそういうと、昔と同じように少しづつ薄くなって消えた。

「父さん。さっき何だか独り言、いってなかった?」
 嫁の恵子さんが聞いてきたが、マリンの事を話すわけにはいかない。彼は今だって他の人には見えないのだ。
「いや、そんな事はないよ」
 私は、夕食を終えると明日もマリンに会えるだろうかと少し興奮しながらも、早めに床についた。

 翌日、いつものように散歩に出かけるとマリンが待っていた。
「一緒に歩こうか」
「おぉ、そうしよう」
 私達は、途中で話し込んだりしながらも、楽しく散歩をしていたが、途中で最近ボケ始めたという噂の、近所の源さんにあった。
 源さんの体には、真っ白い竜のようなものが巻きついていた。
「源さん。それ!?」
「勝っちゃん。たっちゃんが見えるのか?」
「おぉ、見えるとも。たっちゃんていうのか、源さん。マリンは見える?」
「そのふわふわしたのがマリンなら、見えるよ」
 同士だ。嬉しくて私達は高らかに笑った。それは近所中に響いた。

「斉藤さん所のおじいちゃん。ボケたのかしら?」







エントリ20  記念樹     立花聡


 目を覚ますと、日は陰りだしていた。夕陽に照らされ表情を変えた空をみて、由季子は自分が随分と眠ってしまった事に気が付いた。隣で寝ている幼い息子は、まだ安らかな寝息を立てていた。
「おい。おーい」
 夫の呼ぶ声がする。
「あら、帰ってきたの」
「手伝ってくれ、なかなかに重たいんだ」
 夫は子供の背丈ほどの苗木を手に抱え、玄関に立ちすくんでいた。
「あら、どうするの、そんな木を買ってきて」
「買ったんじゃない、もらったんだ。いいから、早く手伝ってくれ」
 由季子は夫の手元を支え、玄関口から出ようとした。すると、奥から息子の泣き声がする。
「あら、やだ、起きちゃった」
「おい、勝手に手を離すんじゃない」
「ごめんなさい、でも泣いてるから。待っといて」
 夫は苗木を足に乗せられながら、妻のパタパタと走り寄る音を見送った。
「あー、ごめんね。お腹がすいたのかなー」
 半音上がった声で赤ん坊に話し掛ける。息子は手をしかりと握りしめ、固く瞼を閉じて、その隙間から涙を見せている。由季子はお尻を触ると、湿った柔らかな感触が伝わった。
 おつむを替え終えた由季子が顔をあげると、夫が窓の先で体を斜めに傾けて苗木を引っぱっている。由季子の視線に気が付くと、大きく苗木を指差す振りをして、口を動かした。
「……だってくれ」
 夫の声が途切れて伝わる。窓を開け、首を傾けると、
「はやく手伝ってくれ」
「はいはい。ちょっと待っててねー、ユウくん」
 由季子は息子に手を振り、つっかけを履いた。
「どうするのよ、これ」
「植えるんだ。裕樹が生まれた記念に」
「どこによ、こんな狭い庭? 大体なんの木なの」
「桜だ。叔父さんとこからもらってきた。おい、スコップもって来てくれ」
「ちっちゃいのしかないわよ」
「いいから」
 由季子がスコップを探して戻ってくると、まだ蕾のままの苗木を夫は眺めている。
「はい」
「こんなのしかないのか」夫は赤と青で塗られたプラスチックのスコップを掲げた。
「だって、裕樹にもらったお下がりのおもちゃだし」
「もういい、もう一回行ってくる」
 夫はキーをかちゃかちゃ鳴らすと、車に向かった。
「どうするのかしらねー、ユウくん」
 由季子はぷくぷくと丸い息子の頬を突つく。裕樹は小さな目を開いて、窓に立てかけられた桜の木を見ている。
「ユウくんの木なんだって」
 もう一度頬を突つくと、裕樹は頬を上げて笑った。
「あんたほんとに分かってるの」
 由季子も微笑んだ。







エントリ21  桜色の扉     さとう啓介


 白いレースの向こうから柔らかな春の陽射しが差し込んで、昨夜までの慌ただしさが嘘のようだ。
 この春、私は引越をした。念願の一人暮らしだ。
 深夜二時までかかって部屋の片付けが終り、そのままソファーで寝ていたようだ。
 真新しいカーテンを開けると、外には大きな桜の木を見下ろす事が出来た。小さな公園の端っこにはベンチがあり、一人のお婆ちゃんが何をする事もなく、ただそっと座っていた。
 その姿はどこか懐かしさを感じさせ、買い物に向う途中ふっとその姿が思い出された。
(誰なんだろう?)

 次の日の朝もベンチにお婆ちゃんは座っていた。私はパジャマを着替え、化粧もそこそこに公園へ行ってみた。
 桜は少し散り始めていた。淡色の小さな花弁が風に舞っている。公園にはお婆ちゃんしかいなかった。白い清楚なワンピースを着て聡明な雰囲気を漂わせていた。私は大きな桜の木を見上げながらベンチへ向かった。
「桜、綺麗ですよね」
 さり気なくそう言ってお婆ちゃんの隣に腰掛ける。
「ええ、そうね。香りがとても好きなのよ」
「香りですか?」
 桜の香りなど私はあまり感じなかった。
「お婆ちゃん、よくここに座ってますよね、私このマンションに住んでるの」
「そうなの」
 お婆ちゃんは一度も私の方を向いて話さない。横顔は穏やかに微笑んでいる。
「桜ももう散りますね」
「そう、もう散ってしまうの? だからなんだね」
「だからって?」
「この香り。ほら甘い香りがするでしょ」
 この時私は分かった。お婆ちゃんは目が見えないのだ。だから私も見ないし、香りが良く分かるのだ。
「お婆ちゃん、もしかして目が見えないの?」
「ええ、もう何年も桜を見てませんねぇ」
 そう言って、微笑んだ横顔には小さな陰りがあるように見えた。

 私はお婆ちゃんをお部屋に招いた。初めての訪問者である。小さなカップに紅茶を入れてお婆ちゃんに持たせてあげる。
「お砂糖入れ過ぎちゃったかもしれない」
「いいのよ、甘いのが好きだもの」
 私はお婆ちゃんとそれから少しお話しをしてお家まで送ってあげた。
 お婆ちゃんも私と同じ一人暮らしだった。どこかで見た気がしたのは、私の田舎のお婆ちゃんと同じだったからだろう。私のお婆ちゃんも目が見えないのである。でもああやってちゃんとやれるって私はすごく恰好良いなぁと思う。

 そろそろ出掛けなくては。今日は私も入学式なのだ。
「先生一年生かぁ」

 私に二つの桜色の扉が開き始めた。







エントリ22  トランスファー     犬宮シキ


 ぼんやりしていると、見知らぬ駅だった。またか、と呟く午後三時。おやつの時間ですと心の中で呟いて、私は思いっきりのびをする。
 この超能力に気付いたのはまだ高校の頃だった。通学中の電車で、いきなりこの力が発動したのだ。もちろんびっくりした、そしてガッツポーズ。退屈していたのだと思う。若者なんてそんなもんだ。ある日いきなり、自らが超能力者だと気付く。誰でも一度は憧れる場面だろう。その力とは、瞬間移動。便利きわまりない、欲しい超能力ランキングでは大分上位に入るであろう力である。もちろん一位はフォースだ、遠くにあるリモコンとか取ったりするのに便利だし。ただこの超能力、発動には条件があった。
 まず、電車の中でないと使えない。車も船も飛行機も駄目だ。地下鉄、路面電車は大丈夫、何故か汽車は不可。電気で動くものの中でないと駄目らしい。
 そして、行き着くところも電車の中。例えがローカルで恐縮だが、阪神に乗っていたらいつの間にか京阪と言うこともある。ちなみに今では移動距離にはどうも際限無しのようだ。
 最後に、眠らないと駄目。最初も居眠りをしてしまった時だった。目を開けると知らない駅で乗り過ごしたと思ったのだが、それはどう考えても別の線で首を傾げながら家に帰ったのだ。そんなことが何回もあって、結局超能力だと気付いたのは随分後だった。それからはどんどん移動距離も伸び続け、私は居眠りだけはしないようにと必死で電車の中で起き続けた。高校を出て、大学を出て、働いて……。辛い日もあった、うっかり眠ってしまって気付けば家から三百キロとかもあった。気付けば逆方向の電車の中ということもあった。
 その日は本当に疲れていて、電車の中だというのにまるで沈むように眠ってしまった。目を覚ますと知らない駅、いつかの映画に出てくるような駅で、駅名は読めない字で書かれていた。ああ、とうとう祖国脱出だ。それから僕は、眠ったり、起きたりを繰り返して、電車から降りない旅人になった。お腹も空かない、トイレにも別に行きたくならない。起きて寝て、移ろう窓の外を見ていた。一つとして同じ風景はない。ビルの横、路地の奥、森の中、海の側、遺跡の眠る砂漠。人工も自然もそれぞれの極致を車窓から覗き見た。
 もしかしたら死んだのかしら、と思う。この電車は故郷に着くんだろうか。解らないな、何処に着くのかもさっぱりだ。とにかくこの駅の名前は読めない。







エントリ23  春が来た     蛮人S


 ノックの音がした。
「春が来たよ」と彼女が云う。
 部屋には風が無い。ドアの外、マンションの廊下も同様だ。空気は冷たくもなく暖かくもなく、眩しくも暗くもなく。有るとも無いともつかぬ音楽が密かに流れて。
「冬さえ無いのに?」
「階上庭園に行こうよ。南棟の」
 北棟から南棟を上るには、いったんショッピングモールへ降りる。居住者向けのエレベータが十八基、この階に停まるのが五基、僕らはそのひとつに乗る。階数表示が途切れるのはオフィス階を通過する間で、僕はそこには勤めてないからどんな所かは知らない。
 エレベータを降り、管理人に会釈してオートロックのガラス扉を抜け、十四段の階段を下りればモールの北端に出る。
「庭園に行くのは初めてだ」と僕は呟く。
「そうかな」と彼女が云う。
 歯科クリニック、スーパーの前を抜け、緩やかな螺旋のエスカレータで中央モールへと降りる。春のセールを告げる桜の飾りつけがゆっくり回る。僕が作業したものだ。休日の中央モールは人が多く、特にJRからのエスカレータは家族連れが多い。水族館に行くんだろう。でも階上庭園への長いエレベータに乗ったのは僕らの他にはない。

 扉が開くと、妙に軽く暖かな風が押し寄せ、僕は胸の上まで空気を呑みこみ、頭がぼうっとなった。
「思い出した?」と彼女が云う。
 風は匂いを含んでいた。
「この公園はね、」
 ひらひらと彼女は回る。桜の花弁を巻き込みながら云う。
「このビルを建てる時、地上からそのまま持ち上げた」
 彼女は回り続ける。
「じゃ、あの座ってるお爺ちゃんも一緒に?」
「そうかも」
 ロストワールド。
「……でも僕はお爺ちゃんじゃない」
 もう、沢山だった。
 風は軽さを含んだまま、どうと膨らんで僕を圧し続ける。
「お爺ちゃんじゃない。僕は全て思い出している。でも、もう忘れた」
 彼女が微笑んだ。
「知ってるよ」
 桜は見る間に散っていく。みるみる、見る間に渦を巻き、彼女の影が四散する。
 地上二八〇メートルの並木道から、天高く桜色の渦が飛び去り消える。
 春なんてイベントだ、と僕は呟く。決して居座るものなどない、それが救いだ。
 緑の芽が吹いて、ただ春は終わるのだ。

 一人に戻った僕は、部屋のドアを閉め、鍵をかける。
 郵便物を机に放り、冷蔵庫にあった缶ビールの口金を引く。パソコンを開いてメールを並べたが、見るべきものは見つからなかった。
 ティッシュを一枚抜く。花粉の症状が出ていた。





エントリ24  真空ストランズ     伊勢 湊


 彼の死に必然性は見受けられない。とはいっても僕には分からないというだけの事だ。僕一人の視点にどれだけの真実が含まれるかかなり謎だし、ましてやただの主観を真実として伝えられても困る。ただ確かに僕は彼が急行電車に飛び込む前に酒を酌み交わした最後の人間だった。僕は警察立会いのもとで年老いた彼の母親に事実だけを語った。

「昔と何も変わらないよ。全てにおいて、完全に自由だ」
 その語り口調はかつて旅の途中に異国の地で出会った頃のそれと変わらないように思えた。あの頃僕たちは確かに完全に自由だった。次の日の予定もなく、課せられた役割もない。唯一の制約といえば所持金くらいのものだった。
「羨ましい限りだね」
 彼は今でも自由に近かった。独身の有名カメラマン。世界の美しい風景だけを撮り生活していける、宝くじに当たるより確率の低い夢の形。僕は旅の生活からは完全に足を洗い、妻と子供一人の家族のために、いわゆる普通のサラリーマン生活を送っていた。
「ロードトレインって憶えてるか? そうあのトレーラーの長いやつさ」
 僕たちはむかし自転車で大陸を縦断しているときに出会った。
「ああ、側を通り抜けるとき真空の風を作り出すやつだろ? どうしたんだ急に?」
「最近あの風景を思い出すんだよ。自転車で側を走ってるとすぐ側をロードトレインがクラクションを鳴らしながら通り過ぎていく。するとそれが作り出す風が自転車ごとオレを引っ張って、そして加速していく」
「あったな。確かに、風に乗ってたな」
 電車に飛び込んだと聞いたとき、そんな話をしたことを思い出した。

 プラットホームの一番後ろに立つ。確かめてどうしようというわけでもない。誰かに言うつもりもない。ただそうする権利くらいあるように思えた。背後から電車が迫ってくる音がする。急行だ。この駅には止まらない。ゆっくり黄色い線の内側に足を運び、そして電車が来たと同時に並行して走りだした。
 風の塊が僕を包んだ。明らかに自分の力とは違う力が僕を加速していく。と同時にそれは僕を車体へと引き寄せる。求心していく。
 ふと窓の向うの誰かと目が合った気がした。ドアにもたれかかって外を見る、どこにでもいそうなちょっとネクタイの疲れたサラリーマン。そして僕は、急速に減速していく。
 安心して、立ち止まり、悔しくて、泣いた。涙こそ出てはこなかったけど遠ざかる電車の風を切る音が自分たちの泣く声に聞こえた。







エントリ25  『いろはにほへと』     橘内 潤


「いろはにほへとちりぬるを」
 唄うように喋りだす愛子に、香奈は面食らった顔をする。
「――は?」
「香奈さあ、この先になんてつづくか知ってる?」
「知らないわよ、そんなの。ってか、“いろはにほへと”までしか知らないって。ちりぬるを、って何語よ?」
 やっぱアイの感性って意味不明ねえ、と呆れ顔。
 愛子は愛想笑いを浮かべるでもなく、ふたたび喋りだす。
「いろはにほへと、ちりぬるを。わかよたれそ、つねならむ。うゐのおくやま、けふこえて。あさきゆめみし、ゑひもせすん」
「……やっぱ、わかんねえ。それ、本気で日本語?」
 大仰に肩をすくめる香奈。愛子はノートにボールペンを走らせ、書いた言葉を読みあげる。
「色は匂へど、散りぬるを。我が世誰そ、常ならむ。有為の奥山、今日越えて。浅き夢見し、酔ひもせず」
「まあ、意味のわかるようなわかんないような……漢字で見ると“ああ、わかるかも”って気はするね」
 わかんないけどさ、と笑う。
 香奈の返答を聞いているのかいないのか、愛子の言葉は、他人に聞かせる独り言のよう。
 ノートに書きつけながら、唄う。
「あめつちほしそら、やまかはみねたに、くもきりむろこけ、ひといぬうへすゑ、ゆわさるおふせよ、えのえをなれゐて」
 天地星空、山川峰谷、 雲霧室苔、 人犬上末、 硫黄猿生ふせよ、 榎(あ行)の枝(や行)を馴れ居て。
「とりなくこゑす、ゆめさませ。みよあけわたる、ひんがしを。そらいろはえて、おきつべに。ほふねむれゐぬ もやのうち」
 鳥啼く声す、夢覚せ。見よ明け渡る、東を。空色栄えて、沖つ辺に 。帆船群れ居ぬ、靄の中。
「をとめはなつむ、のへみえて。われまちゐたる、ゆふかせよ。うくひすきけん、おほそらに。ねいろもやさし、こゑありぬ」
 乙女花摘む、野辺見えて。我待ち居たる、夕風よ。鴬来けん、大空に。音色も優し、声ありぬ。
 ――書き連ねられていく、五十に満たない記号の羅列。感情とか風景とか思想とかを表現する道具は、たったこれだけの記号のみ。
 それはもう、“すき”とか“きらい”とか“ごめん”とか“ありがと”とか、たった一言の言葉がすごいとおもえる瞬間。
 香奈は感歎の吐息。
「すごっ……こんなにいっぱいあるんだ。なんていうか、言葉って――」
 香奈と、ノートから顔をあげた愛子の目が合う。同時に口をひらく。
「すごいねえ」
「意味不明ねえ」
 愛子はころころと笑った。