昨日の雨がからりとあがり、お日さまがすかり光っている。僕は汗ばむ着物をそよ風に吹きさらす。「よく晴れたなぁ」ポソリと呟く。揺れる木々、羽ばたく小鳥、流れる雲。時間はゆったり進んでいく。その全てを僕は吸い込んだ。全身に力が漲る。僕は空を仰いだ。雲ひとつない空は青い。そんな当たり前のことが素晴らしく思える。今日が何曜日かなんて知る由もない。知らなくてもいい。そういう風に思えるのは何年ぶりのことだろう。 広々と茂った芝生の上に少し寝転んで、目をつむり、耳を澄ます。聞こえるのはただ小鳥のさえずり、小川のせせらぎ、それから木の実の落ちる音。つむじの辺りがふわっと浮かび上がるような心持ち。不意にお腹が空いてきた。もう一度辺りの風景を吸い込もうと目を開けると、そこは白い壁に囲まれた密室だった。誰かが入ってきて、「パン余ってない? 」と尋ねる。僕は昼間買っておいた黒飴を舐め、さらに目を閉じる。 男子トイレのごみ箱に「ゆっくりしぃや」のゴシック体の文字が書かれた大きなサイコロ。「ゆ」の文字だけほかの文字とは不釣り合いに大きく書かれている。その横にあの偉大なコメディアンの名前。もうひとりの偉大なコメディアンのサイコロを探している最中に目を開く。 何故か安心してもう一度目をつむる。事態が把握できたのは、それからまもなくのことだった。心が風邪を引いている人に与えられた場所。そこは精神病院の一室。何故、自分がここにいるのかもわかっている。会話に困る病気。「うつ病」とも呼ばれている。回復には時間がかかるし、治療法として、薬とコミュニケーションが求められるらしい。これから忙しい時間を過ごすためのしばしの休息でもある。夜は特に行動が制限され、ベッドのシーツにくるまるしかない。精神病院特有の匂いを感じながら、暗闇に目を閉じる。朝が待ち遠しい。永遠にも似た夜の時間を一人っきりで過ごす。眠りにつければ夜明けは近い。飴玉を一つ口に入れて、またあの夢が見られたら良いと思う。今度は、もうひとりの偉大なコメディアンの夢に跳び起きた。電車の中で地震に遭ったというのに、「いや〜、しかしねぇ……」と揺れるカメラに顔を向ける。 一日のうちで唯一、心が休まる時間。朝。食事を取って薬を飲む。血圧と体温を測り、また孤独と戦う。窓から見る景色は好きだ。山の裾野を高速道路が走る。 向こう側に見える高速道路の車が恨めしく思えた。
あたしは乾き、求めていた。空は背の低い街に青黒くのしかかり、あたしが色の悪いニセモノだということを思い出させる。それでも求めてさえいれば、生きていける。「その鍵は私のよ」 あたしの手の中に古ぼけた鍵があった。小さな廃ビルの隙間から、あたしと同じくらい小柄な少女が手を伸ばしている。ゴシック調のフリルに縁取られた微笑みは作り物のように白かった。 彼女はあたしの手を取った。 安っぽいラブホテルのチェス盤のような絨毯を踏んで、並んだ茶色い扉の一つを開ける。「あなた少年みたい」と、彼女。「君こそ少女みたい」 あたしは乾いていた。あたしは彼女を求めた。硬く細い体に接吻を贈るたび、陶器のような肌が淡い桃色に染まってゆく。海色のシーツに包まれた広い円形ベッドの上で、泳ぐようにあっちこっちと体位を変えた。その度に、何か軋む音がする。きい、きい。スプリングが、悪く、なってるのかな。きい、きい。 最後まで達することなく、あたしたちはゆっくりと行為を終える。水槽のように青く透き通った円形ベッドの中で、頼りなく寄り添い浮かぶニセモノたち。それでも絡み合う吐息は甘やかで心地よかった。 あたしは彼女の薄い胸の間や、わずかに火照った股の奥に鍵をあててみた。彼女は身をよじり、違うわ、と笑った。 彼女はまたあたしの手を取った。 世界は乾き、黄昏ていた。 夕映えの迫る荒野で、低く墜ちかかる空を支えた大樹が黒く立ち枯れようとしていた。彼女は水気のない幹を慈しむように撫で、根元で干上がった小さな泉を指す。 あたしは跪いて掘りはじめる。すぐに汚れたガラス箱を見つけた。赤茶けた土を払うと、オレンジ色にはぜる大気に、胎児のように眠る白いアンティークドールが透けた。少年のような細い手足を丸めて、少女のような薄紅の頬には古い涙がいくつも弧を描いていた。「これは私よ」 これはあたしだ。彼女の顔をしたあたしだ。あたしが埋めたあたしだ。幼い過ちを全部捨ててしまえば、幸せになれると思ったのに。今のあたしは乾いたニセモノでしかない。「私を信じて」 同じく人形の姿をした未来の私が言う。 錆びた鍵穴から古い空気が漏れて、あたしは涙の匂いを思い出しそうになる。「この子を許してあげて」 怖い。小刻みに震える腕で、あたしは未来の私の胸にすがり、接吻した。何度も、何度も。きい、きい。乾き、朽ちかけたあたしたちの関節が軋み、鳴りやまない。
朝、目覚めると、胸の奥から声が聞こえた。「お前は今日死ぬんだよ」と。なぜだろう、あたしは疑うことなく、小さく頷いた。毎日歩いているこの道も、もう明日通ることは無い。そう考えると、いつも吠えてくる犬も、可愛く見えてくる。「バイバイ」そっと頭を撫でてやる。毛のかすかに湿った感じと、暖かい体温をしっかり掌に刻んでいく。「おはよう」と、もう明日言うことはない。そう考えると、いつもより大きな声で、みんなの耳にあたしの声を残す。笑顔で、誰よりも笑って、みんなに「いい子だった」と思っていてほしいから。少しでも、「素敵な私」でいたい。そうだ、今日は、今日だけは、いつもより「素敵な私」で居よう。嫌な仕事も、誰よりも進んでしよう。些細なことでも、ちゃんと「ありがとう」と言おう。間違いをしたら、ちゃんと「ごめんなさい」と言おう。そして誰よりも笑っていよう。誰よりも幸せだったと、みんなに見せよう。この帰り道も、二度と来ない。あなたと歩いているこの道も、夕日で真っ赤な空も、つないだ手の感覚も、全部覚えていよう。あなたが好きだといった笑顔を、誰よりもあなたに見せよう。あたしが好きなあなたの笑顔を見るために、何度だって笑わしてあげよう。あなたが好きで、好きで、どうしようもなく好きなことを、言葉にして伝えよう。「好きだよ」決してあなたが忘れないように、きちんと伝えよう。あなたの中のあたしが、決して汚れないように、最高の彼女で居よう。真っ暗な部屋の中で、胸の奥から声が聞こえる。「お前は今日死ぬんだよ」そうか、あたしは今日で終わってしまうのか。「もう、後悔はないか?」後悔・・・あぁ、もっと犬を可愛がってあげればよかった。あぁ、もっと大きな声で挨拶すればよかった。あぁ、もっとみんなに優しくしていればよかった。あぁ、もっといいコでいればよかった。あぁ、もっと、あなたに好きだと言えばよかった。何度も何度も、繰り返し言えばよかった。よかったのにだめ、このままじゃ死ねない。いつの間にか胸の奥の声は止んでいて、あたしは手ににぎっていたナイフをそっとポケットにしまう。いつでも、死ぬことは簡単だ。だけど、こんなあたしじゃまだ死ねない。もっと「素敵な私」がいるはずだ。明日はもっと、素敵な私で居よう。そして私は目をつぶり、魔法の呪文を唱えるんだ。「お前は明日死ぬんだよ」とそうすれば、あたしはずっと「素敵な私」でいられる。
※作者付記: 受験でしばらく休んでいたため、だいぶ勘が鈍っています。まだまだ未熟な文ですみません。
その神様はいつだって、僕をやさしく迎え入れてくれた。 小柄で気の弱かった僕は、いじめっ子達の格好の標的になっていた。特に学校からの帰り道は、何もされずに家まで無事にたどり着いた記憶がない。我慢できなくなった僕は、ある計画をたてた。校門ではなく、普段は禁止されている裏門からいつもと違う道を通って家に帰ろうと思ったのだ。 果たして計画は成功した。いじめっ子達は誰も追ってこない。僕は嬉しくなって、スキップしながら通い慣れない道を歩いた。「あれ? ここ、なんだろう」 鬱蒼と茂った木々の奥に、赤い鳥居がのぞいている。どうやら古い神社らしかった。僕はおそるおそる神社の敷地に足を踏み入れた。 人気のない神社は薄暗く、湿った黴臭いにおいがした。そのまま祠の裏にまわるとそこは崖になっていて、伸び放題の雑草の中にたくさんのゴミが捨てられているのが見えた。「うわ……なんだこれ」 僕はゴミの中に、何冊かの雑誌が混ざっているのに気がついた。そっと近づいて確認してみる。その雑誌には今まで目にしたことのない、女性の裸の写真が載っていた。 腹の奥で、何か硬いものが熱を孕んで大きくなってゆくのがわかった。心臓が口から飛び出しそうになって、息が苦しい。いけない、と思いながらも僕の視線は、風雨に晒されてボロボロになった写真に釘付けになった。 それ以来、学校の帰りにあの神社に寄り、こっそり裸の載った雑誌を見るのが僕の日課となった。日常から切り離された空間で、僕の魂は自由だった。お母さんも先生もいじめっ子達も誰も知らない、僕だけの秘密の場所。 ここの神社ではきっと「エロの神様」を祀っているんだ! 毎日のように通ううちに僕はそう思うようになった。エロの神様は、いつでも僕をやさしく受け入れてくれる。どんなときでも裏切ったりなんかしない。僕の聖なる儀式は小学校を卒業するまで続いた。 中学生になった僕は、部活動を始めて何かと忙しくなった。そしてもっと刺激的な本やビデオが簡単に手に入るようになり、やがて彼女もできて、あの神社のことは徐々に記憶の中に埋もれていった。 あれから何十年もの月日が流れて、大人になった僕は再びエロの神様に会いにきた。境内はきれいに整備され、あの頃の陰鬱とした面影はどこにもない。神様は今頃、どこでどうしているのだろうか。 神社からの帰り道、僕は久しぶりにエロ本を買って帰ろうと本屋へ向かった。
「じいちゃん。卒業式で歌う仰げば尊しって知ってるかい?」「そりゃ……。随分昔の…。和菓子の丁稚の歌だな」「でっち?」「うん。今でいやケーキ屋の新人社員だな。まあ簡単にいやお饅頭屋だ。寮付きというよりゃ住み込みで働く饅頭屋だ。で饅頭、和菓子ってのは餡子が大事なんだな。昔の人は早起きでな、暗いうちから小豆を茹でて絞って捏ねてってな事を繰り返す大変な作業だ。でその熱い餡を冷ますのに団扇で扇ぐんだが、入ったばかりの新人だから眠い。それでどうしても居眠りしちまうんだな。それで、【扇げば、うとうとし、和菓子の餡】て事だ」「尊しじゃ無くて、うとうとしってこと? じゃあ次の、教えの庭にも はや いくとせってのは?」「……。店じゃ饅頭や団子を売ってるんだが、あんまり眠いから交代で昼寝をするんだな。だけど、昼間っから布団に寝るわけにゃいかねえ。ってんで押入れで寝ちまう。そんな事を長い間していると押入れが家みたいになってきて、こっちは台所とかここは廊下なんてふうに区別を付け始めるようになってくる。でこの歌に出てくる奴は信心深くってな。功徳を積もうってんで朝晩お釈迦様にお祈りを欠かさねえ。押入れの中でもお祈りをしてるって寸法だ。でお祈りの言葉ってのが本当は長いんだが、どうにも眠くっていけねえから押入れの中に決めてある庭でお天道様の方に向かって手早くやるわけだな。それで【押入れの庭にも、早い功徳せ】ってことだ」「ふーん。じゃあ次は?」「うーん。…実はこの後事件が起きてな。表の店じゃ商売してるけど、奥じゃ丁稚は押入れで寝てるもんだから無用心でいけねぇ。居間にはいつも何代も前からの大事な皿が飾ってあるんだが、これじゃこそ泥が入っても判らねえってんで、昼寝しないで居間で見張りをする当番が出来る。でその日のお守り番は、伊藤村から来たトシって奴だった。少し曖昧なんだけど、まぁある年のある月にっていうから、いつだかは分からねぇけどもってことなんだな。まぁいつでも注意しなくちゃいけねぇよって事で、いついつと決めてねえ所が歌なんだなぁ。【お守り番、伊藤トシ。この年月】ってことだ」「それで?」「うん。最後はこのトシって奴が居眠りでもしちまったんだろう。居間にこそ泥が入って、ゆっくりいきゃ判るめぇと、いざり寄って皿を取ってバーッと逃げた」「で、オチは?」「皿を持ったまんま歌った後で拍手したもんだから、落とした」
※作者付記: 「しかしじいちゃんもいい加減だなぁ。それにこの歌って三番まであるんだけど」「1000字じゃ無理だ。後はドラえもん(猫:MAOさん)にお願いしなさい」
ベランダに突っ立った清四郎は、昼間の光を浴びて、洗濯機を眺めていた。室内の雄大は、雑務をこなす兄を尻目に、携帯型ゲーム機にペンを走らせていた。日曜日。あ、とか、くそ、とか小さく喘ぐ弟を清四郎がちらっと見て、また洗濯機に目を戻した。カチッと切り替わる音がして、洗濯機が、すすぎから脱水に移行する。今度は、ゲーム機から顔を上げて、雄大が兄を見た。右手に握ったペンをふと、兄の方に向ける。気づいた清四郎が弟に言った。「なにしてるんだよ」 雄大は悪びれずにゲームソフトの名前を口にした。「兄ちゃんもこれで動きそうだったから」 弟が真顔でペンを持った手首を振る様子に、清四郎は鼻で笑った。「動くかよ。俺動かせたら、たいしたもんだよ」 微笑んで、再び弟はゲーム機に筆を落とした。俺、ゲームの中で暮らしてえなあ、と呟いた。 洗濯機の脱水が終わり、清四郎が洗濯層にベタベタ張りついた洗濯物を取り出していると、唐突に雄大が声を上げた。虹だ、と。 清四郎が顔を上げ、ベランダから遠くあまり遮るもののない風景を見ると、薄ぼんやりと晴れた空に、虹が架かっていた。だが、兄の心には何も感じるものがなかった。別段に気にするほどのこともない。不思議に思って弟を見ると、まだゲーム機に集中していた。「雨が降ったあと、虹が出てきたよ」「…ゲームの話かよ」「うん?」 顔を上げた雄大は、兄の指差す彼方を見て、あ、と呆けた声を上げた。へえー、と漏らして、また目を伏せる。ふと兄は弟が心配になった。「ところで、お前行くとこないのか」「うん? 何で?」「別に」 少し言いよどんで、清四郎はベランダに洗濯物を干し出した。一つしかない物干竿に、シャツやトレーナーを並べていく。洗濯バサミを小さなカゴから取り出して、一つ一つ摘んでいく。日が少しずつ落ちて、虹はすでに消えていた。 携帯電話の着信音が鳴った。雄大は顔を上げもしない。兄が携帯を取って、ベランダに出た。洗濯物はもうすっかり干し終わっているのに、窓を閉めた。部屋の中で、顔をしかめるような、にやけるような顔で話す兄を見て、弟はゲーム機のペンを置いた。 清四郎が部屋に戻ると、弟は出かける用意をしていた。兄がどこに行くんだと尋ねる。雄大は、背中を向けたまま言う。「山へ芝刈りに」 兄は負けずに言った。「…じゃ、俺は川へ洗濯に」 さすが兄ちゃん、と呟いて、弟は出ていった。 連絡が途絶えた。
大きなビルの屋上に立って、壊れそうな金網とにらめっこしていると何だか吸い込まれそうになった。時々風に煽られてぎぃぎぃと軋む金網の向こうには、もう随分見慣れた街と人と空気と犬が在って、その全部がすごく小さかったから可笑しくなった。あたしの笑い声は屋上で高らかに響く。「ねぇ、そんなに笑う事ないでしょ」 掃除のおねえさんがいた。ピンクのゴム手袋をはめた両手と、淡いリップグロスが象徴的な美人だと思う。「ほら、見てよ。豆粒がいっぱいあるみたいだよ。星を上から見てるみたい」 あたしがそう言うと、おねえさんはピンクのゴム手袋を脱ぎ捨ててタバコをぷかぷか吸い始めた。その様子がかっこよくて見惚れていたら、おねえさんは他の景色になんかこれっぽっちも目を向けずに、あたしにずんずん近づいてくる。ずんずんずんずん。「そんなにこの街を笑わないでよ、あんただって豆粒みたいなモンでしょ。ここはアタシが生まれ育って、巣立っていった大切な街なの。あんたみたいな小娘にバカにされたらたまったモンじゃないわ。あら、それにしても本当に豆粒みたいね。ヤダ何これ、ねぇ、ちょっと面白いじゃない。涙でそう。あ、もうダメ」 ケタケタと笑い出したおねえさんを見て、あたしも負けずに笑い続ける。この世の終わりかと思った。 腹がよじれて疲れが見えてくると飽きがきて、あたしたちは油を撒くことにした。油を撒いてこのビルを燃やしてしまおう。廃ビルだからいいのよっておねえさんが色っぽく言うから、あたしもそうだねって言った。 風が強くなってきた。火遊びをするには絶好の風だ。あたしもおねえさんもどんどんテンションが上がってくる。おねえさんが大枚はたいて買ってきた灯油が、ポリタンクから慇懃無礼に屋上を満たしていく。「ねぇ、どうして廃ビルの掃除なんかしてたの?」「仕事よ」「仕事かぁ」「そうよ」「あたしも将来その仕事がしたいな」「廃ビルの清掃業?」 あたしたちはお互いに顔を見合わせてまた笑い始めた。滑稽で滑稽で仕方がない。現役の廃ビル掃除女と、それを志す小娘。 廃ビル掃除女はゆっくりと一服してから、灯油が満たされた屋上にポイとタバコを投げ捨てた。屋上は瞬く間に炎に包まれる。すごくキレイだ。あまりキレイだから、あたしは街と人と空気と犬が星みたいだなんて嘘をついたことを思い出した。「廃ビルが灰ビルになるね」 炎上するビルの屋上であたしたちは笑う。
鉄の階段を登り、突き当たったところにドアがある。ひとりの中年男がそのドアを連打している。古い木造アパート全体が揺れるような勢いだった。 あたかも、逢魔が刻。 しばらくしてドアが開くと、内側から痩せた青年が出てきた。「何の用ですか」 夕日が横から差して、その顔を赤く照らした。倦怠感が漂っている。「何の用かだと」 と、中年男は怒声を上げながら、部屋に押し入った。中は思った以上に狭く、家具がニ三あるだけで、恐ろしく殺風景だ。が、その隅に畳まれた衣服が並んでいるのが見えた。女の匂いが仄かに残っている。「妻を返せ。お前と別れると約束して、この部屋に入ったんだ。いつまで待っても出てこないのはどういうことだ」 中年男は青年に掴みかかるような勢いだった。青年は端正な顔をしかめて、女のような唇を震わせた。その姿が、男の怒りをさらに助長した。「不倫をした妻は許せん。だが、もっと許せないのは妻をたぶらかしたお前だ」「ご主人」と、青年がやっと口を開いた。「お気持ちはわかりますが、僕たちは過ちを犯したことは一度もありません。それに僕は風邪で、ずっと寝ていたのです。奥さんはここには来ていません」「嘘をつくな。この部屋に妻がいることは間違いない」 男は青年の言葉を信じていない。「出て来い! これ以上私を騙そうとするなら、お前を殺してやる」 言いながら、狭い部屋を見渡した。勝手に襖を開けたり、トイレを覗き込んだりしたが、人が隠れるような場所はない。 窓の外は小さなベランダがあって、物干し棹が渡してある。幾つかの洗濯物が干したままだったが、まさか、窓から逃げ出したとは思えなかった。ずっと、アパートの外で待っていたのだ。その間に、人間ひとりが消えるなんてことはありえない。 結局、男は妻を見つけることができなかった。「気が済みましたか」 青年の皮肉な声を後にして、男は歯軋りしながら外に出た。 すでに、夕闇が迫っている。古いアパートの周りを包む木々がざわざわと鳴って、冷たい風が男の頬を撫でた。 先ほどの部屋のあたりを見上げると、例の青年が洗濯物を取り込んでいるのが見えた。大きなコートを抱えるようにしてロープを解き、重そうに降ろした。 ここで妻を待っていたとき、あんなコートは干してなかったはずだ。いや、吊るされていなかったと言った方が正しいのか……。 どちらにせよ、男はその後、妻と再び会うことはなかった。
深夜2時。ラジオから男の声が言う。「これから、今すぐ、お前を殺しに行くからな!」僕はたまたまその放送を聞いた。日本中でなら何百人かが聞いたはず。僕はその何百人かのうちの一人。その「これから」以降、夜が明けるまでに全国で14人が殺された。関連性があるかどうかは不明。朝のNHKが言う。14件の殺人事件のいずれ事件でも犯人はまだ逮捕されてはいません。その後の民放が言う。恐ろしい問題が不可解なトラウマで社会の責任が慎重な対応を求められるのです。何言ってんだ?そして犬のエサのCM。新しい犬のエサのおいしさについてちょっとだけの嘘をつかれる。だが、まず、試作品を試食するのがヒトかイヌかを明らかにせよ。テレビを消して、再びラジオ。またしてもラジオの男の声が言う。「今度こそ、これから、今すぐ、お前を殺しに行く!」僕は窓に寄り、カーテンの隙間から下を覗く。雪かきする向かいに住むおばさん。他に人影なし。ドアの鍵、窓の鍵、天井の節穴。全部確認。二回目の「これから」以降に、今度はこの町内で6人が殺された。お昼のNHKが言う。トナリムラ町で主婦ら6人が何者かにより殺害されました。玄関のチャイムが不意をつく。ピザ屋です。お届けです。ピザ屋は殺し屋。ピザ屋はFBI。ピザ屋は、ときどき、ピザ屋じゃない。頼んでませんよ。でも、住所はあってます。マチガイですよ。でも、お名前もあってます。マチガイにマチガイないよ!とにかくドア開けて下さい。マチガイなくマチガイだよ。だって、ピザ屋はさっき来て、もう食べてる!何だかオカシイ。目が回る。ぶっ倒れる。あー、先に来たピザ屋が、ピザ屋じゃなかったんだ。今来たピザ屋が、ピザ屋だったんだ。壁と天井がギュンギュン回る。そう言えば、頼んだピザにサラミは乗ってないはず。でも、今食べたピザにはサラミが乗ってた。毒入りサラミで怪死!僕は怪死する。僕の最期は怪死。僕を怪死させるのは、あのラジオの男。声音を変えてピザ屋のふりしたラジオの男。どんなヤツだった?顔は覚えてる?ピザ屋の顔なんか見ちゃないよ。せめてテレビにしてほしかった。そうすれば、変装を見破れたかもしれないのに。その時、ラジオからあの男の声。「本当に、これから、今すぐ、お前を殺しに行くからな!」オカシナ男だ。僕はもう、君に殺されているところだよ。……そうか。わかったぞ。これはきっと録音された僕の声、ラジオ・トリックスだ!
「なに? 払えない?」 老婆は、高嶋英弘と明代を睨んだ。「で、ですが、こんなに多額の支払いになっているなんて――」「そうですよ、そんな、非常識です」「女だからって、甘く見られちゃ困るね」 老婆が片肌脱ぐと、背中に牡丹の彫り物が現れた。「この緋牡丹お梅、品がないと言われりゃ地球の裏までだって仕入れに行く、数が欲しいと言えば市場を丸ごとだって買い占める。お客様の申し出を断った事は一度だってないんだ」 老婆は、ずかずかと家に上がり込む。「あっ」「昌夫、逃げて!」「払えないんなら、身体で払って貰うよ!」 奥の部屋のふすま戸に手をかけ、思い切り引っ張る。「往生せいやあああっ!」 ふすまもろとも、昌夫が飛び出して来た。 老婆はそれを身体半分さばいて受け流し、喉笛を掴んで持ち上げる。「活きがいいねぇ」 そのまま、老婆が玄関から外へ出ようとすると。『そこまでだ!』 周囲をぐるりと機動隊と報道陣が取り囲んでいた。家々の屋根には、狙撃部隊が配置されている。「そういう、やり方かい!」 老婆は昌夫を――投げ捨てた。「撃てーーーー!」 ゴム弾の一斉射撃を受けながら、老婆は止まらない。「ゴム弾、足りません切れました!」「制止が最優先だ!」 警官達は、暴徒鎮圧用に密かに配備されているハローポイント弾を装填した。「微塵になれ!」 警官達が引き金に指をかけたその時。「待って!」 警察達の前に現れたのは、昌夫だった。「昌夫!」「危ない、逃げて!」「僕が、僕が悪いんだ。僕が後先考えずに、買ってしまったから」「坊や……」 驚いた顔で、老婆が昌夫を見つめる。「ごめんなさい、おばあさん。お金は絶対払います。今すぐは無理だけど、大きくなったら、必ず払います」 昌夫は頭を下げる。「ごめんなさい」「フフ」 アザだらけの顔で、老婆は笑う。「楽しみにしてるよ、支払ってくれる、日をね」 警察に連行さ老婆を撮るテレビカメラの前に、昌夫が立つ。「おいっ! 何をする!」 カメラマンが怒鳴るが、昌夫はカメラにしがみついて叫んだ。「日本のみなさん聞いて下さい! おばあさんを責めないで下さい! 裁判長さん、おばあさんを無罪に!」 振り払おうと、カメラマンの助手が昌夫を蹴るが、昌夫の手は離れない。「そして、この悲劇が二度と起こらないように――」 昌夫は、カメラを覗き込んで、はっきりと言った。「遠足のおやつは、三百円までにしましょう!」
それがっすね、他でもねえ、女房のことなんすが、どうも納得出来ねえんすよ。何事もスパッと割り切りすぎちゃうっちゅうか……サンドイッチなんかもね、妙に正確に切れてて、電子ノギスで測定してみんと辺の長さがナノ単位で合ってて、対角線なんかルート2の有効桁数がギガ超えてるんすよ。 そんでね、こいつはひょっとするとって思ったんすけど、本人に聞いて、どがちゃがになってもなんだし、祝言のとき大家さんが『何かあったら、真っ先に相談に来なよ』って言ってたことを思い出して、来てみたわけっす。 大家さん、はっきり言ってくんない。おチヨはロボットなんだろう。 おやまあ、八っつぁん、朝から随分お疲れのご様子で、何を言うかと思えば、とんでもない事を……。いやさ、お前さんもいっぱしのプログラマーで通ったお人だ。そこいら辺の事情は飲み込んでらっしゃると思ったから、RW25−s型(通称おチヨちゃん)を紹介したんじゃないか。 それも、こちらから無理繰りってわけじゃない。話を向けたら、二つ返事で承知したんじゃないか。忘れたたぁ言わせないよ。 それをたかがパンの切り方で、チマチマとイチャモンを付けに来るとは、お前さんも呆れたお人だネエ。丸い卵も切りようで四角、キッチリしてていいじゃないか。 いや、サンドイッチはほんの一例でして、起床時間から、布団の上げ下げ、洗濯物の畳み方、何から何までカチンコチンの杓子定規で、息が詰るんでさあ。ロボットなんだろう。後生だから、教えてくんなさいよ。 なんだよ、細かい人だネエ、いいじゃないかそんなこと、キチンと暮らせて便利なもんだろう。ねえ、キチンキチンと……ははあ、わかった。わかりました。お前さん遠まわしに言ってるが、つまりは房事の苦情が言いたいんだね。いいや「房事」さ、夜の方が杓子定規で気に入らないと、そう言いたいんだろう。図星だね。 何だよ、いきなり話を変な方に持っていきやがって。そうじゃないよ。そんなこと言ってんじゃねえよ。ロボットかどうか聞いてるだけだよ。何考えてんだこのエロジジイ。 エロジジイだと。言いやがったなこの石頭。職人風情が人間の嫁を貰おうなんて十年早いんだよ。お前にゃぁロボットでもお釣りが来らあ。 ほら言った。やっぱりおチヨはロボットなんだな。 しつこいよ。ロボットだったらどうだって言うんだい。 ロボットだったら、だっ、だったら、夜はスイッチ切っとかあ。
その国では、満一歳になって初めての満月を迎えた猫は魔法を使えるようになる。 むかしむかし、猫の祖先が大地に落ちて帰れなくなった月の女神を国でいちばん高い山まで連れていってあげた。そのお陰で帰れた月の女神からのお礼なんだそうだ。 猫の魔法はみなそれぞれ違っていて、今宵、早春の月明かりに照らされて魔法を授かった三毛猫ミケは、身体にじんわり染み込んだ月光がどんな魔法なのかを早く試してみたくてうずうずしていた。「さあ、こちらへおいで、ミケ」 白髪の眉毛と髭のだらんとした長老さまがミケを魔方陣の内へ呼びよせる。ごく稀に爆発や竜巻を巻き起こすような魔法を授かる猫もいるため、まずはじめに結界の中でどんな魔法なのかを確かめるシキタリなのだ。 ミケは魔方陣の真ん中に四足を乗せると、目をつぶって髭をにゃかにゃか揺らしはじめた。耳をぴんと立てて、尻尾の先をゆらゆら。じっと動かないのじゃなくて、重い空気と軽い空気が混ざり合って震えるリズムに合わせて毛を揺らす――これが猫流の瞑想だ。 ミケの足許から風が沸き起こった。ひゅうひゅう唸る風が半円形の結界内をぐるぐる駆けまわる。ミケの毛並みは逆立って、髭も尻尾もびりびり震えていた。かっかと燃える心臓が、ミケを昂揚させていた。「にゃ、にゃにゃ……にゃおぉん!」 目の中いっぱいに満月を映して一鳴きすると、ミケは大空に飛び上がった。 ぱりん、とガラスの割れる音は、結界が壊れた音だ。逆巻く風が溢れ出て、ミケを止めようと駆け寄った長老たちを吹き飛ばす。みんな転ばず、華麗にくるりとまわって着地したけれど、もう遅かった。風に乗ったミケが煌々と笑う満月を追いかけて飛び去っていくのを見送ることしかできなかった。 それ以来、ミケを見た猫はいない。ただし、春一番が雲間草の白い花を揺らす頃、くしゃみをした猫は顔を洗って大欠伸してから決まってこう呟くのだ。「ミケは毛繕いもせず飛びまわってやがるにゃ。こんなに毛を飛ばしやがって」 ――と。
ふと、足を止めた。背中に感じる闇に……少しだけ恐怖感を覚えた。通い慣れた道の筈なのに、違和感を拭いきれない。―――ガ キコエル――――――エガ キコエル――――――コエガ キコエル―――月の無い夜だから。やけに静かな夜だから。一人ぼっちの夜だから。……だから、今夜は――― ※『あの学校、墓地の傍にあるから幽霊が出るよ』小学生のような会話を、笑って流した。馬鹿にしたつもりは無かったけど、あれから彼女は私に話し掛けなくなった。―――それから間もなくして、彼女は行方不明になった。 ※……だから、今夜は彼女のことを思い出す。今から十年以上も昔のこと。それでも目を閉じればはっきりと顔を思い出せる。幽霊が出るなんて、今まで信じたことも無いし、これからも信じる気は無い。―――でも、彼女を思い出す夜は 少しだけ、信じてもいいかなと思う。地面から伸びた白い腕。鏡に映る長い髪。行き場を失った青い炎。見たことも無いし、見たいとも思わない。……それでも、彼女は意地になって言い張っていたのだから。 ※怖い話なんて程じゃなかったけど、彼女はいろいろ奇妙な話をしていた。「コンピュータ室の左から三番目のパソコン、故障してるよ」「明日、停電になるよ」「……私、卒業と同時に転校するの」初めは、物知りな人なんだと思っていた。……でも、途中から未来予知じみてきた。―――だから、徐々に彼女から人が離れていった。誰もそれがいじめだと思わなかった。いつしか彼女は独りになっていた。時が経ち、それが当り前の事になっていった。その頃だった。彼女が転校したのは。 ※親友と呼べる人がいなくなった彼女があることを言い張ることは滅多に無かった。だから、印象が強かったのかもしれない。『幽霊が出る』そのことを言い張ったことに、何の意味があるのかはわからない。―――でも、今まで彼女の言っていたことは、全て当たっているんだから。 ※学校からの帰り道。月の無い夜は、彼女のことを思い出す。ふた月前に亡くなった、彼女のことを。背後に感じる闇に、恐怖感を覚える。それは、もうすぐだから。―――もうすぐ、彼女が死んだ場所だから。通いなれた道なのに、違和感が拭いきれない。それは、今日だから。―――今日が、彼女の命日だから。学校のすぐ近く。誰も通らない、暗い道。 ナツカシイ コエガ キコエル