うるはしの昼下がり
zippoh
水色に澄んだ高く広がる空の午後、あなたは久しぶりの外出で待ちくたびれたバスに乗った。何年ぶりかで新調した運動靴に、あなたはすこぶるご機嫌だ。
バスは学校帰りの大学生で満員だったから、あなたは吊り革で立つことになった。それはごく自然なことだと思った。あなたは健康だし健脚だったから。
ただ近ごろ少し筋肉が落ちたことをあなたは気にしていた。出っ尻はいつしか貧弱なお尻になっていたし、太股にも大きな隙き間ができていたからだ。おまけに心なし顔も小さくなったような、鏡を見るたびに少し寂しい思いもしていた。
勝ち気なあなたは、人生に一段落した歳とはこんなものだろうと、自分を慰めた。たまに思いついては腕立て伏せの練習をしたが、たったの10回で息が切れた。それを煙草のせいだとごまかした、あなたは自嘲気味に……。
目的の街までの区間は170円。たいした時間はかからない。国道に出れば、たわいもなく着く。殺風景な国道は好きではないが、それも街の一つの風景と、あなたは新しい靴にご機嫌なのだった。
「どうぞ」
突然、声がかかった。
吊り革にぶら下がっているあなたの眼前に、席を立った若い女がいた。
誰に? あなたは、うろたえた。あなたの近くに席を譲られるような年寄りがいなかったからだ。
けれども、女の視線はたしかに、あなたに向けられていているのだった。
あなたはシルバーですよ→どうぞ。
あなたは、一瞬の間を置いたのち、女の言葉を理解した。
「……」
あなたは、喉をつまらせたのか、目が意味もなく笑っただけだった。
女はあなたの遠慮を素早く理解して席に腰を戻した、にっこり笑んで。
そのまま前を向いてしまった女の様子を、あなたは見ることができなかった。何事もなかったかのように、流れていく車窓の風景を見つめているのが精一杯だったのだ。
あなたは自分が赤面しているのを感じていた。それは新しい運動靴が歳不相応に思えたからではない。吊り革にぶら下がった腕が細かったからでもない。あなたはあなたが、「どうぞ」の女に、その麗しの声に、恋したことを知ったからだ、瞬間に。
……もうすぐバスが着く。あなたはバスのステップから軽やかな足どりで飛び降りることだろう。そしてきっと、女の顔を二度と見ることはないだろう。
新しい運動靴にご機嫌なあなたが、傍目に老いていることをはじめて感じた、それはバスに揺られる秋の昼下がりのことだった。