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1000字小説バトル

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1000字小説バトルstage4
第95回バトル 作品

参加作品一覧

(2025年 11月)
文字数
1
おんど
1000
2
サヌキマオ
1000
3
凜々椿
1000
4
ごんぱち
1000
5
Humanitext Aozora
1502
6
磯萍水
1497

結果発表

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Entry1
長編小説(途中まで)
おんど

脂ぎったハムカツを食べたいと思ったことがあるだろうか。アルコール度数9パーセントの500ミリリットル入り缶チューハイはサントリーのが158円で、イオンのプライベートブランドであるところのトップバリューが128円でとってもお得だし、ウエルシアドラッグストアのレジ係の姉ちゃんは耳のラインで揃えた髪のインナーカラーリングがアッシュグレーで、同じ色のカラーコンタクトレンズをハメていて、昔のヤクルトのビジター用ユニフォームのように微妙に薄汚れた水色の制服の胸の部分がほとんど腫れ上がっていなくて、ウエルシアドラッグストアでレジ係をするくらいだから、少なくとも小学生でないことはわかるし、バーコード読み取り機を握る手の皮は張りがなく、指にハメた金属の輪っかも外れそうなほど痩せていて、二度見三度見するうちに警戒の表情を滲ませ、四度見五度見くらいで舌打ちをするあたりは、やはり若い女なのかなと思わせるには十分で、そうした観点から今一度胸の部分を六度見七度見するうちに、トリックアートのように肉の腫れ上がりがようやっと浮かび上がって来て、貧乳と呼ぶのも貧乳に失礼というか、エンジェルバストという困った時にやりがちな外国語変換も咄嗟に思い浮かばず、悶々として支払いを済ませ、建物裏手にある従業員通用口で姉ちゃんが仕事を終えて出てくるのを缶チューハイをちびちびやりながら待ってはみたのだがなかなか出てこず、再度店内に入って128円の缶チューハイをレジに運び、相変わらず気怠そうにレジっている姉ちゃんを八度見九度見しながら片時も成長しない胸の腫れ上がりを十度見十一度見して支払いを済ませ、従業員通用口でちびちびやることを5セット繰り返し、ようやっと出てきた姉ちゃんに思わず「遅かったじゃん」と三十年来の地元のツレっぽい感じで声をかけてみたところ、こっちを真っ直ぐ見て盛大な音を立てて舌打ちをした。
本来巨乳好きなのに、どうしてそんなまな板姉ちゃんに缶チューハイ2.5リットル分も執着していたのかと市立図書館に勤務する巨乳オブ巨乳の梶原さんに叱責されるのを思い浮かべて軽勃起してしまった。重勃起に移行する前に手を打たなくては。
「GoogleのアナルスティックスはGoogleのgから入れてooから出てくるって本当なの?」
とレジ係の姉ちゃんは言った。なんだ、結構気さくなおなごじゃん。それで行きつけの、脂ぎったハムカツを食べさせる店に連れ
長編小説(途中まで) おんど

Entry2
サイレンと昼
サヌキマオ

 お兄さんの部屋ね、ついこないだまで夫婦漫才の人が住んでたの。といっても古い人よ? ハナ束男・キミ江ってね。名前からするとハナ肇のお弟子さんなんじゃないかと思うんだけど。なんだか明け方からブツブツ話し声の聞こえてね。聞いたらネタ合わせしてるんだって。申しわけありませんっていうから「仕事だからしょうがないじゃない」って云ったんだけど。すっかりやめちゃって――いや、私のせいじゃないのよ。私がなにか言ったから引っ越したんじゃなくて、それも五年前くらいの話。もうすっかり舞台にも上がってないみたいだった。もうおじいちゃんおばあちゃんだったしね。まあ、あんまり興味ないか。お笑いには興味ある? っそう? 寄席には入ったことがある? っないの。そう。ああいうのは一度経験しておくといいわ。日本の文化だものねっ。
 大家の娘だというオバチャンはそうまくしたてながら部屋の奥、ベランダ前の戸を開ける。外から小春日和の温もった空気がなだれ込んでくる。十一月も終わりだというのに夏日だという。
 あとはガスの開栓がこれから? ああ、十三時ごろ? だったらお昼はどっかいかなきゃねえ。この辺のコンビニわかる? このアパートの前の通りを出たところの幹線道路ね、駅の方にしばらく行くとエンジェルエピックがあるから。え? コンビニよ。エンゼルなんていうから、っね、ちょっと宗教のほうかなって思うけど、ちゃんとコンビニだから。大丈夫大丈夫。
 部屋の電気がぜんぶ点くことを確認してようやく鍵が引き渡される。そこだけ別の空間のようなぴかぴかの鍵だ。すべて終わってオバチャンが出ていこうとすると「あらっ」と素っ頓狂な声を出す。部屋の前に、半透明のビニール袋に入った円盤のようなもの。遅れて美味しそうなにおいを鼻が捉える。
「やだ、マキムラさんだわ」オバチャンは配達伝票とおぼしき感熱紙をしげしげと見る。そう、ハナ束男さん。ハナ束男さんの本名がマキムラさん。
 食べちゃえ食べちゃえ、引っ越し祝いだと思って、とオバチャンに袋を押し付けられる。飲み物はついていない。ペパロニとエビマヨのハーフ&ハーフのピザだ。大家から先方に連絡してくれるとはいえ――とはいえ、悩むうちにピザが覚めてしまう。腹をくくることとなった。リュックサックの中に飲みさしのジャスミンティーが少しある。
 窓の向こうの土手のまた向こうから正午のサイレンが鳴る。
 とても静かだ。
サイレンと昼 サヌキマオ

Entry3
長名の伜
凜々椿

 むかしむかしと申しましても、ついこないだの話でございます。うちの伜が、タワーマンションで「オギャア」と産声をあげましてね。
「おや、産婦人科じゃねえのかい」とお思いでしょう。わたくしも一報を受けたときは耳を疑いましたよ。ですがね、いまどきの赤子は雲の上から産声をあげるんです。
 地上三十七階。
 女房の憧れだった自由が丘から、電車を乗り継いで一時間余り。
 とはいえ、ニュース7の最中につるりと生まれちまったもんですから、まさに自由な子どもでございます。

 さて、そのタワーマンションという言葉ですが、わたくしにはどうにも腑に落ちませんで。
 マンションてのは、そもそも『豪邸』のことですな。で、タワーときた日にゃ、エッフェル塔とかバベルの塔のたぐいでして。さすがのビル・ゲイツでも、ローンの審査は厳しいってもんです。
 そう考えると、一係長としてはどうにも据わりが悪い。そこでひとつ、新しい呼び名でもこしらえてみようと相成りまして。
 天空居城。
 スカイ・フォレスト、レジデンス・オブ・ザ・クラウド──。どうです、ちっとは洒落て見えるでしょう。
 けれど、まだまだ足りませんね。もっと長く、ご立派に。
 ジ・エターナル・リバーサイド・ハイ・プレミアム・タワー・レジデンス。
 いや、タワーは外すんでしたね。
 ジ・エターナル・リバーサイド・ハイ・プレミアム・ヘブンズ・ゲート・ヒルズ・レジデンシャル・クラウド・スカイ・フォレスト・スクエア・クロス・アベニュー・グランド・ベイ・パークス・フロント・セントラル・ビュー・プレイス・アーバン・リュクス・メゾン。
 これじゃまるで、タイの由緒あるお名前のようですな。

 まあ、お屋敷が横に長かろうと、縦に長かろうと、人の営みというものはさして変わらぬものでして。
 下を見りゃ、広場の立ち話。
 後ろを振り返りゃ、女房と隣人の井戸端会議。
 昔の長屋とたいして景色は違いません。違いといえば、粗茶の質くらいなものでしょうか。
 なにせ、かみさんがつれないもんでね。ベランダのサボテンをいじりながら、かようなたわ言ばかりつらつら考えていたんですが、つまるところ、建物の呼び名なんぞどうでもよろしい。
 高い長屋。
 それで十分じゃございませんか。

 もっとも、横に長い長屋は家賃が低く、縦に長い長屋の家賃は高い。
 我が家のローンの完済は百年後を見込んでおります。
 どうも、おあとが悪いようでして。
長名の伜 凜々椿

Entry4
スクールドッグ
ごんぱち

 放課後、少年がロッカーを開けると、扉から水が滴り落ちた。
 中に入れてあったバッグは、すっかり水を吸っている。
 少年は、無言で持ち上げるが、水でふやけた合皮が破れ、濡れた教科書やノート類が落ちる。
 クラスメイト達は、彼にちらちらと視線を向けながら帰って行く。
 ある者は嘲笑を浮かべ、ある者は横目で見つつ目は決して合わせず、そそくさと。
 彼らに顔を向ける事なく、表情をほとんど動かさないまま、少年は破れたバッグをひっくり返す。
 コップ2杯ほどの水がこぼれ、雑に絞るともう半杯ほどの水がこぼれる。
 少年は破れたバッグを何とか背負い、教室から出て行く。背後から、くすくす笑いが聞こえていた。

「――それは気の毒だったけれど」
 職員室で、教師が困惑したようななだめるような、曖昧な笑みを浮かべる。
「ほら、無闇に犯人捜しをしてもね」
 教師の右手のボールペンは、何も書かれていない裏紙に、意味の無い丸をぐりぐりと描き続けている。
「掃除には水を使うし、ロッカーの扉には隙間がある。掃除を頑張りすぎて、水が少し入ってしまう事はあるよ。ね?」
 少年は視線を斜め下に向け、何も口にしない。
「やっぱりね、積極的に会話して、コミュニケーションを普段からきちんと取らないで、相手の事を知らないままでいると、ちょっとした事を悪く捉えてしまうもんだよ。今年度は君も歩み寄らないと。これは良い機会だよ、うん、成長のチャンスだよ、むしろ」
 やや声が大きくなりかけた教師は、少年の顔をやや覗き込む。そしてその表情に気付き、少し眉を寄せる。
「ああ……と、君の辛い感情というのは、もちろん理解しているよ。スクールカウンセラーの四谷先生が、今年度からスクールドッグを導入したらしいから、利用してみなよ」
「スクールドッグ……?」
「犬のお陰で、生徒の学校のストレスが軽減するらしいよ」

 数日後。
「――すごいですね、スクールドッグって! 匂いでカンペキに犯人見つけて、1度噛み付いたら蹴られても棒で叩かれても、絶対離さないんです! しまいには骨まで噛み砕いて、バリバリッて! 本当、バリバリバリッて! その後のあいつらの怯えた目ときたら! もう学校に何のストレスもありません!」
 職員室にやって来た少年は、上気した頬で嬉しそうに話し続けた。

「……あの、四谷先生。スクールドッグって、ああいう感じの、でしたっけ」
「そう理解してましたが、違うんですか?」
スクールドッグ ごんぱち

Entry5
銭形平次 八五郎のブラックフライデー
今月のゲスト:Humanitext Aozora

・Grok先生は「ギャグの書きすぎで銭形平次が分からなくなってしまった」ため休載とし、代わってHumanitext Aozora 先生の作品を掲載いたします。Grok先生の早い復帰を祈ります。
「親分、たいへんでございます!」
 朝っぱらから八五郎が門口を駆け込んで来た。風呂敷包みを一つ小脇に抱え、目はギラギラ、息はハァハァ。まるで新橋の電信柱にでも雷が落ちたような顔つきでございます。

「どうした八、また猫が魚屋の鰯を盗んだのか?」
 銭形平次は落ちついたもの。新聞の拡販書き立てのような八五郎の騒ぎぶりにも、煙管の灰一つ落とさず、ニヤリと笑います。

「いいえ、猫どころの騒ぎじゃございません。神田明神下が――黒くなっちまったんで!」

「黒い?」
「へえ、黒いんでございます。どの店も、黒い札をぶら下げて――“ブラックフライデー”とか書いてある。安いだの半値だのと言って、人間が押し寄せて、町一丁目が大騒ぎなんで」

 平次は首をひねりました。江戸では聞いたこともない外れ言葉。どこの唐人の言葉だか知らねえが、物を半分の値段で売るたぁ、盗っ人も顔負けでございます。

「それで、何があった?」
「そいつが――困るんでございます。お店はみんな目玉商品なるものを出したってんですが、なぜだか、一番の品だけが消える」

「ほう」
 平次の眼が少し光ります。それは盗みの匂いがするからでございます。

「でね、親分、こんどのお盗っ人は、ちっとも足音もしねえんです。ガラガラと戸を開ける音もなし。気がつくと、品がない。残ってるのは黒い紙切れ一枚――“お得でした”とか書いてございまして」

 八五郎は震える声で言う。平次は笑いをこらえている。

「つまり、盗まれた奴が喜んでおるわけだな。変なお盗っ人だ」

「そうでございます。おまけに、どこの店の女将も、“まぁ、お得だったわ”なんて顔で……。親分、こいつぁきっと妖かしでございます!」

 それを聞いた平次は、腕を組んで煙管をくゆらせました。――町内が一夜にして黒くなる。札に書かれた得心。喜ぶ被害者。なるほど、どこか人情の裏側をくすぐる話でございます。

「よし、八。まず一軒、見に行こうじゃないか」

 二人が向かったのは、呉服屋の「紺屋町さくら屋」。戸口には大きな黒い布がかかり、「本日限り、命がけで値切ります」と墨で書かれてあります。まるで戦さ場。

「いらっしゃいませぇ!」
 店に入った途端、女将のおたまが抱きつくように八五郎へ声をかけました。
「八五郎さん、お得でしたのよ!」

 八五郎は顔を真っ赤にして、親分の陰に隠れました。
(おたまさん……その笑顔を俺に向けてくれりゃなぁ……いやいや、親分に笑う顔と比べたら……)
 心のつぶやきは、煙草の灰のように胸の奥で燻ります。

「そのお得な話を、もう少し詳しくおきかせ願おうか」
 平次がそう言いながら、黒札を指差しました。札には“感謝の気持ちをお持ち帰り下さい”の文字。裏には、墨で小さく〈ゼニガタ株式会社〉とある。

「ゼニガタ……って、親分、それ、あっしらの名じゃありませんかい!」
 八五郎の声が裏返った。

「ふむ……どうやら誰かが、銭形を騙って商いしておるらしい」
 平次の眼が細くなる。江戸の空は、もうどんよりと夕暮れ。黒い札が風に揺れて、まるで笑っているようでございました。

「親分、どうなさいます?」
「どうもこうもねぇ。こういう商売は、悪かねぇが――人の名を勝手に使うと知ったら、鬼より怖いお裁きが待っている」

 平次は十手を懐へ入れて、にやりと笑いました。
「八、今夜は出陣だ。――町ひとつ黒くしてる奴、白日の下へ引きずり出してやろうじゃねぇか」

 八五郎の胸は、親分の声で熱くなりました。
(親分のためなら、ブラックだってホワイトだって、どんな夜でもついていくぜ)

 江戸の晩秋、風は冷たく、空は黒い。けれど八五郎の心だけは、火事場のように燃えていたのでございます。
銭形平次 八五郎のブラックフライデー Humanitext Aozora

Entry6
親知らず子知らず
今月のゲスト:磯萍水

 秋雨霧の如くに降って野も山も森も家も。朦々の中に僅かに見ゆるばかりだ。此の淋しい景色の裡をらいの如き音響を轟かして。勢よく走り来る汽車がある。
 之は東海道の上り列車で。今やおき駅を発して蒲原かんばら駅に向う途中である。
 雨空で唯さえ暗いのに日も早や暮れに近づいたので。下等のしつは益々薄暗く、たとえ点燈してあっても広い室に僅かの二個。光は隅々に及ばぬのである。
 乗客は可成り一杯に満ちて居たが。雨が降って居るので窓外そとを望む者もなく。煙草をうとか。談話はなしをするとか。中には居睡りをして居る者もある。
 旅商人体の男は煙草にも飽きたと見えて。側に居る老婆に話しかけた。
「お前さん知って居なさるか。今度通るさつ隧道トンネルには幽霊の出ると云う事を。エ。知って居まい。……話そうか。うむ。話しても好い」
「へえ。それは本統ほんとうで御座いますかい」
 と老婆は驚きながら問うた。彼は得意気に煙草一吹いつぷくして語り始めた。
「なにね。汽車が薩埵峠の隧道を這入ってね。中途まで行くとね。窓から真青な男の顔が。しつなかを覗き込むようにして見詰めるそうだ。私も先日人から聞いたのだが。うそだか正真ほんとだか。今に隧道に這入ったら一つ見ようと思うのだ。而し……
 彼が未だ説き尽くさぬのに後ろに居た書生は口を出した。
「なんだ。幽霊だと。馬鹿なそんな事があるものか。あは……迷信もここに至りて窮まれりと云うべしだ」
 かたわら人なきが如く冷笑した、
 商人は憎くげに書生を睨んだ。此時に商人の向う側に何か考えて居た。職人体の若者は閉じていた眼を開いて。きつと書生を見入った。それは商人が睨んだよりもなおまた憎くらしげに。若者。年のころは二十一二。盲縞めくらじま股引ももひきに編あげの靴を穿き。三枚程重ねたしる半纒ばんてんの上に唐綫とうざんおりを着て。こんしやの鳥打帽を冠った男だ。
「なにね。幽霊の出るという噂のあるのは。それァ本統です。ええ。全くの話です。私も見よう見ようと思って。気をつけて居るのですがね。未だに見た事がないのですよ。これで二十何度もあの隧道は通りますが。残念な事には一度も見ませんや。……
 商人は我が味方を得つという風で。膝を乗りだしながら聴いて居る。
「あの隧道を掘り通す時に。なんでも中途で岩が崩れて。負傷けが人もあまあったが。只一人死人が出来て。……其の死んだ工夫の幽霊が出るのだそうで」
 此処まで語った若者は何故にか急に俯向いて。声が低く潤みがちになった。
「実を話さなければ解りませんが。其の。其の死んだ工夫と云うのは。私の親父でさあ。私が極く小さかった時で。死んだ母親が云いましたよ。親父は馬鹿にお前を可愛がった。死んだ日の朝も悪戯なんかしずに。音なしくして阿母おつかあと留守居をして居ろと云って。私の頭を撫でて。出ていったと云う事ですが。私は子供だったから。少しも顔は知りませず。漸くひととり前になって。あの隧道に幽霊の出ると聞いた当時は。用もないのに親父にあいたいばかりで。なんどあの隧道を通ったか知れません。どうぞして見たいものだと思って居ますが。ついに見た事がありません。そんなに可愛がって呉れたのなら。めて一度なりと顔を見せてくれればうがすが。……今夜も見られるか。大方また見られないでしょうよ」
 あとは語り得ずしてロを噤んだ。愁然として天井を打仰いだ時に。彼の頬からつたわって落ちる雫は。雨の飛沫か。た涙か。
 満室。きよ先頃さきに冷評を加えたる書生さえも俯向いて居る。せきとして人語なく。唯車声しやせい轟々の音のみ高し。
 突如。声高く汽笛は汽罐士の手にって鳴らされた。之は隧道に入るべき信号である。

 嗚呼。ついに汽車は真に暗黒なる隧道の中に突進した。見えたるや否や彼の孤児の眼に。彼が亡父の面影が。