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3000字小説バトル

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3000字小説バトルstage3
第42回バトル 作品

参加作品一覧

(2019年 1月)
文字数
1
サヌキマオ
3000
2
中国古典/ 蛮人S
3000
3
宮本百合子
3909

結果発表

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鶏皮狙いすまし
サヌキマオ

 打席から流し打ちにされた球はあたしの左手に向かって真っ直ぐに飛んできた。別になんでもないショートライナーだという気でいたのだが、差し出したグラブのやや上をそのまま追加していってしまう。
「なにやってんの」
 マウンド上からミミミの呆れ返った声がする。なにか言い返そうとすると「ショート!」と声がして、慌てて振り返るとレフトがまさにこっちに向かって返球してくるところだった。泡食ったあたしは飛んできた球を受け止められず、勢い余って尻餅をついた前を向こうの選手が走り抜けていった。一気に三塁打だ。
 半魚人を倒すバイトで仲良くなった江夏のおっさんに誘われて草野球をすることになった。酒は飲み放題、打ち上げ付というので一も二もなく手を上げたが、あるのは外気でキンキンに冷えたビールだけ。このおっさんに一月の早朝、ほかほかのワンカップを持ってくる甲斐性があるわけなかった。つまり酒はないのと同じである。
「どんまいどんまーい」とファーストからおっさんが慰めてくれる。一塁ベースの脇には缶ビールが置いてある。寒くないんだろうか。
 私の無二の親友であるミミミは私が誘った割には比較的乗り気でついてきて、若いとかなんとか言われて先発を任されている。半魚人殺しのバイトのときからいい肩をしていると思ったけど、彼女の球はちゃんとキャッチャーミットに届くしコントロールを誤らない。といってもまだ五球くらいしか投げてないけど。
 相手のチームは高校の演劇部だと聞いた。なんでも野球を舞台にするので、実際に野球の試合を経験しておく必要があるのだという。ということは蟹工船を演るときにはみんな漁船に乗ってみるんだろうか……しかし、うまい。こいつら演劇部じゃなくて野球部じゃないの? いや、わざわざ試合をするくらいだから、演劇の準備の野球の準備の練習くらいしているに違いない。
 などと考えていると二番が出てきた。二番ショートななみさん。わぁちっちゃい。小学生もいるのだろうか。
 クリクリとした目をしたななみさんはおずおずとバットを差し出している。かわいい。ピッチャーミミミ、あの表情からすると「どうせスクイズ狙いだろうし可愛そうだからバットに当ててやろう」とか思っているに違いない。そういうやつなのだ。
 方針が固まったのかミミミ、初級をぽいと放る、とななみさんはぐっとバットを引いたかと思うとど真ん中に入ってきた球を思い切りひっぱたいた。またこっちに飛んでくる!……そうか、野球選手である前にあの子達、演劇部だ!
「ちょっとクロシェ! どうなってんのよ!」
 ミミミに吠えられて私は自分のチームのダッグアウトをみる。フルタ監督(今日はじめて会った)は「まあまあ」という顔をしている。眼鏡の趣味はいいが顔が好みじゃない、
 場の空気に浮かされている場合じゃなかった。ちゃんと野球しなきゃ。
 草野球なのにちゃんとウグイス嬢がいて選手紹介がある。ノーアウト二塁から三番セカンドロバタさんセンターオーバーのツーベースでまた一点、四番ファーストゴドーさんはショートゴロで(私がちゃんと仕事して)ワンナウト三塁、五番ライトタームラさん(そう聞こえた)キャッチャーフライ、六番サードアベさん空振りの三振。ようやく一回表が終わる。
「本当に演劇部なの?」
「向こうの顧問が高校の時の同級生でね……そりゃ誰もあんなにうまいとは思っちゃいないよ」と監督。
「いや、若いってなぁええね。こっちも元気なるわ」
 すっかり鼻の下を伸ばした江夏のおっちゃんが右手にグラブ、左手にビールの缶で帰ってくる。
「よしゃみんな、いっちょアダルトパワーを見せたろか!」
 大人たち、西夕陽丘ガイコッツは円陣を組んで気合を入れる。さぁ一回の裏、私達のターンだ!
(ということがあったのも遠い昔のようだ)
 試合時間の倍はあったファミレスでの打ち上げが終わっても、まだ昼をまわっていなかった。ミミミを誘うと「この時間から開いてる居酒屋なんかあったっけ」とホイホイ着いてきた。今日のミミミはやけに素直だ。あるとも「鶏春」は焼鳥を焼く店なので昼から開いている。ついでに売られている酒も飲んだらいいじゃない。
 二回裏を十七対〇で終えた時点で「もうまいった! こんなもんで勘弁してや」という江夏のおっさんが悲鳴を上げたのだ。
 ミミミは寒い中よく投げていた。二回の表、三点取られて五対〇となったところで「真打登場や」とファーストに居た江夏のおっさんがマウンドに上ってきた。昔はプロで鳴らしたというので、女子高生相手に大人げないと思わなくもなかったが、おっさんはワンナウトも取れない代わりにホームラン三本を含む十二点を取られてしまった。ホームランと言っても外野がもたもたしている間にどんどんとランナーが走ってしまうやつで、ちゃんとホームランだったのは四番の眼鏡の子だけだったけど。ともかくもよく運動した。私もショートからレフトに回されて余計に右往左往した。七番だったので打席はまわってこなかったし。
「げへー」ちゃちなグラスではない中ジョッキでこそビールは美しく美味しい。「昨日の残りで悪いけど」と鶏皮ポン酢が出てくる。焼鳥屋も普段から足繁く通っておくとこういうご利益がある。おじちゃんは焼き場の前から動かず、モグラのようなおばちゃんが狭い店内を行ったり来たりする。
「日曜の昼から極楽とんぼだね、あんたら」
「そんなことないよぉ、朝から肉体労働してきたんだよぉ」
「そらえらいこった。稼いだ分じゃんじゃん飲んだらいいよ」
「打席はまわってこなかったけどね」
 おばちゃんの許しを得たのでじゃんじゃん飲む。ミミミは二杯目から焼酎のお湯割りを頼んでいる。
 鳥が焼けるまでの時間は案外長いものだ。ふいに気になってスマホで「万歳高校演劇部」と検索してみる。お、ちゃんとサイトがある。
 演劇部の様子は学校の堅苦しいサイトの中「部活紹介/文化部」のページに押し込められていた。次回公演予告が載っている。
「あ、これだ。如月自主公演『弱小野球部のマネージャーが孫子の兵法を読んだら相手チームと戦わないように体を張って阻止してくるんですけど』だって」
「本当にやるんだ、それ」
「ちゃんと取材だったんだなぁ」ミミミもずっと半信半疑だったようで、私のスマホを覗き込んでくる。
「ちゃんと野球の練習をして、何演るんだろ?」
「二月十六日かぁ……行ってみる?」
 焼鳥が運ばれてきた。いい焼鳥屋は皮であると思う。皮を美味しく焼ける焼鳥屋は一生大事にしていきたい。
 今日もまた完璧な鶏皮をいただきながら日本酒の冷に切り替えるうち、あたしはすっかり演劇のことなど忘れてしまった。半ば記憶を飛ばした状態で家に帰ってベッドに潜り込み、ママに叩き起こされて風呂に追いやられる頃には、薬箱をどこに置いたかを思い出そうとしていた。早々に筋肉痛がやってきたのだ。
 しばらくして春が来て、またミミミと鶏春の暖簾をくぐったところでふと、そういえばあの演劇部の野球部(ややこしい)どうなったかな、と思い出したのだ。ミミミもあたしと同じくらい「そういえばそんなものもあったね」という顔をしているのでまたスマホを繰ると、演劇部のページではすでに夏の大会用の演目「踊るチンチラハウス」の告知に置き換わっていた。
 もうちょっとちゃんと覚えておけばよかった、とあたしにしては反省している。
鶏皮狙いすまし サヌキマオ

聶隠娘
蛮人S/翻案
中国古典/原作

 唐代も晩期の話である。

 聶隠娘しよういんじようは、魏博の大将軍、聶鋒の娘だった。娘が十歳の時、一人の乞食尼が屋敷を訪れ食物を乞う。娘を見るや将軍に申し出た。
「気に入った。お嬢さんを私に下され」
 将軍は怒り呆れ、叱りつけた。尼はせせら笑った。
「鉄の函に隠されようと、必ず連れて行きますぞ」
 果してその夜、娘は姿を消してしまった。将軍は驚き、八方手を尽くして捜すが手掛かりも無く、夫婦で娘を思い出しては泣くばかりだった。
 そして五年の月日が流れた。
 あの尼が、不意に娘を連れて戻って来た。
「教えるだけの事は教えたので、お嬢さんを受け取り下さい」
 云い捨てて姿を消した。一家は嬉しいやら悲しいやら訳の判らぬ涙にくれつつ、何を教わったかと娘に迫った。「最初はお経ばかり読んで、後は呪文を」と娘は答えていたが、将軍はそれだけではあるまいと優しく問いただした。
「きっと、話しても嘘と思われますわ」
「いや、何でも聞かしておくれ」
「では本当の事を話します」

 奇怪の尼に連れ出され、幾里行ったか。夜明け頃、隠娘は深山の岩窟を抜け、葛の蔓延はびこる神妙な場所にいた。沢山の猿が飛び回っている。同い年ばかりの美しい娘が二人いた。彼女らは利発で、食事を口にせず、切り立つ崖を平然と駆け上る。その姿は猿が木に登るようだった。
「……尼師は私に一粒の薬を呑ませました。さらに二尺の宝刀を一振り、私にくれました。そして二人の娘に剣を教わるうち、私の体も風のように軽くなりました」
 一年もする頃には、飛び回る猿を刺せば百に一つも仕損じなかった。虎や豹を刺せば必ずその首を斬って来た。三年すると、鷹や隼を刺しても当たらぬ事は無くなった。その頃には刀も五寸ほどまで減っていた。
 四年目のある日、尼は何処か知らない賑かな都へと隠娘を連れ出した。ある人物を遠くから示すと、彼の罪状を一つ一つ並べ立て、そして隠娘に命じた。お前は人に知られぬよう、彼奴の首を取って来よと。
『気を深く凝らせば、飛ぶ鳥を刺すように容易い』
 そう云って羊角に似た匕首あいくちを渡した。
「……刃は三寸もあったでしょう。それを持って白昼、都大路の真ん中で人を刺しました。誰も気づきません。落とした首を袋に入れて渡すと、尼師は薬を以て首を水に変え、消しました」
 五年目のある日、故なく人を殺す悪い大官がいるから、夜に紛れて首を取って来よ、と尼は命じた。隠娘はその邸の戸の隙から易々と忍び入ったが、梁の上から様子を窺い、遅くに首を得て帰った。尼は、何故こんなに遅くなったと強く怒った。
『あの者の子供と遊ぶ姿が微笑ましく、手を下すに忍びなかったのです』
 尼は叱責した。
『そういう時は、相手の愛する者から先に殺せ』
 隠娘はただ謝るしかなかった。

「……お前の脳を開いた後ろに匕首を納めておく、と尼師は云いました。傷はつかない、必要な時にはいつでも抜けるようにしてやろう、と。お前の術は成されたから帰って良いと家に送られました。二十年後に一度逢おうと仰いました」
 大将軍もこの話には怯えてしまった。隠娘は夜になると何処かへ出かけ、明け方に帰って来る。父はそれを知りつつ、敢えて叱る事も出来なかった。可愛さよりも恐ろしさ、気味悪さが募り、我が子ながら愛せなくなってしまった。
 ある時、娘は鏡磨きの若者と門で出逢った。
「これは私の夫になる人だ」と父親にその旨を訴えた。この娘の云う事では将軍も承諾するしかない。早速結婚したが、男は銅鏡を磨く外に何の取柄もない。それでも将軍はこの夫婦に豊かな衣食を給し、住居を與えた。

 数年後、将軍は世を去った。後任の魏博節度使は隠娘が異人と聞くや、礼を厚くして側近の吏に任じた。さらに数年経った。
 節度使は、許州の節度使である劉昌裔と反目していた。そこで隠娘に命じ、劉昌裔の首を取ろうと目論んだ。夫妻は許州へ向かったが、劉は神算を能くする者で、刺客の到来を予見して部下に命じた。
「城北に出て待っておれ。男と女が、白と黒の驢馬に乗って来る。かささぎの騒ぐを見て、男が弓弾で撃つも当たらず、女が弾を一つ取ってこれを仕留める。そういう者が来たら節度使が早くお目にかかりたく思っている旨、丁重に伝えよ」
 部下が城門に待機していると、当にそういう者が現れたので云われた通り伝えると、二人は感服して劉に謁した。劉が旅路を労うと、夫妻は「実は貴方の首を取るために来たのです」と詫びた。劉は穏やかに、
「人は、その主に沿うのが常である」と赦した上で「魏と許の違いが如何ほどか。我を信じて、今より我に仕えて貰えぬか」と諭した。
 劉の人徳を知った夫妻は、これを承諾した。その後、二人の乗って来た驢馬が消えた。劉は人々をして探させたが見えず、後に、夫妻が驢馬の形に切った紙を持っている事を知った。一つは白、一つは黒だった。
 ひと月余り過ぎた頃、隠娘は、
「私が此処に留まった事を魏博の節度使は知りませぬ。今宵私は髪をり、紅絹で繋いで彼の枕の前に送り、還らぬ証と致しましょう」
 と出かけて行った。未明に帰って来るや、
「今夜、精精兒せいせいじという刺客が来ます。私を殺し、貴方の首をも取ろうとしましょうが、旨く計って殺しますので御安心を」と云い出した。
 豁達大度な性格の劉は畏れる気色もなかったが、夜には灯火を明るくさせた。更ける頃、紅白二つのはたが空中に現れ、寝所の周囲で飄々として相撃ち交わす。やがて一人の人間が宙に倒れ、首と胴とに分かれて落ちた。隠娘が姿を現した。
「精精兒は仕留めました」
 屍骸を曳き出し、薬をかけるとたちまち水となる。髪の毛も残らなかった。
「今夜はこれで済みましたが」
 隠娘は物憂げに云った。
「明晩には空空兒くうくうじを寄越すでしょう。神術を得た者で人に動きを窺わせず、鬼神にも知れぬ程。天地に潜む事にかけては私の力では及びませぬ。もはや貴方の御運を頼むしかありませんが、于闐うてんの玉を頸にお巻きになり、その上を夜具でお包み下さい。私は小蟲に化して貴方の腹中にて聴き伺っています。他に手立てはありません」
 劉は云う通りにして寝た。三更の頃、眠りかけたかと思うその首元に、鋭い音が鏗然こうぜんと響く。劉が目を開けば、口中から隠娘が躍り出て、
「おめでとうございます。もう安心です」と云う。
「獲物を仕損じたはやぶさがそのまま逸れて行くように、空空兒は一撃を外せばそれを恥じて去るのです。一刻のうちに千里を隔てていましょう」
 劉が頸に巻いた玉を見ると、果して深々と斬りつけた痕があった。以来、隠娘は益々厚遇された。

 数年後、劉昌裔は京へ上る事となった。なぜか隠娘は都に出るのを厭った。
「私はこれから山水を尋ね、至人を訪れたく存じます。ただ、残して行く夫が暮らしに困らぬよう、何卒お力添えを願います」
 劉はこれを許し、願いを果たした。それから隠娘の行方は知れなかったが、劉が統軍中に斃れた時には驢馬に鞭して都へ現れ、棺の前に慟哭したという。
 後年、昌裔の子の劉縦が陵州の刺史となって赴任の途中、蜀の桟道で絶えて久しい隠娘に出逢った。隠娘は例の白い驢馬に跨っていた。
「貴殿は任地へ行かぬが良うございます。大難があります。この薬をお呑みなさい。私の薬の力は一年しか保ちませぬ、来年には官職を棄て、急ぎ洛陽へお戻りなさい」と論したが縦はこれを信じない。隠娘は縦の贈物も受けずふらふらと去った。翌年、縦は任地で急死した。
 その後、誰も隠娘を見た者は無い。
聶隠娘 中国古典

今月のゲスト:宮本百合子

「――ただいま」
「おや、おかえんなさいまし」
 詮吉が書類鞄をかかえたまま真っ直ぐ二階へあがろうとすると、唐紙のむこうから小母おばさんがそれを引き止めるように声をかけた。
「――ハンカチをかわかしておきましたよ」
「ああそうですか……ありがとう」
 詮吉は、母娘二人暮しのこの二階に、ある小さい貿易会社の外勤というふれこみで、もう三ヵ月ばかり下宿しているのであった。
 詮吉は唐紙をあけ、倹約な電燈に照らされている茶の間に顔を出した。
「ひどい風でしたねえ、さあ、どうぞ一杯」
 古い縞銘仙めいせんのはんてんを羽織り、小さく丸めた髪に鼈甲べつこうの櫛をさしているお豊が、番茶をついで長火鉢の猫板の上へのせた。キチンと畳んだ二枚のハンケチが、これもまた猫板のところに揃えてある。
 詮吉は、外套の裾を畳にひろげて中腰のまま、うまそうに熱い番茶を啜った。
「きよ子さん、るすですか」
「ええ。おひるっから一寸ちよつと五反田へやりましてね。――のん気な娘だから、いずれゆっくりして来るんでしょうよ」
 主人の本田権十郎というのは、詮吉のきいたところでは瓦斯会社の集金か何か勤め、娘三人のうち上二人を片づけただけで、先年死んだ。五反田は、二番目の雪の嫁入先であった。二つばかりの小枝という女の児を抱いてよく遊びに来るらしかった。詮吉とも顔を合わせ、藤製菓の工場へ出ている亭主が、朝早くて夜までおそく、一緒に御飯をたべるのは月に二度がせいぜいでつまらない。そんな話を気さくにして、笑ったこともあるのであった。
 鉄瓶の湯のたぎる音とボンボン時計のチクタクとを年の瀬の押しせまった冬の宵らしく聞きながら詮吉は番茶をのんでいる。するとお豊が、
「今晩もまたこれから御勉強ですか」
ときいた。足のところに置いてある書類鞄に、詮吉は、徹夜で書き上げなければならぬ文書の材料を一杯つめて帰って来ている。大体勉強家と思われているので、日頃そういう挨拶はきいているのだが、今夜の云い方には、何か平常と違って詮吉の注意をひくものがある。
 さて、これからひろげようと思っていた矢さき故、詮吉は用心深い心持になった。
「別に大したこともないけれど……何です?」
 複雑な推測が詮吉の頭に閃いた。留守に何か来たかな。――それで、家の者の態度がどこやら変になり始める。これはよく仲間の誰彼が経験する例であった。しかし、お豊が、伏目で長火鉢に艶ぶきんをかけている顔の表情には、気をとられたようなところこそあるが、どうもそれらしくはない無心な様子が見える。
 詮吉は、やがて冗談めかした調子で云った。
「――心配ごとでも出来ましたか」
「いいえ、心配ごとっていうのじゃありませんけれどね、もしあなたがお暇だったら、一つきいて頂きたいと思うことがあるもんで……」
 詮吉は自分の身に何か関りのあることを直覚し、
「小母さん、よかったら二階へ来ませんか」
 そう云いながら猫板の上からハンケチをとり、立ち上った。
「僕は着物きかえるから……」

 間もなくお豊がわざわざ買っておいたらしい近所の海老せんべいと茶道具とをもって、あがって来た。
 いけてあった瀬戸火鉢の火をほげながら、
「木村さんとこは、日数にすれば浅いおなじみなわけなのに、どういうもんか、私は他人と思えないような気がするんですよ」
 足で蹴るような恰好をして帯を巻きつけている詮吉を後から見上げ、お豊はしんみりした調子で云った。
「私もこれまでには、随分多勢の若い方を見て来ましたが、お世辞でなく、あなたのような方ははじめてですよ。私は、ただのおひとじゃないと思って見ておりますよ」
 とっさに言葉が出なかった。今の今まで、自分がごく平凡な一勤め人として母娘の目に映っている。そう詮吉は安心して、下の人たちの細かい親切をよろこんでいたのであった。言葉につまったような詮吉の顔を見ると、お豊はいかにもこだわりなく、
「そんな顔しなさらないでようございますよ」
 母親らしく声を立てて笑った。
「私はこういう生れつきで、腹にないことは云えない性分ですからね」
 永年二階を貸して見て、下宿料をきちんと納めるひとは世間に数が少なくはない。遊ばない若い者というのも考えているよりは多勢あるものだ。けれども、勤めの愚痴を一言も云わないで、どんな時でもいそいそと出かける人間というものはないものだ。
「それはねえ、木村さん、誰しも愚痴が出るもんですよ。雨でも降ると、靴をはきながら、ああいやんなっちゃうな、とか、ちっとくさくさしたことがあって帰って来ると、ああァあんなところはもう明日っからやめちゃいたいとかね。あなたばっかりは、うちへいらしてからこの方降ろうが照ろうが、本当にこれから先もこぼさず、勇んで出かけていらっしゃる。――なみのお勤めの方には出来ないことだと私は感服しておりますよ」
 詮吉は思わず唸るような気持になり、
「――なるほど……そういうもんですか」
と云った。周密なつもりでも、詮吉はそこまでは思い及ばなかったのである。争われないものだ。実にそう思った。仕方なく詮吉は、
「まァ、お互いにやれるうちは元気で暮す方がいいですよ」
 あっさり、笑いにまぎらした。
「そうですとも!」
 お豊は湯呑を両手のなかにもってうなずき、
「ですからね、私は五反田のにもよく云うんですよ。木村さんを御覧てね、ズボンの折目にあんなに泥のたまるのを見れば、決して楽な勤めはしていなさらないらしいのに、ああも暮せるもんだよってねえ」
 誠意のあらわれているお豊の顔を眺め、詮吉は殆ど閉口した。実は、泥のことも自分ではうっかり暮していた――
「どうも……小母さんには――かなわない」
 一緒に笑った。が、お豊はすぐ真顔にかえり、
「木村さん、御迷惑でも、こればっかりは見込まれたが因果と思って、聞くだけ聞いて下さいまし」
 詮吉は、余り思いがけないことなので、次第に眼を大きくしてお豊の顔をうち守った。
 末娘のきよ子が、年が改まると二十になる。不束者ふつつかものだが、おひとを見込んでの相談がある。どうか聟になってやってはくれまいか。そういうのであった。
 ひたむきのお豊の心持は、一言一句のうちに溢れ、詮吉は益々返答に窮した。
 窓に向けて置いてある机に肱をかけていた、それをいつかきっちり腕を組んで坐り、詮吉は、余り突然でどう返事していいか分らない、ありのままを云った。
「――あんまり、あせりなさらない方がきよ子さんのためでしょう」
 それは詮吉の実感であった。詮吉はお豊母娘の勤労者らしい地味な親切をよろこび、いい下宿を見つけたとは思っていたが、きよ子に対しては、自身の困難な毎日の活動条件から、全然問題にしていなかった。
 お豊の方はそうとは知らず、ひたすら自分の目がねの違わなかったのをよろこぶ風で、
「あなたがそうおっしゃることは、わかっておりましたよ。ですからね、なおさら私の身にして見れば、ああこんなお方をと思うんですよ」
 そして、両眼に涙をうかべながら、
「あなたのような息子が一人あってくれたらねえ」
 信じきった眼つきで詮吉を見て笑った。
 昔から小糠三合もったら養子に行くなというくらいだから、御覧のとおり何一つないうちへ来てくれとは決して云わない。ただ、生まれた子に後をつがせて貰えれば満足だ。きよ子さえあなたに頼めば、もう自分は安心して目がつぶれる。お豊は娘ばかり持った親の苦労を訴えた。
 それやこれやから、話は故郷のことに移った。その場合も詮吉は謂わば一つのたしなみで、生れた故郷ではない、育った第二の故郷について、物を云っているのであった。
 階下でボンボン時計が、いかにも時代ものらしくゼンマイのほぐれる音を立てながらゆつくり十時を打った。
「――もうこんなですか?――とんだお邪魔してすみませんねえ」
 そう云いながらなお未練げにお豊が立ちかねていると、格子が、高い音をたててあいた。
「――きよちゃんかい?」
「ええ」
「二階だよ……ちょっとよせておいただき」
 また、ええという声がし、階子段の下で気配がするのに、なかなか上って来ない。
「何してるんだい」
 ふ、ふ、ふ。ひとりで含み笑いしている声が軽い跫音あしおとと一緒に聞え、カラリと唐紙をあけるなり白いショールを手にからめたきよ子が、
「ただいま!」
 見違えるように艶やかな桃割に結った頭を電気の下へ下げた。
「ほほう」
 詮吉は珍らしげな声を出した。
「まァ……どれ?」
 横を向かせて見て、お豊は、
「いいじゃないか」
と云った。
「駄目なのよ。姉さんたら、自分が髷に結うもんだから私にも結え結えって。――洗いもしてないんですもの」
 暫らくすると、お豊は娘を先へおろし、やや声を低めて詮吉に念を押した。
「――どうぞ考えておおきなすって下さい。身勝手ですみませんが、気を悪くなさらないで下さいね」
 下からむつまじそうに喋っているきよ子とお豊の声がする。詮吉は、書類鞄から大小様々の印刷物をとり出し、机の上へひろげ、煙草に火をつけた。
 詮吉の仲間の男で、それは下宿していた家の娘に信用され、直接結婚を申し込まれたという話があった。その男は、個人的な関係から大事が壊れるといけない、三十六計逃げるにしかずと、怱々そうそうに引越してしまった。
 詮吉は、きよ子に対する心持が恋愛から遠いだけ、寧ろ、お豊が自分を信用するようになったその点から、何とかしてこの母娘にも自分達の活動の性質を間接にわからせてやる法はないものかと思った。それが順だし、よしんばきよ子と結婚しないにしろ、そのことにはそれとしてのねうちがある。
 詮吉は新しい未完成な計画の一つとしてそれを楽しみなくはなく心の一隅に収め、坐り直して書きものにとりかかった。