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3000字小説バトル

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3000字小説バトル stage3
第43回バトル 作品

参加作品一覧

(2019年2月)
文字数
1
サヌキマオ
3000
2
蛮人S
3000
3
白石実三
3211

結果発表

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コミュニケーション

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実録ドキュメント 老人とぬみ
サヌキマオ

 ぬみとはヌミリュサバギドのことで、飯の焦げに似た乾燥食品でいつでもほかほかしている。浅野老人は今日も孫娘の喜ぶ顔見たさにぬみ取りに精を出していた。日は天空高く昇り、遠くからは山の笑う声が聞こえるほーっほっほ。山の笑うのは当然山に口があるからで、その息は腰が抜けるほどくさい。そのくさいところを浴びせられるとラバギザバテルが生まれ、ラバギザバテルが陽の光をたっぷり吸って乾燥するとヌミリュサバギドとなり、調理されて人々の食卓に供されるのだ。
 まぁそれはそれとして話を浅野老人のもとに戻す、戻……戻りなさい。あちこち勝手に行くんじゃない。お前がちゃんと転がってくれないと文字数が埋まらないじゃないかってこっちの話ですすみません。すみませんで済むのが世の中でも警察は要ると思うんですよね実際。交通事故だって警察を呼ばないと事故の処理が始まりませんものね日本では。ベネズエラでは金品欲しさに道路に置き石するらしいって最近プロ野球関連のニュースで読みました。
 こういう文章は読まされる側のことを考えねばなりません。「老人とぬみ」というタイトルにしたんだから、おとなしくぬみを取りに行く老人の話をすればいいんだけれども、そのですね、ぬみを取りに行く老人の話をそのまま書いちゃあつまらんだろうと思うわけです。読む側も、そして、書く側も、そんな話つまらないに決まっています。で、このような事態に至っている。この不毛な状態からなんとかそれなりの作品に仕上げなきゃいけない。そういう実験。
 オチは決まっていて、このぬみ、ヌミリュザバギドのたっぷり詰まったニシンのパイが無事に孫娘のところに送り届けられるわけですが、せっかく運んでくれた魔女子さんに向かって「私、このパイ嫌いなのよねー」と言い放つ。そういうオチをとりあえず想定する。そこに着地するように、書く。ほら、こうやって書いててどうあっても面白い話にならなそうなのが分かります。「魔女の宅急便」まんまじゃねえか。原作の小説は三十年くらい前に読んだきりなのですっかり忘れました。
 浅野老人は背丈ほどもあるぬみを背中に背負うとゆっくりと山を降り始めました。すっかり乾ききったぬみはずいぶんと軽いものですが、他の余計な葉っぱや土埃がびっしりと付いています。水槽につけてじゃぶじゃぶと洗うとだいたい半分くらいの大きさになりますが、栄養もあるしかさばるので、当面食べるものに困りません。
 ぬみを洗う専用の水槽というのがあって、水槽の一辺全部がばったり開くようになっておる。つまり、ぬみを洗ったあとに、落ちた葉っぱや泥なんかを洗い流しやすくしてあるのです。最近はぬみ取りも流行らなくなったので、開閉部分の水漏れを防ぐゴムパッキンを作っているところが少なくなりました。とはいえ、云うてみれば「底が開く水槽」というだけの代物ですので、錻力屋さんに特別注文すれば作ってもらえますんですが、この設計図を持っている工場も少なくなったと聞きます。
 だーかーらー、浅野老人の話をせねばならんのですっ。老人とぬみ。いっそのことぬみはもういいから。十分語ったから。
 浅野老人は瀬戸内海の島の生まれで、小さい頃から船に乗っていたと申します。父親は瀬戸内の島に建てられた工場から小倉や北九州に向けて工具や部品を運ぶ船舶の仕事をしていた。小回りの効く小さな貨物船がいくつもいくつも群れをなして島々の間を行き来したと申します。この島から出て、本土の高校に通うべく家を出た。当時は学生用のアパートなんぞいくらもありましたから、そういうところに下宿をしておったわけです。高校を出てからは福山にある釣具の工場でしばらく働いておったそうですが、趣味の釣りの方に入れあげた結果、本社の実働部隊だとか嘯いて野山を歩き回っているうちにさっぱり会社を辞めてしまった。もうその頃には一人娘も働きに出る頃でしたから、あとは余生を過ごすような気持ちにでもなっていたのでしょう。車がないと不便な辺りから新幹線の停まる駅前にマンションを借りまして、たまには島に残した父親の様子をみながら釣りばかりしている。どこからどう伝わったものかはわかりませんが、市役所の開催する釣り教室の講師なんかを請け負ったりして、地元でもそこそこ有名な釣り爺さんとしてそこそこ名のしれた存在になったんだそうな。あっしまったこれではぬみとつながらない。ここからどうやったらぬみにつながるのか。さあ腕の見せ所ですよサヌキさん。

 ラバギザバテルは天からの贈り物である。そう、健康食品のパンフレットに書いてありました。
 まぁ、で結局そういうのが出てきたのが比婆山だったんですよ。知ってますか比婆山。ヒバゴンって。知らない? あの、ネッシーとかUFOとかそういうのの跋扈した時代についでに出てきた。そうそうそうつちのこの仲間です。あれの仲間の中に、比婆山のヒバゴンというのがおりまして……というのはこっちに置いといて、ラバギザバテルが比婆山で取れるというのがわかったわけです。あれ、生物学的にはきのこの、菌類の一種だと思うんですが、酸素と激しく反応し続けるので大体常々ほかほかしている。これは日本でとれるというので金の匂いを嗅ぎつけた菜西さん。この人、山師の界隈では菜西天皇と呼ばれる人ですが、この人と浅野老人がばったりであってしまった。かたや平成の糸井重里、もとい埋蔵金発掘王、かたや実地試験と称して釣り道具を片手に中国山地を踏破した釣りキチ野郎。何も起きないはずはなく、浅野老人に結構な額をふっかけて道案内をさせたそうな。で、野を覆う大量のラバギラバテルを刈っては売り獲っては売り。一時でもずいぶん儲かったと申します。
 世界的な人気を誇る健康食品ということで、東京に住む孫娘の恋ちゃん(大学生)も大喜びと聞きました。さっそく帰省に合わせておばあさんに大きな大きなヌミリュサバギド入りのニシンのパイを作らせますが、あいにく弟の真司くん(高校生)がヘルパンギーナで来られない。普通は幼児がかかるものと相場のヘルパンギーナにかかってしまってぐんにょりしている。
 泣く泣く帰省旅行はパーになったものの残されたのは大きなパイ。「こんなもんよう食わんけえ」の本音を押し隠しつつ魔女の宅急便に配達を依頼する、大雨の中必死で山陽道から京都を経て東海道を東へ東へ、やっとたどり着いたら「私、このパイ嫌いなのよねー」――繋がりました繋がりました。以上、老人とぬみ! おしょまい! あ、まだ四〇〇字もあるんですか。
 話は悩んでいた。こんな作者のもとに生まれてしまったことを恨んでいた。せっかく話として展開し、ゆくゆくは世界文学全集にでも入ろうかという志も――表には出さないにせよ胸のうちに多少は秘めていたというのに、やれラバギザバテルだの、瀬戸内だのと連れ回されているうちになんとなく終わりを迎えようとしている。こうして書かれて投稿されたあとは広大無辺なインターネット中の塵芥のようなテキストの一部として、「魔女の宅急便」や「ヘルパンギーナ」でネット検索してしまった人の特に興味の大賞にならないまま打ち捨てられていくのだろう。話は行く先を悲観し、来し方の虚無に呆然とし、そして静かに不毛に出荷されていきました。
 世はおしなべて事もなしであります。そう思えているうちは。おそらくは。
実録ドキュメント 老人とぬみ    サヌキマオ

江進士
蛮人S

 夜が更けていく。窓の外では、頻りに雪が降っている。
 こうは、晴れてこのたび科挙試験の合格を果たした進士である。北京へと上る旅の宿で、江は独り酒盃を傾けつつ、窓からの雪舞う夜の景色を窺っていた。
(まるで、酒も凍らんばかりの冷たさだな……)
 寒々とした眺めに、思わず背筋を震わせた江進士の目に、街路をゆっくりと歩んでくる一人の男の姿が映った。
(ええっ?)
 江は驚いた。この雪降り積もる夜道で、男が身に纏っているのは夏物のような葛布くずふばかりであった。その足元に至ってはなんと素足である。ずくり、ずくりと雪を踏み、寒さに身を縮こますこともなく、急ぐ様子もなく、ただただ悠然と歩みを進めているのであった。
(何だ、あれは。あれは、いったい何者だ)
 とても常人とは思えぬ。しかし狂っているとも見えなかった。こうなると江進士は、居ても立ってもおられない。このまま宿の前を素通りさせては、気になって今夜は眠れぬことであろう。思わず戸口から飛び出すと、男の前に拱手こうしゆして礼を施した。
 男からは何の返礼もない。何の反応も為さぬまま、行き過ぎようとした。江は言葉をかけた。
「もし、いったい、あなたはお寒くないのでしょうか」
 男は何も答えず、歩みを停めようともしない。
「いかがでしょう、よろしければ私と酒でも飲みませんか」
 江が誘うと、男はようやく足を停め、深く頷いた。江は喜びも顕わに男を案内すると、宿の自分の部屋へと通した。
 部屋に入っても、男は相変わらず口を利かない。背筋を伸ばし、無言で江と対面した。改めて観察すれば、衣服は簡素であるが上品に艶を帯び、清潔なものだ。目つきは鋭い光を帯びているが、不穏な印象はない。年齢は判然としない。まるで老人のようでもあり、若者のようにも感じられたが、自分よりはかなりの年長かと江には思われた。酒盃を勧めると、男は微かに微笑み、静かにこれを飲み干した。さらに勧めれば、さらに飲み干す。いくらでも飲んだ。料理を勧めると、確かめるように味わいながらこれを平らげる。勧めればいくらでも食べた。
 どれほど飲んでも、酔った気配は一向にない。どれほど食べても、食べ飽きる様子もない。底無しかとも思える飲み食いには、江も少々驚き呆れたが、男の振る舞いは卑しさをまったく感じさせなかった。しかし相変わらず一言も発しない。江は礼を失せぬよう、丁重に姓名を尋ねてみたが、やはり何も答えない。どうも言葉が不自由なようだが、とにかく只ならぬ人物には違いあるまい、と江は思った。
 その夜は男も部屋に泊まることとなったが、結局彼が何かを語ることはなく、その素性はまったく知れぬままに朝を迎えた。雪は止み、空は晴れ渡っている。江は男と別れると、雪後の道を都へ向かって再び歩き出した。

 江進士がこの男と再会したのは三日後の昼下がり、宿場近くの街道だった。男は何の気配もなく、忽然と江の目前に立っていた。
「あなたは、先日の」
 動揺する江に構わず、葛布の男はここで初めて言葉を発した。
「なあ、君……」
「は、はい」
「先刻、道の脇に妙な奴が立っているのを見ただろう。大きな笠を被って、棒きれと提灯を手に持った奴だ……」
 突然の問いかけに戸惑いつつも、江には思い当たる節があった。
「ええ、そうですね、確かに見ましたよ。あれは僧侶でしょう」男の顔を窺いながら江は答えた。「あの人が、何か?」
 男は静かに答えた。
「奴は……今夜、君を殺そうと寝込みを襲うつもりだ。君の持っている金を、奪い取るつもりなのだ……」
「何ですって」
 意外な言葉に江は驚いた。しかし旅の道中、盗賊に襲われ金品を奪われるという話は幾多とある。思えばあの男、僧侶としてはいかにも物騒な面構えであった。前を通り過ぎる江の姿を、なにか推し量るかのように、怪しい目つきで追っていたようにも思える。あれは人殺しの盗賊だったのか。江はへたへたとその場に崩れてしまった。
「どうすれば、よろしいのでしょうか」
「なに、別に案ずることはない」
 男は事もなげに言う。
「今夜は、俺が側について守ってやるから、心配は無用だ。ただ、先に言っておかねば君もずいぶん驚くことだろうから、あらかじめ伝えに来たわけだ。まあ悪党を見逃すわけにもいかぬし、何より君には飯を食わせてもらった恩がある……」
 江は彼の言葉が不思議と心強く思われ、その夜は男と一緒に宿へ入った。男は江に向かって今夜は安心して眠るが良いと伝えると、自分は床に寝転がってしまった。
 安心しろと言われても、江はさすがに眠りに入ることができない。夜具を被って悶々としていたが、やがて夜半過ぎになって、突然重い音をたてて何かが土間に投げ出された。何事かと立ち上がって見れば、紛れもない、あの昼間の僧侶の首が、ごろんと転がされ、こちらへ向かって目を見開いている。江は悲鳴をあげた。いったい、いつの間に、何が起こったのであろうか、江にはまったく理解できず、ひたすら怖れのままに身を震わせていた。
「まあ、このような不埒な悪党は、こうする他に手は無いな……」
 いつしか傍らに腰を下ろした男が、凄惨な笑みを浮かべながら言った。右手に握った斧の刃が、灯火に鈍く光っている。
「だがな、江進士。そもそもは君が随分な大金を持ち歩いているのも一因なのだぞ。不用意にそんな事をするから、盗賊に目をつけられたりするのだ……」
「い、いや、私は……そんな、たいしたお金は」
「ハッハハハッ、君の荷袋の中身は判っているさ……」
 男は高らかに打ち笑いながら、江の所持金の詳細をひとつひとつ言い当てていった。金が何枚あり、銀が何枚あり、封識がどちらにしまってあるか……それらの言葉はすべて正確であり、顔色を失った江は、いまや倒れんばかりの有様であった。
「なあ、君……」
 男は言った。
「ひとつだけ判らない点がある。君はなぜ、ここまでの大金を持って旅をしているのだ」
「は……はい、実は――」
 江にとっては話したくない事であったが、もはや取り繕う余裕も無かった。江は、よく知られた中央の高官の名を挙げながら答えた。
「――ぜひとも、私も、偉い御方の、お引き立てにあずかりたく、この金を持参して、ご挨拶に伺おうと、そう考えていたのです」
「なんだと……」
 男の表情がみるみる強張っていった。
「失望させられたぞ……お前は、そんな卑しい性分の持ち主だったか……!」
 男は斧の柄で激しく床を打った。
「この俺としたことが、しくじった! まったく、まったく見損なったわ! 畜生、こんな事なら、あのまま……盗賊にらせておいた方が良かったぞ!」
 賊の首級を引っ掴み、立ち上がるや、ぶんっと横を向いた。窓が弾かれたように開き、吹き込んだ寒風が室内を渦巻いて灯火を吹き消した。江は頭を抱えて蹲り、上ずった声でただ叫び続けた。
「殺さないで! 殺さないでください!」
 男は無言のまま背を向け、窓からその身を踊らせるや、家々の軒を飛び渡り、夜の彼方へと紛れて消えて行った。後は静寂しじまの高みに燦めく冬の星座の見下ろすばかり、開け放たれた窓から射しこむ冷たい光を浴びたまま、江はいつまでも蹲った姿で、泣きながら震え続けていた。

 江進士は自らの品性を恥じる思いと、そして何より前途に対する恐怖によって、さらなる旅を続ける意気を完全に喪失してしまった。そのまま上京を断念し、故郷へと逃げ戻ったという。

(中国古典より)
江進士    蛮人S

一日目
今月のゲスト:白石実三

 名を呼ばれるたびに、兵卒達は一人一人あわてて席を離れた。そうして正面に将校の座した大きな卓の方へと歩いた――誰も彼も昂奮した不格好な足つきで。なかにはそういう儀式の気分に不調和とも思われる高い返事をして、一同を笑わせたものもあった。後頭部へ平たくのせた軍帽、 袖を長く膝をふくらませた軍服なども――私もその仲間の一人でありながら、軽い笑いに私をさそわずには置かなかった。いずれも今朝、軍服に着代えたばかりの人達であった。
 何のために兵達の一人一人が呼ばれるかに就いて、私は最初なにも知らなかった。後方にある私の眼には、ただ卓上にうつむいてある将校の赤い軍帽と、卓前に立ってある兵達の黒い背中が見えたばかりだった。あだかも晴れ乾いた十二月の空は、その大きな円い胸を一同の上に高くかかげていた。午後になってから、急に悪寒を覚えるような寒い日だった。
 やがて自分の姓名が呼ばれたときも、私はなんの成心もなかった。附きそいの上等兵の命令のままにポケットから認印を取り出し、狭い通路を正面の卓へと歩いた。何の装飾もない粗末な木卓のむこうには胸に幾つかの動章をさげた将校が腰かけていたが、その前に立った私を直視しようともしなかった。それにも拘らず、眼前の幅広い茶褐色の胸部、短かい顎髭の延びた肥った紅い顔は、卓前の低い腰掛に座した私の額を圧し曇らすようにした。私は漠然たるしかも峻烈な軍律のなかに、今や確実に私自身の体が置かれたのを知った。不安と憂愁とが、その瞬間に暗く胸を閉した。
 見れば眼の前の卓上には、文字を刷った赤い罫紙がひろげられてある。その薄い墨の文字が明るみに疲れた私の視神経ににじむように映った。そこに『軍人読法』と標記してあった。
『此兵員に加る者は堅く左の条件を守り違背すべからず。……長上の命令は其事の如何を問わず、 直に之に服従し、抵抗千犯の行為あるべからざる事……』
 私は読みつづけた。
『今般御読聞相成候読法の条々堅く相守り誓って違背仕る間敷候事。右宣誓如件』
 読み終って私は急に全身に突ぱるような緊張を感じた。それは眼の前の文字が盛った重大な内容が、不用意な私を驚かしたということも一つの原因であった。重ねて文字の末尾にはやはり年月日が印刷してあった。そして年月日の次には、私より先に来た人々の姓名が――ある姓名の文字は濃く、ある文字は薄く、なかには拙ないおぼつかなげの筆蹟で行を乱して記入したのもあった。私のために明けられてある行からは、まだ一二枚が白紙のままに残されてあるらしかった。私は私の背後に、すでに次の列の兵達が立っているのを知った。
『右宣誓如件』
 細い描線から成るその箇所の印刷の文字は、私の眼を通じて頭脳へと濃くつよく泌み入った。 あわただしいその瞬間に於ても、それは当然、自分から進んでなすべき誓の文字の種類であることを、私は知った。私はそっと眼の前の将校の顔をぬすみ見た。将校は退屈そうに、明るい日のなかにむしろ安易な顔の表情をして、やはりうつむいたまま懐中時計の針を見ていた。
 私の後ろにはすでに三四人の兵達が待ってみた。眼に見えない何かの力に突動かされるように、私はやがて傍らの毛筆を執った。そして薄い墨汁を含ませていそがわしく名を署した。摩りきれた筆先の描画と心臓の鼓動とが一時に旋律を合せたように感ぜられた。私は署名の下にしっかりと捺印をした。まぶしい明らかな日光のなかに軽い眩暈をおぼえた。
 繁忙な、煩瑣な、あわただしいその第一日が暮れて、やがて狭い兵舎内の室で、鉄の寝台の毛布につつまれてからも、私の胸には、まだ気がかりな黒い塊のような不安と焦燥とがわだかまっていた。それはあの卓上の赤い罫紙の文字に対してではなく、また懐中時計をながめてある将校に対する憤懣でもなかった。謂わば私自身の内にある何物かに対する焦燥であり不快な感じであった。
 生活の変動からくる過度な疲労と昂奮と刺戟とは、電燈が消されてからも、容易に私達をして眠りに入らしめなかった。寝がえりの音や、かすかな溜息の声が、濃い闇の室の所々にきかれた。外廊下から漏れてくる燈火が廊下の架の銃を照すのも何となく荒涼たる感じを添えた。天井も家具もない裸の室内は一そう寒くたよりなく、毛布の繊毛の皮膚を刺すのも私には不愉快だった。足も石のように冷えていた。
 俄かにそのとき私は刺し噛むような鋭い痛みを心の底ふかく感じた。責め詰るような鋭い内部の私語がきて、私にささやいた。
(そうだ、罪はお前のその弱い意気地ない性質に根ざしているのだ。お前のそのやましさはお前への当然の刑罰ではないか。すくなくともお前は最初の日からお前の手を以て✕✕を是認するような所為をしたではないか。お前の力の如何は問うところではない。とにかくお前にあるかぎりの力を以て他の✕✕を指摘してやらなかったのが悪いのだ……)
 続いて今日一日の特殊的な光景の場面場面が、いずれも暗い影を帯びた写真の陰画のように私の胸へとくりひろげられて来た。ある場面では明るい午前の光線のなかにおどおどと怖じるような表情をした数百人の若者達が、いずれも長い幾列かの木机に集まっていた。そのあるものは胸に白い布切を結びつけ、あるものは帽子もなしに着流しで靴を穿いていた。洋服の人もあった。朴訥な農民らしい若者もあれば、またその服装から見て一見商人であり職工であることが知れるような人もあった。そうして人々の前には、軍帽、軍服、靴、または靴下、シャツというようなものが筵の上に高く整然と積重ねられてあった。ある人は目前に怪物の眼を思わせるような建物の高い窓を見上げていた。
 それは実にこの地方のあらゆる村々から、また町々から、階級から、あらゆる境遇と事情と職業と方言とを有って駆集められて来た若者達が、すべてここで一たび根柢から赤裸々となり、そうして軍人という特殊な大集団の特殊な服装を與えられる光景の場面であった。あらゆる風俗、あらゆる地位、あらゆる骨格というものが、すべて今日ここで根本的に一変されようとしていた。誰人にも過去二十年の生涯のなかで、その目的に必要な素質と分量とを除外したほかは、新兵という大きな鋳型のなかで、今日から従前とは全く異ったある同一の生活に導かれようとしていた。
(その弱い仲間を裏ぎった一人が私だ。いや、そうではない、誰も彼も自分を弱いものに取りちがって考えているんだ)
 私はもう一度、同じ室に寝台をならべている新しい友達を見るようにした。全く生面の人達でありながら、すでに幾たびか相会った人達のように懐かしまれた。
 戸外にはいつか月が上ったらしく、窓々のカーテンが次第に白く明るんできた。窓に近い私が毛布の陰からそっと覗くと、冷たい床の上には火のない暖炉をめぐって数人の古兵達が何か小声に話していた。その一人は明日から、私達の監督にあたるこの室の下士勤務の上等兵だった。
『一昨年の今夜の感想はなあ……』
 他の一人がきどった語調で言った。一人は暖炉に煙管を叩きつつ、
『それよりも去年の今夜はどうだった! おらあ、あれだけ勉強をして、てっきり帰休かと思ってたんだが……』
『ここの連中も』と一人は寝台を眺めわたすような様子で『明日からまた三年きたわれるんか。でも、今年は暖かいから仕合せだ』
『おい、おい』と俄かに上等兵が戒めるような語調で言った『そんなこと言わなくっても、新兵はつけ上るんだぜ! さあ、今日もこうして暮れたか、おい、もう寝ようぜ』
『ああ、寝よう。どれ、一年を一日なしくずしたか!』
 古兵達はやがて賑やかに衣類をぬぎ、寝台へ横わるらしかった。窓々は次第に明るく、ところどころに黒い樹影を映していた。間もなく古兵達の鼾声がきこえると、再びあちらこちらから軽い溜息と寝返りの音がきかれてきた。明日からの生活を考えると、私の心はまた沈んだ。

(大正五年六月)