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3000字小説バトル

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3000字小説バトルstage3
第52回バトル 作品

参加作品一覧

(2019年 11月)
文字数
1
サヌキマオ
3000
2
アンブローズ・ビアス/ 蛮人S
3000
3
樋口一葉
2572

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あじましでお先生追悼特別番組「箱の中からはるばると」
サヌキマオ

 学校からの帰り道、アスファルトの真ん中にコンドームの箱が落ちていた。鯨出ミチルも世間一般の男子学生と同じように、コンビニで「0.01mm」なんて表記を見るたびに人知れず心拍数を上げたりしていたのだが、今だったらその未知の興奮を自分のものにできるかもしれない。穏やかな土曜日の昼下がりだ。あたりに誰もいないのを確かめて箱を拾うと学生カバンに押し込んだ。口が乾く。
 家に帰る。家は一軒家で、両親と姉と住んでいる。父親も母親も別々に仕事だし、姉は演劇部とかで夜遅く帰ってくるし、今は誰もいない。ガスコンロの下の戸棚からカップ焼きそばを引っ張り出して早々に腹を満たしてしまうと、ミチルは部屋に戻って、念のため鍵をかけた。制服を脱いで雑に片付けると、カバンから例の箱を取り出してみる。
 ?
 箱に少し違和感を感じないでもなかった。見たことのあるデザインには違いないが、たしか、コンビニに売ってるやつってなにかビニールで包まれていなかったっけ?
 しかしそんなことはどうでもいいのであった。はじめて実際に触る、性の道具だ。▼のマークの付いた箱の縁からビッと開けると、一斉にピンク色の煙が吹き出した。
「じゃじゃじゃじゃーん」
 間の抜けた声のあとで煙が段々とおさまってくると黒髪の、豊かな胸を蓄えた全裸の女の姿が現れる。
「なっ……!?」
 女は「やっと出られたあ」と大きく伸びをすると、辺りをぐるぐると見回して、床にへたり込んでいる少年に「あ、君かぁ」と安心したような声をする。
「話せば長くなることなので話さないんだけと、ぶっちゃけると、願いを百個言って。ほれ、今すぐ言え」
 ミチルを見下ろしてくる女の胸元で、柔らかく色づいた乳首がぷるん、と揺れる。
「ま、とりあえず十発やろう? ね?」

「だから早く願いを言えって言ってんだよこの野郎!」
 ミチルは汗だくでへたり込んでいる。ティッシュでぞんざいにくるまれたコンドームがみっつ転がっている。
「さっきから云ってるじゃないですか! 百万円欲しいって!」
「莫ッ迦オマエ、アタシに銀行かどっかから百万ぶんどってこいっていうわけ? できるわけ無いでしょ!」
「じゃあ何ができるんですか!」
 ミチルにデボゲラなんちゃら(通称クロシェ)と名乗った女は両手の指で乳首を抑えると、
「エ・ロ・い・こ・と」
 とにっこり笑ってみせる。
「だからもう三回もやったじゃないですか!」
「だからよぉ、おめえそれでも学生かよー。三発くらいで音を上げやがって。あと九十七回だよ! あと九十七回あんたの願いを叶えたら、あたしは開放されるんだから」
 クロシェはぬらっ、と寄ってきてミチルの腰に頬ずりしようとする。
「ほら、こんなにきれーなおねーさんを一日三発、あとえーと、二十日くらい好きにして」
「あーーーっ!」
「なによいきなり叫んで」
「姉貴が帰ってくる!」
「なによ、姉貴? あんた、お姉ちゃんいるの?」
「そうだよ――まずいじゃん、これ、このままおねえさんをうちに置いておくわけにいけないんじゃん!」
 急に顔面蒼白になってうろたえるミチルにあっけにとられていたクロシェなんちゃらだったが、だんだんとニマニマし始めた。
「ま、こうなったら仕方ないよ。えっとあんた」
「ミチルです」
「じゃあミッチー」
「みっちー!?」
「こうなたらしょうがない。正直にお姉ちゃんに言うんだ。僕はこのお姉さんの封印を解いてしまったばかりにあと九十七回セックスをしなければなりません、って」
「なんでしれっとセックスに特化した話になってるんですか!」
「馬鹿野郎! あたしに他に出来ることがあると本当に思ってんのか!」
「だから何が出来るかって聞いてんでしょうが!」
「なるほど!」
 話しているうちに脳の回線がつながったような顔をして、クロシェは言い放った。
「ところでミッチー、ここは、どこ? 日本?」
「練馬区です! 東京都練馬区!」
「最寄りの駅は!」
「武蔵関です!」
「なるほど! 案外ウチから近い! ちょっと電話貸して!」
 クロシェはミチルのケータイを操作すると病院の電話番号を調べていた。元興寺クリニックという病院のサイトを探り当てると、おもむろに電話をかけ始めた。
「あ、いつもの看護婦か。院長出して。そう――あ、タッくん? アタシアタシ。ね、カルテからうちの番号教えてくれない? ちょっとワケアリでスマホがなくてさ、え、この電話? いいじゃん、そのへんの人のを借りてんだよ。あ、うんうん、03の――」
 取って返して今聞いた電話番号。
「あ、もしもしお母さん? アタシアタシ。ごめんごめん無事です。え、今、いつ? 十一月の、へぇー、ごめん知らなかった、じゃなかった。ちょっと色々あってさ、修行してるから。今度から定期的に電話するから――だから悪かったって。警察? ああそう、適当に言っといて。まぁ、用が済んだら帰ります。じゃあ」
 クロシェは通話を終えるとミチルにスマホを差し出した。
「もう十一月なのかぁ。そうかぁ、あたしゃ二ヶ月もあの箱の中にいたんだなぁ」
「あの、どういうことか、聞いてもいいですかね?」
「ああ、そりゃああれよ、すっっげぇ怒られたんだ。神様に」
「というと?」
「ピー―を無理矢理アッハーーンしたらピー――がブチ切れちゃって。そうしたらあの箱に無理やり」
「わからんわからん」
 まぁまぁ、とクロシェはミチルの股間を優しく握ってくる。
「で、願いは見つかったかね」
「今すぐこの家から出ていってください!」
「わかったわかった、それも願い事だと思えば聞きもしようさ。で、」
 クロシェはミチルのスマホを見る。二時半を回っていた。
「あと二時間くらい、夕方までに何発出来るかな?」

「ということがありまして」
「ありまして、ではない」
 いつもの居酒屋「のづち」である。ここの煮込みをあてに飲むのも久しぶりだ。クロシェはもうすでに駆けつけ三杯の日本酒を片付けて出来上がりつつある。
「恥ずかしながら帰って参りました。さて、どうやったでしょう」
「面倒くせえな」
 久しぶりに逢うミミミはどういう風の吹き回しか、脱色していた髪をうっすらピンクに染めている。
「面倒くせえってどういうことよ」
「聞きたいか俺の武勇伝、って顔に書いてある」
「え、そんなことないよ、苦労したんだから」
「その『苦労した』っていうのも武勇伝に入るのよ」
「まぁなんでもいいや。それからはアタシ、ドラえもん状態よ」
「押し入れで寝てたの!?」
 あながち冗談でもなかったらしく、クロシェは否定しなかった。
「次の日から友だちを連れてきやがって」
「はあ」
「どうかこいつにヤラせてやってください、って次から次へと」
「それであんた?」
「そのうちなんかね、だんだんその子の羽振りがよくなってくるのよ。差し入れてくれる食事もはじめはコンビニのおにぎりとかだったんだけど、すぐ千円くらいのお弁当にクラスチェンジしたし」
「なんだかなぁ」
「で、すぐにバレちゃって」クロシェはだはーっ、と笑うとコップの酒を一気に飲み干した。「どうしてあの頃の子って黙ってられないんだろうね。自分がそういうオイシイ目に遭うと」
「で、どうしたの?」
「んふっ、彼がiPadだかなんだか買ったところで、流石に家族に問い詰められて。このタイミングであたしが刑期明けですよ」
 この後、ミチルが元興寺クリニックへの送信記録を手がかりにクロシェを探しに来るのだが、それはまた別の話。
あじましでお先生追悼特別番組「箱の中からはるばると」 サヌキマオ

不完全な大火
蛮人S/訳
アンブローズ・ビアス/原作

 一八七二年、六月一日の早朝、私は父を殺害しました。
 当時の私にとっては、深い印象を残した行為でした。結婚前のことで、私は両親とウィスコンシン州に住んでいました。私と父は、家の書斎で、その日に犯した夜盗による戦利品を分配していました。これはおよそ家庭の用品からなり、公平に分ける事は困難でした。ナプキンやタオルやそんなものから、銀食器までは上手く均等に分ける事が出来ましたが、一つのオルゴール、これを何の揉め事もなく分割する事は無理でした。私達の家族に、災難と不名誉をもたらしたオルゴールです。もし、それを盗まず残してきたならば、可哀想な父は今も生きていたかもしれません。
 それは職人の技による、最も美しく精巧な作品でした――高級な木材で象眼され、非常に珍しい彫刻が施されていました。そして多彩な曲を演奏するばかりでなく、ウズラのように叫び、犬のように吠え、そしてねじを巻こうが巻くまいが毎日――安息日でも――朝の光の射す頃に啼き出すのです。この最後に述べた辺りの出来栄えが、私の父の心を勝ち取り、人生で唯一の恥知らずな行為へと導いたわけですが、もし彼がそれを免れていても、さらに多くの罪を犯したかもしれません。彼はオルゴールの事を私から隠そうとし、誓って自分ではそんなものは盗んでいないと言い張ったのです。しかし私にはよく分かっていました、彼が気を揉む関心事を思えば、このオルゴールを手に入れる事こそが盗みの本来の目的だったのです。
 私達は変装のためマントを被っていましたが、父はその中にオルゴールを隠し持っていました。父は厳然とした風に、儂は確かに持ってはおらんぞと念を押しましたが、私には彼の行為は分かっていましたし、そして恐らく父は気付いているまい、ある事も分かっていました。つまり分配の作業を日の出の時刻まで引き伸ばせば、オルゴールは彼を裏切り、啼き声をあげるのだということを。すべては私の思い通りに起こりました――書斎のガス灯が淡くなり始め、カーテンの後ろから窓の影がぼんやりと見えてきた頃、老紳士のマントの下から、ニワトリの長い啼き声が響き渡りました。続いてタンホイザーのアリアが何小節か流れ、ガチャンと大きな音で終わりました。
 不運な家に侵入するために使った小さい手斧が、私たちの間のテーブルにあります。私はそれを掴みあげました。これ以上は隠しても無駄だと悟った老人は、マントの下から小箱を取り出し、テーブルの上に置きました。
「やりたければ、これを真っ二つにするが良い」彼は言いました。「でも儂は、こいつを守りたいと思っている」
 父は、情熱的な音楽愛好家でありました。手風琴コンサーティーナを、表現と感情豊かに演奏することができました。
 私は言いました。
「裏切りの動機が純粋だったか、不純であったか、そんな事を尋ねる気はありません――父親を裁きにかけるというのは、僕にとっては僭越な行為です。しかし、ビジネスはビジネスだ……僕はこの斧をもって、あんたとのパートナーシップの、解消を果たそうと思う。それともあんた、これからはベルの小箱を身に着けて、僕から何か盗むたびに釦を押してくれるって約束できるかい?」
「だめだ」と彼は言いました。「だめだ、そんな真似はできない。不正直を告白するようなものだ。儂は息子に信用されてないんだって誰もが言うだろう」
 父の精神と繊細な感受性には、私も感服を禁じ得ませんでした。しばらくの間、私は彼を誇らしく感じ、彼の過ちを看過する気持ちすら起こしていたのですが、宝石に飾られた豪華なオルゴールを見ると、決意も固まりました。そして、私は先刻の言葉の通りに――この憂いに満ちた「涙の谷」から、老人を救済してやりました。
 事を済ませて、私はささやかな不安の内にありました。彼が私の父親――私の存在の創造者という事もありますが、その死体は確実に発見されるでしょうから。日も明るく昇った今、母親はすぐにも書斎に入って来るかも知れません。そのような状況下で、彼女もまた同じように救ってやるのが得策であろうと私は思い、即ちそうしました。それから、私は使用人らに給金を払い、全員追い出しました。

 その日の午後、私は警察署長の所へ行き、私のやった事を話して、彼の助言を求めました。事実が公にされれば、私にとって非常な痛手となるでしょう。私の行為は一般的には非難されます。私が公職に立候補でもすれば、新聞は私を貶めようと書き立てるでしょう。署長はこうした考慮すべき事態の力を理解していますし、彼自身、署長として人を生かすも死なすも幅広い経験の持ち主でした。彼は便利な管轄裁判所の裁判長とも相談し、書棚の一つに遺体を隠し、家に高い保険金を掛けて燃やすようにとアドバイスをくれました。私は実行を進めました。
 書斎には、どこかの妙な発明家から購入したという書棚があり、中はまだ空いていました。クローゼットのない寝室によくある、昔ながらのワードローブのような形と大きさで、女性のナイトドレスさながらに上から下まで開くガラスの扉がありました。葬儀への支度をされたばかりの両親は、直立させるには十分に堅くなっていました。棚を外した書棚に彼らを立てました。私はそれに鍵をかけ、カーテンをピンで留めてガラスを覆いました。保険事務所の調査員は、このケースの前を五、六回、疑いもなく通り過ぎました。
 その夜、段取りを固めた私は家に火をつけ、森を抜けて二マイル離れた町へと向かいました。そこで興奮が最高潮に達する時を見計らい、両親の運命に対する不安の叫びとともに、殺到する人々に急いで加わり、火をつけてから二時間ばかりで現場に到着しました。私が駆けつけた時、町じゅうの者がそこに居りました。家は完全に焼け落ちていました。しかし、真っ赤な燃えさしの床の一方の端に、無傷で真っ直ぐ立っているもの、それは、あの書棚でした!
 カーテンは燃え尽き、ガラスの扉は露出し、荒れ狂った赤い光が中身を照らし出していました。そこには親愛なる父が、生きていたままのお姿でin his habit as he lived立ち、その隣には、彼の喜びと悲しみのパートナーが立って居ました。彼らの髪は焦げてもおらず、衣服もそのままでした。二人の頭部と喉元には、私の企みを遂行した時に負わせた傷が際立っていました。奇跡の顕れを目の当たりにするように、人々は静まり返っていました。畏敬と恐怖とが、すべての声を喪わせていました。私自身も激しく動揺していました……

 およそ三年の時が過ぎ、ここに関連する出来事が私の記憶からほとんど薄れたころ、私はニューヨークで、アメリカ国債の偽造證券を通す仕事をアシストしていました。ある日、何の気なしに家具の店を覗き込んだ時、私はあの書棚とまさしく同じものを眼にしました。
「とある改革的な発明家から、格安で買い取りましてねえ」と業者は説明しました。「耐火性があって、ミョウバンを圧力充填した木材、アスベスト製のガラスで出来ているって言ってましたけれど、まあ実際のところ、耐火性なんて期待できないと思います――普通の本箱のお値段で、お売りいたしますよ?」
「いや……」と私は言いました。「耐火性が保証できないのなら、別に要らないよ」そして彼にさよならを告げました。
 どんな値段であっても、そいつを手に入れたりはしません――私の、非常に不快な記憶を蘇らせるものですから。
不完全な大火 アンブローズ・ビアス

うらむらさき
今月のゲスト:樋口一葉

 夕暮の店先に郵便脚夫が投げ込んで行きし女文字の書状ふみ一通、炬燵の洋燈らんぷのかげに読んで、くるくると帯の間へ巻き収むれば起居たちいに心の配られて物案じなる事一通りならず、おのずと色に見えて、結構人けっこうじんの旦那どの、うぞしたかとお問いのかかるに、いえ、格別の事でも御座りますまいけれど、仲町の姉が何やら心配の事が有るほどに、此方こちから行けば宜いのなれど、やかましやの良人おっとが暇というては毛筋ほども明けさせてくれぬ五月蠅うるささ、夜分なりと帰りは此方こちから送らしょうほどにお良人うちに願うてちょっと来て呉れられまいか、待っている、という文面ふみで御座ります、また継娘ままむすめ紛紜もめでも起りましたのか、気の狭い人なれば何事も口にはえ言わで、たんと胸を痛くするがの人の性分、困りもので御座ります、とてわざとの高笑いをして聞かせれば、はてさて気の毒なと太い眉を寄せて、お前にすればたった一人の同胞きょうだい善悪よしあしともに分けて聞かねばならぬ役を笑い事にしては置かれまい、何事の相談か行って様子を見たらば宜かろう、女は気の狭いもの、待つとなっては一時も十年のように思われるであろうを、お前のおこたりを私のせいに取られて恨まれても徳の行かぬ事、夜は格別の用も無し、早く行って聞いてやるがよかろう、とあゆき妻が姉の事なれば、優しき許しの願わずして出るに、飛び立つほど嬉しいを此方はわざと色にも見せず、では行きましょうかと不勝不勝ふしょうぶしょうに箪笥へ手をかくれば、不実な事を言わずと早く行ってやれ、先方は何れほど待っているか知れはせぬぞ、と知らぬ事なれば仏性ほとけしょうの旦那どの急き立つるに、心の鬼やおのずと面ぼてりして、胸には動悸の波たかかり。
 糸織の小袖を重ねて、縮緬の羽織にお高祖こそ頭巾、せいの高き人なれば夜風を厭う角袖外套のうつり能く、では行って来ますると店口に駒下駄直させながら、太吉、太吉と小僧の背を人さし指の先に突いて、お舟こぐ真似に精の出て店の品をばちょろまかされぬようにしておくれ、私の帰りが遅いようなら構わずと戸をば下して、あんあたるならいつでも床の中へ入れて置いては成らないぞえ、さんは台所の火のもとを心づけて、旦那のお枕もとへは例の通りお湯わかしにお烟草盆、忘れぬようにして御不自由させますな、なるたけ早くは帰ろうけれど、と硝子戸に手をかくれば、旦那どの声をかけて車を言うてやらぬか、どうで歩いては行かれまいにと甘たるき言葉、何の商人あきんどの女房が店から車に乗り出すは栄耀えいようの沙汰で御座ります、そこらの角からいほどに値切って乗って参りましょ、これでも勘定は知っていますに、と可愛らしい声にて笑えば、世帯じみた事をと旦那どのが恐悦顔、見ぬようにして妻は表へ立ち出でしが大空を見上げてほっと息を吐く時、曇れるようの面持ちいとど雲深う成りぬ。
 どこの姉様からお手紙が来ようぞ、真っ赤な嘘をと我家の見返られて、何事も御存じなしによいお顔をして暇を下さる勿体なさ、あのような毒の無い、物疑いというては露ほどもお持ちなさらぬ心のうつくしい人を、ようもようも舌三寸に欺しつけて心のままの不義放埒、これがまあ人の女房の所業しわざであろうか、何という悪者の、人でなしの、法も道理も無茶苦茶の犬畜生のような心であろう、このようないたずらの畜生をば、御存じの無い事とて天にも地にも無いかのように可愛がってくだすって、私が事と言えば御自分の身を無い物にして言葉を立てさせて下さる思し召し、ありがたい嬉しい恐ろしい、あまりの勿体なさに涙がこぼれる、あのような良人を持つ身の何が不足で剣の刃渡りするような危ない計画をするのやら、可愛そうにあの人のよい仲町の姉さんまでを引き合いにして三方四方嘘で固めて、この足はまあ何処へ向く、思えば私は悪党、人でなし、いたずら者の不義者の、まあ何という心得違い、と辻に立って歩みも得やらず、横町の角二つ曲りて今は我家の軒は見えぬを、振りかえりては熱き涙のはらはらとこぼれぬ。
 良人の名は小松原東二郎、西洋小間物の店は名ばかりに、ありあまる身代を蔵の中に寝かして、さりとは当世の算用知らぬ人好し男に、恋女房のお律が手ばしこさ奥も表も平手に揉んで、美しいまなじり良人おっとが立つ腹をも柔らげれば、可愛らしい口元からお客様への世辞も出る、年もねっから行きなさらぬにお怜悧りこうなお内儀かみさまと見るほどの人褒め物の、この人この身が裏道の働き、人は知らじと自らくらませども、優しき良人が心ざし生憎あいにくまつわる心地してお律は路傍に立ちすくみしまま、行くまいか行くまいか、いっそ思い切って行くまいか、今日までの罪は今日までの罪、今から私が気さえ改めれば、彼のお人とてさのみ未練は仰るまじく、お互いに浅い交際つきあいをして人知らぬうちにけがれをすすいでしまったなら、今から後のあの方のため、私のため、生中なまなかこがれて付きまとうたとて、晴れて添われる仲ではなし、可愛い人に不義の名を着せて少しもこれが世間に知れたら何としょう、私は兎も角あの方はこれからの御出世まえ一生を暗黒にさせましてそれで私は満足に思われようか、おお厭なこと恐ろしい、何と思うて私は逢いに出て来たか、よしやお文が千通来ようと行きさえせねばお互い疵にはなるまいもの、もう思い切って帰りましょう、帰りましょう、帰りましょう、帰りましょう、ええ、もう私は思い切ったとみち引き違えて駒下駄を返せば、あいにく夜風の身に寒く、夢のようなる考えまたもやふっと吹き破られて、ええ、私はそのような心弱い事に引かれてなろうか、最初あの家に嫁入りする時から、東二郎どのを良人と定めて行ったのではないものを、形は行っても心は決して遣るまいと決めておいたを、今さらになって何の義理わり、悪人でも、いたずらでも構いはない、お気に入らずばお捨てなされ、捨てられれば結句本望、あのような愚物様を良人に奉って吉岡さんを袖にするような考えを、なぜしばらくでも持ったのであろう、私の命が有る限り、逢い通しましょ切れますまい、良人を持とうと奥様お出来なさろうとこの約束は破るまいと言うておいたを、誰がどのように優しかろうと、有難い事を言うてくれようと、私の良人は吉岡さんの外には無いものを、もう何事も思いますまい思いますまいとて頭巾の上から耳を押えて急ぎ足に五六歩かけ出せば、胸の動悸のいつしか絶えて、心静かに気の冴えて色なき唇には冷ややかなる笑みさえ浮かびぬ。

(未定稿)