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3000字小説バトル

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3000字小説バトル stage3
第53回バトル 作品

参加作品一覧

(2019年12月)
文字数
1
サヌキマオ
3000
2
アンブローズ・ビアス/ 蛮人S
3000
3
島崎藤村
2007

結果発表

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コミュニケーション

QSHOBOU掲示板

ロバの耳の生えた王様(全裸)
サヌキマオ

 私立万歳学園。中高一貫で二千人の生徒を抱える都内のマンモス高校である。
「いや、それっておかしくない?」
 郊外には運動部専用の広大なグラウンドを持つ野球部で有名だが、最近になって野球部を凌ぐ人気となりつつあるのが演劇部である。
「え、どこが?」
 文化祭公演や中高演劇の大会で多くの人の心を打つとか打たないとか。
「王様の耳はロバの耳、って云ったのは子供じゃないわよ」
「うっそだー。王様の耳はロバの耳ーって看破されて、王様が大恥かく話だよ、アレ」
「そこは合ってる。でも、子供じゃない」
「だって、子供いるじゃん。パレードで指さして笑うんだよ」
「じゃあ、その子供はどうやって王様がロバだって気づいたのよ」
「ぐっ」
 といったこととは特に関係のない月曜の昼休み。高校二年生のクラスが並ぶ校舎本館二階にはコモンスペースと呼ばれる広間があって、点在する丸テーブルでは生徒たちが各々お弁当を食べたり、憩いの時を過ごしたりしている。
 演劇部員・墨家青子は独りで昼食を食べている。いかにも「女子向け」という大きさのランチボックスではあるが、青い。青いボディに碧い蓋。ランチボックス、と呼ぶにはあまりにも凛々しい箱に箸を伸ばしている。たっぷりとした栗色の髪に表情は隠れがちだが、レンズの厚いメガネが強いインパクトになって、神経質そうな印象を持たせていた。
「……?」
 コモンスペースの周囲の壁沿いはベンチになっている。ベンチには同じく演劇部員の俵村曲が座っていて、「ロバの耳」の出どころについてブツブツと考えている。青子はベンチから聴こえるブツブツ云う声にしばらく耳を傾けていたが、また米粒の咀嚼に戻り始める。
「そうか、床屋だ」
 と声がしたが見向きもしない。
「床屋がいたんだよ、お抱えの床屋が。それで、王様の髪を切るときに耳が見えちゃうから」
「ずいぶん正解に近づいてきたじゃない」
 そうだよ。で、王様から黙ってろって命令されるんだけど、我慢ができない。
 声の主は青子の正面の椅子にやってきて座り直す。この年頃の女子には珍しいくらいのベリーショートで、というのはちょっとした誤解で、たしかに肩まで髪の毛はあるのだが、青子とは対照的に髪の量が少ないのであろう。ぺったりとした印象は曲を中性的に見せた。
「で、『王様はロバだ―』って袋に叫ぶんでしょ?」
「ずれてきたずれてきた」
「ええ?」
 困惑がすぐに顔に出る。相変わらずはっきりした眉毛だなぁ、と青子は思う。
 一年生で出くわした時から、全く印象は変わらない。
「だって、その先は判るよ?『王様はロバだ―』って袋の中に溜め込みすぎて、最後には袋がパーン、って」
「まーたズレてきた」
「いや待って、待って……袋が違う?」
「そう」
「穴に入れて、埋める?」
「……そう?」
 おや。青子も自信がなくなってきた。
「で、春が来ると芽が出て膨らんで、成った実から『王様は裸だ―』って」
「今のは、わざとだな?」
 ランチボックスの中身を口に詰め終えると、青子は視線をぼかしてひたすらに咀嚼した。視界の隅では曲が、青子が飯を飲み込むのをじっと待っている。
「井戸、よ」
 ペットボトルの紅茶を口に含む。眉を上げて考えこむまがるを観察する番だ。
「井戸だっけ」
「そうよ、井戸に叫んじゃうから、地下を通して街中の井戸という井戸から聞こえてくるのよ」
「正直、どうもしっくりこない」
「そう仰られましても」
「否、しかしだキミ、人間、思い違いということはあるんじゃろうがね」
 曲は青子のペットボトルに手を伸ばそうとして、叩かれる。
「子供はどこに行ったのかね」
「だからその子供が思い違い、なのよ」
「そう……」
「そう、よ。王様はロバの耳なんだけど、理容師には黙っている訳にはいかない。だから理容師には『喋ったら首を刎ねる』位の約束はさせてた。ところが黙っていられないから、井戸に叫ぶ。井戸を通じて街中にばれちゃった、という話だよ」
「オチは?」
「……あ~あ、バレちゃった、という部分じゃないの?」
「そんな軟弱なオチ、私は認めないぞ」
 ふっ、と笑うような溜息を付くような。青子はランチボックスを片付ける。
「どこか行くのか?」
「どこか、って次の時間は音楽よ。あんたも移動でしょう」
「ああ――そうだっけ?」
「置いてくわよ」
 青子が教室へ帰ろうとすると、曲がひょこひょこと後をついてくる。
「ねぇ」
「うん?」
「子供はどこにいったの?」
「だから、子供は、裸なのよ」
「子供が?」
「王様がよ」

 音楽の授業ではずっと歌を歌っている。
 考えてみれば、五十分授業の内、少なくとも三十五分くらいは歌っているのである。
 部活だったら、三十五分も発声練習しないぞ。
 一日の部活は四時から始まって、六時までしか無いのである。
 そう考えると、授業ってハードなんだな。
(なんだか朝、いきなりロバの耳が生えてたらどうしよう)
 全員で歌うのに紛れて窓の外を盗み見る。好天に富士山がよく映える。雲ひとつない快晴だった。
(うちの兄ちゃんたちだったら、どういうリアクションをするだろうな)
 歌唱で汗ばんだ手のひらで、そっと耳の上を押さえる。
(もっとこう、たっぷりとした感じになるはずだ。耳なんか、もしゃもしゃとして」
「たわむらさんっ」
 はっと我に返ると、先生を皮切りに、クラス中の視線がぱたぱたぱたと波状に、こちらに向かってくるのがわかった。
「あの、すみません。ぼーっとしてました」
 慌てて視線を泳がせると、横向きの青子の顔があって、表情はわからなかった。
 ただし「私は他人です」と側頭部にありありと書いてあるようだった。

「あっはっはっは、あの王様は、裸じゃあないか―!」
 周囲の視線が集中するのがわかる。そんなセリフ、ないものな。
 放課後、演劇部の発声練習。伝統的に(顧問が考えたらしいけど)演劇部の発声練習とは、自分に与えられたセリフを本番どおりに喋り続けることだ。
 曲もはじめは随分疑わしく思っていたけれど、たまたま深夜にやっていた、人気アイドルの舞台裏を追う番組を見ていて途端に納得がいった。
 そのアイドルたちも、普段から特殊な訓練をするわけではなくて、与えられた楽曲を完璧に「踊りながら歌える」まで練習するのだという。
 そうすると、踊りながら歌える、必要に足りるだけ身体が鍛えられるというわけだ。
「おいおい何を云っている」
 急な声色にはっとして見れば、青子が「おい大臣、あの子供は一体何を云っているのだ」と続けてくる。
 必然的に、ノリの良い部員がわらわらと集まってくる。
「いやはや、あれはただの子供でございます。己の妄想と現実の区別がつかんのでございましょう」
「いや、……もしかするとあの子供は真実の目を持っているのかもしれませぬ、セキシン! あの子供は王様のセキシンを見抜いておるのです!」
「……セキシンって、なに?」
 大臣役で乗っかってきた花戸部長がキョトンとした顔で尋ねると、セキシンと云った麻実ちゃんが「あの、赤い心です。ピュアとゆーかなんとゆーか」と目を白黒させる。
「そーかそーか、じゃあセキシン、それだ。わしゃあピュアオブザイヤーなのであの子供の首を撥ねい」
 どこがピュアやねーん! とツッコミが入ってみんなでどっと沸き立つ。
(王様にも二種類あって、裸になるやつと、ロバの耳が生えるやつだ)
 急に格言めいたものが曲の中に芽生えたが、特に意味は思いつかなかった。
ロバの耳の生えた王様(全裸)    サヌキマオ

スプーク・ハウス
蛮人S/翻訳
アンブローズ・ビアス/原作

 一八六二年、ケンタッキー州東部、マンチェスターから、二十マイル先のブーンビルまで、北へと続く道沿いに、その辺りの概ねの住居よりはやや上級な、木造のプランテーションハウスがあった。家は翌年、火災によって崩れ落ちた――おそらくは、北軍のジョージ・W・モーガン将軍の部隊が、カービー・スミス将軍によってカンバーランド峠からオハイオ川へ追いやられた際、退却の列の落伍者あたりが起こした火なのであろう。その時まで、家は四、五年にわたって空家であった。周囲の野原にはいばらが生い茂り、フェンスは失われ、周辺の幾つかの黒人小屋、離れの納屋までは、放置と略奪のためほぼ解体され廃墟と化していた。近隣の黒人や裕福でない白人たちは、昼間であれば公然と、豊富な焚き木をここから得ていた。だが、日の暮れた後に近づく者は、たまたま通る余所よそ者以外、誰も居なかった。
 そこは「幽霊屋敷スプーク・ハウス」として知られていた。邪悪な霊の棲み家――目に見え、耳に聞こえる活発な悪霊の屋敷であり、地域の住民は、巡回牧師の日曜日の説教よりもなお、悪霊の存在に疑念を抱かなかった。この件について、家の持ち主の声は聞かれない。彼とその家族は、ある日の夜に姿を消したまま、消息不明なのであった。彼らは総てを残して消えた。家財一式、衣類、食料、馬小屋の馬、野原の牛、黒人小屋の黒人も、みな残されていた。それ以外は消えてしまった――男性一人、女性が一人、三人の女の子、男の子、そして赤ん坊! 七人の家族が誰にも知られず、同時に姿を消した農場とあれば、畏れ怪しがられるのも当然である。

 一八五九年六月のある夜、フランクフォートの二人の市民、弁護士のJ・C・マッカードル大佐、州の民兵マイロン・ヴェイ判事は、ブーンビルからマンチェスターへと馬車を駆っていた。両名は非常に重要な仕事を抱えていたため、暗闇と迫り来る嵐の囁きにも拘らず強行を決めたが、結局は断念する事となった。それはちょうど「幽霊屋敷」の前に着く頃であった。絶え間ない稲妻の光の下、二人は入口から小屋への道を辿り、そこで馬たちを繋いで牽き具ハーネスを外した。打ちつける風雨の中を家へ進み、幾つかのドアを叩いたが何の応答も無い。鳴り渡る雷のせいかとドアの一つを押すと、それは開いた。二人はもう遠慮もなく中へ入り、ドアを閉ざした。瞬間、彼らは暗闇と静寂のただ中にあった。間断ない稲妻の光は窓も隙間も透らず、荒れ狂う雷雨の響きも囁きほどにも届かなかった。二人は突如目も耳も喪ったかのようだった。この時マッカードルは、自分はドアの敷居を越えるとき雷に撃たれ死んだのかと思った、と語っている。この先は、一八七六年八月六日のフランクフォート・アドヴォケート紙の記事における彼自身の言葉によって物語ろう。

「――雷から沈黙へと移った驚異的な効果から多少立ち直った時、私はまず、閉じたドアを開けたいという衝動に駆られました。自分がその時すでにノブから手を離していた事は意識に無かった、私は自分の目や耳が大丈夫か、再びドアを開け外の嵐に踏み出す事で確かめたかったのです。私は手に触れたノブを回してドアを開いた、でも、それは次の部屋への入口だったのです!

「室内は微かな、緑がかった光で溢れていました。何の光か分かりません、詳しくは見えずとも、部屋の様子はよく判りました、概ねは、ええ、実は、石壁の部屋の中にあったのは、人の死体ばかりでした。八体か、十体……いや実際数えてはいません。年齢は、いや……大きさは、みんな違っていて、子供から、男女もあった。みんな床に倒れて、一つだけ若い女の子と見える遺体が、壁の隅に、より掛かって坐っていました。別の女性の腕には赤ん坊が抱かれていました。まだ若そうな男性は、鬚だらけの男性の足に交差する形で、うつ伏せになっていました。ほとんど裸の姿が一人か二人、若い女の子は、破り開いたガウンの破片を胸元に握っていました。死体は様々な腐敗の段階にあり、顔も体もみな酷く縮んでいました。幾つかは、ほぼ骸骨の姿でした。

「この凄絶な光景の恐怖に立ちすくむ間、ドアは開けたままでしたが……理屈にできない情動で、私は衝撃的な場面から、つまらぬ細部へと関心を逸らしていました。自己防衛の本能で、心が危険な緊張を緩和しようとしたのでしょう。私はまず、開けていたドアが、リベット留めの重い鉄板である事を知りました。面取りされたドアの縁には三本の強力なかんぬき錠が、等間隔に突き出ていました。私がノブを回すと、錠は縁の高さまで引っ込みました。離すと飛び出しました。スプリングロックです。ドアの内側にはノブも、何の掴む所もなく、ただ滑らかな鉄の表面のあるばかりでした。

「興味と注意をもって見入っていた時、私は脇へ押しやられるのを感じました。激しい感情の動きの中で、存在を忘れていたヴェイ判事が、私を押しのけ部屋に入ろうとするのです。『待ってくれ!』私は叫んだ。『入るんじゃないッ……この怖ろしい所から逃げるんだ!』

「彼は私の哀願には耳を貸さず、(南部に多い大胆不敵な紳士として)部屋の中央へと素早く歩み、より詳しく調べるため遺体の一つの側にひざまずくと、黒ずんで縮んだ頭を、その手で、そっと持ち上げました。強い嫌な臭いが戸口まで湧き上がり、私を完全に打ちのめしました。私の意識は揺らぎ……よろめいて倒れるのを感じた私は、身を支えようと思わずドアの端に掴まり、それを押していました。ドアは鋭い音をたてて閉まりました……!

「そこから先は覚えていません。マンチェスターのホテルで私が理性を取り戻したのは、六週間後の事でした。事件の翌日、誰かが私を運び込んだのでした。その間、私は神経性の発熱に苦しみ、錯乱を続けていました。私はあの家から数マイル離れた道路で倒れている所を発見されたが、あそこからどう脱出し、どうやってそこに辿り着いたか分かりません。回復後、会話の許可が医師から降りると、私はすぐヴェイ判事の事を尋ねました。今にしてみれば落ち着かせるためだったのでしょう――彼は無事、自宅に戻っていると教えられました。

「誰も私の言葉を信じませんでした、誰もその真偽を追求しませんでした。誰が想像し得たか、私の失望を……そして二か月後、フランクフォートの自宅に帰った私が、あの夜からヴェイ判事の行方が分からないのだと知らされた時の絶望を……。私は深く後悔し、自分を責めました。正気を回復して最初の数日以来、私は自分のプライドのために誰からも信用されない話の繰り返しを止め、真実の主張を諦めたのです。

「その後の出来事は――家の調査、私の説明した部屋は確認できず……私の精神異常を診断する試み、そして私の告発者に対する勝利――アドヴォケートの読者はご存知の通りです。これまでの年月を経て、私はなお確信します。発掘調査がすべてを――たとえ法的に不当であっても、その資金も無いにしても――すべての秘密を明らかにするでしょう。不幸な友人の失跡の秘密、あるいはまた、今は焼け落ちた家と残骸の、先の住人と所有者に関わる秘密です。私は、調査の実行をまだ諦めてはいません。亡きヴェイ判事の家族や友人達からの、不当な敵意や理不尽な疑念によって実行が遅れている事は、私にとって深い悲しみの元です」

 マッカードル大佐は一八七九年十二月十三日、フランクフォートで世を去った。
スプーク・ハウス    アンブローズ・ビアス

黃昏
今月のゲスト:島崎藤村

 日の暮れる頃、二人は切通坂を下りて、上野広小路の方へ歩いて行った。相厭あいいとう心と相愛あいあいする心とが一緒になって、互いに物を言いたくなかった。二人は並んで黙って歩いた。
 知らない人の集まる場所へ行くことはこの節二人が快楽たのしみとするところである。何故というに、知らない人の中ほど、二人の身にとって、羞恥はじ悲痛かなしみとを忘れるに好い場所は無かった。男は彼是かれこれ四十に近い。女は二十五六である。男が今どういう事業しごとて居るか、昔の友達で答え得るものは無い。女の居所はその親ですら知らなかった。あたかも何処かの薄暗い軒下から飛び出す蝙蝠のように、こうして夕方になるとぶらぶら散歩に出掛けるのはこの二人の癖である。
 男は、ずっと底の抜けた人に生まれて来るか、さもなければ、いっそう生来拙いか、どちらかで有ったら、と思われる一人で――その証拠には、彼よりも他に迷惑を掛けて居ながら、それで其様そんなに悪く思われない者も有るし、または彼ほどの器量が無くて、更に信用されて居る人も有る。しかしながら、物をうけいれ)受ることの速い、呑込みの好い、すぐに火の燃え易いような性質の為に、彼はあらゆる社会のことを経験した。慈善事業もした。新聞も書いた。社会運動もやった。青年の味方となって演説をして歩いた時は、驚くべき才能を発揮したということである。世が変わるに伴れて、彼もまた変わった。それから鉱山に関係したという噂もあるし、樺太へ人夫を送って手を焼いたという話もある。彼は真逆方まつさかさまに世のどん底へ落ちた。もしも変節の為に斥けられるなら、暖簾を掛け替えたものは彼ばかりでは無い、いたずらで咎められるなら、身を持ち崩したものは、世に数えきれない程ある。彼のように爪弾きされるとは、そもそも何故だろう。そこがそれ、彼の人格ひとがらにある。社会よのなかから捨てられるような辛い目に逢うものは、いずれ一度は可愛がられた人だ。実に彼の生涯は、正義と汚濁けがれと、美しいことと悲しいこととの連続した珠数ずずのようである。
 女は彼に身をまかせた処女おとめの一人で、いつ自堕落に成ったともなく平気で可恥はずかしいことを言うように成った。最早もう身も世も恨み捨てて居る。昔の矜持ほこり、昔の徳操みさお、そういうものは何処へか行って了った。こういう二人も、ひどく物事に選択えりごのみをした時代があって、喧囂がやがやとした人の集まる場所なぞへは成るべく避けて立寄らないようにしたものであったが、今はその群の中に交じって、往来を通る人々を眺め楽しむように成ったのである。多数の頭に宿る好奇心、卑俗の趣味、無意味の喝采――その一時の満足ですら、二人の佗しい心を慰めた。女は時々立ち留って、流行を追う人々の風俗を見送って居た。男はまた、女の髪の香を嗅ぎながら、多くの他の情婦のことなぞを考えて歩いた。
 悲しい覚醒のおもいは来て急に男の頭脳あたまを撃ち砕くようにした。暗い、暗い彼の精神こころ内部なかへも、時とするとこういう光が明るく閃くのである。眠って居た彼の霊魂たましい遽然にわかに目を開いた。まだ世の中がこうならなかった前のことや、何年も忘れて居た友達のことや、それから死に別れた人のことなぞが胸に浮かんで来た。変節者、敗徳漢、その他あらゆる汚名を蒙って、全然まるで昔とは別人のように世間から思われて居る彼も、そう心の暗い時ばかりは無い。この初夏の黄昏のように、急に明るくなることはしばしばある。その時は、人間として高いことをも考えるのである。そうして、こういう閃光に打たれた一瞬間――彼が現在の生涯は最も惨憺たる色を帯びるのであった。悪酒に酔った後の醒め際のように、苦しい心地になって歩いて居ると、ふと広小路の曲り角のところで若い紳士風の男に邂逅でつくわした。
「やあ」
 と双方から声を掛けた。この若い紳士はある座付の作者で、それに近頃洋行帰りというのですばらしく羽振りが好い。黒人くろうと好みの夏服といい、何処となく気の利いた風采なりふりといい、五分の隙も無いと言ったようなとこは、どう見ても芝居道の人に成り済まして居た。
不相変あいかわらず、ごさかんですなあ」
 斯様こんなことを言って、若い紳士は険しい眼付きをしながら、じろじろと女の方を見た。
 二人は非常に侮辱されたような気がした。やがて、不得要領な言葉を残して置いて、ぷいと若い紳士は別れて行った。女はその後姿を見送りながら、堅く堅く男の手を握り〆めた。言うに言われぬ口惜しいという心を通わせた積りである。
 相憐あいあわれむ心が起こった。男もまた女の冷たい手を握り返した。その時、男は自分の側に憐むべき一個の人間が居るということに気がいた。その人は自分の為に一生を過って、親は言うに及ばず、親戚にも友達にも見放されて了ったということに気が注いた。その人は自分の為に矜持ほこりも失い、徳操みさおも失い、若々しい思いも失い、どんなことをしても最早もう恢復とりかえしがつかなくなって了ったということに気が注いた。「不幸な女だ」と男は心に繰り返したのである。
「何か食おう」
 こう男が言った。二人は飲食のみくいするより外の考えが無かった。女も步き出した。