≪表紙へ

3000字小説バトル

≪3000字小説バトル表紙へ

3000字小説バトルstage3
第60回バトル 作品

参加作品一覧

(2020年7月)
文字数
1
サヌキマオ
3000
2
曲亭馬琴/ 蛮人S
3000
3
夢野久作
1824

結果発表

投票結果の発表中です。

※投票の受付は終了しました。

  • QBOOKSでは原則的に作品に校正を加えません。明らかな誤字などが見つかりましても、そのまま掲載しています。ご了承ください。
  • 修正、公開停止依頼など

    QBOOKSインフォデスクのページよりご連絡ください。

コミュニケーション

QSHOBOU掲示板

customer’s voice II
サヌキマオ

 演劇部「向ヶ丘のミュゼ」本番初日。お客さんは八十人くらい。まぁ、いつもと同じ。
 あきらくんは最前列で観ていてくれた。会場は真っ暗なのでわからなかったけど、きっと舞台の上から見つけてしまったら演技どころではなかっただろう。
 LIMEでは「すげえ良かった」って褒めてくれたけど、アパートの庭に飼われている犬女の役のなにがどう「すげえ良かった」のだろう。これは問い詰めてやろう――と電話する口実は出来たけど、またつまらないことを云って気まずくなるのが怖かったし、さすがにくたびれていて自分の感情がコントロールできる気がしなかった。
 翌日、日曜も本番で千穐楽だ。中学生と高校生全員で、土日で一回ずつ公演をする。昼前、十一時頃には会場に来て、楽屋で着替えたあとに急いで昼食をとる。高校生の先輩たちもなん人か早く来ていて、学年関係なく楽屋がごちゃごちゃする。
「昨日来てたじゃん、カレシ」
 二つ上、高校二年生の花戸先輩が、同じ高二の墨家先輩をいじっている。
「当然。来るでしょうね」
 からかわれるのもどこ吹く風だ。人間、どれだけ才能や能力があるとあんなに自信満々に振る舞えるものなのだろうか。
 墨家先輩は舞台女優としても憧れの存在だし、学年では特進クラスだと聞いたことがある。雲の上の人。
「しかも最前列で」
(最前列?)
「まぁ、ああいうところは趣がないわな」
「ひゅーひゅー」
 恋愛の話だと判って周りの後輩たちも耳をそばだてているのが判る。
「しかもあれでしょ、家族連れ」
「家族っていうか、弟ね」
(弟?)
「それはもうアレだ。弟よ、あれが未来の義姉さんだ、的な?」
「うぜぇなこいつ。そんなんだから部長なんだよ」
「ちょっと云っている意味がわからない……で、森下の弟って、中学部だっけ?」
「そうなんじゃないの」
(モリシタ???)
「えーと、あ、ちょうどよかった。引酉さん」
 花戸先輩はくるりと私の方に首を回して問うた。
「森下って子、知ってる? 中三……だったと思う」

 それから四十五分後。台詞が飛んだ。慌ててフォローしたらワンシーンまるまる吹っ飛んだ。周りの役者のおかげで(おそらく)無理のないようにフォローしてもらったが、頭が真っ白のまま終演して、片付けて、帰り道。図書館棟から外に出て、梅雨時の夕暮れのムッとする空気を肌に受けるまでのことはすっかり覚えていない。
 いつまでも脳内のスクリーンを真っ白にしているわけにはいかないので、丹くんのお兄さんが墨谷先輩の彼氏だという事実だけを頭に浮かべてみた。急に心拍数が上がる。緊張すると眉毛を撫でる癖がある。平均よりはずっと立派な眉毛を持っている。眉毛に飽き足らないと両頬を撫で回す。平均よりはかなり立派な頬だ。
 あれが未来の義姉さんだ、的な。
(うわあわあああ)
 思わずその場に座り込んだ。手首の脈がぎゅんぎゅん云う音がする。何台か横を自転車が通り過ぎる音と気配がする。ややあって、背後で車のドアが開け閉めされる音がして「おーい、大丈夫か」と声をかけられる。さっきまでホールで聞こえていたようないないような声だ。
 伊武先生だ。
「なんだお前か。どうした、だいじょぶか?」
「いえ、大丈夫です。大丈夫ですんで」
「本番含め、どう考えても大丈夫ではないだろう……お前、萩窪駅か。――乗んなよ」
 萩窪の駅までは送ってもらったが、当然(と云っていいのかどうか)伊武先生には話せなかった。話したところで――話したところで、伊武先生はなんと云うだろう?

ひくとり『お兄ちゃん』
丹   『?』
ひくとり『アキラくん、お兄ちゃんと舞台観に来たの?』
丹   『そういうわけじゃないんだけど』
ひくとり『なんで』
丹   『わかんねえ』
丹   『たまたま』
ひくとり『なんでじゃなかった』
ひくとり『なんでお兄ちゃんが舞台を観に来たかは知ってるの』
ひくとり『?』
丹   『クラスの知り合いでも出てるんじゃないかな』
ひくとり『ふーん』
ひくとり『お兄さんは今、どこにいるの?』
丹   『なんで』
ひくとり『なに?』
丹   『なんで、そんなに兄貴に興味があるの?』
ひくとり『いや』
丹   『兄貴の話やめろよ』
ひくとり『兄弟で来たのが不思議だっただけ』
ひくとり『ごめん』
 家に帰って公演の感想でも聞こうと思ったけど、話は盆栽の松のようにぐねぐねとねじれていく。画面を閉じて布団に突っ伏すと、まもなく携帯がぶっ、と震える。見たくなかった。
 翌朝、夜中のことなんかすっかり忘れてスマホを開くと『感想、言っていい?』とだけメッセージが残っていた。
 嫌な女になってしまった。

 それからずっと丹くんを避けている。避けている、というか、LIMEで挨拶とかは普通にするけど、わざわざ放課後に会いに行くようなことはしなくなった。
 会いに行かないけれども、心の真中ではずっと丹くんが居座り続けている。
「ちょっと」
 駅までの路を自動運転のように歩いていたら、コンビニの自動ドアから墨家先輩がにゅっと顔を出した。
「ひゃあ」
「別に命までは取りゃしないから」
 導かれるままに店の中に連れ込まれる。私にはあまり馴染みのない栄養ドリンクの棚の前だ。
「これなんだけど」
 そういって目の前に出されたチケットには見覚えがあった。七百円くらい買い物をすると品物が当たるキャンペーンくじだ。
「これ、リボDが当たってると思うんだけど、どうしたらいいの? えーと、具体的には、チケットとともに品物を持っていけばいいのか、チケットを店員に渡せばいいのか」
「ああ、それだったら店員さんにチケットを渡せばいいんですよ」
「そっか」
 墨家先輩は迷うことなくレジの店員にチケットを持っていく。店員は「少々お待ち下さい」とさっきまで私達がいたドリンクの棚からリボDを持ってきて「どうぞ」と手渡してくれる。
「なんだか世の不条理を垣間見るわ」
 そういうと、墨家先輩は私にドリンクを押し付けてくる。
「いや、そんな、いいですって」
「いいのよ、私は人にものを教わったらきっちりお礼をする人間なの。滅多にないことだから」
「墨家先輩はその、つまり浦島太郎の亀みたいな人なんですね?」
「いい度胸してんじゃないの」
 あ、しまった、と思った。なんでそこで「乙姫様」とか云えないのだろう。
「まぁ、亀か」
 墨家先輩はしばし反芻して(この辺の時間のとり方が独特だ)、
「亀なんだろうな。乙姫様……であるよりも、いじめられてるイメージが強いということよね? うん」
 墨家先輩はひとしきり自分を納得させるようにつぶやいたあと、周囲をチラと見回して、
「あなたは面白い。揚げ物が好きそうだからそこの唐揚げを買ってあげてもいいわよ」
 と嬉しそうに云った。
 結局唐揚げを買ってもらって(放課後はお腹が空くのだ)墨家先輩はものすごく足早に(二倍速に見えた)駅の方に歩いていってしまった。左手に栄養ドリンクを握りしめ、右手に唐揚げの入った袋を下げた私は、結局そのまま家に帰り、夕食の後に部屋で魔女の秘薬のように貰った栄養ドリンクを飲んでみた。
 おかげで眠れない。味も今までに飲んだことがない味だし、丹くんともラインをしたがこっちが珍しく通信を切り上げないので先に寝てから三時間も経ってしまった。
 夜も三時をすぎるとお腹が空いてくるので、結局タイミングを逸して食べそびれた唐揚げを食べ始めた。
 これ、明日の朝はちゃんと学校に行けるのだろうか。
customer’s voice II    サヌキマオ

貞行とく帰れかし
蛮人S/翻案
曲亭馬琴/原作

 永享十年、鎌倉管領足利持氏は京の将軍足利義教との間に確執の生じて戦に至った。持氏は敗れたが、里見季基すえもとはじめ持氏を慕う武将らは、下総結城に兵を挙げ大軍を向うに戦い続けた。だが結城の城もついに落ち、武将らは討ち死んで行った。
 ここに里見義実よしざねがある。源氏の嫡流、季基が嫡男、十九歳にして文武に優れ、知勇備える若き将も、またこの城に死なんとするも、必ず家を再興せよとの父の厳命に涙を呑んで落ちのび、老臣杉倉氏元、堀内貞行と共に相模の路を逃れた。

 三浦の浜は幽かに日暮れている。矢取の入江に寄せる波音、海鳥の声、まさに戦も知らぬ長閑けさだ。義実は夏霞の果て、海の彼方に浮かぶ安房の山影を見る。
「あれが我らの目指す処。ここから舟で渡ろう」
 義実は振り返った。
「貞行、近隣の漁家に申し付け、舟を用意させるんだ」
 堀内貞行は直ちに出て行った。二人は残って待っていたが、なかなか戻らない。
「遅いのお」
 氏元が思わず呟いた時。穏やかな空に黒雲にわか湧き上がり、浜も海も見る間に暗く覆われるや、重い雨粒を帯びた烈風が激しく義実らを打ちつけた。雷光の中、苫屋に逃れんとするも開かず、止む無く松の木に身を寄せた。その眼前、沖合に雲が舞い下り、眩い光に続いて海面が盛り上がり、白い巨龍が波を撒き立て顕れた。見る間に南を指して飛び立ち、消えた。
 たちまち嵐は止む。雲は収まり、傾きつつ残る陽は未だ揺れる波を彩る。松の枝から雫が滴る。
「見たか氏元……波の中から白龍が立った」
「はっ、私にはただ何か怪物のももかと思われましたが鱗の如きは僅かに見ました」
 義実は頷き、
「そうか、私は尾と足のみを見た、全身を見たかったな」
「あれは龍で御座いますか」
「うむ。氏元、龍について少し話してやろうか。龍は神物かみつもの、変化極まりなく、古の人の伝える話は幾らもある……」
「ぜひ」
 義実は浜に下り、岩に腰かけた。氏元はやや離れて控える。
「龍と言うのは立夏の節を待ち、分界して雨を行う……これを名付けて分龍と言う。今はまさにその時だ。そも龍の霊たるや、昭々として邇く顕れ、隠々として深く潜む……龍は誠に鱗虫うろくずの長で、だから、かの周公も易を繋ぐに龍を聖人と比したんだ。とは言え、龍には欲があり聖人の無欲には及ばない。これを以て、人は或いは龍を飼い、或いは御し、或いは屠るんだ。でも今はその術を伝える者もないね……また仏説に『龍王経』と言うのがあり、およそ雨について祈る者はまず必ずこれを誦む。また『法華経』のいわゆる提婆品の中に、八歳の龍女の成仏の説があってね、まあ善巧方便ともされるけど祈って得られる験はある。それ故、龍を名づけて雨工うこうと言う。また雨師うしとも言うんだ。さて……次に形を述べてみる。角は鹿に似て、頭はうまに似ている。眼は鬼、項は蛇に似る。腹はみづちに似て、鱗は魚、その爪は鷹のようで、掌は虎の如し、耳は牛に似る。これらまとめて三停九似さんちようきゆうじと呼び」
 氏元は狼狽うろたえた。かく詳細に論じ始めるとは思わなかったのだ。
「その含珠たまほうにある。聴く時は角を以ってする。喉の下、長径わたり一尺、ここを逆鱗と言ってね、物でも何でもこれに当たれば必ず怒りだす。そこから天子の怒り給うを逆鱗と言うんだね……雄の龍が鳴けば風が上に吹き、雌の龍の鳴けば下に風が吹く。声は竹笛の音の如く、吟ずるは金の鉢の擦り鳴らす如しと。龍は敢えて連れ立たず、群がり居る事もない。合する時は体をなし、散する時は章をなす。雲気に乗し、陰陽に養われ、ある時は明らか、ある時は幽かに、大きなる時は宇宙に逍遥し、小なる時は拳の石の内にも隠れる。春分には天に登り、秋分には淵に入る。夏を迎えれば雲を凌いで鱗を奮う。之その時を楽しむ也。冬としなれば泥にしずみ、ひそまりわだかまつて敢えて出でず。之その害を避くる也……」
「むう……龍の世界は広く奥深う御座いますな。さてそろそろ貞行が……」
 老いて壮なる氏元も義実の若さには勝てぬ。気を抜けば幾日かの疲労が睡魔となって顕れる。氏元は貞行の帰りを覗う顔で立ちかけたが義実は話を継いだ。
「龍の種類は多い……飛龍ひりようあり、應龍おうりゆうあり、蛟龍こうりゆうあり、先龍せんりゆうあり、黄龍こうりようあり、青龍せいりようあり、赤龍しやくりゆうあり、白龍はくりゆうあり、元龍げんりようあり、黒龍こくりようあり。白龍は物を吐けば地に入って黄金となる。紫龍しりゆうは涎を垂らせば色は透き通り玉のように美しい。紫稍花ししようかとは実は龍の精だ。蛮貊ばんはくひさいで薬に入れる。鱗が有るのは蛟龍みづち、翼を持つのは應龍おうりようだ。角を持つのは鼉龍きんりゆう、また虯龍きゆうりようとも言う。角の無いのを𡖟龍だりよう、また螭龍りりようと言う。蒼龍そうりゆうは七宿なり。班龍はんりゆうは九色。驪龍りりようは百里の彼方をその目に見る。優楽自在の物は福龍ふくりようと言い、自在を得ざるは薄福龍はくふくりようと言う。災害を為すを悪龍あくりよう、憤怒に人を殺すは毒龍どくりよう。また苦しんで雨を行う、これ即ち垂龍すいりゆうなり。病龍やむたつの降らせた雨は、その水必ず生臭い。いまだ昇天せざる物、易に言わゆる蟠龍ばんりゆうなり。蟠龍は体長四丈で青黒く、錦の文様の赤帯あり。火龍かりゆうは体高七尺、真紅にて火焔は篝火を集める如し」
 揺らぐ氏元の意識に義実の念仏じみた言葉が流れる。
「おお、殿、あれは貞行では……」
「また癡龍ちりようあり、懶龍だりようあり、龍の性は、淫にして交わらざる所なし」
「……はい」
「牛と交われば麒麟きりんを生み、亥と合えばぞうを生み、馬と交われば龍馬りゆうめを生む。また子の数は九ツと言う説がある。第一子を蒲牢ほろうと言い、鳴く事を好む。鐘の天辺の龍頭はこれを象るものなんだ。第二子を囚牛しゆうぎゆうと言い、鳴り物を好む、琴鼓の飾りにこれを象る。第三子を蚩物せんぶつと言い、呑む事を好む。盃などにこれを描く。第四子を嘲風ちようふうと言い、険しい処を好む。堂塔楼閣の瓦がこれを象る。第五子を睚眦こうせいと言い、殺しを好む。大刀の飾りにこれを付ける。第六子を負屭ふきと言い、文を好む。印材の飾りに象る。第七子を狴犴ひかんと言い、訟を好むと言う。第八子を狻猊しゆんげいと言い、これは即ち獅子だな。坐るを好むと言われる故、椅子、曲彔に象る事がある。第九子を覇下はかと言う。重きを背負うを好む。鼎の足とか多く物の下にある鬼面の如きは即ちこれだ。さて、子はまだ居るぞ。憲章けんしようとらわれを好み、饕餮とうてつは水を好み、蟋蜴しつとうは生臭さを好み、𧖣𧊲ばんせんは風雨を好み、螭虎りこあやのいろどりを好み、金猊きんげいは烟を好み、椒図しゆくとは口を閉ずるを好み、虭蛥とうせつは険しきに立つを好み、鰲魚ごうぎよは火を好み、金吾きんぎよは眠らぬと言う。これ全て、皆な龍の種類なんだ。ああ大いなる龍の徳、易にとってはけんの道、物にとっては神聖ひじりなり。その種類の多さ、人に上智と下愚と有り、天子と匹夫の有るが如きか。龍は威徳で百獣を伏す。天子もまた威徳で百宦を率い給う。故に天子の服に袞龍こんりようの御衣があり、さらに天子の御顔を龍顔りゆうがんと讃え、また御身体を龍体りようたいと唱え、怒らせ給うを逆鱗と呼ぶわけだ。これらはみな龍に象る。その徳は枚挙にいとまもない。いま白龍が南へ去った。白は源氏の服色。南は即ち房総、皇国みくにの尽くる処。私はその尾を見て頭を見ない、僅かに彼地を領せんのみ。氏元、汝は龍のももを見たと言ったな、つまりこれは」
 義実は言葉を止めた。氏元は目を見開き控えて居る。義実が足元にいた蟹を摘み上げ、氏元の眼前に掉っても、血走った目には動きも無い。義実は蟹の開いた鋏を氏元の耳たぶに寄せた。
「あッ」
 挟まれた痛みに思わず声を挙げた氏元が慌てて見回せば、沖を見ていた義実が振り返って打ち笑むところであった。
「……氏元も判るか。そう、これは汝こそ私の股肱ここうの臣たるべしとの龍の知らせ……そう思うだろ」
「ははっ、氏元この命を懸けて」
「うん……さて、王晫おうたくの龍経に曰く」
貞行とく帰れかし    曲亭馬琴

夫人探索
今月のゲスト:夢野久作

   一
「百万円あったら、ああしよう……こうしよう」
 と空想していた青年中村芳夫は、思いもかけぬ伯母の遺産を受け継いで一躍百万長者になった。
 芳夫は早速数万円を投じて素破らしい邸宅を建てた。そこに美姫と、美酒と、山海の珍味を並べて、友達を集めて昼夜兼行の豪遊をこころみたために、百万円は瞬く間に無くなって、いささかなからぬ借財さえ出来た。その抵当に邸宅を取られた彼は、再びもとの通りの無一物になってしまった。

   二
「不思議だ。奇怪だ。不可解だ。百万円を得ない前の自分と、失った後の自分との間には何等の相違もない。空想の百万円と実物の百万円とは、使用した結果から見ると全く同じものであった。おお百万円よ。お前は何のために自分に天降あまくだったのか。何故にかくも無意義に自分から消え去ったのか。おお百万円よ。お前はどこへ行った」
 芳夫は腕を組んでこう考えた。っている限りの人々にこの疑問を提出して解決を求めた。

   三
 山本という社会学者は云った「百万円をお前から奪い去ったのは、百万円自身である。お前が識ったことではない」
 松井という法律学者は云った「お前自身がお前から百万円を奪い去ったのだ」
 村上という心理学者は云った「お前の百万円を奪ったものはお前の心の中に居る。お前の心の奥に隠れて、人知れずニヤニヤ笑っている」
 また空誉という高僧はこう説いた「百万円は無くなっていない。お前の心の中にチャンと隠されている。その百万円を取り返すには、お前から百万円を奪った、その心を探し出して殺して終うのが一番だ。そうすれば百万円の金は、自然とお前の身に帰って来る」
 最後に万象という占断者うらないしやはこう判じた「これは天地否という卦です。自然の事を自然の順序に考えて行くと、万事が否定的のフン詰まりになるという、実に不可思議な玄理をあらわした形です。すべての順序を逆にして、考えて行って御覧なさい。地天泰という卦になって一切がやすらかに解決されてゆきます」

   四
 芳夫は思案に余ったあげく、高山という名探偵を訪問して一切の経過を打ち明けて頼んだ。
「僕の百万円を奪った奴を見付け出して下さい。百万円を取り返して下さい。成功すれば謝礼としてその半額を呈上します」
 名探偵は快よくうなずいた。
「どうか葉巻を一本吸う間待って下さい。考えますから」

   五
 葉巻が短くなると、高山名探偵は窓の外へ投げ棄てた。組んでいた腕を解いて、事もなげに微笑した。
「百万円を奪った犯人は、あなたの心のほかに居ります」
 芳夫は愕然とした。無言のまま眼を輝かして一膝進めたが、名探偵は依然として微笑を続けた。
「それは一人の若い女性です。しかも非常な美人で、学識といい、心操しんそうといい、実に申し分のない処女です」
 芳夫は思わず叫んだ。
「それはどこに居りますか」
「それを探し出し得る人は世界中にあなた一人です」
 芳夫は面喰った。独言のように云った。
「いったい……それは……どういうわけで……」
 名探偵は厳粛な口調で説明した。
「あなたは百万円を得られる前に、いろんな計画を立てられたでしょう。それはどれもこれもスバラシイ理想的なものだったでしょう」
 芳夫は無言でうなずいた。
「けれども、その計画の第一着手として、理想的な美少女を令夫人に迎えることを、あなたは全く忘れておられました。あなたが百万円を得られると同時に、そうした立派な令夫人を迎えておられましたならば、あなたの百万円は一文も無意義に費されずに済んだでしょう」
 青年芳夫の眼から熱い涙がハラハラと溢れ落ちた。高山名探偵はその顔を凝視しつつ、断乎として云い切った。
「すなわち……あなたから、あなたの百万円を奪い去ったものは、あなたの未来の夫人たるべき、その美少女です。あなたはその美少女から百万円を奪い返すべき権利があります」

   六
 中村芳夫は、高山名探偵の、こうした炯眼と推理力に心から嘆服してしまった。涙と共に床の上にひれ伏した。
「どうぞ私と力を合わせて、その女を探して下さい。百万円の全部をあなたに捧げても構いませんから……」
 名探偵は一議に及ばず引き受けた。
 けれども芳夫青年から、百万円を奪い去ったであろうほどの、理想的な若い女性は容易に見つからなかった。稀に居るにはいたが、芳夫から百万を奪った犯人であることを告白して、結婚の申込を承諾する少女は一人も居なかった。
 芳夫青年と高山名探偵は、とうとう乞食同様になって、野たれ死にをしてしまった。