QBOOKSトップ

第43回3000字バトル

エントリ 作品 作者 文字数
『睡眠病 ―聖歌と聖餐― 』 橘内 潤 2390
夕暮れ 相川拓也 3000
痛みだけ るるるぶ☆どっぐちゃん 3000
旧盆の青い空 伊勢 湊 3000
アイ・ラブ・ユー ごんぱち 3000
レストランの猫 松田めぐみ 3000
天狗と桃饅頭 中川きよみ 3000
悪魔と呼ばれた黒猫 児島柚樹 3000
私のストレス解消法 のぼりん 2160
10 カミレンジャー その2 THUKI 3000
11 気違い娘・狂騒詩曲 ゆふな さき 2859


バトル開始後の訂正・修正は受け付けませんのでご覚悟を。

投票、投稿ありがとうございました。
バトル結果ここからご覧ください。



エントリ1  『睡眠病 ―聖歌と聖餐― 』   橘内 潤

 相貌は聖人。微笑みは生まれたての赤子。澄んだ声音は夜明けに唄う小鳥のよう。
 天使――それはまさに、福音と祝福を運びたもう聖なる存在。かりに彼らが人間を食らうものだったとしても、その姿はやはり美しく神々しく、原的な敬意と畏怖を感じずにはいられない存在だった。
 睡眠病患者の肉体を食い破って生れ落ちた天使たちは、みずからを誕生させた胚種たる彼らを骨まできれいに貪りつくすと、やがて朗々と唄いはじめた。
 高く低く、鋭く穏やかに、清らかに艶やかに――東方を見据えて天使たちは唱和する。睡眠病患者の信奉者たちと、彼らを殲滅するべく銃撃していた軍人たちは天使たちの食事を見せつけられて放心していたが、耳朶をなでる歌声に敵も味方もなく聞き惚れた。
 天使は唄いながら微笑む。微笑み、踊る。重量を感じさせないステップで軽やかに舞い、緻密に計算された紋様を描くかのように優美で荘厳な群舞を披露する。
 人間はただ平伏し、この世のものとはおもえない天上の舞踏を目の当たりにしたという眼福に酔いしれた。
 天使は唄う。唇の奥に牙をのぞかせて微笑む。流麗にひらめく腕のさきには、鋭く光る捕食者の爪――その爪が閃き、信奉者のひとりが紅い噴水を迸らせた。そのときまで、天使たちが踊りながらすぐ傍まで近づいていたことに、だれも気がつかなかった。
 首の血管を切り裂かれて血を噴き上げた男が倒れふす。男の近くにいたものたちはようやく酩酊から冷め、恐慌を起こす。逃げようとするのだが、周りの人間は天使の舞に見惚れて動こうとしない。そうしているうちに背中から内臓を刺されて絶命し、倒れる。そこでようやく、喀血を浴びた女が我にもどって悲鳴を上げる。
 紙に落ちた水滴が滲むように、恐慌が伝播する。血臭と阿鼻叫喚の渦巻くなか、天使たちは喜びの歌を唄いながら優雅に舞った。腕のひと振るいが、紅いアーチをいくつも架ける。聖母のごとき抱擁と口付けが、骨の砕ける音と、首の半分を齧りとられて痙攣する低音の伴奏をかき鳴らす――信奉者たちは抵抗することもできずに殺されていった。
 信奉者たちを包囲する位置に布陣していた軍人たちは、天使の集団が射程距離にはいる前に戦闘態勢を整えていた。無数の銃口が殺戮の宴をとり囲み、司令官の号令が下される瞬間を待っている。
 ――天使の歌の曲調がかわった。
 信奉者のあらかたを殺しつくした天使たちは、その美しい牙と爪を軍人たちには向けず、歌声を強くしたのだった。
 それまでの清浄で荘厳優美だった歌声から一転、伸びやかな低音と後乗りのリズムを主体とした歌にかわる。背中に羽を持っているような軽やかな舞から、大地の鎖を引き千切るような雄々しいステップに切り替わる。計算された群舞は終わり、いくつもの胎動がぶつかりあうような演舞が始まった。
 戸惑う軍人たちの構える無感情な銃口に見つめられて、天使たちは高らかに吼えるように唄った。すると、地上から天へと突き抜けるような歌声に応えて、湯気を立てる死体たちが起き上がった。欠損した四肢や傾いた首をそのままに、死体たちは聖者の微笑を湛えて歌声を重ねた。
 司令官は、これ以上静止していても敵が増えるだけと判断し、軍全体に攻撃命令を下した。命令を受けた軍人たちが攻撃を開始する。後方から長射程兵器が爆撃を放ち、機関銃を携えた歩兵が殺到する。砲撃の煙が立ち込めるなかへと機関銃の火線が走る。銃撃が当たっているかいないかなど関係なく、ひたすらに撃ちつくす。
 そう長くない時間で、司令官は待機命令を下す。反撃もなく鎮圧できたと、だれもがおもった。
 はたして、煙が晴れた爆撃地点には、天使の残骸も動きだした死体の破片も落ちてはいなかった。消し炭になって吹き飛んだのではない――天使も死体も、無傷だった。人間の攻撃など意に介することなく、唄い踊っていた。
 それからさきは、詳細な描写がはばかられるほどの凄惨さだった。天使も死体も、極上の微笑で踊り狂った。爪や牙が血の旋風を巻き上げる。軍人たちも始めのうちは応戦していたが、人間ならば掠っただけで弾け飛ぶような銃撃も彼らには無力だった。物理法則だとか因果関係だとかいった地上を支配する法則も、彼ら天使とその従属には手をだせないかのようだった。
 やがて軍人たちは自分たちが軍人であることを忘れた。死を恐れて絶叫し、機関銃を乱射して同士討ちを始める。恐慌をきたした軍隊ほど無力で無様なものはない――そもそもが短銃やナイフしか持たないような睡眠病患者とその信奉者を殺すことしかしてこなかった軍隊だ。殺そうとする相手から抵抗されることに慣れていなくて、組織だって撤退するという考えを夢にも思いつかずに泣きじゃくりながら死んでいく様は、いっそ滑稽で清々しくさえあった。
 かくして、夢喰いと呼ばれた睡眠病患者の掃討作戦は終わった。生き延びたものの人数は、当初編成された人員の一割にも満たなかった。のこる九割以上は天使や動く死体に殺害されて、やはり動く死体となって天使に付き従った。生き延びたものたちは口々に言った。「死んだやつらは本当に幸せそうな顔で起き上がってきやがったんだ。まるで――天使に生まれかわったみたいに」と。
 これ以降、天使による侵攻が始まることとなる。人間が三千年以上もかけて築き上げてきた叡智の粋である大量殺戮兵器も、天使に傷ひとつ負わせることはできなかった。これからの十四年間、人間は抵抗すらできずに生活領域を追われていく。天使に殺された人間は、動く死体――天使となって人間を殺す側になり、昨日までの友人を噛み殺し、家族を切り刻んだ。この急激な世界情勢の変容に、当然ながら政治体制も変化し、人類は急速にその版図と繁栄を侵された。
 最初の晩餐から十四年――それだけの歳月を経てようやく、人間は天使への対抗手段を見いだすことになる。





エントリ2  夕暮れ   相川拓也

 夏の夕は恍惚と煌く。日はまだ高い。しかし、それは不安げにかたむいて、じりじりと焦るように鋭い光を放つ。道に熱気がくすぶる。とある高校の門から生徒がぽつりぽつり出て来る。意気盛んな蝉も鳴き疲れてくる。日の光が赤味を帯びる。この日も例に漏れず真夏日だった。
 ねえ、と優美は下校途中に声をかけられて振り向く。声の主は既に優美の横を歩いている。優美は前へ向きなおって、足を止めずになに、と訊く。俊はいや、あのさ、と前置きしてから、
「圭介のとこ、行かないかな、と思って」
「え……二人で?」
「うん」
 優美は考える。俊は口を差しはさむ。
「花とか買ってさ、軽く、近況報告とか」
 軽く、は余計だったかもしれない、と俊は思う。優美はしばらくうなって、
「うん、別に、いいよ」
 とりたてて断わる理由はなかった。
「でもなんで今日なの?」
 優美はふと疑問を口にする。圭介の命日は来週だった。
「別に、命日に行かなきゃいけない、わけでもないし」
「まあ、ね」
「何となく行きたくなったんだよ」
「ふーん」
 優美はつとめて冷静に振る舞う。優美にとっては触れられたくない話題だった。それは俊も知っているはずである。優美は俊の行動を疑問に思った。
「でも、もう二年かぁ」
 俊が口を開く。
「そうだね」
「早い。もう受験だもんな」
「うん」
「中田は大学とか決めたの?」
「一応ね」
「……聞いてもいい?」
「えぇと、上智」
「へえ、すごいじゃん」
「C判定だけどね」
 夏の夕日はじりじりと燃える。わずかな涼気を含んだ風が吹いてくる。二人は表通りへ出る。赤味がかった色の自動車が行き交う。交差点を渡る。歩行者用の青信号が点滅を始める。二人は花屋に着いた。

 花束を作ってもらって、二人は圭介の墓地へ向かう。日はいっそう傾いていく。昼間の射るような青さの空は薄い紫色に変わった。気温も下がった。しかし歩く二人は暑い。バスが通る。優美が言う。
「バス乗らない? 荷物もあるし」
「バスって、あるの?」
「うん、この時間、あるはず」
 優美は時折圭介の墓参りをしていた。いつの間にかバスのダイヤが頭に入ってしまっていた。俊はそのことを薄々感じ取る。しかしあえて口には出さない。あのバス停から出てるはず、と優美が言う。二人は人のいないバス停で待つ。
 バスが来る。中に人はまばらだった。俊は優美を窓側の席に導く。バスはゆっくりと路線をなぞる。優美は見慣れた窓の外の風景を眺める。
「このバス、よく乗るの?」
 俊の声に優美ははっと振り返る。
「うん、時々」
「やっぱり」
 俊はそこで言葉を切って、
「墓参りで? ……圭介、の」
「……うん」
 まだ、行ってるんだ、という言葉が俊の喉から出かかる。俊はそれを飲み込んで、そう、とだけ返事をする。二人は黙る。他人が箱詰めされた車内は静まりかえる。運転手のアナウンスだけが饒舌である。バスは墓地近くのバス停に着く。二人は降りる。

 谷口家之墓、と書かれた、ごくありふれた墓である。優美は若干の後ろめたさを感じて墓の前に立つ。後ろめたさと同時に、気恥ずかしさのようなものも感じる。花替えてくるね、と言って俊は行ってしまった。
 谷口君、と優美は呟く。
 今日は、急だったけど、来たよ。後藤君と一緒なのは、ただの偶然で、別に、そういうのじゃ、ない。今日も、トラック怖かったよ。狭い道なのに、とばしてて。外側にいたのは後藤君だったんだけど、谷口君みたいなこと、あー、何言ってんだろ。……時々、谷口君がずっと前からいない人みたいな気がして、最近。まだ二年なのに、ずーっと前みたいに、感じる。時々、それが、怖い。学園祭で、一緒に写真撮れば良かった。恥ずかしがんないで。入学式の写真しか、ないから。……逢いたい、けど、無理だよね、わかってる。
 俊は水を替えて花を差しかえる。圭介の墓参りに来たことを後悔した。下手な策を弄してしまったと思った。罰当たりな卑怯者だと思った。まだ今なら後戻りできる。俊はこれ以上進むまいと思った。花を持って、俊は墓へ戻る。墓の前には優美が薄暮の光に照らされて立っている。心持ちうなだれている。俊は思わず立ち止まったが、すぐまた歩き出す。
 優美は俊の返りに気付いて振り向く。ただいま、と言って俊は花を供える。
「線香とか持ってくれば良かったね」
「いいよ、別に」
「それにしても、いなくなっちゃうってのは寂しいねぇ。いなくなってほしいって思ってた人でも」
 俊の口がすべる。
「どういう事?」
 俊は後戻りする道を自分でふさいだ。進むほかなかった。
「そういう事だよ。圭介がいなければって、思ってた」
「なんで?」
 優美の目は化物を見るようである。俊はその視線をかわす。
「圭介のこと、好きな人を、好きだったから。いや違う、好きだから」
「最低……」
「あぁ、最低だよ」
 優美は帰ろうとする。
「待てよ」
 優美は振り向かない。
「俺じゃ駄目か? 死んだやつの方がいいのか?」
 優美の足が止まる。
「確かに俺は最低だよ。こんな場所つれてきて、こんなこと言い出して、最悪の卑怯者だよ。でも、中田を幸せにしたい。圭介はもうただの灰なんだよ。この世にはいないんだよ。そんなやつを好きでいたって、幸せにならないだろ? 俺でよければ、俺と一緒にいて幸せになってほしい」
 顔を背けたまま優美は言う。
「余計な、お世話だよ。私は、今の状態で満足してる。谷口君がいればって思う時はあるけど、谷口君のことしょっちゅう思い出すし、この世にいないっていう実感だって、ない、し。こうやってここに来ることもできるし、幸せじゃないなんて、失礼なこと言わないでよ」
 優美は張りつめた糸である。口に出すことで自分を納得させようとしていた。心は揺れる。誰か、現実の重さのある人に、近くにいてほしかった。しかしもう戻れない。建前で身を固めてしまった。また口を開く。
「私のことが可哀想だから言ってるんでしょ? 憐れみならいいよ。いらない。私には、谷口君が、いるから、いい」
「そんなんじゃ……」
 糸がプツリと切れる。
「それじゃあ好きなら好きって、変な理由なんかいらないから、そう言ってよ! 寂しくないはずなんか、ないじゃん。……全然、幸せでもないし」
「好きだよ、俺は、中田優美が好きだ」
 日は沈んでいた。まだ若干の明るさが残っている。心地良い風が、場違いに吹く。二人はしばし黙っている。時が流れる。時折自動車の走る音が聞こえる。りんりんと虫が鳴く。
「ねえ」
 優美が向き直って言う。
「なんで、ここ選んだの?」
 俊は口ごもる。心の内をまさぐる。模糊としたものしか見えてこない。圭介の墓に一瞥する。俊は、圭介に勝ちたかったのかもしれないと思う。自分の魂胆にぞっとする。灰になった相手を打ちのめそうとしたも同然である。優美の心は俊に傾いているように見える。俊は臆病になる。ねえ、と優美が促す。優美は今までよりずっと近く見える。俊はえっと声を漏らす。
「正直わからない、けど、中田が、吹っ切れるように、とは思った」
「そう」
 俊は恐ろしいことを言ったと悔やむ。優美はひとまず納得する。しかし吹っ切れはしないと思う。内心で俊の気持ちは嬉しい。しかし吹っ切れはしない。二つの領域に、優美は片足ずつ入れている。
「少し、考えさせてほしい。で、今日は、一緒に帰ろ」
 女は揺れる心を持て余す。男は嘘で防御する自分を憎む。二つの人影はバスを待つ。





エントリ3  痛みだけ   るるるぶ☆どっぐちゃん

 中村は髪を切ろうと思っている。腰までも伸びてしまっているから、手入れをするのが大変だ。ずっとストレートのままで良いと思うのなら手入れもそう大変じゃあ無いだろうが、たまにはウェーブをかけてふんわりとしたシルエットを楽しみたいし、複雑な編み込みだってしたい。すぐに気が変わって髪の色をころころ変えるから髪は傷む。傷んだ髪など耐えられないから、そのケアにだって随分と時間がかかってしまう。一緒に住んでいる二人の女が共に美容師なので、その点は随分助かってはいるが、面倒なものは面倒だった。
「俺は髪を切ろうと思っているよ」
 くしゃりと髪をかき上げながら中村は言う。
「そうか」
「コンノさん、曲は出来たのかい」
「出来無いよ」
 鏡張りの大きな部屋の中にピアノが置いてあり、そのピアノに向かったまま、コンノさんは答えた。ここはコンノさんの妹が経営しているバレエの練習スタジオである。コンノさんがお金を出して上げて作ったもので、バレエの練習が無い時、コンノさんと中村が使うことになっている。
「全く出来無いのかい」
「出来て無いね」
「今日、夕方からの予定じゃあないか。解っているのかい?」
「解っているよ」
「出来ていないのかい」
「出来て無い」
「じゃあ俺は今日の夕方、何を歌えば良いんだい?」
「さあね」
 コンノさんは鍵盤に向かって手を伸ばし、ピアノをぽろん、と弾く。
「出来ているじゃあないかコンノさん。出来ているよ。それ、なかなか壮大な感じだぜ。坂本龍一みたいだ」
「出来て無いよ。こんなの全然駄目だよ」
 ピアノの音が突然止む。コンノさんがピアノに触れていた手を離し、ビールの入ったグラスを手に取ったのだった。
「こんなの、全く新しくないよ」
「そうか」
「なあ、何か話をしてくれ」
「話? どんな?」
「どんなのでも良いよ。お前が思いつくならどんなでも。私に何か話しをしておくれ」
「お話か」
 コンノさんが注いでくれたビールを一杯飲み干し、中村はソファに座る。
「ええと、ごほん。コンノさん。コンノさん。聞いておくれ」
「聞いているよ」
「コンノさん。コンノさんの曲は、凄く良いぜ。コンノさんの曲は、本当に凄く良い」
 中村は立ち上がる。
「俺はコンノさんに会えて本当に良かったと思っている。コンノさんの曲が歌えて、俺は最高だよ」
 コンノさんの顔を覗き込みながら、中村は言った。
「俺はコンノさんの曲が、凄く好きだ」
「そうか」
「曲、出来そうかい?」
「全く出来そうに無いね残念だが」
「そうか、コンノさん御免な」
「良い。取り敢えず、メシでも食べに行こうか」
「その前に、もうちょっとピアノを聞かせてくれないか。一月ぶりだもの、もうちょっと聞いていたい」
「解ったよ」
 コンノさんは小一時間ほどピアノを弾いた。それから二人はぶらりと街に出る。並木道をゆっくりと歩く。制服を着た可愛らしい女の子と男の子が通りかかる。コンノさんは彼らに声を掛け、食事に誘う。
「君は可愛いね。一緒にご飯でも食べないか」
 コンノさんは男の子の方がお気に召したようだった。男の子は顔を赤らめて、恥ずかしそうにコンノさんと一緒に歩き始めた。
「楽しそうねあの二人」
 女の子は中村に笑いかける。
「そうだね。楽しそうだ」
 フランス料理屋に入り、彼らは二人にフルコースをご馳走する。コンノさんは手ずから男の子に料理を取ってやり、食べ方を教えた。そしてワインの飲み方も。それだけでは無く、食事を終えた後、彼らは二人をスタジオに連れて帰った。そしてすぐに裸に剥いて、あんなことやこんなことを、たっぷりと教え込んだ。
「痛みだけだ」
 いけないお薬をたっぷりと使われた男の子は、返事が上手く出来なかった。よだれを垂らしながら、あうぅ、と小さく呻くだけだった。
「痛みだけだね。人が人に与えられるのは。痛みだけだ」
 男の子の肌は、どんどん真っ赤に染まっていった。女の子は中村と一緒に、太股までもをべたべたに濡らしてそれを見ていた。
「なんでだろうね。そんなものしか与えられないのは、なんでだろう」
 男の子は、あうぅ、と呻く。
「でも、楽しいだろう?」
 ぱちいん、と乾いた音が響く。
 男の子はとろけた笑顔で、あうぅ、と答え、首をがくがくと振った。
 よだれがぽたぽたと床に垂れた。

「ああ、楽しみだなあ。本当にわくわくするなあ。楽屋にはいると本当にわくわくする。もうすぐなんだなあ、と思って、本当にわくわくするよ」
 開演時間の十分前だった。前のバンドは怪訝そうに彼らを見て、そして、けっ、と言い残して既に引き上げていき、今は楽屋には中村とコンノさん、そして男の子と女の子だけだった。
 女の子は早くも雰囲気に溶け込んでいた。金を渡して服を買ってこさせると、案外にセンスが良くそして化粧もうまく、完全に楽屋の雰囲気に溶け込んでいた。痩せて尖った頬。尖った乳房。
「女優のようだよ」
「そう?」
「フランスの女優のようだ」
「ありがと」
「ああ、しかし本当にわくわくするよ。コンノさんの歌を歌って、踊って、踊りまくるんだと思うと、本当にわくわくするなあ」
 ドアの向こうが歓声で揺れていた。
「随分お客さんが来ているのね」
「ああ、そうだね。僕も最初は驚いたものだよ。怖いかい?」
「別に」
 女の子はそう言うが、かたかたと脚が震えているのが可愛かった。
「コンノさん、曲は?」
「出来て無いよ」
「そうか」
「だがなんとかなるだろう。さあ、もう時間だ。行こう」
 皆は立ち上がり、扉を開けてステージに向かって歩き出す。女の子は鎖を持っている鎖が歩くたびにじゃらじゃらと鳴った。
「コンノさん、いつもこの瞬間は本当にわくわくするよ」
 中村は叫ぶ。
「コンノさん、ああ、全く、本当に、とても、とてもとても。ねえ、コンノさん、俺はコンノさんが好きだよ。とても好きだよ。だからいつまでも一緒に居てくれ。ああ、もう。コンノさん俺は髪を切ろうと思っているよ。こんなに長くては手入れがね。コンノさんはどんな髪型が好きだい? コンノさん、俺は髪を切るんだ」
「もう五年も前からそう言っているよ」
「今度こそ本当に切るよ。あの女共に、切らせてやるんだ」
 中村は叫び、飛び、ステージに駆け上がる。
「髪を切るよ。俺は髪を切る」
 髪をかき上げながら、中村はマイクに向かって叫ぶ。
「切らないでぇ、ヨージ、切らないでぇ」
 女達は笑いながら手を振って中村に叫ぶ。
 続いてコンノさんがステージに上がってピアノの前に座り、静かに曲を弾き始めた。全く新しい曲で、ああまた素晴らしい曲だ、コンノさんは本当に凄いなあ、と中村は思う。中村はコンノさんを振り返る。コンノさんは中村を見ていた。歌え、歌え、と見ていた。中村は、とても、とても、嬉しかった。
 中村の歌声が響く中、女の子はステージに上がった。鎖をひきずりながらゆっくりと。続いて男の子がステージに上がる。裸のまま手足を黒いガムテープで縛られているし、首輪についた鎖で引きずられているのでどうしてもよたよたととしか歩けなかった。
 中村もコンノさんも、二人に特に指示はしなかった。ただ、ステージに立つか、とだけ聞いたのだった。二人共、それに、うん、と答えた。女の子は堂々としたもので、とても初めてステージに立ったようには見えなかった。男の子は鎖を引かれて倒れ込んだ。女の子はその股間に軽く鞭を振った。男の子はそれで、その日何回目か解らない射精をした。





エントリ4  旧盆の青い空   伊勢 湊

「怖い話とか言われてもオレは霊感とかないし周りにもそんなのあんまりいなかったから、幽霊の話とかそんなんじゃないんだけどいい? さっきの気が付いたら電車が見知らぬ景色の中を走ってて、周りの乗客みんなの顔に目がなかった、なんて恐ろしい話の後じゃ興ざめかもしれないけどさ。実際ね、風景的には全然怖くないんだよ。オレが子供のとき、小学五年のときの夏のことさ。うちの故郷はすごい田舎で、映画館もなければコンビニもなくて、当然たいして人だっていない。でも山と海だけは綺麗でね。そんな中でもうちは結構山の上のほうにあったんだ。
親は共働きで、中学生だった兄貴は朝から野球の練習でいない。オレも午後からは少年野球の練習があったけど、小学生は午前中は家で勉強しなさいってことになってて、一応家の近くにはいたわけさ。まあ、勉強はたいしてしてなかったけど。まあ、そのへんは多分みんな一緒だよね。で、オレはだいたい何してたかって言うと家の近くの森でカブトムシとかクワガタとか獲ってたな。すごく獲ってた。名人って呼ばれてたんだ。その日もラジオ体操から帰ってすぐ森に入ったよ。確かに森はときにはなんていうか、しんとして不気味に感じることもあったけど、あの頃のオレはそれを怖いとは思わなかった。森は朝だっていうのに手加減なしに照り付けてくる太陽の熱から守ってくれるし、夏は蝉がうるさくて賑やかだったしね。それに森に自信があったんだな。なんていうか、何か怖いもの、例えば学校の先生が家で勉強してるはずの時間だろなんて怒って追いかけてきても森の中なら逃げ切れる、みたいな。まあ考えてみたら逃げても無駄なんだけどね。
 オレは夢中になってクワガタを捕まえてた。どういうわけかその日はやたら見付かるんだ。うちのほうじゃあカブトムシよりクワガタのほうが人気があってね。なんか玄人はやっぱクワガタだぜ、みたいな風潮があったんだよ。それで夢中になってたら木々の隙間から見える太陽がもう結構高くなってたんだ。早く帰って昼飯を食わなきゃ野球に遅れる。昼飯といっても鍋の中や冷蔵庫の中の昨日の残りだけどさ、とにかくなんか食べなきゃ野球は辛い。
いつの間にかだいぶ森の中を進んで山を登ってきたみたいで少し先に森の切れ目があって、その先に農免道路が見えたんだ。農免道路っていうのは全国地図とかには載らないローカルな農業で畑に行く人たちが使うような道路だよ。たまに軽トラが通るくらいで、人が歩いてるところなんて見たことないんだ。特にそんな暑い夏の日にはね。オレは農免に向かって駆け出した。農免に出て麓に向かって走れば足場の悪い森を抜けるよりずっと早く家に着く。実際は五分くらいしか変わらないんだけど子供のときっていうのはそういう五分が大切なもんさ。そしてオレは道までのほんの数メートルの斜面を駆け上ったんだ。
 道路に出た瞬間、蝉の声すら止まった気がした。いや実際に止まったんだ。もっと大きな音に掻き消されて。
 そこには人がいた。二人とも見たことがない顔だった。一人は見たことない若い警察官で、制服を着てるのに汗もかかずに太陽の下で右手にピストルを持って立っていた。陽炎のように揺らめく空気の向うに銃口から立ち昇る一筋の煙が見えた。そして、その足元に白いワンピースの髪の長い女の人が横たわっていたんだ。
 そのとき時間をなくした絵みたいな風景の中で、おかしなことなんだけど、顔は髪の毛が覆ってて見えないのになぜだか綺麗な女の人だなぁ、って思ったんだ。たぶん、すごく一瞬の間さ。でもそのときの感覚はよく憶えてるよ。止まっていた汗を体が無理矢理にでも出そうとするんだ。心臓が血を送り出して血管が熱を持つ。それが皮膚に伝わって皮膚がやっと暑さを思い出し汗腺を開く。大袈裟だと思うかもしれないけど、それを感じながら綺麗な女の人だなぁ、って思ってた。
 振り返って走り出したのは額の汗が目に入った瞬間さ。一時停止を解除された香港映画のようにオレは叫び声をあげて走り出していた。蝉たちがオレの声にわざわざ合わせて鳴き出すんだ。うるさいったらありゃしない。でも頭のどこかでそんなふうに別のことばっかり考えてる自分がいて、そいつがなんだかんだ知恵をくれたんだ。
 おいおい、そんなに声をあげたら逃げても場所がわかるぞ。オレは叫びたいのを我慢したよ。真っ直ぐ走ると後ろから撃たれるかもしれないぞ。オレはぞっとしながらも泣きながらジグザグに走ったさ。気が付くと家が見えた。子供っていうのはよく分からないもんだよな。どうしてだか分からないけどなぜか布団の中って安全って思っちゃうんだ。でも分かるだろ? お化けの話を聞いた夜とか布団の中に頭からもぐらなかった? オレもやっぱりそうだったよ。縁側から靴も脱がずに自分の部屋にあがって押入れを開けてそのまま布団の中にもぐりこんだのさ。そこにいれば絶対安全なんだって思ってた。真剣に、あの日まではね。
 大きな誤算だったよ、実際。物音が近づいてくる。明らかに人の気配がする。でも両親も兄貴も昼に帰ってくるなんて事はない。目を強く閉じて祈ったね、いなくなってくれって。もちろん布団にもぐって祈ったくらいでいなくなるはずがない。挙句の果てに、坊や、出ておいで、なんて聞こえてくる始末さ。誰がそんなんで都合よく出て行くか。でもそんとき思ったんだよな。布団の中に入ってりゃなんとかなるってのもただの都合のいい迷信だよなぁ、って。だいたい見付かっちゃえば逃げ場はないし、もし誰かが助けにきてくれてもあの警官はピストルを持ってるし、撃ち殺されちゃうかもしれないって気が付いたのさ。ついてることに靴は履きっぱなしだった。縁側を出て庭を横切れば竹やぶの斜面がある。その中に入りさえすれば大人になんて追いつかれない自信があった。斜面くだり競争でいつも五年生の中で一番だったのさ。問題は庭に出た瞬間に見付かったら撃たれてしまう。そう思うと足が竦んだよ。そしてまた、声が聞こえてくるんだ。坊や、いるんだろ? って、さっきまでより近くに。
 そのとき変なことが起きたんだ。ずっとジージーうるさかった蝉の声が一瞬止まったかと思うと、また再び鳴き始めて、それがどんどんどんどん大きくなっていくんだ。ジージージージー、押入れのなか布団にもぐっていても耳をつんざくくらいジージー、ジージー。家が壊れちゃうんじゃないかってくらい空気を震わせてジージージージージー。
 なぜだかそれがチャンスなんだって分かった。オレは駆け出して竹やぶに飛び込んだ。ほとんど転がるように麓まで駆け下りて駐在さんの家、田舎では交番に家がついてるんだけど、その家に駆け込んだのさ。
結局その後、若い警官も見付からなければ、女の人の死体も見付からなかったよ。オレは白昼夢でも見たんだろうって大人たちに笑われたさ。
ただ、今でも耳から離れないんだよ。駐在さんの家に駆け込んだとき駐在さんの息子家族が帰省してたんだ。奥さんを若い頃に亡くしてていつも割と静かだった家が妙に賑やかだったのを覚えてる。で、オレが話をすると駐在さんは家族を振り返ってから、だいぶ待ってはくれたが許してはもらえんやろうな、って言ったんだ。それからオレの頭をくしゃくしゃってやってそのまま出て行くと二度と家には戻らなかった。ちょうど旧盆の頃の話さ」





エントリ5  アイ・ラブ・ユー   ごんぱち

「愛してるよ」
 朝、息子の文博を抱きしめ、この言葉をかける。
「……あ、オヤジ?」
 文博は目をこすりながら、私の顔を見る。
「ほら?」
「あ、ああ、愛してるよ」
 文博は慌てて、布団から起き上がり、私に抱きついた。
「じゃあ、行って来る」
 私はいそいそと文博の部屋から出て行き、文博はまた眠そうに布団にもぐり込んだ。
「行ってらっしゃい、愛してるよ」
「行って来ます、愛してるよ」
 玄関先で、妻の智代と抱き合うのもそこそこに、私は走り出す。
 少し、遅くなった。
 私は駅への道を走る。
『愛してるよ』
『愛してるわ』
『愛してます』
『愛してるぜ』
 都心に近いベッドタウンのせいか、大体出社する時間も同じで、駅への道すがら、どこの家の玄関先でも、似たような光景を目にする。
 愛の宣言と、抱擁。
 素晴らしい光景に、朝のすがすがしさが増すようだった。
 ところが、少し大きめな家の前を通った時。
 独りでコソコソと家から出て行く、熟年の男が見えた。
 私に気付いたのか、慌てて駆け寄って来る。
「あ、す、杉谷さん」
「会長さん……」
 PTA会長の、鰐渕だった。
「いや、妻は病気なんだ、今日、風邪で、ちょっと」
「そうですか」
 卑屈そうに弁解するPTA会長に、冷ややかに返事をする。
 この男はいつもそうだ。
 ぎゅっと抱きしめて「愛している」と言う、そんな人として当たり前の、そして大切な事も出来ない、いい加減で愛の足りない人間なのだ。
「この事は、くれぐれも内密に……」
 何度もPTA会長は頭を下げる。
 「必ず一日一回、家族を抱きしめて『愛している』と言いましょう」それは、文部省の努力目標に過ぎないが、PTA会長という立場の人間が怠るべきではない。
「ね、頼みますよ、何とか」
 あまりに卑屈に頭を下げるPTA会長の姿に、私はこれ以上関わる事自体が不快になっていた。
「いいですよ、誰にも言いませんよ」
 言い捨てて走り去った。

 駅に着いた私は、自動改札に定期を近付ける。
『おはようございます、愛しています』
 自動改札の合成音が、優しく挨拶をする。
「愛してるよ」
 私も挨拶を返す。
 ところが、自動改札の扉が閉じてしまった。
 どうやら音量不足だったらしい。
「愛してるよ!」
 もう一度大きな声で挨拶をする。
 だが、扉は開かない。
「おはようございます、愛してます。どうした?」
 駅員が怪訝な顔で寄って来る。彼は腰の電磁警棒に手を添え、いつでも抜ける格好で、器用に私と抱き合う。
「おはよう、愛してるよ。音声認識が悪いみたいだ。ちゃんとメンテナンスしてんのか?」
「してるに決まってるだろう……定期を見せろ」
 言われるままに、私は定期を差し出す。
「期限切れだ。手間かけさせるな。愛してます」
 確かに定期券のウィンドウの期限表示は、昨日になっていた。
「もっと分かりやすくしろよ、愛してるよ」
 私は返事もそこそこに、切符売り場へ走った。

「お早う、愛してるよ」
「お早うございます、愛してるよ」
 オフィスに到着した私は、社員たちと抱き合い挨拶を交わす。
 別に文部省は会社での「愛している」を奨励してはいないが、良い事はどこで行っても良い、と、皆信じている。もしも「愛している」をやっていない会社があったら、即刻取引を打ち切りたいぐらいだ。
『課長』
 ひとしきり挨拶を交わしていると、部下の一人が私にそっと耳打ちした。
『平岡のヤツ、今日はオレに愛してるを言わなかったんですよ』
「なに!」
 私は思わず大声を上げていた。
 他の社員たちが、驚いたように私を見る。
「いや、何でもない」
 笑ってごまかしたが、平岡は何が起きたのか気付いたらしく、優れない顔色をしていた。
 私は端末の電源を入れ、メールを書く。
“本課員に関する重大な報告事項”
 宛先は人事部。
“本課員平岡正隆は、「愛している」の発言を怠ったとの報告あり。反社会的偏向思想の可能性があるため、早急に研修、もしくは代替人員の用意を求める”
 別に「愛している」は強制ではない。
 しかし、良いと思う事を行わないのは、ビジネスマンの姿勢として問題があるのではないかと思う。私はさほど気にする訳ではないが、他の社員が気にする事もあろうし、そうなればチームワークに差し障りが出るかも知れない。
“愛を込めて”
 メールを送信した。

 送信したと同時に、電話が鳴った。
「――愛してるよ、杉谷です」
『愛してるわ、わたしよ』
 妻の智代の声だった。
「仕事中に、何電話かけてるんだ!!」
 思わず私は怒鳴る。
『大変なのよ!』
 智代も怒鳴る。何と愛の足りない返事の仕方だ。いくら、良い大学を出ていても、この愛のなさはどうだ。こいつに人間として価値を見出す事も出来ない。
『文博が警察に捕まったの! 万引きですって』
「何をやってるんだ! お前が甘やかすから!」
 私が愛情を込めた忠告を、智代はさえぎる。
『怒鳴らないでよ! とにかく、引き取りに来て! 早く!』
「下らない、どうして私が行かなきゃならないんだ!! 仕事中だぞ! お前ら、誰のお陰でタダ飯が食えてると思ってるんだ!」
 私の無償の大きな愛を理解しない、こんな家族など消えてしまえばいい。
『怒鳴らないでよ、大変なんだから』
「知るか! 仕事の方が大事に決まっているだろう、今度の日曜が休みだから、それまでぶち込んでおけばいいだろう!」
『――いいの? あの子、あなたに愛してるって言われてないって言ってるのよ』

「――はい、口先では言っていましたが、心からの言葉ではありませんでした」
 文博はふてくされた様子で、警官に言う。
「なるほど、原因は、はっきりしましたね。これは明かな、愛情不足です」
 警官は、私を睨む。
「ま、待ってくれ、私は毎日心から愛してるって言っていたぞ!」
 なんて事だ!
 私が心から愛してるって言ってないだって?
 この目の前の、避妊の失敗で出来たクズは、私の愛を疑って、そのせいで窃盗を犯したというのか? そんな言い訳をするのか?
「困りますね、家族はきちんと愛して頂かないと」
「ば、罰則はない筈だろう! 指導責任があるとすれば、ずっと接する時間の長い母親の方だ!」
「わたしは文博を愛しているわ! あなたが愛してないのがいけないんでしょう!」
 智代は怒鳴る。
「ふざけるな、私は毎日きちんと愛していると言っているし、きちんと五秒以上抱き締めている! お隣に聞いてみろ、私の声が一番大きい筈だ!」
「ふん、男女で目標音量が違うでしょう? あなたの声が大きいのは当たり前よ! それに、急いでて、四.七秒で終わらせた事があったの、知ってるんだからね!」
「とにかく私は文博を愛している!」
「どうかしらね!」
「杉谷さん」
 警官は、私を睨んでいる。
「確かにあなたのやった事は、法には触れません。でも人間として最低だ!」
 彼の目は正義と怒りに燃えている。他人にはそう見えても仕方ないが、これは冤罪だ、文博の狂言だ。
「今ここで裁けないのを、これほど残念に思った事はない。だが信じている、正義は決してあなたを許さないと。私は告発する、ありとあらゆる場所でだ!」
 銃を抜きそうな勢いで、警官は私を睨み付ける。
「じょ、冗談じゃ――」
 私は文博を指さす。
「お前こそ、私を愛してないだろう!」
「とんでもない」
 文博は首を横に振る。
「愛してくれない父親でも」
 勝ち誇った顔で、推奨音量の二倍も大きな声で言った。
「僕は愛してるよ」




エントリ6  レストランの猫   松田めぐみ

 6月最後の日曜日。
 朝10時過ぎに空腹で目が覚めた。とりあえずバナナを食べた。昔からバナナが好きで、よく弟に「サルみてぇ」と笑われた。バナナは栄養があって甘くておいしくて、素敵な食べ物なんだぞ。
 シャワーを浴びて、洗濯をした。洗濯機は、ゴガガァ、グー、ゴー、ゴガガァと頑張ってる。もう8年目だもんな。最近の洗濯機は静からしいけど、この洗濯機の頑張っている音が私は嫌いじゃない。
 洗濯物を干して、掃除をして、それからベッドに転がって、武田百合子の「富士日記」を読んだ。何度もうとうとして、犬のポコが死んだ場面で号泣しそして、そのまま眠ってしまった。疲れがたまっていた。
 
 夕方、仕事が早く終わりそうだからメシ食いに行こうよ、とユウジからメールが入る。
 ラジャー! と返信してから軽く化粧をして服を着替える。
 286号線を秋保方面へ向かう。何も喋らない。でも、不自然じゃない沈黙。穏やかな沈黙。
 店はかなり混んでいて1時間待ちだと言われる。順番待ちのリストに名前を書いて、店の外でぼんやり待っていた。
 「ナーナー。」
 足元に猫がいた。ノラ猫にしてはぽっちゃりしすぎているし毛並みも悪くはないけど、飼い猫ならば首輪をしていても良いはず。そのノラ猫とも飼い猫ともつかない猫は、しきりに私の足にまとわりつく。
「お、懐っこいな。」
「待って、抱かないで。」
「動物好きのお前がどうした?」
「うん。友達の猫がね、ノラ猫に噛まれてエイズうつされたの。あんなに太ってた猫が、ミイラみたいになっててかわいそうだった。ノラ猫にはエイズもってるの多いんだって。」
 瞬間、猫と目が合った。猫は離れていき、近くにいた4、5人の学生らしい人達の中に入っていった。そして抱き上げられ、撫でられた。
 猫とまた目が合った。きっと、猫に伝わってしまった。

 1時間も待った甲斐があったと思わせてくれるくらい美味しかった。オードブルはバイキングでサーモンのマリネが特に美味しかった。パスタはボンゴレビアンコ。彼は赤ワインを飲んで少し饒舌になっていた。飲めない私はライムジュース。そして、デザートは小さなケーキが3つ。
「食ったなぁ。」
「美味しかったね。小さなケーキが3種類っていうのもうれしい。」
「ケーキ好きだよな、お前。」
「残さず食べちゃった。明日からダイエット頑張ります。」
 優しい顔でユウジが笑う。
「今日泣いてたの?」
「え? なんで?」
「目が腫れてる。なんかあったか?」
「あぁ、本読んでて、犬が死んじゃうとこで泣いちゃって。」
「動物好きだな。」
「犬は特にね。」
「猫は?」
「う〜ん。犬ほどじゃないけど。」
「あの猫は?」
 彼の視線をたどると、入り口のところに猫が座ってこちらを見ていた。
 なんか、責められているような気がしてうつむいた。

 店を出て、猫を無視して通り過ぎようとしたが、猫は「ナーナー」と寄ってきた。声は媚びているけど、目は媚びていない。
 ユウジがしゃがんで頭を撫でてやる。私は立ったまま猫を見下ろしていた。猫はユウジを無視して私の足にしつこく絡み付く。私は蹴飛ばしたい衝動を堪えた。
「お前に撫でてもらいたいんじゃないの?」
 私は立ったまま、どうすれば良いかわからなかった。たとえこの猫がエイズだったとしても、猫のエイズは人にはうつらない。猫が私の目を見て「ナーナー」と鳴く。
「あれ? 左目。」
「ん? あ、本当だ。」
 よく見なければ気が付かなかった。猫の左目は濁っていた。見えていないのかもしれない。私はますます怖くなった。その見えていない左目が、私が隠したい私の心を見ぬいている。
 私は怖くなり、猫に媚びて頭を撫でた。猫は鳴くのを辞めて私の奥をじっと見据える。抱き上げて喉を撫でるとゴロゴロと鳴らした。
「こんなに太ってるんだから、この猫はエイズじゃないよ。大丈夫だよ。」
 なんだかユウジに慰められているみたい。
 店のドアが開いて店長らしき人が顔を出すと、猫は私の腕から飛び降りてその人の足元へ行った。その時、猫の爪が私の腕に傷をつけた。
「痛いっ。」
 大丈夫か? と腕を取ろうとしたユウジに、大丈夫だと言って駐車場へ向かった。
 重くなった胃と心で車に乗り込んだ。飲んでいない私が運転席に座る。
 ぶつけたらごめんねと言ってライトを点けると、照らされた植え込みに何かうごめくものがあった。
「なにあれ?」
 車ごと近づいた。
「キャーッ!」
 私は何度も悲鳴を上げてユウジにしがみついた。
 それは、猫だった。ミイラのようにやせ細った猫だった。
 ヤツは何も言わずに私が落ち着くのを待ってくれた。
「ねぇ、タバコ頂戴。明日から禁煙するから。」
 タバコに火を点けて窓を少し開ける。何とか落ち着きを取り戻して、車を動かした。
 駐車場を出てバックミラーを見ると、店長らしき人に抱かれたままのあの猫が見えた。
「あの猫が、見てる。」
「お前がエイズだなんていうから怒ったんだよ。」
「戻って、ごめんなさいって言ってきた方が良いかな。」
「心で思ってれば通じるよ。おい、そこのホテルで休んで行こう。酔いが覚めたら俺が運転するから。」
 
 ユウジとは別に恋人じゃない。寝たことがないわけじゃないけど。ただ、お互い独身で気が合うから、ときどき会っている。
 シャワーも浴びずにベッドに体を投げ出した。
 ユウジが入れてくれたコーヒーを飲む。
「なぁ、俺達の関係をきちんとしようか。」
「どうしたの?」
「ちゃんと付合おうか。」
 驚いた。自由でいたいから彼女はいらないと言っていたヤツが。
「どうしたの? 年取って人恋しくなったの?」
「なんだそれ。いや、さっき思った。」
「さっきって?」
「お前ってさ、臆病だよな。へんなこと気にしすぎだし。猫は怒ってなんかいないよ。動物って、動物が好きなヤツがわかるんだよ。猫はお前のことが好きだっただけだよ。」
「私は、あの猫を傷つけちゃったんだよ、きっと。シッシッて追い払うより、水をぶっかけちゃうよりももっとひどいと思う。」
「もういいから。」
そう言って私を抱き寄せた。
「今、私、弱ってるから。弱ってるときは判断鈍るから。」
「俺じゃダメ?」
「どうしても今返事しなくちゃダメ?」
 2匹の猫の姿が頭から離れない。
 ユウジの規則正しい寝息が聞こえ始めた。
 私は眠れずにタバコを吸おうと起き上がったときに、腕の傷に気がついた。猫に引掻かれた傷。
 ユウジの寝息が止まった。
「眠れないのか?」
「うん。禁煙できそうもないや。」
「今日は泊まろう。添い寝してやるから。」
「気持ちだけ頂いておく。ユウジだって明日仕事でしょう?」
「朝早くに帰ればいいさ。」
 なんだかんだと言いながらも、ユウジの気持ちがうれしかった。
 さっきまで何ともなかった傷が痛んだ。痛い。猫の仕返しだ。
「結構深いな。さっきのこと気にしてるのか? お前は猫の心を傷つけたかもしれないけれど、猫はお前の腕を傷つけたんだ。お相子でいいんじゃないか? 生きている限り誰も傷付けたことがない奴なんていないよ。仕方のないことかもしれないぞ。もう寝ろ。」
 添い寝してもらうと、どうしてこんなに気持ちが落ち着くんだろう。私、そうとう弱っているんだ。
「さっきの話だけど、あれさ、お前が弱ってない時、どっちかっていうと、気丈なときに気が向いたらもう1回言うから。忘れて良いよ。」
 私は「うん」と言って、眠るために目を閉じた。





エントリ7  天狗と桃饅頭   中川きよみ

 深夜、愚兄が突如現れて、天狗のノートを差し出した。
「土産だ。ネタ帳にしろ。毎日1つ何か面白いことを書き付けとけよ。」
 ネタ帳と言われたところで私は物書きでもなんでもないが、あまりのことに面食らって素直に受け取ると、満足げにこれまた唐突に帰っていった。

 兄が帰ってもノートは毅然として在った。茫然自失から立ち直り気を取り直すと、既に丑三つ時も過ぎていた。
 天狗の柄の、それはそれはけったいなノートだった。幽かにだが確実に線香の香がする、恐ろしく古びたノートで、色の変わった赤い表紙に劇画タッチの天狗の顔が笑っていた。おそるおそる開くと、全てのページは三方が日焼けして黄ばんでいるが白紙で未使用だった。
 兄からの宿題だからと、しばらく考えてみたがノートに書くネタは何一つ思い付かなかった。仕方がないので買い置きしてある桃饅頭にかぶりつく。

 先週電話があって、母さんがまた『菜』に桃饅頭を取りに行った。『菜』は近くにある馴染みの台湾家庭料理屋で、台湾人の夫婦がやっている。夫婦が帰省したり、親戚が食材を送ってくれる機会には、よく本場の桃饅頭が入手できた。もちもちした皮も、コクがある中華あんも、ラードがきいていてとても美味しいのだ。
 桃饅頭を一番気に入ったのは兄だ。驚くべき単細胞ぶりで、いくら食べても飽きるということを知らないようだった。私とばあちゃんは兄の次に好きだったけれど、兄に付き合ってしょっちゅう食べて少し飽きた。両親はもう要らないと言っている。
 それなのに、相変わらず『菜』には入荷したら電話してくれるよう頼み込んでいて、大量に買ってくる。冷凍したり仏壇にお供えしたり、いろいろするものの最終的にはこうして私が夜な夜な食べることになる。

 1つ食べ終わっても他に思い浮かばなかったので、意地になって桃饅頭を食べ過ぎたばあちゃんが糖尿になって消費部隊の戦線から外れたことを書くことにした。糖尿病は尿が泡立つと聞いてきたばあちゃんが、台所のコップに自分の小水と取るという暴挙に出た挙げ句、「ほら泡立っておらんから大丈夫」と豪語して、食事療法を厳重に言い渡されているにも関わらず桃饅頭をむさぼり食って血糖値がハネ上がったことも、できる限り面白可笑しく書いてみた。兄は桃饅頭の次にばあちゃんのことが好きなので、ちょっと喜んでくれるかなと期待しながら書いていると、少し、楽しかった。

 好物の桃饅頭が手に入るから久しぶりに家に帰っておいで、と、無邪気な母は兄の下宿に電話した。まさに『餓鬼』である兄は、狂喜乱舞して桃饅頭に向けてまっしぐら、鉄砲玉のようにアパートを飛び出したらしい。
 その後、お店に届くのが遅れているからやっぱり来週になると『菜』から電話があり、母は私に連絡を頼んだ。兄は頑として両親に携帯電話の番号を教えないので、連絡係はいつも私なのだ。
 あいにく兄は携帯を部屋に忘れていた。私が何度電話しても、夢の島のようなゴミだらけの兄の部屋で、着メロにしている植木等のドント節が鳴り続けていた。
 そしてドント節が鳴る間に、兄は自宅のすぐ近くまで来ておきながら一方通行の細い道で飛び出してバイクにはねられ頭をぶつけて死んでしまった。バイクは信号を遵守していて、しかも低速だった。桃饅頭のことばかり考えて勝手に飛び出して、ぶつかった挙げ句に打ち所が悪くてあっさり死んでしまった兄が全て悪い。うちの家族の者すら、それでも責任を問われるバイクの運転手のおじいさんに深く同情していた。

 掛け値なしに愚かな兄ではあるが、兄だった。失った時のダメージの大きさは、失ってみなければ分からない。正直なところ、あの愚兄を失って自分がここまでダメになるとは思ってもみなかった。
 どうしてあの時、駅まで行かなかったのだろう。自宅の2階で何度も電話していたのだろう。私はまさにこのベッドに座って携帯で電話していた。窓を開けていて、なんと視界には事故現場が入っていた。ほんの数秒前に気付いて大声で制止すれば、もしかしたら兄は今も生きていたかもしれない。
 どうして!
 私にはちっとも責任がないと、いろんな人が言ったし、誰に言われるまでもなく私自身もそう思う。それでも私はどんどん沈んでいってしまった。
 学校に行かなくなり、もう半年も引きこもって暮らしている。

 時間の長さというものはひどく相対的だ。メリハリがついた健康な生活を営んでいた頃は、メリハリのついた長さだった。忙しい時はあっという間だったし、のんびりした時はゆったりしていた。今はそのどちらでもない。ダラリと取り留めもなく長く、そのくせ気付かない内にまた1日が終わっている。トイレに行こうと思っている間に昼が夜になっている、ということもザラにある。そしていつも夜が長かった。
 夜が深くなるほどに、後悔も深くなる。後悔には救いがない。得体の知れない底なしの苦しい時間だ。そこへ兄の差し出した馬鹿げたノートは、まさに堕ちる者に対する藁だ。私は死に物狂いで掴む。
 ノートの表紙の薄笑いを浮かべる天狗を眺めながら、後悔の沼から気を逸らすためにノートを埋めるネタを考えて、書き付ける作業に没頭する夜が始まった。
 毎日ネタを探すために、わざと血眼になろうとした。やがて些細などうでもよい日常に関心を持つ癖がついた。父さんが、兄の遺したエロビデオをこっそり見ているのが母さんに見つかって、シバき倒されるのを見た日など、『もらった』と叫びそうになったほどだ。

 ノートが半分くらい埋まってきた頃、またふいに兄が現れた。兄は天狗のノートを取り上げてパラパラめくった。
「お前、字、汚いなぁ。」
 ミミズが苦悶しているような字しか書けない兄のセリフに、言葉が出ない。
「山伏の御利益、あったか?」
 兄は表紙の天狗の眉間をコツコツ指で弾いて訊く。
「面白いこと見つけて笑ってないと、元気でないだろ? 桃饅頭ばっかり食ってるくせに痩せやがって。」
 兄は笑っている。
「お前もさ、泳ぎは練習しておいた方がいいよ。俺は得意だからこうして時々泳いで戻ってこられるけど、カナヅチだったら三途の川で溺れ死んでらぁ。」
「兄ちゃん、相変わらずバカだねぇ。」
「当たり前だろ。バカは死んでも治んねえんだよ。」
 開き直った言い草に、私も笑った。笑ったら、涙と一緒に元気が出た。
「それから、悪いんだけどホッタにさぁ、2000円返しておいてくんない? 5000円借りてて、アイツ香典持たずに来てただろ? 香典代3000円差し引いてあと2000円なんだけど、『返せよ』って昨日夢枕に立たれちまってさぁ。」
 それだけ言い置くと、呆れる私を後目に兄はまた消えてしまった。

 現し身のホッタがいったいどうやったら死人の兄の夢枕に立てるのか分からなかったが、仕方がないので翌朝ホッタに2000円を返すため、半年ぶりに玄関から外に出た。
 愚兄の幼なじみだけあってホッタも昔から有名なオトボケ野郎だった。2000円を普通に受け取ると、真顔でこう付け加えた。
「アイツ賭で負けて俺にパフェ奢る筈で、どうすんだよって言ったんだけど、何も言ってなかった?」
「知らないわ。代わりに今度、桃饅頭持ってくるわよ。」

 季節が巡り、すっかり初夏の太陽と風。ホッタの家を出ると、屋外の強烈なエネルギーに私はバラバラになりそうな目眩を感じていた。
 (元気だせよ)
 遙か、兄の声が聞こえた。





エントリ8  悪魔と呼ばれた黒猫   児島柚樹

闇に融けてく僕の体。
綺麗とは言えない真っ黒な毛並み。
何を見てるか分からない金色の眼。

人々は僕を【悪魔】って罵る。
飛んでくる石をかわせない。
僕は【悪魔】
人間は嫌い。

ある秋の日の月夜。
僕はいつもの路地裏で食べられるものを塵箱から漁る。
昨日は何も食べてない。
というか最近はましな食事をしていない。
肋骨がうっすら見えている。
ここの家の主人が出て来る前に早く探さないと。

バタン!
勢い良く家の扉が開いた。
僕は飛び上がるほど驚いて今さっきまで漁ってた塵箱の後ろに逃げ込んだ。

「皿もろくに洗えない子なんてウチにはいらないよ!!」
「すみません…!もうお皿をわりません…!」
「フン。当たり前だよ。今日は夕飯抜きだからね。」
小さな男の子を置いて扉は閉められた。
大きなお屋敷から出てきた男の子はそこに似合わないぼろ服に身を包んでた。
きっとここに雇われているのだろう。
ここ最近の社会は治安が悪い。
親はご飯にもありつけないから
自分の子供を売りに出す。
そんなのが当たり前になってしまった。

この子も同じ僕と

一人で罵声を受けて
ただここの汚い空気と冷たい疾風の街に彷徨う
生き物のひとつ。

僕が影から顔を出したとき。
男の子は気づいたらしく
僕の方を向いた。
「おいでおいで。」と手で僕を招いた。

僕は当然近づかなかった。
男の子は来ないのを不思議そうにした。
そして逆に僕に近づいてきた。
僕は警戒して髪を逆立て唸った。
手を出してきたから噛み付いてやった。
赤い血が僕の喉を伝わったのが分かった。

噛んで気づいたことは
肉を噛んだ感触が無かった。
ふと見た男の子の手が皸や霜焼、洗剤まけで傷だらけだった。
「おいで黒いにゃんこ。君は僕の味方だよ。」
声は凄く優しくて、心地よかった。
僕の傷を優しく触り労わってくれた。
こんなのは初めてだった。

これが僕たちの出会い。

男の子の名前はアリー。
お屋敷の使用人がそう言っていた。
アリーは毎日僕に会いに来た。
ポケットからパンを一切れ出して僕にくれた。
アリーは僕に名前をくれた。

【ホーリー】聖なるという意味の僕の名前。
【悪魔】と罵られても平気になった
石を投げつけられても平気になった
僕には消えない僕だけの名前が在ったから。

アリーは酷い怪我をしてお屋敷から出されていた。
僕に気づくと
「ホーリー。おいで。」とにっこりと笑って僕を呼んだ。
怪我を心配した。
使用人に何されたのか不安になったけど
いつもと変わらない笑顔に僕は心の奥で少し安心してたんだ。

その後傷は増えていって、アリーは少し痩せていった。
でも変わらない笑顔で僕の名前をよんだ。
皸と霜焼と洗剤でまけた手で僕を抱きしめてくれた。
体に受ける温もりが
今の僕を支える全てだ。

きっとアリーも僕の温もりを感じてるだろう。

汚い空気の街でみた。

ランプの灯火の様な
暖かい

僕たちが生きている証拠

しかし

ある日を境にアリーは来なくなった。

理由なんて知らない。
きっと何処か別の使用人に雇われたのだろう。
そう思った。

それから毎日お屋敷に通ったけどアリーはやっぱり来ない。

いつもより澱んだ空気が僕の鼻を劈いた。

ふと
扉があいた

けどアリーではない。
パンの配達だった。
パンの配達員とお屋敷の使いがやりとりをしていた。

「いつも毎度。」
パン屋は紙袋を使いに渡す。
この匂いはフランスパンだろう。
紙袋の大きさから見てバタールあたりだな。
そう考えるとお腹が捩れそうだった。

ここ3日はましな飯にありつけてないからだろう。
今日もアリーは出てこないのか

やっぱりどこかの街に連れて行かれたのだろうか?
そう僕は肩を落としていた。

そしたらパン屋はぽつりと言ったんだ。
「しかしアリーだっけ?あの子も可哀相に。」
アリーの話をしたので僕は話に耳を傾けた。

「駄目ですよ。ここのお屋敷の秘密なんですから。」
「スマンスマン。アリーはとてもいい子だったのにねぇ。ホラ。そこの黒猫。」
そういって僕を指差した。
「皆は物語を信じて【悪魔】だかと言ってたんだけどアリーは可愛がっていたよ。
毎日自分に与えられたパン一切れをこの猫と分け合って食べてたよ。」

そこで僕は自分が食べていたパンはアリーの食事だったことを知った。

「まぁ…だからあの猫毎日こちらを伺っているんですね。」
「そうゆうことだ。じゃぁ私はこれで。配達があるんでね。」
「ご苦労様。」
パン屋はお屋敷の使いに軽く一礼して僕に近づいた。

「黒猫。ここで待っていてもお前の主人は来やしないぞ。」
パン屋は紙袋からパンをひとつ取り出して僕に渡した。
やっぱりアリーはここにはいないらしい。
そう思った。
パン屋が次に出した言葉
「ここの使用人に殺されてしまったんだよ。もう居ないんだ。」

僕の体に電気が流れたみたいに衝撃を受けた。
僕の主人は…。アリーは…。

もう生きていないって?

「過労と絶え間ない暴力でろくに手当てもしなかったから
皿洗い場で倒れてたそうだよ。
主人はアリーを丘の桜の木下に埋めたんだ。」

アリーは桜の木下?
冷たい土の中に

アリーのあの温もりは
今は冷たくなって

考えたくなかった。

パンを置いてパン屋はいつのまにか僕の前から姿を消していた。
美味しそうな3日ぶりの飯をながめてた。

ちいさなバターロール。

あぁこれをアリーと半分こして食べていた。
きっとアリーはお腹がすいていただろうに。

3日ぶりの飯を手もつけずに

僕は走った。

街中を走るのは久しぶりだ。

いつも隠れながら街を歩いていたから。

雪は降っていないが寒い淋しい街を疾風とともに走る
「みろよ!悪魔が走っているぜ!!」
罵られて石を投げつけられる。
【悪魔】と言われるのが苦痛だったあの日に比べて
僕は平気。

僕には名前がある。
【ホーリー】って消えない名前があるから。

例え呼んでくれる人が一人

アリーしかいなくても

僕は【悪魔】じゃない証拠がある。

走っても、転んでも
傷ついても、【悪魔】と罵られても

【ホーリー】

それが僕の名前。

真っ暗な闇が僕を溶かす。
光が欲しい

アリーを探す光が欲しい

森を抜けて丘へと
桜の木が

アリーが埋まってる桜の木まであと少し

既に満身創痍だ。

もう駄目かもとくたばる寸前に聞こえてくる声。
「ホーリー」
アリーが僕を呼んでいるから

もう一度立ち上がって歩き出す。

頑張れあと少し。
ほら見えてきた。
桜の木。

真っ黒い闇から垣間見えるのは
僕の金色の眼。
ゆっくり流れ出す深紅の血液。
僕が辿ったその痕。

ふらふらと意識が揺らめくのが分かった
でもアリーが僕を呼ぶんだ。
僕は行かないと

それがアリーに出来る最後の僕の恩返し。

「辿り着いたよ。アリー。」
桜の木が寂しく項垂れていた。
寒い空の下で裸の木が
まるで外に出されたアリーみたいだった。

ぴとっと木肌に身を寄せる。

あぁあの時と同じ暖かさが感じられた。
気のせいかもしれないけどその時はそう思った。
皸と霜焼、洗剤にまけた手はもうないけど
濁ったこげ茶色の枝が空高く伸びていた。

満身創痍の身体、止め処なく流れる深紅の血。
寂しい寒空の下で僕は桜の木に凭れ掛かり
もう最後である街の景色を見ていた。

汚い空気と冷たい疾風に埋もれた街。
アリーと出会ったお屋敷の外。

もう疲れた。
おやすみなさい。


雪が降りそうなくらい寒い秋の夜長に
桜の木の下で一匹の黒猫が
木に寄り添うようにして死んだ。

それからしばらくして

「お母さん見て!桜が咲いてる。」
桜の木は思い出したように花を咲き誇った。
寒い空の下で薄紅色の花が冷たい疾風に揺られていた。

寒い空に咲いた桜の木。
狂い咲きの理由は誰も知らない。

作者注:BUMP OF CHICKEN『K』を聴いて書きました。





エントリ9  私のストレス解消法   のぼりん

 得意先周りから帰ってくると、運悪く営業部の事務所前で係長に出くわした。
「何してるんだ。先方さんは約束の時間に君が来ないと何度も電話してきているぞ」
「あ」と、私は小さく叫んだ。
「すっかり忘れてました」
「君という奴は……」
 係長は、待ってましたといわんばかりに説教を始める。気が狂いそうなほどの炎天下に外回り、足を棒にして営業から帰ってきた矢先だというのに、まったくうんざりだった。
 私は思わず、係長の頭を羽交い絞めにし、指を両目に突っ込んでぐりぐりしながら首投げを決めて、その上からすました顔面に向かってエルボードロップを数発叩き込み、さらにかかと蹴りを食らわした後、便所へ引きずっていって、器具入れの中に閉じ込める情景を想像した。
 営業という仕事ほどストレスを溜め込んでしまうものはない。私のストレス解消法はささやかなものである。こんなたわいない想像をするだけで気分がすっきりし、係長のしつこい説教も苦痛にはならないのである。
 営業部に帰ってデスクに座り、しばらく書類を整理していると、女子社員が、商談室で待っている得意先が、凄い剣幕で当り散らして手がつけられないと告げに来た。
 先ほど約束をすっぽかしてしまった取引先の常務に違いない。業を煮やしてここまで怒鳴り込んできたのだろう。
「いいよ、すぐ行く」
 そういいながら、湯呑みを片付けようとする女子社員のお尻をするりとなでた。
「きゃ、何するんですか、係長に言いますよ」
「係長は、今ここにはいないよ」
「とにかく気安く触らないでください、あなた変態じゃないの?」
 私を睨む顔つきが尋常ではなかったので、思わず、彼女の顔面に頭突きを数発かまし、気を失ったのを見計らって非常階段に連れ込み、ハイヒールを脱がせてその先で何度も体中を叩き回したあげく、血まみれ穴だらけになった体をダストシュートに投げ込む情景を夢想した。すると、いつものようにとてもすっきりして、得意先のところへ謝りに行くのも怖くなくなっていた。
 が、事はそんなに簡単ではない。商談室で待っていた得意先の常務の憤慨振りは普通ではなかったのである。
「お前との約束のおかげで、わが社がどれだけ損をしたのかわかっているのか。上司を呼べ」
 と連呼して、取り付く島がない。
「今上司はいません」
「お前のような無責任な担当では埒があかん」
 相手は常軌を逸している。
 私は思わず、机を叩いて喚く常務の掌をナイフで串刺しにし、一転して恐怖に歪む顔面に正拳十連突きを食らわし、飛燕空中三段蹴りをあざやかに極めて、さらに耳や目や口や鼻に、机の上の書類を丸めて突っ込んだあげく、正体もなく意識を失ったところで、その体を商談室の窓から、ビルとビルの隙間に落とす情景を想像した。
 すると瞬く間に淀んだ気分が、きれいさっぱりと浄化した。
 が、たわいない想像だけでいくらストレスが解消されるとはいえ、現実には不愉快で我慢ならない事だらけである。ふと、一番の気がかりは、妻のことだということを思い出した。私は早々に、風邪のため帰ります、と課長のいないデスクの上に書置きを残して、会社を早退することにした。

 我が家は歴然として、朝出てきたところと同じ場所にある。
 新婚当時に手に入れたマンションだが、まだローンも残っている。だというのに、毎日ふらふら遊んでばかりいる妻が、案の定、突然帰宅した私にびっくりしたような顔をした。
「どうしたの急に」
「今そこで何してたんだ?」
 手にもっている携帯電話を引ったくって、リダイヤルすると男が出た。
「なんだ、なんだ。もっと僕と話がしたいのかい?」
 妙に甘えた声で、妻との関係がすぐにわかる。
「お前は誰だ」と尋ねても、相手はただ沈黙しているだけだった。
「浮気してるな」
「バカなことを言わないでよ」
「じゃ、なんでそんなに慌てているんだよ。俺の目を誤魔化せると思うな」
 思わず、携帯を床に叩きつけると、妻の喉元に抜き手を入れ、うずくまる背中から膝蹴りを落とし、さらに頭部を抱えてバックブリーカーを炸裂させた後、ぐったりとした体を風呂場に運び、包丁でばらばらにしてラップで丁寧に包み、冷蔵庫に隠す情景を想像した。
 すると、妻の浮気もたちどころに許せるような気分になった。
 ありえないような夢想こそ、わが友、わが人生の特効薬。
 それにしても、気持ちがいい。家に帰って妻とのトラブルを解決し、嫌なストレスがやっと跡形もなく消滅したようである。
 テレビを見ながらビールを飲み、ほっとため息をついた。
 おい、次は日本酒だ。熱燗で頼むよ。
 台所に向かって妻を呼ぶが、返事がなかった。風呂でも入っているのだろう。私は気にしないで、さらにビールをあおった。
 テレビのチャンネルを変えると、驚いたことに、わが社で今日、殺人事件があったという話題が報道されている。便所の器具入れの中から死体が発見されたらしい。
 知っている名前のようだが、酔いが回ってあまりよく思い出せなかった。どっちみち明日会社に行けば詳しい事情がわかるだろう。
 ――冷蔵庫に何かツマミがないだろうか。
 だが、意識の片隅では、自分で冷蔵庫を開けるのが少し怖いような気がする。
 しかし、それも些細なこだわり。まあ、明日になれば、ストレスだらけのこの生活にも、少しは変化が起こっているに違いない。

 淡い期待だろうか?





エントリ10  カミレンジャー その2   THUKI 

そんなこんなで1000字バトルの「その1」から、一ヵ月後。ここはワイルダー基地の隣にある小さな市「須坂市」。天気:曇り。
「ってことで、君が今日からカミレンブルーよ!」
「わけが分かりません!!」
 青山茂21歳(無職)に、市役所から通知が来たのは昨日のこと。
今日のお昼すぎに市役所に赴き、受付の人に案内されてきたのは、地下七階。そこにいきなり現れた女性に「ブルー宣言」されても、ワケが分からないと返すことしか出来なかった。
「その返答は新しいわね。他のメンバーは二つ返事でOKしたのに・・・・。」
 青山の反応に、いきなり考え込む女性。
 そりゃ、他のメンバーがおかしいんだ。
「っていうか、ここはどこですか?」
 青山が見渡す限り、ここは本当に現代社会なのかと問いたくなるほどのごっつい機械類や大きなモニター類が見える、あからさまな「秘密基地」だ。さらに、端々に6色の扉がついており、今自分が見ている部屋以外にも、さまざまな設備が用意されていることが見て取れる。
その中の一箇所に「シャア専用部屋。通常の三倍じゃない人はいるべからず」とか書いてあるものがあったが、見ないことにした。
 どうでもいいことかも知れないが、この施設。市役所にあるってことは税金で出来ているんだよな?やっぱり・・・・。
「でも、君がカミレンブルーなのは、間違いがないの。早速残りのメンバーを紹介するわね。」
 言うが早いが、女性は緑の扉の部屋に消えていった。
 奥から「ブルーが来たわよ。自己紹介して・・・って、ピンクまた昼間からお酒飲んでいるの!?イエローまで飲んじゃダメでしょ?あ〜あ、ブラックも、レッドも一緒につられて・・・って言うかコレ、『大吟醸』じゃない!?私にも一杯頂戴。」などという声が聞こえてきたが気にしてはいけない・・・・・気がする。
 っていうか、質問・・・・答えろよ。

「君がブルーか。よろしく頼む。私の名前は赤井浩太。レッドと呼んでくれ。」
 そんなこんなで、一人取り残され、呆然と施設を見とれていると突然右側から男性が現れた。二メートルはあろうかという巨体と筋骨隆々の姿がまぶしい。
 アレ?緑の部屋にいたんじゃなかったの?
「はぁ・・・で、レッドって何の話ですか?」
 話早々に、思わず質問する青山。失礼なんて何のそのだ。
「あれ?茂、何にも知らないの?」
 今度は、女性が後ろから声をかけてきた。
 顔を向けると、先ほど自分が入ってきた扉にたっている一人の若い女性。
「恵?」
 知り合いだった。
「お久しぶり茂。それより、本当に何も知らずにここまで来たの?」
 ちなみに恵の苗字は黒田だ。
「ああ。っていうかお前、ここでは『ブラック』って呼ばれない?」
「うん。何でわかったの?」
 ・・・・・・やっぱり
「呆れた。何も知らずにここに来るなんてねぇ〜。」
 今度は左側から聞こえる、新しい女の声。顔を向けると自分たちより少し年齢が上らしき女性と、中学生らしき少年が立っているのが見えた。
 女性の方は、とても酒臭かった・・・・・・・。
 そして、やっぱり緑の部屋にいたような気がしたのだが・・・・。
「ニュースでやっているはずですよ。ワイルダーを倒すために組織されたスペシャル強化スーツ部隊。通称『Z戦隊カミレンジャー』」
 イチャモンつける女性の代わりに、隣の少年が説明する。
 どうでもいいことかも知れないが、少年の容姿は年齢のせいもあってか、この場にいるどの女性人よりも美しい・・・・
「あぁ、どうしてもふざけているとしか思えない宇宙人に対抗すべく用意された総理直々の全身タイツ集団ね。何故か一般人から適正者を選ぶとか・・・・って、エェ!!」
 思わず、一人ボケツッコミをしてしまった。
「ってことで、よろしくお願いします。ちなみに私の名前は黄浦実。カミレンイエローです。」
 少年が自己紹介した。
 いや、あのそういうことではなく・・・・。
「私の名前は桃井泉美。一応、カミレンピンクよ。」
 酒臭いお姉さんが自己紹介した。
 だから、そういうことでもなく・・・って言うか、お前ら絶対苗字で決めているだろう!?
「あの・・・・なぜ、俺が?」
 まさか、自分の苗字が『青山』だからと言うことはあるまい・・・。
「国の公平なくじ引きによる判断だって。」
 ・・・・ダメじゃん。それ。
「さて、全員、自己紹介がすんだわね。ちなみに私の名前は『色彩紀子』。隊長って呼んでね。」
最後に、自分をいきなり「ブルー」呼ばわりした女性が真後ろから答えた。
・・・・・どうやら、奥の部屋は異次元空間となっているらしい。っていうか、あんた隊長だったんだ。
「さて、これから作戦会議を始めるわ。みんな席に着いて。」
 隊長の言うことに逆らう理由も特になく、全員が基地の真ん中にある机に腰掛ける。
 ただし、青山を除いて・・・・。
「あの、ちょっとすいません・・・・。」
「何?ブルー?」
「ハイ。一応たずねますが、拒否権はないのですか?」
 いくらふざけている連中といえ、仮にも自衛隊をいともあっさりと蹴散らした連中だ。抵抗がない方がどうかしている。
「ないわ。」
 即答!?
「ってことで、あなたたちの役割は、カミレンチェンジャーを装備して、密かに地球征服をたくらむ悪の軍団であるワイルダーを倒すことよ。」
言うが早いが隊長が机から取り出したのは、五色の腕時計型ブレスレット。
 直感だが、絶対自分はあの青いヤツを装着するはずだ。
 ・・・・・・・・嫌ダナ・・・・・・・・。
「さらに、これは私の直感から言うことだけど、ワイルダーは兵士を大量投入すればいいものの、一々怪獣を一体ずつよこして、『お前、本当は日本人だろう?』ってつっこみたくなるような悪事を働くと思うの。出来ることならあなたたち五人はそんな怪獣たちを適度にピンチとか仲間割れとか演出しながら倒して頂戴。しかも30分以内に!!」
 隊長!!ソレは日曜の朝七時半からのテレ朝を見すぎです!!
 しかも、アレは30分に凝縮しているだけであって、全てが30分以内に終わっているわけではないです!!
「そんなことは分かっている!!しかし、俺たち五人が力をあわせれば何者にも負けはしない!我々の緑あふれる僕らの地球を悪の軍団に渡すわけには行かないのだ!!」
 レッドよ・・・・お前、アホやろう?絶対。
 大体、今日いきなり顔あわせで、力を合わせるって言われてもな・・・・。
「とってもおかしな日本語を使っているけど、それに目を瞑れば頼もしいわね。では、早速具体的な使い方だけど。」
 と、その瞬間。
 『隊長、大変です。街にワイルダーが現れました!!その数、20!!』
 いきなり、基地内にあるモニターに女性の顔がアップで映る。カミレンジャーに何だかの形で参加しているスタッフということは、言わなくても分かった。
「えぇ!!そんなの、セオリーに反しているわ!!」
 セオリーってなんだよ!?
『そんなことより、隊長!!』
 鬼気迫る顔で迫る女性隊員。
 どうでもいいが、カメラ回しているのは誰だろう?
「分かったわ。聞いたとおり。戦隊物の決まり事とか、多くの特撮ファンを裏切ってワイルダーが大量に現れたわ。みんな、早速出撃よ!!」
 特撮ファン?
「「「「「ラジャー」」」」」
 こうして、カミレンジャーは出撃した。
 果たして、カミレンジャーは無事悪の軍団ワイルダーを倒すことができるのか!?
 読者とか、それに類する人たちを置いてきぼりのまま暴走しながら・・・・続く。

作者注: ※日曜の朝7時半からのテレ朝  
     「戦隊ヒーロー」の放映時間。
     ちなみに今は「特捜戦隊デカレンジャー」が放送中。

※1000字バトルに投稿した「カミレンジャー その1」からの続きです。良ければ、そちらも読んでみてください。



website: THUKI


エントリ11  気違い娘・狂騒詩曲   ゆふな さき

 黒白のつやつやした木切れを撫でると、透明感のある音がスカンと空気に溶け込む。だから私はピアノが好きだ。だってこの楽器は私を裏切らない。
 
 もちろん、ずっと好きだったわけではないし、どちらかって言うと嫌いだった。練習でしばられた時間、憎んでいると言っても良い。けれど今は大好きなのだ。
(今日は何を弾こうかな。)
 そんなことを考えなくても私のレパートリーは決まっている。色気のないけれど情熱に溢れているブラームスのラプソティだ。繊細さや理知とかそう言ったものがない、ぽっちゃりした自分の体系によく似合う重たい低音の、けれど激しい曲だ。

 指鳴らしを弾いているうちに体はカッカと熱くなっていく。どうしようもない飢えが癒されていくのを感じた。全ての悩みは音に集中される。一つ一つの音の長さ、はじめのタッチの入り方、音の粒の強弱。ひとつひとつを軽くきってつながらないように、全てを均等に、にごらせずに。ふと、自分がおかしくなっていることに気づく。音だけに集中しているつもりなのに、外を流れる風やら空気の淀みやらが感じられてきて、バックミュージックのように重ねている。
(私は空気の中に生きていて、空気は絶えず動いていて、湿気も動いていて)
あたりは淀み、曲を始める。
 目の中にどこまでも続く草原が現れ、ヨーロッパのしなびた中世のお城が浮かんでくる。淀んだ悲しい世界は、きっとこんなに湿気を含んでいなかっただろう、現実と妄想の中の西洋、時代、と何もかもがぐじゃぐじゃに交わっていくことを感じていく。現実ですら私と言うフィルターを通して作り上げたものだと感じる。全てはつながり、あいまいだ。
 想像が働き出し、音に色がつき、ひとつひとつのフレーズがせりふになり、楽節が一場面になると、おかしな劇が始まっていく。そこに生まれる美しい物語の美しい感情。
 主人公は白いストンとしたドレスを着た王女と、聡明な騎士。物語のあらすじはめちゃくちゃで、細部もへったくれもないけれど、彼らが美しい感情に襲われていることだけはわかる。風習やすれ違い、滑稽で偉大な情熱、愛しみと切なさの織り交ざった感情。ストーリーがないのに変化し続ける感情。音楽って、枠組みを持たない、生の感情かもしれない。

 途中で疲れて放棄する。上着は脱いで、汗すらうっすらかき、興奮はまだ心を覆う。休むとまた体が欲して、極めたくないのに五時間も弾いたときもあった。
 極める。ピアノを極める。
ちょっと心の中でつぶやいた。それは、私には出来ないことを知っている。もし大学に進学するのならば、ブラームスやベートーヴェンの曲を一曲ずつしか弾かないなんて出来ないし、解釈は人の数だけあるけれど、作曲家の意思や時代の流れ全てを読んだ職人のようにならなければならない。そして何より自己陶酔してはいけないという原則が私には不可解だった。ナルシストの日記みたく、人に見せるではない、これは楽しむだけの手段であるはずなのだ。
 そこまで思ってふと気づく。私は一体なぜ、こんなにピアノを弾いているのだろう。しかも、客観的に上手ではない、ひいてしまうような演奏だって気づいているくせに。

 頭の隅を一人の男子が通る。きれいな二重で口元の愛らしい、背の高い男子。私は彼のことが好き、彼が好き。
 知り合いになったばかりで部活の時、話をするだけである。部活の運営方法について、知り合いの噂話、事務連絡。仲良くすらない、そんな人間関係であるはずなのに、ある日彼がじゃんけんで負けてパシリになって。校庭から走って戻ってきたその姿を見たとき首が美しいのに驚いてしまった。大きな首筋の深い筋と、浮かぶ汗。そして身のこなしの自然な優雅さ。
 きっと後から考えたとき初心だったなと思うような恋、初恋に私はきっと陥っている。
 
 さて、きっとそれが原因かもしれないと思った。彼に会えれば非常に幸せだけれども、もちろん姿を見ない時間は多い。これを、どう乗り切ればいいのだろう、と途方にくれ続けている。心中が彼の姿を見ることを欲しているのに、何もない時間は空腹を抱えるように辛い。時計の秒針の音が自分を切り刻む刃物の立てる音のようだ。

 きっとだからピアノを弾いて無にするのだろう。この辛さを埋めるために、私は始めのうち、食べ続け吐き続けることをした。次にお酒を飲んだ。これは母に見つかってすぐに止めさせられた。ふとんにくるまって啜り泣くこともしたし、滅多にしなかったいやらしいことはまるで習慣のようになって、それをせずには眠れなくなった。そんな数々の依存の一つとして私はピアノを弾いている。

 気違いみたいなピアノの音。もし、彼が聴いたら必ず気持ち悪がるだろう、けれどやめられない。私はまた弾き出していた。助けてよ。彼に会える可能性を求めて音楽室から部室へ行く気も起こらなかった。どうせ彼は私が嫌いだ。なんの根拠もなくそう思う。本当は知っている。嫌われているどころか彼はやさしい。私が彼に対して興味を持っていることを彼は知っている。だから自然とその態度はやさしい。でも、だめだ。行きたくない。会いたい時はおかしなほど彼を探すときもあるのに。良くわからない行動をとる自分。物事を理論的に考える能力が消えている。

 さて、空気が冷え暗くなったから、家に帰ることにした。
 帰り道、帰りたくない。

 だれが人を好きになると楽しいと言ったのだろう? そもそも私は本当に彼が好きなのだろうか、好きであると言う夢を見ているのではないだろうか? 彼がこの異常さを知ったらきっととっても嫌うだろう。

 急速に死にたいと思って、そんな自分がおかしくて、なんか面白くて微かに笑いを浮かべてみた。
 けどさ、家に帰りたくないのだけど。本当に、この窓ガラスに映る醜い自分を消したいのだけれど。本当は、自分はややぽっちゃりしているけれど、男受けの良いほうの顔をしていることを知っている。でも駄目なのだ。
 もし自分のドッペルゲンガーが現れたら、これを殺すまで叩くだろう。だってあなたは醜い。
 どうすればいい、彼が好みそうなCDとか、話題とか、そういうのを考えて、彼が落ち着くためには何が必要か考える。みんな自身ってないのだから、私だけではないのだから。
 
 その癖、私はまんが喫茶に泊まる。お酒を買って、学校にも出なくなった。なぜここまで自意識が過剰なんだ? 答えを聞いても風は答えてくれない。
 ラプソティの一節を歌う、でたらめな旋律、でたらめな音色。ねえ、私はこのまま旅へ出て、時々、ピアノを弾ければいいんだ。

 旅には出ずに、彼と積極的にしゃべることを止めて、私は放課後のピアノに言葉を詰める。これは思春期の異常でしょ? 友達にも上手に相談できない。人間関係も面倒になってくる。
 
 ピアノは言い続ける、助けて、助けて、助けて。
 
 嫌われたくない(格好悪い願いだね) 
 良いとこだけ見せたい(無理だって) 愛されたい(より愛しなさい)
 
 終わることのない無意味な叫び、気違い女狂想詩曲。