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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第70回バトル 作品

参加作品一覧

(2006年 10月)
文字数
1
kite
2998
2
霜野浩行
3000
3
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん
4
ごんぱち
3000

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水疼き
kite

 病床から見える灰色の空から長い雫がさらさらと降ってくる。それは玲子の胸に溜まっていた重黒い水に無音で落下し、すうっと溶けていった。胸の隅に出来た瘡蓋は徐々に水分を含み、再びじくりと膿み始めた。ざぶりと彼方に波の砕ける音が、玲子の鼓膜に水を差した。
細く窓ガラスを開けると、彼方でひんやりと冷え込んだ蒸気が風に跨り室内に薄い冷気の壁を作った。膿みはほのかに熱を奪われ、怠惰な身体にキリリとした芯が差し込まれた。
「少し散歩してくる」
付き添いにくたびれ仮眠を貪る叔母に小さな声だけ落とすと、玲子はニスの匂いのするスニーカーに両足を括りつけた。
スリッパの音を響かせ、あちこちから青白い患者たちが、消毒液の匂いを振り撒いている。玲子は急いで手の甲を鼻腔に近づけた。自分からも、ああいった匂いがするのだろうか。
長期間、世俗と仕切られた病院の中で生活していると、こちら側が常識になり、あちら側の感覚は失われていく。それに比例し、匂いに対しては磨り減る程に敏感になっていた。
不自然な程真っ白に洗われたシーツは常に洗剤の匂いをこびり付かせ、少し指で強く押せばパリパリとガラスになって、砕け散りそうに思えた。病院中のあちこちは悪い虫でも閉じ込めるかのように消毒液臭く、主治医の頭には古いポマードのような匂い、看護婦の手のひらは、ささくれた生活の匂いがした。

 薄手のカーディガンを羽織った玲子は、病室の窓から一歩外に出たとたん木々の獰猛な生長の香りに襲われた。病院の中では決して嗅ぐことのない、野生に満ちた香りだった。
玲子は淡い水溜りの前で立ち止まると、どこから沸いたのか無数の微生物が小さく表面を泳いでいる。互いにぶつからぬよう、器用に摩擦を避けながら。しゃがみこんだ玲子は水溜りに人差し指を浸し、ぐるぐると桶のように掻き回した。すると、微生物たちは溺れるように足を素早く縮こまらせ、左右に流れる波の上で流されながら、こつりと隣に流されてくるものに頭をぶつけた。はっとして指を上げると、数秒で水はなだらかな海の表面を繕った。しとりしとりと降り注ぐ霧雨は、水溜りの微生物たちを慰めるように一定の和音を水の中へ響かせていた。
玲子は、マッチ箱を取り出し、よこぐすりでマッチ棒を擦った。雨のせいかよこぐすりは半分なよっと湿っており、やっとの思いでしゅっと鮮やかに音を立てたマッチ棒は、玲子の目の前に、ゆらゆらと青く包まれた炎を揺らした。棒状のマッチ棒は、じわりと背を焼かれるようにゆっくりと燃え上がり、玲子の白爪の先までくると、ぽっと消えた。花火の落ちる夏の残り香のようなものが、玲子の鼻腔をうずかせる。小さな炎の残像を玲子は水溜りにちゃぷんと落とすと、傘を畳んで立ち上がった。足元の無数の微生物は、残された棒切れにの周囲で3秒ほど談笑すると、またそれぞれ器用な泳ぎで海を渡った。

 病院は海岸沿いにあるため、こうして玲子は時々病室の窓からこっそりと夜の散歩に抜け出していく。纏わりつく凶暴な自然の香りに身を委ねてぽつりぽつりと歩いていくと、やがて皮膚の表面の毛穴が広がり、自然とその香りを吸収する。
スニーカーの紐を解き、靴下を脱いで丸め込むと、素足のまま砂浜を歩いた。がらくたとなったどこかの父母の愛情が、玩具の汚れとなってところろどころに突き出ている。
玲子は細い素足で海の入り口へ踏み込んだ。霧雨はすっかり枯れ果て、満月に近い楕円の月がすぐ近くで、ぼぉっと頬杖を付いている。
波は穏やかに一定のリズムで、玲子の足首を濡らしていった。夏の夜はこうして涼むのが、格別病に効くような気がした。
月明かりに照らされ、海の表面に細長く伸びた影が、そっと玲子に近付いてくる。
「何しているんですか?」
急に誰とも分からぬ者に話しかけられた玲子は、どきんと心臓に血が逆流したようで、ただ、その青年の白い顔をぼんやりと見つめた。
「あそこの方でしょう?」
青年は痩せ細った腕で、遥か彼方を指差すように、黒く沈んだ病院を指した。
「えぇ、まぁ」
いたずらを突然懲らしめられたような決まり悪さで、玲子の身体はしゅっと毛穴を閉めた。
「僕もそうなんですよ、たまにここに抜け出してくるんです」
青年は僅かに笑みを浮かべると、玲子の隣まですいすいと水を掻き分けて入ってきた。
「何年もあそこにいると、太陽の光はなんだか恐ろしくってね、夜にこっそり抜け出してくるんです」
玲子の横にすくりと立った青年は目だけが透き通るような深い色に沈み、身体は玲子以上に細く白い華奢な井出達だった。
「何年、入院されているんですか?」
俯いたまま玲子が尋ねると、青年の目の色は更に深く沈んでいった。
「もう10年以上になります」
ざぶん、とひとつ大きな波が砕けると、2人の影はゆらりと輪郭を失った。
「でももう少しで退院できると思います」
遠く光る金色の光が、沈んだ青年の深い瞳の上に、静に静止した。
「どうして分かるんですか?」
「ここにくればそういった先の事が、何となくですが分かるような気がするんです」
青年はぽつりとそう言って、砂浜へと上がっていった。
闇夜に紛れ、青年の姿が見えなくるまで、玲子は彼の背中に落ちる月明かりをじっと見つめていた。

 日々は淡々と流れ、あれから何度か海にいったが、青年に会うことはなかった。名も聞かず、薄明かりでぼんやりとしか見えなかった彼をこの大きな病院で探す事は、病の玲子にとっては骨の折れることだった。次第に彼のことも脳の引き出しの奥へと仕舞い込まれ、以前のような胸のざわめきは、また重黒い水によって侵食されていった。

 深夜お手洗いに行こうと、いつもの洗面所へ向かおうとすると、運悪く人だかりができいる。また誰かの命がひとつここで無くなったのかもしれない、という気だるい諦めが、胸に粘つく黒い液をまた注いできた。その水をごくりと飲み込みながら、別の小汚い洗面所へ向かおうとした矢先、人だかりの奥に、僅かに扉を開けたままの、空に向かって窓を開けっぱなしにした個室があった。
はっとした玲子は、そのまま病院を飛び出し、海岸へ向かって素足で走った。砂浜へ付いた時には、何かの破片やガラス屑が足の裏に刺さって溢れ出た血に、砂たちが無邪気にへばり付いていた。
海岸線をぐるりと見渡しても、人影ひとつ見えず、足の痛みを海水で流すと、玲子は溜息を落としてしゃがみこんだ。どくどくと血液ばかりが元気よく、黒い空には、満ち足りた月がぽかりと遠くに浮かんでいた。

    この階の人 昨日亡くなったの?

    そうみたいね

    何の病気だったのかしら

    さぁ何でしょうねぇ ただその病で亡くなったというより 
    こう言っちゃ何だけど もう随分長く体を煩って 
    精神のバランスを失っていたそうよ

   どういうこと?

    亡くなり方が奇妙なのよ 何でも 
    昨晩ひとりで外出してそれっきり姿が見えないものだから 
    ご家族の方が捜索願まで出して 
    警察と一緒ににここら中を探し回ったそうよ 
    そうしたら明け方にやっと 
    あの海から波に打ち上げられたその人を見つけたらしいわ

 スーッと脳裏の引き出しの奥が開き、玲子の胸に収まり切れない程の透き通った雫を降り注いできた。窓越しに降る午後の雨はじわりじわりと、まだ乾ききっていない玲子の瘡蓋を剥ぎ取っていった。
水疼き kite

その日僕は
霜野浩行

その日僕は、彼女がもっとも嫌いな言葉を口にした……。

パァン!

 乾いた音が低いうねりになって、美術室全体に反響する。
 いつの間にか顔が左斜め下を向いていた。ビリジアンの絵の具と柔らかなオレンジの日差しが見える。ストーブの上のやかんがカタカタと鳴った。
 平手打ち。自然と痛みはない。ただ脳震盪気味になり、僕の思考は一瞬途切れる。何を考えていいのかわからない。何を考えていたのかもわからない。何故彼女にそんな言葉を投げかけたのかも。
 僕はゆっくりと顔を正面に戻した。まるで全盲患者が網膜の手術後、瞼を上げるような速度で。
 彼女がいる。色素の薄いストレートの髪に、丸い顔。少女趣味が入った薄いピンクのセーター。細い右手は、鞘にしまわれず払った方向で止まっている。
 つぶらな瞳には涙が浮かび、ピンクの口元はキュッと結ばれていた。
 ――なんでそんなことをいうの?
 口数が少ない彼女の表情は、そう訴えていた。
「う……あ……」
 すぐに謝ろうとした。言葉が出てこない。すでに打たれたショックから開放されていた。彼女の涙を前にして僕は怖気づいたのだろうか?
 たぶん違う。
 その言葉は彼女の嫌いな言葉だった。軽はずみに口にしていいものではない。何も考えなしで出るものでもない。僕もまた追い詰められていた。彼女にそう言わなければならないほど。

 彼女との出会いは、今から思えば「らしい」出会いだった。
 美大の同じ講義で、たまたま横に座ったのが彼女だった。
 普通の県立高校から有名美術大学に受かった僕は、その頃仲間が欲しかった。
 最初に声をかけたのは、僕の方だった。
「一緒に昼食どう?」
 今思えば、わが人生最初のナンパだった。この冴えない誘いに彼女はこう言った。
「奢ってくれるなら……いいよ」
 頬を赤く染め、やや上目遣いで答えた彼女に。
「オッケー」
 と即答したが、これが仇になった。
 僕はこの後、美大の学食で彼女の大食漢なところを見せ付けられる。
 話を聞いたところ、バイト代を画材や資料、美大の教科書につぎ込んでしまい、ここ3日間水以外何も口にしていなかったという。
 彼女の食べっぷりは見ていて気持ちいいほどだった。おかげで母親の緊急仕送りが来るまで、僕は水以外3日間口にしない生活を強いられる羽目になったが。
 甲斐あってか、その出来事は彼女と付き合いはじめるきっかけになった。
 彼女が非常にユーモアのある人間だった。同時に、絵に対して独特の美術観を持っていた。その描く絵はいつも意欲的で独創的な絵だった。彼女には才能があった。いつしか僕は、彼女のファンの一人になっていた。
 何故そんな絵が描けるのか? 彼女に尋ねた。回答者は筆を止めて答えた。
「私にないものや見えないものを描いているから――かな」
 答えになっていないような気がした。
「私……才能って言葉が嫌い。だってそう言い切ったら、描けなくなるから。だから私は挑戦しているの。私にはないものや人には見えないものに。多分――それが一番難しい事だから」
 彼女の目の前には完成しつつある絵が置かれていた。2、3歳の幼児が笑っている絵。
彼女は愛おしそうにそのキャンパスに手を添えた。
「この絵もそう……。これくらいの子供ってね。社会しがらみとかそんなものを知らずに、ひたすら自由に生きているじゃない。それって……もう私にはないものなんだよね。そしてこの絵から伝えたいの。その純粋な心を」
「それが目に見えないもの……」
「挑戦したくなるでしょ?」
 そう言った時の彼女は、どこか得意げで玩具を見せびらかす子供のように思えた。
僕はそんな彼女にどんどん惹かれていった。知れば知るほど、話せば話すほど、傍にいる時間の分だけ、彼女が好きになっていった。絵を描くことよりも。その頃から僕にとって、絵は彼女と接点をつなげる道具でしかなかったのかもしれない。
僕は必死になって「絵が好きな僕」を演じ続けた。だが終幕は卒業間近に訪れた。
「ねえ、最近描かなくなったね」
 冬――。珍しく晴天が続いた日だった。
 僕はストーブの横で雑誌を読み、彼女の創作活動を終わるのを待っていた。
「うん。なんか……最近気分が載らなくて」
「スランプ? 私でよかったら、相談に乗るよ」
「いい――。ごめん、ありがとう。……それより卒業したらどうするんだ?」
 僕は強引に話を変えた。とにかく絵の話をしてほしくなかった。
「うーん。路上にでも出ようかな。……それでも生活費が稼げないならバイトして。……ああ、就職先が決まっている人がいいなあ」
 僕はすでに画材屋の営業に内定とっていた。彼女は就職活動すらせず、ひたすら絵を描いていた。
「お前、まだ絵を描くの?」
「もちろん! 君は描かないの?」
 僕は――。

「お前にみたいに才能ないから……」

 と言った。

 美術室のドアが閉まる音で僕はハッと目覚めた。
 目の前の彼女は消えていた。後には絵の具の匂いが残った。
 その日を境にして、僕は彼女と出会うことなかった。次の日、彼女は退学していた。

 しばらくして彼女から小包が届いた。
 絵でも描いて送ってきたのだろうかと思ったが、意外にもDVDレコーダーだった。
 同封されていた手紙には「これがあると君のことを思い出すから」と書かれていた。短文を読みながら、僕は忘れていた思い出に再生をかけた。
 レコーダーは僕が彼女の誕生日に送ったものだ。その無骨な贈り物に一瞬彼女は眉根を寄せたが、彼女と一緒に古い映画を見るためだと知ると気に入ってくれた。
 僕たちはそのレコーダーで一時期何十本とビデオレンタル屋から借りてきては、貪るように昔の映画を見た。
 ある時、突然彼女は「折角、レコーダーを買ったんだから録画にも使いましょう」と言い出した。すると「トップライト」という番組が好きかと尋ねた。その番組は芸能、芸術家の第一線で活躍する人間を呼んでコメンテーターと語り合う、今ではありふれたな対談番組だった。
 彼女はよく見ているらしく、10年後自分は出演するという。
「だから10年後のこの番組の時間に予約をしておくの。そうすれば10年後、忙しくなって忘れてしまっていても番組予約を忘れずに済むでしょ」
「番組の時間帯が変わっていなかったらな」
 僕は悪戯っぽく笑った。
 あの時は楽しかった。絵も彼女ともうまくいっていた。
 僕は自分の部屋にあるテレビにDVDを接続し直した。最初に予約を確認すると、まだあの記録は残っていた。一瞬消去しようと考えたが、出来なかった。

 そして僕は職場恋愛をし、結婚をし、一児の父になった。
 ある時子供がアニメを録画したDVDに違う番組が入っていたのを、消去してほしいと頼んできた。妻も小さな子供も機械は全く駄目で、録画予約はすべて僕がやっていた。
 僕は早速作業に取りかかると、トップライトが録画されていた。それにはよく知っている女性が映っていた。彼女はこうコメントした。
「私は、私にないものや見えないものを描きたいんです」
 僕にないもの……。僕に見えないもの…。
 彼女は僕にないものを持っていた。僕に見えていないものを見ていた。
 ――そうか。
僕が絵を描かなくなった理由。僕にとって彼女が、最高の絵画だったからか。
 その日僕は妻に個展を見に行こうと誘った。台所で人参を切りながら、妻は「珍しいね」と呟いた後「誰?」と尋ねた。
 勿論、彼女の初めての個展だ。
その日僕は 霜野浩行

(本作品は掲載を終了しました)

多財餓鬼
ごんぱち

「収賄の何がまずいって言うの、お父様?」
 藤代正次は、机を両手で叩く。
「正次、生まれてからの二〇年、一体私の何を学んで来た」
 肘掛に右肘をついたまま、藤代正直は彼を睨む。
「情報端末三〇〇台ばかりの受注のために、脛に傷を受けてどうする」
「でも、セントラルは、新興企業ですわ。いち早く地元に食い込むには、手段なんて選んでいられないじゃない?」
「するなとは言わん、だが然るべき局面で効果的に行わなければ、ただ弱点を作るだけだ」
「しかし」
「気に入らなければ、今すぐ取締役を止める事だ」
 言い返せないまま、正次は社長室から出て行った。

「ハデにやりこめられたようですね」
 廊下に出た正次に、ボディーガード兼秘書のルトアビブが一礼して付き従う。
「黙りなさい、ルット」
 不満を顔一杯にして、正次はドカドカと足音を立てながら歩く。
「それより、正次サマ」
「……ルット、それよりって何よ、それよりって」
「シツレイしました。このようなものを、うけとりましたので」
 ルットが、開封済みの小さな辞典ほどの大きさの紙箱を差し出す。
「バクダンではありませんでした」
「バースディプレゼントかしら?」
 正次は蓋を開く。
 中には、タバコの箱ほどの大きさの木箱と、薄い茶封筒が一通入っていた。
 木箱の蓋を開けると。
「臍の緒?」

 クラウンが、田畑の混じる古い建売住宅街の、ヒビの入ったアスファルトの道を走る。
「そこを左ね」
「はい」
 家々は、五〇年も昔に建てられたような借家が並び、時折更地が混じる。
 高級車が珍しいのか、家の窓からちらちらと覗く人影が見える。
「そこね」
「はい」
 立ち並ぶ家の中でもひときわ小さく、所々が歪んだ家の前で停車する。
「誰だい、家の前に車なんか――」
 家の中から、初老の女が出て来る。その顔立ちは、一目で分かる程に、正次と似ていた。
「こんにちは、藤代正次と申します」
 窓を開け、正次は微笑んだ。
 女は口を半開きにしたまま、まじまじと正次を見つめ、続いて大急ぎで家の中に入ってしまった。
「ジュウショ、まちがえましたか?」
「そうでもないみたい」
 女は、今度は夫と思しき男を連れて出て来た。
 彼もまた、どことなく正次と似ていた。
「藤代、正次さん、ですね」
 男は一言づつ念を押すように尋ねる。肉体労働者を思わせる、割れた声だった。
「ええ。車田省吾さんと、弥生さんでしたよね」
「ヒロノリ……あんたヒロノリ!」
 女――車田弥生が、車の窓の縁にしがみつき、涙をぼろぼろと流し始める。
「こらっ、失礼だろう」
 諫める省吾の目からも、涙が溢れ出していた。
「気になさらないで」
 正次は微笑む。
「お話、聞かせて下さる?」
「汚いところですが、中へどうぞ」
「ありがとう」
 ルットに車のドアを開けさせ、正次は降りる。
「ルット、あなたはちょっと、その辺をドライブでもしてて」
「わかりました」
 ルットは運転席に戻る。
「お待たせ、お邪魔するわ」
 正次は優雅に一礼して、省吾と弥生の後に従った。

 ――二十年前。
「――はい、わたしが、自分の考えでやりました」
 被告人席の省吾は、うなだれたまま答える。
「売ったデータは何に使ったのですか」
 裁判長が早口で尋ねる。
「生活費です――」
 閉廷後、裁判所から出た省吾は、そのまま社長の車に乗る。
「ご苦労だった」
 隣に座る社長は笑う。
「あの様子なら、執行猶予も付くだろう」
 それから、薄い茶封筒を差し出す。
「取っておきたまえ」
「ありがとうございます」
「退職金だ」
 封筒を受け取った省吾の手が固まる。
「たい、しょく?」
「警備会社の社員が、データを盗むような警備員を使い続けていては、世間に示しがつかない。懲戒免職にしない訳にはいかないだろう?」
「はい……」
「ははは、そんな不安そうな顔をするな」
 社長は煙草をくわえると、省吾は慌ててポケットからライターを出し、火をつけた。
「君の事はちゃんと考えておく」

 省吾の両手に収まりそうな小さな赤ん坊が、泣き声を上げる。
「……どうするの、あなた」
 弥生はシーツをぎゅっと握り締める。
「ここの出産費も、払えないんでしょう?」
「いや、それは大丈夫だよ。借りられた」
「そう……明日からの生活費は?」
 省吾は口ごもる。
「生活費は、その、社長から次の職場を紹介してもらうから、ともかくそこで前借りをして、それまでは」
「それで、その新しいお仕事は決まったの?」
「いや、その、社長の電話、工事中なんだ、多分」
「いなくなられたんでしょう? 社長さん」
「そんなこと!」
「ね、ちゃんと答えて」
「……ああ」
 省吾は赤ん坊をそっと抱き締める。
「お腹、空かせるんでしょうね、この子」
 寂しげに弥生は呟く。
「大丈夫だ、真面目に一生懸命働けば」
「この子は」
 弥生は赤ん坊の頭を撫でる。
「あたしたちと一緒じゃ、ずっとお金に苦労するわね」
「ああ……可哀想に」
「だからね?」
 弥生は省吾に耳打ちした。
『お金持ちの子にしてあげない?』

「――かつて警備していた病院に忍び込み、金持ちの子供とすり替えました」
 語り終えた省吾は、目頭を押さえる。
「でも良かった。こんなに立派に育って、良い服を着ているし」
「よく元気でここまで育って」
 二人は心からの愛情のこもった眼差しで、正次を見つめた。
「それで、子供は?」
 笑顔で正次は尋ねる。
「ですから、その子供があなたです」
「名前も決めていたんですよ?」
「すり替えられた、金持ちの本当の子供は、どうしたのかしら?」
「ああ、そっちですか」
 興味なさげに省吾は茶代わりの水を飲む。
「突然死した事にしました」
「元々身体の弱そうな子でしたし、あたしたちの家で育てるお金なんてありませんでしたから」
「なるほど」
「本当に良かった、立派になって」
「もう会社の偉い人なんだろう? 新聞読みましたよ」
「お父さん、お母さんありがとう」
 正次は深々と頭を下げる。
「わたくしは今、会社の取締役になって、毎日一千万円単位でお金を動かしています」
「はーー、すごい」
「大した出世だねぇ」
「ゆくゆくは、独立して、世界一の大富豪を目指そうと思っているわ」
 正次はスーツの内ポケットから、小切手帳を取り出す。
「こんな事しかできないけど、どうぞ」
 金額欄に三〇と書き込む。
「三十円?」
 弥生が拍子抜けした顔をする。
「ドルよ」
「ほぅ、世界を相手に仕事をしているんですねぇ、素晴らしい」
「本当にねぇ」
 省吾と弥生は、混じりけなしの愛情に満ちた顔で微笑んだ。

「――三〇ドルってね」
 車の窓越しに、遠くなって行く二人の姿を見ながら後部座席の正次は呟いた。
「人身売買の最低相場よ」
 車載冷蔵庫から、正次はペットボトルの水を取り出す。
「あの二人が来たら、必ず金を渡して帰して。三〇ドルづつ、絶対に拒否させないで」
「はい」
「味を占めて、毎日来るようになったら教えて」
「毎日ですか」
「笑いは美容に良いのよ」
 正次は携帯電話を取り出す。
「どちらへ?」
「お父様よ。死亡報告しなきゃ」
「え、そんなことをしたら」
 正次は小さく笑う。
「あーあ、精神に合った肉体だけかと思ったら、親子の縁まで買い直さなきゃいけないなんてね」
「かえますか?」
「親子以上の信頼や絆ってヤツなら、会社への莫大な利益で得られるでしょ」
「それは……たしかに」
「お金ってのは、何だって買えるのよ」
 正次は、ミラー越しにウインクをした。
「然るべき場面で、然るべき金額を支払えば、ね」