その日僕は、彼女がもっとも嫌いな言葉を口にした……。
パァン!
乾いた音が低いうねりになって、美術室全体に反響する。
いつの間にか顔が左斜め下を向いていた。ビリジアンの絵の具と柔らかなオレンジの日差しが見える。ストーブの上のやかんがカタカタと鳴った。
平手打ち。自然と痛みはない。ただ脳震盪気味になり、僕の思考は一瞬途切れる。何を考えていいのかわからない。何を考えていたのかもわからない。何故彼女にそんな言葉を投げかけたのかも。
僕はゆっくりと顔を正面に戻した。まるで全盲患者が網膜の手術後、瞼を上げるような速度で。
彼女がいる。色素の薄いストレートの髪に、丸い顔。少女趣味が入った薄いピンクのセーター。細い右手は、鞘にしまわれず払った方向で止まっている。
つぶらな瞳には涙が浮かび、ピンクの口元はキュッと結ばれていた。
――なんでそんなことをいうの?
口数が少ない彼女の表情は、そう訴えていた。
「う……あ……」
すぐに謝ろうとした。言葉が出てこない。すでに打たれたショックから開放されていた。彼女の涙を前にして僕は怖気づいたのだろうか?
たぶん違う。
その言葉は彼女の嫌いな言葉だった。軽はずみに口にしていいものではない。何も考えなしで出るものでもない。僕もまた追い詰められていた。彼女にそう言わなければならないほど。
彼女との出会いは、今から思えば「らしい」出会いだった。
美大の同じ講義で、たまたま横に座ったのが彼女だった。
普通の県立高校から有名美術大学に受かった僕は、その頃仲間が欲しかった。
最初に声をかけたのは、僕の方だった。
「一緒に昼食どう?」
今思えば、わが人生最初のナンパだった。この冴えない誘いに彼女はこう言った。
「奢ってくれるなら……いいよ」
頬を赤く染め、やや上目遣いで答えた彼女に。
「オッケー」
と即答したが、これが仇になった。
僕はこの後、美大の学食で彼女の大食漢なところを見せ付けられる。
話を聞いたところ、バイト代を画材や資料、美大の教科書につぎ込んでしまい、ここ3日間水以外何も口にしていなかったという。
彼女の食べっぷりは見ていて気持ちいいほどだった。おかげで母親の緊急仕送りが来るまで、僕は水以外3日間口にしない生活を強いられる羽目になったが。
甲斐あってか、その出来事は彼女と付き合いはじめるきっかけになった。
彼女が非常にユーモアのある人間だった。同時に、絵に対して独特の美術観を持っていた。その描く絵はいつも意欲的で独創的な絵だった。彼女には才能があった。いつしか僕は、彼女のファンの一人になっていた。
何故そんな絵が描けるのか? 彼女に尋ねた。回答者は筆を止めて答えた。
「私にないものや見えないものを描いているから――かな」
答えになっていないような気がした。
「私……才能って言葉が嫌い。だってそう言い切ったら、描けなくなるから。だから私は挑戦しているの。私にはないものや人には見えないものに。多分――それが一番難しい事だから」
彼女の目の前には完成しつつある絵が置かれていた。2、3歳の幼児が笑っている絵。
彼女は愛おしそうにそのキャンパスに手を添えた。
「この絵もそう……。これくらいの子供ってね。社会しがらみとかそんなものを知らずに、ひたすら自由に生きているじゃない。それって……もう私にはないものなんだよね。そしてこの絵から伝えたいの。その純粋な心を」
「それが目に見えないもの……」
「挑戦したくなるでしょ?」
そう言った時の彼女は、どこか得意げで玩具を見せびらかす子供のように思えた。
僕はそんな彼女にどんどん惹かれていった。知れば知るほど、話せば話すほど、傍にいる時間の分だけ、彼女が好きになっていった。絵を描くことよりも。その頃から僕にとって、絵は彼女と接点をつなげる道具でしかなかったのかもしれない。
僕は必死になって「絵が好きな僕」を演じ続けた。だが終幕は卒業間近に訪れた。
「ねえ、最近描かなくなったね」
冬――。珍しく晴天が続いた日だった。
僕はストーブの横で雑誌を読み、彼女の創作活動を終わるのを待っていた。
「うん。なんか……最近気分が載らなくて」
「スランプ? 私でよかったら、相談に乗るよ」
「いい――。ごめん、ありがとう。……それより卒業したらどうするんだ?」
僕は強引に話を変えた。とにかく絵の話をしてほしくなかった。
「うーん。路上にでも出ようかな。……それでも生活費が稼げないならバイトして。……ああ、就職先が決まっている人がいいなあ」
僕はすでに画材屋の営業に内定とっていた。彼女は就職活動すらせず、ひたすら絵を描いていた。
「お前、まだ絵を描くの?」
「もちろん! 君は描かないの?」
僕は――。
「お前にみたいに才能ないから……」
と言った。
美術室のドアが閉まる音で僕はハッと目覚めた。
目の前の彼女は消えていた。後には絵の具の匂いが残った。
その日を境にして、僕は彼女と出会うことなかった。次の日、彼女は退学していた。
しばらくして彼女から小包が届いた。
絵でも描いて送ってきたのだろうかと思ったが、意外にもDVDレコーダーだった。
同封されていた手紙には「これがあると君のことを思い出すから」と書かれていた。短文を読みながら、僕は忘れていた思い出に再生をかけた。
レコーダーは僕が彼女の誕生日に送ったものだ。その無骨な贈り物に一瞬彼女は眉根を寄せたが、彼女と一緒に古い映画を見るためだと知ると気に入ってくれた。
僕たちはそのレコーダーで一時期何十本とビデオレンタル屋から借りてきては、貪るように昔の映画を見た。
ある時、突然彼女は「折角、レコーダーを買ったんだから録画にも使いましょう」と言い出した。すると「トップライト」という番組が好きかと尋ねた。その番組は芸能、芸術家の第一線で活躍する人間を呼んでコメンテーターと語り合う、今ではありふれたな対談番組だった。
彼女はよく見ているらしく、10年後自分は出演するという。
「だから10年後のこの番組の時間に予約をしておくの。そうすれば10年後、忙しくなって忘れてしまっていても番組予約を忘れずに済むでしょ」
「番組の時間帯が変わっていなかったらな」
僕は悪戯っぽく笑った。
あの時は楽しかった。絵も彼女ともうまくいっていた。
僕は自分の部屋にあるテレビにDVDを接続し直した。最初に予約を確認すると、まだあの記録は残っていた。一瞬消去しようと考えたが、出来なかった。
そして僕は職場恋愛をし、結婚をし、一児の父になった。
ある時子供がアニメを録画したDVDに違う番組が入っていたのを、消去してほしいと頼んできた。妻も小さな子供も機械は全く駄目で、録画予約はすべて僕がやっていた。
僕は早速作業に取りかかると、トップライトが録画されていた。それにはよく知っている女性が映っていた。彼女はこうコメントした。
「私は、私にないものや見えないものを描きたいんです」
僕にないもの……。僕に見えないもの…。
彼女は僕にないものを持っていた。僕に見えていないものを見ていた。
――そうか。
僕が絵を描かなくなった理由。僕にとって彼女が、最高の絵画だったからか。
その日僕は妻に個展を見に行こうと誘った。台所で人参を切りながら、妻は「珍しいね」と呟いた後「誰?」と尋ねた。
勿論、彼女の初めての個展だ。