TROPiCAL prayER
とむOK
肉厚な植物の芳香を吸った匂いの強い湿気が、一歩進むごとに肌にまとわりつく。とめどなく流れる汗からも苦い葉の匂いがしている。樹々ははるか上空を覆い、午後なのに辺りは薄暗い。予定ではもう着いて良いはずだが、村の影はおろか人の住んだ形跡すら見かけない。
雨季を終えた森は、熱に浮かされたような濃密な呼吸とともに、水を大気に還元し続けている。
正午にさしかかる頃、目指す森を前にして運転手は身振りで男に降りろ、と示した。
安っぽい日本製の大衆車は、生産されて何十年も経った異国の地で、日本人の会社員である男を密林の入り口まで運んだ。男が降りると、車は錆だらけのへこんだボディをメヒルギの群生に擦りつけるようにUターンし、排気管から黒煙を上げて再び泥道を去っていった。
男はスーツの上着を抱え直した。湿気を吐きつけながら曲がって伸びる樹々の間に、人の通った痕跡らしき筋を見つけて男は歩き始める。
彼の生まれた村までは、歩いて三時間。
「伝えて欲しい」
それが契約の条件だった。
「帰れない、と」
広大な社長室に通された男は、世界に冠たるコングロマリットを一代で築き上げた彼が、東洋人としても小柄な方であることに少し驚いた。ファクスからは彼のサインを待つ書類が絶えず流れ出し、壁一面を占める液晶に映った世界地図では、彼の会社が世界の各地で行う取引の収支を示す数字が、音も立てずに踊っていた。ここに世界がある、という感想は独創的ではないが、一つの確かな現実だった。今回の契約によって、男の会社で開発された次世代集積回路が彼の複数の企業に採用され、幾つかの地点の数字がまた少し踊るのだ。
「だが、夢なのでしょう」
男は言った。彼の浅黒い肌を穿った大きな瞳と厚い唇からは何の感情も伝わって来ない。
お告げがあった、と彼は言った。夢に族長が現れ、村に戻るよう告げたのだと。そして村に帰らねば、大きな禍がこの天地に訪れるとも。彼の曾祖父でもある族長は、百年も昔から偉大なるシャーマンであり、今もそうあり続ける。その族長の言葉だという。彼は整った白い眉を少しも動かさずに首を振った。
「私は曾祖父の夢に入れない」
堯々、と何処かで鳥が鮮やかに啼いた。
数十メートルの高さに霞む樹冠で、何か大きな動物の渡る音がした。おそらく猿の類だろう。フタバガキ科の植物が、途中の枝に絡め取られなかった葉を一枚、男の往く足先に標のように落とした。
アタッシュケースをどこかへ置いて来てしまった。ずいぶん前に上着も捨ててしまっていた。帰りに拾うつもりだったような気がするけれど、どうやらそれはできそうになかった。韓国製のアタッシュケース、中国製のスーツ。台湾製のモバイルノート。暑さと湿気のせいかひどく体がだるくて、それらはあまりに重かった。
男のいる会社は決して大きくはないが、生産する集積回路のチップは世界でも有数の性能を誇っている。増加し続ける情報を高速で処理するため、研究部はより高性能なチップを次々と生み出す。新たなチップはTVゲームから核ミサイルまであらゆる電子回路に組み込まれ、そのたびにゲームはますますリアルになり、ミサイルはより正確に目標を破壊する。そんなことを何十年も続けていた。
彼の巨大な財閥でも、やはり何十年もゲームやミサイルが造られていた。彼の自伝では、村を出た彼は初めに鉱夫になったという。彼の持つ最も古い会社は、今でも世界中で地面を掘り返している。長く鋭い槍を持つ巨大な掘削機械で岩盤を穿つと、蟻のように無数の鉱夫が深い底に送り込まれて一握りの希土金属を含む大量の土砂を運び出す。槍の制御盤にも新製品が使われる予定だ。新しい回路を得た新しい槍は世界のあちこちに運ばれ、より力強く、確実に大地を削ってゆくだろう。これまで何十年もそうしてきたように。それはまるで世界の始まりから定められていたように確かな事実である。男はそう思った。
ガジュマルに似た樹が、海面から伸び上がった蛸のように、自分の背より高いところから太く曲がった根を泥に差し込んでいた。根を避けて進むと、腐食したドラム缶が何本も泥の中に沈んでいた。放置されてどれだけの時間がたったのか、色あせた黄色の張り紙に書かれた文字はかすれていた。ひどい金属臭が鼻をつき、全身から汗が噴き出した。
幾つかの樹はドラム缶を抱え込んだまま成長していた。繰り返される雨季と乾季によって金属は腐り、長い時間をかけて生み出された圧力がドラム缶をねじ曲げ、突き破っている。その辺りの樹は一度立ち枯れて、それからまた枝を伸ばしたようであった。ケロイドのように樹皮はひきつれ、歪んだ枝が太く細く四方へと生長している。
レディオ。
張り紙の文字はそう読めた。足を緩めずに進みながら、男は何度も反芻した。
レディオ。
お告げがあったのはいつのことだったのか。彼は言わなかった。
少しだけ空が明るくなって、目の前に突然ニクズクの倒木が現れた。ごく最近のスコールになぎ倒されたらしく、生々しい傷跡に血の色をした独特の樹液が染みていた。根本から森の奥へ向けて濁った川ができていた。巨大な淀みのように、流れのない川だった。
その畔で、男は少女の姿を見た。
空高く弧を描いたニクズクの根の一つに少女は座っていた。妊婦のようにゆるい長衣を着ている。小柄な肢体に長衣のサイズは合っていない。袖のない薄い生地から痩せた脇腹がのぞいて、むき出しの腕も足もニクズクの樹液で赤く染まっている。
少女はいびつな形をした金色の果実を齧っていた。
男はニクズクの根を登り、少女に近づいた。汗と泥に汚れた男に顔を寄せて少女は接吻する。口の中の軟らかい実が男の舌にねっとりと絡みつき、唇の間からこぼれた蜜が肉の薄い浅黒い胸元に滴る。崩れるほどに熟した熱帯の没薬。少女の痩せ細った腕を流れる赤い液体はニクズクの樹液ではなかった。あちこちの小さな傷から少女は血を流し続けているのだ。男の頬をぬるい水が流れた。甘い果実の匂いと、血の匂い、そしてぬるい水の匂い。
「帰れない」
男は言う。それが彼の伝言だ。それは彼の伝言だったはずだ。
帰りたいの? 少女が口を開く。男に少女の言葉はわからない。声を聞いたのかすら定かではない。唇が、瞳が、そう尋ねたような気がした。男にはわからない。男はただ、ここまで来てしまっただけだ。彼との契約で。腐食したドラム缶を踏み、歪んで立ち枯れた根をくぐって。スーツも、アタッシュケースも、パソコンも、今頃は旺盛な植物に絡め取られているだろう。連綿と続くあらゆる生の営みを、森はそのまま受け容れ、枝を伸ばし葉を繁らせる。それは世界の始まりから定められている確かな事実であり、この世界の姿そのものであった。
男は少女に跪き、痩せた腹の上に顔を乗せた。少女が男の頭を抱いた。堯、とまた何処からか鳥の声がする。堯。堯。幾度も幾度も、鐘のように。上空で飽和した水は無限に続くコーラスのように樹幹を流れ、樹皮を削り、葉を打ち鳴らしながらやがて穢れた川にそそいでゆく。
腹に押しつけた男の耳に少女の心音が届いた。か細い心音は男のそれと異なるリズムで響く。交じり合わぬまま、同じ耳の中で少女と男は鼓動を刻み続ける。ぬるい水が男の頬を絶え間なく濡らす。一切が溶け合い、甘く苦い匂いが乳香のように男を濃く包み込んでいた。