第95回3000字小説バトル

エントリ 作品 作者 文字数
1老婆心萩鵜あき3000
2夏の日の拒絶反応3000
3雪女吉田 景2999
4パパごんぱち3000



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  エントリ1 老婆心 萩鵜あき


 僕は時々、人には見えないものが見える。それが幻でないのなら幽霊というものになるのだろう。
 幽霊は決まって人の後ろに存在した。背後霊なんだと思う。それ以外の幽霊を見た試しはない。
 二十六歳になり仕事も軌道に乗り始め、そろそろ所帯を持つべきだろうかと考え始めていた。付き合っている彼女にその気持ちを打ち明けた事はない。
 高校時代に付き合い始め早十年。別れては復縁し、復縁しては別れを何度か繰り返した。喧嘩をした時には必ず背後霊は寂しそうな、泣きそうな顔をして、復縁する時は、笑顔で喜んでいた。彼女と背後霊は一心同体なのだろう。そう思う。
 彼女との関係は今では切れた部分が修復すると同時に太く、強く絡み合い、切れない縁となっていた。ま、腐れ縁とか惰性と言われるとその通りなのかもしれない。
 しかし結婚と考えると今更、という感は拭いきれない。十年も付き合っていれば家族のように思えてくるしずっと側に居てくれさえすればいい、形なんてこだわらなくても良いと考えてしまう。
 上司にはよく「家庭を持て。入籍するだけでも気持ちは変わる」と、「入籍するなら昇進も考えている」と言われた。
 そんなに結婚って大事なのだろうか。
 エマーソン。ルソー。リヒテンベルグ。ゲーテ。シラー。各国の著名な思想家達は口々に「結婚は失敗である」と語る。それが薄ら寒い気持ちにさせられるのだ。
 結婚とは、本当に良い物なのだろうか?
 一緒に居てくれれば、それでいいのではないか。
 そう思い続けていた。

***

 電車と地下鉄を乗り継ぎし、駅から十五分ほど歩いた場所に会社がある。その通勤途中、僕は車に轢かれた。一般道路も通勤ラッシュで慌ただしく、車が通常より多く行き来していた。
 横断歩道が青になり、それを確認して僕は渡った。その時に左折してきたタクシーに跳ねられたのだ。
 幸い命に別状はなく、軽い打撲だけで済んだ。横断歩道を歩いていた人の数を考えると、轢かれたのは僕だけで、他の人が巻込まれなくて良かったと思った。
 病院で診察されている時、医者と世間話をしていた。
 白衣に身を包み、五十くらいだろうか。眼鏡をかけ、医者という割には髪の毛を伸ばし、少し汚い印象を受けるが、形成外科なので特に問題はないのかもしれない。
 しかし、彼の人なつこい笑顔は理由無く僕に安心感を与えた。
「話戻すけど、よかったね、軽い打撲だけで」
「はい。すごくビックリしましたけど」
「そうだよね。……でもさ」と彼はカルテを置いて僕に視線を据えた。「これが大事故だった場合どうしますか? 家族は、いますか? 恋人は?」と重い口調で告げた。
「家族は親が居ますが結婚はしてません。恋人はいますが、まだ結婚を考えては居ませんね」と言うと「そうですか」とため息混じりに答えた。
「いいですか多田さん。もし大事故に遇って、その恋人と結婚していない場合、恋人は事情を聞く事はできません。あなたが仮に亡くなった場合、彼女に手続きをする術を法律は与えていません。この意味を、あなたはわかりますか?」
 僕は、息を飲んだ。ごくりという音が室内に響いた。
「どれくらい深い仲か知りませんが、あなたが一大事の時に仲間はずれにされる恋人の気持ちを、少しくらいは考えられるでしょう。そして、あなたが危険な場合、家族にしか面会の許可を与えられない事も。恋人は、あなたの傍へ寄って声をかける事すらできないのです」
 そう言うとめがねを外し、おもむろに白衣でレンズを拭い始めた。
 僕はそんな事を考えてもみなかった。もし大事故に遭い、彼女に会いたいと思い待っていても、彼女は僕の元へとたどり着けないなんて……。

 この事件があった後、有給休暇をもらい僕は結婚指輪を探しにジュエリーショップを転々とした。もちろん彼女には告げていない。
 彼女の指のサイズはもういい加減覚えている。十年間も付き合ったんだ。何度ペアリングを買って、何度それを捨てられた事か。くそ、何も捨てなくても……いや、その事はもういいや。
 結婚指輪は給料三ヶ月分とよく聞くが、ふざけるな。最低でも十ヶ月分だ馬鹿野郎。
 思わぬ出費に鬱屈し、何かあったときの為と貯蓄をしてきた自分を褒め称えた。
 買った指輪は一カラットにも満たないが、これが僕の精一杯だ。
 それからメールで彼女を、もう何百回目なのだろうデートに誘い出した。
 ――決戦は、土曜日。
 僕は、結婚を決意した。

***

 馴染みのカフェテラスで彼女を待っていると、約束と寸分違わぬ時間に姿を見せた。
 そして、彼女の後ろにいる老婆も。
 ……久々に見るが、何度見ても存在感が薄い。そりゃそうだ。老婆は幽霊なんだから。
「健二、待った?」
「おはよう美和。時間きっちりだし、全然待ってないよ」
 内心びくつきながら目の前に腰を下ろした彼女へと挨拶をした。
 僕は結婚指輪を急に見せて驚かせようと思っている。表情が変わらぬよう細心の注意を払う。
 美和はシルクのブラウスに長めのフレアスカートという出で立ちだ。僕と同じく二十六歳の彼女は、年月を感じさせぬ若々しさを保ち続けている。
「ねぇ、怪我大丈夫?」と僕の怪我の心配をしてくれた。そういえば、メールや電話でやりとりはしたけど、事故後に顔を合わせるのは初めてだ。「大丈夫だよ」と笑顔で安心させる。
 後ろにいる――多分七十歳から八十歳なのだろう。しかし背筋はしゃんと伸ばし、古めかしい和服を身に纏う老婆も、彼女と同じく不安の色を灯す瞳で僕を見つめていた事に、苦笑してしまった。
「今日はどこへ行くの?」
 美和はデートコースを聞いてきた。もちろん、それは答えない。
「その前に話しておきたい事があるんだ」
「……うん?」
 彼女は目をまん丸に開き、首を傾げる。よかった。挙動不審な点はなく悟られるような失敗もおかさなかった。
 めいっぱい息を吸い、彼女へと視線を据えた。さっきから僕の手はポケットの四角を握りしめている。
 テラスに軽く風が舞う。街路樹が軽い擦過音を立て、時を止めた。
「美和。渡したい物があるんだ」
 そう切り出し、素早くポケットから四角を取り出した。
 円形のテーブルを挟んだ向かい側にいる彼女へと、ふたを開け指輪を見せる。
「……結婚しよう」
 彼女は瞬きを忘れ、軽く口を開いたまま停止していた。何を言われたのか、何が起こっているのか、把握できていないのだろう。
 ふと、後ろの老婆へと視線を向けると美和とは違い、頬を綻ばせ、目元を細め垂らし、眉は綺麗な弧を描く、喜びの笑顔を見せていた。
 その二人を見て、僕は笑いを堪えるのに必死だった。
「…………あの、さ」
 彼女はようやく口を開いた。「これは何」と続けて問う。僕は「結婚指輪。買ってきた」と言い「驚かせたかったから秘密にしていた」と付け加えた。
 ようやっと状況が掴めたのか、付き合った当初以来の――少しはにかみ頬を紅潮させ睫を伏せた――最高の微笑みを見せた。十年前と違っているのはその目にうっすら光が湛えられていた事。
「これからの予定は?」
「式場と段取りを決めにいろいろ回るつもり」
 そう告げると彼女の微笑みが、満開に咲き誇る。
「仕方ないなぁ。結婚してやるか」と表情を崩さず言う。僕も、その笑顔につられ笑った。
 
 日差し柔らかく風が暖かく触れる。美和の後ろにいる老婆はその中、ゆっくりと体躯を霞ませ、そして笑顔のまま消えていった。






  エントリ2 夏の日の拒絶反応 葱


 テレビに映った不鮮明な赤い映像と目の前の光景が重なった。母といつもどおりの昼食をとっている時に飛び込んできた臨時ニュースと衝撃映像。初めは自分にはあまり関係のないことだと思っていた。町にとっては一大事なのだろうけど……。蒸し暑かった。首筋をつたう汗はそのせいだけじゃない。焦りでもない。坂に座り込んだ母を気遣う余裕もなかった。ここを登りきればもう市立病院だというのに……。
 ヤブ蚊の舞う街灯の下、腐りかけた人のような顔をした巨大な犬が道ばたに立ちふさがって、息を荒げていた。足下に倒れた人影。真っ赤な服の髪の長い女。
 画面には黒いスーツを着た地検特捜部がいくつもの段ボール箱をかかえて、製薬会社の大きな自動ドアから出てくる様子が映っていた。連日報道されている内容の真偽が世間ではどういうふうに噂されているのか、あまり社会との関わりがない母と僕には知りようもない。突然、ドミノ倒しのように段ボールが崩れた。鮮血でカメラのレンズが真っ赤に染まった。アナウンサーの悲鳴。野太い男の怒号。ぶれて倒れてひび割れる映像。画面全体にモザイクがかかった。母の口元まで近づけたスプーンを握ったまま、僕は画面に釘付けになっていた。最近はもう文句も言わない。画面の上に避難を呼びかけるテロップが流れていたが、まさか自分の町でとしか思えなかった。食事を終えた後、母にインシュリンを打たなくてはならないし、オムツだって替えなければならない。今すぐ避難などしてられるかと、笑ってテレビに話しかけた。フランス人形みたいな女子アナウンサーが画面のスロー再生リプレイに解説をつけていた。段ボールを抱えた黒いスーツの男たちをなぎ倒しながら、次々と出てくる犬たち。大きいのもいれば小さいのもいる。長く伸びた吻を真っ赤にして何かくわえているがモザイクku凾タ 町の財政はこの製薬会社で成り立っている、そう誰かに聞いたことがある。報道では町の人間の約20%があの製薬会社に勤務しているそうだ。確かに実感はある。近いところでは、幼なじみだった笹生カオリがいる。カオリは僕とは全然ちがう。母親の年金で暮らしているなんて、たとえ会っても言えやしない。平たく言えば、彼女は勝ち組だ。エリートだ。地元の進学校を出た後、京大を主席で卒業したんだよ、とまだ元気だったころの母が嬉しそうに電話をくれたことがある。だから、なんなんだよ、と怒鳴り返してしまったけれど。その後、アメリカに留学し、MATだかMITだかいうこれまたエリートな凡人である僕には予想も届かない大学を卒業し、いきなり田舎に戻ってきた。天才は幼なじみでもやることがわからない。向こうで一度、外人と結婚したらしいが別れてしまったようだ。すべて噂好きの母からのいい加減な情報だったけど。こんな片田舎の製薬会社が世界に通用するほどの企業になったわけは、臓器移植のさいに全ての拒絶反応を抑える薬を開発したカオリのおかげらしい。まだ母も僕もお世話になる機会はないが、人間だけじゃなく豚の臓器でも移植できるという。地・u凾タ まるで現実感がない。その彼女が、改めて言うと悲しくなってくるが僕なんかの何億倍も生きている価値のある人間が、カオリが、人面獣の足下に倒れていた。赤い服だと思っていたものは血に染まった白衣だった。襲われたのだ。いや顔はこっちをむいていないから別人かもしれない。わかっているのに足が震えて動かない。何かしなければいけないのに、どうしていいのかわからない。なぜわかる? もう何十年も会っていないのだ、僕にわかるはずがない。
「カオリン! カオリンじゃないよな? おい!」
 大声で呼びかけた途端、獣の咆吼が鳴り響いた。坂の両脇に植えられた並木の枝葉が揺れた。ライオンが百匹集まってどでかいスピーカーを通した、いやベトナム戦争の記録映画で見たナパーム弾の爆発音に似た。自衛隊か? やっと来てくれたのか? とっさに母の上に覆い被さった。堅く目をつむる。下水管の臭いがした。体は痛くない。たぶん、生きていると思う。ゆっくりと目を開けると、カオリが目の前にいた。口は裂け、頭髪は所々抜け、ひどい吹き出物から膿が飛び出していた。人面獣だった。口から血が滴っている。
「あれ? しんちゃん? 久しぶり……会いたかったよー、へへ」
 喋ったのは人面獣じゃなかった。血の気が一気に引いた。母が怖いよ、怖いよとずっと呟いていた。間違いなく、カオリの声がした。気のせいじゃない。
「グーちゃん、グーちゃん、どこー?」
 彼女は子供に呼びかけるように猫なで声で言った。人面獣が彼女のそばに戻って、その頬をペロペロと舐めた。カオリは幸せそうに倒れていた。信じろと言われても信じられる光景じゃない。この怪物は明らかに彼女に懐いていた。頭が混乱した。インシュリンを早く打たなければ、もう夜になってしまった。暑さで喉の渇きも尋常じゃない。胸の中の母の呼吸は浅く、脱水症状を思わせた。無理もない。昼間からずっと走り回っているのだ。カオリも見るからに瀕死だ。とにかく、とにかく病院まで行かなければ。
「なあ、大丈夫か? 怪我」
 間抜けな質問かもしれないが、僕の言葉に反応していちいち歯剥き出す化け物を前に考えている余裕がなかった。カオリの返答はない。
「病院! 死ぬって!」
 大声を出した僕へのまともな返答はなかった。いきなり、化け物の悪夢のような顔が破裂した。カオリが目を見開いて、大きく口を開いた。

 ここからは某巨大掲示板での噂を僕なりに総括してみた答えを書いてみる。僕は病室で、母と食い扶持を同時に失った喪失感から逃れるために食い入るように液晶画面を見つめていた。健康保険もない僕にどのくらいの医療費がかかるかを考えるだけで死にたくなる。今は考えたくない。
 カオリは犬を飼っていた。それは二十年以上も生きていた老犬らしい、という噂。最近、その犬が死んでしまったという噂。そもそもその犬は死んでいたという噂。犬の体組織を移植手術で入れ替え、何度となく生き返らせていたとう噂。そのために開発したのが例の拒絶反応を抑える薬であるという噂。彼女は多数の認可されていない、学会にすら発表されていないような薬を同時に服用した後があったとう噂。犬を妊娠していたという噂。
 そしてこれは、ネットに流れていない情報。小学生の時、僕とカオリはよく川のコンクリート壁に開いている大きな下水管の中を探検して歩いていた。女の子と遊んでいるのがばれると学校でからかわれるという僕の勝手な理由でいつも地下で遊んでいた。あの日、下水管の中から赤ん坊の声が聞こえた。流れの遅い水の中に浮いていたビニール袋の中から聞こえた。袋を破ると、犬が飛び出して彼女に抱きついた。カオリはその犬を飼うといって家に持って帰った。蒸し暑く、僕たちの体からは下水管の臭いがしていた。






  エントリ3 雪女 吉田 景


 会社の先輩の手によって、今年から無理矢理スノーボードを始めることになった。先輩が僕を連れて行くのは、僕が連れてきた女の子たちに得意のウインタースポーツでかっこいいところを見せつけ、あわよくば、付き合おうとしているからだと分かっていた。それでも社会の常識だと自分に言い聞かせてきた。
 先輩は、今日も一緒に行った女の子たちに、大きな図体には似合わない華麗な滑りを見せていた。そして、頼んでもない指導を率先してやっていた。以前、そうした先輩の行動をやめさせて欲しいと、女の子たちから頼まれたことがあったが、「我慢してくれ」としか言えなかった。また、営業成績が調子良く、一緒に合コンに行ってもモテる僕への妬みもあるんだろう。だから、得意とすることで上下関係を示したいのだ。正直、付き合うのに疲れていた。そんなことを知ってか知らずか、当の先輩は女の子に指導を続けていた。
 そんな先輩が、突然、「刺激が欲しい」と言い出した。決められたコースから外れて、林の中を滑るようだ。つまり、自分だけができるワイルド、かつ、カッコいいところを見せたいのだろうが、周りの女の子たちのノリは悪かった。まるで「一人で行ってこいよ」と言いたそうな顔だ。先輩は気にせず、「じゃあ、行ってくるね」と黄ばんだ歯を見せて、一人で行こうとしていた。
 自分も行きたくなかったが、何かあってはマズイと思い、仕方なくついていった。逆に、それを良く思わない先輩は一人でどんどん滑っていく。障害物のある林の中を、初心者の僕がスイスイと滑れるはずもなく、ただ必死になってもがいていた。
 そんな時、かなり先を滑っていた先輩が道から外れて、崖から落ちてしまった。
「言わんこっちゃない!」
 数分遅れで落ちた場所まで辿り着いたものの、ドジなことに、助けるどころか自分も崖から落ちてしまった。
 崖と言っても、そんなに高さは無かった。しかし、昇ることは出来ない。二人とも、衝撃で足をひねっていたからだ。それに、体中を打った。もしかしたら、骨にひびが入っている所もあるかもしれない。それほど痛かった。そして、ここには携帯の電波が届いていなかった。
 そして、日は沈み。辺りは暗くなり始めていた。自分達は、遭難という最悪の状況のなかにいた。
「お前、なんで俺を止めなかったんだよ!」
「あの女たち、助けにも来ないのかよ!」
 先輩は、自分以外のすべての人間に、理不尽に怒っていた。全ては先輩のせいなのに。付き合いきれなくなった自分は無言で歩きだした。
「おい……待ってくれよ」
 先程まで、あんなに強気だった先輩はいなくなっていた。
 それから、ボードを捨て、木の枝を杖代わりにして、休み休み一時間くらい歩いた。もう、その頃になると、辺りは暗闇しかなかった。しかも、強く吹雪いてきた。携帯の表示された「圏外」が、「絶望」の二文字に見えた。
 その時、遠くに一軒の民家が見えた。そして、灯りも点いていた。二人手を取って喜んだ。
「すいませーん!」
 チャイムのない木造住宅の玄関を強く叩くと、若くて綺麗な女性が出てきた。こんなへんぴな所に、こんな綺麗な女がいるなんて驚いた。体中の痛みが一瞬ひくくらい、ドキッとしまった。
 訳を話すと、女は快く中に入れてくれ、「吹雪もやみそうにないですし、一晩泊まっていくと良いですよ。明日、病院まで送りますから」とまで言ってくれた。その時の優しい笑顔が、また心にグッときた。
 それから、暖かい部屋で食事をご馳走になった。彼女には、最近の子には無いおしとやかさがあって、すぐに気に入った。怪我が治ったら、改めて会いに来ようと一人で考えていた。
 安堵感によって怪我の痛みが一層鋭く感じるようになると、用意してもらった布団に横にさせてもらった。市松人形なんかも置いてある和室はどこか気味が悪かったが、文句も言えるはずも無く、とにかく寝ることに集中した。障子越しに映る隣の部屋を見ると、彼女がまだ起きていて、それを見ながら明日以降のことを楽しみに考えていた。
 だが、目覚めると、和室にいたはずが病室にいた。しかも、至るところに包帯を巻かれている。
「やっと起きたか」
 隣のベッドにいた先輩は、包帯を巻かれておらず、助けようとした自分だけが大きな怪我をしたのが腹立たしい。
その後、先輩が携帯を使って、救急車を呼んだことなどを聞いた。あの家付近では、電波が届いていたらしい。そして、診察の結果、僕の体の数箇所の骨が折れてそうだとのこと。その日の午後には、その病院から、街の大きな病院に行くことになった。だが、僕は先輩を恨んでいた。朝になったら送ってくれると彼女は言ってくれたのに、どうして救急車を呼んだのだと。
「怪我が治ったら、俺、菓子折り持ってあの人の所に行きますよ」
 その言葉に先輩の体が、ピクッと動いた。
「やめておけ。あの女はやばい」
「何がですか」
 食事も寝る場所も提供してくれた人に対して、その言葉はないだろうと頭にきた。だが、先輩はことの経緯を説明し始めた。
 昨晩、先輩が用を足しに起きた時、台所で笑いながら包丁を研いでいたのを見たらしく、その後、別の部屋を覗いたら、切断され、凍りついた手首や足首を見たと言うのだ。そして、あの山で遭難して遺体が見つからなかった事件が多いと言う。だから、急いで僕をかついで外に出て、携帯で救急車と警察を呼んだらしい。
「マジっすか」
 疑う余地がかなりあるが、背筋が凍るような話だった。色々と腹が立つ人だが、先輩に対して感謝の気持ちが膨らんできた。
「で、あの女は警察に連れて行かれたんですか」
 そう聞くと、先輩は首を横に振り、「建物自体、見つからなかったそうだ」と答えた。その時、本当に背筋が凍ってしまった。存在を消し、人間を氷漬けにするなんて、まるで、妖怪「雪女」のようだ。
 それから、彼女のことがテレビに出ることは無かったが、逆に遭難した僕らがニュースに出ることになり、ふざけ半分でコース外に出たことを警察や上司、そして、放っておいた女の子達にしこたま怒られてしまった。
 随分と日が経ち、職場に復帰できるようになると、ふと、彼女のことを思い出すこともあったが、先輩の話が怖かったこともあり、確かめようとはしなかった。

 それから数年が経ち、僕は雪も降らない九州の支店に異動した。
 そんなとある日、いつものように、会社の同期の家でだらだらマンガを読んでいた。すると、突然、そいつが笑いながら、「知ってるか?」と言い出した。なんと、あの先輩が奥さんに逃げられたと言うのだ。そもそも、結婚していたことすら知らなかったので、ダブルで驚いた。
「そういや、結婚した時に貰った手紙に、奥さんの写真があったな」
 そう言って棚から出してきた写真を見て、「綺麗だな」と思った次の瞬間、驚愕した。
 先輩の隣にいたのは、あの時の雪女だった。この時初めて、先輩にしてやたれたことが分かった。嘘をついてまで彼女と僕の接点を無くして、自分のものにしていたなんて。惚れていた分、悔さが増した。
「実はその嫁さん。かなりの浮気性で、色んな男と浮気して、全財産を持って逃げたって話だよ」
 悔しさで煮えたぎっていた心が一転、その言葉を聞いて、何年かぶりに背筋が凍った。
 でも、本当に凍りついたのは、奥さんに逃げられた先輩だろう。次の瞬間、本当に雪女だったなと笑った。

○作者附記:
ここでの初投稿になります。
と言うか、短編作品を投稿すること自体初めてです。

昔から好きだった「雪女」の話を自分なりに書ければと思い、頑張ってみました。







  エントリ4 パパ ごんぱち


 田代俊紀は六畳一間の茶の間に通される。
「まあまあ、よくいらっしゃいました、田代さん」
 安藤美砂代の母の花江が、テーブルにお茶を置く。田代が来る事を意識してか、かなり濃い化粧をしている。
「あ、有り難うございます」
 田代は湯呑みをぐっと掴む。
「熱ゃああああ!」
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫? 俊紀」
 心配そうに美砂代が声をかける。
「あ、ははは、大丈夫大丈夫、手が冷え性で。あは、あはは」
「ごめんなさいね、うちの人、時間教えておいたのに、『すぐに帰る』とか言って、フラッと出かけちゃったのよ」
 花江は玄関の方をチラチラと見る。
「そ、そうですか」
「それまでくつろいでらして? こんな田舎まで、お疲れでしょう?」
「はひっ!」
 田代はぎこちなく正座していた足を崩す。
「ただいまー」
 その時、玄関の戸が開く音がした。
「あ、パパだわ」
「お、お父さん?」
 茶の間に美砂代の父の祐蔵が入って来た。
「誰だ、こいつは」
 祐蔵は田代を睨む。その目は据わっており、顔は赤く、吐く息からは酒の臭いがする。
「ちゃんと話してたでしょ、俊紀さんよ」
「は、初めまして、まずはご挨拶に、と」
 田代は包みを差し出す。
 祐蔵はそれを引ったくるように受け取る。
「ああー? 伊勢丹だぁ?」
 包装紙を見るなり、放り出す。
「あ、あの? 何か?」
「手土産と言ったら、高島屋だろう! 大人の癖にそんな事も分からんのか! この常識知らずめ!」
「そ、は、申し訳ありませんでした、以後気を付けます」
 田代は頭を畳に擦り付ける。美砂代は怯えた顔で、何も言わない。
「それで何の用だ」
「ええと――」
「娘を嫁にくれなんて話だったらお断りだ! 伊勢丹の包みを持って来るような非常識な奴にうちの娘はやれん!」
「い、いえ、そこを何とか、どうか! どうか!」
 田代は立ち去ろうとする祐蔵の足にすがりつく。
「手土産を失敗した事は申し訳ございません、ですが、オレの気持ちは本当です! どうか、話しを聞いて下さい!」
 祐蔵は仁王立ちしたまま、田代を見下ろす。
「大層な口を利くが、仕事は何をやっている」
「ソニーでエンジニアをやっています」
「かーーー! しょうもない、下らない仕事だ!」
「は、はあ」
「人間に大事なのは! 衣食住だ! お前、電器屋がそのうちの何を作る? そんな遊び半分のゴミクズみたいな仕事をする奴は、いずれ路頭に迷う! そんな奴にうちの娘はやれん!」
「いえ、そんな事はありません、大丈夫です。業績も資産状況も健全ですし」
「ふん……」
 祐蔵はどっかり座り込む。
「母さん」
「はい」
「酒持って来てくれ」
「まだ飲むんですか?」
「醒めて来たんだよ! すぐ持って来い、瓶で良い!」
 台所に引っ込んだ花江が、一升瓶とコップを一つ持って来る。
「はい、どうぞ」
 祐蔵はコップに酒を注ぐ。
「飲め」
「パパ、言ったでしょう、田代さんは!」
「申し訳ありません」
 田代はまた頭を下げる。額が赤くなっていた。
「アルコールにアレルギーがありまして、一滴も飲めないので……」
「んだと?」
 祐蔵はじぃっと田代を睨む。
「娘の為に、その程度の我慢も出来ないのか。酒なんてのは、飲んでれば鍛えられるものだ! それをアレルギーだぁ? ふざけるのもいい加減にしろ、そんな甘い了見でうちの娘に手を出そうなんぞ、百年早い!」
 祐蔵は一升瓶を掴むと、田代の頭に酒をぶちまけようとする。
 瞬間。
 田代は立ち上がり、祐蔵の手を掴んでねじ上げた。
「惚れた女の父親だから我慢をしたが!」
「こ、この何をする!」
「幾ら何でも酷すぎませんか」
「離せっ! このっ!」
「どんなに気に入らなくたって、最低限の接し方ってもんがあるでしょう」
「離せと、言っている!」
 祐蔵は捻られた腕に合わせ、そのまま飛び上がり、一回転して極まっている関節を戻し、田代の腕を振り解いた。
「さっさと諦めて帰れば良いものを! 我が必殺の拳で葬ってくれるわ! 青二才が!」
「ロートルがっ! 表へ出ろ!」
 二人は外へ飛び出して行った。

 家の裏手の河原で、田代と祐蔵は対峙する。
 河原の石を踏みしめ、田代は構える。拳を軽く握った中段。弛めた膝は、如何様にも転じられる柔軟さがある。
 祐蔵が激しく踏み込み、掌底を繰り出した。
 瞬間。
 田代の姿が、祐蔵の視界から完全に消え失せた。
 極限まで大きく踏み込んだ田代の姿勢は、地面にうつ伏せているのと変わらぬ程に低く平たくなっており、祐蔵の視界の完全に下に入り込む。
 そのまま引き足で、田代は祐蔵の左脛を刈る。
「つああっ!」
 祐蔵は飛び退き間合いを取る。田代に刈られた左脛は、ズボンが破れ血が滲んでいる。
 田代は動きを止めず、一気に祐蔵の懐にもぐり込む。と、見せかけ、横飛びに飛んで、側面から。更にこれもフェイントで、背後に回り右正拳を放つ。
「読めたわ!」
 しかし祐蔵の両手の裏拳が田代の背後に来ていた右拳を打つ。恐るべき関節の柔らかさだった。
「それしき!」
 田代は右拳を潰されながら、左拳を背骨に叩き込む。
「浅い!」
 祐蔵の振り向きざまの右回し蹴りが、田代の鳩尾に突き刺さる。
「ぶごあっ!」
 蹴られながら、田代は祐蔵の右脚を抱え込み、そのまま関節を極め倒れ込む。
 鈍い音が河原に響き渡る。
「脚一本如きくれてやる!」
 右脚を振り解こうともせず、祐蔵の左足が田代の顔面を蹴る。
 顔面を蹴られつつも、田代は祐蔵の右脚をたぐり、脇腹に拳を叩き込む。
「いいかげん、諦め、やがれ、この、青二才っ!」
 祐蔵は田代の顔面を蹴る。狙いがずれ、頬に当たる。
「礼儀も、わきまえない、ジジイに」
 怒鳴る田代の口から、折れた歯が落ちる。
「従う義理は、ねえ!」
 田代のフックが、祐蔵の肋骨をへし折る。
「お前に! このおれの悔しさがっ、分かるか!」
 祐蔵の蹴りが、田代の鼻骨を折る。
「折角手塩にかけて育てた娘がっ! どこの馬の骨とも知れん奴に、奪われる、気持ちがっ!」
 続く一発が、肩に当たり鎖骨を折る。
「お前だって!」
 田代のフックが、折れた脇腹を抉り肺を潰す。
「げふおっ!」
 祐蔵の口から、血の泡が僅かに流れ出る。
「同じ事やって結婚したんだろう、がっ!」
 ひとしきり滅多打ちを続けた後、二人は立ち上がる。
 田代の顔は変形するほどにボロボロに蹴られ、拳は完全に砕けている。
 祐蔵の脇腹はすっかり粉砕され、肺は破れ、口からだらだらと真っ赤な血が流れている。
 二人は視線を合わせ、睨み合った後。
 踏み込んだ。
 祐蔵の掌底が田代の顎を捉え、田代の肘打が祐蔵の額にぶち当たり、そして、ゆっくりと、二人はその場に崩れ落ちた。

 二人は、河原に仰向けに倒れ、荒い息をする。
 夕日が辺りを包んでいた。
 空をカラスが飛ぶ。
「あの、パパ、俊紀? 救急車とか……呼ぼうか?」
 おずおずと美砂代が言う。
「――今日のところは、引き分けにしておいてやる。内容は、圧倒的におれの勝ちだったがな」
 祐蔵が、荒い息をしながら言う。
「それはこっちの台詞だ」
 田代が言い返す。
 ひんやりとした風が通り抜ける。
 対岸の家に明かりが灯り始めた。
「……また来い、今度は口も利けないぐらい、叩きのめしてやる」
「へっ、弱い犬ほどよく吠えるって、言うぜ……ふふっ」
「ふは、ははっ」
「あはははっ、ははははっはっは」
 二人は大声で笑い続けた。
 空には一番星が強く強く光っていた。
「私を無視すんなああああああ!」










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