第99回3000字小説バトル

エントリ 作品 作者 文字数
1共依存の人植木3000
2振り込むな! 詐欺です!ごんぱち3000
3研修3000



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  エントリ1 共依存の人   植木


 茅ヶ崎のS先生の指示で、ぼくは午前中いっぱいを図書館で過ごすことになっており、三月に入ってそろそろ図書館通いも三週間が過ぎようとしていた。
 朝、開館の時間に合わせて家を出て、三十分ぐらいかけて散歩がてら図書館に向かうのだけれど、途中で何かを考えているというわけでもなく道すがらの家の塀からのぞく白梅などを見ながらぼんやりと歩いていく。S先生曰く、「別に筋骨隆々になれと言っている訳じゃない」そうだから、その点についてはぼく自身も気が楽なわけだが。
 今の季節はだいたい九時頃に陽射しが出てくるので、図書館に向かって極楽寺の辺りを歩いているときはまだ肌寒く感じる。ぼくは寒がりなのでマフラーをしっかりと巻いて歩くのだけれど、ここがぼくの性分で歩き出すとどんどんペースが速くなってしまって仕舞いには体が熱くなって汗をかくぐらいの速度で歩いてしまう。
 もう、走り出したほうが絶対に楽に違いないというぐらいの速度になるころ、(肩のチカラを抜かなきゃいけない)と気付いて歩くペースを落とすのだけど、その頃にはコートの下は結構汗だくになっていたりする。そんなわけでマフラーを外して歩くと、汗が冷えてまたペースをあげて歩いてしまい同じことを繰り返してしまう。そんなことを都合三十分ぐらい繰り返すと、ようやく図書館に到着する。そして冒頭にも書いたようにぼくはもう三週間ぐらいそんな日々を送っている。

 S先生曰く、「肩にチカラがはいりすぎている」この台詞を初対面の時から何回言われたか。正確なところは数えていないから分からないけれど、通院の度に言われているような気がするので、おそらく通院した回数とほぼ同数と考えていいかもしれない。そうなるとS先生のところに通い始めたのが去年の二月十九日で、毎週だったり隔週だったりするから結構な回数だ。これはお互い頑固なのか、一方的にぼくの方に非があるのだろうか。もっとも、ぼくだってチカラを抜いてS先生が診察室に入ってくるのを待っていても、その言葉を言われる時があるのだから、一方的にぼくだけのせいではないだろう。どちらかといえば一方的と決め付けてしまう考え方がよくないのかもしれない。それがS先生のところに一年以上通うことになった理由なのかもしれないと思う。

 月曜日にS先生のところに行ったときはカフカの「変身」の話になった。三週間の図書館通いでは、読んだ本についてレポート用紙に十行程度の感想を書くようにいわれていて、月曜日にそれをS先生に見せることになっているのだ。
 「変身」は主人公グレーゴル・ザムザが、ある朝起きると突然大きな虫に変身していて、そのせいで家族に疎まれることになり、父親に投げつけられたリンゴによる怪我が原因で最後は死んでしまい、残された家族(両親と妹)はホッとする、という大雑把すぎる粗筋を書くと身も蓋もない話になるのだけれど、まあ、そんなカフカの代表作である。
ぼくは十五、六才ぐらいのときに、ドストエフスキーの「罪と罰」とかサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」とかアラン・シリトーの「長距離走者の孤独」とか他の小説と合わせて一回しか読んだ記憶がなくて、細かい部分は当然おぼえてなく、ほとんど初読と変わらない状態だったので結構面白く読めたのだけど、そんなことよりも以前読んだときから二十年近く経ってしまっているという事実のほうにぼくは深く感慨をおぼえた。紙に印刷された文字は変わらなくとも、時間は過ぎて人生は進んでいくのだという当たり前のことに改めて気付かされた。カフカもまさか「変身」を書いているときに、百年ぐらい後に遠く極東に住む男が自分の小説を読んで人生の感慨に耽るとは、いささかも思っていなかっただろうけど小説というものは作者の予期しないところで時に強く機能するものなのだ。

 S先生は、ぼくのどうしようもない一週間分の感想を一通り見て(どうも、ぼくには読んでいるように見えないのだが)、それから共依存のはなしをしてくれた。
共依存というのは簡単にいうと、例えばアルコール依存症を患っている人の世話をしている家族がその世話の過程において、だんだんと依存者自体に依存するようになる状態を指すらしく、俗ないい方をすれば、あなた無しではいきていけない、ということである。もっとも、この共依存は状態であって、本人の意思とは必ずしも一致するわけではなく、家族本人が、アルコール依存のあなたには物凄く迷惑をかけられている、と思っている場合もあるわけだ。で、こんな関係は世の中にはもうたくさん見受けられるはずだと思う。
 そして、S先生はこのカフカの「変身」が共依存の格好のテキストであることを教えてくれた。ぼくはS先生の説明を聞きながら、ぼくとS先生は共依存の関係にあるのか等と考えたけれど口に出すことは控えた。いずれにしても、カフカの小説はどんな解釈も可能でまたそれらを拒むものだ。

 しかしカフカはグレーゴル・ザムザをどうして虫の姿にしたのだろうかなどと、S先生からの帰り道にぼくは考えた。神は自分の姿に似せて人間を創造したのだからその姿を放棄することは原罪からの逃避なのかと思ったりもした。もしかしたら、カフカは仏教の輪廻の考えを知っていたのだろうかなどと飛躍した考えも思い浮かんだ。ぼくは少し喉が渇いたので自動販売機で水を買って飲んだ。S先生の帰り道は、特別おしゃべりをした訳ではないのに、よく喉が渇く。
 水を飲みながらぼくは、もうカフカのことを考えるのをやめて猫の名前について考えていた。三月末の父と猫二匹の三回忌を終えたらまた猫を飼おうと思っていて、今はその名前を暇があると考えているのだ。しかし、実際目の前に猫がいないとなかなか難しいもので、くだらない名前を思いついては考え直すことを繰り返していた。猫にしたって、ありふれた名前では嫌だろうし、あまり突飛なものでも気に入らないに違いない。図書館でも子供の名前の付け方の本などを引っ張り出し参考にしているのだが、やはり人と猫は違う。どちらかというと、人のほうは当たり前だが面白みがない。それでも本を丹念に読むと役所で拒否された名前の一覧などが載っていて「えんじぇる」とか「たいがーす」など信じがたい名前があり、まさに事実は小説より奇なりだ。
 ぼくの家族にしても、ぼくが飼うから名前は自分で付けろと言っておきながら、いざ候補を言えば難癖をつけるのだからタチが悪い。まあ、まだどんな猫を飼うかも決めていないのに名前を決めてしまおうというのも問題があるかもしれない。

 四月に入ったら里親探しの会に見にいくつもりで、色々と調べたりしているのだけれど、現在の問題は我が家で覇権を握っているシーズーで、猫二匹が生きていた頃は小さくなっていたけれど、猫が死ぬたびに実力を着け、現在は徳川幕府のように力をつけているのでぼくはことある毎に、これから維新が起きるぞとか、黒船がくるぞとか脅しをかけているのだが、耳も遠くなり始めた老犬にとってはどうでもいいのか、わかっていないのか、大欠伸をしながら意味もなくご褒美をねだったりしている。この三年間天下泰平だった我が家の動物界もこの春は波乱を含んでいるのである。もっとも、その原因をつくっているのは他ならぬぼくなのであるから、つくづく人間とは因果な性分にできているようである。







  エントリ2 振り込むな! 詐欺です!   ごんぱち


 女が銀行に入って来た。
 顔には皺が多いが、髪は染めているらしく、一本の白髪もない。
「いらっしゃいませ」
 銀行員に会釈を返す事もなく、真っ直ぐ記入台に向かうと、ポケットからメモを取り出す。
 それから、メモを見ながら、振り込み用紙に記入を始める。
 ボールペンが引っかかり、振り込み用紙が破けると、女はじれったそうに用紙を破り、新しい用紙に記入をする。
 もう一度書き損じた後、ようやく記入を終えた女は、窓口に向かう。
「あの……」
「先にカードをお取り下さい」
 窓口の若い女の銀行員が、カウンターの受付機を指し示す。
「急ぐのよ!」
 女は振り込み用紙と、通帳を差し出す。
「お願い、急いで!」
「……ちょっと失礼」
 背後から声をかけられ、女はびくりとして振り向く。
 そこには中年過ぎの男の警官が、笑みを浮かべていた。
「どうなさいました?」
「な! 何だって良いでしょう! 早く振り込まないといけないのよ!」
「ご心配なく」
 あくまで穏やかに、しかし若干女と声の早さを合わせ、警官は言う。
「今から午後三時までに振り込んだお金が、相手の口座に反映されるのは、午後三時ですよ。後三〇分も余裕があります」
「そんな事言って、遅れる事だってあるでしょ! 早く、早く振り込んでよ! この銀行は客の言うことを聞けないの!? 貯金全部引き上げるわよ!」
 女は警官を小突いて銀行員に向き直る。他の客達はまばらだが、誰もがちらちらと視線を向けていた。
「早く、三〇〇万円! この口座に振り込んで、早く!」
「どなたに送金されるんですか?」
 警官が尋ねる。
「関係ないでしょう!」
「いえ、関係ないという事はありませんので。高額の振り込みの場合は、お聞かせ頂くようになっているんですよ。どなたへご送金されるのですか?」
「息子よ! 自分の子供よ! これで良いでしょ! 早くしてよ!」
「三〇〇万円も? 息子さんに差し上げるんですか?」
「結婚資金かなんかよ! 急ぐの! 早くしないと駄目なの! モタモタしないでよ!」
「どうしてそんなにお急ぎなんですか?」
「何だって良いでしょう! あなたと何か関係あるの? 警察だからって、そんなプライバシー聞いて良いと思ってるの!?」
「結婚式の費用というのは、分割やカードで支払えるものですよ。大急ぎで一括とは考え難いです。振り込みの時期か、金額が少し違っているのではありませんか? 息子さんに一度、確認を取った方がよろしいですよ」
「急ぐのよ! 早く! 間に合わなくなっちゃうの!」
 女の叫びは悲鳴に近くなっている。
「電話をお貸ししますので、息子さんに連絡を取ってご覧なさい。まだ二〇分もあります」
「良いのよ! 必要ないの! 払わないと大変なのよ! 息子が会社のお金を使い込んだから、今日中に返さないといけないの!」
「おや、結婚式ではない?」
「言い辛いから嘘を言う事だってあるでしょう!」
 警官の襟元を掴む女の手を、警官はやんわりと引き離す。
「息子さんは、使い込みのような事をなさる方なんですか?」
「したって言ってるんだから、仕方ないでしょ、息子を信じるしか! 三〇〇万円払わないとクビになっちゃうのよ!」
「奥さん、それは、振り込め詐欺ですよ」
「な! そんな訳ないでしょ! 息子本人から電話がかかって来たのよ?」
「まずは電話を入れて確認してみて下さい。携帯電話電話の番号ではなく、会社の方に。番号はご存じですか?」
「急ぐって言ってるでしょう!? このままだと息子が大変なのよ! 電話なんかしてるヒマないの! 騙されたっていいの、振り込ませて! もう十五分しかないじゃない! お願いだから振り込ませて! そうしないと市長に言うわよ、私市長の奥さんと同じペーパークラフトのサークルなんだから!」
 女は銀行員に通帳と振り込み用紙を投げ付ける。
「振り込みなさい! 一言でも口応えしたら、貯金を全部引き上げてやるわ!」
 銀行員は困ったような顔で、警官に視線を向ける。
 警官は小さく肩をすくめた。
「腕ずくで止める権限はありませんので仕方がありませんが、それは間違いなく振り込め詐欺です」
 溜息をつく。
「それでも、どうしても息子さんにお金を差し上げたい、と仰るんですね」
「そうよ!」

「お待たせしました」
 振り込みの処理が終了して、控えが女に差し出される。
「はぁ……良かった」
 女は控えを握り締め、その場にへたり込む。
「息子さんに連絡してみては如何ですか。出勤されていると思うので、携帯電話よりも会社の方がよろしいでしょう」
 警官が言う。
「そう……そうね」
 女は携帯電話をかける。
「ああ、京作? 私よ。お金振り込んだから、安心して――え? 何の事って、あなた使い込みしたから……」
 みるみる女の表情は驚きに変わっていく。
「ちょっと、冗談よね? だって、あんなに泣きながら。あなたの声だったわよ! 私が間違える訳……本当に? 恥ずかしいから嘘言ってるんじゃなくて、本当……に?」
 女の手から携帯電話が落ちる。
「如何でしたか」
 警官が尋ねる。
「息子……そんな電話してない、って……騙されたんだろ、って」
 女は警官を睨む。
「なんで、なんでもっと本気で止めてくれなかったの!? 逮捕でも何でもすれば良いじゃない! 私が騙されるのを見て面白がってたんでしょう!」
 銀行員の方も向く。
「あんたもあんたよ! 振り込みの手続きなんて、フリだけして実際にはやらなけりゃ良いじゃない! 三百万円……安月給の旦那の給料からコツコツ貯めたのに」
 女は涙ぐみ、そして泣き崩れた。
「弁償してよ! 弁償! べんしょ……」

 数日後、警察署の応接室に女と、息子がやって来ていた。
「やあ、ご足労願いまして」
 初老の警官が、茶を一口すすってから、封筒を取り出す。
「あの……振り込め詐欺のお金が戻って来るとか?」
 女は恐る恐る尋ねる。
「ええ。というよりも、あなたは詐欺には引っかかってはおらんのです」
 警官は大判の封筒から、書類を出す。
「お年寄りのみの世帯に、警察が振り込め詐欺と同じ手口を使って見せるという、シミュレーションでしてね。論より証拠、引っかかった方が何をどう気を付けるか分かるでしょう?」
 書類には、防犯シミュレーションが実施される要項と「告示」の印が捺してあった。
「息子さんにはご了承頂いておりました」
「じゃあ、あの電話は息子――」
「いえ、実施の承認を頂いただけで、電話をしたのはわたしですよ」
「ええっ!?」
「分からないものでしょう? 今度からは、振り込む前に息子さんに確認する事ですな。会社や家電のように、簡単には番号が変わらずに、確実に連絡の取れる方法で」
「はい……」
 か細い声で言って、女は俯く。
「何より、息子さんはもう立派な大人だ、何でも自分で解決出来る力はあるし、そうせにゃあならんのです。もっと息子さんを信頼してあげることですな」
 警官は大判の封筒の中から、封をされた分厚い定型封筒を出す。
「では、これがお金です」
 警官は、息子に差し出した。
「え? それは、私のお金……」
「あなたは、息子さんに差し上げると仰ったのですから、このお金は息子さんのものです」
「え……あ……」
「もしも返して欲しいのであれば、きちんと息子さんから頂いて下さい。もっとも、その時も」
 警官は防犯関連の書類をまとめて、女に差し出し、にやりと笑った。
「贈与税は差し引かれますがな」







  エントリ3 研修   百


 私は観察者。
 今回の研修では、周囲に関わることなく観察することが求められている。
 周囲で起る出来事には関わらぬように……。
 おとなしく目立たぬように、始発の真ん中あたりの車両に乗り込み、端のほうの座席にそっと座って、意識と感覚を研ぎ澄ます。
 
 やはり老人の乗客が多い。
 中には子どもを連れた家族連れもいて、母親は特に疲れきった顔をしている。
 男の子は小学生ぐらい、女の子は中学生ぐらいか。
 父親は座席の端に座っている中年の男性と、立った状態で広げた紙を覗き込んで話し込んでいる。父親の声は聞こえない。
「世話になるなら岡田屋がいいよ。ここ。タバコ屋が目印。俺の名前を出してくれてかまわないよ。その方が話が早いだろう。」
 男の低いけれど通る声が時折、静かな車内に流れてくる。
 男は電車のドアに寄りかかるように立っている子ども達をチラッと見やると、「あんたもこれから大変だな」とぼそっと言った。
 
 その時、車両の中を若い男がきょろきょろ見回しながら歩いてきた。
 
 私の隣に座る老女が大きなかばんをぎゅっと抱きしめる気配がした。他の老人達も男から目をそらして緊張している。
  
 若い男はドアの所に女の子を見つけると、ニヤニヤしながら近づいていき、女の子の目の前に立つと、顔を覗き込もうとする。
 女の子は身体を硬くしてドアへ身を寄せ、目をつぶって耐えている。小学生の弟はどうしてよいかわからず、父母を交互に見ているが、どちらも疲れた表情で制止の声すらかけようとしない。
 私は女の子の気持ちを思うと息苦しくなった。でも、何もできない。
 座席に座っていた男が鋭い声を出した。
「いい加減にしとけ。仕事中だろが」
 若い男は一瞬表情を失くしたが、またニヤッと笑うと女の子から離れ、次の車両へと周囲を見回しながら歩いていった。
 
 ほっとした空気が流れ、老人達のおしゃべりがあちこちで囁かれ始める。

「今日はいい天気ですなぁ」
「本当にいい天気で良かったです」
「あんた、たくさん荷物、持ってきたな」
「あんたこそ、山のように」
「どうしても置いてくる事はできなくて……」
「みんな、似たようなもんじゃ」
「そうじゃ、小山の大移動じゃ」
「バカいうて。おもしろいな、あんた」
「池や川はあるかの」
「どうだろなー」
「どうせならと思うて、連れてきたんじゃ」
「なにを」
「これこれ……」
 ひとりの老女がインスタントコーヒーのビンを取り出した。
 ビンの中の水が陽にちゃぷんと揺れて輝いた。
「……めだか?」
「そう、めだか。かわいいでしょう」
「ちっこいのが元気に泳いでるのう」
「私が眠るそばに、この子らが住めるような、池か川があったらいいんだけど……」
「大丈夫。きっとありますよ」
「大丈夫、大丈夫……」

 車窓の景色は、いつの間にかくたびれた灰色のビルが建ち並ぶようになり、そのビルも下手な修理のつぎはぎだらけで、空が異様に狭く見える。
 
 そんな駅で、家族連れと中年の男は降りていった。

 だんだんとビルの高さが低くなり、ビルとビルの合間に緑が混じり始め、よく見るとビルの中にも緑が茂っている。

「ここらで私は行こうと思います」
「もう、行くのかね……」
「気をつけてな」
「あなたさまもお気をつけて……」
「ありがとう」
「あなたもお元気で……」
 
 ひとつ、駅を通り過ぎるたびに、老人達は別れの挨拶を交わし、何人かが降りていく。
 
 何個目の駅だろう。
 ビルは見えなくなり、のどかな住宅街が広がっている。
 大きな荷物を持った夫婦らしい二人連れが降りると、隣の車両からさっき車内をうろついていた若い男がすっと降りたのが見えた。

「ついていかれたぞ」
「あの人ら、大きな荷物で目立っとったからな」
「手荒なことをされないといいんですが……」
「まあ、眠ってしまえば、物は必要ないからなあ」
「そう言ってしまえば、そうなんですけどねえ……」
「眠る前に襲われでもしたら、死んでも死に切れませんわ」
「死にに行くのではなく、眠りに行くんじゃ」
「……そうでしたね」

 青い空、風そよぐ緑の樹々。足元の雑草には小さな花が咲き、蝶や蜂が楽しそうに飛びまわっているのが見える。
 のどかな住宅街に見えるが、建物をよく見ると、実はすでに何十年も人が住んでいなかったであろう廃墟であることがわかる。

 私は、この電車を運転している運転手の顔を見たくなった。
 彼は何を考えて運転しているのだろうか。
 自分が運転しているこの路線が、老人達が最後の眠りにつくために自分の意思で乗り込み、そして降りていくこと。そして、社会からはみ出してしまった人達がその老人の最後の荷物や捨て切れなかった財産を奪うことで生きていく仕組みを作り出し、維持していることをどう思っているのだろう。
 
 先頭車両の前で、私は立ちすくんだ。
 ドアの向こうが暗くて見えない。
 このドアを開ければ、先頭車両なのだが。
 
 電車の音と振動がゴンゴン頭に響いてきて、考え続けることが難しい。
 動くこと、いや、立っていることすら、つらい。
 なんだ、これは。

 私はドアに手を掛けた。
 気持ちが悪い。
 目の前が白くなったり、暗くなったりしている。
 取っ手をつかんだまま、しばらく動けなかったが、このままでいることすらつらく、呼吸に合わせて力をこめると取っ手をひねり、体重を乗せて力を込めて横に引いた。

 ガラガラと開いたドアの向こうに、暗闇が広がり、ぼんやりと赤い光が渦巻くのが見えた。
 
 なんだろう、これは。
 なんだか、懐かしい。
 気持ち悪いのに、温かく、懐かしい。
 帰って来たんだ。
 もう何も考えなくてもいい……。

 ふらふらと引きずり込まれるように一歩を踏み出そうとしたその時、後ろから腕をつかまれた。
 ドアがすっと閉まる。不思議と音もなく……。
「……かり……なさい」
 声がかすかに聞えた。
「しっかりしなさい」
 私の耳が機能をなくしていたのか。
「……教官」
 声を絞り出して答える。
 
 電車はついに終点に着いた。
 
 私は教官に腕をしっかりつかまれたまま電車を降りた。
「どうだ。意識ははっきりしたか」
「はい……、いえ、まだ、くらくらします」
「そうだろうな」
「あれは、いったい、なんなんですか?」
 
 教官は降りたばかりの電車を見た。
 私もつられるように先頭車両の運転席を見る。
 誰もいない。
 そんな……。
 まだ、運転手は降りてきていないはずだ。
「……運転手はいない……の」
 寒気がした。
 教官はよろめく私の腕をさらにきつくつかんで立たせようとする。
 痛みが頭を落ち着かせてくれる。

「……運転手はいない。
 こんな路線の電車を運転できる神経を持った人間は存在しない」
「でも、この電車は……動いてた。何で……」
「……必要なんだよ。必要だから存在している。自然と変わりはない」
「自然……」
「自然には未知のものも存在するし、人間が関わってはいけない部分も存在する」
「必要……。自然……。人間が関わってはいけないもの?
 それは……、神?」
「どう捉えるかは君次第だ。君は観察し、体験したのだろう。そして感じたことを報告すればいい」
「暗闇の中に渦巻く赤い光……。あれは……血?
 昔、どこかで感じたことのあるような……。
 母の胎内? 神?」
「おい、大丈夫か?」
「……あの懐かしさはなんだったんでしょう。そして、あの安堵感……」
「懐かしさ……。人間も自然の一部だからか?」
 
 研修終了。










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