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第2回6000字小説バトル Entry15

答えの無い問い

 六円合わない。帳簿が違っているのかそれとも現金が不足しているのか定かではない。だがその日そのことによって残業する破目に陥る。だがゼロ円。収入にはならない。月に十二時間以上越えるとカットされる。男は三十六時間。何を基準にしているのか定かではない。課長以上は勿論どの様な理由であろうともゼロ円。だから残業するか、しないかはその人の有無に関わるのではないかと思うのだが、目の前にいる係長は強引に押し付ける。既に残業は十二時間を越えているのだから。ちなみにこの係長は月に百時間を越える。殆ど午前様。出勤はギリギリの時間に入る。それなのに土日と祭日は何故か出勤している。見かねた支店長は一人増やしたのだが残業の時間は相変わらず。仕事中毒? だが倉庫に在る商品の管理は雑。常に注文が来ると探している。帳簿も一ヶ月で一冊なのだがそれすらどこにあるのか分からない。過去の帳簿をと言われると一日掛けて探す。だから残業の割に仕事はしていない。そんな上司を持ってしまうと最悪である。海が空にあるようなものである。宇宙が地で輝いているようなものである。その様な事態に陥っているのに何故か仕事が辞められない。何故? 何故なんだろう。
 六円合わないだけでタダ働きをさせられる。怒っていた。たかが六円されど。二人きりの事務所は息苦しい。目の前にいる奴が吐き出した二酸化炭素を間違って吸い込んでいると思うだけで吐き気がしてくる。何故? 無能だから。いや。肌に合わない。セックスをするわけではないのだから、そんなこと関係ないのに。体臭自体を拒絶したくなる。何故? その質問に答えなければならないのに愚かにも言葉が見つからない。その代わり何故? と云われる度に靄が広がる。いや広げているのかもしれない。
 六円合わないだけで残業をしなければならないなんて何て理不尽なんだと思っているだろう。そう突然言い出す。だがどの様に答えていいのか分からず黙っていた。すると机を中指で叩き出した。返事をしないのが気に食わないとでもいいたそうな叩き方。それでも答えられない。今度は床を左足でたたき出す。初めゆっくりで徐々に早める。気が付くと貧乏揺すりと化す。
 ああ嫌だな! そう叫びたいのに咽の辺りで止める。ブレーキを掛けてしまったものだから咳き込む。チラッと見ると間違って入ってきた蝿を目で追うような表情をする。咳き込むのを止めたいと思えば思うほど出てしまう。咳は蝿? そう聞きたい。だが聞けるわけない。もう既に決め付けているのだから。それを変えることなんて出来やしない。あきらめるしかない。そうやって残業をするという行為を正当化していた。
 それまでして六円を合わせるの? 当然の問いが聞こえる。理由なんてありはしない。ただ気まずくなるのが嫌なのである。恋人でもないのに。恋人ではないけど、一日の大半を狭い事務所の中で直ぐ近くにいるのである。溜め息も聞こえてしまう。だから相手がどの様な人間であっても気まずさは厳禁なのである。
 テリトリーの中に人は勝手に入り込んでくる。有無をいやせない。拒絶したくても方法が分からない。勝手に理由が金魚の糞のように付いてくる。我慢しなさいと言うメッセージを奥に秘めて。冴えない上司と夜の闇の中に閉じ込められていた。その証にガラスに映る闇の中にぽっかりと顔が浮いている。ロマンチックなどと言うものには程遠いにもかかわらず雰囲気はその様なものを漂わせる。錯覚に違いない。それでもその錯覚に酔っていたい。願望が弦のように伸びてくる。止めなければという常識が走れと言う欲望と争っている。どちらを選択するかそれはその人の勝手である。もう事務所にいられないという状況にまで追い込んでいる身としては決まっていた。
 それでも見たくない顔が直ぐ側に居る。置き物の様に在る。事実は消せやしない。それでも消去したい。しなければならない。自らを脅しても仕方が無い。分かっているのに止められない。苛々は全身を蝕む。息つく事さえ困難に。その時突然席を立つ。どこに行くのだろうか。何も言わない。事務所の扉があく。なかなか帰っては来ない。一人になると帳簿と現金がどうすれば合うのか。そればかりを考えてしまう。帳簿の合計のほうが多い。それならば不足している現金をどうにかすればいい。足せばいい。引き出しの中には私物の小銭入れがある。六円。それくらいなら足しても構いはしない。そう結論したものだから扉の外を気にしながら小銭入れから五円玉と一円玉を取り出し慌てて手提げ金庫の中に入れる
 残業をする理由は消えた。あっという間に無くなる。帰り支度をしなければと思いつつも現金と帳簿を見さて照合印を押してもらわなければならない。その様な時に限って帰ってきやしない。苛々してくる。時計を見ると五分も経っていない。待つ時間は長く感じられる。時に終わりが無いような気にもなる。何それ。訳の分からぬ言葉が出てしまう。焦るなと言っても早く帰りたい。タダ働きの残業なんてしたくない。そう叫びたい衝動がヌクヌクと出てきそうだ。辛うじて止める。仕事に感情は禁物なのだから。だあれが決めたの。分からないけど機械のようにこなすことを義務付けられていた。その様に感じているんだ。そういわれても。とブツブツと呪文のような言葉が体の中で走り回っているとやっと扉が開いた。座る前に席を立ってしまった。バカだな。相手が座ってから立てばよかった。後悔は先に立たず。合いましたけどというと伝票とも。え! 何を言っているのか分からない。伝票と帳簿とが合ったのかと聞いているんだ。伝票はと言いながら取り出すと奪い取られた。俺が読むから帳簿と合わせろ。伝票の数字が煩いカラスのような声で響き渡る。ため息を付きたいのを辛うじて止めた。何を言われるか分からない。これ以上を小言などと言うものが増えるのは真っ平だから。帳簿には鉛筆でチェックを入れる。間違いなんて無い。そう思いながらチェックを入れる。すると読み上げた数字の最後が違っていた。一の位である。七と読み上げていた。だが帳簿には一と記されている。え! と聞きなおした。そこが間違っていたんだ。でもと言いながら伝票を見ると確かに7と書かれているような気がする。だが下手な字なのである。七のか一なのか分かりづらい。領収書と伝票をチェックしたかと言われたので領収書を引き出しから取り出す。伝票を書いたのは読み上げた本人なのだから一なのだと思う。だが勘違いと言うこともある。領収書を見ると間違いなく一である。普段から言っているだろう。領収書と伝票はチェックしろと。しまったと思ったのは後の祭り。これで現金と帳簿は合うはずだといわれたが、まさか本人の目の前で五円玉と一円玉を抜くわけにはいかない。入れなければ良かった。それならば正直に謝ればいい。それが出来ない。悔しい。ショックは大きい。立ち直れないかもしれない。それは大袈裟だとは思うが。間違いを認めるのも辛いが詐欺まがいのことをしてしまったという罪悪感が皮膚の上を走る。
 現金を数える手が鈍る。勢いが弱い。そして目の前で見ているのだからごまかしようが無い。六円多いのだ。どうした? そういわれても素直にはなれない。今度は六円多いじゃないかといわれても何もいえない。泣きたいほど情けなくなる。お前入れたな! そういわれてそうですよといえるほど初じゃない。
 ケラケラと笑い出した。だがその押し殺した笑いなのに事務所の中に響き渡る。その笑いを聞きながら態と数字を間違うような字で書いたという事実に突き当たる。だが責めることは出来ない。領収書と伝票の付け合わせをしなかったのが悪いのだから。
 十二時になった。お前はもう帰れと言い放す。そうだよね。終電も無くなる。気は重い。仕掛けられた罠にまんまと嵌まったのだから。一人帰る夜道は辛い。明日は休もうかと思う。病気にしよう。何の病気がいいか。風邪を引いたことにでもしようか。それとも腹痛。食べ過ぎたとはいえない。冷えたからだといえばいい。事務所の床は冷たい。夜遅くまでタダ働きの残業をしたのだから。だがそれを知っているのは一人だけ。それもこの残業を仕掛けた奴だけ。それならば風邪にしよう。そう思って瞬間クシャミが出た。さっきも出たなと思うが知っているのはあいつだけ。皮肉にも。だから理由など考えまい。風邪は予期せぬ出来事で起こるのだから。
 その夜はぐっすりと寝られた。目覚めはどの朝よりもいい。だが電話を掛けなければならない。無断欠勤とはいくらなんでも子ども染みている。病気の不利をするのも難しい。弱々しい声を出すにはどうしたらいいのか。息を殺すか。そんな真似できるのだろうか。役者じゃないんだから。出来ないかもしれない。それに寝不足ならともかくぐっすり寝てしまったのだから。一晩くらい起きていれば良かったと思いつつも睡眠を十分取ってしまった事実は変えられない。珈琲を飲みながら言い訳を見つけていた。だがそう簡単に見つかるものではない。仕方が無い一か八か出たとこ勝負。そう決めたら肝が据わった。
 受話器を持つと少し不安になる。大きく深呼吸する。落ち着きはしない。犯罪者になったような気分が余計に気分を害する。嘘まで付いて休まなくてもいいものを。だが今日だけはあいつの顔を見たくない。会った瞬間何を言い出すか責任が持てない。犯罪者ではないのだから何を言っても自由なはず。文句があるのならば言えばいい。だが待ったを掛けた。いったところで益々腹が立つばかり。それならば今日一日冷やして明日平気な顔で行くほうがいい。そう結論を出したはずなのに後ろめたさがゾロゾロと歩き出していた。
 それでも度胸を出して電話を掛けた。出たのはあいつではない。だがどうしたんだよ! と怒鳴っているのに声を押し殺していた。何かあったのだろうかと思うが用件だけは言わなければという義務が沸々と湧いてきて言葉が辛うじて出てきた。ちょっと熱が出てしまって。まだ話し終わらないのに。早く出て来いよ。こっちはてんてこ舞いなんだから。仕事なんて出来やしない。訳の分からない言葉が続く。そして最後に知らないのか何があったのか。テレビくらい見ろよ! 早く出て来いよ。熱なんて直ぐに下がる。上がるかもしれないけど、出て来い。これは命令だ! そういうと勝手に電話は切れた。一方的に切断された。何がなんだかさっぱり分からないがテレビのスイッチを入れた。
 テレビの画面には何故か共に残業をしていた顔が映し出されていた。妻殺しの容疑者として。妻の顔が映し出される。そして犯人である夫の顔が再び現われる。妻を殺した犯人として。その様に言われても昨日まで直ぐ側に居た人が。信じられない。頭の中は勝手にうねりのようなものが現れて回転しだす。何故。問いに答える手立てが無い。それでも何故という問いが木霊する。
 殺人犯と化した上司の後に本店から新しい人がやってきた。だが前任者の話は誰もしない。何も無かった。そういう空間が広がっていた。事実、家庭の中のことは誰も知らない。それに仕事以外のことは前任者だけではなく誰のことも知らない。その事実が反って偽の平和を与えていたのかもしれない。だが気にならないわけではない。
 何故妻を殺したのか? 不可解な出来事は心に残っていた。何気なく見た新聞に裁判が始まったと記されていた。個人的には付き合いなどしていなかったものだから行く必要は無いと思いつつも気になって仕方が無い。だからというのではないが何回目かの裁判の日に休暇を取った。行くのを躊躇う。どうしようかと思う。だが気になるのだ。いやな奴だったが三年もの間一緒に仕事をしてきた仲間なのだから。気が付くと裁判所の建物の中に入っていた。
 何故殺してしまったのかということが弁護士の口から放たれた。妻は少しヒステリー気味だったらしい。何かにつけて直ぐに怒りだす。瞬間的に発火してしまうらしい。だがそのことを不満に思ったことは無いというのだ。妻は責めるというより何でも大袈裟に話すたちらしい。それならばヒステリーとはちょっと違うのではないのだろうか。そう思うが仕事をしていても話をすることはほとんど無い元上司。いや。事務所自体に会話は無い。機械が仕事をこなしているのと同じ。それならば妻の怒鳴る声を聞いても不快には感じなかったのかもしれない。そのことは分からないが。仕事なのだから無駄な話は禁物かもしれない。だが入社してまもなくの頃珈琲の話をしだした。だが珈琲は好きではない。珈琲の銘柄をいわれてもチンプンカンプン。黙ったまま、仕事の手を休めず聞くでもなく聞かぬでもなく。無視したつもりは無いが。その後珈琲の話題は消えた。その後ケーキの話をしてきた。だがやはりケーキもちょっと食べないわけではないが、なるべくなら避けたい。酒なら飲めるしワインの種類だって詳しくは知らないが聞いていて不愉快になることは無い。だが相手は酒が飲めない。そういう席に行くことさえ余り無い。忘年会さえも一次会で帰ってしまう。その席でも誰も話さない。話題はチラホラ出るのだが途中で消えてしまう。だがそれが職場のような気がする。そう言い切っても話をするべきだったという悔いが流れ出していた。
 悔いの流れを感じているとハァッとした。六円! あの時は余りのことに言葉が詰まった。でも頭にきていることを飲み込んだ。常に場が不安定になることを忌み嫌ってきた。それが鬱積してこのような事件が起きたのだろうか。そこまで飛躍しなくてもいいのかもしれない。
 それならば何故、妻を殺したのだろうか? 妻のヒステリーさえも心地よく思っていたのならば何故? リストラのメンバーに入っていたらしい。それはそうだと思う。誰が見ても仕事が出来ない。それでも真面目にやっている。要領が悪いのかもしれない。会社を辞めなければならない。だが仕事以外に何も無い身としては辛かったのかもしれない。再就職など考えられない。怒りと憎悪で体は真っ赤に燃えていたらしい。いつも冷え切っていた心までもアクシデントによって熱を帯びていた。そうとは知らず妻はいつもと同じようにヒステリーを起こしていた。熱と熱が始めてぶつかる。殺意は無かったらしいがその熱が邪魔だったらしい。力の強い男が女の体を。あっという間の出来事だったに違いない。殺したという感覚は無かったから妻の熱を冷ますために冷蔵庫へ体を入れたというのだ。妻が邪魔なのではない。熱しすぎた体を冷ますために。
 新しい上司と何か話さなければならない。そう思うのだが言葉が詰まる。それならば話をしているときだけは仕事の手を休めた。何かが始まるかもしれない。

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