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第10回チャンピオンofチャンピオンバトル小説部門 Entry5

落下


 熱気で埋まっている車の中でだらだらと汗をかいている。汗をかきながら物思いに耽る。
 缶コーヒー片手に格好つけてみるが、てんで様にならない。車は川沿いの駐禁道路に止めていて、車検まであと3ヶ月。夏は暑い。
 川沿いが駐禁なのは散歩道だからだ。看板も立っている。ぞろぞろと人が歩いてくる。私の車には目も留めずに笑いながら、楽しそうに、悲しそうに、喜びながら、ぞろぞろと歩いてくる。
 会話も聞こえてくる。皆あだ名で呼び合ってる。親しげな光景がやはりぞろぞろと歩いてくる。やがて昔好きだった女が見えてきた。私はタバコを一本ポケットから取り出したが、タバコの先が震えていることに気づくと、怖くなって吸うのを止めた。昔好きだった女はとびきりの笑顔だった。

 夜は人がまばらになる。
 蛍光灯がぼんやりとついている中、まだ私はタバコを吸えないでいた。
「もうそろそろエンジンをふかしてほしいんだけど」
「ああ、そうなんだ。それはごめんね」
 遠慮がちに車からお願いされてキーを回す。エンジン音とともに生ぬるい外気が車内へ闖入する。
「もういいでしょ、ねぇ」
「ああ、でももう少しだけ」
 車はもうウンザリしていた。私はサイドブレーキに触れもしない。
「見て、星の光が強いわ」
「うん」
「見て、正面からまた歩いてくるわ」
「誰が?」
「幸せそうな人たち」
「ああ」
 夜になると皆仮面を被る。それぞれの個性にちなんだ仮面を被って、誰が誰なのかをわからなくさせる。男と女の境界も失う。夜の川は黒くつやつやとしていて、美しく汚れている。
「夜は怖いわ」
「ああ怖い」
 低く唸りをあげた車は、私をからかうように笑っている。見たくないものを見た。感じたくないものを感じた。歩いてくる幸せそうな人たちの仮面の中の顔を、車は知っている。私のこともよく知っている。
「ああ、とてもステキな笑顔だわ、ねぇ見て」
「そうだね、でももう行こうか」
「ねぇ、本当にステキよ。ちゃんと見て、あの人たちの笑顔」
「そうだね、行こう」
 車内はすっかり冷たい空気で満たされている。汗もひいて空のコーヒー缶も無機質な冷たさを帯びている。仮面をつけた夜の散歩者。うんざりしている私。仮面を被っている私。
「ガソリン大丈夫かしら」
「もう行くよ」
「そうね」
 メーターを見ながら逃げ出すように夜の道をドライヴする。少しだけ呼吸が荒い。
「また、明日の夜も」
 けたたましく楽しげに、エンジン音は夜に笑う。


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