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文藝ナニカ

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作品情報

題名
文字数3000
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投稿日
作者だぎー
訳者
翻案
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コミュニケーション

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だぎー

「今日はどこほっつき歩いてたんだぁ?」

 老人はいつもの調子で顎髭を撫でながら、お好み焼きソースの中身を入れ替えていた。信太郎は自転車から降りると、店の入口横にある地面から伸びた水道の蛇口をひねり、ビーチサンダルのまま泥だらけの両手足を洗った。この水は真夏でもなぜか冷たい。

「おっちゃん!これ見て。オオカマ!」
「あぁ。またか・・シンタは暇さえあれば虫だな。いっそ虫と一緒に山に住んじまえ」

 その駄菓子屋は古い建売住宅が建ち並ぶ中にある看板も暖簾も無い店なのにも関わらず、地域の子供がよく集まっていた。白い顎髭を蓄え、いつも眉間に皺を寄せた無愛想な老人が一人で店を経営し、焼きそばやお好み焼きを小さな鉄板で焼いて食べられるのだが肝心の椅子は2つしかない。しかもその椅子は古過ぎていつ壊れてもおかしくない代物だ。

「シンタよう、来年は6年生だろ?夏休みの宿題早くやらねえと、かあちゃんに叱られるぞ」
「わかってるって」
「もうその次は中学校だ。早ぇなあ。こんなにでかくなっちまって」

 両親にこっぴどく叱られようと、サッカーで負けてこようと、それを老人に話すと慰めるでもなく信太郎を叱る。しかし、両親やコーチにくどくど言われるのは心底嫌だったが、老人の小言を聞くのは苦痛ではなかった。むしろ、同じことを彼に言われると気持ちが安らぐのを感じた。

 いつも信太郎が使う箸は決まっていて、小さな赤いクワガタの絵が描いてあった。いびつな形のお好み焼きが皿に盛られ、青海苔とソースを大量にかけるとそれを一気に平らげる。店のすぐ前の電柱のやけに低い位置に停まっているアブラゼミのけたたましい鳴き声は、風が吹くと少し弱まった。

「夏休みの宿題ってのは、最後の日に一気にやるもんなんだよ?おっちゃん知らないの?集中力!」
「生意気言ってんじゃねぇよ」

 小刻みに震える手で皿を取り上げると、台所に持って行きながら

「シンタは虫ならなんでも捕れんのか?」
「まかせな!この前もオニヤンマとギンヤンマを1日で捕った」
「そりゃ珍しい虫なのか?」

 老人はほとんど見せたことのない笑顔になり、冷蔵庫から取り出した瓶ジュースの栓を抜き塗装の剥げたテーブルに置くと

「シンタ。おっちゃん鈴虫が好きでなあ。9月にもなるとよく綺麗な声が聴けたよ。最近は宅地開発だぁなんだってめっきりいなくなっちまった」
「鈴虫?いると思うよ。8月だって夕方なら出てくるよ」
「今度、捕ってきてくれんか?」

 電柱のアブラゼミが飛び去り、水道の蛇口から落ちる水の音が聞こえるようになった。信太郎は虫籠の中のカマキリが脱出を図るのを制しながら

「わかった。鈴虫なんて楽勝だよ」
「そんな虫はいらんぞ」
「オオカマのメス、カッコいいのになぁ」

 所狭しと並ぶ建売住宅と工事現場の音、光化学スモッグ注意報発令の放送、おびただしい数のセミの大合唱、アスファルトからの茹だる様な熱気。親から貰った古い自転車をこぐ音すら暑苦しく感じた夏。
 巨大な入道雲も、工事中の高層マンションの陰になり見えなくなった。

 その数日後から、夕方になるといつも虫取りに行く公園や神社に何度も足を運び鈴虫を探したが、捕れるのはバッタやコオロギばかりで一向に見つからない。帰りに駄菓子屋に寄るのだが普段は開いているはずの時間でも閉まっていた。

 9月も半ばを過ぎても店はシャッターが降りたままで、ちょうどその頃に大ブームになっていた家庭用ゲーム機を買って貰ったこともあり、そのうち鈴虫の約束をすっかり忘れてしまっていた。

 日が短くなりサッカーは5時には終わる。信太郎は帰りに友人と駄菓子屋に寄った。近くの小さな神社からは秋の訪れを告げるツクツクボウシの声が聞こえ、店はシャッターを開いた形跡もなく閑寂と佇んでいた。
 水道の蛇口をひねり水を出すと、縁石に停まって水を飲んでいたアシナガバチが飛び立った。もう来週には10月になる。

---夏休みの宿題、最後の日に終わらせたよ---

 その報告をして、おっちゃんに叱られたかった。

「・・おっちゃん、どうしたんだろ」
「どっかに引っ越したのかな」

 店の隣の家の住人に聞けばわかると友人は信太郎を促したが、そうしなかった。なんとなく、そうしたくなかったのだ。



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「そういや、北町の駄菓子屋って覚えてるか?」

 会社が盆休みに入り、信太郎は級友の結婚式のために故郷に帰り喫茶店で二次会までの時間を潰していた。小さいながらも駅ビルが建ち、各駅停車しか停まらない地味な駅だったのが急行停車駅に。自宅から駅へ向かう道には新しいコンビニが2店舗も開店していた。

「おっちゃんの店・・」

 駄菓子屋一帯の古い建物は区画整理で全て取り壊されたことも、おっちゃんが9月のあの日には既に亡くなっていて身寄りが無く遺体の発見が遅れたということも、話の内容はすべて信太郎にとって大きな驚きではなかった。

 ただ、友人がそのことを話題にしてからずっと思い出していた。新築工事の騒音、古い自転車の軋む音、何度も流れる町内放送、セミの声、食器を片付ける音・・・駄菓子屋のあった場所に行ってみたい気持ちが次第に高まってゆく。

 信太郎は無言で店を出ると、商店街を抜けて北町に向かった。あの夏に新築工事中だった交差点の10階建てマンションのベランダにはたくさんの洗濯物が彩っていた。

 新しい道に植えられた街路樹。今も昔も変わらない古い歩道橋。あの場所に近づくにつれ、小言が聞こえてくるように感じた。おっちゃんの声。信太郎は不意に走り出した。
 あの時、鈴虫を捕まえ届けられなかった悔しさで、目頭が熱くなってゆく。


鈴虫、いなかったんだ。おっちゃん、ごめんな。


 夕暮れの街灯に群がっていた蛾のうちの一匹が首筋に当たると、速めていた足を落ち着かせた。左手に持っていた礼服の上着には汗が落ちている。駄菓子屋と同じ道にあった神社の境内には建設資材置場が建てられ、小さな社だけが残されていた。それ以外の建物は新築ばかりで、店のあった場所は正確にはわからない。しばらく放心して電柱の先端を眺めていた。

「急になんだよ。どうせこんな所来たってなんにも無いぜ」
「・・うん」

 喫茶店の会計を済ませて信太郎を追ってきた友人は、斜め後ろを指差す。

「あのマンションのあたりかな」

 二人はそのマンションの前まで歩き、周囲を見渡す。濃緑色のレンガで作られた洒落たプランターがある。見上げても高過ぎて何階建てかわからない、自動扉がある立派なエントランスだ。信太郎はなにか駄菓子屋の面影を探したかった。
 日暮れと共に増してきた秋の虫の鳴き声がプランターから聞こえ、彼らが近づくと聞こえなくなる。

「おいシンタ、これ!」

 そこには錆ついた水道管があのときのまま、店の入口の横だった場所にあった。錆は管全体に及び縁石は半分以上朽ちているが、確かにあの水道管だ。
 信太郎はすぐに蛇口に手をかけ水を出そうとするが、空回りするだけでなにも出て来なかった。

 ヒグラシの透き通った声が、遥か遠くから小さく耳に入ってくる。彼らは何も語らずに縁石のボロボロになった錆だらけの水道管を眺め続けた。

「おっちゃん・・・」

 虫の鳴き声がプランターから再び聴こえてくると、信太郎は中の草花を分けて虫を探した。

 コオロギが一匹レンガから落ちて足元に近付いてきたが、すぐにそこから逃げて見えなくなった。