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第19回中高生1000字小説バトル Entry1

今日は朝から

 今日は朝から、雨が降っている。
 ひんやりと冷たい床の上に、真っ黒な雑巾と一緒に眠ってしまっていた。腕を伸ばすと、食器の入った段ボール箱が、がしゃんと音をたてる。
 いまさらになって、日本へ戻ってきたのだな、と思う。銀の振り子時計は、まだ、ロンドンの時を、無造作に刻んでいた。
 壁にかかったカレンダーは、去年のものだ。ちょうど、去年の六月十日、今日の日付に、緑のペンで丸がしてある。緑は、君が好きだった色。
 しなければならないことはたくさんあるのに、それがすべて、今すぐ片付けねばならないわけでないとなると、立ち上がる気力さえ、雨と一緒に海まで流れていってしまいそうな気がする。とりあえず、まず何をしよう、と考えながら、台所へ向かった。
 コーヒーをいれて、ふっとため息をつく。埃っぽい部屋に香ばしい香りが漂うと、なんとなく人の住む場所になったように感じる。そしてため息も、つく暇もなかったころとくらべて、人である証のように思えて、心がしみるような気持ちになった。
 自分でいれたコーヒーは、苦かった。それとともに、君のコーヒーの味を思い出す。何もかもがなくなったいま、思い出すのは、君のことばかりだな、と気付く。

──電話、してみようかな。

 そう思って、マグカップをテーブルに置いた、そのとき、携帯電話が曲を奏でた。
「……もしもし」
『……出るの、早いよ』
 少しびっくりしたような、君の声だった。
「いま、電話しようと思ってたんだよ」
『うそ』
「ホントだよ」
『ホントに?』
 電話の向こうで、君が笑っている。こうして君と普通に話せる自分が、少し不思議だった。
『──帰ってきてたんだ、こっちに』
「……うん」
『何で連絡くれなかったの?』
「…………」
『向こうでの仕事、失敗したんだ?』
 しばらく、沈黙がつづいた。
『一年前は、すごく幸せだったよね』
「…………」
『この一年、待ってるあいだは、耐えられなくなったこともあったよ。でも、いまは……』
 泣き出しそうな君の声に、胸がしめつけられるほどのいとおしさを感じる。
『いまは、会いたい。いますぐに、会いたいよ』
「……ホントに?」
『ホントだよ』
 ポケットの中の小箱を確かめながら、ためらいながら、一年前の記憶をたどって、言葉を声にかえる。
「──話があるんだ。いつもの公園で、会おう」

 一年前の今日は、君を泣かせてしまった。今日こそは、素直に気持ちを伝えようと思う。
「結婚しよう」

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