第7回テーマ:「机」「魂」「取り残される」
あなたはどれだけ自分が魅力的か、気づいていますか? イメージしてください。あなたの周りに集う人の群れ。みんなあなたを誉め、微笑んでいる。一人一人が好意のまなざしであなたを見つめている。分りますか? そんなに顔をしかめないで。じゃあ、こうしましょう。 あなたは物だ。例えば、机。教室にある机をイメージしてください。 物はただそこにある。朝は、自分を使う生徒を無言で迎え、昼には自分の周りに生徒が数人集まって、お弁当を食べている。でも、夜は一人になる。朝まで、一人でずっと次の日のことなど考えずにただ待っている。 そうです。寂しさなど感じない。震えることなど何もない。 そう、呼吸を深くして。耳をすませて。 次第にあなたを使う生徒はあなたに愛着を持ち始めます。好きなシールを貼ったり、好きな異性の名前を書いて消したり、テストがわからなくて冷や汗をかいたり、ひまつぶしに絵を描いたり。あなたは黙って見守っている。 そして、別れの日が来ます。卒業式が終わって、あなたの周りに生徒が沢山集まります。みな寂しさを口にしながら、あなたに思い出の言葉を書き付けます。場合によっては、涙も零れるかもしれません。でも、みな笑っています。あなたを見て微笑んでいます。 別れは必ず来ます。あなたのせいではありません。あなたが必死になることはない。あなたの魅力はそんなことで決まるのではありません。例え人に嫌われようと、あなたが信じることをするしか道はありません。 机は、その日から数日間、使うものもないまま取り残されるでしょう。机にはどうしようもありません。しかし、いずれは新学年の生徒が使うようになるでしょう。 何も無理して思い出深い生徒を忘れなくても良いのです。黙っていても、時は過ぎ、あなたは新しい人に迎えられます。 ほら、ピカピカに光る生徒があなたの前に座る。 その姿は、観音様だ。 観音様があなたの心を戻してくれる。 あなたはあなたに戻ってくる。 私が五つ数えて手を叩くと、目蓋が開いて、目が覚めます。 五、四、三、二、一、はい! 臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前! 何? かからなかった? 安心してください。何度も催眠を繰り返せば、どんなに催眠深度の浅い人でも必ずかかりますから。あなた、かなり深くかかっていましたよ。私が分類する四段階の、三くらいまでは。自覚がないのがその証拠です。 ええ。 三日後にまた。
制服のままあごを乗せた机はまだ太陽の匂いがしてた。日のあるうちに帰るなんて久しぶり、って感想は、中学一年生としては間違ってる気がするんだけど、体育祭、文化祭、そして市民体育大会(走り高跳び中学生の部三位!)と、夏休みが明けてからイベント続きで、こんな風に中間試験の準備期間にでもならないと、部屋の窓から午後の青空を見ることもできない。さあいっちょやりますか、とお母さんの口癖だけ真似て、(あごは机に乗せたままだ)ブックスタンドに並んだ教科書を見ると、隙間で窓の明るさに透けて何かが小さく光ってた。ビー玉だった。指のあいだで光にかざすと、透明な殻の真ん中で水色の風が踊る。 あの頃みたいに、ひんやりした机に頬をぺっとりとつけて、そっとビー玉を置いた。かつん、と乾いた音、そして抽斗のある右側に向かって傾いた机の上をビー玉が転がり出す。光を連れた水色の車輪はだんだんに速くなり、机に貼りついた右耳がごおごおと鳴る。床に落ちる前に、あの頃と同じ位置に待っていたあたしの右手にぽつんと当たって止まる。あたしはまたビー玉を戻し、走らせる。何度も、何度も。 ビー玉を聴き続けてると、やがてたくさんの音があたしを訪れる。耳の中ををさらさらと血液の流れる音、とくとくと規則正しい心臓の音、ぱたぱたというまばたきの音。下の台所でお母さんが水を使う音。窓を鳴らし高く吹き上がる風の音。あたしはあたしの体を離れて木の葉のように音に揺られ、世界の音に溶け込んでいくのだ。 小学生のころはこんなことで日暮れまで遊んでいられた。時間割のないまんまるな午後は、明日もあさってもずっと続くように思ってた。あれから一年も経ってないのに。そんなことを思った瞬間、ビー玉の向うの教科書に焦点が合って、あたしは机にぽつりと取り残されていた。血液の音だけがノイズのように聞こえて、懐かしく思える分だけあたしは変わったんだ、って思った。長くしまわれていたお気に入りのブラウスから樟脳の匂いをかいだ時みたいに、胸の底から小さな海があふれた。おまじないのために擦りつけた消しゴムの匂いがまだかすかに残ってて、うるんだ鼻にふっと触った。 あたしは窓を開けて、秋の日差しを吸った風を思いきり吸い込んだ。高い空を見上げるあたしの瞳を冷たい空気がなでて、ゆっくり息を吐くと、あの無限いっぱいの午後は今も胸の奥にひっそりと織り込まれている、そんな気がした。
十月二十一日土曜日、関東地方は早朝から気温がグッと下がり、秋がドーンと深まった。そんな曇り空の下、中学二年のタカシは、ジョギングのついでに御ヤシキ町にある高山千賀子の御屋敷に行った。いや、正確に言うとそこは、先週まで高山家だった御屋敷だ。タカシの同級生、高山千賀子は木曜日に突然、他県に引越して行ってしまったのだ。 既に表札が外された門柱の前には、木製の汚れた小机が取り残されていた。粗大ゴミと成ったその小机には見覚えがあった。 六月、千賀子の誕生日パーティーにクラスの仲間と一緒に招待され、この机でオレンジジュースを飲んだのだ。並び順が良く、タカシは千賀子と向かい合わせで飲んだ。千賀子を見つめながらストローをくわえ、大いに照れくさく、大いに満足した。汚れ小机を見つめ、タカシは妄想を膨らませた後、大人びた溜息を漏らした。 「君、御嬢様に惚れてたね」 突然、声が聞こえ、タカシは辺りを見回した。 「ははは、僕だよ、木製小机だ。驚くのも無理ないが、こう見えても僕は机に成る前は御神木として神様の『魂』を宿していたんだ。言葉ぐらい喋れるさ」 タカシは驚いて声も出ない。 「御嬢様に惚れてたんなら、今度の引越しには随分驚いたろう。全く突然の転宅だったからなあ。先月、旦那様が事業で失敗して、債権者に追われて……夜逃げ同然だったもんなあ。御嬢様も運転手や召使いとも別れなきゃならないわ、学校には行けなくなるわで、ものすごく動揺されてた。学校への正式な手続きもバタバタで……」 「……あ、そうだったんですか。僕はてっきり……」 「『クラスの友人にだけは直接、別れを告げたい』とお嬢様は泣いて頼まれたが、旦那様も奥様もそれどころじゃなかったし、君だけじゃない、御嬢様は誰とも挨拶せずじまいだった。当分は引越し先からも連絡出来ない状態だろうし……君は不憫な御嬢様を忘れずにいてやってくれ。そして、再会のその日まで、御嬢様の心の支えになってやってくれ。さあ、僕と一緒に御嬢様の無事を祈り続けよう」 「えっ、ああ、もちろんです」 「そうか、祈り続けてくれるか。そりゃあ良かった。じゃあ、忘れないアカシに僕を持ち帰って良いよ。身近に置かせてやるよ」 「ええ、いやあ、そっそれは……」 「いや、遠慮することは無い。ははははは」 汚い小机を持ち帰ったタカシに家族は冷たく、事情を聞く耳を持たなかった。汚い小机は狭いタカシの部屋に置かれた。
百円玉を拾った。 ゲームセンターの緑色の床にぽつりとひとつ落ちていたそれを拾い上げて、私は思わず辺りを見回した。平日で、まだ中高生のいない時間だから人影はまばら。そのまばらな彼らもそれぞれがゲーム画面に集中している。やましいことなどないのになぜかほっとする。金髪のおにーちゃんがあくびをしているカウンターに届ける気持ちにはなれず、迷ったあげくに手近にあったUFOキャッチャーにそれを投入する。 「…………」 UFOキャッチャーなんて何年ぶりにやるのだろう。やり方が思い出せなくてしばし操作盤を眺める。 「ああ、光っている方を押すのか」 と一人ごちて、押してから、どれをとるか決めていないことに気付いた。慌てて、 「あ」 そしてボタンを離してしまう。見るからに頼りなげな銀色のアームがゆらゆらと揺れて動きを止めた。 「…………」 またしばし、眺める。いろんな角度から、眺めてみる。 どう考えてもとれそうなのは一つしかなかった。カラフルなディズニーのキャラクターの敷き詰められた中にひとつだけ混じったピンク色の熊のぬいぐるみ。目はばってん、鼻が丸く、明るい水色のプラスチックの爪がついていた。それは顔ばかりが大きくてアンバランスで、膨張した顔は熊というより豚に見える。そして極めつけに「彼」は黒いマントを着けていて、そこには白抜きで 魂 と一文字プリントされていた。最悪だ。そりゃあ残ってしまいもするだろう。迷って他のぬいぐるみにも目を移すが、プーさんにもさほど興味はわかず私はやっと諦めがついてまたボタンを押して、 ごとん と音をたてて次の瞬間には「彼」はガラス張りのそこからこちらの世界へやってきてしまった。たいして欲しくもないものに限って、やってくるのだ。まぁでも元手がゼロのものだ。贅沢は言うまい。ふたを開けて手に取るとばってんの目が私に、 「…………」 特に何も訴えかけて来なかった。 わたしはぬいぐるみを買い物をしたスーパーの袋に突っ込んでため息をついた。 こんなんじゃあこの頃ずっと学習机を欲しがってうるさい息子の気をそらすことなど到底無理だろう。もともとそれを探しにゲームセンターによったのだけど。だいたい学習机ひとつが私の一月のパート収入と同じ額だなんて、どういうことだろう。 私は何度でも出そうになるため息を飲み込んで、重い荷物を持ち直した。なんと言ったら安いもので我慢してくれるのかと考えつつ、私はとぼとぼと家路についた。