揺れる車内で文庫本の字を追うのにも少し飽きて顔を上げ、ぼんやり辺りを眺めているうちに斜向いの席の男の顔に視線がいった。そのまま一旦は通り過ぎ、少し間をおいてからはっとして再び視線を戻す。あれ、そう、あなた?
男はこちらを見る気配がなかった。少し頬が膨らみ過ぎている。額も何だかやたら広い。だけどそうではないだろうか。私はじっと彼を見つめ続けた。歳をくってデブって、だからこんなになってしまったけどやっぱり彼ではないだろうか。
憶えてますか。あなたに処女を捧げた女です。
狭い通路をすたすた横切って男の前に立ち、無惨に毛が薄くなって地肌が見える頭を見下ろしそう言って笑ったら、どんな顔をするだろう。ねえ、やっぱり禿げちゃったのね、危ないと思ってたけど、でもセクシーで素敵よ。
どうしようかな。なんて、まあそんな度胸ないくせに。だけど度胸はともかくそんなことをする必要はなくなった。すたすたやってきたのは彼の方だった。
「変わらないね」
「変わったわねあなたは、少し」
「言うなよ。相変わらずだな」
会合の帰りでそのまま帰宅、急ぐ必要もないからと誘われて夕食を一緒にすることにした。ちょっと電話するからさ、おねえさんは、いいの? いいのよ、と私は答えた。ウチはそんなにうるさくないの。おねえさん、か。他に呼び方は思いつかないのか、きみは、おにいさんよ。
おにいさん、あたしは諦めるの、嫌いになったわけじゃないけど、でもあたしはそういうんじゃないのそれがわかったから。
「ふうん、じゃあ仕事は続けてるんだ」
「うん。主婦はやっぱり向かないみたいだし」
「俺なんか女だったら絶対仕事なんかしないけどな。うちのカミさんなんか見てると羨ましくってしょうがないよ。一日中子供と遊んでりゃいいんだからさ」
「遊んでるってわけじゃないでしょうよ。大変そうじゃない、子育てって。あなたのが案外楽してるのかもよ」
「そんなことはない、絶対に」
グラスビールを彼はあっという間に飲み干してワインをオーダーする。禿げて太っちゃったけど物腰は紳士的で、昔よりかっこいいかも知れない。いやそうだろうか。そんなことはない、絶対に。私が好きだったのは。いややめよう。それはずっと昔に起こったことで、今探したところで何にもならない。
雨が降ってきた。窓ガラスに雫が筋をひいて落ちてゆく。私はチキンカツを頬張りながらぼんやりその雫を目で追った。あの日も雨が降っていた。ワイパーが、かくんかくんと左右に揺れて半円の筋を作るのを、私は泣きながら見ていた。あたしは諦めるのよ。どうしてもそうしなくちゃならないの。どうしてそんな風に私は思ったのだろう。そして、私は何かを手に入れることができたのだろうか。その代価に何を得ようとしていたのだろう。
「あれ平気? 傘持ってる?」
「大丈夫よ。あなたは?」
「ああ大丈夫だけど。しかし、けっこう降ってきたな」
「そうね」
「そうだ、雨といえばさ、いつか訊こうと思ってたことがあるんだけど」
「うん、何」
「もうずうっと前の話だけど」
「そうでしょうね、何なの」
「まだつきあってすぐっていうか、これからってときにさ、雨が降ってて、自転車がずっと濡れてた」
「え、何」
「図書館の前におねえさんの自転車があってさ」と、彼はワインを一口飲んでから続けた。
「図書館にいるのかなって探したことがあるんだよ。講義も全部終わっちゃって帰るときだったんだけど、ちょうどいいから会えたら飯でも一緒にって思ってさ。それで探したんだ。最初はいつもいる二階だと思って行って、でもいないから隅から隅まで、視聴覚室まで覗いたんだけどいなかった。どうしたんだろう、すれ違ったのかなあと思って図書館を出たけど、でも自転車はまだあってさ。で、結局諦めて帰ったんだ。それで、翌日、雨だったんだよ。でもまだその自転車があったんだ、図書館の前に。たった一台。ぽつんと濡れそぼってさ」
私は黙って聞いていた。ハンドルの先からサドルの縁から絶えまなくしたたり落ちる雨の雫。
そう、私はそのとき図書館にはいなかった。私は男の子と一緒にいたのだ。どうしても、と請われて。どうしても今日一日だけつきあって欲しい。そしたらきれいさっぱり別れるから。もう絶対近づかないから。最後の頼みだ、いいだろう?
どこかのホテルのレストランで食事をして、最上階のバーでカクテルを飲んだ。バー! カクテル! 私たちは十代ではなかったか? そして酔っぱらって頭がぼんやりすると思っていたら彼が少し席を外したあとに戻ってきて、部屋のキーを私に見せた。今夜だけ、頼むから。その部屋は、いま気づいた、たぶんスイートルーム。やけに広々とした部屋が二つ。ふかふかのソファーが置かれているリビングとツインのベッドルーム。ベッドルームに私は抱きかかえられて運ばれた。それで。それで?
「あのとき、どこにいたんだろうって、それが謎。何となくずっと訊かなかったんだけど」
「内緒」と、私は答えた。
「それで充分だ」と、彼は笑った。「憶えてたんだ。そういうことだね」
私は声をあげて笑った。雨が強く窓ガラスを叩いた。
「あたしなんかのどこがよかったのかしらね」と、ようやく笑いがおさまると私は苦笑混じりに言った。
「誰に訊いてんの」
「ん、誰ってわけじゃないんだけど」
「狂ってたんだよ、みんなどうせ」
そうかも知れない。ただ、何かが欲しかったのだ。誰もが誰かが必要だと思いたかった。若かったから。
ほらやっぱりいた、と彼はそれでも私に言った。おねえさんの居場所はいつもわかる。自転車がそこにあるから。いつもちゃんとそこにいる。
「ねえ、誰かを愛し続けるのは勇気のいることね」、言ってすぐにどうせ笑われると身構えたら、成長したねあなたは、と哀しげな微笑みで答えられた。
あなたはやっぱり変わってないのね。私がついていけなかっただけなのだ、たぶん。いやそうではなく。狂ったままでいてほしかったのだ、狂ったままでいたかったのだ。それは無理だとわかっていても。
ワインを少し飲んだだけで、私は充分酔うことができた。お酒をあまり普段飲んでいない。たまにこんな思いができるなら、生きているのも悪くないかも知れない。そんな気分で橋を渡る。風が少し横殴りに吹いてあやうく傘が持っていかれそうになるのを堪えて柄を握りしめる。
黒い大きな傘の下でじっと濡れた自転車を見つめている少年の横顔を私は見る。そこにしばらく佇んで、持ち主に見捨てられて黙ったまま濡れている自転車に視線をまっすぐ注ぐ。まっすぐ、逸らさないで目に焼きつけるようにそれを見る。
信じることは忍耐ではないのだ、と彼は言う。それは自分を賭ける勇気。疑って疑ってそれでもまだ信じようとする行為。闘う姿勢だよ。何かに対して。
そんな説教、大きなお世話、きみね、私はもう立派なオトナなんだから、おにいさん。なんて、またハッタリかましたりして。
橋を渡って横断歩道を渡る。信号は赤だけどかまうものか、車が来ないのだから。そしてすぐの曲り角。そこを曲がればいとしいわが家の窓が見える。真っ暗な、きっと誰も待つ人のいない家の窓。ただ黙って濡れている窓ガラス。だけど私は今日もそこに帰る。これは勇気なのだろうか。あるいはそうなのかも知れないと思ったら苦笑が漏れた。
だけどそうなのかも知れない。私は角を曲がる。