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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第13回バトル 作品

参加作品一覧

(2002年 1月)
文字数
1
Jamie.E
2579
2
櫻田久美子
3000
3
大石 伸一
1809
4
黒耀石
2804
5
やす泰
3000
6
明智水里
2938
7
のぼりん
2999
8
林徳鎬
2981
9
羽那沖権八
3000
10
伊勢 湊
3000

結果発表

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おいしくない女
Jamie.E

「お待たせいたしました。カマンベールチーズでございます。」

 パク。

「お待たせいたしました。タラコのスパゲティでございます。」

 チュルル。

「お待たせいたしました。デザートのブランマンジェでございます。ご注文は以上でおそろいですか?」

「あの、お会計お願いします。」

「え!?まだどれにもほとんど手をつけていないじゃないですか。」

「いいえ、お会計してください。だって、この店の料理まずいんだもん。」

「・・・・・。」

怪訝そうにあたしの顔を見つめるウェイターを尻目に、あたしはレストランを出た。

 あたしはルミ。若干20才。職業は大学生兼拒食症寸前のモデル。友達には「スタイルいいね」ってほめられるけど、ちっともうれしくない。だって、あたしチビのころから食べる幸せを感じたことがないんだもん。

「ただいま。」

「・・・・・。」

 家に帰っても誰も返事してくれない。別に一人暮らしってわけじゃないけど、父親は外に女作って出ていっちゃったし母親はアル中だし、弟は現在浪人中&引きこもり中。あたしはフッとため息を漏らしながらいつものように夜食用に買ってきたカップラーメンをすする。

(ああ、やっぱりまずい・・・)



 翌日は雑誌のグラビア撮影の日だった。あたしは大学の講義をサボり、お昼ご飯もそこそこに道玄坂のスタジオへと急いだ。

 スタジオに着くと、あたしはバッグから携帯を出し、メールの確認をした。1通目は3ヵ月ほど前にメールで知り合ったお調子者のヨースケからのものだった。

[おっす!オラヨースケ!モデルの仕事はかどってるかーい?大学はサボっちゃだめよ!バイビー!]

(おっす!オラヨースケってお前は悟空かっ!)

あたしはヨースケのメールを無視し、2件目のメールを見た。それは最近あってくれない私の彼氏からだった。

[ルミへ。新しい女ができた。お前はもう用済みだ。別れてくれ。]

そのメールを見た途端、あたしは腰が抜けてしまった。その後あたしがどうなったのか全くわからなかった。

 気がつくと、あたしは実家のせんべい布団で眠っていた。おなかも空いていた。しかし、あたしのためにゴハンを作ってくれる人など、この家にはいない。あたしは冷蔵庫にラップしてあるご飯とネギと卵で簡単なチャーハンを作り、一人わびしくそれを貪っていた。

 と、そこへ携帯にメールが届いた音がした。あたしは手を止め、メールの確認をした。

[ルミちゃんへ。もうそろそろおいらと一緒にデートしてくれるかなー?と思ってメールしました。出過ぎた真似してごめんなさい。]

「ヨースケ・・・」

今のあたしにとってヨースケは心の支えだった。ここ数ヶ月間、あたしを支えてくれていたのは他でもない、ヨースケだった。そのことにどうして今まで気づかなかったのだろう。あたしは泣きながら夢中でメールを打った。

[ヨースケ。食べ物がおいしいところにあたしを連れてって。じゃないとあたし、壊れちゃうよ。]

一分後、返事が来た。

[それじゃあ伊勢エビがおいしいところヘ行こう。明日の朝8時、東京駅のロビーにいる。服装は赤いフリースにジーンズ。じゃあまたね。]

(伊勢エビ?しかも明日の朝8時に東京駅で待ち合わせってどういうこと?)

あたしはヨースケのメールを消去しようとしたが、なぜか消去ボタンを押せないでいた。そしてそのまま夜が明けてしまった。



 午前7時50分。あたしは眠い目をこすりながら東京駅に着いた。好奇心と一抹の不安を抱えながら。ロビーに着くと、赤いフリースの男が確かに立っていた。ドブネズミ色のスーツの集団の中で男の真っ赤なフリースはひときわ目立っていた。あたしは導かれるように赤いフリースの男に歩み寄った。

「・・・あの、ヨースケくんですか?」

「ルミちゃん?」

「は、はあ・・・」

「何か、最近まともにご飯食べてないって言ってたけど、本当?」

「う、うん・・・」

「よし!じゃあ行こう!!」

「へっ?」

男は寡黙に、しかしとてもうれしそうな顔であたしの腕を引っ張ってゆく。

「ヨースケってさあ、家どこ?」

「下北沢。」

「下北沢!?じゃあ新宿とかで待ち合わせすれば良かったのに。」

「いいの、ここで。」

「東京駅の近くにおいしいお店なんてあったっけ?」

「誰も“店”とは言ってないでしょ?」

「えっ!・・・あ、ここ新幹線のホームじゃない!ちょっと!どこ行くつもりよーっ!」

「いいからいいから。」

 ヨースケは、嫌がるあたしの服をこれでもかというくらいに引っ張り、新幹線の中に無理やり押し込んだ。

 新幹線に乗り、電車を乗り次ぎ、何時間経っただろう?気がつくと、あたし達2人はいつの間にやらどこかの海岸に着いていた。太陽がジリジリとあたし達を照らす。

「はー、懐かしいなー。」

「で?どこなの、ここは?」

「三重。」

「三重~!?」

「そうだよ。俺のふるさとさ。」

「ふるさとって…大体どこに店があるって言うのよーっ!」

「だからあ、誰も“店”とは言ってないでしょ?」

「?」

「いや~ほんと懐かしいな。ガキのころはよくここで伊勢エビ取り大会とかやってたよな~。今でもできるかな?」

「伊勢エビ大会って…あんたまさか!?」

 ドッパ~ン!!

 「キャー!!」

 ヨースケは服のまま海に飛び込んでいった。あたしは気が動転してその場に座り込むしかなかった。

 それから何分経っただろう。ヨースケが得意気な表情で戻ってきた。夕日に濡れた赤いフリースが眩しく映った。そして、ヨースケの手には、ヨースケのフリースの色と同じくらい赤い伊勢エビが握られていた。

「どーだー!すごいだろ!」

「う、うん、すごいね…」

「これはうまいぞー!さあ、さっそく食うか!」

「え?食べるって…」

「ここの海岸で焚き火をして、その火でエビをあぶるのさ!」

「…どうして、そこまでしてくれるの?」

「ルミちゃんが“おいしいもの食べたい”って言うから、それを実行しただけだよ。」

「ありがとう…ほんとに、ありがとう…」

「あ~あ、泣かないでよ。」

 その後、あたし達は焚き火を囲み、まだピクピクしている伊勢エビをあぶって2人で食べた。

「どう?味は。」

「おいしいっ!」

「うふふふふ。」

「なによ?」

「その言葉が聞きたかったんだよ。“おいしい”って。」

「でも、伊勢エビだけじゃ何か物足りないな~。」

「よっし、それじゃあいまから伊勢神宮にでも行ってカキでももいで来るか!」

「賛成~!!」
おいしくない女 Jamie.E

その夜の曲り角
櫻田久美子

 揺れる車内で文庫本の字を追うのにも少し飽きて顔を上げ、ぼんやり辺りを眺めているうちに斜向いの席の男の顔に視線がいった。そのまま一旦は通り過ぎ、少し間をおいてからはっとして再び視線を戻す。あれ、そう、あなた?
 男はこちらを見る気配がなかった。少し頬が膨らみ過ぎている。額も何だかやたら広い。だけどそうではないだろうか。私はじっと彼を見つめ続けた。歳をくってデブって、だからこんなになってしまったけどやっぱり彼ではないだろうか。
 憶えてますか。あなたに処女を捧げた女です。
 狭い通路をすたすた横切って男の前に立ち、無惨に毛が薄くなって地肌が見える頭を見下ろしそう言って笑ったら、どんな顔をするだろう。ねえ、やっぱり禿げちゃったのね、危ないと思ってたけど、でもセクシーで素敵よ。
 どうしようかな。なんて、まあそんな度胸ないくせに。だけど度胸はともかくそんなことをする必要はなくなった。すたすたやってきたのは彼の方だった。
「変わらないね」
「変わったわねあなたは、少し」
「言うなよ。相変わらずだな」
 会合の帰りでそのまま帰宅、急ぐ必要もないからと誘われて夕食を一緒にすることにした。ちょっと電話するからさ、おねえさんは、いいの? いいのよ、と私は答えた。ウチはそんなにうるさくないの。おねえさん、か。他に呼び方は思いつかないのか、きみは、おにいさんよ。
 おにいさん、あたしは諦めるの、嫌いになったわけじゃないけど、でもあたしはそういうんじゃないのそれがわかったから。
「ふうん、じゃあ仕事は続けてるんだ」
「うん。主婦はやっぱり向かないみたいだし」
「俺なんか女だったら絶対仕事なんかしないけどな。うちのカミさんなんか見てると羨ましくってしょうがないよ。一日中子供と遊んでりゃいいんだからさ」
「遊んでるってわけじゃないでしょうよ。大変そうじゃない、子育てって。あなたのが案外楽してるのかもよ」
「そんなことはない、絶対に」
 グラスビールを彼はあっという間に飲み干してワインをオーダーする。禿げて太っちゃったけど物腰は紳士的で、昔よりかっこいいかも知れない。いやそうだろうか。そんなことはない、絶対に。私が好きだったのは。いややめよう。それはずっと昔に起こったことで、今探したところで何にもならない。
 雨が降ってきた。窓ガラスに雫が筋をひいて落ちてゆく。私はチキンカツを頬張りながらぼんやりその雫を目で追った。あの日も雨が降っていた。ワイパーが、かくんかくんと左右に揺れて半円の筋を作るのを、私は泣きながら見ていた。あたしは諦めるのよ。どうしてもそうしなくちゃならないの。どうしてそんな風に私は思ったのだろう。そして、私は何かを手に入れることができたのだろうか。その代価に何を得ようとしていたのだろう。
「あれ平気? 傘持ってる?」
「大丈夫よ。あなたは?」
「ああ大丈夫だけど。しかし、けっこう降ってきたな」
「そうね」
「そうだ、雨といえばさ、いつか訊こうと思ってたことがあるんだけど」
「うん、何」
「もうずうっと前の話だけど」
「そうでしょうね、何なの」
「まだつきあってすぐっていうか、これからってときにさ、雨が降ってて、自転車がずっと濡れてた」
「え、何」
「図書館の前におねえさんの自転車があってさ」と、彼はワインを一口飲んでから続けた。
「図書館にいるのかなって探したことがあるんだよ。講義も全部終わっちゃって帰るときだったんだけど、ちょうどいいから会えたら飯でも一緒にって思ってさ。それで探したんだ。最初はいつもいる二階だと思って行って、でもいないから隅から隅まで、視聴覚室まで覗いたんだけどいなかった。どうしたんだろう、すれ違ったのかなあと思って図書館を出たけど、でも自転車はまだあってさ。で、結局諦めて帰ったんだ。それで、翌日、雨だったんだよ。でもまだその自転車があったんだ、図書館の前に。たった一台。ぽつんと濡れそぼってさ」
 私は黙って聞いていた。ハンドルの先からサドルの縁から絶えまなくしたたり落ちる雨の雫。
 そう、私はそのとき図書館にはいなかった。私は男の子と一緒にいたのだ。どうしても、と請われて。どうしても今日一日だけつきあって欲しい。そしたらきれいさっぱり別れるから。もう絶対近づかないから。最後の頼みだ、いいだろう?
 どこかのホテルのレストランで食事をして、最上階のバーでカクテルを飲んだ。バー! カクテル! 私たちは十代ではなかったか? そして酔っぱらって頭がぼんやりすると思っていたら彼が少し席を外したあとに戻ってきて、部屋のキーを私に見せた。今夜だけ、頼むから。その部屋は、いま気づいた、たぶんスイートルーム。やけに広々とした部屋が二つ。ふかふかのソファーが置かれているリビングとツインのベッドルーム。ベッドルームに私は抱きかかえられて運ばれた。それで。それで?
「あのとき、どこにいたんだろうって、それが謎。何となくずっと訊かなかったんだけど」
「内緒」と、私は答えた。
「それで充分だ」と、彼は笑った。「憶えてたんだ。そういうことだね」
 私は声をあげて笑った。雨が強く窓ガラスを叩いた。
「あたしなんかのどこがよかったのかしらね」と、ようやく笑いがおさまると私は苦笑混じりに言った。
「誰に訊いてんの」
「ん、誰ってわけじゃないんだけど」
「狂ってたんだよ、みんなどうせ」
 そうかも知れない。ただ、何かが欲しかったのだ。誰もが誰かが必要だと思いたかった。若かったから。
 ほらやっぱりいた、と彼はそれでも私に言った。おねえさんの居場所はいつもわかる。自転車がそこにあるから。いつもちゃんとそこにいる。
「ねえ、誰かを愛し続けるのは勇気のいることね」、言ってすぐにどうせ笑われると身構えたら、成長したねあなたは、と哀しげな微笑みで答えられた。
 あなたはやっぱり変わってないのね。私がついていけなかっただけなのだ、たぶん。いやそうではなく。狂ったままでいてほしかったのだ、狂ったままでいたかったのだ。それは無理だとわかっていても。
 ワインを少し飲んだだけで、私は充分酔うことができた。お酒をあまり普段飲んでいない。たまにこんな思いができるなら、生きているのも悪くないかも知れない。そんな気分で橋を渡る。風が少し横殴りに吹いてあやうく傘が持っていかれそうになるのを堪えて柄を握りしめる。
 黒い大きな傘の下でじっと濡れた自転車を見つめている少年の横顔を私は見る。そこにしばらく佇んで、持ち主に見捨てられて黙ったまま濡れている自転車に視線をまっすぐ注ぐ。まっすぐ、逸らさないで目に焼きつけるようにそれを見る。
 信じることは忍耐ではないのだ、と彼は言う。それは自分を賭ける勇気。疑って疑ってそれでもまだ信じようとする行為。闘う姿勢だよ。何かに対して。
 そんな説教、大きなお世話、きみね、私はもう立派なオトナなんだから、おにいさん。なんて、またハッタリかましたりして。
 橋を渡って横断歩道を渡る。信号は赤だけどかまうものか、車が来ないのだから。そしてすぐの曲り角。そこを曲がればいとしいわが家の窓が見える。真っ暗な、きっと誰も待つ人のいない家の窓。ただ黙って濡れている窓ガラス。だけど私は今日もそこに帰る。これは勇気なのだろうか。あるいはそうなのかも知れないと思ったら苦笑が漏れた。
 だけどそうなのかも知れない。私は角を曲がる。
その夜の曲り角 櫻田久美子

年賀状
大石 伸一

 正月になるといつも思い出す。
私は、7歳まで家族に毎年【年賀状】を送るものだと思っていた。
 父は母に、私が7歳になるまで年賀状を送っていた。だから私は『年賀状は、家族にも送るもの』だと思い込み、家族全員に年賀状を送った事もあった。
 その事実に気付いたのは、小学校の『年賀状を書こう』の授業の時だった。
隣の席のトモちゃんと、誰に書こうかと話した後トモちゃんは従兄弟のリョー君に、私は弟のユキノリに書く事に決めた。
 私が、宛名書きを書いていると後ろの席のロクスケ君が、私の年賀状を覗いた。
「あー!ヤスコ!お前ー弟に書いてるー、バッカじゃねーのー」
「なんでよ!どうしてユキちゃんに書いちゃいけないのよ!」
「普通なー、家族には書かないんだゾー!」
「えー!書くよー」
「書かねぇーよ」
「書くもん・・・」
「書かないって」
「書くもん・・書くんだもん・・・」
 先生が言い合いに気付いたらしく、近寄ってきて私達のいきさつを聞いてくれた。
「ふーん。でもねヤスコちゃん、家族の人には年賀状はね書かなくてもいいのよ。ほら、ヤスコちゃんお正月に起きたら『明けましておめでとうございます』って言うでしょ?でも、遠い所に居るお友達や親戚の人達には直接会って、ご挨拶が出来ないでしょ?だから年賀状を出して、『おめでとう』って事を伝えるの」
しかし、私は泣き出してしまった。
「でも、ヒック・・・お、お父、さん、ヒック、は、ッヒック、お、ハァハァ、お母、さ、んに、出すも、ん、ヒック!」
と意地を張ってしまった私、あれから私はずっと父が母に年賀状を出していた理由を、考えつづけていたのだ。
 そう、あれは私が12歳になった時だった。
その時父はかなり泥酔し、フラフラしながら帰宅したのだった。
「母さーん!帰ってきたゾー!」
「まぁ!あなたっ!こんなになるまで飲んで!」
「デヘヘヘヘヘヘ・・・」
「早く上がって下さいな!!もう!」
「はい、はい。そんなに怒るとシワが増えるよん」
「・・・・・(怒)」
そして父が上がりかまちに足をかけた瞬間、バランスを失って廊下に倒れ伏した。その時、父の背広の内ポケットからリボンの付いた白い包装紙に包まれた物が転げ落ちた。
 私は、それを拾い上げ母の元へ届けた。
 最初母は、まぁなにかしらと怒っていたが、中身を見るなり大粒の涙を流しながら泣き出した。
 何があったのだ?と子供心に思った私は、その包みを見た。それには、手紙が入っていた。

  当選商品 僕からの熱い愛情を君へ

と、書いてあったのだ。その横に、今まで見た事もないような綺麗な宝石があった。後から聞いたのだが、エメラルドという物らしかった。
 つい最近、母の机の中を整理していると、昔の写真や、家計簿などがでてきた。その家計簿の中に、あるものを見つけた。
父が母に宛てた、年賀状だった。
 私は、初めて父から母に宛てたその年賀状をまじまじと見た。そして、右端下が少しめくれかかっている事に気付いた。私はそこから上方にめくってみた。そこには、こう書かれていた。

  当選おめでとうございます!この【年賀クーポン券】1枚であなたと結婚させ ていただきます。尚、クーポン券3枚でお子様を、クーポン券10枚で僕からの 愛をさしあげます。

 私はびっくりして、日付を見た。日付は、私が生まれる3年前の日付であることがわかった。
 これだったのである。父が母に年賀状を出し続けた理由は!この時私は、謎が解けた喜びで、うち震えた。
 私は父と母が死んだ今、父と母の事を思い出す度に、この年賀状の事を思い出す。
 父は母と結婚した時、どういう思いで年賀状を母に出し続けていたのか。母は父と結婚して、子供(私)が生まれた時どういう気持ちで年賀状を受け取ったのか・・・。
 父は、母が死んだ日に郵便局に行って、今年の年賀状の余りを1枚だけ買ってきて、机に向かって書いていた。私は父が母の棺に入れる時、それを見た。

  このクーポン券が最後です。もうすぐ、あなたの所へ参ります。それまでこの クーポン券を持って、お待ち下さい。

 母が他界してから、3年後、父も他界してしまったのである。
 父と母は決して一度もケンカしたことの無いような、理想的な夫婦では無かったけれど、二人は愛しあっていたのはまぎれもない事実だった。
 私も、今から私の未来の旦那様に年賀状をもらえる日を楽しみにしている。

 そういえば、六助くんから年賀状が来てたよね。
年賀状 大石 伸一

壊れた女
黒耀石

怜子は小さい頃、いつも怯えていた。
「やつらが‥やつらが私をねらってる…」

怜子がこう言い出したのは別に今に始った事では無かった。

小学校5年生ぐらいの時からずっとこんな事を言い続けてきたのだ。

5年生の時に「やつら」と言い出した怜子は
鶏小屋の鶏に灯油をかけて焼き殺した。
次の日の鶏の世話当番の子供は焼け崩れた鶏の残骸を見て
失語症に陥った。

6年生のときは「あいつもやつらの仲間だ」と言って
担任の給食のカレーに理科室の水酸化カリウムを混ぜた。
担任の先生は病院で命に別状はなかったが
卒業式まで「生徒が信じられない」と来なかった。

中学に上がった怜子は
同じクラスの男子に告白されたが
『おまえもやつらの仲間だろう??』
といって逃げた。
その後その男子生徒は部活の剣道の練習中、
事故で右目を潰した。
面に細工をしたのは怜子だ。

高校生になった怜子は
街でオヤジに3万で買われた。
だが、そのオヤジはラブホテルで
スパナで後頭部を滅多打ちにされて死んだ。
怜子は初めからスパナを持って家を出ていた。

小学5年生の時、鶏が焼け死ぬのを見て怜子は
女としての快感を覚えた。

高校生のときオヤジの後頭部を殴打してる時に
女としての絶頂の極みを覚えた。何度も何度もイッた。

それは病み付きになるのに十分な要素となった。
それからの怜子はもっぱら休みになるとヒモやスパナ、ナイフを隠しもって
尻を振ってパンツを見せながら繁華街をうろつくようになった。
こう言いながら…

『やつらが、私を狙ってるのよ。
やられるのを待ってはいられない。やられる前に殺れ、だわ』

怜子は「やつら」と普通の人々の区別がつくという。
(アクマで彼女の頭のなかでだが、)
「やつら」には特有の匂いがあるらしく、怜子に言わせれば
コーヒーガムのような匂いがしょっちゅうしてる奴らしい
(缶コーヒーでも飲めばだれでもそんな匂いはするが。)
だから、繁華街の一角に足を抱えて座り込んで
道行く人々に自分の下着をみせつけて、よってくる馬鹿共の中から
「やつら」をみつけてラブホテルに連れ込み
虐殺に及んでは悦の極みに達していた

怜子はその行動を自分の中で「正義」だと解釈している。
だから、「やつら」以外の馬鹿は相手にしなかったし、
殺した「やつら」の所持品は怜子が正義の元に借用していた。
持っている物には罪はないという考えらしい。
(ついでに怜子には罪の意識も皆無だった)

今日も怜子は一人の「やつら」に声をかけられて
車でラブホテルに向う所だった。
怜子はいつもこの時が一番緊張する。

‥こいつらはあたしとやって、その汚い液をあたしの中にぶちまけて、
‥あたしを「やつら」の製造元にするつもりなんだ‥
‥あたしはそんなのいやだ、「やつら」の子供なんて産みたくない。
‥ていうか、こいつともする気なんかない。殺してやる。
‥こいつら全部あたしの手で殺してやるんだ。だって殺さなきゃ
‥犯られるし、殺られるかも知れない。殺された方がまだましかもしんないけど。

「先にシャワー浴びてきてよ。」
怜子は男に言った。殺すには浴槽が都合良いのだ。
衣服に血痕も残さないし、やつらの返り血を浴びてもすぐ洗い流せる。
何より対象者が無防備なのが一番都合いい。
男は愛想よく応じて浴室へ向かった。
これから殺されるかもしれないこの男はそれでも優な感じで
浴室に入ってシャワーを浴びている。鼻歌なんかが流れ出す。

「・・ほんと、「やつら」の中でも男は馬鹿だわ。」
怜子は一人呟くと自分の鞄から凶器達をそっと
取りだした。
スパナ、細みのロープ、スタンガン、
そして、昨日買った刃渡り25センチほどのガットナイフ。

基本的に怜子は絞殺が一番好きだった。
窒息感と充血感に苦しみ悶えて、声も出せずに
死んでいく「やつら」を見るのが最高だった。
中でも 死際に見せる充血で張れ上がった舌がだらりと
垂れ下がる様が悦楽の頂点へと誘った。

‥今日はなんで殺ろうか?スパナで殴ってから紐で窒息死させようか?
‥この前は結構抵抗されて引っ掻かれたからなぁ。
‥初めてだけど刃物で殺そうか?
‥そうだ。それがいい。「やつら」の心臓をえぐってやる。
‥きっと、窒息させるよりも死ぬ時間は短いけど、
‥何事も経験。刺殺ってのもやってみなきゃね。

惨殺方法の計画を練る事は
怜子にとって旅行の計画を練るような気分になる
一つの楽しみだと言えた。

納得のいった方法を決めた怜子は意を決して
バッグから刃の部分をレザーのケースで覆ったナイフを取り出し、
刃を抜いてちゃんとケースをバッグに戻した。
そしておもむろに着ている服を脱ぎ捨てて全裸になり
浴室へと向かう。
ナイフを握った右手を背中に押し付けて。


裸のまま浴室にはいった怜子は
シャワーを浴びたまま驚いて振り返った男の首に左腕を絡ませる。
肩に顎を乗せ、ナイフを持った右手を見えないように
男の背中に回りこませてから
「お風呂でしよう?」
と耳もとで囁いた。

男に唇を押し付けて足を絡ませると
男の両手が濡れた怜子の身体を抱きすくめた。
その時-
怜子は男の背中、ろっ骨の隙間にナイフを深々と突き刺した。
瞬間、男の身体がガクガクと痙攣するのを全身に感じながら
今度は渾身の力を込めて右斜めにナイフを引いた。
皮膚が裂けてゆく感触がナイフの柄から右手に伝わり
強く握りすぎた怜子の手の骨に振動が伝わる。
だが、ぶちぶちと変な音を立ててナイフは止まった。
良く切れる買ったばかりの筈なのに。

?思ったより味気ないなぁ。
やっぱり絞殺のほうがよかったかなぁ?

ぐったりと全身の力が抜けている男を支えながら怜子がそんな事を
思ったとき、怜子の首に凄まじい衝撃が襲った。

勢いのまま浴室の壁に全身が打ち付けられ
瞬時に気道が締め上げられる。
血流が回らずに頭が張り裂けそうになり
耳鳴りが始まる。
自分の首から上が膨張し、
頭が潰れたトマトみたいになるような気がした。

…苦しい…

朦朧とし始めた怜子の目に背中にナイフを生やした男が
優し気に笑っている。
背から血が流れていないのが不思議だった。
確実に薄れいく意識の中、怜子の耳に優男の声が木霊する

「残念だったね。「僕達」の中でも僕は改良されててね。
 これくらいじゃ死なないんだよ。」

…ず、ずるいよ…そんな…の…
…ちょっと、油断し…ただけ…
…つ、次はきっ…と…

「次は無いよ」

そういって男が軽く手首をひねると
枯れ枝が折れるようにして怜子の首は直角に折れた。
眼球が上を向き白眼を剥き出し、
怜子は絶命した。
奇しくも膨れ上がった舌をだらりと垂らして。

怜子を生者から屍に変えた男は
マネキン人形のようになった怜子を浴槽に投げ捨て
浴室を出て自分の携帯電話で何処かに電話をかけた。

「あ、僕ですー。えぇ、問題の人間は片付けましたよ。
 これといってたいした事はなかったですよ? 
 アレが「僕達」の仲間に危害を加えた個体だなんて信じられないです。
 でも、結構人間としては珍しい個体だったんでしょ?良かったんですか?
 『壊しちゃって』?」
壊れた女 黒耀石

ポチの死んだ日
やす泰

 一晩中鳴いた後、明け方に息を引き取った。
 冬だったせいだろうか。触れた時、乾いた毛が驚くほど冷たかったのを覚えている。最後の夜は、いよいよお迎えが来るらしいと家の中に入れてやった。その時のダンボール箱がそのまま棺になった。母親がどこからか持って来たらしい紫と白の菊が、頭と尻尾の間にまるで髪飾りのように供えられていた。背中にはポチという名の由来である黒い斑点が一つあった。そう、まるで牛のように、白い背中のまん中に黒い大きな円い模様。その後ろでぶんぶんと振られる太い尻尾。その姿が子供だった私をいつでも、どこまでも引っ張っていった。
 十二年いた。その間に、まだ小学生だった私は大学生になっていた。

 犬を欲しがった手前、朝夕の散歩は私の日課だった。本当に可愛かったのは最初だけの事で、しだいに生き物を飼うことの煩わしさがわかるようになっていた。庭に穴を掘って糞を埋め、水を換えて。それでもひっくり返して腹を撫ぜると、足をひくひくと痙攣させて喜ぶ。怒らないのをいいことに下腹部の小さな乳首や臍の跡を探り出し、最後はペニスの先っぽの毛を引っ張って遊んだ。生後三ヶ月の子犬は、なんとも柔らかくて暖かだった。ほっぺたを舐められると背筋がゾクゾクする。腕に抱いてその体温を感じていると、忘れていた何かを思い出すような気がした。

 はす向かいの家にはもう一匹の犬がいた。チビという名の茶色い雌犬だった。
 その家には、私と同じクラスのヘチャムクレが住んでいた。学校ではいじめてばかりいるくせに、私はなぜかそのヘチャムクレと気が合ってよく家に遊びに行った。その女の子には二歳年上の姉がいた。どんぐり眼の妹とは違い、姉の方は涼やかな目元をしていた。とても色白で足がすらりと長かった。名前をマミさんといった。今なら意識することはないだろうが、この頃の二歳上はひどく大人に見えた。マミさんは私のことをボクと呼んだ。
「やっぱりそうなんだ。子犬の声がすると思ってたけど、ボクの家で飼ったのね」
 マミさんに声をかけられると、まるで先生と話しているように、はいといいえしかいえなくなった。今とは違って田舎の小学生はかなりオクテだったのだと思う。マミさんの前でなぜ胸がドキドキするのか、その訳をまるで知らなかった。
 小学校の水泳の時間は高学年がみんな一緒なので、よくマミさんをプールで見かけた。マミさんはかなり早熟だったのだと思う。スクール水着を着た六年生の女子の中でも胸のふくらみがよく目立った。そのせいかマミさんはプールではいつも不機嫌な顔をしていて、私もこの時間だけはマミさんに近づくことができなかった。
 やがてマミさんは中学に行った。それでも道で会うとマミさんは声をかけてくれた。
「ボク、久しぶりね。元気にしてた」
 それだけで、その日がとてもいい日のような気がした。
 当然の事ながら、毎朝のポチの散歩ではいつもマミさんの家の前を通った。チビが警戒して甲高い声で吠える。マミさんの家からは朝ご飯の匂いがして、時々生垣ごしに寝間着のまま縁側で髪を梳かすマミさんの姿が見えた。
 その頃のことだったと思う。私は何かの用事でヘチャムクレを訪ねた。庭からまわるとヘチャムクレは不在でマミさんが一人で留守番をしていた。私は無謀にもマミさんを子供会の遠足に誘った。私は子供会の会長をしていたので、この時はなぜかマミさんを誘うのが自分の仕事のような気がした。
「行けないわ」
「どうしてですか」
「どうしてって、とにかく行けないの」
「今度の日曜日、何か用事があるのですか」
「そうじゃないけど」
「だったらなぜですか」
 私のなぜなぜ攻撃にマミさんは三十分くらい相手をしてくれたと思う。最後にどうなったのかは忘れてしまったが、交渉は決裂して私は不本意なまま家に帰った。辺りは真っ暗で、家では母が待っていた。
「こんな遅くまでどこに行っていたの」
「中川さんのうち」
「何してたの」
「マミさんと話してた」
 なぜかマミさんの名前を出すと、母の声がきつくなった。
「とにかくこんな時間に、他人様の家を訪ねるもんじゃありません。先方にだってご迷惑でしょう」
 それまで帰りが六時を過ぎたところで、そんなに怒られたことはなかった。なぜだかわからないまま母の雰囲気に気圧されて、私は一言『はい』と謝った。

 春になっていた。私は近所のガキどもを連れて夕方のポチの散歩に出ていた。近所をさんざん歩き回った後、私達はマミさんの家の前を通りかかった。庭には久しぶりにマミさんの姿があった。そこで私はいっしょにいたガキどもに尋ねた。
「いま、ポチの鎖を放したら、ポチはどこに行くと思う」
 毎日の散歩で、最近ポチが妙にチビの所に行きたがるのを知っていた。いうが早いか、私は鎖を放していた。案の定、ポチは一直線にチビの方に走っていった。私達はポチを追いかけてマミさんの家の庭に入っていった。ポチとチビはマミさんの前で凄まじい格闘を演じていた。
「やめて、やめてよ」
 マミさんが引き離そうとするが鎖に手が届かない。
「ウチの犬、噛まないよ」
 私は平然としていった。
「ちがうのよ。離さないとだめなの」
 チビは細い牙をむいて、ガァと吠えながら噛みつこうとする。二匹は互いを追いかけるようにくるくると回った。ポチがこれほど真剣に素早く動き回れるのを私は知らなかった。ポチはついにチビを後ろから捕らえた。この時、目の前で起きた事を理解していたのはマミさんだけだったと思う。私達は喧嘩している犬を引き離すと、ポチの頭を引っ叩き、何事もなかったように家に帰った。
 数ヶ月たって、チビは五匹の子供を産んだ。私はヘチャムクレに誘われて、さっそく子犬を見に行った。真っ黒、真っ白、茶色いの。それぞれ色が違い、そのうちの一匹は死産だった。まったく覚えていないが、中に一匹、背中に黒い斑点のあるのがいて母はとてもバツの悪い思いをしたそうだ。
 チビは幸せそうな顔をして縁の下で子犬に乳を吸わせていた。ヘチャムクレが大喜びなのに対し、そのお母さんはなぜか浮かない顔をしていた。私が行くとシャベルを持って死んだ犬の子を拾い、そそくさと庭の片隅に穴を掘って埋けた。マミさんはこの日姿を現わさなかった。
 チビは産後の肥立ちが悪く、すぐにジステンパーにかかって死んでしまった。子犬達も結局、一匹も育つことはできなかった。
 それから、かなり長いことマミさんの姿を見ることはなかった。たった一度バス停に向かう途中でパーマをかけて、きつい口紅を引いたマミさんとすれ違ったが、マミさんは私のことをまったく無視して通り過ぎていった。

「あなたは知らなかったでしょうけど、中川さんとこのマミちゃん、山本さんちのご長男を好きになっちゃって大変だったんだから。山本さんのお婆さんなんか、まるでどろぼう猫みたいにいうし…」
 一瞬、嫉妬のような感情がちくりと心の中を刺した。さらにもっと大変なことがあったのだろう。あの時、高校生のマミさんがなぜ急に家を出ていなくなったのか。母の口調は思わせぶりだった。

 片道二時間をかけて都心の大学に通うようになると、ポチは私の生活から姿を消した。それ以前にポチは散歩が要らなくなるほどの老犬になっていた。
 ポチが死んだ時、私は思っていたほど悲しくはなかった。
 その頃、私は都会の香りがする新しい女の子が好きになっていた。
ポチの死んだ日 やす泰

ふゆのはて
明智水里

聖夜の街は青白い夜に閉ざされていた。酔っ払いの歌う調子外れのクリスマスソングでさえ穏やかな微笑を呼ぶ。安酒ではあったけれど仲間と酌み交わした杯の数に、身体を心地よい大気が包んでいた。真直ぐな通りを流れる人の河が、不自然に曲がっていた。何かを遠巻きにしつつも、それに見蕩れた人々の歩みが遅くなっていたのだ。不審に思った啓司は群集の中心を除き……そして、その足は意志に反して静止した。
白銀に装飾されたショウ・ウィンドウに凭れ、紅くなった手に息を吹きかけた、あどけない待ち人。作りたての綿菓子を思わせる少女に、啓司の目線は釘付けになった。
「ま、さ……み…?」
 知らずに洩れた呟きに、漸く頭脳が正常な活動を始めた。酔いの幕も取り払われた脳裏に浮かぶ情景に、今度は強く昌美の名を呼んだ。
「昌美っ」
「啓司……」
 幼さを残した昌美の声は余りにも儚くて、降誕祭前夜にも似合っていた。
 昌美の震える唇が何事かを形作る。
 囁きは浮かれた街に吸い込まれ、彼の鼓膜までは届かない。もっとよく聞き取ろうと、啓司は真白の肩に手を伸ばした。濡れて重くなったコートの冷たさに、啓司の僅かに澱んでいた酔いさえ一気に醒めた。昌美の肌の下には、熱を持った血液の代わりに溶けた雪結晶が循環しているのかと錯覚するほど、冷気を秘めた頬が透き通る。
「どうして……」
「久しぶり、すっかり社会人になっちゃって……最初は解らなかった。でも、やっと……逢えた」
 昔のごとく腕に崩れ落ちた昌美を抱き締め、少しでも冷えた身体を温めようと外界に抗う。
「何故?」
「クリスマス・イブだから。啓司に逢いたくて、待ってたの」
「だからって、俺が此処を通らないかも……しれないのに……」
「平気。啓司は必ず私の前を通ったわ。ほら、この通りのイルミネーション、啓司、好きだったでしょう?」
「バカっ、風邪をひいたらどうするんだ」
「大丈夫。だって、啓司に逢えたもの」
 幼子の穢れない微笑は俗世の者には耐え難い。夢見るほどに懐かしく、そして、あの日からどんなに求めても永遠に戻らなかったもの。
 邂逅できた歓びに、細胞という細胞が沸き立っている。学生時代のように唇を尖らせて、啓司は小さく呟いた。
「そういう問題じゃないだろ」
「ごめんね。でも、逢いたかったの。ずっと逢えなかったから。もう、忘れられちゃったかと思った」
「そんなこと……あるわけないだろう。逢えなくなったのは、お前が、最初に裏切ったからじゃないか」
 昌美の存在を確かめるために、抱く力を強めた。柔らかな肢体は苦しいとも言わずに、彼の全てを受け入れる。
 六年前の聖誕祭に、昌美は彼の前から突然……消えた。
 誰よりも、一番……愛していた。愛していたのに、どうして、いなくなってしまったのだ。気が狂うほど愛していたのに、何故、自分の腕の中にいなかったのか。
 啓司の視覚できぬ心情に圧倒され、囚われた雛鳥は避けられなかった真実を謝罪する。
「ごめんなさい」
 片羽根をもがれた時の苦痛を思い出し、啓司は唇を歪めた。
「お前はいつも謝ってばかりだ」
「私だって、離れたくなかった……」
 泣き出しそうな呟きに、啓司は静かに額へ口づけた。宥めるように髪を手櫛で梳き、昌美の悲哀を肯定する。
「解っているよ」
 驚いて彼を振り仰いだ表情がいとおしい。
 啓司の笑みを受け入れる度に、雪の結晶の閉じ込められた眼が一際大きくなっていった。
 昌美は初めて啓司の部屋に来た。あまりにも儚げで、抱き締めていても、喪失の恐怖に苛まれる。
「いいの?」
 腕の中で震える囁きに、その恐怖はいや増した。
「何が?」
「祥子は元気?」
 昌美は親友の名を呼んだ。高校の頃から、いつも三人一緒だった。男一人に、女二人。
昌美を愛していたのに、祥子を抱いた。後悔している。昌美を裏切ったと責めながら、最初に裏切りを働いたのは啓司だ。
「祥子は、去年、他の男と結婚したよ」
 吐息とともに絶えた微笑は銀光の破片だった。汚れた男の眼には透明すぎて映らない。
「啓司は?」
「まだ、独身。昌美じゃなきゃもう愛せない」
「駄目よ、私以外の誰かを好きになって」
 不実を増長する言葉に打ちのめされる。
「自分が何を言っているのか解ってるのか」
「解ってるわ。啓司に逢ってはいけなかったの」
 耐えられなかった。聞きたくなかった。信じたくなかった。彼には昌美がいるだけで良かったのに、見失っていた。啓司は絶望の中の六年間を噛み潰した。
「逢いにこなければ良かった」
 啓司は昌美の冷たい身体を抱いた。


朝陽が緩やかに罪の敷布を浮かび上がらせていた。目覚めた啓司は、ゆっくりと身体を起した。傍らの冷えた窪みを見ずに立ち上がり、昨夜閉め忘れたカーテンを更に大きく開けた。冷気に白さを極めた冬暁が雪景色に弾かれる。
 砕け散った明星が大気に溶け、世界を絶望の白さに染め抜いていた。
 ぼんやりとしていると、太陽は勢いを増した。
 携帯電話が鳴っていた。執拗に鳴りつづける電話に、通話ボタンを押した。
『啓司? 祥子だけど……』
 無知は罪悪だ。何も知らない友人の声が煩わしい。気だるく燻っている甘やかな旋律が乱されてしまう。
『もしもし? 起きているの?』
 無言の啓司に、電話の向こうから怪訝そうな声が聞こえてきた。
「ああ、起きているよ」
『なら、いいけど。それで、ね。啓司、今日のお墓参りなんだけれど』
 何を言っているのか、理解できなかった。誰が死んだというのだろう。
「墓参り?」
『まだ、寝惚けているの? 昌美のよ、今日は昌美の命日でしょう?』
「ああ、行くよ……きっと」
 そうだ。啓司を残して……消えてしまったのだ。何処に?
『そう。申し訳ないけれど、私の分もお線香をあげてもらえるかしら? うちの子、今朝から熱を出してしまって』
「祥子?」
 昌美は此処にいたじゃないか。祥子は勘違いをしているのだ。
『だから、今日は行けそうにないのよ』
「昌美が、昨日、逢いにきたんだ……」
 愛していた。愛していた。愛している。だから、傍にいなければならない。ああ、そうに決まっている。いなくなるわけがない。高校生の時のように逢いに来たじゃないか。
『啓司! 解っているの? 昌美は死んだのよ、六年前に殺されて……』
 なんて、嘘吐きだろう。祥子は二人の関係を壊したいから、昌美が消えてしまったなんて酷い嘘をつくのだ。
「さっきまで昌美を抱いていたんだ。そういえば、何処に行ったんだろう……」
 電話口の騒音は聞いていて、気分が悪くなる。そうしよう。簡単だ。切ればいい。
携帯を床に放り投げ、啓司は右手で己の顔を辿った。もっと心地良い音を思い出そう。昌美は、最後になんて言った?
 哀しげに謝っていたような気がする。泣いていたかもしれない。
「バカだな、何時でも逢えるのに……泣くことなんかないだろう?」
そうやって微笑もうとして、啓司は失敗した。耐え切れない激痛に唇が歪む。神経を切り裂く悲哀に抗えない。
 偽れない……愛しているのに、もういない。
 指が一本ずつ唇をなぞっていく。昌美に触れた手も唇も忘れてはいないのに。
 確かに存在したはずだ。夢じゃない。
 いやだ。イヤダ、イヤダ……失ってなんかいないのに。
「昌美……」
 残酷な夢は雪とともに醜く溶けた。
ふゆのはて 明智水里

むかで
のぼりん

 人間は神の形に似ている。
 人間に似ないということは、神の造形に反発する存在だということだろう。だから、人は自らの形態とあまりにもかけ離れた生き物に常に恐怖を感じてしまう。
 蛇のように手足を持たなかったり、蜘蛛のように多すぎる足を持つ生き物は、人間の形態から見るとはるかに遠いものである。それらに対する人の生理的な嫌悪感というものはそういうところから来ているのだろう。
 この恐ろしい話は、近年にない猛暑だった昨年の夏、家族で妻の田舎の実家に一泊した日に遡る。呪われるべきその夜、いつものように子供たちを別の部屋で寝かせつけ、私たちは夫婦でのんびりコーヒーを飲んでいた。
 久しぶりの安穏に妻との語らいも弾んでいた矢先の事だった。子供が寝ているはずの部屋から、けたたましい悲鳴が聞こえてきたのである。
 何事か、私は弾けるようにして駆けつけた。
 そこは六畳ほどの洋間である。見ると、ベッドの上の壁に大きなムカデが一匹、醜悪な姿で蠢いていた。
 ふたりの子供たちはベッドから離れて震えるばかりである。
「お父さん、なんとかしてよ」
 実は先日、くだらない夫婦喧嘩で、子供たちの目の前で妻に頬を平手で殴られたばかりである。その時私は、ごめんなさいと言ってしまった。それを子供にしっかり見られたのである。だが、あれ以来失墜した父親の威厳を回復するには、今こそ最高の場面かもしれなかった。
「任せておけ、相手は一筋縄ではいかない化け物だ。興奮させるとあぶない。みんな下がるんだ」
「ちゃんと下がってるぞ。はやくやっつけろ」
「興奮しているのはお父さんのほうじゃないか」
 と、二人の子供たちは小学生のくせに偉そうな口ぶりである。妻を振り返ると、その通りと頷いている。
「あなた、目が血走ってるわよ」
 笑っている。
 本来なら、父親を舐めた口元をつねり上げてやるところだが、私は野蛮ではない。どうせすぐにお前たちはわしを尊敬するようになるのだ。
「見張ってろ」 
 そう言い放って私は、一目散に部屋を出た。
「あなた、どこ行くの?」
「オヤジ、逃げるのか」
 妻と子供の声が背中から私を追いかけて聞こえるが、別に逃げているわけでない。そう見えるのは、心外だったが、なにしろ相手は強暴な怪物である。知恵で退治するしかないのである。知識と勇気を否応なく家族に見せつけることで、父親としての株も上がるに違いない。
 その点、私はムカデが熱湯に弱いということを知っていた。
 私は台所でなべに水を入れ、こんろに火をつけた。
 その間にも子供たちの悲鳴が聞こえたが、逸る心を押しとどめた。この場合、家族の危機感を高める演出も必要である。
「待っていろ、ハニー。今すぐ、お前たちのヒーローが駆けつけるぞ」
「なにしている、オヤジ」
「はやくしろ」
 ムカデがどちらかの方向に動き出したのかもしれない。
 それにしてもわが子ながら、口の利き方がなっとらん。この大仕事をなし終えたあかつきには少々お仕置きをせねばなるまい。
「あなた、何してるの、早く来てよ」
「わ、わかった」 
 しかたない。湯が沸くのを待っていたのでは時間がない。事は緊急を要するのである。
 私は無我夢中でそこにあった箸を掴み、子供たちの部屋に駆け戻った。
「どいてろ」そういって、箸でムカデをおもむろに摘み上げたのである。家族が「おおっ」という顔をした。ものすごい勇気であるといわねばなるまい。 
「お父さんを救世主と呼べ」
 が、得意満面も一瞬のことだった。なんと、そのムカデは私の箸を持っている手にくの字に折れ曲がって噛みつこうとするのだ。
「うわっ」
 全長30センチはあろうという大ムカデ(イメージとして)が折れ曲がってくるのだからたまらない。
 私は箸と一緒にムカデを思わず放り出してしまった。きっと、ウルトラマンでさえ、この場面ではそうしたに違いない。
「し、しまった」
 依然、ムカデはベッドのうえで醜悪な姿でのたうっている。

「見張ってろ」
 私は、走って部屋を出た。
「あなた、どこ行くの?」
「逃げるな馬鹿やろう」
「少しだけ待て」
 追いかけてくる彼らの声にいちいち返答している暇はない。家族を救えるのは、今や父親しかいないのである。
 やはり、知恵で怪物を退治するしかない。私は沸騰しているはずの湯を取りに、台所に駆けた。
 が、なんとまだ沸騰していないではないか。さっきの出来事はわずか一分あまりのことだったのである。
「そうか」 
 ふと、私は思いついた。
「こんないっぱい湯を沸かす必要はなかった。ムカデにかけるだけなのだから。」 
 私は、なべにいっぱいのぬるま湯を流しに捨てた。

「し、しまった」
 だからといって、なんて馬鹿なことを。少し残すだけで、全部捨てることはなかったのだ。気が動転していたとしか思えない。
 私は歯軋りしながら、なべに水道の水を適量だけ汲んで再びコンロにのせた。
 その間にも悲鳴が聞こえてくる。
「なにしている」
「はやくしろ」
「わ、わかった。すぐだから!」
 湯が沸くまでの時間が何時間にも感じられた。しかしついに、湯が沸いた。
私は、すぐに鍋を掴んで部屋に戻った。
「なにするの」
「熱湯をかけるんだ。ムカデはすぐ死ぬ」
「馬鹿ね。布団が濡れるじゃないの。すぐお湯を置いてきてちょうだい」
「あ…ああそうか…」
 なんてことだ。怪物はベッドの上だった。
「見張ってろ」
 私は、走って部屋を出た。

「あなた、どこ行くのよ?」
「はやくやっつけろ、逃げるな」
 …台所へ。
 その間も頭はフル回転させていた。湯がだめならどうしたらいいんだ。
 そうか、ムカデを床に落としたらいいんだ。

「し、しまった。」 
 気がつくと、無意識のうちにせっかくの熱湯を流しに全部捨てていた。落ち着かなければならない。これは、名誉回復のための千載一遇のチャンスなのである。
 私は、歯軋りしながら、なべに水道の水を適量だけ汲んで三たびコンロにのせた。
「待ってろ、すぐ行くぞ。ハニー」
 私は、部屋に飛び込むと、箒でムカデをベッドから床へ掃き捨てた。
 ムカデは床でのたうっている。
「やった、これでとどめをさすことができる」
「あなた、どこ行くの?」
「逃げるな。卑怯者」
「台所へ行くのだ」
「なんでいつも台所へばかり行くのよ」
「は、腹が減ってはいいクソはでない(戦はできない)、というじゃないか」
 皆を和ますつもりだった洒落が滑った。妻の顔色が変わったのは、怒っているからに違いない。
「と、とにかく待ってるんだ。すぐ、お湯をとってくるから」
「なんで、お湯がいるのよ」
「この化け物の唯一の弱点だからだ、とにかく待っていろ。わしに任せておけ」
 人間の尊厳を根底から踏みにじろうとしているように醜く巨大なこの怪物。他に闘える方法はないのだ。

 …が、この事件では、私はついに父親の威厳を回復することはできなかったのである。
 湯の入ったなべを持って部屋に帰ると、すでにムカデは妻のスリッパに摺り潰されていた。
「あてにならないわね。後、ちゃんとふいといてね」
「馬鹿おやじ」
「スリッパも洗っとけ」
 家族の冷ややかな目と、罵倒の言葉。
 潰れたムカデは実は小さな生き物だった。あれほど、巨大で醜悪に見えたのがうそのようである。
「お前、なんでそんなに弱いんだ……」
 私はその姿に、ある種同情を感じている。可哀相な怪獣ムカデゴン(その時命名)。しかし、
   
 …ああ、ムカデが憎い。
むかで のぼりん

図書館
林徳鎬

図書館

彼はその二十三年間の人生のほとんどをインド北部の歴史を覚えることに費やし、二十四年目にして、図書館の78階に司書の職を得た。
その地位は、彼が望むすべてのものを与えてくれた。白いベッドと大きなガラス窓、画集の詰まった本棚。それだけの小さな部屋。

ときどき話し相手の灰色からすが窓からやってくることがあった。
その日の午後にも司書が昼休みに部屋でぼんやりしていると、カケスが窓淵におりたち、窓をくぐってきた。
司書はいつものように灰色からすのおしゃべりが始まるのを待とうかとも思ったが、やはり今朝から気になっていたことについて聞くことにした。
「なんだか4階で騒ぎがあったらしいじゃないか」
「ああ、知ってるよ。昨日の夜からずっとだよ、あそこはトラブルが多いからね。珍しいことじゃない」
と灰色からすが言った。
「恋愛小説の階なんてそんなもんさ。いつもより騒ぎが大きいならいつもより大きなトラブルがあったってことだろ。程度の違いはあっても質は変わらんよ。」

あいにく午前の仕事ではゆっくりとそのへんのことを聞き出す暇がなかったので、誰かに会ったらさっそく聞いてやろうと思って仕事に戻ったが、結局書庫の整理に時間がかかり、本を積み上げることに集中しているうちに閉館時間を過ぎてしまった。館内報が部屋に届くころなので、詳しいことはあとでゆっくり読むことにした。

司書が館内報を読んでいるちょうどその時、図書館の42階では騒ぎが起きていた。
慌てた受付が階長に報告し、階長がすぐさま夜勤の警備員に命令し、警備員が腕まくりしてエレベーターの前に立つと、間もなくエレベーターが開き、美しい女の子がおりてきた。
女の子の視線は警備員の肩越しに階長を捉え、それから受付に向かった。
「恋愛小説を探しているの。いいものはないかしら?」
「申し訳ございませんが、この階にはちょっと、そういったものは…。恋愛小説でしたら4階になります」と受付は答え、階長に助けを求めた。
「んん、コホン。キミ、ここは『鳥類、げっ歯類の変遷』の階だよ。キミのような若いコが興味のありそうなものは、これより上に行ってもきっとないよ」
女の子はそれを聞くと、わかった、というように頷き、それからエレベーターに戻った。
階長達の見ている前で扉が閉まり、階数表示のランプが一度点滅し、エレベーターはひとつ上の階でとまった。

つまり問題は、ここが世界で唯一の図書館である、ということなのだ。
他に図書館なんてないから、ここで見つからないものは世界中どこにもない。それだけに図書館で働くすべての職員は、市民の求める本を見つけられないなんてことは絶対にあってはならないと考えている。
司書は、朝食のクロワッサンにピーナッツ・バターを挟んで、それが溶けるのを待ちながら、ひとりで頷いた。
「ねえ、なにブツブツ言ってるの?もしかしてあの女の子のこと考えてるの?まあねえ、すごい美人だって噂だけど。でも私はあんまり信じないな」資料係の女の子が言った。
「なんで?」
「だってさ、いつもいろんな噂を聞くけど大体誇張されてんのよね。上の階から来る話ってホントひどいでしょ?前にさ、隕石の話したでしょ。あれだって上の子に見えなかったよ、って言ったら、下に着く前に燃えちゃったんじゃないかって。ほんとバカにしてるわよ」
「でも上ってかなり上だろ?そういうことだってあるかもしれないよ。実際、雪なんて下のほうじゃ滅多に見れないらしいし」
「私ね、最近気づいたことがあるの。これってもしかしたら誰も気づいたことないかもしれないんだけど」コーヒーを一口。
「あのね、世界って横よりも縦に広いのよ、きっと。もちろん空なんてすぐに終わっちゃうけどね、ある意味で世界は空に向かってすごく広いのよ。だから上の人間と下の人間ていろいろ違うんじゃないかな。大陸で人間があんなに違うんだから、上の世界にはもっとなにか違いがあっていいはずよ。『私たちとは合わない』とかね」
司書は彼女のことが好きだったし、上のことをあまり知らなかったから、それ以上彼女の意見には反対しなかった。
午後の仕事が終わり司書が片付けをしていると、カウンターの正面に見えるエレベーターのドアがするすると開いた。そして女の子が一人降りてきた。館内報で読んだとおりだ。
司書のいるカウンターからエレベーターまで、20メートルくらいの距離があったが、彼女がとびきりの美女であることは間違いがなかった。
「ねえ、恋愛小説だろ?ここにはないし、これ以上うえに行ってもきっとないよ」
女の子は頷くと、さっさとエレベーターに乗ってしまい、ドアが閉じた。多分他の階でも同じように言われたんだろう。でも仕方ないことだ、と司書は思った。恋愛小説は恋愛小説の階にある。そこにあるのが気にいらなければ、もう恋愛小説はないんだ。誰かそれを彼女に教えてあげなかったのだろうか?
上の階で表示ランプがとまった。

それから何週間かが過ぎて、秋から冬になった。館内の窓から外を見ても、景色はあまり変わりばえしなかったが、地上では木の葉が落ち、冬の風が吹いていた。
司書たちが、78階の部屋で休日の午後を過ごしているとき、ずっと上の階では美しい女の子が恋愛小説を探していた。
女の子は一冊の本を手にとり、パラパラと繰ってみた。

数日後。
「そういうえばさ、この前騒ぎになった女の子、どうなったか知ってるかい?」と灰色からすが言った。
「いや、どうなったの?」と司書は言った。
「上から伝わってきた噂では、もう図書館を出たらしいよ。1225階で見つけたんだって」

数日後。
「その日は雪が降っていたらしいよ」と司書が言った。
「ほら、やっぱり嘘じゃない。その日は雪なんて降らなかったもの。私その日覚えてるよ。あなたが私にプレゼントくれた日でしょ?」と資料係の女の子が言った。
「でも雪のことはさ、実際下に来る前に溶けちゃったかもしれないよ。だってずっと上の階だから」
「それでどんな本だったの?」
「いや、本じゃなくて。つまりこういうことなんだ」
女の子が手にとった本を繰っていると、上の階でばたん、と本が床に落ちる音がしたんだ。
とてもいい音がしたんだ。だって図書館はすごく静かだし、人がほとんどいないんだからね。
彼女は階段を駆け上がった。
そこで彼女は恋に落ちたんだよ。
「ふうん。まあ、やっといい人が見つかったのかしらね。そこまで行く女の子も変わってるけど、相手の男もよっぽど変な人だったのね。上の階ってやっぱり変なのよ」
噂だとしても、それはきれいな話だった。でも司書は彼女のことが好きだったので何も言わなかった。

数十年後。
「でもそれがクリスマスの始まりだなんて僕は信じられないな」と僕は言った。
「1224階から1225階に上がったから、12月24日がクリスマスになったなんて聞いたことないよ」
「でもそういうふうに伝わってるんだよ。この図書館ではね」と年老いた灰色からすが言った。
「昔話だろ。サンタはどうしたんだよ?」
「サンタなんて知らないよ」老からすが言った。
「キリストは?」
「キリストなんて知らないよ」
僕はため息をついた。
僕は21年間の人生のほとんどを、世界で唯一の図書館の歴史を覚えることに費やし、図書館の一階に司書の職を得た。
さしあたって気になるのは男よりも本のことだった。男が落とした本って一体どんな本だったんだろう?
図書館 林徳鎬

雪山を越えて
羽那沖権八

「単位、単位、単位……」
 腰までのパウダースノーに埋もれながら、長谷部久司たち三人はひたすら山を下る。
「なあ、ハセ」
 後ろを歩いていた永野公一が声をかける。
「ちょっとビバークせえへん?」
「不許可だ」
「ハセ君の言うとおりです」
 最後尾を歩く檜山邦和は、氷の貼り付いたサングラスをずり上げた。
「宗教学の追試は、明日の九時からです。もう二十時間ないんですよ」
「せやかて、もう五時間も歩いとるんやし」
「合宿所から五時間でやっと支笏湖畔ですよ」
 左手の方向に凍った湖が見え、その向こうに山が見えた。
「大学まで四十キロあるのに」
 長谷部たちは雪をかき分けながらゆっくりゆっくり歩く。
「支笏湖って、不凍湖だった気がするんだが」
「そーやったか?」
「そうらしいですけどね」
 ざっくざっく。
「檜山、俺たちは北海道の冬って今一知らねえんだが、氷点下四十度って普通か?」
 長谷部が腕時計を見ると、液晶が凍って何も見えなくなっていた。
「札幌市街よりは三十度くらい寒いですけど、標高もありますし」
「恵庭山如きで、三十度も温度差付くか!」
「ははは、気にしない気にしない。この程度じゃ窒素も酸素も凍りませんから、呼吸はできますよ」
「ああ、なら安心やな」
「……まあとにかく単位取らねえと留年には違いねえんだが」
「せやせや」
「そーです。私たちは行かなければならないんです」
 ざっくざっくざっくざっく。
「例え異常気象でも!」
「除雪車がこられへん言うても!」
「交通機関が徒歩以外ねえとしてもな!」

 夜半過ぎ、三人は支笏湖畔からやっと離れた。
「暗いな」
 柔らかい雪に膝を取られながら、長谷部は呟く。
「暗い山道、北海道と来れば――熊やな」
「熊か。熊の対処法ってどうするんだ、檜山?」
「死んだフリやないんか?」
 永野が口を挟む。
「熊は屍肉も食うんだよ」
 ふー、ふー。
「そうなんか?」
「ええ。ですから弾き飛ばされた時に無理にあらがわずに飛ばされるのが――」
「知らんならそう言え」
 はー、ふー、ふー。
「熊の方を向いて喋りながら後ずさりするって方法を聞いた事があるが。目を合わせないようにして」
「なるほど。それはいいかも知れませんね」
「感心するな、現地人が」
 ふー、ふー。
「……なんか、さっきから妙な音が聞こえてる気がするんだが?」
「ほか?」
「はは、これでヒグマがいた、じゃ笑い話にもなりませんよ」
 三人は振り向いた。
 遠くに白いものが――。
「ほらヒグマじゃないやろ」
「そうですね」
「――白熊だ!!!」

 ざっく。
「な、なんだって、北海道に」
 ぐぐっ。
「白熊が」
 ざく。
「いるんだよ!」
 ぐゆっ。
「これだけ寒いと」
 ぎゅっ。
「白熊も湧くやろ」
 ぐもっ。
「生き物が」
 ざくっ。
「自然発生するか!」
 ぐっ。
「進化したのかも」
 ざぐっ。
「知れませんよ」
「するか!」
 白熊の方も深い雪に足を取られているが、僅かづつ間合いが詰まって来ている。
「お、追い付かれますよ!」
「ハセが言うてた方法で、どないかならんか?」
「よ、よし、やってみる」
 長谷部は振り返る。
 もう、白熊はほんの三〇メートルほどの距離に来ている。
「や、やあ熊公――えーと」
「ほら、早う!」
「『熊公一句詠んでみろや』『へい、大家さん。えーと長屋中――』『ほうほう、長屋中?』『歯を食いしばる花見かな』」
 ふー、ふー。
「……確かに喋ると近寄っては来いひんけど」
「立ち去りもしませんね」
 白熊はじっと長谷部たちを見つめている。
「せや、後じさりするんやった」
「じゃあさっそく」
 どさっ。
 三人は雪の上に仰向けに倒れた。前を向いてすら歩きにくい雪道を、後ろ向きで歩けるわけもない。
「意味ねえ!」
「走りましょう!」
「若者は前のめりやな!」
 三人は全速力で走る。
 だが、峠を越え、国道が下り坂になる頃には、白熊との距離は五メートルにまで縮まっていた。
「はぁ、はぁ、しつこい!」
「警察は何やっとるんや!!」
「もう、歩けな……」
 力つきたように檜山は倒れた。
「おい、檜山!」
「アホ!」
 坂を滑り落ちそうになる檜山を、長谷部と永野がつかまえようとしたが、一歩遅かった。
「あわわだわわわわわわ! お、落ちる落ちる! 死ぬ死ぬ!」
「すぐ助けたる!」
「……待て、永野」
 坂を指さす。
「白熊に追われてんだから、このまま滑り降りゃいいんじゃねえか?」

「ぷふぁああっ、ゆ、雪が顔に来ますね! それにお腹が冷えて」
 三人はアザラシのように腹這いになって坂を滑る。
「白熊を振り切れたんだ、多少は我慢しろ!」
「スキーでも借りれば良かったんやなぁ」
 新雪が舞う中を、三人は一直線に滑り降りる。
 一直線に。
「……なあ、ハセ?」
「は、ハセ君?」
「なんだ」
「スピード、出すぎてませんか?」
「それほど急な坂じゃねえんだけど」
 確かに坂は緩やかだった。しかし山の坂は長い。どんなにわずかづつの加速でもスピードは確実に増していく。
「うああぁっ!」
「あひひいぃぃぃ!」
「のはあああっ!」
「ブ、ブレーキだブレーキ!」
 三人は爪先を雪に突き刺すが、柔らかい雪には大した引っかかりもない。
「カーブだカーブ!」
 長谷部が叫んだ次の瞬間、三人は雪に埋もれたガードレールを飛び越えた。
 そして。
 今度は森の中を真っ直ぐに滑り降りる。
「ひ、ひぃぃぃぃぃ!」
 木々の間は適度に空いており、何とかぶつからずに済む。
「り、林業万歳!」
「ここって人の手入ってました!?」
「知ら――」
 ばふっ。
 突然坂が切れ、三人は空中に舞い上がった。
「どわわああああああっ!」
「ぎゃああああっ!」
「うひょほひょひょにょぉ!」
 ばすっ。
 森の中に、沈黙が訪れた。
「ど、どうにか、止まったな」
 長谷部たちは、国道に積もった深い雪にめり込んでいた。
「そう、ですね」
 口の中に入った雪を、檜山は吐き出す。
「あー、死ぬかと思うた」
 鼻の穴に詰まった雪を出しながら、永野は立ち上がった。
「ま、それだけの価値は、あったみてぇだぜ」
 朝日が街を照らしていた。
「ついに、やりましたね」
「でも……」
「なんだ永野」
「ここ、真駒内やろ、北区まで、まだ十キロはあるぞ」
 永野が見せた時計は、すでに午前七時を指していた。

「九時まで、あ、あと十分やぞ!」
 市街だというのに、やたらと深い雪が足を捉える。
「ハ、ハセ君、正門が閉まってますよ!」
「かまわん、よじ登れ!」
 三人は、大学内のメインストリートを雪をかき分け、何度も転びながら走る。
「あと一分!」
 講義棟の前にたどり着いた。
「玄関が閉まってます!」
「裏だ!」
「あと三十秒や!」
 長谷部たちは裏口から入り、階段を駆け上がった。
「やった、間に――」
 講義室には、誰もいなかった。
「あれ?」
「どないなっとるんや?」
「妙ですね?」
「ちょっと君たち!」
 気が付くと、後ろに警備員が立っていた。
「門も玄関も閉まってたろ。今日は全部休講だよ?」
「な、なぜ!」
 彼らの声がハモる。
「こんな大雪で来られる奴なんてどれだけいるもんかね。君らもさっさと帰んな」
 ぽかんと口を開けて絶句する長谷部たちを後目に、警備員は降りて行った。
「……無駄?」
「無駄……」
「無駄」
 長谷部たちの溜息が、講義室に溶けた。
「ま、いっか」
 髪の毛に付いた氷を、長谷部は引き剥がした。
「朝飯でも喰うて帰ろか」
「いいーですね」
 三人は、講義室を出て階段を下って行く。
 踊り場の窓から射し込む朝日が、やけに眩しかった。
雪山を越えて 羽那沖権八

鐘の音の消える前に
伊勢 湊

 大晦日にだだっ広い一軒家に一人でいるというのも寂しい話だが、だからといってライオンと一緒にコタツに入ってテレビを見ているというのもひどく寂しい話だ。降る雪はしんしんにというにはあまりに激しすぎ、時折風が強く窓を叩く。ついでに言えば財布の中身もかなり寒い。一昨日の夜に喧嘩をして釈然としないまま翌日に年末の帰省だと言って妻は小学三年の息子を連れて帰ってしまった。三人で妻の実家に行き戻りに温泉によって帰ってくるという予定だったではないか。これではどういう意味合で実家に帰ったのか計り知れぬ。いや、自分でも分かっているからこそ昨日の晩に仕事の接待意外では行ったことのないクラブでバカみたいに酒を飲んで散財してしまったのかもしれない。しかし僕にどうしろというのだ。この年の瀬に妻の実家に行って「お騒がせしました。迎えに来ました」とでも言えというのか。
「まあそんなに渋い顔するなよ。オレなんて随分長く妻にも子供にも会ってないがそれも割と気楽でいいもんだぜ」
 そんなことライオンに言われたくない。親切のつもりなのだろうがライオンを寄越した同僚の坂本の気が知れない。
「良い友達じゃないか。昨日クラブで随分荒れてたって美樹ちゃんって店の女の子に聞いて一人じゃ可哀想だってオレを寄越したんだから」
 あいつそんなにあのクラブに通っていたのか。それでもあいつは家族で仲良く蕎麦でも啜っていて僕はライオンと安い日本酒を酌み交わしているのだ。
「まあオレも独りだったからちょうど良かったよ。コタツ暖かいしな」
 僕は全然嬉しくない。ライオンとじゃあ面白くもなんとも感じない紅白歌合戦を見るともなく見ながら無為に時間は過ぎていく。

 ライオンがこれ程酒を飲むとは知らなかった。幸いブランドにはこだわらないようで家にあった安い日本酒を飲み続けている。とはいえもう二升目だ。年が開けるまではまだ一時間ある。
「ふん。周りから百獣の王だなんだと言われても碌なことはないな。強くても何の役にもたちゃしねえ」
 さすがに幾分酔っぱらってきたようだ。悪酔いしてしまったらどうしよう。外はますます吹雪いていてまさか帰ってくれとも言えない。
「いいじゃないか。みんな憧れるもんだよ、そういうのに」
「憧れる?」
「そうだよ」
「強いから一人でも平気だろうとか、弱音なんか吐きゃしないだろうとか思われることにか?強くて何ができる?あんたを喰い殺せるくらいだよ」
 洒落にならない。
「物騒なこと言うなよ」
「もちろん喰いやしないさ。そんなことしに来たわけでもないし、いまの時代に人を喰うやつなんていねえよ。それくらいはできるが、役にはたたないってことさ」
 こいつにこれ以上飲ませて大丈夫だろうか。もっと何か食べるもの用意しとけば良かった。いったい僕は年越しに何をしているのだろう。飲まなきゃやっていられない。

 世の中にはどれほど一人で寂しく年越しをする人がいるのだろうか。その中で妻と子供に出ていかれたのはどのくらいだろう。確かに寂しいことだが、だからといって膝を抱えているのはあまりに情けない。
「いいじゃねえか、強えのはよ。情けねえこと言ってんじゃねえよ」
 ライオンの奴は泣き上戸なのか妙にめそめそし始めやがった。
「だってよ、やっぱり家族といたいもんだぜ。なまじ家内が強いのもあるんだが、オレの強さなんて役にたちゃしねえ。出来ることなら謝ってでも一緒にいたいんだが、なにしろオレ、ライオンだからな」
「謝ってもだって?何言ってるんだ。百獣の王が尻にひかれて生きていくつもりか?」
 ライオンは頭をコタツにのっけて舐めるように酒を飲んでいる。なんだか情けない。
「そういう思われ方が嫌なんだよ。みんなそう思いやがる。分かるか?そういう既成概念がオレを苦しめているんだ」
「情けないこと言ってんじゃない。みんな誰でもそういうものは抱えているんだ。コンビニは二十四時間開いている。警察は嫌な奴でもいざというときには助けてくれる。クリスマスの後にケーキ屋は残ったケーキを半額で売る。そりゃ大変だが、そういう既成概念があるからこそ拠り所にできるってもんじゃないか。おまえが強くあるっていうのは家庭を持つ現代の男達には大きな心の拠り所なんだよ。それをなんだよ。お前さ、慰めに来たんじゃないのか?」
「いや、そうだけどさ。でもそんな既成概念くだんねえよ。正直辛れえよ」
 くそったれが。最悪の大晦日だ。僕はグラスに注いだ日本酒を一気に飲み干した。

 そう、どんなに吹雪いていようとも除夜の鐘は鳴る。だから年越しが分かるというものだ。いまやライオンは涙を流している。まさかライオンに涙腺があるなど知らなかった。まさになくても良いものだ。
「おい、めそめそすんな。もうすぐ新年だ。辛気臭えじゃないか」
「でもよ、あんただって分かるだろう?本当は新年くらい家族と過ごしてえんだよ」
 こいつは僕が一人で寂しいだろうと気を利かして来たんじゃないのか?これじゃあ、ますます悲しい気分になってくる。いっそのことこのまま眠ってしまおうかとコタツに深く潜り込んだそのときだった。ふいに電話がなった。無意識に体がさっと動いて携帯電話を手に取った。しかし音の出所はそこではなかった。家の電話を取ろうとしたがそれでもなかった。
「あっ、オレだ」
 ライオンがどこからともなく携帯電話を取り出した。今時のライオンは携帯電話なんぞ持っているのか。なんかむかつく。だぶん、僕宛の電話じゃなかったことも、何かを期待して電話の呼び出し音に我を忘れてしまったことにも。
「なんだよ。もっと早く電話くれれば……いや、行く、すぐ行くよ。大丈夫、新年の特別電車とかあるはずだから朝一で行くよ。問題ないよ。最近はライオンはちゃんと保護されてるから。お土産買っていくから」
 ライオンが随分優しい声で話している。ときどきフランス語っぽいのや獣の声が混ざる。こいつらトワイリンガルだ。僕なんて英語も喋れないのに。しばらくしてライオンは電話を切って言った。
「あのさあ、オレ行かなきゃ。へへっ、アフリカの妻からだったんだ。帰って来たらって。可愛いこと言っちゃってさ。明日一番の飛行機でアフリカに戻るよ。日本はちょっと寒すぎる。あっ、それと奥さんに電話するなら除夜の鐘が鳴り終わらないうちにしないときっと混線しちゃうぞ」
 ライオンはそう言い残すといつの間にか吹雪の止んだ白い夜に駆け出して行った。

 やれやれ。本当にあいつ何しにきたんだ。怒ってみようとしたけれど、どうしても電話が気になって怒りきれない。そういえば妻も携帯電話を持っている。携帯に電話をすれば家の人が出ることもないだろう。一人残された部屋の静けさがどうしようもなく嫌になって携帯電話を手にした。
「もしもし」
「あら、あなた。もう、電話遅いわよ。もう仕事大丈夫?」
 なんだろう。様子が変だ。後ろが騒がしい。「やっと仕事終わったの?すぐ来れそう?」というお義母さんの声がする。
「みんな会いたがってるわよ。すぐ来れるのかしら。電車とかないわよねえ」
 妻としてもタイミングが悪かったようでとりあえず誤魔化したらしい。ともかく、どうやら命拾いしたようだ。
「大丈夫だよ。新年の特別列車もあるはずだし。すぐ行くから」
 そうして電話を切ると、僕は急いで準備すると除夜の鐘が全部なり終わらないうちに家を飛び出した。