『ショコラ暗殺計画』
橘内 潤
ショコラとは我が家の犬の名前である。
今日は家長であるこの私みずから散歩に付き合ってやっている。普段は妻が散歩させているのだが、
「わたし夕飯の準備で忙しいから、あなた行ってきて。どうせ暇でしょ」
どうせレトルトカレーを温めるだけのくせに――といえるわけもなく、私は週末の逢魔刻をショコラと並んで歩いているのだった。
私はネコ派である。犬はむかし噛まれたことがあって以来、どうにも苦手だ。
ショコラもそれを知ってか、これまで私に懐いてきたことはない。当然、散歩をさせるのもこれが初めてだ。
……それにしても、この犬は車を怖がるということをしない。おりしも帰宅時刻で交通量がピークに達している車道を――私への反抗心もあってか――ショコラは悠然と横切ろうとするのだ。
その度に私はリードをきつく握りなおすのだったが、さっきなど、車が止まってくれなかったら、ショコラの心臓が止まっていただろう。
だがそれでも、ショコラはマイペースを崩さないのだった。
裏通りに入って車の心配がなくなり、私はやっと一息つけた。そうすると、ある疑念が湧きあがってきた。
妻はこの時間帯の交通量もショコラが車に動じない性格なのも、そしてショコラと私が互いに距離をとっていることも知っていたはずだ。それなのになぜ、妻は私一人で散歩に行かせたのだ?
――そういえば、捨て犬だったショコラを家に連れてきたのは娘だった。 妻は結婚前にチャコという犬を飼っていたが、チャコが死んで以来、犬は飼うまいと決めたと話していたことがあった。
事実、娘がまだ小学生だった頃に「犬を飼いたい」というと、妻は「じゃあ、中学生になったら」と答え、中学校に入った娘が再び「犬を飼いたい」というと「じゃあ、高校生になったら」と答えていた。そのあとで私に「あんなの嘘よ、誤魔化しただけ」と笑っていたのを憶えている。
長年の夫婦生活から洞察するに、妻は「比較人間」だ。自分や身のまわりのことを常になにかと比較しなければ気が済まない性格なのだ。例えば、隣家の娘がやっているから家の娘にもピアノを習わせる。世間様がやっているのだから家の娘にも塾か家庭教師を――というようにだ。
つまり、妻には「チャコは最高の犬だったのだから、ショコラでは代わりにならない」という意識が――無意識にせよ――あるのではないか?
自分でも突飛な考えだとは思うが、そう考えれば辻褄が合う。
ショコラが車道に飛び出して轢かれる可能性をわかっていたとすれば、実際はたいして忙しくもないのに、不慣れな私一人でこの時間帯に散歩に行かせたことの説明がつくのだ――実際、あと一歩でそうなっていたのだから。
勿論、私の考えすぎかもしれない。ただ妻がそういったことに思い至らなかっただけかもしれない。しかし、妻が「比較人間」だという私の洞察が正しければ、深層心理にショコラの死を願う気持ちがあったという可能性は否定できないのだ。
ここまで考えて私は愕然とした。
なぜ私は妻のショコラへの殺意を認めたがっているのか――それに気づいてしまったからだ。
私は妻への愛情を喪失していることの免罪符を欲していたのだ。
私は、私自身の言葉を借りるならば、相手を責めることで自己正当化を図る「詭弁人間」なのだ。私は妻の言行を自分勝手に解釈したかったのだ。
何度もリードを放してしまいそうになったのは、「妻のせいでショコラが死んだ」ことにしたいと思っていたからではないか?
私はもう妻を愛していない――それを正当化するための手段としか、ショコラのことを見ていなかったのではないか?
本当に責められるべきは……。
リードを引っ張られる感覚に、私は現実へと引き戻される。
ショコラに先導されて歩きまわっていたことをおぼろげに記憶しているが、いつのまにか立ち止まっていたようだ。ショコラがしきりに私を催促している。
時計を見ると、散歩に出てから既に一時間が過ぎていた。ショコラが引っ張るさきも我が家のある方角だ。
我が家――そこは私が帰るべき場所なのだろうか?
どうしても歩き出せなかった。
「ほら、行け」
私はリードを放し、絡まないように束ねて首輪に挟んでやる。この時間なら、車はもうたいして通らない。帰り道も私以上によく知っているはずだ。
ショコラは急に自由になったことを途惑っていたようだが、やがて我が家へと向けて走りだしていった。あっという間に角を曲がって見えなくなる。
私はそれを見届けると、ショコラとは反対のほうへ歩きだした。
このまま失踪してしまおうという気はない……わけではないが、それはしない。せめて最後の責任はきちんと取りたいと思っている。
ただ、いま家に帰ってしまうと、せっかく見つけたものがまた見えなくなってしまう気がするのだ。もう少しだけ一人でよく考えて、ちゃんと決めたいのだ。
決意ができたら家に戻って、そのことを妻に伝えようと思う。
もしかしたら泣くかもしれないし、泣かれるかもしれない。もしかしたら淡々と判を押すだけかもしれない。どちらにせよ、「誰のせいでこうなってしまったんだ」とは思いたくない。
家を出たときはまだ辛うじて赤かった空も、とうに真暗だ。人通りの少ない道は狭く、街灯もまばらで足元しか見えない。きっと、振り返っても同じだ。
足元ばかり照らしていたら前も後ろも見えはしない――なんて、神様からの嫌味かな。
私は独り、自嘲しかけ――
背後から誰かが走ってくる――と思うやいなや、私は膝の裏を押されてつんのめった。数歩たたらを踏んで振り返る。
そこにいたのはショコラだった。
「ショコラ?」
思わず問いかけるが当然、ショコラは答えない。
答える代わりに、私のズボンに頬を擦りつけてきた。
――もしかしたら、帰り道を忘れて戻ってきただけかもしれない。けれど、ショコラが初めて私になついてきたのは事実だった。
頭を撫でてみると、深い毛並みがさわさわと心地好い。いつもは私が近づいただけで逃げてしまうので、頭を撫でたのもこれが初めてだ。
「なんだお前、一人で帰れなかったのか?」
答えを期待しての言葉ではなかったが、ショコラは「くぅん」と小さく返事をする。その情けない声に、自然と顔がほころぶ。
「そうか、しょうがないな。一緒に帰るか」
私は首輪に挟んだリードをもう一度手にした。ショコラは――たぶん――嬉しそうに私を引っ張った。私も負けじと追いかける。
私とショコラは我が家へと走りだした。
ショコラは一人では帰らなかった。私を迎えに戻ってきた。少なくとも、私にはそう思えた。
私はまた「詭弁人間」になるところだったのではないか? 「自分の責任は自分で取る」といえば聞こえはいいが、「自分で責任を取るのだから、私は悪くない」と言い訳したかっただけではないのか?
「私は妻を愛していない」といったが、それは私一人で決めていいことではない。私と妻とで納得のいくまで話し合って二人で決めなくてはならないのだと、いまは思う。
私一人に科せられた責任があるとすれば、それは明日の朝、妻を散歩に誘うことだろう。
いま、私はショコラを愛している。
ショコラも――前よりは――私に気を許してくれている。
私はもう二度と、ショコラを殺そうと思いはしないだろう。
『ショコラ暗殺計画 ― I love all over myself ― 』