≪表紙へ

3000字小説バトル

≪3000字小説バトル表紙へ

3000字小説バトル
第24回バトル 作品

参加作品一覧

文字数
1
卯木はる
3000
2
さゆり
2999
3
林徳鎬
3000
4
人見賢司
2308
5
立田 未
3000
6
橘内 潤
2998
7
羽那沖権八
3000
8
ねぎ
3000
9
伊勢 湊
3000
10
るるるぶ☆どっぐちゃん
3000
11
さとう啓介
3000

結果発表

投票結果の発表中です。

※投票の受付は終了しました。

  • QBOOKSでは原則的に作品に校正を加えません。明らかな誤字などが見つかりましても、そのまま掲載しています。ご了承ください。

野ねずみの幸福
卯木はる

 どさりと土間に放られた竹籠は、収穫したばかりのサツマイモでいっぱいだった。
「ずいぶん、やられたよ」
 首に掛けたタオルで額の汗を拭いながら、サトシはため息をついた。
「おかえり、あら」
 玉葱を刻みながら、エミが顔だけこちらに向けた。調理台にはさっき収穫し終えたばかりのほうれん草と間引きした人参葉が、やはり竹籠に山になっている。
 サツマイモは、ところどころいびつに欠けて白っぽい身を晒しており、鮮やかな赤紫の皮の色と好対照を成していた。
「こんなに好評だったなら、きっとおいしいに違いないわ」
 エミは微笑み、少しふてくされたサトシを宥めた。野ねずみは畑の美食家で、りっぱに実った収穫物を一番おいしい時分に試食する。
「悔しいよな」
「いいじゃないの、お腹いっぱいで幸せになってるわ」
 鼻歌まじりに大きいのを二、三本選ぶと、エミはたわしを手に取り流水でごしごし泥を落とした。
「サラダにするわね、野ねずみみたいにお腹いっぱい食べましょ」
 水音に負けない声で言う。お腹いっぱいの幸せか。ピーラーで皮をむく妻をサトシは静かに見つめた。

 黄金色の身は、ほくほくとよくほぐれて白いマヨネーズと馴染んでいた。
「牛乳でヨーグルトを作ったのよ」
 顔を上げると、エミがいたずらっぽい目で微笑む。
「マヨネーズを割ったの、しつこくないでしょ」
「ああ、うまい」
 サトシと目が合うとエミは満足そうに箸をすすめた。
 サイコロに切ったチーズの塩気でイモの甘さが引き立つ。本当にうまい。エミの手はおいしいものを作るためにあるのかもしれない。二人きりの食卓を囲むときサトシは本気で考えるのだった。
 Uターン、Iターン希望者募集の広告をインターネットで見つけたのは、三年前のことだ。縁もゆかりもない農村。都会育ちで土いじりすらしたことのないサトシだったが、心はすぐに決まった。エミは何も聞かずについていくと言った。
 一年間の体験入村は農繁期に断続的に行われた。農業指導員の沢木夫妻が受け入れてくれ、土日あるいは休暇を取って、サトシとエミは徐々に収穫の喜びと苦労を覚えた。
 空家になっていた民家を借りる算段は沢木夫妻が引き受けてくれ、一年を過ぎる頃には週末は必ずこの農村で過ごすようになった。
 沢木夫妻の畑仕事を手伝いながら、土の匂いと命を育てていく時間を慈しむ気持ちが芽生えた。少しずつ地元の人間にも慣れていった。
 完全に移住して一年と半分。ネックになっていた仕事は最初の定住者という地位を生かさないかと誘われた。
 道路事情がよく、都市部への通勤に比較的便利なこの土地は、都市生活者にとっては手軽に田舎暮らしを実現できる理想郷であり、移住とまではいかなくても週末のみの利用や、農繁期だけの短期入村者が後を絶たず、専任のコーディネーターが必要になったのだ。
 田舎暮らしに憧れる都市生活者は、大抵の場合、身勝手な理想を思い描いていることが多い。時間がゆったり流れていて、人々は温和でやさしく、滋味のある大地の恵をいただいて、といった理想に隠れた、はっきり異質な現実とのすりあわせを、いかにするかが一番重要なことだと、この頃わかりかけてきた。
 エミは初めこそ笑顔をこわばらせていたものの、野を渡る風やせせらぎや小鳥の陽気な歌声の中で、つぼみが花開くように気持ちを開いていったように見える。野に放ったハーブとサトシが畑で作った野菜をうまく組み合わせて料理に凝りだしたのは新鮮な収穫物のおいしさを知ってからだ。
 自分以上にここの暮らしに親しんでいる、言葉はないが、そうあってほしいと心から願っていた。

 ふと気が付くと、隣に寝ていたエミがいない。
 トイレかとも思ったが、シーツに残った仄かな体温がすっかり冷めてしまってもエミは戻ってこなかった。
 ベッドから這い出てフリースのパーカを羽織るとスリッパに足をくぐらせる。襖を滑らせると一つ部屋を抜けて、もう一枚襖を開けた。
 ほんのりとした暖気に包まれる。居間は電話台のスタンドから広がる柔和な光で照らされていて、まだ沸点に達していないやかんが、石油ストーブの赤い炎の上で部屋の姿を映している。格子に嵌められた曇りガラスの引き戸。その向こうで小さな蛍光灯の明かりの中を行き来する後姿があった。
「あ、起こしちゃった」
 引き戸を少し開けて覗いてみると、エミは悪戯を見つかった子供のように上目遣いに見た。低く直線のように続く機械音。
「なにしてるの」
 電子レンジが出来上がりを告げた。エミはラップに包まれた皮付きのカボチャを取り出しながら、料理、と答えた。言おうとしたことを喉下に押し留めたままサトシが立ち尽くしているとエミは肩越しに、もう出来るから、と言った。
「手伝おうか」
「じゃ、ちょっとお鍋まぜて」
 中華鍋が弱火にかかっていて、いい匂いをさせている。特大の蓋を取ると、濃厚に白いスープが旨味の凝縮した湯気の中から現れた。肉の姿は見えないが、コクになる油が表面に浮いている。ひたひたに浸かっている大きな白菜の葉の頭が見え隠れしている。
 エミは、今までも何か心につかえがあると台所に立つことがあった。
「具が重なっているから底は返せないの。焦げつかないように少し大きく回してみて」
 サトシは菜箸を白菜の重なりの下に差し入れて、鍋底を二、三度こすった。
 エミは熱々のカボチャを千切りにしている。
「沢木の奥さんからいただいたの。今年はよくできたって」
「ああ、立派なカボチャだな、うちも植えればよかったな」
 エミは少し微笑んだ。

 ほどなく、総ての皿が調って、真夜中の食卓を囲んだ。やかんの湯が騒ぎ始めた。カボチャは胡麻和えになっていて、ミルクだけで煮た白菜と豚バラの重ね蒸しは、包丁を入れて取り分けた。
 白ワインを開けた。ワイングラスに注ぎながら何に乾杯しようかと考えていると、察したようにエミが、野ねずみに、と言い、その通りに乾杯した。
 豚バラの旨味の溶け出したミルクのスープがじんわりと胃に染み透る。
「メグミを産んだときにね」
 エミが切り出して、サトシは顔を上げた。
 やはり、と思った。メグミはまだ妻の心の大部分を占めている。
「女の子だと聞いて、涙が止まらなかった」
 予想していない陣痛にエミは苦しんだ。
「こんな苦しみを、この子もいつか味わうんだと思ったの」
 メグミは、かなり月足らずで産まれてしまい、保育器の中で三日もたなかった。出生届と死亡届を同時に提出することが、父親として娘にしてやれたただ一つのことだった。
「だめだったと聞いたとき、正直ほっとした。悪い母親かな」
 エミが真っ直ぐにサトシを見つめている。自分が死んでしまったように、夜も昼もなく抜け殻のように佇み、時を止めていた妻の姿が思い出された。
「いや、そんなことないさ」
 スプーンですくった白菜は芯まで煮えていて、肉厚の白い身が口の中でとろけた。エミも静かにスプーンを口に運んだ。
「うまいね」
「うん」
 カボチャは胡麻の香ばしさで、深まる秋の甘さを熟らしている。
「おいしい」
「ああ」
 来年は、とエミが少し伏目がちに言った。ふいに何かが弾けた気がした。
「これに負けないおいしいの作ってね」
 妻の中に、来年という将来が確かにある。
「ああ、沢木さんに習うよ」
 お腹いっぱい平らげた野ねずみは、確かに今幸せだろう。
 妻と二人、ゆったり囲む食卓をサトシはいとおしく思った。
野ねずみの幸福 卯木はる

みえない翼
さゆり

 連休に帰郷した娘が思いつめた目をして「会って欲しい人がいるの」と切り出した時、私は少しうろたえた。娘の美香は22歳。この春に社会人になったばかりだ。雲ひとつない青空がまぶしい。聞こえるのは、蝉と小鳥の囀りだけ。背伸びしてずっと空を見ていたのは、タイミングを計っていたからなんだね。

 親元を離れて大学生活を送っていた娘に、男友達がいるのは承知していた。結構なことだと思っていた。大学とは勉強だけじゃなく、遊んで語って笑って夢をみて、社会に出たなら決して出来ない経験を積む場所。娘よ弾けろ。その為の援助なら惜しみなくするよ。それが母親としての偽らざる心境だった。

 しかし、娘の様子から察するに、既に結婚の約束でもしてるのだろう。この前電話で相手の人のことをやけに「いい人なの」と連発していたのは伏線だったのか。私は大きくため息をついた。まだまだ子供だと思っていたのに。思い込みの激しいこの娘は、若い日の私と実に良く似ている。その激しさが、娘に不幸を運んでくるのではないかと畏れた。私の二の舞を踏むのではないかと。

 私には苦い過去がある。
 
 20歳の時、青年団で知り合った人と恋に落ちた。優しくて楽しい人。初めての恋だった。周囲の雑音をよそに私は夢中になった。

彼は中卒だった。 (だけどそれが何だ)
飽きっぽく短気でいくつもの職を転々としていた。(今度は大丈夫よ)
女性関係が色々あったことも聞いた。それも頭に血がのぼっている私には、何の障害にもならなかった。

 父も母も兄弟もやめたほうがいい、の大合唱だったがその度に「この人を分かってあげられるのは私一人だ」と思った。祝ってくれたのは青年団の仲間たち。「人前結婚式だね」と会費制で結婚パーティーを開いてくれた。みかん箱のひな壇、仲間達の祝福を受けてふたりは愛を誓ったのだ。

 その当時彼は、果物屋を一軒まかされていた。「まつざきフルーツ」のチェーン店。4畳半ほどの店の裏にくっついた6畳一間が二人の新居だ。店は大きな道路沿いにはあったが、交通が激しく、わざわざ車をとめて果物を買いに降りてくる酔狂な人は少なく、売上は微々たるものだった。
 果物屋チェーン本店のおやじさんは、うんざりするほど強かな商売人であり、自分の店で売れなくて腐る寸前の果物を平気で卸してよこす。それも通常の値段で。トラックが萎びた果物をどんどん運び込む。当然、そんなものは売れ残る。「また、こんなもの」ブツブツ言いながらも、つき返すことの出来ない気弱な彼が歯痒かった。

 売上が少ない。仕入れた果物の質が悪い。やる気が出ない。定休日以外にも店を休むようになる。気がついたときにはおやじさんからの借金に、首が回らない状態になっていた。

 ままごとのような素人商売だったのだ。借金だけを残して、彼は店を閉めた。この借金をどうして返すか。幾度話し合っても算段がつかないまま、日にちだけが過ぎていく。元々気の弱い彼は、なす術もなく荒んだ生活を送るようになった。そうして、結婚から二度目の秋に彼は消えた。私を置いてどこかに行ってしまった。みかん箱で誓った愛は、嘘だったの? 私は眠れぬ夜にしん吟した。

結婚生活実質2年。
私は22歳になっていた。
22歳!
今の娘の年じゃない。
それは私が生まれて初めて経験した修羅場だった。

筋書きが分かっていたごとく淡々と両親は対処した。
「良かったじゃない。子供がいなくて」
「貴方はもう、十分苦しんだのだから」

借金を綺麗にしてくれたのも両親だった。
「若いんだもの」
「心機一転巻き直しね」
母の笑顔が有難かった。しかし私は自分が情けなかった。なにもかもおんぶに抱っこだ。結婚を反対され「絶対幸せになる」と啖呵を切ったあの日の自分を、出来るならゴシゴシ消しゴムで消したかった。

 カレンダーはもう12月になっていた。父と二人で彼の実家に行った。多分、離婚届の用紙を受け取る為・・・・・・だったと思う。あれ以来音沙汰なしの彼の住所を必死になって突き止め、郵便で離婚届を送り署名捺印したものが、そこにあるはずだった。
「どうしても年を越したくないんだ」
父の頭の中ではもう、この問題は今年中に決着をつけ、爽やかな気持で新年を迎えたいという図式が出来あがっているようだった。ベルを押したら彼の母親、つまり私の姑だった人が応対に出てきた。一度はお母さんと呼んだ人を、こうして敷居越しにみるのも妙な気持だった。

「今、一生懸命働いていると思うけどねぇ・・・・・・」
息子を庇う言葉をくどくどと並べたてる。話している間中、私は姑を見ないように努力していた。至らない私に、とてもよくしてくれた姑だった。見たら最後、別れようと固く誓った気持が崩れるような気がした。帰り際に「これ持って行って」と小さな箱を差し出した。多分、姑の心ばかりの気持だったのだろう。しかし、私は頑なに拒んだ。そんな暖かさは私には不要だった。姑に恨みはないけれど、もう、別れることに決めたのだから。今日からは他人だ。姑は哀しげに目を落とし、頭を深くさげた。

 いとまを告げ、バス停に向かった父と私に容赦なく北風が吹きつけた。風は私たちの足元でくるくる回り、手足を凍らせた。既に夜の9時を過ぎていた。バスの時刻表を確かめたら、あと20分は待たねばならない。
「さっきのタクシーに、待ってもらえば良かったね」
行きはタクシーだったのに、不用意にも帰してしまったのだ。私は父が心配だった。家にいると「まるでストーブを背負っているみたい」と母にからかわれている寒がりな父なのだから。 
そんな父はコートのポケットに両手をいれて立っている。風が吹くたびに肩をすぼめはしたが、結局「寒い」とは一言もなく。本当に一言も、父は寒いと言わなかったのだ。寒いと言ったらお前が辛かろう。後年、訳を尋ねた私に父がぼそっと呟いたっけ。

母に聞かされたことがある。
「父さんは、子供のことにはそりゃぁ、夢中になるんだから」

 ある時、兄に書店の「つぼ」を壊した嫌疑がかかった。書店の外においてあった大きなつぼが壊れていた。お店の人が見たのは、その近くにいた兄の姿。兄はその頃、小学5年生くらいだったか。書店の人が家に来て、弁償して欲しいと申し入れる。父は兄に確認した。疑われた兄は泣きじゃくりながら、絶対にやってないと言い張った。
「本当だな?」
「うん、本当だよ」
しゃくりあげる兄のその答えを聞いて父の腹は決まったのだ。
「よしっ!それじゃ、父さんに任せておきなさい」
父は書店に談判に行き、遂に書店側から誤解だったとの言質をとる。
「父さんは、外にでると強くてね」
どんなに父が懸命に家族を守っていたのか、この一事だけでも分かる。親鳥が雛を守るように父はこうしてずっと、見えない翼を大きく広げて私たち家族を守ってきたのだ。

次は私が守る番だ。

「分かったわ。今晩お父さんに話してみる」
「ありがとう、お母さん!」
笑顔が眩しい。
まずは堅物の夫を説得することから始めよう。

恋は誰にも止められないから。

「私、電話かけてくる」
「あら、早速ラブコール?」
苦笑いする私に花の香りを残して、娘は電話に走っていく。
一目散に走ってく。

父さん、これでいいよね。
あなたの真似して、今度は私が見えない翼を広げます。
父さんみたいに、上手に広げられるでしょうか。
どうか見守っていて下さい。

仏壇の扉の向こう、写真の父が微笑んでいる。
みえない翼 さゆり

公演
林徳鎬

『「俺は世界一不幸だー!」なんて言う人がいるけど、僕はけっこういい線行ってたと思う。ツイてなかった。バイト先のコーヒー屋ではよく皿を割るし、腹の立つ客に小声で「ハゲめ」なんて毒づくと、何故か聞こえてて怒られる。
弱そうなハゲに言ったつもりが、その隣りにいた、坊主頭にした強面に怒鳴られる。坊主とハゲは違うから、全然怒る必要はないと弁明しても、余計に怒られる。
ははは。
それはまあ例えの話で、本当はここで話しても仕方ないような辛くなることが沢山あった。

問題だったのは、僕がツイてなかったことだと思ってる。

でも、こんなアンラッキーな僕が、一日にしてラッキーに変身することができた。
それからは、いままでの失敗やら屈辱を全てひっくり返すことが出来た。
物事はひっくり返る。人生は逆転する。方向は転換する。
店の宣伝も兼ねて、今日の公演ではそのことについて話したい。 


その日はヒマだった。
一時半に二人連れが出て行くと、店には客がいなくて、それから2時間くらいは誰も来なかった。
店長は手を動かせって言うけど、やることがないし、ウェイターと僕はこの店には女の子がいないから客が来ない、なんて文句をぶつぶつ言いながら、テレビを雑巾で拭いたり、普段使わないグラスを磨いたりしてヒマを潰した。

三時過ぎにブラックマンが一人、店にやってきた。
扉を押して中に入ってくると、「カランコロン」という音がとても綺麗に響いた。
店内に緊張が走った。
でも僕は感動していた。
この店でもう二年も働いているけど、扉についた「あれ」がこんなに綺麗な音を立てるなんて正直驚きだった。自分がもうすぐ死ぬかもしれないってことになるのに、奴のたてる音に感動したのだ。テレビの中では、俳優たちがとても綺麗に「あれ」を鳴らす。でもブラックマンはそれをはるかに上回っている。奴らはとびきり優雅だ。

それから自分の運のなさを嘆いた。
ブラックマンはここよりずっと西のほうで発生した種族だ。
あいつらに触られると表裏が逆になって、自分もブラックマンになってしまう。
ブラックマンは、完璧さと、ブラックを好む。それ以上のことはよく知られていない。
そうやってブラックマンの数はいまではけっこうな数に増えたらしい。
吸血鬼みたいな奴らだ。それにしたってまさか自分が遭遇するなんて。
店の中には僕とウェイターと、店長しかいなかった。もうダメだ。

ブラックマンは奥の席につかつかと歩いていき、アメリカのビジネスマンとスペインのダンサーを足したような相応しさでイスに座った。
待ち焦がれた相手に出会えたとイスは喜び、テーブルは嫉妬していた(ように見えた)。
それからブラックコーヒーを注文した。
声は聞こえなかったが、口は間違いなく完璧な発音で「ブゥラッックコウフィ」と言っていた。するとウェイターが震える声で「ブラックコーヒー」と僕に告げる。
このとき僕はもう半泣きになっていた。
どうすればいい?
彼が注文したのはブラックコーヒー。そんなものメニューにはない。
アメリカンじゃ薄すぎるし、青い響きのキリマンジャロでもない。
コロンビアはきっと彼が最も蔑む飲みものだ。
彼らは完璧な物しか受けつけない。
ブラックマンがブラックコーヒーと言うならば、それはほんとうに黒くなければいけない。

店長はそれほど慌てるそぶりも見せず、僕にコーヒーを入れるよう指示した。
「大丈夫、奴等はそう簡単には満足しない。だけど、奴等をうならせることができれば、退治することが出来るってウワサを聞いたことがある。これは一種のバンパイア伝説だな」となぜか少し嬉しそうだ。
それを聞いても僕は不安でたまらなかったので、店長にどうするんですか?と聞いた。
「バンパイアにはニンニク、奴等にはこれだな」と言って、なにを思ったかチョコレート・ケーキをトレイに乗せて出て行こうとしている。
サービスのつもりか?ばかな!殺されにいくようなものだ。
素人の僕が見てもそのケーキは「ブラック」には程遠い。
店長がその生半可なチョコレート・ケーキを持ってブラックマンに近づこうとすると「バキューン!」5メートルも手前で彼は撃たれた。
クソッ。なにか考えるんだ。コーヒーをじっと見つめた。

ウェイターが突然仰向けに倒れ、裏も表もないくらいに悶え出した。
みるみるうちに彼は裏表がひっくりかえり、あっという間に完全なブラックマンになってしまった。
きっとつまらないジョークでも言ったのだろう。
やめておけばいいのに。完璧なブラックジョークなんて本当に難しいのだ。
ウェイターだったブラックマンは、こめかみの辺りを抑えていたが、やがてすっと立ち上がった。座っていたブラックマンの向かいに腰を下ろすと、何事もなかったように窓ガラスの外の世界を眺めた。世界が恋をする眼差しだ。

これで敵は二人になってしまった。
2対1。カウンターを挟んで僕らは睨みあっていた。追い詰められたのは僕だ。
大体あいつらの黒さに勝った奴なんているんだろうか?
ブラックマンの肌は全身ホクロだって噂だ。掛け値なしに黒い。
だから黒人が束になっても敵わない。
中途半端な「黒」を見せた奴は、みな裏返しになって己の本当の黒さを曝すことになる。
コーヒーを淹れるふりをしながら、一瞬視線を投げて見ると、二人のブラックマンはテーブルの下で長い足をメトロノームのようにブラブラさせている。イラついているんだ。
新しいほうのブラックマンがタバコを口に咥え、無駄のない動きでジッポを取り出す。
二回失敗したあと、三回目にジッポが点火する。完璧だ。どうしたって勝てそうもない。
あきらめるんだ。
僕は黒さにいまいち欠けるコーヒーをトレイに載せて、カウンターから出た。
しかし。奴らまであと数メートルの距離に近づいたとき、それを思いついた。
危険な賭けだ。でもやるしかない。どうせやられるんだ。
僕はコーヒーをその場に置くと、つかつかと奴らに間に割って入った。
二人のブラックマンは僕を両側から挟むと、薄く笑った。
我々の勝ちだ、と言う意味に間違いない。
素早く手が伸びてきて僕の首筋に触れた。
またたくまに僕の体の穴という穴から、ゲル状の緑っぽいものがどろりどろりと流れ出し、僕は裏も表もなく悶え出した。そして僕は裏返っていた。全身が真っ黒。
しかし、薄れゆく意識の中で僕はその言葉をなんとか口に出した。
「オセロ!」
僕は裏表逆になり、そこにはブラックマンが三人並んで立っていた。
色白の僕は、挟まれ裏返しになったのだ。オセロ。
すると三人のブラックマン達の頭からまばゆいばかりの光が迸り、続いて三人が三人とも声にならない声をあげて、裏も表もないくらい転まわり、身を悶え出した。
次の瞬間にブラックマンの一人は僕になり、もう一人はウェイターになり、最後の一人は美しい女になった。捨て身のブラックジョークが勝ったのだ。助かった。

こうして僕は、店長のいなくなったその店で、今日も美人の女の子とホットドッグやら、ケーキやら、チョコレートなんてものまで出している。
正直あれがブラックジョークだったかわからないけど、ひっくり返ったときから僕の幸運が始まったんだと思う。それだけ以前が不幸だったってことかな。
彼女には僕の最大の幸せは君と出会えたことだよ、ってことになってるけど。
これが、物事がひっくり返って、人生が逆転したお話』

暗い公園にその男の声はよく響いた。猫だけが同じ話を何度も聞いていた。
公演 林徳鎬

静かな考える人
人見賢司

 僕は、偏頭痛のようなものを感じながら暗く長い時間の流れの中から目を覚ますとやはり暗闇の中にいた。ここはどこだ?息苦しい空気の中僕は考える。
とにかく立ち上がらなくてはなるまい、しかし僕の腕も足も金縛りにあったかのようにまた、まるで暗示をかけられたかのようにまったく動こうとはしなかった。どうしたことだろう、なにをしているんだ?あせることはない。よく考えてみよう、自分に言い聞かせ過去の記憶をたぐり寄せてみる。
 そう、今は冬休み、長かった期末テストも終わり毎日アルバイトに部活、それに友達たちと……そう友達たちとスキーに行く計画を立てていた。そしてその当日の午後八時に僕らはH駅に待ち合わせの約束をした。 その日の午後七時三十分ごろ僕は駅に到着した。三十分も前であるが、これは僕にとってはいつものことで、イベントになると胸の高まりを抑えきれずつい早く行ってしまうという癖と、人を待つことが嫌いなために遅れることはもっと嫌いという性格からのものであった。
そして、四十分くらいになると本来僕らは同じような奴らの集まりなので、メンバーのほとんどが集まり五十分にはツアーのバスの集合場所に出発をした。バスの集合場所に行っても人はまばらで、僕らの乗ったバスはえらく空いていた。
初めの頃は冗談を言い合っていた僕らも十二時を回ると次第に眠くなり、また明日のことも考えて二回目のトイレ休憩所を待たずに僕らはみんな眠りに落ちた。
そして目が覚めると外はすでに薄明るく、ぼーっとしていると隣に座る友達と目が合い言葉を交し合う、すると他の友達たちもすでに目が覚めていたとみえ話に入ってきた。
カーテンの外は見える限りの全てが一面白く綺麗に輝いていて、もう本当に白かった。そして思わず窓を開け、頭を出した僕に何かが近づいてくると、思った瞬間に激しい衝撃が走った。それが最後の記憶で、最期であったのだ。
 なるほど!!なんて、楽しいものではないけれども全ては分かってしまった、そう僕はようするに死んでしまったのだ。なるほど哀しい、何が哀しいってそれは、みんなと白い地面の上に立てなかったことが哀しくてしょうがない。しかし何なのであろうか?僕の今の状況は、そう僕のある状況は僕の体が、死という現象を迎えた後の状態である。そこには何が存在するのか、天国?地獄?煉獄?それとも何も存在などしない常世というか混沌というか虚無というか?
それがいつも僕と全人類の疑問であったはずである。とりあえず今僕のある状況は精神も何も無いという状況ではないはずだ、かといって天国だとも思えない、ある哲学者は誰にも邪魔されず物事を考えつづけられるこの状況を天国というかもしれない、しかし彼のたどり着く場所は超人ではなく狂人でしかあり得なくそんなところを天国といえるはずが無い。では地獄であろうか、誰もいなく何も無い孤独地獄、しかし地獄ならもっと分かりやすい苦痛を受ける気がする、煉獄?天国も地獄も無い中、煉獄など基準の無い世界にはありえない。では一体なんであろうか、
今はまだ三途の川を渡っていない状態で今からアーケロンの船で川を渡り「全ての希望をすてよ」と書かれた門をくぐるのであろうか、それにしても主観的精神イメージはあるけれど肉体的イメージはない。いくら考えてもきりが無いし、よく考えてみれば死ぬ前に考えて分からないことを死んだあとに考えたって即身仏のように悟りながら死んだわけでない僕にとって分かるはずが無かった。
といっても死んでしまってはきっと寝ることも時間も何も無いのであろう、そうであればやはり僕はこの暗く静かな世界で永遠に何かを考えていることを続けるしかないの……ん!?静かな?そういえばこんなに暗く誰もいないのにやけに騒がしいではないか、そう思っていると突然ガクガクッと僕のいる空間が揺れる。
しかし、またすぐに何か騒々しい気はするが何も無い空間となった。いまのはいったい何なんだったのだ、気のせいか?もう気が違いだしたか?
それともどこかに行けるのであろうか?するとまた何か急に空間が揺れだした、しかも何故か次第に気分が悪くなりだしてきた。
まるで…さらにそこにクラクションのような音が聞こえてきた???そこで僕は全てを理解した。そして一筋の希望の光と、背筋の凍てつくような絶望を感じた。
前者のほうは、自分はまだ死んではいなく棺に入れられ火葬場に向う途中であることに気付いた事であった。そして後者のほうは、いま自分は体がうまく動かないのでふたは開けられないし、声を出すこともできなく、きっとまぶたを開けることもできないのではという疑問があり、そうなると生きたまま火葬のまさに業火に焼かれてしまうのであろうかというものであった。ああ、どうか僕を助けてください、助けてください、タスケテクダサイ……
僕は祈った、生まれて初めて神に、いや、なんでもいい!!すると奇跡が起こった、大きく長いクラクションがたくさん鳴らされる中、体に激しい衝撃が走った。
前日の雨でぬれた路面にタイヤがとられスリップして車後部が対向車線の車にぶつかり棺が道に投げ出され、さらに棺から僕が放り出された。
そして僕を見た親が僕の息が吹き返していることに気付いたが、またしてもここで僕は意識を失ってしまった。
 たくさんの僕の名前を呼ぶ声の中で僕は意識を取り戻した。僕は生き返ったのである、喜び勇んで、自然と痛みをこらえて体を動かそうとする、動かない、声も出ない、まぶたも開かない。僕は両目の入っていないダルマとなっていた。やはり僕はものを考えることしかできないのであった。
しかし、まあ永遠より幾分かはましだ。
静かな考える人 人見賢司

天体観測
立田 未

 『拝啓
 お手紙嬉しく拝見致しました。先日お会いした際、つまらない話を延々とお聞かせしてしまったのではないかと後悔して居たのですが、星座に興味がお有りとのこと、ほっとしております。けれども何しろ趣味で空を見上げて居るだけですから、天文博士の様におっしゃられると却って恐縮です。
 ご覧になった正三角形に並ぶ明るい星というのは、コイヌ座のプロキオン、オオイヌ座のシリウス、オリオン座のベテルギウスだと思われます。その形の通り「冬の大三角形」と称されています。オリオン座は冬の夜空を代表するもので、形の整った星座であると同時に、一等星を二つも持つ珍しいものでもあります。又、新星を次々と生み出していることでも有名です。これから寒さが募ると共に星の光が冴え渡りますので、天体観測に最も適した時期となります。直に三十三年に一度巡ってくる流星群が訪れます。あたかも星が雨のように降りそそぐと云います。もしもご都合宜しければ一緒に』

 文章はそこで急に途切れている。葉書を読み終えて僕は顔を上げた。
 日ごとに短くなる日差しが、最後の名残を埃っぽい部屋の隅に投げかけていた。窓際の良く手入れされた天体望遠鏡が、板張りの床を横切る長い影を落としている。横の本棚は天体についての書籍で大半を占められていた。それら以外は必要最低限の粗末な家具しか無い空間だった。
 この狭い部屋から昏睡状態の祖父が運び出されたのは先週のことだ。彼はそのまま意識を取り戻すこと無く、静かに息を引き取った。血縁の誰にも連絡はつかず、僕は最期に間に合わなかった。漸く駆け付けた時には、祖父は白い覆いの下の物体と成り果てていて、久しぶりに対面しても昔の面影を見つけることは難しかった。
 祖父は僕が中学生になると同時に祖母と離婚し、それからずっと独りで暮していた。何が有ったのか僕は知らない。分かっているのは、一人娘の母が祖母の味方をし、その結果、彼と僕の関係は年賀状をやり取りするだけの素っ気無いものに変わったということだ。それは余り温度を感じさせない結びつきだったので、逆に半永久的に続きそうな気がしていた。
 冷たい電話の声が彼の死を告げるまでは。

 結婚一年目の記念日に帰れなくなるということは承知の上で、祖父の部屋の整理を葬儀の後に自分から請け負ったのは、僕が僅かばかりの蓄えを相続したためだけでは無い。まず、いまだに祖父の名前を聞くと、痛みを堪える顔をする祖母と母には任せられなかったからだ。付け加えるとするなら、僕が父よりもこの祖父に似ていると度々言われていたからかも知れないし、彼の唯一の趣味を受け継いだからかもしれない。
 実を言うと何故かなんてよく分からないでいるのだ。
 受話器を置いた瞬間、祖父との記憶が突如として溢れ出したことに一番戸惑ったのは僕自身なのだ。

 僕は彼にとってたった一人の孫なのだが、だからといって目に入れても痛くないとばかりに可愛がって貰った覚えはない。思い出す祖父は、感情を表に出すことが非常に下手な人だった。それだけではなくて、強いて喩えるとするなら、半透明の薄い障壁で世間から隔絶されているような不思議な雰囲気を持っていた。
 例えば誰かと会話を交わしていても、彼の眼は相手をすりぬけて、何処か遠いところを映してしまう。同じくは相手がどんなに懸命に彼を見つめたとしても、彼の姿を捕らえることは不可能なのだった。
 しかし祖父は好んで他人との距離を置いていた訳ではなかったと思う。逆に、その隔たりを無くそうと努力を繰り返して、ついに力尽きて諦めたようだった。
 これは僕の勝手な推論なのだが、人は各自ある一定の周波数のようなものを放出していて、その特定の振動を受信可能な他人とだけ心安く交際出来るのだ。祖父の周波数はかなり特殊なもので、また先天的に限られた受信域しか持つことが出来なかったのではないだろうか。

 そんな祖父が唯一情熱を傾けたのが天体観測だった。

 毎年正月休みには祖父母を訪ねるのが習慣だった。その頃から祖父母の間に不協和音は響き始めていたに違いないが、僕は全く気付いていなかった。
 小学生の僕は五時半を過ぎると門を駆け出して、大通りの前の冷え切った階段に腰掛けて彼の帰りを待ち受けたものだ。祖父は毎日定時に帰って来たのだが、それが残業の多かった父と比べて新鮮だった。
 背の高い痩せた影が空を見上げつつゆっくり歩いてくると、僕は歓声を上げつつ彼に飛びつく。祖父はいつもぎこちなく微笑んでから、寒いのにお迎え有難う、と暖かな左手をコートのポケットから出して僕と手をつなぐ。そのまま、暮れなずむ空を見上げて帰るのが僕らのささやかな儀式だった。
 『あれがオリオン座』
 節くれだった指が夜空の不可視の線を丁寧になぞる。
 アルデバラン、ポルックス、シリウス、リゲル――穏やかな声が冷たい空気を震わせて、呪文のように星の名前を綴る。 時には星座に纏わる神話を、白い息を吐き出して教えてくれた。
 普段は無口な祖父なのに、星の話になると途端に饒舌になるのが嬉しくて、僕は何度も何度も彼の説明をねだった。
 その僅か十五分ほどの間だけは、世界には星と彼と僕しか存在していなかったのだ。

 故人の秘密を暴く罪悪感に苛まれつつ、僕は手の中の葉書を再び見下ろした。年賀状で見慣れた、彼独特の角張った字が並んでいる。文字の端がいつの間にか忍び寄った夕闇に少しずつ滲みはじめていた。其れが挟んであった天文年鑑を膝に置きっぱなしにしておいた所為で、爪先が微かに痺れて来ている。
 万年筆で一字一字刻むように丁寧に書いてある。端の黄ばんだ葉書には宛名が無かった。
 これは恋文だ、と背筋を何度目かの直感が滑り落ちた。
 表面的には星の話ばかりしている、何と云うことのない内容に見える。
 けれど、これは星の話なのだ。
 彼は大切な人以外に、こんなに真摯に天体について語ったりしない。
 ぶつりぶつりと終る短い文章。途切れている誘い。
 これは恋文だ。

 三十三年周期を持つ流星群には覚えがある。 去年随分な騒ぎになったからだろう。年鑑で調べると、周期に少しずれがあったらしく、この前それが訪れたのは1965年だと書いてあった。僕が生まれる前のことだ。
 まだ彼が父であり夫であった時だ。
 怒りが湧いてこなかったのは、多分僕が祖母や母のように直接の被害者では無い為もあるだろう。しかし、まるで星の間に線を結び遂に星座を形作ることが出来た時のように、全てが納得出来たような気がしたのだ。
 彼がこの葉書を出さなかった訳だとか、相手と何があったのかとか、今では知る術は無いけれど、結局彼はいつだって空を見ていたのだ。
 星を望むように、手の届かないものに焦がれる男だったのだ。

 すっかり暗くなった部屋で本を閉じると、その音がやけに響いた。明後日にはこの部屋を引き払わなくてはならない。カーテンを閉めようと窓に寄れば、外には祖父と共に見上げた時と同じ星々が瞬いている。誰が死んでも、その光が変わることはないのだ。
 ――あれがベテルギウス、あれはポルックス。
 ふと祖父の声が耳の奥に蘇り、僕は幼い頃と同じように空に目を凝らす。
 帰ったら、妻と一緒に流星群を見る約束をしようと思った。
 毎年訪れる小規模のものでも構わないから、とにかく彼女と流れる星を見たいと。
 そう思った。
天体観測 立田 未

『ショコラ暗殺計画』
橘内 潤

 ショコラとは我が家の犬の名前である。
 今日は家長であるこの私みずから散歩に付き合ってやっている。普段は妻が散歩させているのだが、
「わたし夕飯の準備で忙しいから、あなた行ってきて。どうせ暇でしょ」
 どうせレトルトカレーを温めるだけのくせに――といえるわけもなく、私は週末の逢魔刻をショコラと並んで歩いているのだった。

 私はネコ派である。犬はむかし噛まれたことがあって以来、どうにも苦手だ。
 ショコラもそれを知ってか、これまで私に懐いてきたことはない。当然、散歩をさせるのもこれが初めてだ。
 ……それにしても、この犬は車を怖がるということをしない。おりしも帰宅時刻で交通量がピークに達している車道を――私への反抗心もあってか――ショコラは悠然と横切ろうとするのだ。
 その度に私はリードをきつく握りなおすのだったが、さっきなど、車が止まってくれなかったら、ショコラの心臓が止まっていただろう。
 だがそれでも、ショコラはマイペースを崩さないのだった。

 裏通りに入って車の心配がなくなり、私はやっと一息つけた。そうすると、ある疑念が湧きあがってきた。
 妻はこの時間帯の交通量もショコラが車に動じない性格なのも、そしてショコラと私が互いに距離をとっていることも知っていたはずだ。それなのになぜ、妻は私一人で散歩に行かせたのだ?
 ――そういえば、捨て犬だったショコラを家に連れてきたのは娘だった。 妻は結婚前にチャコという犬を飼っていたが、チャコが死んで以来、犬は飼うまいと決めたと話していたことがあった。
 事実、娘がまだ小学生だった頃に「犬を飼いたい」というと、妻は「じゃあ、中学生になったら」と答え、中学校に入った娘が再び「犬を飼いたい」というと「じゃあ、高校生になったら」と答えていた。そのあとで私に「あんなの嘘よ、誤魔化しただけ」と笑っていたのを憶えている。
 長年の夫婦生活から洞察するに、妻は「比較人間」だ。自分や身のまわりのことを常になにかと比較しなければ気が済まない性格なのだ。例えば、隣家の娘がやっているから家の娘にもピアノを習わせる。世間様がやっているのだから家の娘にも塾か家庭教師を――というようにだ。
 つまり、妻には「チャコは最高の犬だったのだから、ショコラでは代わりにならない」という意識が――無意識にせよ――あるのではないか?
 自分でも突飛な考えだとは思うが、そう考えれば辻褄が合う。
 ショコラが車道に飛び出して轢かれる可能性をわかっていたとすれば、実際はたいして忙しくもないのに、不慣れな私一人でこの時間帯に散歩に行かせたことの説明がつくのだ――実際、あと一歩でそうなっていたのだから。
 勿論、私の考えすぎかもしれない。ただ妻がそういったことに思い至らなかっただけかもしれない。しかし、妻が「比較人間」だという私の洞察が正しければ、深層心理にショコラの死を願う気持ちがあったという可能性は否定できないのだ。

 ここまで考えて私は愕然とした。
 なぜ私は妻のショコラへの殺意を認めたがっているのか――それに気づいてしまったからだ。
 私は妻への愛情を喪失していることの免罪符を欲していたのだ。
 私は、私自身の言葉を借りるならば、相手を責めることで自己正当化を図る「詭弁人間」なのだ。私は妻の言行を自分勝手に解釈したかったのだ。
 何度もリードを放してしまいそうになったのは、「妻のせいでショコラが死んだ」ことにしたいと思っていたからではないか?
 私はもう妻を愛していない――それを正当化するための手段としか、ショコラのことを見ていなかったのではないか?
 本当に責められるべきは……。

 リードを引っ張られる感覚に、私は現実へと引き戻される。
 ショコラに先導されて歩きまわっていたことをおぼろげに記憶しているが、いつのまにか立ち止まっていたようだ。ショコラがしきりに私を催促している。
 時計を見ると、散歩に出てから既に一時間が過ぎていた。ショコラが引っ張るさきも我が家のある方角だ。
 我が家――そこは私が帰るべき場所なのだろうか?
 どうしても歩き出せなかった。
「ほら、行け」
 私はリードを放し、絡まないように束ねて首輪に挟んでやる。この時間なら、車はもうたいして通らない。帰り道も私以上によく知っているはずだ。
 ショコラは急に自由になったことを途惑っていたようだが、やがて我が家へと向けて走りだしていった。あっという間に角を曲がって見えなくなる。
 私はそれを見届けると、ショコラとは反対のほうへ歩きだした。
 このまま失踪してしまおうという気はない……わけではないが、それはしない。せめて最後の責任はきちんと取りたいと思っている。
 ただ、いま家に帰ってしまうと、せっかく見つけたものがまた見えなくなってしまう気がするのだ。もう少しだけ一人でよく考えて、ちゃんと決めたいのだ。
 決意ができたら家に戻って、そのことを妻に伝えようと思う。
 もしかしたら泣くかもしれないし、泣かれるかもしれない。もしかしたら淡々と判を押すだけかもしれない。どちらにせよ、「誰のせいでこうなってしまったんだ」とは思いたくない。
 家を出たときはまだ辛うじて赤かった空も、とうに真暗だ。人通りの少ない道は狭く、街灯もまばらで足元しか見えない。きっと、振り返っても同じだ。
 足元ばかり照らしていたら前も後ろも見えはしない――なんて、神様からの嫌味かな。
 私は独り、自嘲しかけ――

 背後から誰かが走ってくる――と思うやいなや、私は膝の裏を押されてつんのめった。数歩たたらを踏んで振り返る。
 そこにいたのはショコラだった。
「ショコラ?」
 思わず問いかけるが当然、ショコラは答えない。
 答える代わりに、私のズボンに頬を擦りつけてきた。
 ――もしかしたら、帰り道を忘れて戻ってきただけかもしれない。けれど、ショコラが初めて私になついてきたのは事実だった。
 頭を撫でてみると、深い毛並みがさわさわと心地好い。いつもは私が近づいただけで逃げてしまうので、頭を撫でたのもこれが初めてだ。
「なんだお前、一人で帰れなかったのか?」
 答えを期待しての言葉ではなかったが、ショコラは「くぅん」と小さく返事をする。その情けない声に、自然と顔がほころぶ。
「そうか、しょうがないな。一緒に帰るか」
 私は首輪に挟んだリードをもう一度手にした。ショコラは――たぶん――嬉しそうに私を引っ張った。私も負けじと追いかける。
 私とショコラは我が家へと走りだした。

 ショコラは一人では帰らなかった。私を迎えに戻ってきた。少なくとも、私にはそう思えた。
 私はまた「詭弁人間」になるところだったのではないか? 「自分の責任は自分で取る」といえば聞こえはいいが、「自分で責任を取るのだから、私は悪くない」と言い訳したかっただけではないのか?
 「私は妻を愛していない」といったが、それは私一人で決めていいことではない。私と妻とで納得のいくまで話し合って二人で決めなくてはならないのだと、いまは思う。
 私一人に科せられた責任があるとすれば、それは明日の朝、妻を散歩に誘うことだろう。

 いま、私はショコラを愛している。
 ショコラも――前よりは――私に気を許してくれている。
 私はもう二度と、ショコラを殺そうと思いはしないだろう。

『ショコラ暗殺計画 ― I love all over myself ― 』
『ショコラ暗殺計画』 橘内 潤

螺錐への憧憬
羽那沖権八

 ごりっ。
「――あ」
 渋沢直人は、茶碗を持つ手を止めた。
「どないした?」
 柿ピーのピーナッツだけを小刻みに食べていた、徳永幸夫が視線を向ける。
「どうしました?」
 尋ねつつ、金田慶治はダルマの蓋を開ける。
 だが、渋沢は黙ったまま応えない。
「ん? 喉にでも詰めたか?」
「掃除機ありましたよね」
「詰まってねえ!」
 慌てて渋沢が怒鳴る。
「なんだ」
「人騒がせですね」
「詰まってはいねえけど」
 渋沢は口の中を舌で探る。
「――歯、折れた」
「マジか?」
「本当ですか?」
 渋沢は頷く。
「歯の根本、なんか、欠けてる」
「そら難儀やな」
「歯ってそんなに簡単に折れますか?」
 金田は訝しげな顔をする。
「あれやろ、骨粗鬆症」
「まだ二十歳、現役の大学生だというのに、可哀想ですね、渋沢君」
「ち、違ぇよ! 大方、柿ピーの中に石でも入ってたんだ!」
 まだ違和感ありげに、渋沢は口の中をもごもごやっている。
「しゃあないな。ともかく、歯医者行けや、歯医者」
「え?」
「そうですね」
 金田が、内窓を開け、雪が積み上がって塞がれかけた外窓から、空を見上げる。
「吹雪いてないみたいですよ。行けます、行けます」
「いや、無理だ」
 渋沢はきっぱりと言い切る。
「まさか、歯医者が怖い言うんやなかろな?」
「馬鹿にするな、幼稚園児じゃあるまいし!」
「じゃあ、何が問題なんです?」
「端的に言って」
「言うて何や?」
「何なんです?」
 聞く体勢になった二人に、渋沢はぐいと顔を近付けて言った。
「金がない」

 プラスチック製のポスト型貯金箱から、硬貨が三枚こぼれる。
「えーと、これでやっと、九百二十円か」
 コタツの上に広げた硬貨を、渋沢は数え直す。
「千円にもならんのか」
「計画性がありませんね」
「米も野菜も買ったし、本当なら火曜まで保つ筈だったんだ」
「貯金はないんか、貯金は」
「あるけど、おろすのはツキイチ七万って決めてんだよ。これを破るとズルズル金を引き出す事になるからな」
「ああ、前にそんな事言ってましたね」
「あのなぁ」
 徳永は壁のカレンダーを指さす。
「後四日間、そのままで過ごすんか? 明日土曜やから、最低でも三日間痛いぞ」
「――いや、痛みはないんだ」
 僅かに不思議そうな顔で、渋沢は自分の下顎の歯茎の辺りをさする。
「歯が折れたんやろ、神経が麻痺しとるだけや。痛みだしたらしまいやろ。何なら貸そか?」
「そういうのは好かん。金がない時はない。諦める」
「いやいや、そう短気を起こしてはいけませんよ」
「なんだ、金田?」
「要は、貯金にも他人にも頼らずに、診察料が得られれば良い、と」
「良いこと考えた、みたいな顔はせんでいい」
「お金は、作れば良いんですよ」
 金田は本棚を指さした。

「これはどないや」
 徳永が、漫画の単行本を取って見せる。
「それはまだ読む」
 テーブルには、数十冊の本が積まれていた。
「これはどうですか?」
 ハードカバーの本を、金田が本棚から抜く。
「まだ使ってる教科書だろうが!」
 渋沢が怒鳴る。
「でも、定価は高いですよ」
「この手は買い取り価格が安いんだよ」
「売った事あるんですか?」
「面白くない本はな」
「まだ若いんだから、軽々しく売っちゃダメですよ。もっと自分を大切にしないと」
「『自分を』って何だよ『自分を』って!」
「これ、売れるんやないか?」
 徳永がカラフルな表紙の本を積む。
「ああ、その手か」
「ふむふむ、割とノーマルですね」
 パラパラと金田がページをめくる。
「いや金田、甘い。こうやるとやな」
 徳永が本の背表紙を軽く持つと、ページが独りでに開く。
「ほほう、この辺りが。なるほど。これはあまり一般的とは言えませんなぁ」
「やかましい! 人の性癖を分析してんじゃねえよ」
 渋沢は本をひったくり、本棚に戻す。
「割と良い値で売れるぞ」
「そうですね。二、三百円にはなるでしょうね」
「知ってるが、この辺はまだ飽きてねえ」
 再び三人は本棚を物色し始める。
「漫画が多いな。大学生やろ?」
「こんなに自由に漫画買って読める立場が、大学生以外にあるかよ」
「正論ですね――えーと、CDはどうします? 十枚ぐらいしかありませんけど」
「売らねえよ。なら、ゲーム売る」
 CDと一緒に並んだゲームソフトを出す。
「大体、三千円もあれば足りるよな?」
「健康保険ちゃんと入っとればな」
「当たり前だ。ちゃんと、実家のを分家して貰ってる」
「臑を噛じり放題ですね」
「人間は独りでは生きて行けねえ。誰の手も借りずに生きていると思う方が傲慢だぞ」
「――そないな大層なもんかい」
「んじゃあ、これを、っと」
 ゲームソフトを三つほどテーブルに置く。
「へー。これやった事ありませんね。面白いんですか?」
「面白かったら売るかよ」
「正論やな――ん?」
 徳永が何気なくゲームソフトのケースを開き、首を傾げた。
「どうした?」
「取説入っとらんぞ」

 開かれたCDケースが散乱する。
「ダメだ、紛れてねえな」
 渋沢は首を横に振る。
「マニュアルが入ってないと、買い取り価格は幾らぐらい違うんですか?」
 本棚の本の間を確認しながら、金田が尋ねる。
「マニュアルなしで売った事なんてねえから、分かんねえけど、百円ぐらいは違うんじゃねえか」
「大きい違いやな」
 何やら書類がごちゃごちゃと入った引き出しの中を、徳永が調べる。
「何より、後になって出て来ると悔しいしな」
 渋沢は本棚の上の段を探し始める。
「せや、時間、平気か?」
「時間?」
「歯医者の診察時間やろが」
「ああ、そうだな」
 壁掛時計は、午後三時を指していた。
「まだ平気だと思うけどな」
「予約しとかんとダメやろ」
「ああ、そうか」
 渋沢はダウンコートに袖を通し始める。
「ちょっと留守番頼む」
「電話ないんやったっけな」
「不便ですねぇ」
「えーと、テレホンカードは――ありゃ」
 渋沢のカード入れに、テレホンカードは残っていなかった。
「テレカ位貸したる、さっさと行って来い」
 徳永が財布から、色々なカードをまとめて引っ張り出した。
 その時。
 徳永の動きが止まった。
「どうしたんだ?」
 渋沢の問いに、徳永は黙って一枚のカードを見せた。
「ああ、そういえば」
 金田が大きく頷いた。
 紙一枚の貧相なカードを、渋沢はまじまじと見る。
「『大学健康センター』……あっ!」

 大学健康センターの歯科診察室から、処置を終えた渋沢が戻って来た。
「――歯石?」
 徳永と金田が思わず声を上げる。
「いやあ、間抜けな話でな。歯じゃなくて、歯石が欠けたんだと」
 渋沢は笑う。
「歯石をすっかり落として貰ったから、もう大丈夫。っつーか、歯の隙間というか境目が凄くくっきりして、何だか面白い」
 口を開けて見せた。
「歯石やて」
「歯石ですか」
 徳永と金田は顔を見合わせた。

「いやあ、さっぱりした歯で飲む酒はうまい」
 茶碗に入れたウイスキーを、渋沢は飲み干す。
「あんなに溜まってたかと思うとちょっと嫌な気分やけどな」
 徳永が柿の種を噛み砕く。
「なんか凄く口の中が綺麗になったみたいで、気持良いですね」
 金田は空になった瓶の蓋を閉める。
「またちょくちょく行くかなぁ。無料だし」
「アメリカ人がよく行く言うの分かる気がするわ。しかも無料やからな」
「無料でやって貰えるの、大学生のうちだけですからね――次、開けますよ」
 金田が、新しいウイスキーの瓶の蓋を開ける。
「おう頼む」
 すっきり隙間の出来た本棚を横目で見ながら、渋沢は空いた茶碗を差し出した。
螺錐への憧憬 羽那沖権八

桃太、大いに頑張る
ねぎ

 ボクは桃太(ももた)。瀬田小学校の5年生。家族はお父さんとお母さんとお姉ちゃん。ウチは「蒼龍軒(そうりゅうけん)」っていうサエナイ名前のラーメン屋だ。お姉ちゃんの名前は杏(あんず)。隣りの瀬田中学校の3年生でバレーボール部に入ってる。身長が170センチもあって、ちょっと「加藤あい」に似てる。ボクはバスケ部。少しは背が伸びるかと思ったけどちっとも伸びない。お姉ちゃんはボクの事を「ぐずもも」って呼ぶ。確かにお姉ちゃんは運動神経もばつぐんで勉強も良く出来るけど、だからって「ぐず」っていうのはひどいっていつも思う。そりゃあボクは運動も勉強もだめだけどさ。

 お姉ちゃんが同じクラスの飯田さんっていう人とつき合っているのをボクは知ってる。夜に近所のセブンイレブンの駐車場でキスしてるのを見たって、蒼龍軒の常連、中島君が言っていた。飯田さんは背も高いし(お姉ちゃんよりも高い。)勉強も出来るらしい。お姉ちゃんは夕飯の時もメールを打つのをやめない。ちなみにお父さんとお母さんが「蒼龍軒」で、てんてこ舞いしてる間、夕飯はいつもボクとお姉ちゃんの二人で食べることになっている。

 夕飯の後、テレビをだらだら見ていると、いつもお姉ちゃんが「ほら、ぐずもも!早く宿題やっちゃいなよ!」とテレビを消してしまう。しまいには頭をポカポカたたき始めるんだから、たまったもんじゃない。
 でも、宿題を手伝ってくれる時のお姉ちゃんは少し好きだ。ボクのかたごしにのぞきこんで「ね、ここはこうなるでしょ。」なんてね。正解すると「なんだ、ぐずもも。やれば出来るじゃない!」って、かたに手を回したりする。自分以外には絶対使わせないシャンプーの良い香りがするんだ。時々肩におっぱいが当たったりする時もある。お姉ちゃんは気にも留めないけど、ボクはちょっとドキドキしてしまう。
 いつもお姉ちゃんに「がんばれ、ぐずもも!」って言われて宿題をかたづける事になるんだけれど、それでも学校で先生に教わるよりもずっと分かりやすい。学校のテストの最中だって「がんばれ、ぐずもも!」っていう声が聞こえるような気がすると、なんとなく答えが分る事があるから不思議だ。
 そんなお姉ちゃんだけど、さいきんあんまり元気がない。 

 ある日の事。その日休んだ友達の太田君の家に、先生からあずかったプリントを届けに行った帰り、ボクはとんでもないものを見てしまった。「あの」飯田さんが女の人と歩いていたんだ。お姉ちゃんの友達の恵子さんだった。何度か蒼龍件にも来たことがあり、顔をおぼえていた。イヤシ系の乙葉に似ている。胸もでかい。飯田さんと恵子さんは歩きながら何度もキスをした。見てはいけないような気もしたし、ずーっと探偵みたいに後をつけたい気もした。結局二人はボクがこっそり見ていた間に5回もキスをした。確かに飯田さんはかっこいいけど、ゆるせない。お姉ちゃんがあの飯田さんとメールのやり取りをしている時のうれしそうな顔をチラと思い出した。

 もしかしたら、お姉ちゃんはふられてしまったんだろうか。それでさいきん元気がないのかもしれない。そう言えば昨日もおとついも夕飯の時にメール送ってなかったような気がする。ボクはその日の夜、おそるおそるお姉ちゃんに聞いてみた。ガラス戸の向こう側の「ちゅうぼう」ではお父さんがチャーハンを炒める音が聞こえる。
「ねえ、お姉ちゃん、飯田さんとケンカしたの?」
 するとお姉ちゃんは持っていたはしをテーブルにたたきつけて、すごい顔で僕をにらんだ。ボクはてっきりなぐられるかと思って身がまえたけど、でもそれっきりだった。いつもテーブルの上に置いてあるドコモのケータイが、今日は見当たらない。何日か前は5分おきにチロリロリン、とメールが届いていたのに。なんだかイヤな空気の中での夕飯のあと、自分の部屋の中でボクは妙にきんちょうしていた。寝る前にあやまろうとお姉ちゃんの部屋をノックしてみた。中にいるはずなのに部屋の中からは返事がなかった。

 ボクは次の日、中学校の門の所でかくれていた。あの飯田さんと話をするためだ。どうしてお姉ちゃんをふったのかな。お姉ちゃんよりあの胸のでかい恵子さんのほうがいいのだろうか。そんな事を考えているとあの飯田さんが恵子さんと一緒に出てきた。ボクは二人のあとをつけた。飯田さんと恵子さんが分かれるまで。一度、ふりむいた恵子さんと目が合ったけど気づかなかったみたいだ。
 飯田さんが一人になったのでボクは声をかけた。そこは森に囲まれた瀬田神社の近くで、カラスがガーガー鳴いている。あまり人が通らない静かなところだ。
「あのー。」
 すると飯田さんはまるで分っていたみたいに、くるりとこっちを向いた。
「おまえ、さっきからつけてただろ。恵子に聞いたらあんずの弟だって?なんの用だ?あんずに頼まれたのか?」
 ボクの尾行は飯田さんにも恵子さんにもすっかりばれていたのだ。心臓は急にバクバクしはじめ汗が出て来る。何か言おうとしたけど口の中がカラカラになっていて、「あの、あの。ええと。」とだけしか言えなかった。
「あんずとはもう別れたんだ。あんなキツイ女、もうあきたよ。」
 ボクの言葉をさえぎって飯田さんが吐き捨てるように言った。自分でもおどろいたのだけど、ボクは次のしゅんかん飯田さんにつかみかかっていた。ボクの左のこめかみの辺りで「ゴツン。」という音がした。しびれるような痛さだ。何がなんだか分からなかったけど、ボクは「このやろう、このやろう!」と言いながらめちゃくちゃに手をふりまわした。なぐられた所がジンジンしている。鼻の中がツンとなった。顔が熱くてなみだが出そうになる。何度か顔をなぐられたのが分かった。でも泣くわけにはいかなかった。遠くでお姉ちゃんが「がんばれ!ぐずもも!がんばれ!ぐずもも!」とさけんでいるのが聞こえるような気がする。そうして、急に地面が近づいてきたのが分かった。

 何発なぐられたのだろう。ボコボコになったボクはしばらく道路にすわっていた。なぐられている間は出てこなかった涙が、ふいてもふいても止まらない。くやしくてたまらなかった。夕ぐれの向こう側でまだカラスがガーガー鳴いている。

 こっそり家にもどるとお姉ちゃんが裏口のところで待っていた。うで組みをして、おこっているみたいだ。
「飯田君から電話があった。」
 そう一言だけ言うとお姉ちゃんはボクの手をひいて二階の自分の部屋に連れて行き、ベッドにすわらせた。怒られるだろうと思って下を向いていたら、救急箱を持って来たお姉ちゃんが、なんにも言わずに消毒薬をぬりはじめた。消毒薬が傷にしみてヒリヒリする。
 あちこちに消毒薬をぬられて、それでもだまっていると、おねえちゃんはいきなりボクの手をにぎって言った。今までに聞いた事が無いようなとてもやさしい声だった。

「桃太、がんばったんだって?お姉ちゃんのために、いっぱいがんばったんだって?ありがとね。」

 ボクは何か言おうとしたけど言葉にならず、またなみだがポロポロ出てきた。お姉ちゃんの手がボクのほっぺたに触ったしゅんかん、今までがまんしていたボクは声をあげて泣き出した。かっこ悪かったけど、そんな事はどうでも良かった。

 階段の下から、「ありがとうございます!」という、お母さんのかん高い声が聞こえた。
桃太、大いに頑張る ねぎ

その声に耳を傾けて
伊勢 湊

 どうしてこんな事をしてるのか自分でも分らない。空気が澄んだ冬がもうそこまで来ている夜の道を峠へ向けて精一杯車を走らせる。安全運転が信条だったのに小さな銀色のクーパーがコーナーで路面にタイヤの跡を付けていく。道をはみ出しそうで心臓がバクバクする。
「うわぁぁぁ」
 シートを一杯に倒した助手席で買物袋を大事そうに抱えた熊が情けない声を出す。
「頼むよ。僕だって恐いんだ」
 でも行くしかないんだ。頭の中でどんなにいろんな理由を見付けてみても、たぶんこれが僕の行くべき道なんだと思う。そういうことにしないとステアリングから手を離せない自分を説明する事が出来ない。

 残業があまり気にならなくなって久しい。妻と付き合い始めた頃は顔が見たくて仕事が終わると一緒に住んでいた家に早く帰る事ばかり考えていた。いまでも別にお互いの愛が冷めたわけじゃないと思う。浮気だってしていないし、されてもいないはずだ。ただ、二人の生活に慣れてしまっていた。二人とも子供じゃない。お互いに働いていたし、残業の事だって理解していた。僕が遅くなる事の方が多かったが、妻だって残業で遅くなるコトはあった。それでなにかマズイというコトもなかった。共働きのぶん収入は多かったし、それを休日の二人の趣味に当てた。高価なゴルフクラブに最新型のパソコンに好きなレコード。全て二人の為にだけ。僕たちには子供がいなかった。
 このミニクーパーだって二人だけの為に買った。医者に子供は諦めたほうが良いと言われてときショックがなかったわけではない。でも二人で充分人生を楽しんでいけると思った。いまどきミッションの二人が乗るふうにしか想定されていない、僕たちの為にあるような銀色のミ二クーパー。いま、その助手席には買物袋を抱えた熊がいて、僕はその熊を家族の元に送り届けるために車を走らせている。

「やっぱり無理ですよ。諦めます。大変なコトになっちゃう」
「いまさら遅いよ。それに大変なコトってなに?」
 熊というやつは一部を除いて身体がでかくて力が強い割には臆病だ。本当は頼りたいのはこっちなのにびくびくしている。
「だって警察から逃げたりしたら余計に疑われるじゃないですか」
「最初に大変なんです、急がないと家族に会えなくなっちゃうかもしれないんですって言ったのは君じゃないか」
 なにを言っているんだろうと自分でも思う。常識で考えれば車を停めて追ってくる警察にきちんと状況を説明すれば良いだけのコトなのだ。
 
 いつものように残業で遅くなった帰り道、町外れの国道で真剣に手を振る熊を乗せたのはたった二十分前のことだ。なんだろうと思い車を停めると熊が真剣に語りかけてきた。
「助けて下さい。警察に追われているんです」
 びっくりした。言葉遣いは丁寧でおとなしそうではあったけれど、大きな熊が警察に追われているなんて。僕は人質か何かにされるのではないかと思った。
「いや、私は何もしていないんです。ひったくりと間違えられたんです。でも違うんです。調べればすぐに分ります。家族と写真を撮ろうと思って買ったポラロイドカメラで逃げる犯人の写真だって撮ったんですよ。ほら」
 写真には小脇に女物のバッグを抱え走る男の姿が写っていた。
「分らないんだけど、どうして逃げたりするの?犯人は君じゃない。明らかだ。警察に説明すればいい」
「そうなんですけど時間がないんです。妻と娘がいまにも冬眠に入ってしまいそうなんです」
「冬眠?」
「そうです。警察は私が熊というだけで疑います。それに犯人じゃないって分かってても留置所に連れていって取り調べします。何度もそんなコトがありました。だからあんまり町には出てきたくないんですが、どうしても冬眠中の食料が足りなくて」
「なるほど。大変だね」
 見ると熊は泣きそうな顔だった。
「そうなんです。たぶん警察は私は身体が大きくて力が強いから事件を起こしたら大変なコトになると思っていろいろ取り調べをするんだと思います。でも、今日は駄目なんです。急がないと家族に会えなくなっちゃうかもしれないんです。家族みんなで揃って眠りにつきたいんです」
 思わず自分の『もしも』と重ね合わせてしまった。もし自分に子供がいて、長い眠りにつく夜に残業かなにかで帰りが遅くなって「おやすみ」の一言も言えなかったらどんな気分なのだろうと。
 そのとき背後の道を自転車の警官が息を切らせて追ってきていた。
「おい、そこの熊、待て。止まらんと撃つぞ」
 止まらないと撃つ?なんのために?僕は窓から首を出して警官を見た。嫌な顔だった。本当に拳銃を手に持ち、目をギラつかせていた。
「ちょっと待ってよ。この熊は何もしてないと思うんだけど…」
「黙れ。お前ら二人手をあげて車から出てこい。話は署で聞く」
 冗談じゃない。これも警察官の仕事だと言うのか?心臓が強く鼓動を始めた。
「早く乗って。道を教えて」
 僕は叫んでいた。走り出した背後から大声で無線に応援を要請する警官の狂ったような金切り声が谺していた。

 まだすぐ後ろではないけどパトカーのサイレンが聞こえる。急がないと捕まる。銀色のクーパーも助手席の熊もこの界隈ではいささか目立ち過ぎる。
「大丈夫だよ。警察には少し怒られるかもしれないけど写真を見せて説明すればたいしたことにはならないさ」
「でも、どうして…。だって、もしかしたら私の言っているのは全部嘘で別のコトで警察は私を追っているかもしれないとか考えないんですか?」
「まったく心配性だなぁ。いいかい?信じる信じないってそんなコトで決めるんじゃないんだ。おやすみって言いたいんでしょ。家族に」
 熊がグスッと鼻を啜った。
「ありがとうございます」
 逃げ切れたらね、なんて皮肉を言う余裕もなかった。パトカーのライトがバックミラーに見えていた。もう少し、もう少しこの峠を上っていけば逃げ切れる。山に入ってしまえば熊のフィールドだ。アクセルを踏み込む。ステアリングを握る手が汗ばむ。分かってるんだ。警察が熊を目の敵にしているのも、それが仕事だってことも、きちんと説明できればそれが一番いいってことも。でも心の声がそれを否定する。だからって、なにの罪のない者からなけなしの大切な時間を奪っていいって訳じゃないだろう。たとえ法律がそうじゃないって言ったって、それでも「おやすみ」の一言のほうがいまは大切なんだ。
「うおぉおお」
 アクセルを踏み込む。小さな車体が僕たちを坂の上に押し上げた。
「さあ、早く行くんだ!」
 山裾の路肩に車を停めた。
「ありがとう、ありがとう」
「いいから」
 熊が家族のいる山の中へ姿を消していく。闇の中へ溶け込んでいく。そしてパトカーのライトはぐんぐん近づいてくる。実際は厄介なコトになるんだろうな。そう思いながら煙草を探してポケットに手をやると指が携帯電話に触れた。そういうことなのかもしれない。僕は忘れかけていた電話番号を押した。
「もしもし。僕だけど」
「あら、どうしたの?家に電話なんて珍しいわね」
「いや、少し遅くなりそうだから」
 妻が少し笑った。
「本当にどうしたの?午前様になるときだって電話なんてしてこなかったのに」
「これからは電話することにしようと思って」
 向こうにサイレンの音が届いてしまう前に電話を切った。さあ、お巡りさん、お願いだから僕も早く家に帰してくれよ。大切な家族が待っているんだから。
その声に耳を傾けて 伊勢 湊

帰郷
るるるぶ☆どっぐちゃん

 旅先で、あたしはその知らせを聞いた。
 そこは北だったろうか南だったろうか。とにかくひどく白い街並みだった。道が細く、長く、そこを歩いている人は殆ど見えず、そこから目を離すと、広く遠い空が見えて、そこには必ず一、二羽の鳥が直線的な軌道で飛んでいた。
 その道の途中で、携帯は鳴った。
「出れば?」
 雄一が言った。それに促され、あたしは右手を握ったまま、やっと胸ポケットから携帯電話を取り出し、通話ボタンを押した。
 良い天気だった。太陽の光が柔らかだった。その陽光の暖かさがあたしに、冬の空気の寒さを思い出させた。
「で、なんだった?」
 通話を終えたあたしに雄一は尋ねた。
「母が死んだわ」
 掠れた声だった。咳を一つして、もう一度言った。
「母が死んだの」
 今度は、うまく言えた。
「そうか」
 雄一はそう答えた。
 鳥が頭上でぴいぴい鳴いている。
 その空の下、雄一が頭を下げて、ご愁傷様、と言った。

(母さん。待って。母さん)
 あたしが走っている。急いでいたのだろう、不釣り合いに大きな赤いサンダルを履いている。あたりは暗かった。いつでもこの路は薄暗く、わずかな光を集めたサンダルの、頼りない赤色だけしかあたしの目には入らない。
(母さん)
 赤い光が揺れるその向こうに、母の背が見える。遠くだ。とても遠く。あたしは立ち止まる。もう一度だけ母の名を呼ぶ。
 とても遠くだった。
 あたしは諦めて、来た道を引き返す。暗い路を、赤い光だけを頼りに、歩く。
(母さん)
「何? 何だい?」
 あたしは顔を上げた。

「どうした? 俺の顔に何か付いてる?」
 目の前に雄一が居た。
「なんだよ恐い顔して」
 雄一はそう言って笑った。
 がたがたと、規則正しい音が聞こえる。そうだった。あたしは電車に乗ったのだった。いつの間にか寝てしまっていた。
「ちょっと疲れてるみたい」
 強く握っていたのだろう、右手が少し痺れていた。
「まあ仕方無いよ。お母さんが死んだんだもの」
「そうね」
「弁当買っておいたんだ。食べようぜ」
「あたし要らない」
「駄目だよ。電車に乗ったら駅弁食べないと」
 雄一はあたしに弁当を押しつけた。仕方無く、箸を手にする。
 ここはどこら辺なのだろう。窓から見える景色は、緑溢れる山の風景だった。
「なあ。あんたって本当に物をまずそうに食うよな」
 雄一が言った。
「そうね」
 あたしは答えた。
「物を食べる時も、金を使う時も稼ぐ時も、遊んでても、仕事してる時も、あんたが楽しそうな時、見たこと無いなあ俺」
「仕方無いわ。あたしは、逃亡者だもの」
「トウボウシャ?」
 雄一が頓狂な声を出した。
「へえ。逃亡者ね」
「そう。逃亡者よ。逃亡者はね、逃げる事だけが生き甲斐なの」
「あんた、やっぱり面白いな。で、それはどういう冗談だい?」
「冗談も何も。言葉通りよ」
 あたしは窓の外に目をやった。
「ふうん」
 雄一はまた弁当を食べ始めた。
 相変わらず窓の外では陽光の中、緑が輝いている。風が吹く。木々が揺れる。
 あたしは眩しさに目を細めた。

 あたしの故郷は細々とした漁業が売り物の、小さな港町だ。
 書き割りのような港に、塗装の剥げた漁船が何隻も停泊している。海は厳しい灰色だ。その上空、鴎がくるくる回りながら、時折馬鹿にするようにきゅうきゅうと鳴く。
 ここを飛び出してから10年経っていた。
「ここがあんたの故郷か」
「そうよ」
「シケた街だな」
「そうね」
「まあ街なんて何処も同じだけどな」
「そうね」
 家までは歩いて30分かかる。余り疲れは感じ無い。不思議と脚がはかどった。
 暮れかけた太陽が、路を赤く染めている。
 この路を、小さい頃のあたしは駆けたのだ。母の背を追い、合わぬサンダルを履き、いつも走っていた。
 そしていつか追うことに疲れ、あたしは逃げ出した。
「随分明るい街なんだな」
 雄一が路の真ん中で、太陽を背にして言う。
「そうね」
 雄一のシルエットに向かって、あたしは答える。

「よく来たな」
「ええ」
 通された部屋は、がらんとしていた。申し訳程度の祭壇の他は何も無い。
「まあこうなるだろうとは思ってたがな」
 叔父は運んできた茶をあたし達の前に置き、そう言った。
「誰に刺されたの?」
「解らん」
「そう」
「まああいつはあんなんだし、ロクな最後にゃならんとは思ってたが」
「そうね」
「だけど儂は今でも思うよ。何とかしてやれなかったか。何とかしてやれなかったかって。小さい頃あいつは病弱でなあ。にいちゃんにいちゃんって離れなかった。なあ。何でこうなったんだろな。儂がいつも見ててやったんだけどなあ。どうすれば良かったんかな。甘えさせ過ぎたんかな」
 叔父はそう言って、鼻を啜った。そして、とにかく来てくれて有り難うな、と言った。
 あたしは祭壇の写真立てに向かった。表面のガラスが、蛍光灯の光を反射していた。あたしは目を細めた。
 その光の奥に、母の顔があった。
 母の顔は、あたしの記憶のものと違っていた。弱々しく寄せられた眉。黒目が薄い瞳。わずかに見える小さく並んだ歯。そして。
「お母さんとあんた、似てたんだな」
 雄一が後から言った。
 写真の中の母とあたしは、余りにも似ていた。
 あたしは逃亡者だった。逃げていた。逃げる為に色々な事をした。色々な事に飽きてきた頃、あたしは妊娠した。あたしはそれを機に、死ぬことに決めた。それで逃げ切れると思った。だが、あたしと母は、余りにも似ていた。
 逃げた先に、母が待っていた。
(逃げていたのに。ずっと逃げていたのに)
 遅かった。全ては遅かった。
「おい」
 雄一の声がした。雄一の手が平行を失ったあたしの体を支えていた。
「大丈夫か」
 あたしは返事をしなかった。あたしは疲れていた。
 あたしは瞳を閉じた。

「よう。お目覚めだね」
 目を開けたあたしに、雄一が言った。
「今何時?」
「10時。夜のね」
「そう」
 あたしは布団から身を起こした。
「久々にぐっすり眠ったかい?」
 雄一が小さな碁石のようなものをお手玉をしながらあたしに尋ねた。それは碁石では無かった。雄一に頼んで、手に入れて貰った薬だ。
 ちょっとの苦しみと、確実な死を与えてくれる薬。
 あたしは右手を開いた。ずっと握っていたために、少し指が引きつった。
 あたしの手の中で、その白い薬は粉々に砕けていた。
 風も無いのにそれは空にぱっと散って、シーツの白に混ざり、すぐに見えなくなった。
「これからどうする?」
 雄一はあたしに尋ねた。相変わらずお手玉を続けていた。
 胸に何かを失った寂しさがあった。そしてその寂しさが、新たな何か産んでいた。あたしはそれで少し混乱していたので、温泉に行く、と答えた。
「良いね。あんたの裸も見れるし」
 雄一はそう言って笑った。あたしは男に裸を見られるのを初めて恥ずかしいと思ったので、やっぱり山に行く、と答えた。
「それも良いね」
 雄一は、また笑った。

 夜明け前にふと目が覚めた。あたしは起き出して、母の棺に向かった。
 棺の中の母は、優しく目を閉じていた。
 あたしは追いつかれたのだろうか。それとも追いついたのだろうか。
 解らなかった。
 あたしは母を抱いた。幼い頃の記憶が蘇った。
 幼い頃の記憶。泣きながら母の胸に抱かれていた、人の最初の記憶。
 あたしは久しぶりに泣いた。
 抱き合う二人は良く似ていた。
 あたし達は双子の胎児のように寄り添いながら、夜が明けるまでの僅かな間、抱き合って眠った。
帰郷 るるるぶ☆どっぐちゃん

旅立ちのオーシャン
さとう啓介

 昨日の雨が嘘のように、晴れ渡った朝の空が広がっていた。

 厩舎脇の干し草小屋に寝ころんだまま、四角く開け放たれた戸口の向こうを眩しそうに見つめる。秋の陽射しが柵に光りを反射して、淡く穏やかに輝いている。三平は昨夜の事を思いだしなから、ゆっくりと身体を起こした。

――親父さんは嘘つきじゃ!

 楽しみにしていた中山行きを、親父さんの病気で行けなくなった事に腹を立て、三平は雨の中を飛び出た。ぶつけようの無い悔しさに泣けてきたが、いつの間にか心地よい干し草に紛れているうちに眠ってしまったようだ。
 懐かしい匂いが三平の廻りいっぱいに広がる。昨日の自分が子供じみていて、恥ずかしいやら可笑しいやらで三平は思わず苦笑した。
 眠気眼で戸口の向こうを見つめると、黄金色に輝く草原を駆け抜けるヨウの姿が見えた気がした。
「やっとじゃな、ヨウ。今日がG1の初舞台か~」
 三平はスッキリとした表情で呟いた。
 こんなめでたい日に、ぐずってる場合じゃなかった。一番ショックなのは親父さんだ。この厩舎を無くして、ミクもエリもヨウも既に此処には居ない。そう思うと昨日の事はまずかったと三平は反省した。
 身体に付いた干し草を払いながら小屋の外へ出てみると、ぬかるんだ足元の大きな水たまりに青空が広がり、オーシャンと名付けられたヨウの姿が重なる気がした。
 庭絵夢厩舎が無くなって、今ではこの牧場を駆ける馬はいない。しかし、今日はここで三平と一緒に育ったヨウが夢の初舞台に立つ日だ。
 三平は水たまりを見つめると、三歳になった牝馬のヨウを思い浮かべた。
 ヨウの脚色が良いと親父さんから聞かされていたので、絶対に今回のG1デビューを自分の目で見てみたいと思っていたが、親父さんの病気じゃあ仕方がないと諦めた。
「天皇賞かーっ!」
 大きな伸びをしながら三平は言ってみた。何度もそう叫ぶと胸の奥に支えていたものが一気に吹っ飛んでいった。

「親父さーん。どうじゃ、熱は下ったか?」
 引戸を開けながら呼びかけたが返事が無かった。奥に入ってみると、毛布に包まった親父さんが煙草を吹かしている。
「大丈夫か?」
「おう三平か、どうってこたーねぇよ。それより今日はすまんかったな」
 そう言った顔が少し腫れ上がって紅かった。
「ええんじゃ。それより寝てたほうがええぞ。時間が来たら起こしてやるからの」
 三平がそう言うと、親父さんはニッコリと微笑み、悪いな、と言って居間に横になった。
 昔は此処も色んな人が出入りをしたが、今では親父さんと自分だけじゃ。そう思い廻りを見渡すと、三平の胸を寂しさが通り抜けて行った。

 昼過ぎにお粥を作って卓袱台に置くと、親父さんを残し三平は小屋へ向った。
 三平が戻って来ると、卓袱台のお粥はきれいに無くなっていた。柱時計に目をやるとまだ早いようだったが、静かにテレビのスイッチを入れると、既に各レースの結果が並んでいた。三平は慌てて親父さんを起こし、もうすぐ始まるぞ、と声を掛けた。
 ぐっと腕に力が入り親父さんが身体を起こす。無言で画面を見つめる親父さんの横顔が、あの頃の顔になっていると三平は思った。
 京都のレース結果が終わり画面が中山を映し出した。もう既に本馬場に入った馬達がゲート前で円を描きながら廻っている。その中にオレンジ色のブリンカーを付けたヨウがいた。鹿毛の艶やかな毛並みに引き締まった筋肉のうねりが緑の芝の中で輝いている。
「ヨウじゃ。ほら、10番じゃ!」
 三平はヨウの引き締まった馬体に驚いた。
 親父さんは無言で歩様を見つめている。ヨウのこの姿を見て喜んでいるに違いないと三平は思った。

 スターターが赤い旗を振り、ファンファーレが鳴り始める。緊張した空気が中山と此処を一体にした。ファンファーレが鳴り止み、地響きの様な歓声が沸き上がる。各馬がゲートインしていく。
 4コーナーの奥に設けられたゲートは18枠。各馬スタンドのどよめきに少し落ち着きを無くしていたが、ヨウは静かに中央のゲートに入った。やがて最後に栗毛の馬がゲートに入る。係員達が皆ゲートから離れて行く。一瞬の静寂が中山と此処を包んだ。
 三平は思わず唾を飲み込む。

ガシャッ!

 勢いよく各馬が一斉に飛出した。ヨウが前にすーっと出てくる。先行型の馬だと聞いていたし、折り合いも良いようだ。スタンド前を先頭でヨウが駆け抜けていく。
「あれがG1を走るヨウじゃ……」
 声にならない呟きが思わず口からこぼれる。
 1コーナーを曲がり、ヨウは先頭集団の後ろに付けた。右手前で駆ける姿は昔と同じだと思った。2コーナーを抜け、向こう正面の直線に入ると、また歓声が沸き上がる。各馬が位置取りを変えながら流れていく。ヨウの鬣が風に流れて綺麗な流線型を作っている。三平は幼い頃のヨウとはまったく違うその姿が少し嬉しかった。
 3コーナー。各馬が徐々に上がり始めてきた。ヨウは好位置を保ちながらイン側を走る。スタンドのどよめきが一層大きくなっていく。18頭がひしめき合って4コーナーに向う。各馬最後の末脚を貯めながらもどんどん勢いを付けて上がってくる。ヨウだけが牝馬で他はみな雄馬だが、一生懸命に先頭集団の中にヨウは残っていた。最後の直線が広がる。ヨウも末脚を駆けて出る。中段にいた馬達が一斉に横に並ぶと、ヨウをぐんぐんと責め上がってくる。
「ヨウ! 頑張れー、走れー走れーッ!」
 三平は拳を握り締めて大声で声援を送った。
 黒毛の馬の末脚が切れる。物凄いスピードでヨウを抜いていく。ヨウは末脚が甘くズルズルと落ちていく。雄馬がどんどん抜いて、とうとうヨウの姿は画面から消えていった。
 黒毛の馬が他を圧倒してゴールを駆け抜けた。それに続く雄馬達。スタンドの歓声とどよめきが、静かな居間に寂しく響きわたる。三平は悔しさに唇を噛みしめ、小屋から持ってきていた昔のヨウの手綱を握り締めたまま黙って画面を見つめた。

「ヨウは良い馬になったな……」
 画面を見つめながら親父さんが静かに呟いた。
 三平は親父さんを見た。暖かい瞳で画面を見つめながら優しく微笑んでいる。
「でも、負けじゃ……。ヤネが悪いんじゃ、屋根が!」
 親父さんが落ち着いた顔で三平の瞳を見つめると
「本田さんの所為じゃない。他の馬が強かったのさ。牝馬でここまで走れるのはヨウだからだ」
 そう言うと、親父さんは静かに瞼を閉じて顔を上に向けた。
 静まり返った居間にスタート前の様な静寂が流れる。縁側の陽射しが、庭の木々の影を畳に揺らしている。親父さんは顔を下げるとまた三平を見つめて言った。
「俺達もヨウには負けられんぞ。な、三平」
 そう言うと笑顔を作って立ち上がり、縁側へ歩いていく。三平もその後を追って立ち上がった。
 親父さんが枯れ葉に黄色く染まった庭を見つめたまま、両手を広げて大きな声で言った。

「三平、俺はもう一度やるぞ。もう一度、この庭絵夢厩舎を蘇らせる。必ずだ」

 三平はその場に立ち止り親父さんを見つめる。黄色い光の中に佇む黒い大きな背中。
 その向こうに広がる青い空が、大きな海原のように見えた。
 オーシャンと名付けられたヨウ。躍動する引き締まった馬体、生き々とした艶やかな毛並み。その勇姿が駆け抜けている。走り続ける事がこの世の運命とばかりに、旅立つヨウの姿が示してくれた。
 三平はその大空の海原に、ヨウの姿を重ねて、何度も何度も頷いていた。